からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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苦しみ

苦難を克服した人たちの話

テーマは 『 苦難を克服した人たちの話 』 です

【ヨブ記42章1-6節】

ヨブは主に答えて言った。

あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。

知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。

さあ聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。

それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。


多くの愛の歌は、失恋経験の後に作られることが多いです。

恵みへの感謝も苦難を通った後に心から言えます。


献身は自分の十字架を負った時から始まります。

生きる意味、死の意味、献身の人生も 苦難を通った後に新しくなります。


何も問題がない昼の時、信仰と愛はあまり光らないですが、苦難の中にいる時こそ信仰と愛が光を放ちます。



神は昼と夜を造りました。

昼だけでも夜だけでもないです。


光がある昼の時間は怖くないです。

しかし夜の時間は恐れの時間ですが、みんなが休む時間です。


平安な時は昼の時間です。

苦難の時間は夜の時間です。




しかし 夜を恐れの時間だけとは思わないで、安息の時間だと考えを変えることです。


苦難だけの時間ではなく、創造的なことのための安息の時間でもあります。



ヨブが辛い苦難を経験した後に、今日の告白をしました。


苦難の時間の中で、彼は神を深く知ることが出来、霊の世界が広くなりました。

そして自分は取るに足りない罪人であることを明確に知りました。



苦難のない昼の時間よりも、苦難の夜の時間に より神と神の計画、摂理を知るようになりました。


苦難と不幸の中で、自分の苦難をただ嘆く者ではなく、苦難の中にも神の計画と摂理があることを知り、苦難の環境を許した神の義を認めることは どんなに素晴らしい信仰でしょうか。




苦難の中で人に頼らず、神だけ頼ることが祝福であることを 苦難の中で忍耐した人たちが私たちに教えています。


苦難の時間は信仰が成熟する時間、創造の時間、愛の機会を造る時間です。


苦難の中にいる時は、苦難を克服した人たちの話を聞くことです。

彼らは生きた証人です。


兄弟たちによって とんでもない苦難の人生を送ったヨセフが、後に兄弟に語ったことばです。



【創世記50章19-21節】

ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。

あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。


【詩篇119編67節】

苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。


【詩篇119編71節】

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。


多くの苦難と迫害を経験した主の使徒たちのことばです。



【第2コリント1章8-10節】

兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、

ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。


【第2コリント4章17-18節】

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。


【ヤコブ1章3節】

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。


【ヤコブ1章12節】

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。


アーメン (*´∇`*)


2023.6.11
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主が受けた苦悩

テーマは 『 主が受けた苦悩 』 です


【マルコの福音書14章50節】

すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。


神が人となってこの世に来られた方がイエス・キリストです。

そして その方の最後は十字架の死でした。


キリストが受けた苦悩は計り知れないものでした。

どんな苦しみと苦悩があったでしょうか?





