からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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勝利者

礼服を着た者

テーマは 『 礼服を着た者 』 です

【マタイの福音書22章11-13節】

ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。

そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。

そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。


天の御国で王子のために結婚の披露宴が開かれました。


王に招待された多くの人が、婚礼式に参加しましたが、その中に礼服を着ていない人を王が見つけ、婚礼の式場から外の暗やみに追い出したことが本文に書かれてあります。


その礼服がどんな礼服なのか、また どのような人がその礼服を着るかを話します。



天の御国で起こったことなので、その礼服は地上で着るような服ではないです。

そして天の御国に招待されることは、地上での結婚式に招待されるのとは違います。


天の御国の場面が 一番多く出て来る聖書は、ヨハネの黙示録です。





小羊の血で洗った白い礼服




【ヨハネの黙示録7章13-15節】

長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。

そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。


白い礼服を着た人たちは 大きな患難から抜け出てきた者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くした人たちです。

キリストを信じる信仰のために迫害を受け、その中でも忍耐しながら信仰を守り通した者たちです。


悔い改めながら日々信仰によって生きる者に キリストの血が注がれ、きよめられます。

汚れた衣が血によって白くなりました。


彼らは信仰の勝利者です。

勝利者に与えられる祝福が白い衣です。



【ヨハネの黙示録3章5節】

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。


勝利しない者には この白い衣は与えられないです。





聖徒の正しい行いの礼服




【ヨハネの黙示録19章8節】

花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」

天の御国に招待された人は花嫁と呼ばれました。

天の王子の結婚式に招待された人たちは、王子の花嫁であることが分かります。


花嫁たちは光輝く、きよい衣を着ていますが、それは聖徒たちの正しい行いであると言われました。



地上で日々、神の子どもらしく神に喜ばれる生活をしていく時に それが正しい行いの衣になり、それを着て婚礼に参加することが出来ます。


神が喜ぶ聖徒の正しい行いは、聖書の至るところに書かれてありますが、私は次の聖書のことばを行動の基準として心に留めてあります。



【ピリピ4章8節】

最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。




みことばによる真っ白できよい礼服




【ヨハネの黙示録19章13-14節】

その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。


神のことばに従って歩むならば、神のことばによってきよめられます。


神のことばには力があり、すべてを新しく変えます。



【エペソ5章26節】

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、


【第1テモテ4章5節】

神のことばと祈りとによって、聖められるからです。


『救われたので、後は好き勝手に生きても 天の御国に問題なく入る』と思ってはならないことを主は教えて下さいました。

礼服を着ていない者は 花嫁の姿ではないので、結婚式に参加する資格がなく、そこから追い出されました。



救われた者は、地上にいる間は花嫁の姿になれるように準備することです。


礼服が必ず必要であることを知り、礼服を用意することです。


アーメン v( ̄∇ ̄)v


2022.6.5
聖日礼拝メッセージ

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【水曜礼拝】危機の時にどうすれば良いのか

テーマは 『 危機の時にどうすれば良いのか 』 です

【第2列王記6章14-19節 】

そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。

神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、『ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」と言った。

すると彼は、『恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。

そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。

アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。『どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。

