からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2014年01月

キリスト者になる方法は?

テーマは 『 キリスト者になる方法 』 です

【ヨハネの福音書3章16-21節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを 持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあって なされたことが明らかにされるためである。

みなさんはどのようにしてイエス・キリストを信じるようになったでしょうか。
それは一人一人違うと思います。

信じるようになったことは大きな祝福であります。
今すぐには分からなくても、私たちが世を離れた時に 救われたことが本当に素晴らしい祝福であったことが分かると思います。

「福音を一度も聞いたことがない」や福音を聞いても信じない人はとても残念であります。


私たちが伝えても、キリスト教を反対する人が多いですね。良いことを伝えているのに、なぜ受け入れられず反対されるのでしょうか ――?

その理由は様々だと思いますが、その中でも キリスト教に対する間違えた先入観があるので拒否する人が多いです。

しかし、伝える人たちが正しく伝え、聞く人が正しくキリスト教に対して理解するならば、キリストを信じる人が多いと思います。


キリスト教は人間の根本的問題を扱う宗教であります。

信じたら天国、信じなかったら地獄 それだけのことではないです。これは福音ではないです。
それだけを言うならば多くの人たちが拒否します。「天国も地獄も信じない。」「死んでみないと分からない。」「別にどちらでもいい。」等
あまり良い反応はなく、キリスト教に対する好感度が下がってしまいます。

それ以前に、本質的なものに触れなければなりません。




①人間は認めたくなくても、本質的に罪の中から生まれた暗闇の子です


まず、私たちが罪人であることを伝えないと何も始まりません。

聖書が私たちに対して語る真理の言葉は、「義人はいない。ひとりもいない。」、「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず。」です。


【エペソ2章1節】

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって

これらの言葉を総合してみると、一言で皆が「罪人」であるということです。
「私は一体何者なのか」と悩む人が多いですが、私たちは「人間は誰もが罪人です」と答えなければなりません。


聖書で 自分たちは罪人ではないと思っていた人たちが、姦淫の現場で捕らえた女の人をイエス様のところにつれて来て、「モーセは律法の中でこういう女を 石打ちにするように命じています。ところであなたは何と言われますか。」と言った人には罪の意識がなかったと思います。
私たちもモーセの律法にそのように書かれているからと石を投げたと思います。そうしたら女性は殺されていたでしょう。
しかしその時、イエス様は彼らに向かって「あなたがたのうちで罪のない者が 最初に彼女に石を投げなさい。」と言うと、年長者から ひとり ひとり離れていき、誰一人残りませんでした。

これはイエス様が人間の本質に迫ったことです。「あなたたちの罪はないのか?」ということであります。


私には罪がないと言える人は1人もいません。すなわち罪人であります。

アダムから罪を犯しました。エバも罪を犯しました。その息子・長男のカインも人殺しをしました。
初めから罪にまみれたのが人間であります。神様は良いものを造りましたが、人間が罪を犯しました。
その子孫がすべて罪人です。これを私たちは人々に伝えることであります。

私たちは生まれながらに罪の中から出て来て、そして罪を犯している者だということに出会わないと 神様の存在がいらなくなります。


【創世記6章5節】

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

いつも悪い方向に向かっていくのです。自分の心を見てもマイナス(否定的)に傾いていきます。そのことを神様がはっきりと語ってくださいました。


【エレミヤ17章9節】

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

人間は2つのものを持っています。偽善者であります。

心の中にいっぱい悪いものを持っていながら、外見は良い人のフリをするのです。
心の中では他人に対する憎しみがいっぱいですが、「私はあなたを愛しています。」と笑顔で語るのです。
ですから人間ほど恐ろしいものはないです。
動物には出来ませんが、人間は巧みに生きているのです。ですから罪人ではないと言える人は1人もいないです。 もし「罪人ではない」と言う人がいるならば、その人は嘘つきであります。

哲学では、人間の存在に対して出した結論は、虚しいということです。




②神様は光であり、そして罪もなく聖い方です


光が世に来たと 今回のテーマである ヨハネの福音書3章19節に書かれています。

イエス様は、自分のことを世の光であると語って下さいました。
光ということは、そこに闇がないことです。罪は暗闇です。罪を犯した人間は光ではなく暗闇なのです。

罪人たちは、誰もが暗闇の中を歩んでいて何も見えないので自分がどこへ向かって行くのかも全く分からないです。

その暗闇でさまよっている者たち、虚しく生きている人たち、滅びに向かって歩んでいる人々を救うために 光であるイエス様が 神様に遣わされて地上に来られました。


さまよっている人たちに必要なものは何でしょうか ――? 食べ物ではないです。
その人たちにとって大切なものは「光」であります。

罪の闇を追い出すために 光であるイエス様が来られました。
闇と光は共存することができません。闇は光によって追い出されます。

自分の中にある闇を追い出すためには光であるイエス様が必要です。光であるイエス様を心の中に迎え入れるならば闇は消えていきます。


しかし、光を受け入れない1つの理由について、暗闇のわざを捨てたくなく、自分が罪人であることを認めたくない人はキリストを信じようとはしません。


【ヨハネの福音書3章19-20節】

光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

悪いことをする者は光を憎み、 その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

「私は罪人です。わたしはイエス様が必要です。」と言う人は、キリスト者になれます。




③私たちはイエス様によって天の父なる神の元へ行くことができます


私たちが人々に伝える時に、天国のことをいきなり語るのではなく、①と②を伝えた後に語ります。
世の中の宗教には、自分たちが語る天国のような場所がありますが 次のように語っています。


