からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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愛し合う

仕えるべき動機

テーマは 『 仕えるべき動機 』 です

【第1ヨハネ3章16-18節】

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。


イエス様は最初から自分を無にして、仕える姿を見せて下さいました。

最後は 自分のためではなく、罪人のため、愛する者のために命まで捨てました。


命を捨てた主の十字架を見て、主の愛と犠牲、そして徹底的に仕えることが どのようなことかを少しは知ることが出来ました。

人に仕えた主は、それを通して主の愛を見せました。


そして『互いに愛し合いなさい』と新しい戒めを私たちに残して下さいました。

愛し合うことは互いに仕え合うことです。


なぜ私たちが仕えるべきなのかの動機を、主が教えて下さいました。





主が先に私たちに仕え、その恵みを私たちが受けた




私たちのために命を捨てた方が、主です。


主の愛と犠牲の恵みを一番たくさん受けた人は、“救われた人” です。


恵みをたくさん受けたならば、主と人に仕えることです。

食い逃げ犯のようになってはいけないです。




主は渡される夜、弟子たちの足を洗いました。

それは衝撃的で、あり得ないことでした。


しかし仕えるとは どのようなことかを主は見せて下さいました。


救われた者たちも主に足を洗っていただきました。

ですからその恵みを受けた者なら、人の足を洗って仕えることです。





主を愛するので仕える




主を愛すると言いながら、何一つせず、受けることしか考えないならば、それは愛のない人です。


母親は自分の子を愛するので、人から言われなくても寝ずに世話をします。

自分を犠牲にしながら子に仕えます。


もちろん父親も子を愛して、汗を流しながら働いて家族を養います。

「愛」が心と体を動かします。それが当然です。



愛すると言いながら、犠牲も仕える姿もないならば、それは偽善の愛です。


心から愛する時に、自ら主のためにも 人のためにも喜んで仕えます。


愛は決して重荷ではないです。

愛を苦しい十字架だと思う人はいないです。


主は義務で十字架を背負ったのではなく、私たちを愛しているので 自ら代わりになって十字架を負いました。





仕える者には報いがある




主のように人に仕えるならば、必ず報いを受けます。

報いがあると約束したのも主です。


マタイの福音書25章には、最後の審判が神によってなされますが、そこで裁かれる者と良い報いを受ける者が分かれます、羊と山羊が区別されました。


大きな働きをした者が良い報いを受けたのではないです。

良い報いを受けた人は愛をもって仕えた人です。


【マタイの福音書25章33-40節】

羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』


愛を持って仕えた人は自分がしたことを忘れていましたが、主はすべて覚えていて、その人に良い報いを与えました。


よく仕えた人たちが受ける最高の祝福は、 『御国を受け継ぐこと』 です。



これからも人に仕える機会はたくさんあると思います。


無関心で逃すのではなく、人に仕えて良い報いを受けるチャンスにすることです。

無駄な働きにはなりません。


アーメン (*・ω・)ノ


2023.2.26
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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愛とは

テーマは 『 愛とは 』 です


「愛」とはどのようなものでしょうか。

聖書の「愛」は恋愛の「愛」ではなく、心がドキドキするような「愛」ではなく、恋人や夫婦の中の「愛」のことではなく、恋人、夫婦、子ども、兄弟、家族、教会の兄弟姉妹、友達、会社の人、周りの人々すべてに対する「愛」を指します。


【第1コリント13章1-13節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。


まずこの箇所を大きく分けると3つに分けることができます。






1)愛なしでは意味なし(1-3節)

2)愛の性質(4-7節)

3)愛は絶えない(8-13節)


2つ目の「愛の性質」を詳しく見ていく前に、先に他の二つを確認していきましょう。


1)愛なしでは意味なし(1-3節)

