からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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水曜礼拝メッセージ

【水曜礼拝】祝福と呪いに対する神様の約束

テーマは 『 祝福と呪いに対する神様の約束 』 です

【第2歴代誌7章11-22節】

こうしてソロモンは、主の宮と、王宮とを建て終え、主の宮と自分の宮殿に対して実施しようとソロモンが思っていたすべてのことをみごとに実現した。

すると、主が夜ソロモンに現れ、彼に仰せられた。『わたしはあなたの祈りを聞いた。また、わたしのために、この所をいけにえをささげる宮として選んだ。

もし、わたしが天を閉ざしたため雨が降らなくなった場合、また、いなごに命じてこの地を食い尽くさせた場合、また、もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、

わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。

今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。

あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、

わたしが、あなたの父ダビデに、『あなたには、イスラエルを支配する者となる人が絶えることはない』と言って契約を結んだとおり、あなたの王座を確立しよう。

しかし、もし、あなたがたがそむいて、あなたがたに授けたわたしのおきてとわたしの命令とを捨て去り、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、

わたしが彼らに与えた地から、彼らを根こぎにし、わたしがわたしの名のために聖別したこの宮をわたしの前から投げ捨て、これをすべての国々の民の間で、物笑いとし、なぶりものとする。

かつては並びもなく高かったこの宮も、そのときには、そのそばを通り過ぎる者がみな、驚いて、『どういうわけで、主はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう』と言うであろう。

すると人々は、『あの人たちは、エジプトの地から連れ出した彼らの父祖の神、主を捨てて、ほかの神々にたより、これを拝み、これに仕えた。そのために、主はこのすべてのわざわいをこの人たちに下されたのだ』と言うようになる。


祝福と呪いに対する神様の約束に対して語ります。


旧約聖書の申命記28章には、祝福と呪いの言葉がたくさん書かれてあります。


『主の命令に聞き従うならば、これらの祝福があります』という言葉から始まっています。

その後に『聞き従わないなら、こういう呪いが来るんだ』という内容がたくさん書かれてあります。


この申命記28章が一番有名な箇所であります。



その他にも神様はいつも『呪い』と『祝福』を同時に語っていますね。

『あなたたちがこうするならば、わたしはこうするんだ』と。


ある意味で神様の私たちに対する契約(約束)でもあるのです。

主は語った通りのことを必ずなさいます。




神様は『わたしの命令に従わないならば、わたしの民であっても、わたしが以前に祝福の約束をしても、必ずわたしはあなたを呪うのだ』ということも語りました。


クリスチャン達が勘違いしてはならないことがあります。

『神様から救われた私達は絶対に捨てられることがないんだ』ということです。


私たちが主の御心に従って神様の子どもらしく生きるならば、絶対に捨てられることはないと思います。



しかし私たちが口先だけで神様を信じてあらゆる悪を行い、神様に逆らって生きるならば、話はまた別です。

神様はそういう人を神の子どもとは認めないです。


口先で『主よ、主よ。主の名によってこれもあれもしたではないですか?』


でもイエス様はそのような人にハッキリと言いました。

『不義をなす者たち。わたしはあなた達を全然知らない。』


イエス様は『わたしは、わたしの羊を知っている。わたしの羊はわたしの声に従ってきます。』と語りました。




ですから、口先で『信じます。私は救われました。』と、自分だけが勘違いをして、後は以前と何も変わらない生活をそのまま続けています。

神様が見たらとんでもない事ですね。


自分で勝手に『救われた』、『神様の子どもだ』と言うのですが、神様は『わたしはあなたを子どもと認めたことがない』と語ります。

『神様、どうしてですか?私は神様を信じて教会にも通ったし、奉仕もしました…』と。



でも神様は『わたしと心が一つではない。わたしの言葉を全部無視して自分が好きなように生きておいて、何でそんなこと言うんだ』となるんですね。








ですから神様は、私たちに前もって祝福と呪いに対して全て語りました。


祝福された後でも私たちが神様に反抗して罪を犯して偶像崇拝をしてやりたい放題悪いことするならば、神様は全てのものを呪いに変えます。

祝福が呪いに変わったり、呪いが祝福に変わったりするのです。


呪われた者であっても、その者が主に立ち返って神様を必死に求めるならば回復を与えます。


ソロモンが神の宮を完成させましたが、その夜、神様がソロモンに現れ、

『わたしはあなたの祈りを聞いた。』という言葉が出てきます。


ソロモンのどのような祈りを聞いたのでしょうか?