【ヨハネの福音書14章6節】

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることは ありません。

もし 私たちが天国に行きたいならば、キリストを通らなければなりません。
キリストの十字架が地上と天国を繋ぐ道であります。
世の宗教は「私たちにも救いの道があります。」と言いますが、それは届かない道であります。


また、神様は私たちを天国へ強制的に入れる方ではありません。
その道を選んで行くか 行かないかは私たちの自由意思、私たちの選択に任せています。

自分でよく考えて自ら決定するようにして下さいました。
これが福音であります。私たちが福音を正しく伝えて相手に委ねることであります。むりやり「信じなさい。」と言う必要はないです。
耳のある者は聞きなさいと神様が語りました。


自分たちがキリスト者になるのも、この過程が必要でありますし、私たちが他の人たちに福音を伝える時も きちんと詳しく説明しながら伝えることが大切です。

そうしないと信じたくても何を信じたら良いのか分からず、自分が何者で キリストがなぜ必要なのか、天国にはどのようにしたら行けるのかが分からないです。


  • 人間は誰もが罪人であること
  • 暗闇の中にいる罪人たちを救うために、光であるイエス・キリストが来られたこと
  • イエス・キリストが天の御国へ行ける唯一の道であること

このことを正しく知り、正しく伝えてください。

それによって相手の人が受け入れるならば、それから神様のみことばを学ぶことでありますし、みこころを知るようになります。
クリスチャンとしてどう生きるべきなのかを教会に来て、みことばを学びながら成長していきます。

私たちは人間の本質に迫って語り、イエス様のことを伝えたら良いと思います。 (・◇・)ゞ

2014.1.26
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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恵みを理解した時以来

テーマは 『 恵みを理解した時以来 』 です

【コロサイ1章5-6節】

それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。

この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び 広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。

福音は良い知らせです。祝福の良い知らせなので、それが私たちにとって恵みであります。
聖書の中には「恵み」という言葉がたくさん出てきますし、礼拝メッセージでも「恵み」という言葉を何度も聞きます。
また、クリスチャンの交わりでも「恵み」という言葉をたくさん使います。

しかし「恵み」という言葉を聞いたり 使ったりするだけでは、私たちが恵みを理解しているとは限りません。

恵みを理解するならば、その結果 多くの実を結ぶことができますが、理解しないと実を結ぶことができません。

理解をすることと しないことでは、大きな差が出てきます。




①真理のことばの恵みを理解する


真理の言葉を聞いて悟ることは、神様からの大きな恵みです。
神様の恵みを理解することは、真理の言葉を理解することであります。


【ローマ10章17節】

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

みことばを聞かないと 信仰が始まらないです。
しかし私たちは聞くだけで信じることが出来るのかと言えば、そうではありません。

真理の言葉を聞いて ある人は理解して喜んでイエス様を信じました。しかし、ある人たちは毎日 神様が語っているにも関わらず何一つ理解することができませんでした。
まるでイエス様が語る言葉が外国語のように聞こえました。

私たちが御霊の実を結ぶためには、みことばを悟らないと実を結ぶことができません。

みことばの知識がたくさんあっても、その意味を理解しないとその人は絶対に変わらないです。
御霊の実は変わる人が結ぶ実であります。

真理の言葉は、私たちをキリストに導き、私たちを救うために与えられた神の言葉です。
この言葉を聞いて理解し、受け入れて信じ キリストから救いを受けることは、どんなに大きな恵みでしょうか。

真理の言葉を理解しないと、信仰生活は始まらないです。

そして、理解しないならば、その人の生活は変わることがないです。
私たちが御霊の実を結ぶためには、みことばを悟り、その中で私たちが変わらないと何も始まりません。


【マタイの福音書7章24節】

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

理解できていない者を賢い人とは言わないです。いくら言っても分からない者は愚か者であります。
しかし、聞いた言葉が理解できた者は賢い人です。
理解をしてみことばが落ちて種が蒔かれたので、そこから芽が出て実を結ぶようになります。

