からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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心配

重荷と十字架

テーマは 『 重荷と十字架 』 です

【マタイの福音書11章28-30節】

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」


本文でイエス様が招く人たちがいました。


疲れた人、重荷を負っている人たちです。

他の所ではなく、私の所に来なさいと言われました。


疲れた人たちはストレスをいっぱい抱えている人たちです。


疲れても休むことが出来ない人たちを憐れんで招きました。

重荷を負っている人たちは来て、重荷を下ろすように言われました。



イエス様は甘いことばで人を騙す方ではないです。

イエス様はやさしい方であり、真実な方ですから、主のことば通りに 主の所に来て、重荷を下ろすならば、問題を解決し 助けて下さいます。




私たちは主のことばに耳を傾けないといけないです。


イエス様は私たちに下ろすべきものと負うべきものを教えて下さったのに、いつも人間は反対のことをするので使命を果たすことも出来ず、疲れ果てた人生になります。


イエス様が負うように言われたものがあります。



【マタイの福音書16章24節】

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。


主が負わせる自分の十字架は負わないといけないです。


しかし人間は言うことを聞かないです。

下ろすべき重荷は必死に抱えているし、負うべき自分の十字架は下ろして負わないです。


両方のことばに対して不従順です。

不従順しながら「助けて下さい」と祈ってばかりです。



主が答えることが出来ないようにしておきながら、答えを待っています。

矛盾していると思います。




主のことばと反対のことをやっているのに、そのことになかなか気付かないです。


重荷とストレスをずっと下ろさず抱えていると、霊、心、肉体すべてに悪い影響が生じます。

重荷につぶされてしまいます。






負うべき十字架とは?




負うべき十字架はどうですか?


苦しいことは何でも十字架だと思ってはいけないです。

自分の間違いや罪で受ける苦しみは当然受けるべきものです。


それは十字架とは関係がないです。



十字架とは 自分の過ちではなく、他人の過ちの代償を代わりに受ける “義なる犠牲” です。


何でもかんでも主の十字架を負って苦しんでいると言うのは、自分の罪を逃れるための言い訳に過ぎません。




イエス様が義なる犠牲の十字架を負ったので、聖徒たちも義なる十字架を負ってイエス様に従うことです。


主の後について行くのが、御心なのに、十字架を負いたくないので、それは簡単に下ろします。

重荷を下ろしなさいと言われているのに、頑なに拒否して、いつまでも重荷を手放さないで抱え込んで悩んでいる人が大勢います。



なぜ従わないでしょうか?

重荷に下ろすために次のことばも助けになります。



【マタイの福音書6章34節】

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。


数十年先まで心配して重荷を抱えている人がいっぱいいます。

それは愚かな生き方です。


明日何が起こるか分からないです。

トルコで起きた地震を見ても明日は分からないです。



日々重荷を主の前に下ろして、主からの十字架を負うことです。

主が与える十字架は負いやすく、軽いと言われました。


正しく主のことばを理解して、重荷をおろして、主の十字架を負う時にたましいにやすらぎが来ます。

主のことば通りにやってみて下さい。


アーメン (・∀・)つ


2023.2.12
聖日礼拝メッセージ

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何が問題なのか

テーマは 『 何が問題なのか 』 です

【民数記13章25-33節】

四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。

そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。

彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。

ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」

そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」

彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。

そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」


真の神様に選ばれ、毎日神様の守りと助けを受けながらも、荒野でイスラエルの民が見せた姿はいつもとんでもない不信仰の姿でした。


目の前で多くの奇跡を行った神様を見ながらも、なぜ彼らは神様が喜ばない姿しか見せなかったでしょうか。


何が彼らの問題だったでしょうか?

自分たちの姿もそこにあります。



今日の聖書のことばに彼らの問題が見えてきます。


まずは神様を問題よりも小さく見たことでした。


心配、恐れ、不安になる理由は何でしょうか?

神様が共にいるのに、なぜ私たちがそのような思いに悩まされますか?