【第1列王記9章1-3節】

ソロモンが、主の宮と王宮、およびソロモンが造りたいと望んでいたすべてのものを完成したとき、

主は、かつてギブオンで彼に現れたときのように、ソロモンに再び現れた。

主は彼に仰せられた。『あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。


【第1列王記8章27-39節】

それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、きょう、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。

そして、この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。

あなたのしもべとあなたの民イスラエルが、この所に向かってささげる願いを聞いてください。あなたご自身が、あなたのお住まいになる所、天にいまして、これを聞いてください。聞いて、お赦しください。

ある人が隣人に罪を犯し、のろいの誓いを立てさせられることになって、この宮の中にあるあなたの祭壇の前に来て誓うとき、

あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたちにさばきを行って、悪者にはその生き方への報いとして、その頭上に悪を下し、正しい者にはその正しさにしたがって義を報いてください。

また、あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、彼らがあなたのもとに立ち返り、御名をほめたたえ、この宮で、あなたに祈り願ったなら、

あなたご自身が天でこれを聞き、あなたの民イスラエルの罪を赦し、あなたが彼らの先祖たちにお与えになった地に、彼らを帰らせてください。

彼らがあなたに罪を犯したため、天が閉ざされて雨が降らない場合、彼らがこの所に向かって祈り、御名をほめたたえ、あなたの懲らしめによって彼らがその罪から立ち返るなら、

あなたご自身が天でこれを聞き、あなたのしもべたち、あなたの民イスラエルの罪を赦し、彼らの歩むべき良い道を彼らに教え、あなたの民に相続地としてお与えになったあなたの地に雨を降らせてください。

もし、この地に、ききんが起こり、疫病や立ち枯れや、黒穂病、いなごや油虫が発生した場合、また、敵がこの地の町々を攻め囲んだ場合、どんなわざわい、どんな病気の場合にも、

だれでも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の心の悩みを知り、この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈り、願いも、

あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天で聞いて、赦し、またかなえてください。ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知っておられます。あなただけがすべての人の子の心を知っておられるからです。


ソロモンは宮を完成した後に、神様の前で必死にお祈りしていました。

ただ宮を捧げて終わったのではないです。


人々が神様を礼拝する為に宮に集まって来ます。



でもソロモンは、人々の心がいつも悪に傾く事を知っていました。

神様の前で罪を犯すことを知っていました。


もし人々が罪を犯した時には神様は黙っていないです。

立ち返らせるために色んな病気、飢饉、わざわいを神様は与えます。



しかし、その中で『民があなたのもとに立ち返って悔い改め、自分たちの罪を告白して立ち返るならば赦してください』と、ソロモンの長い祈りを神様が全部聞いてくださいました。