実際に行った人は、みことばの恵みを理解した人なので行うことができました。行ったことは実を結んだことであります。




②永遠の慰めと、素晴らしい恵みを理解する


【Ⅱテサロニケ2章16-17節】

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを 与えてくださった方ご自身が、

あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。

これを私たちが理解するならば、私たちはあらゆる部分で変わることができます。

神様の本質は慰め主であり、望みの主であります。

それは、主ご自身のためではなく、堕落した人間はその時から呪われてしまいました。
そしてあらゆる災いが入るようになり、重荷を負って苦労しながら地上で生きている私たちのために、神様は慰め主として 望みの主として近づき、 私たちに慰めを与え、望みを与えておられます。


【マタイの福音書4章23-24節】

イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、 中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。

人間は誰でもこのようなものを持っていますが、その人たちは何が欲しいのでしょうか――?
慰めであります。そして希望・望みであります。

そのようなものはどこにあるのかと人間は探します。
そしてイエス様に出会い、この恵みを受けた人たちが主を信じ、弟子になり、また彼らも出て行きイエス様がなさったように働きをして多くの実を結んでいました。
それによって神の国も広がって行きました。

主の働きをする人たちの姿を見ると、以前 神様によって苦しみから救い出された人が主のために働きをするのです。

永遠の慰めと素晴らしい恵みを理解する人は、絶望することがなく恐れません。
主が今も自分のためにその働きをしてくださると堅く信じることができます。




③自分に与えられた神の恵みが、どれほど素晴らしいかを理解する


【Ⅰコリント15章9-10節】

私は使徒の中で最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも 多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

パウロは恵みを理解したことによって、彼の人生は大きく変わりました。

パウロは、イエス様に出会うまでは自分は立派な働きをする役立つ者だと思って活動をしていました。
しかし、その活動とはキリストを信じる者や教会を迫害することでした。

そのようなパウロに、一方的な神の恵みによって、自分がやっていることがとんでもないことだということを知りました。
それによってパウロは理解する者になり、さらに神様はパウロを働き人として召されたことに 彼は死ぬまで感謝を捧げました。


私たちも同じような者であり、罪人であり、神を知らない者であり、たくさんの偶像崇拝をした者であります。
もし、神様が私たちを救い出してくださらなかったら 今もその中で何も知らずに歩んでいると思います。その先にあるのは永遠の滅びなのに――。

私たちはこのことを本当に理解しなければならないです。自分が受けた恵みを悟らなければならないです。

その恵みを悟ると、自分のすべてを捧げて主に従い 働き人になるのです。
働き人は嫌々 働き人になるのではないです。
自分が受けた恵みを本当に理解すると「命を捧げなさい」と神様がおっしゃると捧げるようになるのです。
イエス様は初めから命を捧げるようには言わないのですが、この人たちはイエス様が自分のために命を捧げたことを理解していますので
すべてを捧げる思いになっていきます。そして喜んで仕える者になります。

主のために自分のすべてを惜しまないで使って仕える人は、自分に注がれた神の恵みを知っている人です。
言われなくても、その恵みを理解しているので感謝に溢れて働くことができます。

恵みが理解できないと、いつまでも「これも あれも私のもの。恵みをください。他の人はたくさんもらっているので私は足りません。もっと恵みを!」と
動かないでいつも口だけを開けて、自分が神様に対して仕えるということに気付かないのです。


喜んで仕える人は恵みを理解したので、それが出来ます。
自分中心に生きるのではなく神様中心に変わり、多くの働きを通して神様に栄光を捧げるようになるのです。

私たちは神様から「命」という大切なものを受けているのです。

それ以外のものは、いざという時に何の価値もないです。
死が来たときに財産が何になるでしょうか。何も価値がないです。
それを持って天国へ行くことは出来ませんし、それが足かせになっていることが多くあります。

恵みを理解してください。そうすると、そこから私たちの新しい人生が始まるのです。
実を結ぶ人生に変わっていきます。 (´∀`*)

2014.1.19
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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みことばをさげすんではならない

テーマは 『 みことばをさげすんではならない 』 です

【箴言13章13-14節】

みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。

知恵のある者のおしえはいのちの泉。 これによって、死のわなをのがれることができる。

みことばとは、聖書に書いているすべての言葉ではないです。
その中には、人々の言葉やサタンの言葉や歴史の事も書かれていますので、神様が語る言葉のことを「みことば」と言います。

また、みことばのことを一番正確に書かれている箇所は、次のとおりです。


【ヨハネの福音書1章1節】

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

「言葉=神様」です。目に見えない神様は言葉で表します。それは神様ご自身なのです。

私たちは、みことばをさげすむということは、神ご自身を無視し、さげすむことになります。その結果、自分の身を滅ぼすことになります。

みことばをさげすんではいけない理由がいくつかあります。




①みことばをさげすむ者は身を滅ぼす

みことばをさげすむ人の姿がホセア書に書かれています。


【ホセア書4章6節】

わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。 あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。

