からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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救いの真理

テーマは 『 救いの真理 』 です

【エペソ2章1-9節】

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。


『あなたは救われましたか?』 と聞かれたら、どのように答えますか?

自分をクリスチャンだと思っている人は、すぐに『救われました』と言わないといけないです。


『救いとは何ですか?』と聞かれたらどう答えますか?

救われたならば きちんと説明をしないといけないです。



救いとは、イエス・キリストを信じ、受け入れる時に神の賜物として受けるものです。


救いは、人にとっていのちと同じです。

救われることによって得るもの、変わるものがあります。


  • 罪過の中で死んでいた者がイエス・キリストによって永遠のいのちを得ます
  • 罪の赦しを受けます。そして義と認められます
  • 聖霊を受け、聖霊の証印が押されます
  • 生まれ変わり、神の子どもになります
  • 天国の民になります


このように救いの中には霊的祝福がたくさんあります。


このような素晴らしい救いを受けたい人は、聖書の真理を信じないといけないです。

次のことを信じていますか?



『神は創造主であり、今も存在している方、イエス・キリストは神の御子で、罪のない方であること。

十字架の上ですべての罪人のために代わりに死んだこと、そして三日後によみがえり、再び来られる方であること。


聖書は神のことばであること、キリストだけが唯一の救い主であること、また良い行いや人間の努力だけでは天国には入れない』 ことを信じないと、救われたとは言えないです。





なぜ救いは必要か




1.すべての人間が “罪人” であるからです


【ローマ3章10節】

「義人はいない。ひとりもいない。


【ローマ3章23節】

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、


自分に対してどのように思っていますか?


『罪人だ。罪を犯したことがない。良い人間だと思う。良心的に生きている。』






2.死んだ後にさばきがあるからです


【ヘブル9章27節】

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、


これは神が人間に対して定めたことです。


しかしあなたは死後に対して どのように思っていますか?


  • 神のさばきがある
  • すべてがすでに終わった
  • 死んでみないと分からない
  • 考えたことない





3.罪に対する厳しい報いがあるからです


【ローマ6章23節】

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。


ここで言う「死」とは、“第二の死” と言われるものです。


【ヨハネの黙示録21章8節】

しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」


地獄で永遠に燃える火の池の中で苦しみ続けるのが 「第二の死」 ですから、神様は誰ひとり第二の死を受けて苦しんで欲しくないので、『みんなが救われて欲しい』 と願っています。



愛の神様は、罪人たちにその愛を実際に見せました。

その愛を知ることが出来るならば、救いを受けるために主を信じるでしょう。


【ローマ5章6-9節】

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。





4.どのような人が永遠のいのちを受けますか?


【第1ヨハネ5章11-12節】

そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。


救いを受けるのは、死んだ後では間に合わないです。

救いは生きている時だけに限られてあります。


もしこの内容を読んで、救いを受けたいならば、イエス・キリストを自分の救い主として信じて、口で告白して下さい。


【ローマ10章9-10節】

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。


アーメン .。゚+.(・∀・)゚+.゚


2022.7.24
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毅然とした信仰と勇気ある態度

テーマは 『 毅然とした信仰と勇気ある態度 』 です

【ダニエル書3章13-18節】

そこでネブカデネザルは怒りたけり、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来いと命じた。それでこの人たちは王の前に連れて来られた。

ネブカデネザルは彼らに言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。あなたがたは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、ほんとうか。

もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。

もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。

しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」


死の前で人間は一番弱くなります。

避けて通ることが出来ないし、命は一つしかないからです。


ですから人間は自分のいのちのためには取引にも応じます。

もちろん例外の人たちもいますが、多くの人たちは自分のいのちのために何でもします。


ここでの命は私たちの肉体のいのちです。


本文に出て来る3人は、王によって決断を迫られました。

王が造った金の像を拝んで自分のいのちを守るか、拝まないで火の燃える炉の中に入るかの選択を その場でしなければなりませんでした。


目の前に燃える火が見えます。



彼らはすでに自分たちの意思を表しましたが、それを聞いて王は怒りに燃えて、わざわざ彼らを連れて来るように命じ、もう一度彼らに決断を迫りました。


3人にとっては生きるチャンスも与えられてありました。

金の像に拝めば何も問題はなかったのです。


しかし3人はそれを拒んで死ぬ道を選びました。



こういう状況の中で、あなたならば どちらの選択をしますか?


神の選民である多くのユダヤ人は 死にたくないので神の命令を無視して、王の命令に従いました。

3人だけが残りました。


王は彼らが自分の前ならば恐れて、命令に従うと思ったかも知れないです。


しかし王は彼らの心を変えることが出来ませんでした。



彼らはまったく恐れることなく 反対に王に対して、『私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。』と、はっきりと言いました。