それで、神様が第2歴代誌7章に出てくるように『わたしはあなたの祈りを聞いた』と神様が語りました。


そしてあなた達が本当にへりくだって立ち返り、わたしの名を呼び求めるならば、わたしはその罪を赦し、彼らの血を癒そうと語りました。


ソロモンが祈った内容を見ると人間が犯すあらゆる罪があります。

そして実際、人間社会の中で起こる様々な問題があります。








今、私たちはそれら全ての問題を見ています。


敵の国が攻めてきて、ひどい目に遭う戦争が起きました。飢饉がありました。そして疫病が起こりました。

色々なことが起こると人々はその中でパニックになります。


そこで多くの人たちは『神様、何で助けてくださらないんですか?何で守ってくださらないんですか?』という言葉が出てきます。

その中で多くの人々は助けを求める祈りをします。


『神様、助けて下さい。私たちの命を守って下さい。神様、敵を追い出して下さい』と色々祈ります。




神様は、私達がただ『助けてください』と求めるから助けるのではないです。


神様の助けの方法はいつも決まっています。

あなたたちがこうするならば助けるんだ。という方法があります。


ただ困っているから神様に助けを求める、それでわたしが動くのではないと神様が語りました。



神様は敵の悪さを知っています。でも神の子どもたちの悪さも知っているのです。


『あなたには罪がないのか?』なのです。

あなた自身の事を、まずわたしに悔い改めて立ち返らない限り、これらのことが消え去らないんだ。


その災いがなぜ来たのか?ということです。

“自分は何も悪いことはしていなくて、敵だけが悪い”、そうではないです。




神様は、特に神様を信じる者に対しては厳しいですね。

裁きは神の教会から始まると語りました。


神様は、神の子どもたちが罪を犯すと、悪者を必ず用います。

悪者を用いて迫害させたり問題を起こして私たちが目覚めるようにするのです。


何故このことが起きたんだ?と原因を探るのではなく、『罪を悔い改めなさい』です。



ヨナが神様の言葉に不従順して逃げました。

そのヨナのせいで嵐が起きました。


一緒に船に乗っている人達も罪がない人ではないです。

彼らは神様を信じない者たちです。


ですから本来ならば、彼らの方が滅ぼされるところです。


でも神様は彼らのために嵐を起こしたのではなくて、神の言葉に不従順して逃げて行ったヨナを立ち返らせるために嵐を起こしました。


ですからヨナのせいで他の人たちも酷い目に遭ったのです。








神の目はいつも誰に向いているでしょうか?それは、神様の御心を知っている者たちです。

神の言葉を聞きながらも神様に背いて罪を犯して平気な顔をして生きている姿を見て、神様は黙ってはおられないです。


神様の関心は『わたしの名を呼び求めているわたしの民』 という言葉を使っています。

たとえご自分の民であっても不従順なら呪うと語りました。


イスラエルの民は選民でした。


小さな国を神様が選んで神様の民にしました。

でも、このイスラエルはその後滅ぼされました。



エルサレムが滅亡したのは不従順に対する神様からの呪いでした。

それを見て人々はびっくりします。


『彼らは神様の選民ではないのか?神様があらゆる奇跡を行ってエジプトから救い出したあの民は、カナンの地で神様の導きを受けて生活していたけど、今度は敵に全て捕らえられて捕虜になってしまった。宮も滅ぼされて酷い目に遭っているんだ。』

神様は恥をかく事を覚悟で神の言葉通りのことを行います。



何故エルサレムが滅亡したのか?神様はご自分の民がエジプトで奴隷生活をした時と同じようにバビロンに捕虜として連れて行かせ70年間苦労をさせました。

なぜそうなってしまったのかは次の箇所にあります。



【第2歴代誌36章11-21節】

ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。

彼はその神、主の目の前に悪を行い、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。

彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。

そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。

彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。

ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。

そこで、主は、彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は、剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された。

彼は、神の宮のすべての大小の器具、主の宮の財宝と、王とそのつかさたちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。

彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。

彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕らえ移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。

これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。


ソロモンが一生懸命祈りました。

それに対して神様は答えました。


『もし呪いが来た時にあなた達がへりくだり立ち返ってわたしの顔を求めるならば癒す』という言葉を語りました。


でも彼らは祈らないですね。

神様が忌み嫌うことをずっとやりながら、そして神様の言葉を全部無視しました。


預言者を通して語った言葉も全部無視しました。


虚しい預言、偽預言者が語る言葉は、『そんなことは起こりません。平和が来ます。平和になりますから、そんなエレミヤが語ることは聞かなくて良いです。』みたいなことを言いました。

そして反対に多くの者がエレミヤを迫害しました。


ですからエレミヤは涙の預言者だったのです。

滅びが目の前に迫っているのに、民が言うことを聞かないです。


ですから、ある時は神様の子ども達の方が心がすごく悪いです。




ニネベの町は違法の国でしたが、ヨナが『40日後には滅びるんだ』と伝えましたが、その言葉で彼らは全員断食しながら神様の前にお祈りをしたので、神様が思い直しました。


でもイスラエルの民たち、神の民たちは預言者の言葉を無視し迫害しました。

時には命まで狙いました。


王であるゼデキヤは言うことを全く聞かなかったです。

預言者の言うことも聞かず、強い敵の王が言うことにも聞かず守らないです。


それは自分の身、自分の国に滅びを招いたことになります。








これは、私たち個人にも自分の国にも世界にも、全部当てはめることができるんです。


今戦争があるところも同じです。


誰かのせいにして神様にただ『助けてください。滅ぼしてください』とか、そういう祈りをする前に、神様が私たちにどんな祈りをして欲しいのかを考えないといけないです。


悔い改めることなんです。みんなが悔い改めることです。



自分たちが招いた部分も色々あります。

敵も悪いし、自分たちも悪い。


神様は『わたしの前に来て、へりくだりなさい』と語ります。


なぜならば問題を解決してくださるのは神様だからです。



人間が解決できることではないです。

人間の手で平和をつくることではないですね。


最初は平和のように見えます。

しかし、その中でもそれぞれが持っている苦い根がいっぱいあります。


苦い根をいつまでも持ち続けて互いに悔い改めないですね。

互いに責め合うことはしていきます。


その姿を見て、神様が平和をくださることはないです。




神様は『みんなが罪人であるんだ。悔い改めなさい。わたしの前で本当に悪かったです、私たちも神様の言うこと聞かないで自分勝手に歩みました。罪を犯しました。神様の御言葉に反することをしました。』


イスラエルの民たちが悔い改めたことはなく、神様につぶやきました。

『私たちは選民でしょう?神様、どう見てもあちらの方がもっと悪いんです。それなのに何で私たちがこんなに酷い目に遭うんですか?』


神様は相手が悪いことも知っています。



『でも、あなたはわたしの言葉を知ってる者であり、約束も知ってる者である。わたしがこうしなさいと語ったのに全部無視したのではないか。』


ですから神様は、『あなたの罪によってあなたがこんな目に遭うんだ。だからわたしに解決してほしいと願うならば、あなたが先にわたしの前に来てへりくだりなさい。悔い改めなさい。わたしに助けを求めなさい。癒しを求めなさい。』と言います。