知識とは、頭に入れる知識とは違います。それは神様を知ろうとする思いがないです。

みことばを知るには、耳が開かれていないと知ることができないです。耳が閉ざしていると、どんなに語っても1つも言葉が入らないです。

イスラエルの民たちに 神様はたくさんの言葉を与えてくださいましたし、律法を与えてくださいました。
そこで祭司が律法を朗読して教えていました。しかし、神様は祭司に厳しい言葉を語りました。
「あなた自身の中には、知識がない。」と、また人々にもまともに教えていませんでした。ですから言葉を聞いているのに何一つ変わりませんでした。

神様が絶えず預言者を遣わしてみことばを送るのに、「聞かない。悟らない。行わない。」のです。
そして違うことを行うのです。それは神様のみことばをさげすむ姿であります。

私たちが本気で耳を開いて、神様の言葉を聞くならば悟りがきて みことばが開かれるのです。


【マタイの福音書13章14-16節】

こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。 確かに見てはいるが、決してわからない。

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。 それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。

預言とは神様が預言者に与えた言葉です。
神様が言葉を聞こえないように邪魔をしているのではなく、神様がいくら語っても彼らが聞かないので 神様がこのような言葉を使いました。
集まった群衆の中には熱心に聞いて立ち返った人もいましたが、宗教指導者たちはいつも非難していました。
彼らは立派な服を着て、前に座って聞いていますが あら探しをするために来ていました。
彼らはみことばを悟らず、自分たちの思いだけでいっぱいでした。

これが神様の言葉をさげすむ者の姿であります。
聞く耳がなく、自分たちが一番(霊が)開かれた者であると思っています。
もし、私たちの中に「私には同じような思いがある。」「私はこういうことを決めているから、神様の言葉は聞き入れられません。」と言うならば、
それは パリサイ人と変わりがありません。

神様の言葉は常に上なのです。主が語ってくださる時は、私たちはストップしなければならないのです。
「アーメン」という言葉は「その通りです」という意味です。
「アーメン」と言って 神様が語る言葉を聞き入れて行う人が信じる人であります。

みことばを知らない人、悟らない人のことを聖書では次のように書かれています。


【詩篇49編20節】

人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。

悟りがなければ実際に滅びます。人間として悟らないといけないです。人間と動物の違いは「悟り」があるかどうかです。

なぜ人間が造られたのでしょうか――?
神様に仕えて栄光を捧げるために造られた者であるので、その役割をきちんと果たして初めて人間と言われるのです。
役割を果たしていないのなら、ノーベル賞をもらったとしても 神様は滅びうせる獣に等しいと語ります。




②みことばをさげすむと祈りの答えがない

私たちが祈っても聞かれないならば、とても虚しいでしょう。私たちは祈りを叶えて欲しいので神様に祈るのです。
しかし、断食をして祈っても祈りが聞かれないならば、その原因は次の箇所に書かれています。


【ヨハネの福音書15章7節】

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを 求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

みことばの中に留まっている人だけに神様が祈りを聞いてくださるということです。

祈りを長くするから 神様に祈りが聞かれ、祈りが短いから聞かれない ということではなく、イエス様は私たちが必要としているものをすべてご存知であります。
すぐに祈りが聞かれる人というのは、主の言葉の中に留まっているので与えられているのです。

ですから、みことばに留まっていないということは、祈りが聞かれないことになります。

神様の言葉をきちんと聞いて、その中に留まって悟るならば その時から祈りが答えられます。




③みことばをさげすむ者は神様に属しません


【ヨハネの福音書8章47節】

神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から 出た者でないからです。

とても厳しい言葉です。神の子どもと認められていないので滅びるしかないです。
神の子どもだけが天の御国に入れるのです。神様ご自身がその人のことを忘れてしまいます。




私たちはそうはなりたくないですね。そうならないためには私たちはどうすべきでしょうか?

知恵ある者とは、悟っている人のことです。そして命令を守る者です。


【詩篇119編103-104節】

あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。

私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。

みことばが命の水であります。
自分の中にあるいらないものや教えを捨てます。甘い水を飲んだ者が苦い水を飲む必要がないからです。


【詩篇119編129-131節】

あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。

みことばの戸が開くと、 光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。

私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを 愛したからです。

神様の言葉の恵みがどのようなものなのかが すごく分かるのです。
みことばの味を知っている者は、みことばを親しみ学ぼうとします。その人はどんどん悟りが与えられ霊的な者になります。

また、悟ったということは行動が伴っていることを意味します。
みことばの種を蒔いたので、その人たちはたくさんの実を結びます。
そのような者に神様は喜んで認めて受け入れてくださり、さらにそこに恵みの雨を降らせて、ますます時に適った恵みを受けて豊かになるように祝福するのです。

祝福を受けたいならば、命に満たされたいならば、知恵ある者になりたいならば、滅びたくないならば、天国に入りたいならば、
神様の言葉をさげすむのではなく、聞く耳をもって悟り 行い、そしてみことばの中に留まることであります。
そうしたら間違いなく祝福を受ける者になります。

神様の言葉を軽く考えてはいけないです。大事にしてください。

私たちにとって神様は権威あるお方です。ですから一番恐れなければならない存在であります。

人間が完璧にすべてを守ることは出来ないのですが、逆らったときは すぐに悔い改めることであります。
「もう過ぎ去ったことだ」ではなく、今からでも立ち返るならば神様は喜んでくださいます。

みことばに従順した者、こういう者は大胆に祈りができる者になります。 (`・ω・´)

2014.1.12
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンの生活とは?