神様を小さく見るからです。


神様を大きく見るならば、問題は大きく見えないです。




聖書には神様を問題よりも大きく見た人たちが出て来るし、問題を神様よりも大きく見た人たちも出て来ます。

ダビデとゴリアテ、そしてサウル王と勇士たちの場合もそうです。


神様を大きく見たダビデの目に、ゴリアテは巨人ではなく 小さい犬にしか見えませんでした。


また否定的なことばが問題です。

否定的なことばは、神様のことばを信じないので出てきます。


『入れません、行ったら死にます』と否定的なことばを言った者たちは、カナンの地に入れず、荒野で死にました。


良い日を見たい人は、信仰をもって肯定的なことばを使わないといけないです。

信仰の人パウロはこう言いました。



【ピリピ4章13節】

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。


伝道に行くと、いつも目の前に妨害する勢力が城壁のようにそびえていました。

しかしパウロは自分の力では出来ないけれど、神様が与えて下さる力によって出来ると信じて突破しました。


『出来ない、死んでしまう』と口癖のように言う者は、蒔いたとおりに刈り取ります。



神様がどんなに良いものを与えようとしても、否定的なことばかり言う者は良いものを受け取ることが出来ないです。


信仰のことばを語り、神の約束を思いながら夢見るならば、そのとおりになります。








また信仰がないのが問題です。

信仰がなくては神に喜ばれることが出来ません。


信仰があるならば神の約束を信じ、神様がそのことを必ずなさると信頼します。



信仰の人は現実を見て、それに信頼する人ではないです。

信仰の人は現実主義者ではないです。


現実の上で働く神様を見て信頼して歩みます。

約束を守り、奇跡を行い、不可能がない神様から目を離しません。



不信仰な人は、それらのものをすべて後ろに投げて現実しか見ないです。

自分の判断に頼り、自分で決めてしまいます。


そういう姿を見て、主は『不信仰な世の中だ、信仰の薄い者たち、信仰がないのはどういうことか』と言われました。


信仰があれば平安であり、多くのものを受けたはずなのに、信仰がなくて失ったものは多いです。



不従順も問題です。

心が頑なで、高慢な者、自分で決める者は、神のことばを聞こうとしません。


「従います」と言いながら、後で心を変えて不従順する者が多いです。

様々な理由と言い訳を言います。


不従順には刑罰が伴いますし、祝福がありません。








イスラエルの初代王に選ばれたサウル王は謙遜な者でした。

しかし王になってから変わりました。


彼の不幸は、神のことばに不従順した時から始まりました。


神の霊を受けた者が不従順した時から悪霊に悩まされる者になりました。

神を恐れなくなった時から人を恐れる者になりました。


神が喜ぶことをした者が不従順した時から悪いことをする者になりました。



次々と問題が起こり、結局は神様に捨てられ、不幸な人生になりました。


祝福を与え、幸せにしようとどんなに神様が願っても、私たちが問題の原因を作るならば、祝福ではなく、問題の中で苦しむ者になり、不幸な者になります。


自分たちの中にこういうものがあるかどうかを調べる必要があります。


アーメン (´;ω;`)


