からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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不信仰

聖霊を悲しませる行為

テーマは 『 聖霊を悲しませる行為 』 です

【エペソ4章30-31節】

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。


聖霊は信じる者の心の中に内住する方で、聖霊によって信じる者はどれほど多くの恵みを受けるかわからないです。

信じる者は誰よりもこの方を尊ばないといけないです。


しかしいつの間にか聖霊の存在を忘れて、聖霊を侮り、悲しませる行為を聖徒たちがすることが多いです。

どんな行為が聖霊を悲しませるのかを知り、その行為をやめないといけないです。



そうしないと聖霊を自分から追い出す形になり、それ以上 神の恵みを受け取ることが出来なくなります。


形だけの信仰にどんな祝福があるでしょうか。


聖霊を悲しませる行為は不信仰の行為だと自覚することです。





聖霊に逆らい、肉に従って歩む行為




無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり、悪意などは聖霊が忌み嫌う肉の行為です。

それを捨てずに、その中で生きるならば、聖霊は悲しみます。


自分のそばに無慈悲でいつも怒り、悪を行う人がいるならば、平安でしょうか?

すぐにでも縁を切りたいと思います。





聖霊からのことばを聞かない行為




いつも語っているのに、そのことばを無視する行為は本当に良くない行為です。


心がかたくなになると 聖霊の声を無視し、言うことも聞かないです。


主からの警告のことばを聞いても、それを冗談だと思い無視します。

ソドムの町に住んでいたロトの婿たちがそうでした。



【創世記19章14節】

そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。


神のことばを冗談と思って無視した結果、婿たちはソドムの町が神のさばきで滅ぼされた時に滅ぼされました。

私たちへの警告です。





主の御心に関心がなく、世のものだけに関心がある行為




主は私たちが常に主の御心に関心をもって、みこころに従って歩むことを願っています。

みこころを知り、行うことで、神様は計画通りに働くことが出来ます。


しかし使命を受けて働くべきしもべが、主の心には関心がなく、自分がしたいことを主の名でするならば、聖霊はとても悲しみます。


その人を選んだことを後悔します。


主のしもべは主のみこころを優先にして、御心に従うことです。





時を分別せず、いつまでも眠っている行為は聖霊を悲しませる行為




自分の霊の状態が怠けていたり眠っていたり、生ぬるい状態であるならば、それは聖霊を悲しませていることです。

神の思いとは反対のことをしていながらも、それに気づいていない人も多いです。


早く悔い改めてその行為をやめないと、災いの日が突然襲い掛かります。


終末の時代は、悪魔が大いに活躍する時代ですので余計に目を覚ましていないといけないです。



聖霊はきっと毎日私たちの状態を心配そうに見ておられると思います。

『目を覚ましなさい』といつも警告していますが、その声を聞いて起きないと 聖霊はとても悲しみます。




いま自分の状態をみて下さい。


聖霊を喜ばせていますか?
それとも悲しませていますか?


聖霊を悲しませる行為があるならば、その行為を一日でも早くやめることが自分にとって救いになり、恵みになります。


アーメン ( ̄‥ ̄)=3


2023.7.16
聖日礼拝メッセージ

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試練と祝福

テーマは 『 試練と祝福 』 です

【ヤコブ1章2-4節】

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。


この世は荒波の海に例えることが出来ます。


大きな波がなくても小さな波は絶えずあります。


それは世に生きている人は みんな波を経験しながら生きていることです。

すなわち試練にあったことがない人は一人もいないことです。



ですから試練を避けることは出来ないですが、試練をどう受け留めるかによって態度も変わります。


適当な波と風は船が進む時に有利に働きます。


試練を、祝福と人生を良い方向に進める機会と思う人は試練をむしろ喜んで受け入れます。

そして試練は、その人には得となります。



ある人は試練の中に生き返り、ある人は試練の中で死にます。


聖書の中には試練を祝福と思った人たちの証しが多くあります。

ですから試練を見る目が人とは違っていました。


【詩篇66編10-12節】

神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました。

あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷をつけられました。

あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。


神様を信じても試練は必ずあります。


むしろ信じる者に もっと試練があります。

理由は色々あります。


神様は信じる者を愛し 関心があるので、さらに彼らに多くの祝福を注ぎたいと願っています。


しかしそれを邪魔するものが信じる者にあるので、それを取り除くために試練を与えます。


この場合、試練は精錬所の役割をします。



神様は火の試練を通して、私たちの中にある罪の性質、悪い習慣、不信仰や怠惰さ、弱さを取り除いて、聖なる者、敬虔な者、忠実で謙遜で柔和な者になるようにします。


その試練によく耐え、純金のような信仰になった時に試練は終わりますが、そうでないならば続けて試練と苦難は続きます。


神様から来た試練は霊的成長のためのものですから、試練の時に神様を信頼し、試練と向き合うならば、その試練によって私たちは金よりも尊い信仰を持つようになります。







誰よりも厳しい試練にあった敬虔な人・ヨブは試練の中で悟りました。


【ヨブ記23章10節】

しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。


大変な迫害を通って 最期は殉教した使徒ペテロは試練に直面した信徒たちをこのように励ましました。

試練の中で、試練ではなく “受け取る祝福” を考えるように励ましました。



【第1ペテロ1章6-7節】

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。


【第1ペテロ4章12-13節】

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、

むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。


【第2テモテ3章12節】

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。


イスラエルの民が40年間荒野を通った理由を神様はこのように語りました。


【申命記8章2節】

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。


もし今も自分の人生が荒野のようであるならば、神様は自分の中のある部分を試していることです。


パウロには体の病気があって神様に癒しを祈り求めましたが、神様は癒しませんでした。

その理由は、彼が高ぶらないようにわざと神様はその病気を残しました。


ですからパウロはそれを神の恵みとして喜んで受け止めました。

病気よりも高慢になってたましいが滅びることの方がよほど恐ろしいからです。




人々は何の試練もなく祝福だけを願いますが、祝福の中で信仰を守ることは、試練の中で信仰を守ることより、はるかに難しいです。


祝福だけが続くと 人々は生ぬるくなって、神様からみんな離れていきます。

ですから試練がすべて悪いのではないです。


『苦難は祝福をもたらす近道』とマルティン.ルターが言われたように、試練は私たちに大きな益をもたらすことがあります。


試練の中で自分の悪いところを直すならば、危機が “成熟と祝福” のチャンスになります。



頭で理解出来ない試練にあった時でも、一生懸命それを理解しようとするのではなく、台風の中で雨と風に打たれながらも耐えている木のように忍耐しているならば、その試練も過ぎて行きます。