皆から捨てられたので、孤独の苦悩がありました




弟子であるユダは、イエスの敵に銀貨30枚を受けて イエスを勝手に売りました。

愛する弟子に裏切られました。


ユダはイエスを捕らえるために武器を持った者たちを連れて来ました。


その様子を見て 他の弟子たちも自分たちに被害が来ることを恐れて、みなイエスを見捨てて、逃げて行きました。

弟子たち全員に見捨てられました。


預言通りのことであっても、逃げて行く弟子たちを見た主の心は相当苦しかったと思います。



愛する者から裏切られた経験がある人は、心に深い傷が出来て長い間苦しみます。


主は一人だけでなく、みんなに裏切られました。

その苦しみと苦悩は計り知れないです。


一人取り残されたイエス様の苦しい心の内は誰も想像することが出来ないです。




イエス様は私たちが苦しむ時にも裏切らず、私たちのために働いて下さる方ですが、私たちは困った時にイエス様を見捨てて逃げたことがどれほどあったでしょうか。


父なる神にも捨てられた時に、主はどんなに辛く孤独だったでしょうか。

これが一番辛い苦悩だったと思います。


父なる神はその苦悩を知っていても、その苦悩もキリストが受けるべき苦悩と考えていたので、顔を背けていました。

主の苦悩はこの叫び声で分かります。


『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』





人々から受けたひどい侮辱と恥による苦悩がありました




主は人々からあらゆる差別、嘲り、誹謗中傷、侮辱を受けました。


【マタイの福音書27章29-30節】

それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」

また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。


【マタイの福音書27章39-44節】

道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、

言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。


十字架の上で 『渇く』 と言われた時も 人々は主を嘲笑いました。

主に恥をかかせることが、この時はみんなの楽しみでした。


その時、主にある苦悩は相当なものだと思います。


人から聞いた嫌なことば一つでも苦しいと叫ぶ者たちは、主が人々から受けたものと比べてみることです。





肉体の苦悩




イエス様が十字架の上で受けたのは極限の肉体的苦痛でした。


ローマの兵士たちは、イエスを鞭打ってから地面に置いた十字架にイエスを寝かせた後、両手、両足に大きな釘を打って体を固定してから十字架を立たせました。


恐ろしいほどの肉体的苦痛が全身に走り、死ぬまで続きました。


むち打たれた時に出来た体の傷と、釘打たれたところからは絶えず血が流れました。

6時間も十字架の上で苦しみ続けました。


耐えられない苦しみを受けながら、主は自分のなすべきことをしました。




罪人のために、救いの道を完成することは あらゆる苦痛と苦悩を伴うことでした。


それでも主は そこから逃げることなく、すべての苦しみをその身に受けました。



自分が受ける苦しみが まるで世界一重い苦しみだと思って、主に文句を言う私たちは、もっと主が受けた苦しみを考えることです。



主は文句ひとつ言わずに私たちのために耐えていました。

私たちが受けているすべての祝福は、主の苦悩と苦しみの結果です。


私たちに対する主の愛ほど強いものはありません。


主の苦悩を思いながら、たとえ苦しいことがあっても、主から離れず、耐え忍ぶ者になりたいです。


アーメン (TДT)


2023.3.26
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苦難をどう思うのか

テーマは 『 苦難をどう思うのか 』 です

【第2コリント1章8-10節】

兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、

ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。


人々が一番恐れていることは苦難が来ることです。

ですから苦難が自分の人生に来ないように祈ります。


しかしこの祈りは正しい祈りではないと言われています。

なぜならイエス様が “この世にあっては苦難がある” と前もって言われたからです。


正しい祈りは、「苦難を乗り越える力を与えて下さい」 と祈ることです。



パウロの人生は、主に出会ってから苦難の人生に変わりました。

主が弟子アナニアに、パウロのことをこのように預言しました。


【使徒の働き9章15-16節】

しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」


主はこのように語った理由は、福音の働きを邪魔するサタンの力が どれほどパウロを苦しめるかを知っていたからです。

主ご自身も苦難を受けたからです。



悪魔が大いに働くこの世では、敬虔に生きようとする人たちが苦難を受けることが多いです。

神に逆らいながら生きる人たちは、闇が好きなので、光を嫌い、光の中を歩む者を迫害します。


パウロは、自分が進む道に いつも敵による攻撃と迫害、苦難があると知っていました。


しかし苦難を恐れて避けたことは一度もありませんでした。

苦難を前にした時の心境をこのように話しました。


【使徒の働き20章22-24節】

いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。

ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。


苦難よりも福音をあかしする任務に集中しました。

これが苦難を恐れないためには必要です。


何かをするためには 何をすべきかを考えると共に、何をしてはいけないかも考えないといけないです。


苦難を恐れることはしてはならないことです。


「恐れるな」と言われたことばの中には、色々な意味があります。

苦難がないことは、幸せではなく不幸です。



晴れの天気が365日続くとどうなりますか?

すべてが枯れます。


枯れないために時には雨、時には台風も必要です。



いつ神様を一番求めますか?

いつ聖書をたくさん読みますか?


苦難の時です。






ヨブは神様が認めたほど敬虔な人でした。


しかし彼が受けたほどの苦難は、その時代誰も受けていなかったです。

その苦難がどれほど大変だったのか、ヨブはこのように訴えました。


【ヨブ記7章19-21節】

いつまで、あなたは私から目をそらされないのですか。つばをのみこむ間も、私を捨てておかれないのですか。

私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、私をあなたの的とされるのですか。私が重荷を負わなければならないのですか。

どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。今、私はちりの中に横たわります。あなたが私を捜されても、私はもうおりません。


