テーマは 『 イエス様が教える祈り方 』 です
今日はお祈りについて考えていきましょう。
みなさんは普段お祈りをされているかと思いますが、そもそもお祈りとは何でしょうか?
普段のお祈りを一度振り返ってみてください。
「神様、この問題があります。解決してください。」「神様、病気を癒してください。」「祝福してください。」など色々な願いを持ってお祈りをした方が多いのではないでしょうか。
確かに私たちが必要なものがある時に必要なことを求めて祈ることや、神様に助けを求めることは悪いことではありません。
聖書でも、「求めなさい、そうすれば与えられます」という御言葉もありますし、お願いすること自体は悪くないのです。
しかし、もし そればかりになってしまっている場合は少し注意が必要です。
『お祈り=神様にお願いごとをする』、要求の時間になっているからです。
これは本来のお祈りの意味とは少し異なってきます。
聖書には、イエス様が直接私たちに「こう祈ったらいいよ」と教えてくださっている箇所があります。
主の祈りですが、これは主が教えてくれた祈りであり、本当は弟子たち、私たちがどのように祈るべきかの模範の祈りです。
弟子たちの祈り、私たちの祈りです。
そのイエス様直伝の祈り方について詳しく見ていきながら、自分の普段のお祈りと比べつつ、どのように違うのか、足りない部分がどこか、また、実際にどのようにお祈りすればいいのかを学んでいきましょう。
【マタイの福音書6章7-15節】
また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
主の祈りを具体的に見ていく前にまず7-8節を見ていきましょう。
【マタイの福音書6章7-8節】
また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
異邦人、特にその当時のギリシャ人は、ギリシャの神々に祈る時に その神々の名前をたくさん挙げながら、どれかには聞かれるだろうと思い、祈っていました。
だからこそ、同じ祈りを何回もただ繰り返していました。
でもこれは神様が私たちに求める祈りの姿ではありません。
長い祈りをすると聞かれるという考えではなく、どのような気持ちで祈るのか、祈りをどのように捉えているのかが大事なのです。
何も深く考えずにとりあえず長く祈ろう、繰り返して祈ればいつか聞いてくれると思って、呪文のように何度も唱える必要はないのです。
神様は唯一無二の私たちの神様であり、私たちが必要なものはすべてすでにご存じであり、私たちの祈りにも耳を傾けられています。
大切なのは、お祈りの長さではなくて、お祈りに対する私たちの姿勢なのです。
一つ気をつけたいのは、長い祈りが悪いという訳ではないです。
意味もなくただ繰り返す祈りが不要なだけであって、神様としっかり交わりをしながら祈りが長くなるのはもちろん大丈夫なのです。
イエス様も一晩中祈ることもありました。
ポイントは、意味のない言葉を長く並べるのではなく、お父さんに話すように意味のある言葉を会話として、話していくことです。
長く話さなくても、何回も繰り返さなくても、天におられる父、神様に伝わる祈りがこのイエス様が教えてくれた祈りなのです。
この主の祈りで大切なポイントの一つが、ここで出てくる主語は「私」ではなく、「私たち」になっていることです。
お祈りは、自分のためだけではなく、周りにいる人、兄弟姉妹も含めて、みんなのためでもあるのです。
イエス様もよくお祈りの中で、人のため、また、私たちのために祈っておられました。
私たちも自分のためではなく、周りの人のために祈るべきです。
それでは、一節ずつ見ていきましょう。
だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
私たちの神様は天におられますが、私たちの父なのです。
私たちと親しい関係であり、家族としての深いつながりがあります。
この天におられる私たちのお父さんは誰よりも私たちのことを気にかけ、関心を持ち、いつも私たちとの交わりを大切に、会話を大切に考えられています。
イエス様もこの地におられた時、いつも天におられる父、神様に対して呼びかけ、お祈りをしていました。
いつもコミュニケーションを取りながら、父の意思が、御心がなされるようにいつもお祈りしていました。
私たちもイエス様がされたように、天におられる私たちのお父さんにお祈りを通して話をするのです。
お祈りはお父さんとの親子の会話です。
そのお父さんに、初めに祈るのが神様の御名をあがめることです。
神様の御名を聖なるものとしてあがめること、つまり、神様の聖なる御名を尊敬し礼拝することです。
お祈りはまず天におられるお父さんに話しかけ、お父さんを尊敬し、礼拝することから始まります。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
この御国は、これから終わりの時代を経て、来る新しい天の御国のことです。
神様が元々造られた完璧で平和な、愛があり、神様との交わりがいつもあったエデンの園をもう一度造り変えられます。
その新しい神様の御国が来るように、神様にその御国を送ってくださるように祈るべきです。
その御国では、私たちが今経験している苦しみや、痛み、罪、あらゆる悪いものはなく、すべて神様が造られた美しいものと神様との直接交わりができる場所なのです。
その御国が来るように祈るべきです。
また、御心の天になるごとく地にでも行われますように、は もちろん神様の意思が、御心が今のこの地でもなるようにということでもありますが、ただ神様だけがそのようにするのではなく、私たち自身もその神様の御心の通りに歩み、神様の御心を実行する者になることが大切です。
それは、神様だけではなく、私たちの日頃の行いのことも指します。
天ではすべて神様の御心がそのまま完全に行われています。
しかし、地ではその御心を行わないように邪魔をするものがいます。
その邪魔する者が働くことのできないよう、どんなことがあったとしても、神様の御心の方がなされるようにお祈りすることです。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
日ごとの糧=日用の糧=その日(来る日)に必要なもの。
英語では“daily bread”で、マナと同じです。
エジプトを出る時に、天からマナが降ってきて神様がその日一日一日に必要な食糧を与えて、それで人々は毎日を生きていました。
自分が食べる分以上に蓄えようとしても、腐ってしまって食べることができませんでした。
なぜでしょうか?