神様が敵に向かって『悔い改めなさい』と言っても、敵が悔い改めるはずがないです。

敵は人間の力で戦います。




でも神様は神の子どもたちを見て、『あなたが先に悔い改めなさい。あなたが悔い改めるならば、わたしは立ち上がり、わたしがその時からあなた達の味方になって、あなた達を助ける。しかし、あなたが悔い改めないならば、わたしはあなたを助けることができない。』と、神様の心もすごく苦しいです。


神様がそれをした理由は、ご自分の民が立ち返って欲しいからなんですね。

神様の御心に適う者になってほしいです。


神様は赦したいです。回復させたいです。


しかし、彼らがそれを全て無視して相変わらず神様につぶやきます。

ずっとそれが続くならば神様は『まだ悟っていないのか。悔い改める気がないのか。祈らないのか』となるのです。




神様につぶやくことは『祈り』ではないです。


祈るということは、神様の御顔を求めることです。

御心を求めることです。悔い改めることです。


だから、『こんなに助けてくださいと祈ったのに』と言っても、神様は私たちの口の言葉を聞くのではなくて、祈りの“中心”を見ます。


どんな心で祈るのか?その祈りが真実な祈りであるならば、神様は私たちの祈りや願いを聞いてくださいます。


そして問題を神様が解決してくださいます。








神様はソロモンに対して『あなたの父ダビデが歩んだように』と語りました。


ダビデも完璧な人間ではなく、失敗や弱さもありました。

しかしダビデは神様に本当に忠実な者でした。


神の言葉を本当に恐れていた者ですね。そして努力しました。


罪を犯して、そのことを示された時には徹底的に彼は涙を流しながら断食して神様に祈りました。


『主よ。私が悪かったです。本当に私は神の前で罪深い者です。』

そのように徹底的に悔い改めてから神と共に歩みました。


その姿を神様が見て、どんな王に対しても必ずダビデと比べました。




私たちは『祈っても祈っても答えられない』と、よく言いますが、神様から見たらゴミのような祈りが多いです。


悔い改める気がなく、立ち返る気がないのです。

謙遜になる気がなく、ただ助けを求めるだけなのです。


そして神様や誰かのせいにします。



私たちが立ち返った時に、私たちの心がへりくだった時に、神の国がその心に臨みます。

その者と共に神様が歩みます。


私たちが神様から離れて自分勝手に歩む時には呪いが消えることはないです。


でも『私は呪われているみたい。何で問題がたくさん起こるのだろう。何でわざわいが来たのだろう?』と感じるなら、その時はあれこれ言う必要がないです。


『神様。きっと私の中に神様が喜ばない罪があると思います。それを示してください。へりくだりますように。』

へりくだるならば見えてくると思います。




高慢になった時は『私が、私が、私が…』『私が何を悪いことしたんですか?』この言い方はすごく高慢です。


自分ではどんな悪いことしたかを思い出せなくても、『神様。神様は正しい方です。公平に公正に扱う方です。ですからきっと私の中で問題があると思います。それが分からないんです。教えてください。私が徹底的に主の前で悔い改めることができるように、へりくだることができるように示してください。』


それを願う事なんですね。

そうしたら神様は喜んで教えると思います。


神様はその人が立ち返るならば、全ての呪いを祝福に変えてくださいます。


しかし私たちが祝福を受けている中でも、自分勝手に歩み、このままだと滅びると思った時に、神様はその祝福を呪いに変えます。


イスラエルの民たちを見て、私は学ぶことができます。




これから自分たちの所に災いが来るかも知れないです。

飢饉や戦争が起こるかもしれないです。


そこで『私たちのところでそんなことは起こりません』と誰が確信を持って言えるでしょうか?

突然色んなことが起こるんです。


日本もいつどこで何が飛んでくるか分からないです。

いつ戦争が起こるかも分からないです。大きな地震が起きて滅びるかもしれないんです。



その時に私たちクリスチャンは1つの道しかないです。


神様の前で悔い改めることです。



へりくだって神様に『祈れなかったです。私が祈りを怠けたから、私が目を覚ましていなかったから、私は罪の中に留まっていたから、悔い改めなかったからこんな酷い事が起こりました。助けて下さい。私の罪を赦してください。』