そして理解できる時が来ます。


信仰の世界は 理解して受け入れるのではなく、理解出来なくても神の主権と統治にすべて従順することです。




試練がある時、試練をどう受けとめるかによって 人生の質が変わります。

自分が通らなければならない道ならば、文句を言わず、逃げず、むしろ喜んで受け入れ、その道を歩むことです。


信仰ある人はどんな試練や絶望の時にも信仰によって立ち上がって生きるので、神様は彼らを義人と言います。



イエス・キリストを信じる人は 試練の時に不信仰になるのではなく、神様に力を求めて、試練に耐えて信仰を守ることです。


そして神のみこころに適う者になろうと自分自身を打ち砕くならば、神様はその人を助け出して下さいます。

そして永遠に神と共に歩む祝福を与えます。


アーメン (。・ω・)ノ゙


2022.6.12
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神様は新しいことをする

テーマは 『 神様は新しいことをする 』 です

【イザヤ書43章18-19節】

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。

見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。


神様は創造主です。

無から有を作り出すことが出来る方です。


そして神様の中には無尽蔵の知恵があります。


神にとって不可能はないです。

人間の想像をはるかに超えて働く方です。


人間は神に対して無知なので神様の能力、知恵を理解することが出来ないです。

理解してもわずかな部分しか理解しないです。



神様のことに無知な人間に対して、神様はこのように宣言しました。


『見よ。わたしは新しいことをする。』


神様は人間に向かって『新しいことをしなさい』と語ったのではなく、『わたしが新しいことをする。』と言われました。

この部分がとても大切です。








読んで分かることは、ほとんどの人は自分に対して『いなご意識』を持っていることが分かります。


その意識によって『出来ない、無理だ』と否定的になり、神様に対しても不信仰になります。

次の箇所に『いなご意識」が出てきます。



【民数記13章32-33節】

彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。

そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」


そして民全体が大声で泣き叫び、「できればこの荒野で死んだほうがましだ。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」と騒ぎ出しました。

神様の奇跡をさんざん見たにも関わらず、彼らは神様を無視しました。


それまで自分たちの力でしたことは一つもなく、いつも神様が新しいことをして導き守ったのに、まるで自分たちの力で、やってきたかのように思っていました。



カナンの地に住む人たちを見て、自分たちには戦う力がないと思い、絶望して神に文句を言い、不信仰の言葉ばかり口から出していました。

神様がこれからなさることには一切関心もなかったです。


期待しないなら、信仰が生まれないです。



海に道を作って自分たちを渡らせて助けて下さった神をすっかり忘れていました。


神様が奇跡を行う力が尽きたかのように、また自分たちに戦いをさせると思ってびびっていました。


人間は新しいことが出来ないです。

特に人間の力を超えたことは出来ないです。


出来ないことに対して『しなさい』とおっしゃったことがないです。

いつも神様が新しいことをします。








彼らが恐れたアナク人との戦いはどうなったでしょうか?

その時も神様が新しいことをしました。


神の命令に従って七日間黙って城壁を回り、最後に大きな声を上げた時に城壁が突然崩れ落ちました。

そして城壁に入る道が出来たので、その町を征服することが出来ました。


考えられない神様の不思議な方法が新しい奇跡を起こしました。



不可能を可能にするのが神様の特技です。


ですから『先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。』と言われました。

過去にあったことよりも大きなことをすると宣言しました。




子どもがいないアブラハムに約束通り子どもを与えたのも神様です。

100歳のアブラハムに90歳の不妊の妻サラからイサクが生まれました。


40歳で同胞のために立ち上がったモーセでしたが、うまくいかず40年間失敗したような人生を送り、80歳になった時に神様が突然現れてイスラエルの民をエジプトから解放する指導者にしました。


80歳のモーセにどんな力があったでしょうか。

なんの力もありませんでした。


ですから神様に呼ばれて一番びっくりしたのがモーセ自身でした。

誰の目からも一番ふさわしくないように思われましたが、偉大な働きが神によって出来ました。


いつも働いたのは神様で、モーセは神様から言われたことだけをパロや民に伝えました。








神様は自分の力を誇る者は使わないです。

何も出来なくなった者を選んで 人生改革を行います。


荒野の人生に道を、荒地に川を設ける方です。


自分の人生が荒野でも荒地でも 神様には問題ではないです。

神様は私たちの人生で新しいことをしようとします。


神様の手に自分の人生を任せる人には、神様が必ず新しいことをなさいます。


毎日新しいことをする神様に信仰をもって期待することです。


アーメン .。゚+.(・∀・)゚+.゚


2022.4.3
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永遠の刑罰に入る人と永遠のいのちに入る人

テーマは 『 永遠の刑罰に入る人と永遠のいのちに入る人 』 です

【マタイの福音書25章46節】

こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」


マタイの福音書25章では 『天の御国に入る人、入れない人』、すなわち、『永遠の刑罰を受ける人、永遠のいのちに入る人』 に関する内容があります。


神はすべての人が救われて、天の御国に入ってほしいと願っています。


またイエス様はこのようにも言われました。

「私の父の家には、住まいがたくさんあります」と。


しかし天の御国は聖なる場所、永遠のいのちがある場所なので、それにふさわしい人が入ります。

そして、そこに入れない人は恐ろしい場所、永遠の刑罰がある場所に入ります。


25章の内容をよく読んでみると、信じる人と信じない人の区別ではなく、信じている人の中でも二つに分かれること、すなわちみんなが天の御国に入るわけではないことが書かれてあります。