それは、神様がその日その日に必要なものを備えてくださるからです。
一日一日その日に必要なものを祈り、与えられていくことで、神様が私たちに日々必要なものを与えてくださっているということを覚え、神様に頼って生きているということを実感しながら生きることができるのです。
もし神様が必要なものをすべて私たちに与えて、一生困らないとなってしまったら、きっと神様から与えられたことも忘れ、感謝も忘れ、自分勝手に生きる者になると思います。
日々神様によって生かされている経験ができなくなります。
本当はすべて神様が私たちに必要なものを備えて与えてくださっているのです。
神様は私たちが必要なものはすべてご存知です。
また、それもすべて備えてくださる方なのです。
だからこそ、続きの箇所でもあるように、明日のことは明日が心配するから、その日に必要なものを求めて生きることです。
その時々に必要なものは神様が与えてくださる。
神様にその時々に必要なものを求めてお祈りすることです。
祈りは私たちの欲のため、欲を満たすためにあるのではありません。
私たちの欲のためではなく、必要のために祈っていきましょう。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
負い目=借り、借金
ユダヤ人は、罪=debt(借金)として捉えていました。
罪は代価を支払って返さなければならないものです。
私たちが神様に逆らい、神様の御心ではないことを行って罪を犯す時、私たちは神様に借金を作っているのです。
その借金である罪、負いめのために、罪の赦しを神様に求めないといけません。
しかし、その前に、まず私たちは 私たちに悪いことをした人を赦さなければなりません。
人を赦さずに『自分だけ赦してもらおう』は神様が望まれることではないのです。
人のことをどうしても許せないと思う人は、神様からの赦しを経験していない可能性があります。
つまり、イエス様を信じて、罪を赦されて救われたと思ってはいますが、実はまだ救われておらず、神様の赦しを経験していない人です。
私たちが犯してきた罪、その代価の大きさを悟った人、そして それをイエス様が十字架の上で代わりに支払ってくださったこと、その赦し、恵みの大きさに悟った人。
その人は、他の人が何か悪いことをしたとしても、その人のことを赦すことができます。
なぜならば、神様がそれよりも私たちの大きな罪、神様に対して歯向かい、犯した罪さえも赦してくださったその恵みの大きさを知っているからです。
「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく我らの罪をもゆるしたまえ」と祈る時、私たちは まず周りの人々のことを赦しているのか、赦していない人はいないかを探り、もしいれば まずその人のことを赦し、そして神様に私たちの罪も赦してもらうように祈っていきましょう。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン〕
試みに会わない=罪を犯さないようにする
罪を犯す時は、私たちが試みに会っている時です。
誘惑を受ける時や、自分の弱い部分に対してのサタンからの攻撃を受ける時、それに打ち勝つか、負けて罪を犯すかのどちらかの結果になります。
しかし、この試みにそもそも会わないように祈ること、たとえ試みに会ってしまったとしても その試みの中で負けたり、誘惑に陥ってしまったりしないように祈ることが大切です。
また、悪、つまりサタンやサタンからの攻撃、災害も含めて私たちを苦しめるものから救い出されるように、お祈りすべきです。
神様は苦しみの中で必ず脱出の道を与えてくださる神様です。
聖書でも患難があるとはっきり書かれていますが、その患難や迫害から救い出されるように、神様の助けを呼び求めるべきです。
神様は助けを求める時に答えてくれる神様だからです。
ちなみに、最後の “〔 〕” 部分は、聖書が複写されていた初期の頃にはなかった部分だと言われています。
しかし、その当時、お祈りを捧げる時はいつも最後にこのような主へ栄光を返す頌栄、つまり締めのお祈りがありました。
習慣として当たり前にしていたことなので、元々は書かれていなかったようですが、後世のために付け足したようです。
ここはそのまま、あるものだと思って取り扱っていきましょう。
お祈りの最後は、いつも神様にすべての栄光を返すことです。
神様が主権を持っておられることを認めることです。
この主の祈りをまとめると、「上から下に」つまり「天から地」の順番で、神様への礼拝から始まり、次に私たちの身の回りのこと、罪の赦しを祈って、最後は神様に栄光を返すことです。
お祈りはこのように天におられるお父さんである神様と、地にいる私たちの大切なコミュニケーションなのです。
今日も神様と交わりをしていきましょう!
アーメン (。・ω・)ノ゙
2021.6.13
聖日礼拝メッセージ
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