テーマは 『 クリスチャンの生活 』 です

【ピリピ2章12-18節】

そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。

神は、みここころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、

いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだではなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。

根本的にクリスチャン生活とはどのようなものなのか、今回のみことばの中で知ることができます。

キリストに繋がれている者は、当然 頭であるキリストについていくために、似ていく者にならなければいけないです。
世の人から「あなたは本当にクリスチャンだ」と認められないならば、何によって私たちはキリストを現すことができるでしょうか。

模範であったイエス様を見て、謙遜を実践していく姿がクリスチャン生活の1つであります。




①自分の救いを達成していく生活


神様の言葉にクリスチャンが従う1つの目的は、自分の救いの達成であります。
この言葉で誤解をするかも知れません。

「そうしたら、私たちはまだ救われていないのでしょうか?これから自分の努力で救いを得なければならないでしょうか。」と思いそうですが、決してそういうことではないです。

救いの御業は人間ではなく、神によって始まっています。また、私たちが先に神様を愛したのではなく、神様が私たちを愛しました。そして、私たちが神様を選んだのではなく、神様が私たちを選んでくださったのです。

例えば、人を通して その人を導いたとしても、それは神様から出たものです。
人間は本来、神様を求めない者であります。すべては神様の方から招待が来ました。
私たちがそれを受け入れて救われた時から、聖書を通して多くの言葉が語られました。


救いの計画も、人生の計画も神様が全て持っていますが、私たちは恐れおののいて それに従わなければならないということです。

何に対して恐れおののくのでしょうか?―― 救いを与えてくださった神様に対する敬う心であります。

神様は 私たちをロボットや軍隊のように従わせるのではなく、優しくみことばを語りながら教えてくださるので、私たちが従順しながら歩むのは救いの達成に向かっているのです。


救いの達成に向かって進むということは、荒野でのイスラエルの民たちの姿を思い出したらよく分かります。
神様は奴隷生活した彼らを、一方的な神様の御業を通して救い出しました。彼らの努力は1つもありませんでした。
神様は救い出したいと思い、モーセを用いて全員をそこから出しました。これは救いであります。

神様が先頭に立って、イスラエルの民たちは喜びながらついていくと、荒野が見えて来ました。
それは私たちが救いを達成していくために、進まなければならない道なのです。

彼らにマナを食べさせたり 神様からの恵みをたくさん与えました。
そして神様はカナンの地につれていく計画を立てて その中で神様がずっと律法を語っていました。
「(カナンの地へ行くために)わたしの言葉に聞き従いなさい。」と 恐れおののきなさいと語りました。


しかし、恐れおののいた者はわずかでした。モーセ・カレブ・ヨシュアでありました。それ以外は誰もいませんでした。
彼らは神様の約束の言葉や命令を聞きましたが、人間として責任ある行動が出来なかったのです。
救われてエジプトから出ましたが、神様がずっと見ていて(彼らは)天国に入る者として相応しくなかったのです。

彼らは天国を自分のものにしたいという思いがありましたが、神様を恐れおののかず、ずっと不信仰でした。

神様は(彼らに)たくさんの良い恵みを与えて、奴隷から救い出しましたので(神様の)言葉に従ってくれると思っていました。
しかし、神様の言葉に従わなかったので、人格を持っておられる神様は刑罰を与えました。すると彼らは神様に助けを求めましたが、困った時だけ助けを求めました。そして、それが解決されると また不従順の連続でした。

結局2人しか辿りつけず、他の人たちは荒野で倒れました。これは救いの達成が出来なかったということです。


これは今のクリスチャンも同じであり、私たちは不信仰・不従順になると倒れてしまいます。
神様を恐れおののかないと、そこで倒れるしかないのです。

選ばれた人間は、神様に対する責任ある行動と応答をしていかなければならないです。
従順していくと、神様との距離が近くなり一緒に歩めるようになります。神様はその者を一番喜んでくださるのです。

イエス様が謙遜な姿ということは、自分を捨てたことであります。父の御心にいつも自分を合わせていきました。
それによってイエス様も勝利をしていったのです。

クリスチャンは神様を恐れおののいて従順して、自分の救いを達成していかなければならないです。




②つぶやかず・疑わない生活


救いを達成させるための中身は、つぶやかず、疑わない生活であります。
これは謙遜にならなければ無理です。

高慢な人はつぶやきが多いです。高慢な人は欲望が多過ぎるので満たされることがないです。
自己中心なので自分の思い通りにならないと神様に対してもつぶやきが多いです。

イスラエルの民たちの一番の大きな罪は「つぶやき」でした。不平不満が心に満たされていました。感謝をせず、恵みを覚えていないのです。

謙遜は自分を「無」にすることです。
「無」になると、与えられるどんな小さなものでも恵みなのです。「私は無価値な者なのです。」と本気で思う中で、神様が水を一杯でもくださるなら感謝の気持ちでいっぱいになります。