ヨブの苦難は終わりがないように思われました。


しかし終わりが来て、神はヨブを大いに祝福しました。

主はヨブの後の半生を前の半生にも増して祝福されました。



詩篇38編は、ダビデが書いたものですが、ヨブ記にとても似ています。

長く続く苦難の中で書いたものでした。


【詩篇38編1-8節】

主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。

あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。

あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。

私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。

私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。

私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。

私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。

私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。


苦しみをあらゆることばで表現しました。


ダビデも主の心に適った者で、主に愛されました。

しかし多くの苦難がありました。


後にダビデも 神に尊く用いられ、多くの祝福を受けました。



苦難は、火の中で不純物を取り除いて 純金にする過程に似ています。

ですから詩篇119編に このようなことばがあります。


【詩篇119編71節】

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。


苦難の中にいる時は、このような心構えでいなさい と言われたことばがあります。


【ヘブル12章11-12節】

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。


イエス様も苦難を通りましたので、苦難の中にいる人たちが耐えるように助けて下さいます。

耐えた人に祝福を与えて下さいます。


アーメン ( ̄‥ ̄)=3


2022.2.27
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主に従うこととは

テーマは 『 主に従うこととは 』 です

【第2テモテ4章16-18節】

私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。

しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私は獅子の口から助け出されました。

主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。

口先だけで「主に従います」と言うのは簡単です。

言うだけで何もしなくて良いですから。


しかし、実際に主に従って歩むことは簡単ではなく、とても難しいです。

なぜなら主が歩んだように歩まないといけないからです。



主の使徒・パウロは、「主に従って歩む」ことが、どういう事かを身をもって現した人でした。

イエス様のように生きてイエス様のように死にました。


イエス様からビジョンと使命を受け、イエス様と親密な関係を結び、共に歩みました。


そして主が 弟子や従って来たすべての者に捨てられたように、パウロも捨てられました。


そしてイエス様のように彼らを赦しました。

主を愛し、人を愛する愛をそのまま見せました。



イエス様は、人のために この世に来られ、人に仕えましたが、人の手によって十字架にかけられ死にました。


十字架の上で父なる神に祈りました。

「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」


パウロも自分を見捨てた人たちに対して「彼らがさばかれることがありませんように。」と願いました。

イエス様に似た姿がありました。


イエス様に出会った後のパウロの生き方、心、働き、愛、すべてはイエス様の中に見られるものでした。

違うところはありませんでした。



主に従うことは、主と同じ生き方をすることです。

違う生き方ならば、別々の道を歩んでいることを意味します。


主と同じ生き方は、みことばの知識だけでは100%無理です。


知識だけでは主の心を知ることが出来ません。

理解も出来ません。


十字架の知識を持っていても 十字架にかかった主の心や痛み、苦しみを知ることは出来ないです。


自分が同じ経験をして初めて共感し、知ることが出来ます。



主に従った人々は、主と同じことを実行しました。

無条件の愛、犠牲的な奉仕、心からの服従、完全な自己否定、しもべとしての謙遜がありました。


