テーマは『大祭司としての祈り』です。
【ヨハネ17章6-19節】
1-5節はイエス様が十字架にかかるので、ご自身のために祈りをしました。
そして(6節からは)弟子たちに祈る、イエス様の祈りであります。
20節からは、未来の信徒たちのためにイエス様が祈る姿です。
イエス様がどれほど私たちのことを考えてお祈りをしているのか、
(この場面は)イエス様が十字架に架かる直前です。
イエス様は自分の為よりも、弟子たちのために祈る姿があります。
一切、世的なことは祈っていないです。
しかし、私たちはどうでしょうか。世的なことをたくさん求めます。
自分達の祈りと、イエス様の祈りが根本的に違います。
ですから、私たちはイエス様のみこころを知らないです。
6ー9節を見ると、弟子たちの霊的知識のために祈りました。
しかし、まだ彼らの中に守っていく力はありませんでした。
弟子たちはイエス様と3年間一緒にいる時に、「私たちは絶対に主を身捨てることはありません」と
語っていましたが、実際にイエス様が捕えられて十字架につけられる時には、1人残らず逃げて行きました。
そこでイエス様は失望するのではなく、そのことを全て知りながらも祈りました。
「1度はみことばから離れた者であっても、その時はあなたがたにみことばの知識がないから。
悟っていないから、そういう行動を取ったんだ。
立ち返ってあなたがたがみことばを守る者になるようにわたしは祈りました。」と。
(父なる神様は天地を造られ、イエス様の祈りを聞いてくださる方であります。)
イエス様が語る弟子とは【この世から取り出して、わたしにくださった人々】です。
その認識を皆さんが持たなければならないです。
この世の人々と自分が変わらないのなら、弟子ではないです。
何か訓練を受けた者が弟子ではなく、この世から取り出されてイエス様のものになってあるならば、
私たちは皆、イエス様の弟子であります。そこで訓練を受けるならば本物の弟子になっていきますが、
そうではない者たちは、何もしていない者になります。(=実を結ばない者です。)
みことばを知るということは、神を知るということであります。
神様の真理を知り、神様のみこころを知って、イエス様の事を知ることであり、自分の姿が見えて来ます。
聖書の言葉を読めば読むほど、神を知ります。読めば読むほど、神のみこころを知ることができます。
自分はどういう風に生きたら良いのか、それを私たちに教えてくださいます。
その為にイエス様は弟子たちのみことばに対する知識のために祈りました。
「彼らがみことばを聞いて悟り、みことばを聞いて守りますように。
わたし(イエス様)のことを確かに知りますように。」
口で言うだけではなく、そのことをイエス様は祈りました。
私たちも祈る時にそのような祈りが必要です。
「私がみことばを悟るように助けて下さい。神様をもっともっと知ることができますように」
聖書を読む時に「みことばを悟らせてください。私はみことばの知識が乏しいです。」
10-12節では、弟子たちの忍耐のために祈りました。これはとても大切なものであります。
聖書には「忍耐」という言葉がたくさん出てきます。何に対して忍耐するのでしょうか?
それは信仰を守るために生じてくる苦しみであります。
世の中は罪に染まっているところで、誘惑がたくさん来ます。
誘惑は甘いものですので、その誘惑を振り切って戦う時に必要なのが「忍耐」であります。
最近は、普通の人が平気で罪を犯しています。昔はヤクザや不良が罪を犯していました。
しかし最近の姿を見て下さい。そのような人達ではないです。
どこにでもいるような大学生、高校生、中学生、主婦・・・。恐ろしすぎる罪を犯しています。
私たちは悪を犯さないように耐え忍ばなければなりません。
自分自身を守る一番の姿は、罪を犯さないことであります。罪を犯したら(世の人達と)同じになります。
忍耐はジッとしていることではなく、それが自分に入らないように徹底的に戦うことであります。
辛くてもしんどくても戦って守ります。
13節でイエス様が1つの祈りをしました。「主よ、彼らがいつも喜んでいますように。」という祈りです。
いつも忍耐で苦しいというのではなく、私たちがいつも喜びで溢れるようにと祈りました。
艱難と迫害と喜びは消えるものではないです。
パウロは鞭打たれた時にいつも喜びに満たされていました。
忍耐はしなければならないという義務ではないです。
主の喜びがあると、そういうことがあっても平気であります。
クリスチャンとは、どんな時でも喜んでいるのがクリスチャンだと思います。
イエス様はどんな苦しみを受けている時も悲しんでいる姿は一切ないです。
人々が滅びていく魂を見て悲しむことはありますが、イエス様ご自身の人生について呪ったり、
悲しんだりしたことはないです。いつも喜んでいます。
世の楽しみを求めるのではなく、楽しく生きて幸せになる道を選ぶのが
神様が喜ぶことであります。喜びがないのは間違えています。
いつも喜びがないと、イエス様のみこころからズレています。
喜ぶというのは義務ではないですが、主が私たちの喜びのために祈ってくださっているので
私たちがそれを期待することであります。喜ぶことが主のみこころです。
どんな苦難の中でも誰にも喜びを奪われないように、それを自分のものにしていくことです。
暗い顔をして生きるのがクリスチャン。――とんでもないことです。
「主よ、私に今日も喜びで満たしてください。主の喜びで満たしてください。」
これは私たちがみことばを守っていく時に喜びが出てきます。満足感が出てきます。
しかし、みことばから離れて罪を犯したならば、罪責感が出てくるので喜びが消えていきます。
14-17節は、イエス様は弟子たちが聖くなることを祈りました。
弟子たちはイエス様の証人であります。「天の御国の福音を伝えなさい。」
世に生きていますが、世に属する者ではないです。世に生きていながら、世に属さない為には、
自分が聖い者にならなければいけないです。
光が暗闇の中に入って消えるのではなく、暗闇の中で光を放ちます。
塩は腐敗していく中で、それを止める働きをします。
聖くなる方法はみことばであります。みことば(真理)は基準です。
善悪の基準は自分の考えではなく、真理であります。そこからズレているのは罪になります。
罪はどんなに小さなものでも汚れてあります。
【Ⅰテモテ4章5節】
私たちがみことばを読むのは、それは生き方の基準だからです。
どの時代でも変わらないのが真理であります。
私たちが真理を知って守っていく時に、まず自分達が聖い者になっていきます。
18-19節では、弟子たちの使命の為に祈りました。
「世に遣わす証人として遣わす。」
「私はあなたと何にも違いがありません。私から見たら、あなたは相変わらず汚れていますね。
あなたを見たらどこにも喜びがないですね。あなたを見ていたらキリストの知識もないんですね。
学ぶことはありません。」
そうなると、収穫の為の働き人どころか、キリストに対して「あなたは使いものにならないなぁ」という者に
なります。
イエス様が1つ1つのことを私たちのために祈ってくださいました。
「私に対する期待なんだ。私がそうなることをイエス様はすごく願っているんだ」と。
私たちは主の祈りを通して、私たちに望んでいることを悟り、
その祈った通りに生きることが主が喜ぶことであります。祈りと反することをするならば、
イエス様はとても悲しみます。
これはイエス様が十字架にかかる前に祈りました。私たちにたくさんの期待を持って祈りました。
弟子たちは1人以外は使命を全うして生きました。
それをバトンタッチして、今 私たちが受けました。
イエス様の期待に外れないように、そういう者になろうという決心。
これがみことばを聞いている人の姿勢であります。 ヾ(´ω`=´ω`)ノ
2012.9.9
聖日礼拝メッセージ
八戸ノ里キリスト教会
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