イエス様を信じるという人が聞かないといけない内容です。

三つのたとえが語られました。




目を覚まして準備した人と、準備出来なかった人




それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のたとえです。

五人は愚かで、五人は賢かったです。


五人はともしびは持っていましたが、油の用意が出来なかったので、花婿が来た時に慌てて油を買いに行き、その間に婚礼の祝宴が始まり、戸が閉められました。


しかし賢い五人の娘は、しっかりと準備をして花婿を待っていたので、すぐに祝宴の場所に入りました。


目を覚まして準備出来た人は永遠のいのちに入りますが、準備出来なかった人は永遠の刑罰に入ります。




役に立つしもべと、役に立たないしもべ




神様は私たちに賜物を与え、主の働きをさせています。


しかしその賜物を使って良い働きをして実を結ぶ人もいれば、その賜物を使わず、働きをしない人もいます。

神が私たちを選んだ目的は次の通りです。


【ヨハネ福音書15章16節】

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。


神は私たちに結ばれた実を与えるのではなく、実を結ぶチャンスを与えます。


私たちが実を結ぶと、主に取り上げられるのではなく、それが私たちの祝福になります。



神は怠け者を祝福する方ではなく、神のものを用いて忠実に働くしもべを祝福する方です。

役に立ったしもべに語られたことばです。


「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」


役に立たなかったしもべにも語りました。


「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

永遠の刑罰が彼らを待っていました。




善行を行った人と行わなかった人




行いのない信仰、正しいことをしなかったこと、主のみこころを行わなかったことは、不信仰の行動です。

不信仰は死んだ信仰です。


良い行いは信仰ある証拠です。


羊とヤギの決め手は、善行を行ったか、行わなかったかで決められました。

羊として認められた人が行った善行です。


「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」


彼らに対する主の祝福のことばは「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」


ヤギになった人はこのような人でした。


「おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。」


そして彼らに対して、「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」と呪いました。


永遠のいのちに入った人は特別なことをした人ではありません。


主を愛し、主の再臨を待ち望み、自分に与えられた働きを黙々と行い、困った人を見ると手を差し伸べました。


目立つこともしていないですが、主はその人たちをよく知っています。

そして必ず永遠のいのちがある御国に入れて下さいます。



しかし、呪われて永遠の刑罰に入った人たちを見ると、特に悪を行ったわけでもないです。

普通に信仰生活をしていましたし、自分は天国に入ると思っていた人たちでした。


しかし裁きの時にとんでもないことが彼らに起こります。

なぜそうなるでしょうか?



御霊に満たされた信仰生活ではなく、知識による信仰生活、主から与えられた使命に関心もなく何もしなかった人、そして困った人に対しても無関心だった人であったからです。


それはイエス様に似た姿ではないです。

イエス様に見習わないといけないのに、見習っていなかったです。


信仰生活を飾りのようにつけて、実を結ぶことがなかったので厳しくさばかれます。



私たちに与えられた時間は主のみこころを行う時間として与えられています。


その時間を無駄にしてはいけないです。

決算の時が来るからです。


アーメン (。・ω・)ノ゙


2021.4.11
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危機の中での平安

テーマは 『 危機の中での平安 』 です

【マルコの福音書4章40-41節】

イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

危機の中で感じる一番の感情は、死の恐怖だと思います。


「このまま死ぬのかな。」


弟子たちもそうでした。

イエス様と同じ舟に乗りましたが、激しい突風が起こり、舟は水でいっぱいになりました。


その中でイエス様は眠っていました。

弟子たちは恐怖に満ち、イエス様を起こして「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないですか。」



死の恐怖を口にしてイエス様を責めました。

それを聞いてイエス様は彼らに謝ったでしょうか。


謝ったのではなく、まずは風をしかりつけて 風が収まるようにしました。


その後に弟子たちを責めました。

「どうしてそんなに怖がるのです。信仰がないのはどうしたことです。」と。


これに対して彼らが見せた反応は違い、大きな恐怖でした。



イエス様の超自然的な能力に圧倒されて畏敬の念を抱いた感情でした。


ですからイエス様には何も言えず、互いに「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」と言いました。


病人が癒される奇跡はたくさん見た彼らでした。

しかし、ここまでの力があるとは思ってもみなかったことが分かります。


自分と同じ人間の姿をしているので、主の力を過小評価していたのでしょう。






信仰がない人や薄い人は、まず神の力を過小評価し、神にも不可能があると思っています。

これこそが神を侮る姿です。


神を侮る人たちは、危機の時にそれがすぐに現れます。

「今にでも死にそうです。何とも思わないですか。」


恐怖、不信仰、絶望、あきらめ、つぶやきは信仰がない時に出て来ます。



荒野でイスラエルの民も同じことをしました。


「なぜ神は私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子はさらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」と大声で泣きわめきました。

それを聞いた主の中に怒りが燃え上がりました。


そしてこのように語りました。

「この民はいつまでわたしを侮るのか。
わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。
わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」



神のわざを見ても 信じないことは、神を侮る不信仰の態度です。


神を侮る人が危機の中で平安を感じることは不可能です。


もし私たちの中に彼らと同じ思いがあるなら、それは神を侮っていることです。


小さな危機の前でもすぐに怖がりますか?

泣いてわめいていますか?



主はそれを見て、弟子たちに語った同じことばを語るでしょう。

弟子たちは暴風ばかり見てイエス様は見ませんでした。


信仰のない人はいつも環境ばかり見て、口ではイエス様を呼びますが、目はイエス様を見ず、環境を見ています。


環境を見たら死の恐怖、不安と心配しか出ないです。

平安はどこにもないです。






舟の中にいる人の中で平安であったのはイエス様だけでした。


天地を創造した主が解決出来ないことがありますか?


冷静に考えることです。

もちろん神は私たちが願う通りには働かない方です。



しかし神にはどんなことでも出来る力があります。


もし主を信じる人ならば、危機の中でも平安を保つ秘訣は イエス様から目を離さないことです。


自分を殺そうとする人々が歯ぎしりしながら殺到した時のステパノは、彼らを見ずに天を見つめていました。


【使徒の働き7章55-56節】

しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、

こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」


しかし誰も天を見上げることもなく、ステパノだけを見て彼を殺してしまいました。


殺される人が一番死の恐怖に陥るはずですが、一番平安でした。

主を見ていたからです。


ここが違います。


危機があっても無くても いつも主を見上げて生きる人には平安があります。


主の守りと助けがそこにあるからです。

そして主のことばが力になるので平安になります。


【イザヤ書41章10節】

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

アーメン (・∀・)