2022.5.22
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二つの恐れ

テーマは 『 二つの恐れ 』 です

【イザヤ書41章10節】

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。


2019年から始まったコロナは未だに終わらず人々を苦しめ、世界の中に様々な問題を起こし、何一つ良いことがないです。


何よりも人々に恐れを植え付けました。

病気や死だけでなく、あらゆる不安や恐れをもたらしました。


そして2022年は誰も予想しなかった戦争が始まり、戦争の恐れがさらに加わりました。

そこからさらに悪いニュースが入って来るので、人々は不安を感じ さらに恐れが大きくなりました。


これらの恐れはよくない恐れです。

このような恐れは私たちにとって何一つ益になるものがないです。



有害な恐れは、私たちが克服しないといけない恐れです。

「第2テモテ」に出て来る恐れと臆病な思いは、神から来たものではないです。



【第2テモテ1章7節】

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。


臆病と恐れの霊が入ると 人を恐れ、環境を恐れ、将来を恐れ、明日を恐れます。


悪いことが自分に起こるのではないかと、いつもびくびくします。

心が休まらないし強いストレスを感じます。


この恐れを克服するためには神を完全に信頼し、神を愛さないといけないです。



【第1ヨハネ4章18節】

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。


私たちは完全な者でもなく弱い存在です。

それを知る神様は聖書全体を通して『恐れるな。』と励ましておられます。


神様は、神を愛し 信じる者を守ると約束して下さいましたので、そのことばを堅く信じることです。


イエス様は、恐れる者たちに「マタイの福音書」で次のように言われました。



【マタイの福音書10章31節】

だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。


自分の弱さや、必要が満たされないかも知れないと恐れてはならないと命じました。


詩篇の中に実際 信仰の人たちが、どのようにこの恐れと戦ったのかを見せています。



【詩篇56編11節】

私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。


恐れがある状況の中で、神に信頼しながら恐れを克服しました。

完全な信頼がないと、恐れはいつでも私たちの心の隙間から入ってきて私たちの心を支配しようとします。


一番暗い時にも神に目を向けること、主がよくして下さることを信じるのが信頼です。



このような信頼は神を知る時に、また神が真実な神であることを知る時に生まれます。

ヨブが恐れ多い環境の中で どのように神を信頼したでしょうか。



【ヨブ記13章15-16節】

見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。

神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、神の前に出ることができないからだ。


このように神に信頼したからヨブは恐れに潰されず、恐れを克服して神の守りと祝福を受けました。


神に信頼するのを学ぶならば、人も環境も敵も恐れなくなります。








次に私たちに必要な恐れがあります。


この恐れは私たちに益をもたらす恐れです。


すなわち、“神への恐れ” です。

怖いと思うことではなく、敬うことです。


神の力、能力、栄光、怒りを軽く考えるのではなく、恐れおののく時に 多くの祝福と有益があります。

主を恐れる時に受ける祝福に何があるでしょうか?



【箴言14章26-27節】

力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。

主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。


【箴言19章23節】

主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。


主を恐れる者には 多くの祝福が約束されてあります。


しかし、愚かな者は 主を恐れないので滅びます。


主を恐れる人に、主は御使いたちを遣わして守って下さいます。

避け所になって下さいます。


悪い恐れで日々不安と心配の中で生きるのではなく、主を恐れて神の祝福と守りを受ける者になりましょう。


アーメン v( ̄∇ ̄)v


2022.5.15
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十字架のイエスをののしった人たち

テーマは 『 十字架のイエスをののしった人たち 』 です

【マタイの福音書27章37-44節】

また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。

そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。

道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、

言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

【ルカの福音書23章35節】

民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」


いつも主がおられる所にはたくさんの人々が集まっていました。


教えを聞くために、癒してもらうために、奇跡を見たいために、そして訴える口実を見つけるために群衆が集まっていました。


しかし、その時は誰一人イエス様に向かってののしった人はいませんでした。

「おまえ」と呼んだ人もいませんでした。

「主よ、ダビデの子よ。先生」などと呼んでいました。


その人たちが一夜にしてイエス様をののしる人々に変わってしまいました。


イエス様は肉体の苦痛の中でも彼らが吐き出す ののしりのことばを聞いていました。

それが最も辛かったと思います。



自分に対して完全に背を向けた人たち、そして十字架の意味を知らない人たち、主の苦しみに共感出来ず、さらに侮辱する人たち、恵みを忘れた恩知らずの人たち。


それを眺める主の心はどうだったでしょうか。

彼らを見て主は言われました。


「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

主の口からは祈りのことばが出ました。


「自分で何をしているかわからない人たち」が哀れでした。


彼らが嘲り、ののしるつもりで言った次の言葉に主の正体が現れていました。


「ユダヤ人の王イエス」、「神殿を壊して三日で建てる人」、「神の子」、「他人を救った人」、「イスラエルの王」、「彼は神に拠り頼っている」、「神のお気に入り」、「私は神の子だ」、「神の子キリスト」、「選ばれた者」


そのままイエス様を信じればみんな救われるのに、信じず自分たちの救い主をののしっていました。


ですから主は「自分で何をしているか分からない」と言われました。

その通りに無知で愚かで悟りのない者たちでした。



後になった1人だけがまともになり、恵みを受けた人がいました。

主の右側にいた犯罪人です。


あいかわらず主をののしっている犯罪人に対して、次のように言いました。


【ルカの福音書23章40-43】

ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

ののしった時とはまったく違うことばを語りました。

「イエス様」と丁寧なことばで言いました。


主はすぐに彼に言われました。

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」


1人の魂が立ち返ったことで、主はすごく喜んだと思います。

悲しみいっぱいの主の心を神が慰めて下さったと思います。



ここで私たちは 真理を知っていながらも、信じることもなく、主をののしった人たちがなぜそのような愚かなことをしたのかを考える必要があります。


私たちもそのようになる危険性がいっぱいあります。


主はそうならないように すでに教えて下さっていましたが、それを心に留めなかったために失敗しました。


どのような注意点を主が与えたでしょうか?




