テーマは 『 聖く生きるために 』 です

【ガラテヤ2章20節】

パウロが語った言葉です。キリストにあって敬虔に生きるための毎日の自己宣言であります。

クリスチャンは古い罪からイエス様の十字架によって聖められていますが、
私たちが罪を犯すと汚くなります。衣服でもそうですが、私たちの霊の状態も
日々罪を洗わないと、以前の姿に戻ります。

天の御国は罪が存在しなく、誘惑がないです。サタンもいないので、
永遠の御国の世界に入ると私たちは聖くあります。

しかし、この地上は汚れた場所であります。この地上はサタンが支配するところであります。
罪が溢れるところで私たちが生活をしています。汚くならないわけがないです。

その中で日々私たちが聖くなるには、何もしないわけにはいかないです。
(イエス様を)信じたから敬虔な生活が自然にできることはないです。

「御言葉を読むから、祈るから、教会に行くから、礼拝に参加するから、奉仕をするから・・・」
それで自分が聖くなることは有り得ないです。

そういうすべてのものを私たちが活かして実践するなら、自分たちの欲を十字架につけて
初めて私たちは敬虔なものになります。


【エレミヤ書17章9節】

私たちは聖められても、聖められても、自分たちの深いところには まだまだいっぱい汚れたものが
あります。

私たちは自分の心を他人には見せたくないものですね。
他人の心は知りたいと思うのですが、自分の心は絶対に他人には見せたくないです。

それは、なぜかというと、心の中に汚れた物がいっぱいあるからです。
どんな人にも悪があります。それはなかなか治らないです。

打ち砕いても、打ち砕いても、変わろうと決心しても いつも倒れます。
(神様を)信じる、信じないに関わらず、人間であるなら誰でも同じです。

信仰生活は簡単ではないです。
罪を犯す生活は自分の欲のままに生きたら良いので簡単ですが、
自分の中の汚れたもの、汚い罪を、自分で日々十字架につけるということは、難しいことであります。

パウロの中にある一番の葛藤な何でしょうか?(私たちの戦いとは少し違います。)
―― それは律法との戦いでした。

パウロは誰よりも熱心に律法を守っていた者でした。
それからイエス様を信じて、そこから離れなければならないのに、恵みの中に生きようとすると
自分の中から出てくる律法という自己義が出てきました。

パウロは必死にその思いと戦っていました。

奴隷ということは 「 服従 」 を意味します。

罪の奴隷であるということは、罪が言うことをよく聞き、服従することであります。
私たちが(救われる前の)罪の奴隷の時は、悪に従順しました。
悪に服従すると、悪の力がさらに強くなり私たちを支配します。

悪に服従すると心に闇がどんどん入ってきます。闇が入ってくると滅びがきます。
滅びがくると、死がきます。魂も肉体も永遠の死です。

義の奴隷として生きるということは、義に対して従順することです。
それは真理に従順する姿であります。神様の御言葉に従って生きることを意味します。

日々、心の割礼を受けなさい。あなたの心を引き裂きなさいと主がおっしゃいます。
それは悔い改めることであります。

悔い改めは聖く生きるために必要なものであります。どんなに私たちが努力しても、
私たちは誘惑に弱い者ですから罪を犯します。

人々は臨在を求めますが、神様の導きに従うことはあまりしないです。

自分の思いを砕かなければ服従はできないです。義の奴隷になるには、
神様のみことばに従順し恵みを受けて、その中で生きることをしないと聖めることはできません。

神様は、神様ご自身を認めて従順する人たちをさらに恵み豊かに与えてくださいます。

(神様は)神様の子供である私たちを赦してくださいますが、赦してくださるからといって、
それを軽く考えていてはいけないことであります。

また、パウロは世に対して彼は死んで、神の御国のために生きました。
私たちも敬虔に生きたいと思うならば、世に対して死ななければなりません。
世ということは、目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢、この世を愛することです。
それらを十字架につけなければならないです。

サタンが与えるものは私たちが手に入れた瞬間に捕えられて、闇が入ってきます。
日々、自分の中にある欲を十字架につけないと、その欲のために自分が後でひどい目に遭います。

悪に対する報いがすぐに出てこないので、多くの人々が罪を恐れずに平気に誘惑され罪を犯します。
しかし、自分が犯した罪に対しては他人が刈り取ることがないです。自分が刈り取ります。


【Ⅱコリント10章18節】

自分を良く見せて、色々なものを身に着けて、自分で自分を推薦する人を
神様は「そういう人は信用できない」と語っておられます。
そうではなくて、主に推薦される人、その人の心を見ておられる神様ですので、
「この人は聖い人だ。」、「この人は信用できる人」、「この人の中には偽りがない」など
私たちは神様に推薦される人を目指さなければならないです。

私たちは毎日、自分が誘惑されそうなものを十字架につけることであります。
・高慢 ・自分を正しいと思う心 ・妬み ・憎しみ ・野望 ・世を愛する心 ・人を人とも思わない心
色々なものに誘惑されて溺れている自分の姿を日々、そこにつけます。

自分の姿を見て、自分は本当に羊の姿なのか?山羊ではないのか?と
自分で自分の姿を見なければならないです。

聖く生きる者が天の御国を相続します。

私たちはしんどくても、嫌でも日々叩かなければならない姿であります。

日々、自分を棄て、自分を十字架につけ、十字架を負って神様に従わないと、
天国には入れないです。

目を覚ましていないと罪を犯しやすいので、もっと日々の生活に気を付けなければなりません。

私たちは他人を非難する資格はありません。

他人には綺麗ごとを言っていても、裏を見ると汚いものが出てきたらもっと恥ずかしいです。
毎日起きた時、また、その都度することは、自分の肉の思いを十字架につけていくことです。 ((=゜エ゜=))

2013.3.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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