『これは私たちと神の間の問題であって、あなたが相手ではありません。』という意味もあると思います。








神の命令に従うか、人間の命令に従うかの信仰の問題です。


こういうことは私たちの普段の生活の中にもあります。

些細なことから大きなことまで色々あります。


3人はすでに生活の中でも、神の命令に従うことを第一にしていました。


【ダニエル書1章8節】

ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。


この時、ダニエルと3人の友は同じ決心をして、自分の身が汚れないようにしました。


自分たちが戦争に負けて捕虜の身になりましたが、心まで相手の奴隷にはならなかったです。


どこにいても神の選民であることを忘れず、神の命令に従いました。

本物の信仰を彼らは持っていました。



ですから神への信仰を守るために、自分のいのちを惜しまずにささげることに戸惑いはありませんでした。


『どうしたらいいですか』と神に祈りもしませんでした。

神の命令に背くことはしないと決めていたからです。


彼らは永遠のいのちも、命の主人は神であることを知っていました。



状況によって変わる信仰は、信仰ではないです。


信仰は それを貫く時に価値があります。



三人は普段より七倍も強くした火の燃える炉の中に投げ込まれましたが、彼らの毅然とした信仰と勇気を見た神は、彼らを守って髪の毛一本も燃えることがないようにしました。

このことが王にショックを与え、王はイスラエルの神に栄光をささげました。


後にダニエルも祈りを禁じた法令が新しくできたことを知っても、いつものように日に三度祈ったことで獅子の穴に投げ込まれましたが、そこでも神は彼を守って下さいました。



信仰に戦いを挑むものはいつもあります。


自分でいのちも生活も守ろうとするならば、簡単に妥協の道を選びます。


一瞬悩むとは思いますが、都合の良い言い訳を見つけては神の命令に背きます。

妥協することは信仰を守る態度ではないです。



信仰には妥協がないので、3人はいのちを懸けました。


毅然とした信仰と勇気ある人たちが使うことばは いつも信仰のことば、肯定的なことば、大胆なことば、感謝のことばです。


普段からもある程度、使うことばによって信仰があるかないかの分別が出来ます。

信仰ある人の生活スタイルは次の聖句にある生活です。


【第1テサロニケ5章16-18節】

いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。


さらに しっかりした基準も持っています。

神を喜ばせることと、神のことばに従うことを優先にします。


ですから 彼らの信仰には迷い、疑い、恐れ、不従順がありません。

神の目はいつもこのような人たちを見ています。


そして神の御手の中で守って下さり、天国は彼らのために用意されてあります。



妥協するようにと誘惑するものが今の時代たくさんあります。

目を覚まして正しく分別して信仰を守りましょう。


アーメン (。・ω・)ノ゙


2022.2.6
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私の証の主題は何か

テーマは 『 私の証の主題は何か 』 です

【詩篇27編1-14節】

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。

今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。

聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。

あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。

どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。

私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。

主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。

私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら──

待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。


詩篇を読んでいると、ダビデほど多くの苦難を受けた人も少ない気がします。

苦難の津波に何度も襲われた人生でした。


しかし彼が最後まで信仰の道を歩むことが出来たのは、苦難に会う度 神に苦難を訴えながら助けを求めました。


すると神は、彼の切なる訴えを聞いて下さいました。

祈りが聞かれると、彼は自分を助けて下さった神を証しました。


イエス様が受けた あらゆる苦難をダビデも受けました。



偽りの証人や敵対する者、理由もなく いのちを狙う者、子どもさえも自分のいのちを狙いました。

子ども同士で殺し合ったり、生まれた子どもが亡くなったりと あらゆることがありました。


ダビデが苦しみの中で神に不平ばかり言ったならば、私たちは彼の証も聞かないし、詩篇も読まないと思います。

詩篇は、ほとんどダビデの証です。


苦しみの中で神から離れず、さらに神を求めている姿、さらに愛する姿を見ました。


苦しみがあると、この世から早く消えたいと思う時があります。

しかしダビデは私たちと違って、苦しみの中で一つの願いを神にしました。



【詩篇27編4節】

一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。


自分の息子に 命と王座を狙われ、王宮を離れていた時に、このような願いをしていました。

普通ならば、自分のいのちと王座のために祈ると思いますが、ダビデは違っていました。


なぜこのような時に そのような願いを神に伝えたでしょうか?


それは彼が自分のいのちよりも王座よりも神を愛していたからです。

神を愛したので神の臨在がある宮にいたかったのです。


いつも神に祈りをささげる生活をしたので、神の所にいたいと願いました。

愛さないと共に生きることが出来ないからです。



神への愛が彼に確信を与え、どんな時にも神様に賛美をささげることが出来ました。

賛美出来ない時も、彼は賛美をささげました。


神がいつも自分の祈りに答えておられる方であると信じたからです。


ダビデの代表的な証が詩篇23編です。

すべて彼が体験した神を証しています。


暗闇の中にいたので光の主を体験し、死の陰の谷を歩いたから、いのちの力は自分から出るのではなく、神から来ることが分かりました。


悪人をさばく公義の神を体験したので、自分で復讐せずに神の手に任せました。



神がイスラエルの牧者であることを知っていたので主の導きを願いました。

そこで主を体験したから『主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と証しました。


証は自分が体験した神のことを話すことです。


アーメン (*´∇`*)