神様は全世界を見て、そして悔い改める者に目を留めます。



わざわいがある中でも、そこでひざまずいて一生懸命悔い改める者を神様が見つけた時には、神様はその人を助けますね。その人に手を差し伸べます。


周りで多くの者が倒れていても神様は悔い改める者に対しては目を留めて助けてくださる方です。

それが回復するための一番の近道です。




悔い改めて、神の御顔を求め、へりくだって神を求めているのに、神様は『あなたを受け入れない』と、そういう事は一度もないです。








これから何が起こるか分からないですが、私たちは神の言葉の前でへりくだることです。


しかし私は何も悪いことをしていません。と高慢になるなら回復はないですね。

平和がなく祝福もないです。


ですから祝福を本当に受けたいならば、いつも神様の前にへりくだることです。



神様が私たちに求めること喜ぶことをするならば、私たちの人生は本当に神様によって守られ導かれ、祝福されていきます。ものすごく単純です。




いつも私たちの前には『呪いの道』と『祝福の道』があります。


私たちは祝福されたいならば、祝福の道を選んで歩むことです。

すると、そこには祝福だけあります。


でも自分が呪いの道を選ぶならば、呪いがきても誰かのせいにすることはできないです。

自分で選んだ道です。



これからも色んなことが起こると思います。

もっともっと厳しい事が起こると思います。


でもその中にあっても主の守りの中で祝福を受けて生活したいと思います。

この世のものが祝福ではないです。


心の平安、そして神様が私たちの避け所になってくださるならば、それは私たちにとって一番の祝福です。


人々が不安と恐れの中で震え上がる時に、私たちはその中でも主が共におられるから私は平安である。神様が今日も守ってくださる。

そういう風に安心していられるならば、それが一番の祝福なんです。


そしてミサイルが飛んだり爆発が起きたとしても、主の中に自分がいるんだと思うそれだけでも、その人たちは不安で心がパニックになることはないと思います。



神様は私たちの避け所ですが、自分がその避け所に飛び込まないと命は無いですね。

私たちはそのまま呪われてしまいます。



聖書の創世記からヨハネの黙示録まで見ると、祝福と呪いが2つあります。


ある者たちは呪いの道だけを選ぶ者がいて本当に呪われています。

ある者は知恵と信仰があって祝福の道だけを選びます。


ですからその人の人生が豊かに祝福されて主にあって恵まれた人生を生きるようになります。


アーメン (*・ω・)ノ


2022.3.23
水曜礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会


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【水曜礼拝】危機の時にどうすれば良いのか

テーマは 『 危機の時にどうすれば良いのか 』 です

【第2列王記6章14-19節 】

そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。

神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、『ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」と言った。

すると彼は、『恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。

そして、エリシャは祈って主に願った。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。

アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。『どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。