惑わされないように




【マルコの福音書13章5-6】

そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。


「宗教家に惑わされないようにしなさい」 と言われました。


イエス様のことを悪く言って人々を惑わした者たちはみんな宗教家でした。

その者たちが無知な群衆を惑わしました。


自分たちが人を惑わしたのに、反対にイエス様のことを「人を惑わす男だ」とピラトに言いました。


終わりの時も宗教家が人々を惑わして主を裏切るようにします。


祭司長たちは自分たちの利益のために人々を惑わしイエス様を十字架につけました。




心配したり、恐れたりしてはならない




【マルコの福音書13章11節】

彼らに捕らえられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。

人々は権力を恐れます。

自分のいのちのことも心配します。


それで迫害があると信仰を捨てる人が多いです。

人々は権力を振るう人の前ではおとなしくなり、言われた通りにします。


権力に服従したり妥協する教会や信徒も迫害の時に多くなります。




忍耐しなさい




【マルコの福音書13章13節】

また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。


信仰の試練に耐えられないと、主を裏切るようになります。


どんなに善を行っても、隣人を愛しても、真理を行う人は 闇の中で生活する人に憎まれます。

彼らは良いことや愛することに対して攻撃するのではなく、真理に従って生きるので攻撃します。


闇と光は一致することが不可能です。

ですから闇が光を憎みます。


誰かの支持を受ける時もあれば、誰かの憎しみを受けることもあります。

そこで耐えられない人は信仰生活が難しくなります。



終わりの時に、自分の信仰を守りながら、主を愛していくためには、主のことばを心に留め、そのみことばをよく黙想し、神の約束を信じ、日々神様と交わりをすることです。


それを通して霊的力を蓄えることです。

そして神の守りと導きも信じることです。


信仰を守り通すために、日々何をしたら良いかを考えながら忠実に生きましょう。
アーメン (。・ω・)ノ゙


2020.4.5
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いっさいの思い煩いを主にゆだねる

テーマは 『 いっさいの思い煩いを主にゆだねる 』 です

【第1ペテロ5章7節】

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

思い煩いは 現実に問題があるからというより、霊的問題のほうが大きいです。


心配、恐れ、悩みなどは私たちを滅ぼそうとする “サタンの仕業” です。

サタンはいつでも人々を騙し、惑わし、盗みます。


ですからサタンに騙され、思い煩い、恐れるならば、それは信仰が薄いことです。


思い煩いから解放されるために、私たちが取るべき態度があります。




苦難や心配事があった時の態度




苦難にあった時に人々が見せる態度は色々あります。


そこから必死に逃れようとする人、まるで この世が終わったかのように心配で眠れない人、
苦難は私を強くするための神の良い計画だと思い、さらに神に近づき、自分の重荷を主の前に下ろし、思い煩いをいっさい主にゆだねる人がいます。


一番良い態度は、いっさいの思い煩いを主にゆだねる事です。


主の荒野の学校を卒業するならば、次には主が備えた祝福があります。




神を信頼して、いっさいの思い煩いをゆだねる




信仰を働かせることは、真理である神のことばを信じることです。


人々は思い煩いがあると一人で悩んだり、また他人に頼ろうとします。

自分の思い煩いを人にゆだねようとします。


しかし、この姿こそ信仰が薄いと言われる姿です。


私たちは人を信頼することが愚かなことであると知っていながらも、人に信頼して失敗することが多いです。


【エレミヤ書17章5-8節】

主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。

そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。

その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。

思い煩いから解放される一番の方法は 神に頼り、神を信じることです。




神の力を信じる




【マタイの福音書6章27節】

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

私たちは一生懸命 心配しますが、主はそれを見て 心配が無用であることを教えています。

そして主の思いを語りました。


神はすべてをご存知で、私たちを愛し、私たちに良くして下さる方です。


【マタイの福音書6章30-31節】

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

私たちには出来ないことでも 神には出来ます。


私たちには難しいですが、神には簡単です。


私たちには複雑過ぎることも、神には単純です。


私たちには答えが見つからないですが、神は答えを持っておられます。


私たちは心配しても何一つ変えることが出来ませんが、神にはどんなことでも変えることが出来る力があります。



ですから神は、私たちが神の力を信じていっさいの思い煩いを主にゆだねることを願っておられます。

私たちが信仰によって思い煩いを主にゆだねるならば、何でも主はして下さいます。
アーメン (*´∇`*)