しかし、自分を高く評価する者は「こんなもの食えるか!私を誰だと思っているのか?」と感謝をしないのです。
イスラエルの民たちはマナに対しても「こんな惨めなものは食べたくない。」と文句を言いました。


私たちも、クリスチャンと言いながらも神様に対してつぶやき、周りの人に対してもつぶやくのは感謝をしないことであります。また、家族に対してもつぶやきます。

これは よく考えたら良いと思います。家族が自分にとって、どのような存在でしょうか?

家族がいなくなったら――?旦那さんが一生懸命働いて家族を養うことは、とても責任あることなのです。
これは立派な働きです。また、休みたくても休まず何十年間も働いています。自分の人生が拘束されて1年間にわずかな休みしかないのです。
会社では辛い事もありますが、我慢をして家族のために働いているのです。

主婦はその点では時間に自由がありますし、楽なのです。
旦那さんから給料を全部取り、わずかな小遣いしか与えないのならとても辛いことだと思います。
もしも、自分が逆の立場だったらどのようにするでしょうか?
常に私たちは逆の立場になって考えたら良いと思います。


神様は、すべてのことに つぶやかず、疑わずに行いなさいと私たちに語りました。
私たちは本気でそのようにすると自分を「無」にして謙遜な姿をもって生きるならば、これは難しいことではないです。

自分の存在価値が高いものだと 勝手に思うので全てが不満になるのです。

霊的に成長すればするほど純真な者になっていきます。私たちの中から肉の不純物がどんどん消えていきます。
肉のものを神様の言葉に服従させて(肉を)消していくならば純粋な者になります。
花嫁の姿の基本は「純真な者」です。日々、自分を綺麗に保っていかなければならないです。

私たちが汚い者になるならば、神様がまとめて火の中に投げ込むのです。

神様の子どもは「光の子ども」であります。悪魔の子どもは「闇の子ども」です。これは水と油のような関係です。
暗闇の中にいても、光るものが1つあれば とても目立ちます。

神様が願うのは、(私たちが)暗闇の中で世の光として目立つ者になってほしいのです。周りの人たちにそれを見せていかなければならないです。

聖書の言葉を握るということは 自分の欲のままではなくて、みことば通りに生きるということなのです。




③喜びの生活


【ピリピ2章17節】

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

パウロは殉教することを知っていましたが、この時は既に捕えられていました。
「わたしは主の働きをして最後に死ぬのだ」ということを知っていましたが、これはキリストの栄光が現れることなので彼はすごく喜んでいました。

死ぬことを喜んでいたのです。キリストと苦難を共にし、わたしが一粒の麦となって死ぬならば、多くの魂の実を結ぶ事ができると見て喜びました。

もしも 私たちが罪を犯して死ぬならば、喜ぶことは出来ないです。
それは何の報いもなく、人々に良い影響を与えるどころか悪い影響を与えるのです。

しかし、キリストのために献身的に働きをし、人のために自分の命を捧げる人は永遠に褒め称えられます。
神様がその人に栄光を注ぎます。その死は新しい命の道に入る1つの扉を開ける栄光の死なのです。
地上での扉は閉まりますが、新しい扉を開けると永遠の命の世界であります。

これは誰でも行ける世界ではないです。黙示録にあるように「勝利する者」という前提があります。
つまり、勝利をしていない者はその恵みを受けることが出来ないのです。


私たちも自分を犠牲にしないと、最期には神様が「あなたは生きる値打ちがない者である。」と犠牲をさせるのです。

私たちの命は自分のために生きるのではないです。キリストにあるものは、キリストのために生きる者であります。

私たちがキリストを取ってしまうならば、それはクリスチャンではないです。
キリストのために生きる者を「クリスチャン」と呼ぶのです。

私たちは生き方によって、神様から救い出された者であることを ずっと見せていかなければならないです。

クリスチャンとして生きることは、教会に行く事、奉仕をすることではないです。

心と生き方すべてのものを神様が喜ぶほうに変えない限り、神様と一致できないですし、救いの達成には至りません。

クリスチャンとしてきちんと生きていく人生を私たちは目指していきましょう。 (・∀・)つ

2014.1.5
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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良い実を結ぶ信仰生活とは?