2021.1.17
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神の霊によって勝利する

テーマは 『 神の霊によって勝利する 』 です

【ゼカリヤ書4章6節】

すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。

負ける人生を夢見る人は誰もいないと思います。

しかし勝利の人生を夢見る人は多いです。


でも蓋を開けると勝利の人生で終わる人は少ないです。


それなりに努力し頑張ったと思いますが、結果は勝利ではなかったと思います。

自分の中に力と能力があるから勝利するのではないです。



勝利する道があることを主が教えて下さいました。

本文にある「わたしの霊によって」ということばです。


すなわち神の霊によって勝利することが出来ます。

どんな無能な人でも です。



実際に神の霊によって勝利した人物たちが聖書に多く出て来ます。

神は無能な人たちを勝利者に変えました。


「あんな人に何が出来る」と言われるような人を選んで 弟子にしたり、勇士にしたり、預言者にしたりしました。



ですから、私たちは「出来ない」と言って逃げる必要がないです。

私たちも神の霊によって勝利することが出来ます。


勝利は、すべてにおいての勝利を意味します。


小さな井戸の中だけでの勝利ではないです。

人生においての全般的な勝利です。



神は私たちを勝利者にするために選びました。


勝利者にあるのは臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。


神の霊がそれを私たちに与えて下さいました。

力と愛と慎みの霊だけでも勝利の人生を送ることが出来ます。



「わたしの霊によって」と書いてあるので、神抜きにしては勝利はないです。


主の霊によって生きている人たちは、否定的な言葉やダメな言葉は使わないです。

それは負ける人たちが使う言葉です。


勝利者の人たちが使う言葉です。


【ピリピ4章11-13節】

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。


否定的な言葉、絶望的な言葉、不信仰な言葉は出ていないです。

不可能を可能にする神の霊によって生きているので心配はないと宣言しています。


心配ばかりする人は、自分の力に頼っている人です。



神の霊によって生きる人は、力がないなら神に力を求めて受けます。


勝利者はいつでも勝利の力を与えて下さる方に しっかりと結びついています。

絶えずその力を受け取っているのです。


主が「御霊に満たされなさい」と言われるのは、主の霊によって私たちが勝利することを願うからです。

主の霊なしに人生の勝利はないです。



何かで成功したから勝利と言うのではないです。


神に認められ、勝利の道を歩んで、天の御国に入る人が勝利者です。

主の霊によって勝利の人生を今年も歩みましょう。


アーメン (・∀・)


2021.1.3
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恐れないで信仰を持ちなさい

テーマは 『 恐れないで信仰を持ちなさい 』 です

【第2テモテ1章7節】

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

今、世界を恐れの霊が覆ってあることは知っていますね。


目に見えないウイルスに感染することを非常に恐れている人がたくさんいます。

外に出るのも、人に会うのも、物に触れることも恐れる人が多いです。


そしてコロナだけではなく、違う事でも人々は恐れています。

何に対して恐れを持っているでしょうか?


貧困の恐れ、失敗の恐れ、愛する人を失う恐れ、死の恐れ、病気の恐れ、自由を失う恐れ、人からの非難に対する恐れ、年を取ることへの恐れなど様々な恐れがあります。



恐れはまったく役立たないもので、反対に私たちの成功や幸せ、健康などを邪魔するものです。

恐れは神から来たものではありません。






神が私たちに与えたものは臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

神は人間が恐れに弱いことを知って、恐れに負けないようにみことばを与えて下さいました。


【イザヤ書41章10節】

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

【ヨハネの福音書16章33節】

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

主は世にあって多くの患難があることもご存知です。


人々は患難を恐れるので、患難が来ると心に大きな負担を感じます。

精神的に、肉体的に苦しみます。



しかし神を知っているならば、思い出すべきことがあります。


“この世で起こるすべてのことは神がなさること” です。


すなわち神の許可なしには起こらないことです。

それを信じることが信仰です。



恐れは、私たちが神のことばを信じず、神と一致せず、神と共にいないからです。


恐れは自分の霊的状態、神との関係をもろに表します。

「神を信じる」と言いながら、恐れおののいているならば、あなたが信じる神はどこにいますか?



主が共にいるならば、なぜ恐れる必要があるのか と自分に聞いてみて下さい。


恐れは信仰の敵です。

恐れは聖霊の敵です。


恐れは信仰を奪い、聖霊を心から追い出します。






荒野でイスラエルの民に悪影響をもたらした恐れの正体を見ます。


カナンの地を偵察した12人が同じものを見て、10人対2人に意見が分かれました。


10人はカナンの地の城壁や強い人たちを見て恐れをもって帰りました。

恐れの目で見ると 彼らは巨人に見え、自分たちはいなごのように見えました。


それで民に対してこのように報告しました。

「あの民の所には攻め上れない。あの民は私たちより強いから」


全会衆はそれを聞いて、恐れに覆われて夜通し泣きわめきました。

そして不信仰のことば、つぶやき、否定的なことばをたくさん言いました。



しかし、信仰の人ヨシュアとカレブの2人はそれを見てびっくりして、

主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

と、はっきりと言いました。

2人にはまったく恐れがありませんでした。



しかし恐れに覆われた民は、2人の言うことを信じないで、2人を石で打ち殺そうとしました。

それを見た主が、突然モーセに言われました。


【民数記14章11-12節】

主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。

わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

恐れの原因が不信仰であると言われました。

恐れは自分が誰を信じているのか、誰と共にいるのか、誰を見ているのかをあらわします。



神への信仰が強いと、恐れは消えて行きます。

心に恐れの居場所がないからです。


見えるものに頼って生きる者は絶えず恐れをもって生きますが、信仰によって生きる人は平安をもって生きます。


自分に対する神の約束を信じ、恐れを追い出しながら勇敢に生きるならば、その人はその信仰によって勝利することが出来ます。


神がその人を守り、助けて下さるからです。






1929年に始まった世界的大恐慌は20世紀の中で最も深く、最も深刻な世界的な経済不況でした。

アメリカの株価の暴落から始まりました。


回復まで2年はかかりました。


国際貿易は50%減少し アメリカの失業率は23%、他の国では33%まで上昇しました。


その時のアメリカの大統領がルーズベルト大統領で、彼によって最悪の大恐慌は克服出来ました。


就任演説で語ったことばの中に「我々が恐れなければならないものは、ただひとつ。恐れそのものだ」があります。

恐れがあると人々は自制力と判断力を失います。



何かの問題で恐れが生じた場合、多くの人は「とにかくこの問題を取り除いて下さい。」と慌てながら祈ります。

それは信仰の祈りではありません。


このように祈るべきです。


「神様。私はこれに対してどのような信仰の行動をしたら良いか教えて下さい。」


危機や試練の中では 恐れではなく、信仰で判断し、行動出来る知恵を神に求めて下さい。

信仰は 可能なことのためにあるのではなく、不可能のためにあります。


不可能の前で 信仰は力を発揮します。

不可能の前で自分の信仰が試されます。



「あなたの信仰はどこにあるのか。なぜ恐れるのか」と主が聞きます。



私たちに力と愛と慎みの霊を与えて下さった神に感謝しながら、信仰の目を開くと恐れは静まります。

「主の御名によって命じる。恐れよ、静まれ。」


信仰によって歩む生き方こそが患難を乗り越える力になります。
アーメン ( ̄‥ ̄)=3


2020.4.26
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主にそむいてはならない

テーマは 『 主にそむいてはならない 』 です

【民数記13章25節-14章12節】

四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。

そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。

彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがこのくだものです。

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。

ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」

そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」

彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。

そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。

全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。

イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがました。

なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」

そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。

すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、

イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。

もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。

ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れた。

主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。

わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

モーセは主に申し上げた。「エジプトは、あなたが御力によって、彼らのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、