エリシャは彼らに言った。『こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。


今回は本当に困っている時、危機の時にどうすれば良いのか、それを学んでいきます。


エリシャは旧約聖書の中に出てくる預言者です。


エリシャはエリヤの後継者です。

霊的力を神様からもらいました。


彼自身がそのことをすごく願っていました。『エリヤのように働きたい。しかし、自分には力がない。どうぞ私にその力を与えてください』と。

その願いが叶えられて多くの奇跡も行いました。


そしてエリシャは霊の目が開かれた者でもあります。


敵はいつもイスラエルに侵略してきて、イスラエル人達を苦しめていました。

その度にエリシャが祈りをすると、神様が色々と戦いの方法を教えてくださいました。

イスラエルを守るために神様がそのようにしました。

それによっていつも勝利してきました。



相手から見たら、『自分たちの中にスパイがいるのではないか?」と、自分たちが計画を立てても、敵のイスラエルにすべて知られていました。

でもそこにイスラエルのスパイがいたわけではないです。


祈りの中で、いつも神様がエリシャに教えてくださっていました。

ですから敵は、「あの預言者さえ殺せば、これからの戦いは自分たちの勝利になる」と思っていました。


それで一人の預言者を殺すために王様が、馬と戦車と大軍を送りました。

国と国の戦いではなく、一人の人を殺すためにこんなことしました。


そしてその者たちが近づいてきて、エリシャがいる街を包囲しました。



エリシャは勇士でも何でもないです。

しかし彼の姿を見ると何の恐れもないですね。


これは本当に大切なことです。


神の人、すなわち神様を信じる人は、何が起きても揺れ動くことがないです。


毅然とした信仰と勇気と態度があります。



風が吹いてきました。

「怖い、怖い、殺されるかもしれない。倒れるかもしれない」と言って、すぐに口から不信仰、否定的な言葉が出てくる人は、神様が見た時に『信仰のない者だ』となります。


信仰のない者は、もうその時点で相手に負けているのです。

戦う前に崩れてあります。


しかし信仰ある人はビクともしないです。


なぜでしょうか?
それは、“神様が共におられる” ということを信じているからです。


『自分はひとりではないんだ』、『神様が共におられるから何で恐れる必要があるのか?』ということです。








イエス様はインマヌエルです。

「神が私達と共におられる」という名のイエス様が来てくださいました。


わざわざ「聖霊様、来てください」と祈る必要はないです。

もうすでに聖霊様は来ていて、自分たちの中に共におられるからです。


そのことを自分たちが認識するか、認識しないかによって全然違うのです。


信じている者たちの中には聖霊様が私たちの心に住んでくださっています。


ですから、ひとりではないです。

私たちは目には見えないですが、神様が共におられるのです。



エリシャはそのような信仰がありました。

エリシャと共にいる召使いは、いつも神の人のそばにいた者でしたが、信仰の差がこのように違います。


その召使いは信仰の目が開かれていませんでした。

ですから環境を見て、『ご主人様、どうしたらよいのでしょう?』と、人間的な言葉がすぐ出てきます。


このような言葉は 信仰のない人たちが語る言葉です。

すぐに環境を見て恐れます。



信仰ある人はどんなに厳しい環境になっても神が共におられることを知っています。


環境が厳しいからと逃げることがあるんですか?神様は逃げないです。

反対に神様は私たちが困った時には、助けるためにもっと近くに来てくださる方だと、私たちが信じないといけないです。


ですから、その神様が「わたしを呼びなさい」と言っています。








エリシャはどんな時も恐れたことがないです。


エリシャの先生であったエリヤよりも、エリシャの方が大胆な者でした。


エリヤはすごく大胆な預言者でもありますが、イザベルが命を狙った時には恐くなって、彼は逃げていました。

『神様、もう十分です。私を殺してください』と、神様の前で彼は弱くなってそのように弱音を吐いていました。


しかし、エリシャにはそのようなことがなかったです。



聖書の中には『恐れるな』という言葉がたくさん出てきます。


私たちがすぐに恐れてしまうから、小さなものを見ても自分が予期しなかったことが突然で起きたりすると、もちろん人間ですから不安になったり恐れがあったりします。


その時に私たちは信仰を働かせなければならないです。

『恐れる必要がないんだ』と。



悪魔は私たちを恐れさせます。

目の前にチラつかせながら、『これでも恐くないのか?お前の命はもう終わりだ』と言います。


その時、私たちはそれを見て怖がってはいけないです。

『お前なんか恐くも何とも思わない!』と。





御言葉を心に蓄える





なぜ神様の言葉を私たちが心に蓄える必要があるのでしょうか?