2021.12.5
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善悪の知識の木といのちの木

テーマは 『 善悪の知識の木といのちの木 』 です

【創世記2章9節】

神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。


エデンの園はパラダイスです。

最高に快適な環境です。


人間を愛した神は、人間に配慮して最高の環境を与えました。

最高に住みやすい場所がエデンの園でした。


しかし そこにずっと住みたいならば、1つの条件がありました。

それは、“園の中央にある善悪の知識の木から取って食べてはならない” ことでした。


【創世記2章16-17節】

神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」


神は、人間が自分の考えや思いで善悪を判断することを願いませんでした。

善悪の判断は神の領域だからです。


神が善悪の判断をするので、人間の善悪の判断はエデンの園には要らなかったです。


ある人たちは、人間が罪を犯したのは神のせいだと言います。

「善悪の知識の木がなかったならば 罪も死もなかったのに、そんなものをわざわざ作った神が悪い」と言います。


しかし、これはとんでもない言葉です。



罪は、善悪の知識の木によって始まったのではないです。

善悪の知識の木に対する神のことばに、人間が不従順したからです。


善悪の知識の木は、神が人間を試みるためではありませんでした。


人間に与えられた多くの自由の中で、たった1つの禁止命令に従うならば、永遠にパラダイスで神と共に祝福と平安の中で暮らすことが出来ました。



しかし人間は蛇の誘惑を受けて、欲を抑えることが出来ず、結局自分の決断で善悪の知識の木から取って食べました。


神がすでに「それを取って食べると必ず死ぬ」と強調したので、人間はそれを十分知っていながらも従いませんでした。


善悪の知識の木の実を食べたのは、人間の選択でした。

ですから不従順の罪の責任は、神ではなく、人間にあります。






罪を犯した人間を、神はエデンの園から追い出しました。

エデンの園に住む資格を彼らは罪によって失いました。


エデンの園を追い出された人間を待っていたのは、苦労と呪いと死でした。



また、それから人間は 神からではない人間の善悪の知識を土台にして すべてを考えるようになりました。


自分たちで倫理、道徳、宗教などを作りました。

善ならば祝福、悪ならば罰という救いの基準も作りました。


しかし、知らなければならないのは、どんなに善悪の基準を決めて行動しても、そこに無いのは “いのち” です。

何をしても結局 最後は死です。



神が与える命がないならば、どんなに良いことをしても滅びの対象にしかならないです。


良いことに対しても、それは神の基準ではなく、自分の基準だからです。


もしパラダイスに住みたいならば、善悪の知識の木から取って食べてはならないです。

それは今も同じです。


エデンの園には、いのちの木もありました。



命がほしい人は命の木から取って食べなければなりません。
そのいのちとは “イエス・キリストのいのち” です。


それを食べないと命はないです。


【ヨハネの福音書10章28節】

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。


イエス・キリストは、自分のいのちを与えるためにこの世に来ました。

信じる者たちに、いのちを与えると約束しました。


イエス様のいのちに、人間の善悪の知識が入る余地はないです。

いのちの木には命の実しかならないです。






神は、2つの道が私たちの前にあることを教えました。

死の道といのちの道です。


死の道は、善悪の知識の木の実を食べながら生きる道です。


いのちの道は、神の口から出るいのちのことばによって生きる道です。


【マタイの福音書7章13-14節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。


神のことばには関心もなく、自分の思いや考えで生きる人がほとんどです。


死に至らせる善悪の知識の木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするものに見えるので取って食べやすいです。

しかし、そこにいのちはありません。



神のみことばは、私たちを命の道に導くことばです。

それに従う時に死の道から離れることが出来ます。


【ヨハネの黙示録2章7節】

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』


【ヨハネの黙示録22章14節】

自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。

アーメン v( ̄∇ ̄)v


2021.5.30
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自分のたましいを愛するために

テーマは 『 自分のたましいを愛するために 』 です

【箴言19章8節】

思慮を得る者は自分自身を愛する者、英知を保つ者は幸いを見つける。

自分のたましいを愛していますか。

これは命にかかわることなので、自分の魂を愛していかなければならないです。


どうすることが自分の魂を愛することなのかを聖書のことばで調べます。




思慮と英知を得ること




【箴言19章8節】

思慮を得る者は自分自身を愛する者、英知を保つ者は幸いを見つける。



主の命令を守ること




【箴言19章16節】

命令を守る者は自分のいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ。



主を愛すること




【申命記30章6節】

あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。



自分の心を守ること




【箴言4章23節】

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。



主を慕い求める




【申命記4章29節】

そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。

アーメン v( ̄∇ ̄)v

2019.7.28
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もし愛がないならば

テーマは 『 もし愛がないならば 』 です

【第1コリント13章1-3節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

今日のことばは、心にしっかりと止めないと 後に大変なことになります。


愛がすべてのいのちの源で、愛があれば価値があり、命があるのに、愛がないなら いのちも価値もないことを教えています。


みことばを知って本気にしていましたか?
それとも、今まで頭に入れただけでしたか?


この愛の価値と重要性は すでにイエス様から聞いています。


【マタイの福音書22章36-40節】

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

このように、“大切な愛” に対して、人々は軽く考えますが、主は決して愛を軽く考えたことがありません。


いつか私たちは、主の前に立って、主から裁きを受けます。


その時、神の裁きの基準も、“私たちが神を愛したのか、隣人を愛したのか” が一番の裁きの対象になります。


そこで人々は戸惑うでしょう。

愛が裁きの対象になるとは考えなかったからです。


この世では そういうものが裁きの対象には全くならないです。


しかし神は 人の心を見る方です。

行動の内側にある目的や動機に目を向ける方です。

そして、しっかりと調べる方です。






もし、私たちが熱心に主の働きをしても、そこに愛がないならば どうなりますか。


“異言、預言、知識、完全な信仰” などは、聖霊の賜物であり、“善行、献身” などは それによって現れた実でもあります。


神が下さった素晴らしい賜物で、良い実を結ぶことは主が喜ぶことです。


主が喜ぶことをしたにも関わらず、ある人々の働きは評価されません。

その理由として挙げられたのが「愛」でした。


本文にもあるように、その人の中に愛がないならば、何の値うちもないものと評価されます。


聖徒は神の働きをすれば、当然良い報いを受けるものだと期待しますが、神は みんなが同じ報いを受けることはないと教えました。


反対に厳しい目に会う者もいることを語りました。


【マタイの福音書7章22-23節】

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

大いに期待した者たちが報われることもなく、悲惨なことに追い出されることになりました。

どのような理由で追い出されたと思いますか?