テーマは『 良い実を結ぶ信仰生活 』です

【マタイ7章16-19節】

あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらから取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。

同様に、良い木は良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。

良い木が悪い実をならせることはできないし、 また、悪い木が良い実をならせることもできません。

良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

今年の目標は3つの実を結ぶ年にしたいと思います。

このみことばは、周りの人を見分けるためだけに使う言葉ではないです。この言葉はそのまま自分にも当てはまります。
この言葉で、自分は本物なのか偽物なのか、良い木なのか悪い木なのかを見分けることができます。


エデンの園にある木の実のほとんどは食べても良いと神様がおっしゃいましたが、ただ1つ「善悪の知識の木の実」だけは食べてはいけないと語りました。
アダムとエバは「善悪の知識の木の実」を食べてしまい、それによって罪が入り、呪いが入り、それによって死が世界に入ってきました。
神様の言葉に違反をしたので、エデンの園を追い出されました。

「救われた人」というのは、何から救われたのでしょうか――?
この善悪の知識の木の実を食べた人として呪いを受けた者、死を宣告された者は、そこからイエス様によって解放されたのです。
そして(私たちに)喜びを与え、平安を与え、祝福、命を与えてくださいました。

その後に神様が私たちに「今度はあなた自身が良い実を結ぶ木になりなさい」と語りました。(私たちが)結ぶ実を見て、弟子であるかを見分けます。
たくさんの良い実を結ぶならば、「それはわたしに栄光を捧げることである。」と語りました。

悪い実を結ぶならば、神様は「あなたはここにいる必要はない」と言って、再び神様の祝福の地から追い出されることになるのです。
悪い木が火に投げ込まれるということは、必ず死ぬということなのです。

私たちは「救われているから、どうでもいい」ではないのです。
今、一生懸命良い実を結ぶために作業をしていかないと最後に裁かれるのです。




皆さんは昨年どのような実を結びましたか?皆さん1人1人の木はどのような木だったでしょうか?

聖書には良い実というのがたくさん書かれています。その中でも今年の目標として3つありますが、一番大切なのは次のとおりです。


①御霊の実・聖霊の実

【ガラテヤ5章22-25節】

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

柔和、自制です。 このようなものを禁ずる律法はありません。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、 さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

聖霊の実は、主にあるものとして当然結ぶべき実であります。これらのものは賜物ではないので
「賜物がないから、力がないから、このような実は結べません。」と言うのは通りません。

これは、主にあるものなので必ず実が結ばれるようになるのです。自分がイエス様の中にしっかりと留まっているならば、誰もが結ぶ実であります。

私たちはイエス様に出会うまでは自分が主人でした。自分の人生を思いのままに生きるのは、聖書の言葉で言うならば本能で生きることであります。
それによって結ぶのは、肉の実です。

世の中はみな肉の実を結んでいます。しかし世の中ではそれは問題にはなりません。

しかし、主人が変わった人は、主人が喜ぶ実を結ばないのは問題であります。イエス様を自分の主として受け入れたということは主人を変えたことなのです。
今までの主人は自分でしたが、受け入れた時からはイエス様なのです。
あらゆるものを十字架につけながら、主人の思いに従わなければならないです。


喜びの感情は良いものですが、怒りや妬みなど悪い感情はいらないものです。
人を憎むと、相手もその人を憎むのです。するとその悪い空気がどんどん流れて、皆が憎しみ合うのです。次から次へと悪い実が結びます。
私たちは肉を満足させるような生活をしてはいけないです。それは滅びる生活なのです。

聖霊様が喜ぶことをすると御霊の実が結ばれていきます。良い実には神様がさらに祝福します。

主人であるイエス様が 私たちの悪い実を見てどう思うでしょうか。
イエス様は斧を持って、いつ倒そうかと待っています。倒されたならば、終わりであります。ですからイエス様は忍耐をしてジッと見ておられます。

また クリスチャンではなく、世の中の人でとても立派な人格者の人たちがいますが、御霊の実を結んでいるのです。
そのような人たちは生まれつきではなく、その人自身が「人格者になりたい。」と良い人になるために自らを厳しく訓練しているのです。
私たちはその人たちを非難してはいけないです。「その人は神様を信じていないから、そんなことをしても滅びるでしょう?」と、それは勝手な判断であります。反対に神様は「あなたはそんなことを言う資格すらない」と言います。

「あなたは神を信じ、わたしの祝福を受けながら、わたしがしなさいと言う実を結ばず、葉ばかりで悪い木や実を結びながら何の資格があって他人を非難するのか。」と言われ 私たちは返す言葉がないです。


私たちは、外では とても愛があり穏やかな人のように見せるのですが、家に帰ったら別人であるならば、それは偽善者であります。
クリスチャンはどこにいても同じ姿勢を取らなければならないです。

神様は、私たちが家にいる時も見ているのです。神様が一番よく見ているところは家であると思います。
自分で見て、これはダメだという実があるならば、神様から討たれる前に悪い実は切ることです。そして十字架で殺すことであります。