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。


たとえ、どんなに賜物を持っていても、預言が出来ても、知識が優れていても、完全な信仰があったとしても、愛がなければ意味がありません。


すべて それは形だけ、スペックだけがすごくて中身がない人間です。

たとえ、全財産を貧しい人にあげて素晴らしい奉仕をしたとしても、迫害から逃げずに信仰を貫いたとしても、愛がなければ何の価値もないのです。


それほど愛はすべてのうちで最も大切であり、愛がなければ何の意味がないほど、愛は必要不可欠なものなのです。


3)愛は絶えない(8-13節)

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。


預言、異言、知識はすべて神様、イエス様についてです。


今は私たちが直接神様、イエス様と会うことができません。

そのため、これから再び来られるイエス様や世の終わり、天の御国についての預言が与えられていますが、その預言は神様について すべて語られているのではなく、一部について語られているのです。


それはまるで鏡にぼんやりと映る姿を見ているようです。

当時の鏡は今私たちが持っているような くっきりとはっきりと映っている鏡ではなく、青銅でできた鏡のため、ぼんやりと映っていたのです。


神様やイエス様のことを私たちは今はっきりと見ることはできず、預言や聖書を通して、どういう方なのか、ぼんやりと知っています。



でもイエス様が再び来られる時、また私たちが天の御国に帰る時には 私たちはいよいよ神様、イエス様と直接顔と顔を合わせて見るようになるのです。


そうなると預言、異言、知識はすべて必要がなくなります。

残るものは聖書に書かれている通り、神様を信じる私たちの信仰、イエス様の中にある希望、神様、そして人々への愛なのです。


この愛は止まることがなく、なくなることがなく、常にあるものなのです。

次に、実際にこの愛とは何か、4-7節を詳しく見ていきましょう。






2)愛の性質(4-7節)

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。


① 愛は寛容、親切

この「寛容」は、ギリシャ語では「忍耐」の意味であり、特に「何か怒るようなことがあったのにも関わらず、文句も言わずに我慢すること、忍耐すること」を意味しています。


相手が何かあなたを怒らせるようなことをしたとしても、それに対して文句を言わずに忍耐し、赦すこと、寛容である姿が愛の姿なのです。

しかもそれに加えて、その人に親切にすることが本当の愛の姿です。



私たちが悔い改めをする時、「しまった」と心から反省する時はいつでしょうか?