信仰と愛、希望をもって、神に栄光をささげながら自分の十字架を負ってビジョンと使命を全うしました。

天の御国にふさわしい者になりました。


アーメン ヽ(^o^)丿

2019.9.1
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患難の時に取るべき態度

テーマは 『 患難の時に取るべき態度 』 です

【ヨハネの福音書16章33節】

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

昨年の9月15日に息子と車で熊本県へ行きました。
阿蘇山の近くを通りましたし、黒川温泉にも行きました。

その少し前に阿蘇山の噴火もありましたが、大きなことにはならず収まっていました。


良かったと思いながら阿蘇山を見ました。

それが今回とんでもない地震が起こってしまいました。


日本中で誰一人この時に、このような大きな地震が熊本で起こるとは予想もしていなかったです。

地震の専門家たちも皆 驚いています。


綺麗な景色を楽しんだ昨年のことを思い出しながら、地震のニュースを聞くと 心苦しくなります。

今はその地域全体が 不安と苦しみに満ちた場所になりました。


ずっと余震が続き、雨も降っているので最悪な環境ですね。

ライフラインが寸断されたので生活が出来ないことが一番辛いと思います。


以前、この教会で1年間奉仕をしてくれた南さんが熊本の教会で働きをしています。

昨日“ライン”で安否を聞きましたが、今朝になって無事に避難をしていることと、教会や信徒たちも無事である連絡がありました。

断水で大変であること、祈りの要請などがありました。
皆で祈りましょう。


突然の患難に見舞われた人々を見て、それが他人事ではなく、自分たちも いつこのような患難に遭うか分からないなと改めて思いました。


イエス様が弟子たちに語った今回のことばは、患難の時に私たちが取るべき態度を教えています。


イエス様も激しい患難を通った方でした。

誕生した時から、患難の連続でしたので、患難の中にいる人たちの心境を誰よりも知っています。


患難の時に取るべき態度を主のことばから学びます。




・患難は誰にでもあることを認識する




聖書は繰り返して信じる者にも 熱心に主に仕える者にも 患難があることを話しています。


“患難がない” と言われたことがありません。

ですから患難が来た時に「どうして私に患難を与えるのですか」と戸惑うことも、つぶやく必要もないです。


信仰があっても、バラ色の人生で 患難がない人生を約束されたということはありません。


主のことばのように、この世で生きている人には誰にでも患難があります。


今回の地震でも、地震が “人を選び、場所を選ぶ” のではないです。

日本は、どこで地震が起きても不思議ではないですし、火山噴火も起こりやすい国ですから、起きたらそこにいる人たちは皆がその被害を受けます。

それは、ひどい被害か、軽い被害か が違うだけです。


クリスチャンだから守られて、いっさいの被害を受けることがないということはありえないです。


守られる時もあれば、そうでない時もあることは、信じない人にも当てはまります。


クリスチャンでも病気にかかりますし、死にます。
家庭に問題もありますし、貧困にもなります。


旅路である地上が私たちの定着地ではありません。

ですから地上では様々な患難にあうようになってあります。


患難が来ても、それが不思議ではないことを まず認識しましょう。


患難が特別なのろいでもなく、誰の所に来ても、それが不思議ではないことです。




・勇敢でありなさい




患難の中で “勇敢でありなさい” と言われました。


患難に遭うと人間はとても弱くなります。

気落ちし、不安と恐れで心が潰されそうになります。


心のバランスを失って フラフラ状態になります。

どうしたらよいか分からず悩みます。


その時、主が私たちに語ることばは「勇敢でありなさい」です。

なぜ勇敢な態度を取る必要がありますか。


主ご自身が “患難に、この世にすでに勝ったからだ” と理由を語って下さいました。


それが私たちの患難と何の関係があるでしょうか?


私たちが気落ちしたり、絶望したりするのは、自分たちには患難に勝つ力がないからです。

しかし私たちの力では何も出来ないですが、勝利の主が共におられるならば問題がないです。


どんな患難が来たとしても私たちに力を与えて下さる神によって、私たちは患難を乗り越えることが出来ます。


力ある主の手が支えて下さいます。
この信仰を持っている人が 本当に世に勝ことが出来ます。


神を信じる人は、自分の力ではどうにもならない時に簡単に諦めてはいけないです。


そこで諦める人は、神も神の力も信じていない人です。

意外とこのようなクリスチャンが多いです。


患難が来た時に、世の人々とまったく同じ言葉や態度を取る人が多いです。


それならば神は自分にとってどのような存在ですか?

(神は)頼れる力もない存在ですか?

助けて下さらない方だと信じていますか?


