テーマは 『 本当に救われていますか? 』 です
【使徒の働き2章36-42節】
ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。
なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
そこで彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
長い間、教会に来ている人に、
そして 牧師や伝道師、教師、預言者、奉仕をしている信徒に「本当に救われていますか?」と誰が聞くでしょうか。
救われていると思うので、あえて聞くことはしないですね。
しかし、彼らがみな救われていると 誰が断言出来ますか?
実際は救われてもいないのに、救われたと勘違いして、教会に通い、そして働きをしている人もいます。
もしかしたら私たちの中にも 救われてない人がいるかも知れないです。
今日は一人一人が、「自分は本当に救われているのか」に対して考えたいと思います。
まずは、“救われること” は何でしょうか?
罪によってサタンの奴隷にされ、サタンの言いなりに生きていた人間が、神の福音を聞き、悔い改めて、神に立ち返り、神の恵みによって、そこから解放され自由の身になり、神の子どもになることです。
【ヨハネの福音書1章12節】
しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
今日の本文は、人々が救いに導かれていく様子がありますし、救われた人々が その後に どのような生き方をしたのかが鮮明にしるされてあります。
彼らの姿は、確実に救われた人々の姿です。
もし自分は救われたと思っていても、彼らのような姿がまったくないならば、救われたと言えるでしょうか。
“救われること” ほど重要なことが人間にあるでしょうか。
これ以上に重要なことはないと思います。
永遠のいのちが懸かってありますから。
多くの人々は「救い」に関しては もちろん無関心ですが、救いを必要だと思って信じた人々の中にも実際は救われてない人がいるのが一番の問題です。
「本当に私は救われているのか。本当に天国に行けるのか。
主の再臨の時に携挙されるのか」
このことをよく考えながら生きている人は、目を覚ましている人です。
初代教会の信徒の姿は、本当に救われた人の典型的な姿です。
生活が神中心になり、礼拝中心になり、付き合う人も信徒たちに変わりました。
【第2コリント5章17節】
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
このことば通りに、古いものは過ぎ去って新しい者になりました。
これが救われた人の姿です。
この通りの姿が、初代教会の信徒たちからは見られました。
神の言葉に逆らって生きていた彼らが、今は神の言葉を堅く守る者になりました。
神との交わりもせず、遠く離れていた者が交わりをし、礼拝をささげ、祈りをささげ、神の中にとどまっていました。
毎日神と共に歩む生活をするようになりました。
これは古い人の時は想像も出来なかった生活です。
まったく新しい生活で、それを彼らは毎日喜んで続けていました。
このように皆さんも変わりましたか?
以前と同じ生活を今もしているならば、何を持って自分は救われたと言えますか?
キリストを知っているから、みことばを知っているから、礼拝を守っているから、それだけで自分は救われたと思っていますか?
救われたことは新しい者として生まれ変わったことですから、新しい生き方が必要です。
聖書にも書かれていないのに、神学者たちの解釈が、まるで真理であるかのように教会で教えたりすることは とても危険です。
真理は聖書にありますので、聖書を一番重視しないといけないです。
「ある神学者がこう言ったから、別に変わらなくても、このままの姿で大丈夫だ」 という教えは正しいでしょうか。
イエス様が律法学者たちに対して なぜあのように厳しかったと思いますか?
自分たちの考えから出た教えを神のことばより重視したからです。
自分たちの教えのために神の言葉を無にしたので、イエス様は非難しました。
こういうことが今も行われてあります。
「一度信仰告白したら何をしても天国に行ける」と 皆さんは信じていますか?