彼らに愛がなかったからです。


彼らは最初から愛がなかった者でしたか?
―― そうではないです。

彼らはみな、神を愛して神に従いました。


しかし、主の働きをしていく中で、彼らの愛が変わっていきました。

最初は主を愛し、魂を愛して一生懸命働きました。


しかし働きが続く中で、教会が大きくなるにつれて、彼らの愛が変わってしまいました。

そして心が主から離れるようになりました。


彼らは、教会や働き、自分自身をもっと愛する者になりました。

また ある者は富、ある者は世のもの、ある者は権力、ある者は快楽 を愛するようになりました。


表の働きには変化はありません。

しかし彼らは主への初めの愛から離れてしまいました。






エペソ教会に語った主のことばで確認することが出来ます。

エペソ教会は立派な働きをした教会でした。


信徒たちも熱心で、奇跡や賜物、みことばへの理解、霊的戦いなど すべてが揃った教会でした。


自分たちには 何の問題もないと思っていました。

しかし意外なことで主から非難されました。


【ヨハネの黙示録2章4-5節】

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

恐ろしいことばです。


燭台を取り外すことは、“教会を消す” という意味です。

なぜ、そこまですると思いますか?


教会はキリストの十字架の犠牲の愛によって出来た “愛の共同体” であり、神の愛を伝え、愛を実践する所なので、その力を失ったならば存在する目的がないからです。


なぜ、よく働いたクリスチャンたち、牧師たちの中で地獄に行く者がいますか?


彼らも最初は主を愛する者でした。

愛によって良い働きをしました。


しかし、途中から 彼らの愛が変わってしまいました。

イエス様よりも違うものをもっと愛する者になりました。


そして、死ぬまで それを愛し、悔い改めなかったので、彼らは地獄に行きました。

あり得ないことだと思ってはいけないです。



イエス様を一度裏切ったペテロに、再び使命を与える時に イエス様は何を彼に確認したでしょうか。

ヨハネの福音書21章15-18節 のことばの中にあります。


三度も主が彼に確認したことは、「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」でした。


主を一番に愛する心があるかどうかを確認しました。

主を一番に愛さず、働きをするならば、そこには別の目的があり、その人は結局 その目的のために働いたことになります。


ですからその働きは、主の働きにはならないので、主はそれを認めず、彼らは主とは関係のない働きをした者になります。


いま誰を一番愛していますか?

主ですか?
それとも、違うものですか ――。


この教会でも、主を愛さなくなった人たちがいます。

教会からも遠ざかりました。今、どこに向かっているでしょうか。


主を愛して奉仕をしていますか。

それとも別の目的があってやっていますか?


自分の心を点検してみて下さい。

あとで嘆くことがないように、初めの愛に戻るために悔い改めましょう。


役に立たないしもべにならないように、愛によって働きをする者になりましょう。
(・∀・)


2017.7.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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クリスチャンの行動原則とは?

テーマは 『 クリスチャンの行動原則 』 です

【Ⅰコリント10章23-33節】

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。 しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。

地とそれに満ちているものは、主のものだからです。

もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、 自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。

しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、 食べてはいけません。

私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。

もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。

私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。

クリスチャンがどう生きるべきかは、聖書に書かれています。

その中で1つの重要な役割は、救われた聖徒が神の子どもとして成長していくように人生の方向を示します。
そして人生の目的が何かを教えています。

今までとは全然違う行動基準になります。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と主が語りましたが、それは私たちが毎日みことばを読みながら、 そこに書かれている教えを受け入れて信仰を成長させ、自分の人生を 常に神様が示した教えと基準に合わせていかなければなりません。


今日の本文ではクリスチャンとしての行動原則を教えています。

その行動基準を持って私たちが行動をするなら、私たちは成長していきます。それは他の人にも益をもたらすものになります。



1.自分の利益を求めないで、他人の利益を心がける



【Ⅰコリント10章23-24節】

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

「すべてのことはしてもよい」とは(クリスチャンにあって)自由が与えられているということを意味します。
私たちは多くの人間的な基準や世の中の基準に縛られています。

私たちは真理に出会って、そこから解放されて自由になった部分がたくさんあります。

しかし多くのクリスチャンは、「“神様が何をしても良い”と言われたから、私は好き勝手に生きよう。」と言いますが、そのような意味ではないです。


自由は神様のみことばにある「自由」であります。それを超えてはいけないのです。
神の言葉の中にあって生きるのですが、勘違いをしたクリスチャンが「何をしても良いんだ。」と開き直って、そこで非難を受けたことが実際にありました。

「自由」の使い方を間違えている部分がすごくありましたので、神様が1つの基準を教えたのが「自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」でした。


自分の利益を求める姿は自己中心的な姿であります。

「自分さえ良ければ、他人が倒れたり つまずいたり 罪を犯しても関係がない。神様は私を救ってくださったのだから、 私は好きなように生きる。」というのは、果たして神様が私たちに望んでおられる姿でしょうか?