私には出来ないけれど、神が助けて下さるならば何でも出来るという “確信” が信仰であり、そのように信じるならば その通りになります。

不可能が可能になります。


神に愛された信仰の人々は、すべて患難の中から出て来た人たちでした。

患難の中で神の力に頼り、勝利した人たちでした。


英雄が激しい戦いの中で生まれるのと同じです。

人が出来ないことをやり遂げた人が、勇士になり英雄になります。

彼らには勇敢さがあります。


使徒パウロほど 多くの患難に遭った人はいないです。

しかし彼は患難の中でも勇敢な人でした。


患難に対する正しい態度が彼を勇敢にさせました。

彼は常に神に頼っていました。


【第2コリント1章4-10節】

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。

兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、

ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

さらに ここにも彼の勇敢な態度があります。

勇敢とは、環境に支配されず、反対に “環境を支配する態度” です。


【ピリピ4章11-13節】

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

患難の中で絶望したり、恐れたり、気落ちしたりする姿は パウロにはありませんでした。


それが出来たのは 彼が神に頼り、主のことば通りに勇敢な態度を取ったからです。

患難の時にこそ、さらに御言葉を守り、主に頼ることです。


すると世に勝った主の力が働いて患難を乗り越えることが出来ます。

主は私たちに平安を与えると約束して下さいました。


主に信頼し、患難に向かって勇敢に戦う時に平安が与えられます。

平安は、勝利者にあって 敗北者や絶望している人にはありません。


患難の時には環境ばかり見るのではなく、御言葉に従って行動するように励むと、主の力と助けが与えられて乗り越えることが出来ます。
( ̄‥ ̄)=3

2016.4.17
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こんな時はどうすればいいのか

テーマは 『 こんな時はどうすればいいのか 』 です

【ヤコブ5章13-15節】

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。

あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

パソコンやスマホ、電化製品などを買うと、その製品の使い方や困った時の解決方法などが書かれている分厚い説明書が必ず付いてきます。


小さい文字で あまりにもたくさん書いてあるので、ほとんどの人は説明書をあまり読まないですね。

しかし困った時は 説明書を調べます。


すると そこに解決方法が書かれているので助かることが多いです。

造った人が1番その製品に対して詳しいので、きちんと解決方法を知っています。


聖書は私たちのことを “神の作品” だと呼んでいます。

すなわち人間は 神の手によって造られた作品です。


ですから私たちを1番よく知っているのは神様です。


神は(すべてを造った)創造主ですので、被造物のことを全て知っておられます。


造られた者として どのように生きるべきかを神が教えないと、私たちは分からないです。

そのことを聖書だけが正しく教えています。


神から言われた通りに生きる人は、人間を造った神の目的にふさわしく生きる人です。


神はまた 人間に何か問題が生じた時に一番有効な解決方法も創造主は持っておられます。


すでに創造主を信じ、聖徒になった人たちは 神が示した有効な解決方法を常に用いることです。

今回の本文は、その中の一部分ですが、私たちが使うと 大いに役立ちます。





苦しんでいる人は祈りなさい




私たちの人生には 多くの苦しみがあります。

別れや失敗、病気、貧困、悩み等々。


その時の一番の解決策は、まず神に祈ることです。


「祈るだけで解決されるのか」と言う人は、祈りのパワーをまったく知らない人で、神がどれほど偉大で力ある方であるかを知らない人です。
また、神がどれほど自分のことを愛しているかを知らない人です。