それは、すぐに御言葉で反応しなければならないからです。


イエス様がサタンと戦った時に、サタンが神の言葉を持ってきました。


そしてイエス様を誘惑しました。

世の言葉ではなく、全部神の言葉を持ってきて、そしてその言葉を少し変えて誘惑しました。


それに対してイエス様も全部神の言葉で返しました。

そしてイエス様が全て勝ちました。



私たちも御言葉を蓄えておいて、そしてその瞬間に御言葉をすぐに思い出さなければならないです。



【イザヤ書41章10節】

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。


他にも恐れに関する言葉はありますが、この言葉だけでも私たちがすぐ思い出すならば、恐れが消えていくのです。

御言葉が “力” であるのです。


サタンと戦う時の霊の武具・剣が御言葉です。

攻撃武器である御言葉がないと勝てないです。


サタンは人間的な言葉を恐れないです。

私たちが『出ていけ!』と言ってもビクともしないです 。


サタンは私達よりも ある意味で強いです。

しかし私達が持っている武器が サタンが恐れるものであるならば、サタンはそれにビビって逃げるのです。



イエス様の名を遣って神の言葉を 相手に剣として刺していくならば、サタンは神の言葉の前では何もできないです。


それでも、私たちが疑いながらやるならば、サタンは全く恐れないです。

しかし信仰によって御言葉を正しく使うならば、サタンは逃げていきます。



苦しみの中で私たちは、自分はひとりぼっちだと思うのは、これはサタンの惑わしです。


一人ぼっちではないです。

神様がいつも共におられることを私たちは信じなければならないです。


そして共におられる神様は悪魔よりも はるかに力がある神様であるんだ、ということを信じなければならないです。



【第2列王記6章16節】

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」


召使いから見ると、何も見えないです。

しかしエリシャの目には見えるのです。


霊の目が開かれた人、信仰の目が開かれた人は、それが見えてきます。

信仰のない人、信仰の薄い人には環境しか見えないです。



そして神様がはるかに力がある方であること、その力をも信じました。


今、目に見えている敵の大軍よりも、エリシャと共にいる目に見えない神様の力の方が圧倒的に強いです。


アラムがエリシャを殺すために軍隊を送った時に、神様はそれと同時に何をしたでしょうか?

『行ってエリシャを守りなさい』と、天の軍勢を全部送りました。



御使いたちは聖徒に仕える者です。

神に仕え、聖徒たちに仕えます。


ですからいつも神の命令に従って御使いたちは動きます。

私たちが困った時に、私たちが信仰をもって神様に頼ると、神様はすぐに御使いに命令を出します。


神の軍勢の方が力があるということを、いつも確信を持って信じることです。





信仰の弱い者のために祈る





エリシャは自分と共にいる召使いが信仰もなく、目の前に見える大軍を見て恐れている姿を見て、信仰の弱い者のために祈る姿がありました。


『何で信仰がないのか!?』と説教したわけでもなく、怒りもしませんでした。

神様に祈りました。


17節に『そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください」』という言葉があります。



このように信仰の弱い者たちのためには、信仰ある人たちが祈らなければならないです。

神様は、信仰の無いことを裁くのではなくて、信仰ある人が弱い人を助けなさいと、これは神様の御心であります。


ですからエリシャは祈りました。

神様はその祈りを聞いて下さいました。


そして若い者の目が開かれたので、彼が見るとなんと火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。

私たちの霊の目が開かれて、それが見えるならば どんなに素晴らしいことでしょうか?




私たちは宗教生活を長くしていても、霊の目が開かれていないと見えないものです。

聞いても悟らない、見ても分からない、そしていつも考えていることは人間的な思いです。


霊的な思いではなく、人間的な思いですべてのものを見て判断します。


同じものを見ていても、霊の目が開かれた人は違うものを見ます。



肉の目しかない人は、目の前に見えるものしか見えてこないです。

そういった人たちは祈らなければならないです。


「私の霊の目を開いてください。神様が見えるように、神の世界が見えるように開いてください」と祈ることです。


それを体験してる人たちがいるので、そういう世界があるのです。

嘘を言っているわけでないですね。


ですからエリシャはその若者のためにお祈りをしました。

すると、さっきまでは何も見えなかった霊の世界のものが現実の中にあり、火の馬と戦車がたくさん見えました。



恐れも一瞬にして消えていきました。

見えていない時は恐れがいっぱいありました。


しかし霊の目によって、自分たちを助けるために来ている御使いたちを見た瞬間に、自分が恐れたことが馬鹿馬鹿しくなったと思います。





サタンの策略





私たちは危機がある時に、ますます神様の力に頼らなければならないです。


人々は危機があると、危機の中に飛び込んでいきます。

自ら飛び込んで行ってそこから出ることができないです。


『もうだめだ。もう私は終わりだ。もう私は死ぬんだ』という否定的な思いしか持たなくなります。



悪魔はすごく巧みであります。

悪魔は言葉と思いを通して私たちを攻撃してきます。


私たちの感情をすごく悲しくさせたり、辛くさせたり、そういう言葉を掛けてきます。

悪い言葉、否定的な言葉、攻撃的な言葉で私たちを傷つけていきます。


その後に、悪魔は私たちの思いの中でも働き、自ら沈んでいくように、「もう私は終わりだ、もうだめだ」と、戦う力を失くしていきます。


私たちはその時にどうしますか?