それは人に指摘され、文句を言われた時でしょうか。

いや、むしろ逆に悪いことをした相手が私たちを赦し、それどころか親切にしてくれた時に心から「申し訳なかった」と悔いたり、反省をしたりするのではないでしょうか。



人の心を溶かし、和らげるのは、指摘の言葉ではありません。

人の心を動かし、和らげるのは、その人を赦す心、寛容な心、相手に対する親切な心、親切な行動なのです。


愛は相手があなたにしたことに対して、文句を言わずに忍耐し、逆にその相手に親切に接することです。





② 妬まない、自慢しない、高慢にならない

妬みとは、他の人が持っているものや、他の人のことを羨ましいと思うことや、誰の方がもっと良いのか、優れているのかと言い争うことです。

また、人の成功を喜ばしいと思わないことです。


ここでの「愛は自慢しない」は、その相手に対して自分のことを自慢しないということです。


「私すごいでしょ、偉いでしょ」と自慢すること、高いプライドを持って相手に接することは愛のない姿です。

それは相手の徳を高めること、つまり人々の役に立つ、人々がよくなるように仕えるのとは正反対であり、「自分自身、自分だけよければ良い」という考え方なのです。


本当の愛の姿は、相手に対して自分のことを自慢せず、相手の上に立とうとしません。






③ 礼儀に反することをせず、不正を喜ばない

礼儀とは、人前での態度、ふるまいです。


ここでは、礼儀に反する事として不品行や、性的な問題なども挙げられます。

今でいう「ハラスメント」をしないということです。


自分自身がしないということだけではなく、相手が行っている不正、つまり聖書的ではないこと、聖書に反することを喜ばないことも愛です。


もし相手が罪を犯しているのならば、その罪自体に私たちは喜ぶべきではありませんし、むしろ相手が正しい道に戻れるよう、神様が喜ぶ姿に変えられるように努めるべきです。


ここでの「真理」は、義と霊的に清いこと、つまりは神様の中で正しく、霊的であることを喜ぶべきだと教えています。





④ 自分のやり方、自分を優先しない

日本語の聖書では、「自分の利益を求めない」と書いてありますが、ギリシャ語には実は「利益」という言葉はなく、「自分の」とまでしか書かれていないのです。


つまりは「自分のもの」を求めない、言い換えると自分のやり方、自分を優先しないということです。






⑤ 怒らず、人のした悪を思わない

ここで「人のした悪を思わない」とありますが、ギリシャ語では、「人のした悪を数えない、記録しない」という意味です。


私たちは よく「この人にこんなことされた」「昔もこんなことしたよね」と相手がした悪いことを心の中で記録しがちです。


でも、人を愛することは、その人がした悪いことを心の中で記録せず、数えないことです。

罪は悪いことですし、犯すべきではないのですが、いつまでも人の罪を私たちが覚えて記録しておくべきではないのです。


神様も罪自体は全く喜ばないですし、私たちが罪を犯さないことを願っていらっしゃいますが、私たちが犯した罪をいつまでも記録して覚え、ずっと責め続けることはなさらないのです。

私たちが支払うべき罪の代価をイエス様が代わりに支払ってくださったからです。


私たちにした人の悪は、私たちが記録せず、代わりにイエス様がその人の代価を支払ってくださったことを覚え、その罪を赦すべきです。






この愛の姿を全部まとめて書いてあるのが、7節です。


すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

この愛の姿ですが、私たちの実際の生活の中で一番想像しやすく、似ている姿は、“赤ちゃんへの母の愛” です。


お母さんは赤ちゃんと共に過ごしながら、その赤ちゃんが泣きまくったり、変えたばかりのおむつにうんちをしたりしても怒らず、そのことを覚えて責めず、それでも赤ちゃんにやさしくし、大切に接するのです。


夜泣きをしてあまり眠れなくても赤ちゃんをあやしますし、それでも赤ちゃんの面倒を見ますし、礼儀に反するようなことはしません。

お母さんはいつも自分のことは優先せず、赤ちゃんを優先して赤ちゃんのことを思います。


その赤ちゃんのためにすべてを我慢し、その赤ちゃんが元気に大きく育っていくことを信じ、期待し、何があっても耐え忍びます。

この親の赤ちゃんに対する愛が、聖書で書かれている愛の姿に一番近い身近な愛の姿です。



また、この世で完全な愛を見せたのは一人しかいません。

それはイエス様が私たちに向けた愛です。


イエス様が私たちを愛したその姿、その愛の形はここで書かれているのにすべて当てはまります。


聖書で書かれているイエス様の姿を見ることによっても、愛がどういうものであるかを私たちは知ることができるのです。


その愛を私たちも実践していかないといけないのです。

なぜ私たちは周りの人を愛さないといけないのでしょうか。


彼らが私たちによくしてくれたからですか。

家族だからですか。


何かをしてくれたから愛すのではなく、その隣人を愛することは神様が私たちに与えた一番大切な命令だからです。


【マタイの福音書22章35-40節】

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


私たちが周りの人を愛す理由は、その人がどうとか、何をしたからとかではなく、神様がそのように私たちに求めているからです。


神様が私たちを愛してくださったのも同じです。

神様が私たちを愛すと決めてくださったから、私たちが罪を犯し、どんな姿であったとしても、私たちを赦し、愛し、信じて待っていてくださるのです。



私たちも神様が私たちにしてくださったように、周りの人を愛すべきなのです。


完全な姿ではないけれども、少しずつキリストの姿に似たものになること、そのためには何よりもキリストが私たちに一番大切だと教えてくれた「隣人を愛しなさい」ということを実践することが大切なのです。


【第1ヨハネ4章7-11節】

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

アーメン (=゚ω゚)人(゚ω゚=)