神は決して人間を強い者として造ったわけではなく、神に依存しながら生きるように造りました。


ですから人間は、苦しみがあると すぐに落胆し、つぶやきます。

その状態ならば苦しみが増すだけです。


ですので、神は私たちに 「助けるから苦しい時は一人で悩まないで わたしに祈りなさい。」 と解決方法を教えて下さいました。


祈ると、苦難を乗り越える力を神様から受けることが出来ますし、神のみこころを発見出来ますし、また神様から慰めを受けますし、そして助けられます。


聖書には実際にそのようにして神の恵みを受けた多くの聖徒たちの姿が出てきます。


【詩篇91編15節】

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

神様はこのように約束して下さいました。

そして そのように苦しみの時に 主に祈った現代の聖徒たちも、主の助けを受けました。


ジョージ・ミュラーは、94歳までイギリスで孤児院を経営した立派なクリスチャンでしたが、彼を有名にしたのは 5万回の祈りが答えられたことでした。


お金がない中での孤児院経営は大変ですが、彼は資金集めのためにチャリティー募金活動などをしたことがありませんでした。


彼が孤児院を維持するためにやったことは 神への祈りだけでした。

神はそのすべての祈りに答えて下さり、孤児たちを養うことが出来ました。


私も皆さんも 苦しい時に神に祈って助けてもらった証はたくさんあります。


神の言葉は真実です。神の約束も真実です。





喜んでいる人は賛美しなさい




良いことに対して1人で喜んでいる人がいます。

良いことがあったのに証をしない人もいます。


恵みと祝福を隠して、自分1人で楽しむ事でも喜ぶことでもありません。


良い恵みを与えて下さった神には 必ず栄光と感謝をささげることです。


それが神に賛美をささげることです。

歌を歌うだけが賛美ではなく、賛美する香は “神を礼拝すること” です。


礼拝の中には感謝がありますし、祈りがありますし、賛美がありますし、献金があります。


私たちが受けた恵みに対して黙っていることは罪です。

なぜなら、神に栄光をささげない行為は “恩知らずな者” だからです。


恵みを “恵み” として認識していないので “罪” と言えます。

神の恵みに感謝して、神に賛美をささげることがとても大切です。


苦しい時に神に祈ることはたくさん出来るのに、祝福された後に 神に賛美をささげる人は少ないです。






四つの福音書を読むと、様々な人の姿が出てきます。


苦しんでいる人、病気の人、悪霊に取りつかれた人などが みんなイエス様の所に助けを求めて集まってきて、皆が癒されました。

しかし感謝し、神を賛美した人は1割程でした。


10人の らい病人が癒された時に、感謝して主を賛美した人は1人だけでした。

それも、ノンクリスチャンでした。


ユダヤ人は選民でしたが、サマリヤ人は選民ではありませんでした。

選民ではないサマリヤ人が、わざわざイエス様の所に戻って来て 主にひれ伏して感謝し栄光をささげました。

これは、クリスチャンが感謝していなかったことになります。


神の恵みを一番受け、誰よりも恵みを知っているはずなのに なぜ感謝しなかったでしょうか?


クリスチャンは神からの恵みを “当たり前” と思う傾向があります。


“特別” という認識が足りないです。
恵みを受けるのが自分の権利だと思っています。


「それを いちいち言葉や行動で表さないといけないですか?」と思っているならば、賛美しなさいと言われた神のことばに逆らっている姿になります。


神様はそのような姿を喜ばないです。

恵みを受けて喜んでいるならば、まず神に賛美しなさいと言われました。


神にきちんとお礼を伝えて、栄光をささげることが聖徒としてすべきことです。




病気の人は祈ってもらいなさい




これは苦しんでいる人に祈りなさいということを、さらに強調したことでもありますが、それは病気にかかった人は苦しんでいる人だからです。

本人が祈るだけではなく、なぜ教会の指導者を招いて祈ってもらいなさいと言われたでしょうか。


医者でもなく 教会の指導者を招いて祈ってもらいなさいというのは、医者は要らないというわけではないです。


ヤコブは 優先順位のことを言いました。

医者を招く前に、まず神を求めるようにと勧めています。


教会の指導者は信徒を世話する者です。そして、聖徒のためにとりなしをする者です。

ですから信徒が病気の時には必死に神に祈ります。


私たちを造った神様ほど、人体に対して詳しい方は存在しません。


そして主は癒し主ですので、その神に まず先にお祈りすることは当然です。


その例が旧約聖書にあります。


【第2歴代誌16章12節】

それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。

なぜこのことが聖書に書かれていると思いますか?


アサ王が、神の前にいつも悪を行う 神を知らない王だったならば、わざわざ聖書に書く必要はありません。

しかしアサ王は20人いたユダの王の中でも 四人の良い王のうちの1人でした。


もともとは神が喜ぶことを行った王であり、信仰もありました。


しかしだんだんと信仰が弱くなっていきました。

そして病気になった時に神を求めることをせず、医者を求めました。

その行動が間違えていたので、わざわざ聖書に書いて残しました。


聖徒が病気になった時に、私たちは まず何をすべきかを その箇所と今回の本文のことばで教えています。


病人にオリーブ油を塗ったのは古代社会の慣習でもありました。

治療の効果を得るためでありますが、聖書では油は神の恵みのしるしとして言われてありますので、病人に対して神様が関心を持って治療を行っていることを見せるためでもありました。


このように書かれているからと、今も必ず油を用いて祈る必要はないです。
なぜなら時代背景が変わりましたから。


イエスの名によって祈る時に神は病人を癒すことが多いです。


信仰による祈りに、神は奇跡で答え、病人を癒します。


不信仰や疑いを持って祈っても 癒しは起こりません。

神が働かないからです。


病気の中には、罪から来た病気もありますが、それが祈った人によって示され、本人が悔い改めると主がその罪を赦し、病気を癒すこともあります。


私も病人のために祈ることが多いですが、ある時には神がその人の罪を示す時があります。

すると その時は悔い改めるように勧めます。

悔い改めた後に癒された人たちもいます。


このように神様は「こういう時にはこのようにしなさいと」私たちに詳しく教えて下さったので、そのやり方を使うと間違いがないです。


自分が神様より良い方法があるならば別ですが、果たしてもっと良い方法があるでしょうか?
(゚Д゚) !!