御霊に導かれて歩むと人格が変わるのです。
自分の木はどんな木だろう?と見て、まだ小さいけれど愛の芽が生え、小さな愛の実が結ばれ、所々に小さな喜び・平安・寛容の実がなっているならば
これは神様はとても喜んでくださいます。神様はそこに栄養を与え、もっともっと育つようにしてくださるのです。

しかし、悪い実を結ぶと神様は絶対に恵みを注ぐことはしないです。ですから、恵みを求めても来ないです。

私たちは神様によって選ばれた者でありますので、悪い実を結んで神様を悲しませるのではなく、喜ばせる姿にならなければいけないです。




②伝道の実

特に今年は、見せる伝道をしたいと思います。
チラシを配るのはもちろんですが、それ以前に自分自身の姿を 人に見せる伝道が必要であります。

神様から恵みを受けた者には、愛の負債・罪の赦しの負債があります。
今度は私たちが他の人たちに良い知らせを伝える者にならなければなりません。

私たちは伝道を、「私は口下手だから。」「言葉で語るのは難しい。」「語ったけど全然聞いてくれない。」と、そのようなことを言います。
もちろんそういうことがあると思います。しかし、人々は私たちが語る言葉を聞きたいのではなく、イエス様を信じて何が良いのかを見せてほしいのです。
イエス様を信じてどこが変わったのかを見たいのです。
私たちは見せることが出来なければ伝道は失敗であります。

伝える言葉がどんなに立派なことであっても、伝える人が何も変わっていなければ「なぜあなたは押し付けるの?」となってしまいます。


また、ある人は自分がクリスチャンであることを隠しています。クリスチャンでも何も変わっていないから恥を受けたくないという思いです。
クリスチャンであることを公表しないのは、正しいことでしょうか?――そうではないです。

人々の前で「私はクリスチャンです。」と言うべきなのです。そして良いクリスチャンの姿になるために努力をすることであります。
言ってしまうと、その時から人々は自分のことをクリスチャンとして見ています。
クリスチャンであることを伏せていたら、誰一人救うことが出来ないですし自分も成長できないです。

クリスチャンであることを伝えてから、以前とは違う姿になるなら、人々が見たいものはそこであります。言葉ではないのです。
口先だけで私たちが変わらない姿で、言葉を語るならば それは虚しいものになります。

真実な行動とクリスチャンらしい言葉で見せる伝道をしてください。これは訓練なのです。
それをずっと続けていくと自分のものになるのです。難しいのではなく、それが慣れてきます。すると口の言葉が変わり、行動が変わってきます。




③善行の実

【使徒の働き20章34-35節】

あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。

このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを 思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示してきたのです。」

善行というと、私たちはすぐに貧しい者たちのためにと考えてしまいます。もちろんそれも善行であります。
しかし、ここでパウロが見せた1つの善行は、共に労苦する人たちを助けることでした。これも立派な善行です。

パウロには共に働く人たちがいました。パウロは自分で一生懸命に天幕を作る働きをしながら、その人たちの働きを助けました。

私たちは良い働きをしようと思って、道ばたにいる人たちだけを探す必要はないです。
教会の中にも、共に働く人々の中に私たちが手伝わなければならない人たちがいっぱいいるのです。
弱い人たちもその中にいます。そして1人でたくさんの仕事を抱えて労苦している人もいるのです。
その人たちに1つでも「それは私がしましょうか。」と手伝いをするならば、それは立派な善行であります。

自分の時間を捧げ、自分のものを捧げ、受けるよりも与えるほうが幸いであるという言葉は 本当にその通りです。


自分が受けたいと求めているばかりの人で 幸せな人はいないです。
自分が恵みを流していく時に、そして人を助けていく時、自分が持っているものを分け与えていく時に、私たちはますます豊かな者になっていくのです。

共に働く者のために祈ってあげることも、慰めることも、良い働きなのです。必要なものを与えることも神様から見たら立派な働きです。

私たちは愛の心がないと、自分の物は提供できないのです。愛があると人に差し出すことができるのです。
その人のために出来ることは何なのかを考えることなのです。その人が喜ぶことは何なのか、その人をどのように助けたら良いのかを信徒たちを見て常にその目で見たら良いと思います。

善行の実を結ぶのは、心がとても幸せになるのです。

自分は出来ないと思わないでください。出来ないと思うのはフタをしめて、やらないと宣言をしたことになります。
そうではなく、「出来るようになりたい」と祈ります。これは誰もが出来る働きであります。
しようと思うならば、神様はたくさんチャンスを与えてくださいます。ホームレスの人にお弁当を渡すのも、将来は30倍になって返ってくるかも知れません。

ですから避けて通るのではなく、覗いてみることなのです。出来ることがあればすぐに実行してください。


今年は御霊の実を結んで人格が変わるようにしましょう。見せる伝道の実でクリスチャンです と堂々と言えるような私たちになりましょう。
そして善行の実で良い働きをしてクリスチャンであることを見せるためにも実を結ばないといけないと思います。
( ̄‥ ̄)=3

2014.1.2
新年礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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