2021.5.23
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愛を見せなさい

テーマは 『 愛を見せなさい 』 です

【ヨハネの福音書14章21節】

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」

男性は愛を見せることがあまり上手ではないところがあります。


“言葉で言わなくても見たら分かるだろう” と勝手に思います。

女性は度々「愛している」という言葉を聞きながら、相手の愛を確認して幸せを感じ安心感を得ると言われています。

それは別に男性を疑っているわけではないです。


夫は、妻が愛のことばを言ってほしいと言われると、うっとうしいと思いますが、女性の心理を知って 理解するのが良いですね。


女性は愛されたい気持ちが強いので 愛を確認したいですし、男性は尊敬されたい思いが強いので 愛のことばよりは 尊敬のことばに感動するそうです。


イエス様は男性でしたが、やさしく愛をよく現していました。
心がとても温かい方でした。


愛は、無言で また何もしなくても感じるものでしょうか?


神様さえも私たちを無言で何もせずに愛したのでなく、行動で愛を現しました。


愛が本当にあるならば、それは必ず見える形で現れます。

ですから神は “愛を見せなさい” と語りました。


イエス様の告別メッセージには、特に “愛” に関することばが多かったですし、それが重要なテーマでした。


本文でも「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」と語りました。



また、次の箇所にはこのように語っておられます。


【ヨハネの福音書13章34節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

【ヨハネの福音書14章15節】

もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

【ヨハネの福音書14章23-24節】

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

【ヨハネの福音書15章12節】

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

イエス様はこのように “愛すること” が新しい戒めであると明確に教えて下さいました。


私たちは 愛し合うという新しい戒めを、どれほど守っていますか?


さらに、“神を愛すること”、“互いに愛すること” は切っても切れない関係であることが次の箇所に書かれています。


【第1ヨハネ4章7-16節】

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

愛を軽く考えてはならないことが、これらのことばでも分かりますね。


愛はことばだけで伝わるのではなく、イエス様を愛する人は主の戒めを守ることで、主への愛が証明され、互いに愛することで神への愛がその人の中にあることが証明されます。


愛は、いのちある種です。

蒔かないと実が結ばない種です。


主の名によってどんなに素晴らしい働きをしても 愛が抜けてあるならば、いのちの実がない葉っぱばかりの働きになってしまいます。


それは実を結ぶことを期待する主を裏切ることになります。


【第1コリント13章1-3節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。

働きと賜物も重視しますが、それを価値あるものにするのは “愛” です。

愛のないものは主が受け取らないです。

この世の評価は すべて結果ですが、主の評価は “愛があるかどうか” です。


なぜ主は、愛で評価をするのでしょうか?