エリシャは彼らに言った。『こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。


今回は本当に困っている時、危機の時にどうすれば良いのか、それを学んでいきます。


エリシャは旧約聖書の中に出てくる預言者です。


エリシャはエリヤの後継者です。

霊的力を神様からもらいました。


彼自身がそのことをすごく願っていました。『エリヤのように働きたい。しかし、自分には力がない。どうぞ私にその力を与えてください』と。

その願いが叶えられて多くの奇跡も行いました。


そしてエリシャは霊の目が開かれた者でもあります。


敵はいつもイスラエルに侵略してきて、イスラエル人達を苦しめていました。

その度にエリシャが祈りをすると、神様が色々と戦いの方法を教えてくださいました。

イスラエルを守るために神様がそのようにしました。

それによっていつも勝利してきました。



相手から見たら、『自分たちの中にスパイがいるのではないか?」と、自分たちが計画を立てても、敵のイスラエルにすべて知られていました。

でもそこにイスラエルのスパイがいたわけではないです。


祈りの中で、いつも神様がエリシャに教えてくださっていました。

ですから敵は、「あの預言者さえ殺せば、これからの戦いは自分たちの勝利になる」と思っていました。


それで一人の預言者を殺すために王様が、馬と戦車と大軍を送りました。

国と国の戦いではなく、一人の人を殺すためにこんなことしました。


そしてその者たちが近づいてきて、エリシャがいる街を包囲しました。



エリシャは勇士でも何でもないです。

しかし彼の姿を見ると何の恐れもないですね。


これは本当に大切なことです。


神の人、すなわち神様を信じる人は、何が起きても揺れ動くことがないです。


毅然とした信仰と勇気と態度があります。



風が吹いてきました。

「怖い、怖い、殺されるかもしれない。倒れるかもしれない」と言って、すぐに口から不信仰、否定的な言葉が出てくる人は、神様が見た時に『信仰のない者だ』となります。


信仰のない者は、もうその時点で相手に負けているのです。

戦う前に崩れてあります。


しかし信仰ある人はビクともしないです。


なぜでしょうか?
それは、“神様が共におられる” ということを信じているからです。


『自分はひとりではないんだ』、『神様が共におられるから何で恐れる必要があるのか?』ということです。








イエス様はインマヌエルです。

「神が私達と共におられる」という名のイエス様が来てくださいました。


わざわざ「聖霊様、来てください」と祈る必要はないです。

もうすでに聖霊様は来ていて、自分たちの中に共におられるからです。


そのことを自分たちが認識するか、認識しないかによって全然違うのです。


信じている者たちの中には聖霊様が私たちの心に住んでくださっています。


ですから、ひとりではないです。

私たちは目には見えないですが、神様が共におられるのです。



エリシャはそのような信仰がありました。

エリシャと共にいる召使いは、いつも神の人のそばにいた者でしたが、信仰の差がこのように違います。


その召使いは信仰の目が開かれていませんでした。

ですから環境を見て、『ご主人様、どうしたらよいのでしょう?』と、人間的な言葉がすぐ出てきます。


このような言葉は 信仰のない人たちが語る言葉です。

すぐに環境を見て恐れます。



信仰ある人はどんなに厳しい環境になっても神が共におられることを知っています。


環境が厳しいからと逃げることがあるんですか?神様は逃げないです。

反対に神様は私たちが困った時には、助けるためにもっと近くに来てくださる方だと、私たちが信じないといけないです。


ですから、その神様が「わたしを呼びなさい」と言っています。








エリシャはどんな時も恐れたことがないです。


エリシャの先生であったエリヤよりも、エリシャの方が大胆な者でした。


エリヤはすごく大胆な預言者でもありますが、イザベルが命を狙った時には恐くなって、彼は逃げていました。

『神様、もう十分です。私を殺してください』と、神様の前で彼は弱くなってそのように弱音を吐いていました。


しかし、エリシャにはそのようなことがなかったです。



聖書の中には『恐れるな』という言葉がたくさん出てきます。


私たちがすぐに恐れてしまうから、小さなものを見ても自分が予期しなかったことが突然で起きたりすると、もちろん人間ですから不安になったり恐れがあったりします。


その時に私たちは信仰を働かせなければならないです。

『恐れる必要がないんだ』と。



悪魔は私たちを恐れさせます。

目の前にチラつかせながら、『これでも恐くないのか?お前の命はもう終わりだ』と言います。


その時、私たちはそれを見て怖がってはいけないです。

『お前なんか恐くも何とも思わない!』と。





御言葉を心に蓄える





なぜ神様の言葉を私たちが心に蓄える必要があるのでしょうか?

それは、すぐに御言葉で反応しなければならないからです。


イエス様がサタンと戦った時に、サタンが神の言葉を持ってきました。


そしてイエス様を誘惑しました。

世の言葉ではなく、全部神の言葉を持ってきて、そしてその言葉を少し変えて誘惑しました。


それに対してイエス様も全部神の言葉で返しました。

そしてイエス様が全て勝ちました。



私たちも御言葉を蓄えておいて、そしてその瞬間に御言葉をすぐに思い出さなければならないです。



【イザヤ書41章10節】

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。


他にも恐れに関する言葉はありますが、この言葉だけでも私たちがすぐ思い出すならば、恐れが消えていくのです。

御言葉が “力” であるのです。


サタンと戦う時の霊の武具・剣が御言葉です。

攻撃武器である御言葉がないと勝てないです。


サタンは人間的な言葉を恐れないです。

私たちが『出ていけ!』と言ってもビクともしないです 。


サタンは私達よりも ある意味で強いです。

しかし私達が持っている武器が サタンが恐れるものであるならば、サタンはそれにビビって逃げるのです。



イエス様の名を遣って神の言葉を 相手に剣として刺していくならば、サタンは神の言葉の前では何もできないです。


それでも、私たちが疑いながらやるならば、サタンは全く恐れないです。

しかし信仰によって御言葉を正しく使うならば、サタンは逃げていきます。



苦しみの中で私たちは、自分はひとりぼっちだと思うのは、これはサタンの惑わしです。


一人ぼっちではないです。

神様がいつも共におられることを私たちは信じなければならないです。


そして共におられる神様は悪魔よりも はるかに力がある神様であるんだ、ということを信じなければならないです。



【第2列王記6章16節】

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」


召使いから見ると、何も見えないです。

しかしエリシャの目には見えるのです。


霊の目が開かれた人、信仰の目が開かれた人は、それが見えてきます。

信仰のない人、信仰の薄い人には環境しか見えないです。



そして神様がはるかに力がある方であること、その力をも信じました。


今、目に見えている敵の大軍よりも、エリシャと共にいる目に見えない神様の力の方が圧倒的に強いです。


アラムがエリシャを殺すために軍隊を送った時に、神様はそれと同時に何をしたでしょうか?