この地の住民に告げましょう。事実、彼らは、あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主がまのあたりに現れて、あなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。

民数記13章と14章では様々な人間模様を見ることが出来ます。


ここに限らず、75億人に当てはめても いずれかの部類に自分たちは入りますね。

細かく分けるとキリがないので、3種類の人生に分けてみたいと思います。




◎いなご意識の人生




いなご意識を持っている人は、力も能力も実力もない人だと思うかも知れませんが、人はうわべで判断したらいけないです。

この いなご意識は、“内面にあるもの” です。


【民数記13章33節】

「私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

いなご意識を持っていることを、はっきりと見せた10人は、どのような人たちでしたか?

彼らは、いなごのようには見えなかった人たちでした。


【民数記13章3節】

モーセは主の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。

偵察に行くために選ばれた12人は、みんな “民のかしら” でした。

彼らにいなご意識があるとは、誰も知らなかったと思います。



いなご意識は、不信仰の目で物事を見て、判断する人の中にあります。


神を信じると言いながらも、いなご意識を持っている人も多いです。


彼らは明るい面よりは暗い面をよく見ます。

そして、「出来る」と言うよりも「出来ない」ということばをよく使います。


失敗意識と恐れが強いです。

いなご意識をもった10人は、次のような報告をしました。


【民数記13章28節】

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。

恐れと不信仰の目で見たので、大きくて強いものに圧倒され「これはダメだ。」と結論づけました。



自分の中にあるいなご意識が問題なのに、それを問題とは思わず、環境や人のせいにします。


こういう意識を持っている人は、神の祝福もカナンの地にも入ることが難しいです。

なぜなら彼らは、偉大な神を まるで自分と同じレベルの “いなごのような神” と思うからです。


自分がいなごでも、神を象のように大きな神と思うならば 何を恐れる必要がありますか?




◎すぐ失望する人生




すぐ失望する人生の耳には、否定的なことばしか入ってきません。

消極的な意見だけに反応します。


希望ある報告に対しては嫌な反応しかなかったのに、絶望的な報告に対しては敏感に反応しました。


積極的な発言をした二人に対しては石で打ち殺そうとしたのに、消極的な発言をした10人に対しては賛同しました。

こういう人はすぐに失望します。


もちろん彼らにも “いなご意識” があるので、波長が合いますね。

そして自分と違う意見には敵対し拒否し、受け入れることが出来ないです。



こういう人は自分が直接見ていなくても、否定的な報告にだけ反応し、否定的な反応と絶望をすぐに現します。


「そこにはまことに乳と蜜が流れています。」と言われた時に、それを神の奇跡と祝福と思って喜んでいたら良かったのに、その言葉には反応せず、
いなご意識を持った人たちが言った「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。」ということばでは、すぐに反応して泣きわめきながら、次のようにつぶやき出しました。


【民数記14章2節】

「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。

そして神の悪口まで言いました。

そのことばは神を侮ることばであり、神に背くことばです。


彼らのことばを聞いた主が次のように語りました。


【民数記14章11節】

この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。

たくさんの奇跡を過去に体験したにもかかわらず、何か問題に直面すると、背の高い住民や、高い城壁よりも 神を小さく見て「神様も無理でしょう?」という思いがあるので、すぐに絶望してしまいます。


問題にぶつかるたびに弱音を吐き、否定的なことば、絶望的なことばを語る人は多いです。


患難の中で耐えることが出来ないタイプです。


そして、それを神のせい、人のせいにします。

このような人もカナンの地に入ることは難しいです。




◎信仰によって生きる人生




目の前に高い城壁がそびえたっていても、背が高くて強い住民がいても、信仰によって生きる人は 次のような姿です。


【民数記14章9節】

その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

信仰によって生きる人はすべてを信仰の目で見ます。


信仰の目で見ることは、神の約束を信じて物事をみて判断します。


信仰によって生きる人は高い城壁を超え、死の恐れを超え、救いの神に頼り、大胆です。


【申命記1章29-30節】

それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。

あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。

このように信仰によって生きる人は、良い面をみて、可能性を見て、神の力を見ます。


信仰ある人は、これをすべての場面に適用します。


信仰によって生きたダビデの告白です。


【詩篇27編1-3節】

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

信仰によって生きる人といなご意識とすぐ絶望する人生とを比べてみて下さい。

ことばも生き方も その後の人生も全く違います。


信仰によって生きた人生は、勝利の人生になりました。


彼らがそれを証明してくれました。

信仰によって生きた2人、ヨシュアとカレブはカナンの地に入りました。



他の人たちは荒野で死にました。

歴史が記録してあります。


神の国も信仰によって生きた人が入る国です。


信じる者のために神が備えた国ですから、信仰によって生きた人に入る資格が与えられます。


主にそむいて生きることは、祝福の地を自ら拒むことになります。

それで良いでしょうか?
ヽ(TдT)ノ


2018.9.16
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クリスチャンの経済生活

テーマは 『 クリスチャンの経済生活 』 です

【マタイの福音書6章30-32節】

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、まして、あなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

何を食べるか、何を飲むか、何を着るかを心配しているのは種類が多いから選ぶことに悩んでいる姿を語っているのではなく、経済的問題を抱えている人がいるということを言われています。

クリスチャンの中でもお金の心配をしている人がとても多いです。

実際にお金を持っている人も心配をし、持っていない人も心配をしています。


主は一言で心配している人に“信仰の薄い人たち”と言っておられます。

その理由は神様に対する信仰、信頼が足りないからです。

神が養っておられることに対して信頼しきっていない信徒たちが多いです。


神様が与えて下さると言っても、それに対して疑っている人も多いのです。

「来年はどうしよう。再来年はどうしよう。お金はどんどん消えていくし、入ってくるところもないし、助けてくれる人もいないし、貯金もないし、これから先どう生きたら良いの?」と先のことが心配でたまらない人たちもいると思います。