私たちは問題が大きければ大きいほど、絶望が大きければ大きいほど、私たちは神様の力に頼らなければならないです。


神様は助け主で、全能なる力があります。

私たちを どんな環境の中でも助けることができる神様です。




ですから神様は『いつも呼び求めなさい。わたしを呼べ』と、それは力があるから、あなたが呼んだら すぐに御使いを送るから心配するなと、神様が語ってくださる言葉であるんですね。








ダビデはあらゆる戦いをしましたが、彼はその戦いの中でも絶望的にならなかった理由があります。

その時のダビデの状況が22章1節にあります。


【第2サムエル記22章1節】

主が、ダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、ダビデはこの歌のことばを主に歌った。


【第2サムエル記22章19節】

彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。


彼自身がいつも神を呼んで神様の助けを求めたので、神様は彼を支えて下さいました。

敵に渡さず、いつも助け出して下さいました。


災いの日、私たちを倒すために 私たちの信仰を奪うために災いがきます。


人々は良い時に信仰を失うよりも、災いの日に信仰を失う人が多いです。


絶望的になるのです。

『あぁ、神様が私を捨ててしまった。あぁ、神様は私を助けてくださらないんだ』と、勝手に思ってしまいます。


かといって、神様に必死に頼ってもいないのです。

神様に祈り求める前に、ただただ絶望して何もしないことが多いです。



でも神様はいつも私たちに語ります。

『災いの日には主に頼りなさい』


その時は断食してまでも神の前に来て神に求めてください。


そういうことをして助け出されない人はいません。

神様はいつも助け出してくださる方です。








恐れがあると私たちは祈りもできなくなります。

信仰がないと祈りはできないです。


「祈ってもどうにもならない」というのは不信仰ですね。


こういう時に祈らなければ、私は助かることがない と考えることです。


患難の時、災いの時は人に頼るのではない、絶望するのではない、恐れるのではない、祈ることだ、神様に頼ることなんだ、そのように自分の心を奮い立たせなければならないですね。



私たちが恐れたり失望する必要がない理由、それは何でしょうか?

「毎日が死の連続です」と語ったパウロは どういう思いを持っていたのかを人々に教えています。


こういう言葉を私たちは心に蓄える必要がありますね。


【第2コリント4章7-9節】

私たちは、この宝(イエス様)を、土の器(自分たち)の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。


この世にあっては患難があります。

この世は荒野です。


しかし私たちは荒野を通る時も患難を通る時も、「圧倒的な勝利者になるんだ」、これが神様が私たちに語る言葉なんです。


なぜなら私たちの中におられる主は、力ある神様であるからです。

私たちを敵の手には渡さないです。



イエス様に対する預言もそうですね。

かかとを噛むサタン、イエス様はそのサタンの頭を砕きました。


どちらが勝ちましたか?イエス様が勝ちました。

イエス様が勝利者です。


その勝利者が私たちの中に共におられます。



色んな環境を通して苦しみが来ます。

災いも来るんです。


しかし、それによって私たちは倒れることはないんだ、すなわち負けることがないと宣言してあります。

ですから恐れる必要がないのです。


私たちは必ず勝利するんだと思ったら恐れないですね。



恐れる人は勝利できないです。

恐れに飲まれてしまうのです。


しかし恐れのない人は、環境、問題、災いは、私が主に頼るならば力ある神様が来て、私をそこから救い出し、そして敵に対しても神様が必ず敵を滅ぼすんだと思えば、私たちは答えを持っているのです。


「最後に勝利するのは私である。患難でもなくて 悪魔でもない。私が勝利するんだ」と思えば、その間に様々なことがあっても恐れる必要がないです。



最後が問題です。

最後に必ず勝つんだと思ったら忍耐もできるし、その中で私達は平安の心を保つこともできます。








そして患難の中でも、私たちはますます目が開かれるように祈ることです。


目が開かれると、私たちは肉の目で見えるものを見なくなります。

霊の世界を見るようになります。


この同じ時間に、見えないところで神様がこのように(天の軍勢を送ること)働いてくださるんだと思うならば、私たちは神様を見るようになるんですね。

人や環境を見なくなります。



私たちはエリシャがどんなに厳しい環境の中でも心配したり恐れたりする姿を一度も見たことがないです。

否定的な言葉、不信仰の言葉を語ったことがないです。


いつも「できるんだ。信じる者にはどんなことでもできるんだ」という思いです。

信仰の人は皆そうでした。


ですから信仰によって生きるということは、どれほど素晴らしいことか分からないです。



自分を助ける人が一人もいなくても、全世界の主権者である神様が自分の味方になるならば何を恐れる必要がありますか?