『行ってエリシャを守りなさい』と、天の軍勢を全部送りました。



御使いたちは聖徒に仕える者です。

神に仕え、聖徒たちに仕えます。


ですからいつも神の命令に従って御使いたちは動きます。

私たちが困った時に、私たちが信仰をもって神様に頼ると、神様はすぐに御使いに命令を出します。


神の軍勢の方が力があるということを、いつも確信を持って信じることです。





信仰の弱い者のために祈る





エリシャは自分と共にいる召使いが信仰もなく、目の前に見える大軍を見て恐れている姿を見て、信仰の弱い者のために祈る姿がありました。


『何で信仰がないのか!?』と説教したわけでもなく、怒りもしませんでした。

神様に祈りました。


17節に『そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください」』という言葉があります。



このように信仰の弱い者たちのためには、信仰ある人たちが祈らなければならないです。

神様は、信仰の無いことを裁くのではなくて、信仰ある人が弱い人を助けなさいと、これは神様の御心であります。


ですからエリシャは祈りました。

神様はその祈りを聞いて下さいました。


そして若い者の目が開かれたので、彼が見るとなんと火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。

私たちの霊の目が開かれて、それが見えるならば どんなに素晴らしいことでしょうか?




私たちは宗教生活を長くしていても、霊の目が開かれていないと見えないものです。

聞いても悟らない、見ても分からない、そしていつも考えていることは人間的な思いです。


霊的な思いではなく、人間的な思いですべてのものを見て判断します。


同じものを見ていても、霊の目が開かれた人は違うものを見ます。



肉の目しかない人は、目の前に見えるものしか見えてこないです。

そういった人たちは祈らなければならないです。


「私の霊の目を開いてください。神様が見えるように、神の世界が見えるように開いてください」と祈ることです。


それを体験してる人たちがいるので、そういう世界があるのです。

嘘を言っているわけでないですね。


ですからエリシャはその若者のためにお祈りをしました。

すると、さっきまでは何も見えなかった霊の世界のものが現実の中にあり、火の馬と戦車がたくさん見えました。



恐れも一瞬にして消えていきました。

見えていない時は恐れがいっぱいありました。


しかし霊の目によって、自分たちを助けるために来ている御使いたちを見た瞬間に、自分が恐れたことが馬鹿馬鹿しくなったと思います。





サタンの策略





私たちは危機がある時に、ますます神様の力に頼らなければならないです。


人々は危機があると、危機の中に飛び込んでいきます。

自ら飛び込んで行ってそこから出ることができないです。


『もうだめだ。もう私は終わりだ。もう私は死ぬんだ』という否定的な思いしか持たなくなります。



悪魔はすごく巧みであります。

悪魔は言葉と思いを通して私たちを攻撃してきます。


私たちの感情をすごく悲しくさせたり、辛くさせたり、そういう言葉を掛けてきます。

悪い言葉、否定的な言葉、攻撃的な言葉で私たちを傷つけていきます。


その後に、悪魔は私たちの思いの中でも働き、自ら沈んでいくように、「もう私は終わりだ、もうだめだ」と、戦う力を失くしていきます。


私たちはその時にどうしますか?



私たちは問題が大きければ大きいほど、絶望が大きければ大きいほど、私たちは神様の力に頼らなければならないです。


神様は助け主で、全能なる力があります。

私たちを どんな環境の中でも助けることができる神様です。




ですから神様は『いつも呼び求めなさい。わたしを呼べ』と、それは力があるから、あなたが呼んだら すぐに御使いを送るから心配するなと、神様が語ってくださる言葉であるんですね。








ダビデはあらゆる戦いをしましたが、彼はその戦いの中でも絶望的にならなかった理由があります。

その時のダビデの状況が22章1節にあります。


【第2サムエル記22章1節】

主が、ダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、ダビデはこの歌のことばを主に歌った。


【第2サムエル記22章19節】

彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。


彼自身がいつも神を呼んで神様の助けを求めたので、神様は彼を支えて下さいました。

敵に渡さず、いつも助け出して下さいました。


災いの日、私たちを倒すために 私たちの信仰を奪うために災いがきます。


人々は良い時に信仰を失うよりも、災いの日に信仰を失う人が多いです。


絶望的になるのです。

『あぁ、神様が私を捨ててしまった。あぁ、神様は私を助けてくださらないんだ』と、勝手に思ってしまいます。


かといって、神様に必死に頼ってもいないのです。

神様に祈り求める前に、ただただ絶望して何もしないことが多いです。



でも神様はいつも私たちに語ります。

『災いの日には主に頼りなさい』


その時は断食してまでも神の前に来て神に求めてください。


そういうことをして助け出されない人はいません。

神様はいつも助け出してくださる方です。








恐れがあると私たちは祈りもできなくなります。

信仰がないと祈りはできないです。


「祈ってもどうにもならない」というのは不信仰ですね。


こういう時に祈らなければ、私は助かることがない と考えることです。


患難の時、災いの時は人に頼るのではない、絶望するのではない、恐れるのではない、祈ることだ、神様に頼ることなんだ、そのように自分の心を奮い立たせなければならないですね。



私たちが恐れたり失望する必要がない理由、それは何でしょうか?