2016.1.31
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苦難の時に何をするのか

テーマは 『 苦難の時に何をするのか 』 です

【ヨナ書2章1-10節】

ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、

言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。 私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。

あなたは私を海の真ん中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。

私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」と。

水は、私ののどを締めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。

私は山々の根元まで下り、地のかんぬきがいつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。

私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。

しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」

主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。

本文には、ヨナという人物が出てきます。
ヨナは預言者です。

この時、彼はどこにいるでしょうか。
魚の腹の中という有り得ない場所にいます。

なぜ彼はそのような場所にいて、ありえない苦しみを受けているのでしょうか。


実際彼が受けている苦しみは、死よりも辛い苦しみかも知れません。

私たちがもし同じ状況の中にいるならば、「なぜあの時に死ななかったのか。死んだ方がましだ。」という思いになります。


なぜなら、息が出来ないことによる肉体の苦しみがひどいからです。
水に溺れている状況なので、まともに息が出来ないです。

肉体の苦しみの中で 痛みがあることも辛いですが、息が出来ない苦しみも相当辛いです。


また、体の身動きがとれない苦しみもとても辛いです。

そして精神的にもかなり辛い状況でした。それは自分が人間世界から隔離されてしまったからです。


地球上での海と陸の割合は7:3です。

昨年失踪したマレーシア航空機が海に消えたと言われて、今も捜索していますが、まったく見付かっていない状況です。

(陸ではなく海の中だと)分かって探しても 見付からないほど広くて深い海という環境が、さらに絶望を大きくします。そこは救助される期待すら出来ない場所です。


霊的には自分が神様から受けた使命を拒んだことで自分の身に降りかかった試練なので、霊的にも追い込まれた状況でした。

『あの時、主の命令通りにニネベに行って神のメッセージを伝えればこんなことにはならなかったのに』 という後悔と神との関係が断絶され霊的にも絶望的でした。

神の命令に不従順した罪の刑罰として海に投げ出されたヨナはすべてに追い込まれていました。


生きているのか死んでいるのかが分からないような状況です。
生きるのも死ぬのも両方しんどい状態でした。

叫んでも自分の声が誰にも届かないですし、自分がそこにいることを誰も知らないことも最大の苦しみでした。

あらゆる面からも、ヨナの状況は最悪であることは間違いないです。


多くの人は状況をみて怯え、諦め、完全に絶望し、死を選ぶことが多いです。

また ある人は、死ぬ選択すら出来ずに生き地獄の中で生きています。

しかし苦難はその時に何をするかによって解決されるか、苦難が続くかに分かれます。



ヨナの神への不従順は私たちが学んではいけないことですが、生き地獄の苦難の中で 彼が選んだ方法は私たちが学ばなければなりません。

それは祈りでした。
祈り以外に彼に出来ることは残されていませんでした。


身動きが取れなくても、息が出来なくても、闇の中にいても、誰も助ける人が周りにいなくても、そこで唯一出来ることは “祈り” であることをヨナが見せてくれました。




救いの神を思い出した




罪に対して厳しくさばく神であることを ヨナは身をもって体験している最中ですが、その苦しみの中で、救いの神を求めました。


自分に必要な助けだけを求めたのではなく、神自身を求めました。

深い海の中、魚の腹の中から生き返ることは、ヨナの力では不可能でしたので、あらゆる苦難から救い出して下さる主を見上げました。

苦難の時は、何よりも主を求めることです。
神は私たちがどこで叫んでもその声を聞くことが出来るお方です。


さらに主が 自分を救い出してくださると信じて感謝と希望の祈りを捧げました。

私たちは、いつ感謝の祈りをしますか。
解決された後でしょうか?それは信仰による感謝ではないです。

それは当たり前の感謝です。

信仰による感謝は、苦難の中で祈り始めた時から捧げます。



ヨナは9節で感謝の祈りをしました。


【ヨナ書2章9節】

しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」

感謝と希望の祈りは神への礼拝です。

偶像へのむなしい礼拝ではなく、生きておられる神への礼拝です。神は礼拝を受け入れて下さるお方です。


【ヨナ書2章7節】

私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。

どんなに絶望的な状況の中でも 最後まで信仰を捨てず、神の臨在を求め、神が救い出して下さることを信じて感謝を捧げることは、主を礼拝する姿です。


【詩篇107篇10-16節】

やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、

彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。

それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。

主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。

聖書は苦難の時に主を求め、神が彼らに救いの手を差し伸べた事実がたくさんありますので、それを信じて神を求めることを勧めます。




悔い改めの祈りをした




人間は罪を知らないから罪を犯すのではなく、知っていながらも 罪の誘惑に弱い者であるので、次から次へと罪を犯します。

悔い改めが必要のない日はあるでしょうか。
「今日私は何一つ罪を犯していない」と言える人がいますか?


