テーマは 『 イエス・キリストの十字架とあなたはどんな関係ですか 』 です
【Ⅰコリント1章18節】
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
今日は教会歴においてはシュロの日です。
イエスは十字架にかかるためにエルサレムに入りました。
それを知った人々は、今度こそイエスがユダヤの王になると思って、大歓迎しました。
その時、人々はシュロの木の枝を取って、出迎えのために出て行き、
“ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。”と大声で叫びました。
その日をシュロの日と言います。
人々にとっては これから自分たちに何か良い事が起こるという期待が大きかったです。
しかしイエスにとっては 苦難の十字架の道が始まる日でした。
それを知っているのはイエスご自身だけでした。
十字架が見えていない時は イエスは人々に歓迎されましたが、十字架が見えた時から人々の反応が分かれ始めました。
十字架に対して人々はどのように変わっていったでしょうか。
そして、みなさんはイエス・キリストの十字架と どのような関係ですか。
1.十字架を愚かと思い、毛嫌って呪う人
「十字架??あれは凶悪な犯罪人が受ける罰ではないか。」
「何だ、あの人は神でもないのに、自分のことを勝手に神と言い、人を惑わした者だったのか。神を冒涜した人は死ななければならない。騙されたことが悔しい。これ以上は騙されないぞ。」
このように怒りが込みあげてきた人たちは激しく叫びました。
「除け。除け。十字架につけろ。カイザルのほかには、私たちには王はありません。」と、世の王を自分たちの王として選び、まことの神を殺してしまいました。
キリストを十字架につけた彼らは 十字架で苦しんでいるイエスを見て、あざ笑って言いました。
「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら自分を救ってみろ。」
「おお、神殿を打ち壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
「他人を救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」
このように偉い人たちも十字架にかかったイエスを呪いました。
世の基準で見る十字架は 彼らにとっては犯罪人、呪われた者、愚かな生き方をした者、生きていては困る者たちが死んで当然な場所なので、絶対受け入れることが出来ないものでした。
彼らは自分たちの知恵に頼って、それで満足して、十字架を信じるどころか、拒絶反応を起こして呪います。
死んでも関係を持ちたくない と十字架を遠くに投げる人たちです。
2.十字架に無関心な人たち
「あの人は悪いことをしていないと思うよ。毎日 病人を癒し、奇跡もたくさん行ったし、まじめで優しいし。」
「十字架にかかるとはかわいそう。あの人を殺すなんて悪いことをしたな。」
「生かしておけば もっともっと奇跡が見られたのに。病人が助かるのに もったいない。」
「良い人だったのに もういなくなった。でもどうして神と言った人が十字架にかかって死んだのだろう。」
「意味が分からない。もう死んでしまったから忘れよう。」
このように十字架のイエスに対して無関心に生きる人たちがいます。
「別にいなくても困ることはないし、あの十字架とはもう関わりたくありません。」
「他にも信じているものがあるし、あんな死に方をした人を信じるのはちょっと…。」
「もう良いです。自分も救えなかったでしょう。あの人より立派な働きをした人もたくさんいるし。」
キリストの十字架を “無力” だと思って、他に頼れるものを探して、それに目を向けて自分の都合の良いように生きている人が一番多いです。
この世がすべてで、この世で利益をもたらしてくれるならば 魂でも平気に売る人たちにとって、十字架は関わりたくないものです。
「神のことも、罪のことも、悔い改めのことも、地獄の話も聞きたくはない。別に要らない。」と十字架とは無関係に日々生きています。
私自身も信じる前はそのような者でした。
十字架はキリスト教会のシンボルでしか考えたことがなく、イエス・キリストが死んだ十字架だとしか思いませんでした。
なぜ死んだのかと一度も考えたこともなく、キリストの十字架に対して考え始めたのは信じてからでした。
それまでは自分にとって十字架はまったく関係のないものでした。
3.キリストの十字架から目を離さない人々
実際にキリストが十字架にかかった時、十字架の真の意味を知っている人はイエス・キリスト本人以外には誰もいませんでした。
弟子たちも主の母であるマリアも知りませんでした。
キリストは一人で孤独に死んでいきました。
医者たちが、“キリストがどのくらい苦痛を味わったのか”を医学的に検証しました。
その話を聞いた時に、私たちの想像をはるかに超える痛みでした。
汗が血のしずくになるまで祈った時から、体の中ではストレスで血管が破裂していました。
裸にされてローマの兵士たちが力強く打ったむちで肉が裂かれ、神経が痛み、骨までも見えたと言います。
出血によって歩くことが出来ないほどの貧血状態に陥るとも言われました。
十字架の上ではさらに激しい痛みがあり、息をするたびに全身に鋭い痛みが走るので、ことばでは言い表すことが出来ないほどの痛みだと聞きました。
その激しい痛みの中でもイエス様は自分を十字架につけた人々を赦しました。
そして、涙を流しながら十字架を見上げる人たちがいました。
十字架の意味はまだ分かりませんが、主を愛して主に仕えていた人々でした。
たとえ人々がイエスを激しく呪っても、その人たちは主が与えて下さった恵みが忘れられません。
その愛を裏切ることが出来ません。ただ涙を流しながら、主の死を悲しんでいました。
私自身、何日間も ずっと心の中で流れていた賛美がありました。
韓国の賛美ですが、「主はなぜ私を愛したのか。なぜ私のためにカルバリに登らなければならなかったのか。なぜ私のために十字架にかからなければならなかったのか。」という歌詞です。
そうしたら その賛美の中にペテロもパウロも入って来た思いがしました。
彼らも同じ賛美をしているように感じました。
【 ペテロ 】
「主を三度も知らないと裏切った私をどうして赦し愛しておられますか。なぜ私を愛し、十字架にかかりましたか」
【 パウロ 】
「主を嫌い、教会とあなたと信徒たちを迫害した私をどうして愛して、私の罪のために十字架にかかりましたか。」
私も言いました。
「自分勝手に生きて神様を悲しませた私、多くの罪を犯した私をどうして愛して下さったんですか。なぜ主は私のためにカルバリに登らなければならなかったのですか。」
繰り返し心の中で賛美しました。
なぜ私が主に愛されているのか、なぜ私が赦されているのかがわかりません。
その愛から離れることが出来ないから主の十字架を見上げています。
主の赦しが十字架から流れるので主の十字架を離れることが出来ません。
「主よ。なぜ罪のない方が罪人である私のためにその激しい苦しみを受けなければならなかったのですか。」
罪赦して下さる十字架のキリストから離れて行く所がありません。
目が開かれ十字架に隠された恵み、祝福、神の力が見えてきました。
イエスが罪人ではなく、犯罪人でもなく、死んで当然な人でもなく、人を騙す者でもなく、生きてはいけない人でもなく、神を侮辱した人でもなく、自分を救えない人ではないです。
キリストを十字架につけた偉い人たちや呪った人たち、無関心であった人たち、知らなかった人たちや私たちが 本当は主がかかった十字架にかからなければならない者です。
自分に代わって死んで下さった方を愚か者と思っている人がいるならば、その人は世界一愚か者です。
キリストを侮辱するものは神を侮辱する者で、罰を免れることはありません。
もう一度十字架を見て下さい。
愚かに見えますか。関わりたくない十字架に見えますか。
それとも十字架を見て、「なぜ私を愛して十字架にかかりましたか」と涙が出てきますか。
。゚(゚´Д`゚)゜。
2015.3.29
聖日礼拝メッセージ
八戸ノ里キリスト教会
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