クリスチャンになって1番初めに取り除かなければならないものは、「自己中心的な思い」であります。


これが私たちの古い姿であるのに、更にそれに自由がプラスされて ますます悪くなるならば、何のためにその人が救われたのか分かりません。

神様は、自己中心的な考えから離れて、共同体の利益を求めなさいと教えています。
なぜそうすべきであるのかを23節で語りました。「すべてのことが徳を高める」と書かれています。

自分の利益だけを求めると、他人の徳にならないのです。それは自分だけのものになります。


しかし私たちが自分の利益を求める前に、他人の利益を求めるならば それはその人の徳を高めることになるのです。

このような言葉を聞くと、「じゃあ、自分の利益を求めたらダメですか?いつも他人の利益だけを求めるようにしないといけないのですか?」と思いますが、そのような意味ではありません。

自分のことを無視して他人のことばかりを考えなさいという意味ではなく、神様は自分の利益のために他人を倒したり、つまずかせたり、そのような行動に対する警告であります。


自己満足のための行動が他人に苦しみを与え、つまずきを与えることは私たちの生活の中でたくさんあります。
それはクリスチャンとしてはふさわしくない行動です。

クリスチャンは他人に仕えて、隣人を愛しなさいという言葉が与えられていますので、自分の利益だけを求めるなら自己愛であり、他人を愛することではないです。

模範になる姿とは、他人に対して素晴らしい働きをするので模範になるのです。


自分のために働いていても、人々がそれを見て素晴らしいとは思わないです。
周りから「あの人はいつも自分のことしか考えていない。あの人には絶対についていかない。」となってしまいます。


【ローマ15章1-3節】

私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。

私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。

これが自分の利益を求めないで、他人の利益を求める人の姿であります。

“私たち力のある者”というのは成長した人のことです。
教会に長く通っている人や 人間的な力がある人、ということではなく、信仰の強い人は 成長して自分に与えられた自由を正しく使っている人の姿です。

そういう人たちは、自分が正しく使っている自由をもって 信仰の弱い者たちを助けなさいということであります。
「何でそんなことも出来ないの?」と裁くのではなく、あなたの力をもって助けることです。それは相手の利益を求めることになります。


しかし、信仰があるという人たちが自分たちの言葉や行動によって 信仰が弱い人たちに罪を犯させて倒すことがあるのです。
それは私たちの日常にもそういうことがあると思います。

例えば、長い間 教会に通って自分の信仰を誇る人たちの行動を見て、弱い人がつまずくことがあります。
そこにはすごく自己中心的な姿があるのです。

偉そうに高慢な姿を見せる時があります。すぐに批判をする口があります。
それを見て、弱い人たちがキリストに会いに教会へ来ているのに、人を見てつまずいてしまいます。

ですからクリスチャンは 自分の利益を求める以前に、他人の利益を求めることであります。

“この人にとって何が良いのか”を考えるのです。


他人の利益を求めることにはちゃんと理由があります。
それは相手の徳を高めるだけではなく、33節に「私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、 多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。」とあるように、このような姿ではないと魂を導くことができないです。

自分の利益よりも 他人の利益を求める人の心の中にあるものは、“愛と命”であります。
他人に対する愛がないならば 他人の利益を全く求めないで自分のためにすることなのです。


イエス様はご自分の利益を1つも求めていないです。ご自分の命まで捧げて、私たちの益のためにイエス様は働きました。その姿の中に愛があります。

私たちが自分を犠牲にしてまでも相手の利益のために働く理由は、その人の魂を救うためです。
魂を救うためには愛がないといけないのです。

私たちの行動を見て、その人たちが「クリスチャンは違う。クリスチャンは最も大切なものを私に与えてくれた」と犠牲や愛を見せ、常に相手の人のことを心掛けて配慮を示すことです。

私たちを通してその人たちがイエス様を見るようにすることが、私たちの行動基準になります。


クリスチャンが人々をつまずかせると、魂の救いが起こらないです。教会が人々をつまずかせるなら、「絶対に教会には行かない!」と非難をします。

そうすると神様がその魂のために命を捨てたのに、私たち自身が教会を迫害する者になってしまいます。


このような姿があってはいけないのです。
ですから、自分の利益を求める前に このことが他人の利益にもなるのか?を考え、相手の利益になるならば私たちはそれをしても良いです。

しかし、自分がやっていることが相手の利益にならないならばやめることです。

クリスチャンは他人への配慮のために、自分を自制するのです。
自由に生きるのではなく、他人のためならば と自制をすることが神様から見たら最も自由な姿であります。


いつも相手の徳を高めるために、人を喜ばせるために、魂のために、私たちは敢えて自分の利益ではなく他人の利益を求めるのです。

私の隣人は誰かという問題ではなく、私は誰の隣人になるのか?ということが他人の利益を求める道であります。
それをいつも心掛けることをイエス様は願っておられます。



2.すべて神の栄光を現すため



【Ⅰコリント10章31節】

こういうわけで、あながたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

これこそが聖徒たちの究極的な人生の目的です。積極的な姿であります。

ただ “恵みを受ける”という消極的な姿ではなく、あなた自身の方から願って求めて積極的に行動をすることです。


私たちの目に見えるもの全てが神様のものであります。

私たちがご飯を食べる時に感謝の祈りをします。
なぜ感謝の祈りをするのでしょうか?それらの食べ物を作った方がいます。料理をした人以前に、誰が与えてくださったのでしょうか?“天と地” この地上の全てのものは主のものです。