愛は結果ではなく “方向” だからです。


結果ばかり考える人は、目指す方向が “結果” ですから、働きや賜物を重視し、そこにいつも目を向けます。

ですから確かに結果はついてくると思います。


しかし主を愛する人は、愛の対象である “主” に目を向けます。

つまり 愛の方が働きよりも優先です。


ですから、いつも目も心もイエス様に向けます。
その人たちは、イエス様から目を離しません。



【ヘブル12章2節】

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

このように私たちがどこに目を向けるべきかを教えて下さいました。


愛は、愛の対象に関心があり、そこにすべてを向けます。

主がそのようにしました。


働きよりは 人に関心を示し、人を愛することがいつも優先でした。

私たちもそうあるべきであると主は教えました。


マリヤとマルタ姉妹のことは皆さんも知っています。

マルタは働き者です。
しかしマリヤは怠けているように見えました。


なぜならマルタは忙しく回っているのに、マリヤはイエス様の足元に座ってイエス様を見ながら話を聞いていたからです。


手伝わないマリヤを見て、マルタは腹が立ってイエス様にその不満をもらしました。

しかしイエス様からは意外なことばが返って来ました。


【ルカの福音書10章41-42節】

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

多くのクリスチャンが“マルタ状態”かも知れません。


熱心な人は主のために何かをしようとあれこれとやりますが、それが段々しんどくなり、主に会うと文句を言います。


ある人は、自分の仕事や遊びが優先で主と会う約束をいつも破ります。

礼拝や祈りの時間は主と先約した時間です。


しかし、よく破るのでイエス様はその人に会えないです。


イエス様は愛する人を待っているのに、その人が来ないと寂しい思いをします。


主が一番願うのは、私たちが主を愛することです。


そして主との時間を大切にし、主のことばに耳を傾けることです。

そして聞いたことば通りに行動することです。


これが主を一番喜ばせることです。


主を愛する時間もない人は、主を忘れ、いつか主も「あなたが誰なのか知らない」と言います。


いつも主を愛して共にいますか?
それとも忘れていますか?遠く離れていますか?


聖書でマリヤとマルタの姿を見ても、マリヤの方が主への愛が強いように見えます。


主を愛するのでイエス様から目を離さないでいましたし、主のことばは彼女には一番のごちそうでしたので、みことばを消化していました。


主を愛する人は 主の戒めをないがしろにせず守ります。

それは当然ですね。






ベロニカという女性が主の恵みによって地獄と天国を見学しました。

地獄に多くのクリスチャンがいる姿を見てとても疑問でした。

クリスチャンがいるとは思ってもみなかったからです。


それで 主にその理由を聞きました。


主の答えは「彼らはわたしを信じてはいたが、わたしのことばに従って生きることはしなかった。
多くのクリスチャンが教会の中、家族の前、知り合いの前だけおとなしく行動しているが、彼らは自分自身をいつも騙しながら生きているのだ。
私の父の目はすべてを見ているし、どこでもすべてのことばを聞いているのだ。」でした。


形式的で愛の冷めた結婚生活のような信仰生活を 主が喜ぶでしょうか?


主がもっとも望んでおられるのは愛の関係です。

主の愛は熱い愛なので、なまぬるい愛では満足しません。

“あなたの愛を見せなさい” と言われます。


信じる者として生きることは、愛の関係をずっと保っていくことです。


愛すれば愛するほど 心も霊的にも豊かになります。

そこから多くの実が結ばれていきます。


愛は話したり、考えたり、感じたりする以上のものです。

愛の関係が必要です。


イエス様は、私たちを愛して十字架に架かると話しただけではなく、実際に架かりました。

いのちを実際に捨てました。


喜んで自分を与えるのが愛です。

私たちのために十字架を負った主が語ったことばがあります。


【マタイの福音書16章24節】

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

主を愛する者ならば 自分の十字架を負って主についていきます。


ある教会で 主の教えとは違って人間的な思いで「こんなに苦労の多い時代に 教会の中でも重たい話を聞くならば ストレスガ溜まって死にます。教会では慰めと平安と安息を得なければなりません。」といつも祝福のメッセージだけを伝えるところがあります。


主の十字架は愛です。

私たちを愛したので死にました。


私たちが負う十字架も愛の十字架です。主への愛です。


自分のストレスの方がもっと大切で、自分が負う十字架を嫌がって拒否することは 主を愛していない証拠です。


愛する人には十字架は決して重荷ではないです。

育児は大変ですが、それを重荷と思って育児を拒否するでしょうか?


大変でも子どもを愛するので犠牲を喜んで払います。

他の理由はありません。


主を愛する人は自分が負う十字架を見るのではなく、愛する主を見て、自分も十字架を負います。


イエス様に対する自分の愛に偽りがあるならば、それは愛ではないです。

愛のない者に主は分からないとまで言われました。


主を愛する者は 父なる神に愛され、イエス様にも愛されます。


愛の本質は まぎれもない愛です。

愛がないならば、それは値打ちも本質も中身もない形だけのむなしいものになります。

互いに愛することで私たちが主を愛していること、そして神を知っていることが分かります。


主を愛していますか?互いに愛していますか?
愛の実が結ばれていますか?


それとも自分だけを愛しながら満足していますか?
Σ(`□´/)/

2016.5.8
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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