肉体の命はどうでも良いことなのです。


私たちはこの地上で、この肉体の中で永遠に生きることはないです。

(肉体を)脱ぎ捨てる時が来ます。


そしてその後に私たちは命の衣を着るのです。


永遠の世界がいつもそこにあるんだと、それを考えるならば、別に この地上に執着する必要もないですし、ここで起きているあらゆることで そこまで恐れたり心配する必要がないです。



全てのものは過ぎ去っていくんだと思えば良いです。

全てが一時的なものであるからです。


そして、「私はどんなことの中でも 私は勝利者として残るんだ。最後に勝利するのは私である」と、このようにいつも自分の中にそういう言葉を持って生きることです。


そうするならば私たちは信仰によって何でもできる者になります。

強い者になります。



神様は私たちの口から 恐れの言葉、不安な言葉、心配の言葉、否定的な言葉が出てくると、すぐに主が語ることは、『信仰のない者だ、信仰の薄い者だ』
そのような言葉を語るのです。


『環境が悪い』そのような言葉を語るのではないです。



信仰があれば乗り越えるのに、信仰があれば勝利するのに、信仰があればあなたの問題は解決されるのに、信仰を求めなさい。霊の目が開かれることを求めなさい。御霊に満たされることを求めなさい。


そうしたら心が強くなると神様が語ってくださいますので、『私たちは信仰によって生きる』のです。


義人は御言葉によって生きます。

神の口から出てくる言葉によって生きるのです。


そのことを私たちは知らないといけないです。


アーメン .。゚+.(・∀・)゚+.゚


2022.2.16
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神の霊によって勝利する

テーマは 『 神の霊によって勝利する 』 です

【ゼカリヤ書4章6節】

すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。

負ける人生を夢見る人は誰もいないと思います。

しかし勝利の人生を夢見る人は多いです。


でも蓋を開けると勝利の人生で終わる人は少ないです。


それなりに努力し頑張ったと思いますが、結果は勝利ではなかったと思います。

自分の中に力と能力があるから勝利するのではないです。



勝利する道があることを主が教えて下さいました。

本文にある「わたしの霊によって」ということばです。


すなわち神の霊によって勝利することが出来ます。

どんな無能な人でも です。



実際に神の霊によって勝利した人物たちが聖書に多く出て来ます。

神は無能な人たちを勝利者に変えました。


「あんな人に何が出来る」と言われるような人を選んで 弟子にしたり、勇士にしたり、預言者にしたりしました。



ですから、私たちは「出来ない」と言って逃げる必要がないです。

私たちも神の霊によって勝利することが出来ます。


勝利は、すべてにおいての勝利を意味します。


小さな井戸の中だけでの勝利ではないです。

人生においての全般的な勝利です。



神は私たちを勝利者にするために選びました。


勝利者にあるのは臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。


神の霊がそれを私たちに与えて下さいました。

力と愛と慎みの霊だけでも勝利の人生を送ることが出来ます。



「わたしの霊によって」と書いてあるので、神抜きにしては勝利はないです。


主の霊によって生きている人たちは、否定的な言葉やダメな言葉は使わないです。

それは負ける人たちが使う言葉です。


勝利者の人たちが使う言葉です。


【ピリピ4章11-13節】

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。


否定的な言葉、絶望的な言葉、不信仰な言葉は出ていないです。

不可能を可能にする神の霊によって生きているので心配はないと宣言しています。


心配ばかりする人は、自分の力に頼っている人です。



神の霊によって生きる人は、力がないなら神に力を求めて受けます。


勝利者はいつでも勝利の力を与えて下さる方に しっかりと結びついています。

絶えずその力を受け取っているのです。


主が「御霊に満たされなさい」と言われるのは、主の霊によって私たちが勝利することを願うからです。

主の霊なしに人生の勝利はないです。



何かで成功したから勝利と言うのではないです。


神に認められ、勝利の道を歩んで、天の御国に入る人が勝利者です。

主の霊によって勝利の人生を今年も歩みましょう。


アーメン (・∀・)