私たちが受けて使っているものは自分のものではなく、主から与えられたものです。神様から与えられたものを自分の欲のために使うのではなく、まずは神様が与えてくださったことを認めるのです。


私たちは神様から全てのものが与えられているので、私たちはそれを使いながら誰のために生きるのか?が大切であります。

主のものを持って自分のために生きるのではなく、主のものを持って 主に栄光を返すために。
持っている物も自分の命も 全てのものが主のものなのです。


【ローマ11章36節】

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

人間も神様が造ったものであります。神様のものなので取ることも与えることもできます。
常に私たちは神様から与えられたものをもって、神様に栄光を返すのは当然であります。

私たちが受けたものは(周りに恵みを)流していき、そこで神様の栄光を現れるようにするのです。

私たちは食べ物が豊かな時は、食べ物の有り難さが分からないです。でも食べ物が何も無い所へ行くならば、私たちは米粒一粒でも どれほど感謝であるか分かりません。

砂漠では水1杯ではなく、水1滴でも欲しいのです。


私たちに不平不満が多いのは神様を知らないことであります。
そして、「あの人は多いのに私は少ない…」など他人と比較する必要もないです。これは愚かなことです。


パウロはどのような状況でも満ち足りることを学びました。
すべてのものが神様から来て、すべてのものが神様のところへ帰ることを知ったのがヨブでした。
私たちには、自分の物は1つもないのです。

クリスチャンは自分に与えられた自由を 自分自身のために使うのではなく、自分を救ってくださった主、自分を愛して下さる主、 そして自分が造られた目的は神の栄光を現すためであることを知り、それが第一目的でなければなりません。


地獄へ堕ちた人の姿も 物を持っている人は1人もいなく、すべての人が裸です。
そして人々が苦しむ姿を見て、サタンは喜んでいます。



まとめ



私たちの姿を神様は見ています。
神様が決めている この2つの基準で、自分の利益を求めず 他人の利益をまず求めます。

「これは自分だけの利益なのかも?」と思うならば、それは間違えています。
他人の徳や利益になるように それを先にすることであります。そうするとその祝福が自分にも返ってきます。

神様は私たちが蒔いたものを刈り取らせますので、与えることで喜びが来て、愛を与えるならば愛が返ってきます。善を蒔くなら善を刈り取ります。
これが神様の方法であります。


そして今、自分がしていることは神様への栄光のためなのか?ということです。

自分がすることはサタンが喜ぶことなのか、神様が喜ぶことなのか、それによって栄光が変わります。
サタンも自分に従ってくる人を通して栄光を受けています。
そして神様も 神様の言葉を聞いて、その通りに行動する人たちから栄光を受けています。


今回学んだ2つの基準は、私たちの日々の生活の行動基準であります。
それだけでも行動が整理されていくと思います。

それを毎日の生活で私たちがしていくならば、その中で成長していくでしょう。その中で魂が導かれていくでしょう。その中で御霊の実を結ぶこともできます。

自分の行動を神様の言葉に照らして、もし自分の行動が間違えているならば 神様の言葉に従うことです。
頑なな心を神様は嫌いますが、従うなら祝福されます。

主がその者を喜んでくださいます。 (⌒-⌒)

2014.6.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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恵みを理解した時以来

テーマは 『 恵みを理解した時以来 』 です

【コロサイ1章5-6節】

それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。

この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び 広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。

福音は良い知らせです。祝福の良い知らせなので、それが私たちにとって恵みであります。
聖書の中には「恵み」という言葉がたくさん出てきますし、礼拝メッセージでも「恵み」という言葉を何度も聞きます。
また、クリスチャンの交わりでも「恵み」という言葉をたくさん使います。

しかし「恵み」という言葉を聞いたり 使ったりするだけでは、私たちが恵みを理解しているとは限りません。

恵みを理解するならば、その結果 多くの実を結ぶことができますが、理解しないと実を結ぶことができません。

理解をすることと しないことでは、大きな差が出てきます。




①真理のことばの恵みを理解する


真理の言葉を聞いて悟ることは、神様からの大きな恵みです。
神様の恵みを理解することは、真理の言葉を理解することであります。


【ローマ10章17節】

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

みことばを聞かないと 信仰が始まらないです。
しかし私たちは聞くだけで信じることが出来るのかと言えば、そうではありません。

真理の言葉を聞いて ある人は理解して喜んでイエス様を信じました。しかし、ある人たちは毎日 神様が語っているにも関わらず何一つ理解することができませんでした。
まるでイエス様が語る言葉が外国語のように聞こえました。

私たちが御霊の実を結ぶためには、みことばを悟らないと実を結ぶことができません。

みことばの知識がたくさんあっても、その意味を理解しないとその人は絶対に変わらないです。
御霊の実は変わる人が結ぶ実であります。

真理の言葉は、私たちをキリストに導き、私たちを救うために与えられた神の言葉です。
この言葉を聞いて理解し、受け入れて信じ キリストから救いを受けることは、どんなに大きな恵みでしょうか。

真理の言葉を理解しないと、信仰生活は始まらないです。

そして、理解しないならば、その人の生活は変わることがないです。
私たちが御霊の実を結ぶためには、みことばを悟り、その中で私たちが変わらないと何も始まりません。


【マタイの福音書7章24節】

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

理解できていない者を賢い人とは言わないです。いくら言っても分からない者は愚か者であります。
しかし、聞いた言葉が理解できた者は賢い人です。
理解をしてみことばが落ちて種が蒔かれたので、そこから芽が出て実を結ぶようになります。