「毎日が死の連続です」と語ったパウロは どういう思いを持っていたのかを人々に教えています。


こういう言葉を私たちは心に蓄える必要がありますね。


【第2コリント4章7-9節】

私たちは、この宝(イエス様)を、土の器(自分たち)の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。


この世にあっては患難があります。

この世は荒野です。


しかし私たちは荒野を通る時も患難を通る時も、「圧倒的な勝利者になるんだ」、これが神様が私たちに語る言葉なんです。


なぜなら私たちの中におられる主は、力ある神様であるからです。

私たちを敵の手には渡さないです。



イエス様に対する預言もそうですね。

かかとを噛むサタン、イエス様はそのサタンの頭を砕きました。


どちらが勝ちましたか?イエス様が勝ちました。

イエス様が勝利者です。


その勝利者が私たちの中に共におられます。



色んな環境を通して苦しみが来ます。

災いも来るんです。


しかし、それによって私たちは倒れることはないんだ、すなわち負けることがないと宣言してあります。

ですから恐れる必要がないのです。


私たちは必ず勝利するんだと思ったら恐れないですね。



恐れる人は勝利できないです。

恐れに飲まれてしまうのです。


しかし恐れのない人は、環境、問題、災いは、私が主に頼るならば力ある神様が来て、私をそこから救い出し、そして敵に対しても神様が必ず敵を滅ぼすんだと思えば、私たちは答えを持っているのです。


「最後に勝利するのは私である。患難でもなくて 悪魔でもない。私が勝利するんだ」と思えば、その間に様々なことがあっても恐れる必要がないです。



最後が問題です。

最後に必ず勝つんだと思ったら忍耐もできるし、その中で私達は平安の心を保つこともできます。








そして患難の中でも、私たちはますます目が開かれるように祈ることです。


目が開かれると、私たちは肉の目で見えるものを見なくなります。

霊の世界を見るようになります。


この同じ時間に、見えないところで神様がこのように(天の軍勢を送ること)働いてくださるんだと思うならば、私たちは神様を見るようになるんですね。

人や環境を見なくなります。



私たちはエリシャがどんなに厳しい環境の中でも心配したり恐れたりする姿を一度も見たことがないです。

否定的な言葉、不信仰の言葉を語ったことがないです。


いつも「できるんだ。信じる者にはどんなことでもできるんだ」という思いです。

信仰の人は皆そうでした。


ですから信仰によって生きるということは、どれほど素晴らしいことか分からないです。



自分を助ける人が一人もいなくても、全世界の主権者である神様が自分の味方になるならば何を恐れる必要がありますか?

肉体の命はどうでも良いことなのです。


私たちはこの地上で、この肉体の中で永遠に生きることはないです。

(肉体を)脱ぎ捨てる時が来ます。


そしてその後に私たちは命の衣を着るのです。


永遠の世界がいつもそこにあるんだと、それを考えるならば、別に この地上に執着する必要もないですし、ここで起きているあらゆることで そこまで恐れたり心配する必要がないです。



全てのものは過ぎ去っていくんだと思えば良いです。

全てが一時的なものであるからです。


そして、「私はどんなことの中でも 私は勝利者として残るんだ。最後に勝利するのは私である」と、このようにいつも自分の中にそういう言葉を持って生きることです。


そうするならば私たちは信仰によって何でもできる者になります。

強い者になります。



神様は私たちの口から 恐れの言葉、不安な言葉、心配の言葉、否定的な言葉が出てくると、すぐに主が語ることは、『信仰のない者だ、信仰の薄い者だ』
そのような言葉を語るのです。


『環境が悪い』そのような言葉を語るのではないです。



信仰があれば乗り越えるのに、信仰があれば勝利するのに、信仰があればあなたの問題は解決されるのに、信仰を求めなさい。霊の目が開かれることを求めなさい。御霊に満たされることを求めなさい。


そうしたら心が強くなると神様が語ってくださいますので、『私たちは信仰によって生きる』のです。


義人は御言葉によって生きます。

神の口から出てくる言葉によって生きるのです。


そのことを私たちは知らないといけないです。


アーメン .。゚+.(・∀・)゚+.゚


2022.2.16
水曜礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会


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