しかし、神様はその人達に対して「心配するのはやめなさい。」と語りました。
その理由は、不信仰から心配が出るからです。

神様が教えるクリスチャンの経済生活を正しく学べば、私たちは不要な心配から解放されます。

もし学ばないならば、いつまでも計算をしながら心配から逃れることはできません。


聖書の中で、神は多くの場面で神を信じる人たちに関わりながら、その経済生活を支えているのは、神ご自身であることを見せています。

それをこれから学びたいと思います。




モーセとイスラエルの民から学ぶ





【民数記11章13-15節】

どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。

私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。

私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

モーセの心配と重圧がどれほど大きかったのか、彼は神に向かって「どうか私を殺してください。」と祈りました。

そのモーセの言葉を聞いて、神様は肉を与えると語りました。


【民数記11章18-20節】

あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった』と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。

あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、

一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう』と言ったからだ。」

そのことばを聞いて、モーセは安心して喜んだでしょうか。

そうではなく、心配する様子が見えました。次の箇所です。


【民数記11章21-22節】

しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。

彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」

モーセは現実を見て、そんなことで実現されるはずがないという不信仰がありました。

それに対して神が語ったことばが次の箇所です。


【民数記11章23節】

主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」

そして、その後はどうなりましたか?
主のことば通りになったでしょうか?答えは次の箇所です。


【民数記11章31-32節】

さて、主のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営の回りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。

民はその日は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、――最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた――彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。

ここで私たちが学ぶことは、人間の思いと、神の思い、人間の計算と神のやり方はまったく違うことに気付くことです。

モーセは羊の群れ、牛の群れ、海の魚と言いましたが、神様はまったく違うやり方で 海の向こうからうずらを運んできました。

それはモーセの考えを超えて働く神の御業でした。


私たちは神様がしようとすることが分かりません。

私たちの計算は、神様の計算とは違うので(私たちの思いは)何の役にも立たず、反対に心配、疑い、不信仰を生じさせるだけなので、それらを捨てなければなりません。


『信じます。主のおことば通りになりますように。』と信仰によって神に期待しながら祈り続けることです。




エリヤの経済生活から学ぶ





【Ⅰ列王記17章1-16節】

ギルアデのティシュべの出のティシュべ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

それから、彼に次のような主のことばがあった。

「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。

そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏(からす)に、そこであなたを養うように命じた。」

それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。

幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。

すると、彼に次のような主のことばがあった。

「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」

彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私はパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少し油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」

エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」

彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。

エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。

エリヤのこの時の経済状態は無一文でホームレス状態でした。

さらに彼を助ける人は誰もいなく、反対に命が狙われる立場にいました。


そのエリヤにあるものは、神の約束だけでした。
神が養うという約束だけが彼に保証されていました。


そして人間では考えられない方法を、神様はここでも使いました。

この時、神によって用いられたのは、幾羽かのカラスと 一握りの粉と少しの油しか持っていない ひとりのやもめでした。

本来 カラスは人間が食べ残して捨てたゴミを拾って食べます。
最近は餌がなかったので100羽以上のカラスが死んだニュースもありました。


それなのに神が働くと、カラスがパンと肉とを運んで来て、人間を養う鳥に変化しました。

そして社会の中でも一番弱くて貧しいやもめを使って養うことは人間としては考えられない方法ですが、これが神様のやり方です。

人間は、持っている者には養う力があるので、当然そこに期待を寄せます。
しかし神様は、そのことを知っておられるので、その方法は使いません。


私自身もこれは経験済みです。
人間的に期待した所からは得たことが一度もありません。いつも有り得ない所からの助けがありました。


エリヤは神に完全に頼って何も心配せず、経済的なことは神様に任せました。

頼ることは神から言われたことに対して何も言わず、その通りにすることです。


モーセは神のことばに反論しましたが、エリヤは一言も反論せず 神から言われた通りにして神によって養われました。

3年6カ月の間、それも自分だけではなく、やもめとその家族までも養われました。


その日、その日 食べるものが与えられました。(そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならなかった。)




やもめとエリシャから学ぶ





【Ⅱ列王記4章1-7節】

預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」

エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」

すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。

家で入ったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」

そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。

器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。

彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

たくさんの負債を抱え、2人の子どもが奴隷にされる運命になり、持っているものは何もなく、油のつぼ一つしかないやもめで、本当にどうにもならない状況です。

食べ物も持ち物もなく、あるのは借金だけです。


皆さんなら、このような状況でどうしますか?無理心中ですか?

経済的理由で無理心中した人たちは、今までたくさんいます。
どうにもならないという絶望感でそこに至ります。


でも彼女は自分の苦しい状況を神の人エリシャに話しました。

エリシャから出たことばは「何をしてあげようか。あなたには家にどんな物があるか言いなさい。」でした。


そして彼女が持っている一つのつぼ、また彼女が隣の人みなから借りて来た からの器に神の奇跡が起こりました。

ここで私たちは「これで何になるのか」という小さなものが“祝福の始まり”であることに気付くことです。

まずエリヤの時のやもめは一握りの粉と油を ささげました。


神に種を蒔くと、パン一個が3年6カ月の食べ物の祝福になりました。
捧げなさいと言われたものを捧げて祝福を受けました。

エリシャ時代のやもめは信仰によって、からの器を用意しました。

すると抱えた問題をすべて解決できる油がすべての器にいっぱいになりました。


捧げるものがなかった このやもめは言われた通りに信仰の器を用意したので祝福されました。

私たちは2人の最も貧しかったやもめたちが受けた祝福を見て、無いから捧げないのではなく、無いからこそ蒔かなければならないし、そして蒔いた後は信仰で期待する大切さを学ぶことです。


神様はやもめ、みなしごに対してあわれみ深い方です。


【詩篇68篇5-6節】

みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。

神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。



中国奥地へ宣教に行った宣教師から学ぶ




ハリソン・テイラーは宣教師として信仰によって献身しました。

しかし働きはどんどん増え、協力者と宣教費が必要でしたが、彼を助ける人は誰もいませんでした。


彼の精神的負担は大きくなり、夜も眠れなくなり、ついには神経衰弱にかかるほどになりました。

そんなある日、彼はヨハネの福音書15章5節を読みました。


【ヨハネの福音書15章5節】

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

このことばが心にぶつかりました。
その瞬間、急に太陽の光が当たったように、彼の心が明るくなり始めました。

彼は“主はぶどうの木で、私はその枝であるのに 私が心配する必要があるのか?主が水分と栄養を与える木である。私はそれを受け入れれば良いことで、自分がそれに水分と栄養を与えようと心配したことは何と愚かなことであったのか。主よ。この時間からは心配や思い煩いを主に委ねます。私を養ってください。”