実際に行った人は、みことばの恵みを理解した人なので行うことができました。行ったことは実を結んだことであります。




②永遠の慰めと、素晴らしい恵みを理解する


【Ⅱテサロニケ2章16-17節】

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを 与えてくださった方ご自身が、

あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。

これを私たちが理解するならば、私たちはあらゆる部分で変わることができます。

神様の本質は慰め主であり、望みの主であります。

それは、主ご自身のためではなく、堕落した人間はその時から呪われてしまいました。
そしてあらゆる災いが入るようになり、重荷を負って苦労しながら地上で生きている私たちのために、神様は慰め主として 望みの主として近づき、 私たちに慰めを与え、望みを与えておられます。


【マタイの福音書4章23-24節】

イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、 中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。

人間は誰でもこのようなものを持っていますが、その人たちは何が欲しいのでしょうか――?
慰めであります。そして希望・望みであります。

そのようなものはどこにあるのかと人間は探します。
そしてイエス様に出会い、この恵みを受けた人たちが主を信じ、弟子になり、また彼らも出て行きイエス様がなさったように働きをして多くの実を結んでいました。
それによって神の国も広がって行きました。

主の働きをする人たちの姿を見ると、以前 神様によって苦しみから救い出された人が主のために働きをするのです。

永遠の慰めと素晴らしい恵みを理解する人は、絶望することがなく恐れません。
主が今も自分のためにその働きをしてくださると堅く信じることができます。




③自分に与えられた神の恵みが、どれほど素晴らしいかを理解する


【Ⅰコリント15章9-10節】

私は使徒の中で最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも 多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

パウロは恵みを理解したことによって、彼の人生は大きく変わりました。

パウロは、イエス様に出会うまでは自分は立派な働きをする役立つ者だと思って活動をしていました。
しかし、その活動とはキリストを信じる者や教会を迫害することでした。

そのようなパウロに、一方的な神の恵みによって、自分がやっていることがとんでもないことだということを知りました。
それによってパウロは理解する者になり、さらに神様はパウロを働き人として召されたことに 彼は死ぬまで感謝を捧げました。


私たちも同じような者であり、罪人であり、神を知らない者であり、たくさんの偶像崇拝をした者であります。
もし、神様が私たちを救い出してくださらなかったら 今もその中で何も知らずに歩んでいると思います。その先にあるのは永遠の滅びなのに――。

私たちはこのことを本当に理解しなければならないです。自分が受けた恵みを悟らなければならないです。

その恵みを悟ると、自分のすべてを捧げて主に従い 働き人になるのです。
働き人は嫌々 働き人になるのではないです。
自分が受けた恵みを本当に理解すると「命を捧げなさい」と神様がおっしゃると捧げるようになるのです。
イエス様は初めから命を捧げるようには言わないのですが、この人たちはイエス様が自分のために命を捧げたことを理解していますので
すべてを捧げる思いになっていきます。そして喜んで仕える者になります。

主のために自分のすべてを惜しまないで使って仕える人は、自分に注がれた神の恵みを知っている人です。
言われなくても、その恵みを理解しているので感謝に溢れて働くことができます。

恵みが理解できないと、いつまでも「これも あれも私のもの。恵みをください。他の人はたくさんもらっているので私は足りません。もっと恵みを!」と
動かないでいつも口だけを開けて、自分が神様に対して仕えるということに気付かないのです。


喜んで仕える人は恵みを理解したので、それが出来ます。
自分中心に生きるのではなく神様中心に変わり、多くの働きを通して神様に栄光を捧げるようになるのです。

私たちは神様から「命」という大切なものを受けているのです。

それ以外のものは、いざという時に何の価値もないです。
死が来たときに財産が何になるでしょうか。何も価値がないです。
それを持って天国へ行くことは出来ませんし、それが足かせになっていることが多くあります。

恵みを理解してください。そうすると、そこから私たちの新しい人生が始まるのです。
実を結ぶ人生に変わっていきます。 (´∀`*)

2014.1.19
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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プラス人生になるには

テーマは『プラス人生の計算法について』です。

【マタイ13章23節】

足して増えていくのが「+」であり、引いて減っていくのが「-」であります。
この計算が出来ない人はほとんどいないと思います。
同じく、プラスの言葉、マイナスの言葉も知らない人はほとんどいないと思います。

(暗算や計算機を使っての足し算や引き算は)とても単純な計算ですが、

人生においてプラス・マイナスはそう簡単なことではないですね。
数学の計算は知識があればできます。
しかし、頭が良くて、数学が良く出来たからと言って、それがそのまま その人の人生において
プラスになるかと言ったら、そうではないです。

私たちの人生において、プラス・マイナスの計算は、数学とは全然違います。

知恵が必要であります。
プラス人生を生きるには、知識ではなくて、知恵が必要です。

すごく頭の良い人でも、明日の事はわからないものであります。
また、人生の先まで全て計算できる人はいないです。

聖書のみことばは、私たちを救い、先のことまで全てご存知である神様が教えてくださる知恵を
自分の人生に当てはめていくと、私たちの人生にプラスになる知恵を神様からいただくことができます。

自分の人生は、ある部分で自分で責任を持たなければならないです。何かのせいではないです。
「親が悪いから、環境が悪いから、あれが悪いから。」これらは愚かな言葉であります。