残念ながらそうではありません。
福音の門は広く開かれてありますが、救いの門は決して広くありません。
救いを、まるでバーゲンセールのように安売りする教理は 大きな間違いです。
【マタイの福音書7章13-14節】
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
これが聖書の教えです。
救いを安く売って大量に天国に入ることが真理ではなく、本当に救われる人は少ないのが真理です。
このことを語った後に すぐイエス様はこのように語りました。
【マタイの福音書7章15-16節】
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
あなたがたは、実によって彼らを見分けることが出来ます。ぶどうは、いばらから取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
救いを安く売っている者は にせ預言者です。
救われてもいないのに、救われたと言う者、天国にも行けないのに、行けると言う者はにせ預言者です。
真理は 真理の実、偽りは 偽りの実を結びます。
サタンが蒔いた偽りの教えが、キリスト教の中にもたくさんあります。
耳に良いことばに騙されて、魂が眠ったままの信徒たちがたくさんいますし、今のままでも自分は救われているから平安だと安心しています。
しかし神のことばは 偽りを必ず暴きます。
バプテスマのヨハネが この偽りを見抜きました。
水のバプテスマを受けたから間違いなく天国に行けると思っている人は、よく聞いてほしいです。
水のバプテスマを授けていたヨハネのことばです。
【マタイの福音書3章7-10節】
しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。たれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
有名な祭司や律法学者が自分の所に来る姿を見て、ヨハネは歓迎したでしょうか。
“悔い改めてもない者が 水のバプテスマを受けても無駄だ” と宣言していました。
宗教家であっても、神が望む悔い改めがなく、信仰告白と儀式だけでは救われないです。
悔い改めて新しく生まれ変わっていないならば、その人の所属は 相変わらずサタンの奴隷です。
ですから「まむしの子」と言われました。
彼らは良い実ではなく、いばらとあざみの実を結んでいました。
神は 人の心を見て、その人を判断します。
信仰告白、洗礼、悔い改め、そして聖霊によって生まれ変わったならば良いですが、そうでないなら、ただ “宗教をやっているだけ” で、未だに救われていないです。
「まむしの子」と言われた彼らが、後に何をしたでしょうか?
キリストを十字架につけた群れになりました。
悔い改めがきちんとされず、生まれ変わってなくても宗教生活は出来ます。
しかし、古い人が良い実を結ぶことは出来ないです。
救われているかいないかも 実を見て判断することが出来ます。
悪い木は悪い実を、良い木は必ず良い実を結びます。
これは変わることのない法則です。
悪い実を結んだ人に対して、さらに このような言葉もあります。
【ヘブル6章5-8節】
神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることは出来ません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまします。
焼かれる場所が天国でしょうか。
天国ではなく、地獄です。
救われた人は、生涯を通して救われた証明になる “良い実” を結ばないといけないです。
悪い実を結ぶことは最初から救われていないか、救われた後に堕落したかです。
救いの道に入ったことは 新しい人に生まれ変わったことですから、その時から良い種を蒔いて、良い実がなるようにしなければなりません。
相変わらず悪い種を蒔いて 悪い実を結ぶならば、古い人のままだと思います。
実がその人の実態を教えています。
本当に救われた人の姿を確認したいと思います。
【エペソ4章17-24節】
そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。
彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。
しかし、あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。
ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。
その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
またあなたがたが心の霊において新しくされ、
真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。
【エペソ4章5章1-9節】
ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。
あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者―― これが偶像礼拝者です、―― こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。
ですから、彼らの仲間になってはいけません。
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
―― 光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです ――
【第1テサロニケ5章5-10節】
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
そして、次の箇所にも救われた人の姿があります。
【ヘブル10章37-39節】
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
自分は本当に救われたかどうかを、これらのことばで判断して下さい。
まったく違う姿であるならば、最初からやり直すことです。
神への信仰、悔い改め、水のバプテスマ、聖霊のバプテスマ、すべてをやり直してください。
そして新しい生き方をして下さい。
変わらない姿のままで、天国は行けないです。
神に立ち返って本当に救われてほしいです。
ヽ(TдT)ノ
2017.7.2
聖日礼拝メッセージ
八戸ノ里キリスト教会
~ お知らせ ~

人気ブログランキングへ
(別ウィンドウで開きます)
多くの人に読んでもらえる可能性があるので
皆さんのクリックが、福音伝道に繋がります☆
*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜
みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ
毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」
神様からの警告のことばです
警告のラッパ
地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~
こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば
金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ
シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤
□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■