このように彼は主の前にひざまずき、自分の愚かさを悔い改めながら問題を主に委ねました。

彼はその後から祈る度に答えられ、成功的に中国宣教ができました。


イエス・キリストを信じる私たちは、私たちの生活現場で起こるすべての問題だけではなく、私たちの経済もすべて神に委ねる訓練をしなければなりません。
(。・ω・)ノ゙



【ピリピ4章19節】

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。


【マタイの福音書7章9-11節】

あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。

また、子が魚を下さいと言うのに、 だれが蛇を与えるでしょう。

してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。 とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

2015.1.11
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス様の驚きと悲しみ

テーマは 『 イエス様の驚きと悲しみ 』 です

【マタイの福音書11章18-24節】

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、

人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。 でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」

それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。

「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、 彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、 もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

聖書にはイエス様が驚く場面が出てきます。

百人隊長が素晴らしい信仰を見せた時にイエス様は驚かれました。彼はユダヤ人ではなく、ローマ人です。
しかしユダヤ人よりも素晴らしい信仰を見て、イエス様は『わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』と言いました。


またイエス様は奇蹟をたくさん行なったにもかかわらず信じなかった人々の不信仰な姿を見て驚かれました。

多くの人は「奇跡を見たら信じる」と言いますが、当時は数えきれないほどの奇跡がありました。
それなのに人々は信じませんでした。


【ヘブル書11章6節】

信仰がなくては神に喜ばれることはできません。

イエス様はその人の財産、権力、名誉などに驚いたことは一度もありません。

イエス様が関心を持っているのは ただ1つです。
「信仰」…その人が信仰を持っているのかどうか、それだけに関心がありました。


良い信仰を見た時にイエス様はとても喜びますが、奇蹟を見ても信じない人や不信仰の姿を見た時にも驚き、また悲しみます。


今の人々の姿を見て、イエス様はどのように思っているでしょうか?

特に信じている人たち、「私は信じて救われました。聖徒です。」という人たちの信仰を見て、イエス様は喜んでおられるでしょうか?

ある人たちは心の中で言うでしょう。「私には信仰がある。毎週きちんと教会に通っているし、聖書も読むし、祈りもするし、奉仕もするし、献金もささげているし。これ以上何ができるのか?」

自分自身で良い信仰だと思っています。
しかし、イエス様がどのように見ているかは分かりません。


また、ある人たちは心の中で言うでしょう。「ああ、面倒くさい。信仰、信仰と うるさいな。忙しくて それどころではない。したいこともいっぱいあるし、どうでもいいわ。別に地獄に行っても良いわ。」

この言葉は、実際に神様のことを知っている人が言っていました。
これがクリスチャンの口から出たことにびっくりしました。その人たちは信仰の失格者であります。

そのような信仰がその人を天国まで導くことはありません。


天国に入れる信仰は、神様が認め 喜ぶ信仰の者だけです。

自分の信仰が、果たして自分自身を天国に導くものなのか?と、いつも私たちは考えなければならないです。


日々の私たちの態度がどれほど不信仰であり、イエス様を悲しませ、涙を流させているのか。
天国に入った人たちは、そこは素晴らしい世界ですので涙を流す人はいませんが、イエス様だけが泣いています。

救われず、地獄に行くたましいを見て泣いています。教会、信徒が堕落していく姿を見て悲しんでいます。

主から離れた人々、さまよっている人々、イエス様よりこの世をもっと愛する聖徒たちを見て泣いておられます。
イエス様は私たちの姿を見て驚き、嘆き、そして叫んでいます。


イエス様は人々に裏切られ、除け者にされ、未だに苦しみを受けています。
イエス様がその人たちに向けて語ることばは、「どうしてわからないのか。悟らないのか。信じないのか。」です。


主の声を今回、みなさんに届けたいと思います。

「私は救われました」というクリスチャンは、自分の姿をもう一度考えてみる必要があります。




① 聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿




聞いても悟らず、見ても信じず、罪を悔い改めず、受け入れない人々の姿に主は驚き、彼らの最後を知っているので主は心を痛めています。


イエス様を信じていない人たちは もちろん滅ぼされます。
しかしイエス様は「あなたたちの方がもっと悪い」と語りました。

なぜなら、「今、あなたたちは多くの奇跡を目の前で見ているのではないか。神が人間となって直接あなたたちの目の前に来ているのに、それでも信じないのか」


ソドムとゴモラの町は不信仰や同性愛などで滅ぼされました。
しかし彼らよりもあなたたちの罰が重いと言いました。

そしてイエス様は「どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。」と はっきりと語りました。

ハデスとは地獄のことです。
消えることがない炎が燃え、入ったら出ることができず、永遠に刑罰を受けるところへ行くのだと語りました。


「私は救われました」と言う人を イエス様が見た時に罪を悔い改めず、昔救われて“いのちの書”に書かれているから何をしても大丈夫だと言う人はハデスに落とされると言いました。

イエス様が語ることは、その通りになります。

イエス様は天国のことよりも地獄のことをたくさん話しました。新約聖書で113回語っています。




② 十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのになぜそれがわからないのか




十字架の上で死ぬほどあなたを愛しているのに、なぜそれがわからないのかと主は驚いています。

イエス様からたくさんの恵みを受けた者たちが、その恩を忘れ、イエス様に対して敵対し、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。

十字架にかかったイエス様を見て、頭を振りながらののしりました。
「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。今十字架から降りてもらおうか。そうしたらわれわれは信じるから」と、ののしる者、あざける者がいました。


誰のためにイエス様は十字架にかかってくださったのでしょうか?
罪を犯している私たちのためなのに、私たちはののしり あざけました。


彼らを見て「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈りながら主は人々を見ていました。

イエス様の命を取っている者たちを赦してくださいと、これ以上の愛がどこにあるでしょうか?

私たちがイエス様を十字架につけたのです。その時、あなたはどこにいましたか? その群衆の中にいたのです。


今も主は十字架の上で血を流しながら苦しんでいます。
誰のためですか?イスラムの人々や まだ信じない人々のためです。

十字架は昔のことだと思うでしょうか?
しかし、今はイラクでイスラム過激派の人々の手によってクリスチャンたちが街の中で十字架にかけられ1000人以上が殺されています。


イエス様は信仰のために死んだ人々と共に十字架にかかり、血を流し、涙を流しています。

彼らはののしりあざけっていました。
「あなたたちを愛しているのにどうしてわからないのか。」イエス様は彼らが立ち返るように願っているのです。

実際に、イエス様はクリスチャンたちに「十字架であなたのために死んだ私を忘れることが、私には苦しみである。」と語りました。


みなさんはクリスチャンです。みなさんはイエス様の十字架を日々覚えていますか?