2019.3.24
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クリスチャンの経済生活

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【マタイの福音書6章30-32節】

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、まして、あなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

何を食べるか、何を飲むか、何を着るかを心配しているのは種類が多いから選ぶことに悩んでいる姿を語っているのではなく、経済的問題を抱えている人がいるということを言われています。

クリスチャンの中でもお金の心配をしている人がとても多いです。

実際にお金を持っている人も心配をし、持っていない人も心配をしています。


主は一言で心配している人に“信仰の薄い人たち”と言っておられます。

その理由は神様に対する信仰、信頼が足りないからです。

神が養っておられることに対して信頼しきっていない信徒たちが多いです。


神様が与えて下さると言っても、それに対して疑っている人も多いのです。

「来年はどうしよう。再来年はどうしよう。お金はどんどん消えていくし、入ってくるところもないし、助けてくれる人もいないし、貯金もないし、これから先どう生きたら良いの?」と先のことが心配でたまらない人たちもいると思います。


しかし、神様はその人達に対して「心配するのはやめなさい。」と語りました。
その理由は、不信仰から心配が出るからです。

神様が教えるクリスチャンの経済生活を正しく学べば、私たちは不要な心配から解放されます。

もし学ばないならば、いつまでも計算をしながら心配から逃れることはできません。


聖書の中で、神は多くの場面で神を信じる人たちに関わりながら、その経済生活を支えているのは、神ご自身であることを見せています。

それをこれから学びたいと思います。




モーセとイスラエルの民から学ぶ





【民数記11章13-15節】

どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。

私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。

私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

モーセの心配と重圧がどれほど大きかったのか、彼は神に向かって「どうか私を殺してください。」と祈りました。

そのモーセの言葉を聞いて、神様は肉を与えると語りました。


【民数記11章18-20節】

あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった』と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。

あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、

一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう』と言ったからだ。」

そのことばを聞いて、モーセは安心して喜んだでしょうか。

そうではなく、心配する様子が見えました。次の箇所です。


【民数記11章21-22節】

しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。

彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」

モーセは現実を見て、そんなことで実現されるはずがないという不信仰がありました。

それに対して神が語ったことばが次の箇所です。


【民数記11章23節】

主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」

そして、その後はどうなりましたか?
主のことば通りになったでしょうか?答えは次の箇所です。


【民数記11章31-32節】

さて、主のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営の回りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。

民はその日は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、――最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた――彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。

ここで私たちが学ぶことは、人間の思いと、神の思い、人間の計算と神のやり方はまったく違うことに気付くことです。

モーセは羊の群れ、牛の群れ、海の魚と言いましたが、神様はまったく違うやり方で 海の向こうからうずらを運んできました。

それはモーセの考えを超えて働く神の御業でした。


私たちは神様がしようとすることが分かりません。

私たちの計算は、神様の計算とは違うので(私たちの思いは)何の役にも立たず、反対に心配、疑い、不信仰を生じさせるだけなので、それらを捨てなければなりません。


『信じます。主のおことば通りになりますように。』と信仰によって神に期待しながら祈り続けることです。




エリヤの経済生活から学ぶ





【Ⅰ列王記17章1-16節】

ギルアデのティシュべの出のティシュべ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

それから、彼に次のような主のことばがあった。

「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。

そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏(からす)に、そこであなたを養うように命じた。」

それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。

幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。

すると、彼に次のような主のことばがあった。

「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」

彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私はパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少し油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」

エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」

彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。

エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。

エリヤのこの時の経済状態は無一文でホームレス状態でした。

さらに彼を助ける人は誰もいなく、反対に命が狙われる立場にいました。


そのエリヤにあるものは、神の約束だけでした。
神が養うという約束だけが彼に保証されていました。


そして人間では考えられない方法を、神様はここでも使いました。

この時、神によって用いられたのは、幾羽かのカラスと 一握りの粉と少しの油しか持っていない ひとりのやもめでした。

本来 カラスは人間が食べ残して捨てたゴミを拾って食べます。
最近は餌がなかったので100羽以上のカラスが死んだニュースもありました。


それなのに神が働くと、カラスがパンと肉とを運んで来て、人間を養う鳥に変化しました。

そして社会の中でも一番弱くて貧しいやもめを使って養うことは人間としては考えられない方法ですが、これが神様のやり方です。

人間は、持っている者には養う力があるので、当然そこに期待を寄せます。
しかし神様は、そのことを知っておられるので、その方法は使いません。


私自身もこれは経験済みです。
人間的に期待した所からは得たことが一度もありません。いつも有り得ない所からの助けがありました。


エリヤは神に完全に頼って何も心配せず、経済的なことは神様に任せました。

頼ることは神から言われたことに対して何も言わず、その通りにすることです。


モーセは神のことばに反論しましたが、エリヤは一言も反論せず 神から言われた通りにして神によって養われました。

3年6カ月の間、それも自分だけではなく、やもめとその家族までも養われました。


その日、その日 食べるものが与えられました。(そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならなかった。)




やもめとエリシャから学ぶ





【Ⅱ列王記4章1-7節】

預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」

エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」

すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。

家で入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」

そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。

器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。

彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

たくさんの負債を抱え、2人の子どもが奴隷にされる運命になり、持っているものは何もなく、油のつぼ一つしかないやもめで、本当にどうにもならない状況です。

食べ物も持ち物もなく、あるのは借金だけです。


皆さんなら、このような状況でどうしますか?無理心中ですか?

経済的理由で無理心中した人たちは、今までたくさんいます。
どうにもならないという絶望感でそこに至ります。


でも彼女は自分の苦しい状況を神の人エリシャに話しました。

エリシャから出たことばは「何をしてあげようか。あなたには家にどんな物があるか言いなさい。」でした。


そして彼女が持っている一つのつぼ、また彼女が隣の人みなから借りて来た からの器に神の奇跡が起こりました。

ここで私たちは「これで何になるのか」という小さなものが“祝福の始まり”であることに気付くことです。

まずエリヤの時のやもめは一握りの粉と油を ささげました。


神に種を蒔くと、パン一個が3年6カ月の食べ物の祝福になりました。
捧げなさいと言われたものを捧げて祝福を受けました。

エリシャ時代のやもめは信仰によって、からの器を用意しました。

すると抱えた問題をすべて解決できる油がすべての器にいっぱいになりました。


捧げるものがなかった このやもめは言われた通りに信仰の器を用意したので祝福されました。

私たちは2人の最も貧しかったやもめたちが受けた祝福を見て、無いから捧げないのではなく、無いからこそ蒔かなければならないし、そして蒔いた後は信仰で期待する大切さを学ぶことです。


神様はやもめ、みなしごに対してあわれみ深い方です。


【詩篇68篇5-6節】

みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。

神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。



中国奥地へ宣教に行った宣教師から学ぶ




ハリソン・テイラーは宣教師として信仰によって献身しました。

しかし働きはどんどん増え、協力者と宣教費が必要でしたが、彼を助ける人は誰もいませんでした。


彼の精神的負担は大きくなり、夜も眠れなくなり、ついには神経衰弱にかかるほどになりました。

そんなある日、彼はヨハネの福音書15章5節を読みました。


【ヨハネの福音書15章5節】

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

このことばが心にぶつかりました。
その瞬間、急に太陽の光が当たったように、彼の心が明るくなり始めました。

彼は“主はぶどうの木で、私はその枝であるのに 私が心配する必要があるのか?主が水分と栄養を与える木である。私はそれを受け入れれば良いことで、自分がそれに水分と栄養を与えようと心配したことは何と愚かなことであったのか。主よ。この時間からは心配や思い煩いを主に委ねます。私を養ってください。”


このように彼は主の前にひざまずき、自分の愚かさを悔い改めながら問題を主に委ねました。

彼はその後から祈る度に答えられ、成功的に中国宣教ができました。


イエス・キリストを信じる私たちは、私たちの生活現場で起こるすべての問題だけではなく、私たちの経済もすべて神に委ねる訓練をしなければなりません。
(。・ω・)ノ゙



【ピリピ4章19節】

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。


【マタイの福音書7章9-11節】

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

また、子が魚を下さいと言うのに、 だれが蛇を与えるでしょう。

してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。 とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

2015.1.11
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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