主のことばから はみ出た行動はいくらでも自分たちにはあります。

“罪から来る報酬は死” であることに変わりはないです。


しかし神様は罪人が罪の中に留まって死ぬことを願わないので、悔い改める者に恵みと救いを用意しておられます。


神の命令に不従順して神から刑罰を受けているヨナに対しても神はすぐに彼を死なせず、魚の腹の中に入れたのは悔い改めるチャンスを与えたことでした。

悔い改めのチャンスは主のあわれみです。主の恵みです。悔い改めのチャンスは助かるチャンスでもあります。


ヨナにとっても助かる道は、悔い改める道しか残されていませんでした。

きっと涙を流しながら三日間 心の中で泣き叫んで祈ったでしょう。

息苦しくて声を出すことが出来ないので、声なき声で叫んだことでしょう。


「私が悪かったです。もう2度と主に逆らいません。私の罪を赦して下さい。ここから助けて下さるならば言う事を聞いてニネベに行って主のことばを伝えます。」と誓いを立てながら悔い改めの祈りをしたでしょう。


悔い改めの祈りほど神に早く届く祈りはないと思います。

それは、なぜだと思いますか。


多くの願いの祈りは、神様を変えてでも自分の願いを押し付けて、欲しいものを手に入れたい思いがあります。

しかし、悔い改めは 祈る人自身が変わらないと出来ないことなので、その祈りをする人自身が変わったので神様が喜び、その祈りに早く答えて下さいます。


ヨナも苦難の中で変わりました。
罪の恐ろしさが分かり、自分の愚かさにも気付きました。

そして罪を捨てて、神に立ち返りました。

救いの神が救うことが出来るように 神を呼ぶ者になりました。


悔い改めていない者を助けたとしても、その人たちは神様を侮ります。

「誰が助けてくれと頼んだのか。ほっといてくれ。」と言います。


しかし悔い改めた人は、主の助けと救いに心からの感謝が出てきます。

神様は悔い改めるヨナを見て、救いの手を差し伸べました。魚の中から彼が生還出来るように恵みを与えました。

悔い改めたことによってヨナは再び太陽の光を見ることができ、自由に息をすること、そして体を動かすことが出来るようになりました。

絶望から希望に移されました。そして再び主の働きが出来るようになりました。

もしヨナに祈りがなかったならば、聖書に「ヨナ書」は存在しなかったですし、ヨナが誰なのかも私たちは分かりません。


イエス様も悔い改めの祈りがもたらす祝福について次のように教えて下さいました。


【ルカの福音書18章13-14節】

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

聖徒たちにとって、祈りは必須です。それは祈りによって神との会話が成立するからです。

祈りを通して神様と交わりをし、霊的呼吸をします。

しかしすべての祈りが神様と通じるものでもないです。


悔い改めの祈り、神を求める祈り、神を信じて感謝と希望を持って祈る時、苦難の時に救いの神を切に求める祈りをする時に、主は救いの手を、救いの道を開いて下さいます。

それならば何でも聞いて下さいますかと質問する人がいますが、それを確認して祈るのではなく、 神をただ信頼して祈ることが大切です。


目に見えなくても、しるしがなくても、何も確認が出来なくても 今も働いておられる神がおられることを信じて、本人が必死に祈り求めることです。すべてを懸けて助けを求めます。


祈りを他人任せにする人がいますが、そうするとその人自身の苦難は根本的に解決出来ないです。

それはその本人の問題なので、神様はその人を待っておられます。

長い間、絶望と落胆の中にいる人がいるならば、それは未だに悔い改めていない自分の罪の為ではないのかを考えてみて下さい。

そしてヨナのようにやってみて下さい。
ヽ(TдT)ノ

2015.5.31
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