2021.1.3
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信仰の競走を続ける

テーマは 『 信仰の競走を続ける 』 です

【へブル12章1-3節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

駅伝で走る選手たちが何よりも心掛けているのは、早くタスキを次の選手につなぐことです。


お正月になると、多くの人々がテレビを通して箱根駅伝を二日間視聴します。

ハラハラドキドキしながら観ています。

その中で一番心が痛むのは、遅れてタスキを渡した選手たちが泣き崩れる場面ですね。


誰もがいのちを懸けて必死に走ります。

周りを見ながら、休みながら走る選手は 今まで見たことがありません。

全選手が全力で前に向かって走っていきます。






この姿は私たちが信仰に適用しても良い姿です。


私たちには、私たちよりも先に走った信仰の先祖たちがいます。

そして、その先祖たちの前には 私たちの主イエス様がいのちを懸けて走りました。


イエス様からタスキをもらった先祖たちも 必死に走って、そのタスキを私たちに渡しました。

ですから私たちも、それを次の選手たちに渡すために必死に走らないといけないですね。


辛くてやめたくなる時もあります。

疲れて休みたくなる時もあります。

ですから忍耐が必要です。


忍耐できないならば その競争に失敗します。



日本各地でマラソン大会が開かれていますね。

それに参加する人たちはすぐに分かります。

昼でも夜でも街をよく走っています。


夏の暑い時も汗をかきながら走っています。

マラソン大会に参加してゴールするためには 日々体を鍛え、走り続けないと、参加してもゴールまでは とても難しいです。

誰もが本当に必要なものだけを身に着けて走っていました。


競争するのに まとわりつくものがあるならば、どんなに不便でしょうか。

ですから最小限のものだけを身に着けます。



信仰の競走を邪魔するものには何があるでしょうか?


世のものに対する人間の欲、人生の悩み、罪、私たちを縛る様々な規則などです。


これらは私たちにまとわりついて自由を奪い、邪魔をして競争が出来ないようにします。

これらに気をつけないといけないです。






信仰の競走は それらの障害物を乗り越えて、神の所に走っていくことです。


ゴールにはすでに競争を終えて勝利した勝者たちが次の勝者たちを心待ちにしています。


十字架の苦難を乗り越えて その道を走り終えた信仰の完成者であるイエス様が喜びをもって待っていらっしゃいます。


その手には栄光の冠を持ってくださっています。

イエス様は勝利者として神の右に着座されました。



主の弟子ステパノが反対者たちに迫害されていた時に、ステパノは聖霊に満たされ、人々を見ず、天を見つめイエス様を見ていました。

実際に神の栄光と神の右に立っておられるイエス様を見ました。


イエス様は彼が信仰の道を走り終えようとしていることを知りました。

そして迎えるために立ち上がっていました。


これを見たステパノはどんなに嬉しかったでしょうか。

ステパノは主に叫びました。


【使徒の働き7章59節】

主イエスよ。私の霊をお受け下さい。

イエス様こそ、私たちが到達しなければならない目標点です。


そこに行くためには右にも左にも逸れてはいけないですし、そして後ろに退くことがあってもいけないです。



絶えず信仰の競走をする時に疲れることもあります。

それでも聖徒たちは座り込んだり、疲れ果ててしまったりしてはいけないです。


その時にこそ、イエス様がどれほど忍耐しながら私たちに模範を見せて下さったのかを考えながら、自分たちも苦難と逆境を乗り越えるように励まなければなりません。


怠けたい誘惑、走りたくない誘惑、罪からの誘惑によって広い道に戻って行く人も多いです。

一度その道に入ってしまうと、なかなかそこから戻ることが難しいです。


しかし私たちは忍耐して昔のことは忘れて、ひたすら前のことだけを考え、決して後ろには退かず、他の競争者たちと励まし合い、勇気を与えながら共に走れるように最善を尽くすことです。



箱根駅伝一つを見ても、彼らは一年間 毎日多くの距離を走り続けています。

毎日最善を尽くしています。

永遠のいのちが懸かってもいないのに、あのようにいのちを懸けています。



それなのに永遠のいのちが懸かっている私たちが適当に走っていながらも 簡単に永遠のいのちが入ってくると思うならば、それは間違いです。


召して下さった方のことをいつも思いながら、信仰の競走を続けることです。
アーメン (=゚ω゚)人(゚ω゚=)


2018.11.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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