自分のような罪人を、世界の多くの人々の中から自分を選んでくださったということが どれほど大きな恵みであるか分からないです。


イエス様の十字架は私のために血を流してくださったのです。
“なぜわたしの十字架を忘れているのか――?”


忘れているという事実に、イエス様はすごく苦しんでいます。
そのことをクリスチャンは覚えていないといけないです。




③ あなたのことば一つ一つが わたしの心を引き裂いている




「あなたのことば一つ一つがわたしの心を引き裂いていることをどうしてあなたはわからないのか」と主は驚いています。

私たちはイエス様を十字架につけて殺した後、今でもクリスチャンたちがイエス様を痛めつけています。
「私はそんな思いはないです。いつ私がイエス様を十字架につけたのですか?いつ私がイエス様を悲しませたのですか?」

皆さん、気付いていますか?


【ヨハネの福音書6章60節】

そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

イエス様は真理を語っていますが 自分たちの目がふさがれて、心に知恵がなく悟っていないのに、「主よ、私たちはそのことばの意味が分かりません。教えてください。」と聞くのではなく、自分たちの思いで勝手に解釈し、非難をしました。

その後、彼らはどのようにしたでしょうか。


【ヨハネの福音書6章66節】

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

イエス様がこの姿を見た時に、どれほど悲しかったでしょうか?

彼らは霊的なことは分からないのです。それまでは「どこまでもついて行きます」と言った者たちが一瞬にして消えていきました。

イエス様は引き裂かれる思いでした。「真理を語っているのに なぜあなたたちは真理から離れていくのか?」
その辛さは皆さんも経験があると思います。

皆さんが人々に(福音を)語る時に「意味が分からない。聞きたくない。二度と言うな。」
そのような言葉を聞いた時に、私たちはすごく心が痛くなると思います。


そしてイエス様に「あれは悪霊に憑りつかれて気が狂っている。」という言葉を言いながら聖霊を汚しました。

私たちはイエス様に悪霊とは言いませんが、どれほど不信仰なことば、不平不満、つぶやきを言ったでしょうか?

神様のことを自分のしもべのように使う時もあります。


私たちが語る1つ1つのことばによってさばかれると聖書に書かれています。たとえ私たちが言った覚えがないと嘘をついても全て記録されています。

ですから私たちが間違えたことを語るたびにイエス様の心に釘を刺しているのと同じであります。




④ あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか




あなたが私を捨てて離れた時に私がどれほど涙を流したか、どうして分からないのかと主は驚いています。

イエス様の目からは いつも涙が流れています。


皆さんはイエス様を信じてから、自分の良いものを取られたことはありますか?

イエス様は悪いものは捨てなさいと言いますが、良いものを盗む方ではないです。


人々がイエス様から離れるのは、それぞれの理由があります。
「祈っても聞いてくれないから信じるのをやめました」、「忙しいのでそれどころではない」、「今は自分の好きなことをしたい」「金儲けが先」など理由・言い訳がたくさんあります。


しかし、よく考えてみてください。その1つ1つの理由が、離れる理由になるでしょうか。

そのことが自分の命よりも大切なことなのかを考える必要があります。
快楽のためにイエス様から離れ、この世を愛する心や物欲でイエス様から離れるなら、後になってどのようにしますか?

地獄は後悔の場所であり、自分自身の愚かさを憎む場所でもあるのです。
“あの時にイエス様から離れていなければ…地獄に来ることはなかったのに!”


イエス様が語るのは「全世界を手に入れても たましいを失うならば、それが何になるのか?」と語っておられます。
イエス様は「もしあなたの右手が罪を犯すならば切ってしまいなさい。」と語ります。全身を持って地獄へ行くよりは片手がないまま天国に入った方が良いと語ります。


たましいを失うと全てを失います。

地上のわずかなもので自分のたましいをないがしろにして、それによって永遠に出ることのできない地獄で苦しむのは、どちらが皆さんにとって得ですか?


常に聖書のことばを読んでください。聖書のことばは気休めのために書いているのではなく、生きるか死ぬかのために私たちに道を示しているのです。


この真理は変わりません。書かれた通りのことが必ず起こります。

もし今晩あなたが死ぬならば、天国に行けますか。天国に入る人は少ないです。地獄に入る人は大勢います。
イエス様はその姿を見て泣いています。


地獄に多くのクリスチャンたちが行きました。
イエス様が、クリスチャンが地獄へ行った理由を語りました。

その理由は、多くの人々がわたしが願っているようにはせず、わたしを敬わず、愛さず、断食を好まず、忍耐をせず、教会の中に留まることを嫌がり、礼拝が好きではなく、祈らず、みことばを読まず、口先だけで賛美するなど、イエス様がして欲しいことと真逆のことをしているからです。


カインの礼拝を捧げておいて、アベルの祝福を受けようとしているのです。
カインにはカインの裁き、アベルにはアベルの祝福があるのです。

自分が蒔いたとおりに刈り取らせるのが正しい裁きであります。


どれだけ私たちは神様のことばが与えられているでしょうか。

「今日、あなたが主の声を聞いたならば 心を頑なにしてはいけない。悔い改めて立ち返りなさい」とイエスさまが語っておられます。

これ以上、私たちがイエス様を悲しませてはいけないです。死んだ信仰、疑い深い信仰、不信仰を全部捨てなければならないです。


そしてイエス様が認める“あなたの信仰は立派です”と言われる信仰、長血を患った女の人、百人隊長の信仰、娘が悪霊にとりつかれた母親の信仰、イエス様に香油を注いだマリアの信仰、あなたはこのような信仰を持ちなさいと語ります。


へブル書11章は信仰の章です。ほぼ全員が厳しい状況の中で、自分たちの信仰の光を放ちました。

神様だけに頼る信仰はいつ試されるでしょうか?厳しい状況の中で初めて試されるのです。

私たちの信仰は天国に入れるような信仰でしょうか。それとも「信仰、信仰」と言いながらも地獄へ行く信仰でしょうか。これを考えなければなりません。


イスラム教の人々がクリスチャンを狙って殺してきています。終わりの時代が来ています。
その時に私たちが のほほんと「大丈夫。」と言えるでしょうか?

イエス様が目を覚ましなさいと語っています。
あなたに信仰が無ければ、彼らに捕らえられてひざまずくようになります。


大変な状況の中でも神様に信仰を見せる人だけが勝利者であります。
死に至るまで忠実でありなさい。その信仰を持ちましょう。
( ̄‥ ̄)=3

2014.8.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

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