自分の人生の最後が、今の歩みを見てプラスになるのか、マイナスになるのか、これくらいの計算は
しておかなければいけないと思います。計算せずに生きると、みじめな人生になります。

プラスになることを紹介していきます。

【イザヤ書40章28-31節】

今は疲れている人達が多いです。それも若者が人生に疲れているんです。
生きる希望を失って、本来は力が満ち溢れなければいけない20~40代の人が自殺をしています。

自分の思い通りに就職ができないからと、つまずいて毎日マイナスの言葉を使う毎に
心が疲れてきます。

力の源は、人間そのものではないです。人間には必ず限界があり弱さがあります。
しかし、自分に力を与えて命を注いでくださる神様を自分の味方にするならば、
弱くなった時に「力をください。」と呼ぶことができるのです。

【マタイの福音書16章26節】

いくらお金を手に入れたとしても、命が一番大切であります。命は買うことができません。
命を得ることは、プラス人生の始まりであります。

【ヨハネの福音書1章11-12、16節】

私たちは生きることと死ぬことはとても大切なことですが、それを曖昧にして(肉体の死後の世界を)
考えないようにしています。本当に自分の人生がプラスなのか、マイナスなのかを計算しなければ
いけないです。欲しい物や富など、私たちが生きている時には欲望を満たし楽しませることができますが、
しかし、命に勝るものではないです。

【マタイ8章5-8節】、【詩篇19編7-8節】

人間の言葉は完全ではありませんが、神様の言葉は完全であります。
今までは目が見えない者のように生きていました。目先のことも判断ができなく、分別力もなく、
悟りもないという者を、神様は言葉によって与えてくださる。そうすると、その人の人生が
マイナスの人生に転落をすることはないです。

真理の言葉でなければ、悟れないです。悟りを得ることで自分の人生にプラスになります。
神様の子供になった特権を与えた者達に、神様は良いものを与えたいです。
みことばを一言受けて、病気が癒された人もいます。

人間は生まれてから死ぬまでに、色んな良い事もあれば、病気になったり災いが起きたりします。
(悪い事があった時は)私は今、たくさん支払っているんだ。当然支払うべきことを今 支払っているから、
後は楽になるんだと考えたら良いです。

一度も不幸に遭わない人生の人はどこにいるでしょうか。

不幸なシナリオではなく、自分で幸せなシナリオを書くべきです。
神様は私たちにプラスの人生を歩むことを願っておられます。

【ルカの福音書6章38節】

プラス人生を生きたければ、与えることであります。
与えるものは色々ありますが、「愛を与える」、「人々に関心を与える」、「親切を与える」
これは私たちの人生を豊かにさせるものであります。

愛する人は、愛が返ってきます。自分が他人を愛さないなら愛が返ってくることはないです。蒔かないからです。
人々に関心を持ってみてください。その人たちも自分に関心を持ってくれます。
それも2倍、3倍になって返ってきます。

「ください、ください」だけを蒔くのではなく、そして「愛してほしい、愛してほしい」と言いながらも、
自分は愛を与えない。ですので、相手も反応をしないです。
これは家庭でも同じであります。自分の方から1つの親切を蒔いてみてください。
すると、相手の心が良くなって2つの親切が返ってくるのです。
1つの種を蒔いて1つの実を結ぶのではなく たくさんの実が結ばれるのです。
三十倍、六十倍、百倍になっていきます。

「ください」という者は何も増えなく、持っている物までも消えていきます。

自分が愛されたいなぁと思うならば、
愛を探し求めていくのではなく、自分が誰かに対して愛を見せることであります。
自分の知識を他人に与えることが出来、自分の身体を他人に与えて仕え、奉仕することもできます。
そして言葉で励ますこともできます。

自分がいざ困ったという時には、その前に(自分が)蒔いているので返ってきます。
みことばを一人歩きさせるのではなく、まず自分で実行していくことです。
期待して蒔けば、時が来た時にある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍になっていきます。

自分が死ぬ時に握りしめているものが役に立つものなのか?と神様が語ってあります。
だからと言って、お金を湯水のように使いなさいということではないです。正しい目的の為には使います。
愛を与えることができるのも、私たちが生きている時だけであります。
死ぬ時に「愛したかった」というのは愚かな言葉であります。

人に一番必要なものは愛であり、良いものは他の人にどんどん流していくことであります。
相手に何かが足りないことに気付いたならば、声を掛けて「私に出来ることは何かありますか?」と
与えることであります。そうする時に私たちの心に喜びが来ますし、
私たちの人生の中でこれからプラスになることが、いっぱいあちらこちらから出てきます。

敵を作るのではなくて、愛する仲間をたくさん作ることであります。
共に歩む人をたくさん作ることです。今、うまくいっているから「いらない」というのなら、
高慢になっていきます。だんだん人生がマイナス人生になっていきます。

聖書の言葉には人生を豊かにするものがたくさんありますので、自分にとってプラスになるものを
拒むことをしないように、「私はもっと豊かになりたい。」と思うならば、自分の人生に悪いものを捨てて、
足を引っ張らないように。そして神様からくる良いものはどんどんプラスしていくと人生そのものを豊かにするので
力が出て希望も出てきます。愛の人に変わっていきます。
イエス様に出会って みじめになったという人は、みことばが全然活かされていないことであります。
祝福を自分の人生にプラスしてください。神様は惜しまずに与えてくださいます。 v( ̄∇ ̄)v

2012.12.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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