からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


八戸ノ里キリスト教会のYouTubeチャンネル

━━━━━━━━━━━━━ † ━━━━━━━━━━━━━━━


2013年12月

自分の歩みを点検してみよう

テーマは『 自分の歩みを点検してみよう 』です

【Ⅰヨハネ2章3-6節】

もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。

神を知っていると言いながら、 その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。

しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、 確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。

神のうちにとどまっていると言う者は、 自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

今回は 2013年最後の礼拝ですので、私たちは1年間の歩みを振り返りながら神様の前にどうであったのかを考えてみたいと思います。

人間は反省しないと成長はしないです。
1年間どのように生きてきたのかを考えて、悔い改めたり 感謝をしないと
新年が来てもダラダラと何一つ変わらない中で出発することになると思います。

私たちに与えられる日々は、毎日新しいものであります。私たちに与えられる時間には古いものはないです。
新しいものとして受け入れる為には古いものに対する整理整頓がきちんと出来ていないと汚れた部屋が さらに汚れるようなものになります。

良いことがあった、悪いことがあった 等、このようなことを考えるのではなく、自分の人生そのものを信仰の目で見て、神様が見たときに私たちの人生はどうであったのかを考えます。




①信仰によって歩んだのか

私たちは信仰を持っている者ですので、とても大切なことであります。
口先だけで「信仰、信仰」と言うのは、誰でも言えることです。

しかし365日を信仰によって生きたのか という部分を神様は一番初めに見ます。
その人が仕事をたくさんしたのか、真面目に生きたのかというのではなく、信仰によって生きたのかを見るのです。

信仰によって生きるとはどのようなことでしょうか?
毎日、神様を想いながら御言葉を読んで祈り 真面目に礼拝に参加をすること。
これはもちろんある部分では信仰でありますが、信仰を一言で言うならば、神様の前に自分が従順したかどうかです。
「神様に対して」という部分が重要です。


私たちには自分の思いや計画、考えがあるのです。
私たちが選択をする時に神様のみこころと自分の計画、どちらを優先にしたでしょうか。

明らかに神様から来るものを知っていながら除けて、自分の思いのままに生きたならば、それは信仰とは関係なく生きていることになります。

しかし、自分の中に様々な思いがあった中でも神様のほうから導きや指示や計画があった時に「どうしよう。どちらを選んだら良いだろう。」と考えた結果、
自分の考えを捨てて神様の計画を選んで生きたならば、信仰によって生きた姿であります。

この世には クリスチャンとして、これは神様のビジョンですと言いながら 色々な働きをする人が多いと思います。
しかし自分たちのビジョンが多いです。「これをしたら主が喜ぶだろう。」と、自分たちは喜んでその働きをします。
とても良い働きなのですが、イエス様が「今、それをしなさい。」という部分との調和が出来ていないと、それは神様のみこころではないのです。

神様には「今」指示することと、後で良いよという部分があるのです。
しかし自分の働きに夢中になって、主が語ることをキャッチ出来ないのです。
調和をするには、一緒に歩まなければならないのに勝手に歩み出すのです。

キリストと調和をしながらその道を歩み、勝手に暴走をしていないのか、信仰の耳・信仰の目で見て 自分の手足を神様が喜ぶところで
使ったかどうか、御霊に導かれて歩んだかどうかを点検しなければいけないです。




②自分を否定して、自分を捨て 日々自分の十字架を負ってイエス様に従ってきたのか

「自分を捨てる」―― これは謙遜な姿であります。謙遜でないと自分を捨てることは無理なのです。
「謙遜」の逆は「高慢」であります。
高慢は絶対に自分を否定することは出来ないです。高慢は、常に高慢なことしか考えないのです。
そのような人は、他人が自分を否定するとすぐに腹を立てます。

高慢な人の姿を見て知ることができるのは、「自分が一番」「自分は賢い」なのです。また「自分は正直で正しく、周りの人たちが悪い」のです。
このような人の口から出る言葉は、とても辛辣(しんらつ)であります。常に辛辣な言葉で他人を裁きます。
自分にはそのような言葉は使わず、他人に対してそのような言葉を言います。そして軽率な判断をするのです。
自分の目で見て、すぐに言葉が飛び出してきます。高慢な人には怒りの感情がとても強いです。
そして他人から崇められたくて計算高いです。また 他人をすぐにバカにします。

謙遜な人は、なかなか怒らないです。相手の立場を考えて理解をするのです。
しかし高慢な人は、相手を理解しようとは これっぽっちも思わないです。


十字架を負うということは、自分を捨てて犠牲を払うことであります。イエス様はすべてのものを捨てました。
すべてのものを捨てたので、周りの人はバカにしました。「十字架から下りてみろ」と言われた時も、イエス様は黙っていました。
これをイエス様は私たちに要求をしているのです。「わたしについて来たいと思うならば、自分を捨て自分の十字架を負ってきなさい。」

口先だけで愛を語ったり「十字架を負います。」と言っても、私たちに行動が伴わないならば本当の意味で信仰ではないです。


ここで主は生きておられるという1つの証拠があります。

数か月前に起こったことです。
エジプトではイスラム教の人が多いですが、そこで1つの殺人事件が起こりました。
ある信者の男の妻が聖書を読んでいたので男は腹を立てました。
イスラム教の教えでは、イスラム教の人が他の宗教に改宗をした場合、殺しても良いということが書かれているそうです。男には2人の子どもがいました。上の娘は8才、下はまだ乳飲み子でした。

そして男は妻を殺しました。聖書を読んでいる姿を見ただけで殺害し、誰にも言わずに妻を穴に埋めました。 同時に2人の娘も生きたまま埋めてしまいました。

その後、男は全く関係のない親戚が自分の娘たちを殺害したと嘘を伝えたのです。
しかし、不思議なことが起こりました。その15日後、男の家族の身内が亡くなり、埋葬のために土を掘りました。
すると土の中に、娘たちが生きているのを発見しました。とてもびっくりして大騒ぎになりました。

埋められていた2人のうち 8歳の娘に、アメリカのテレビ局がインタビューに行きました。しかも生放送でした。
どうやってその中で生きていたのかを訊いたところ、「毎日、白いガウンを着ている人が現れました。その人の両手には傷痕がありました。そして自分に食べるものをくれたのです。」
そして乳飲み子には、「お母さんは殺されていましたが、その方が毎日来てお母さんを起こしました。
そこでお母さんが母乳を飲ませていました。」


それが15日間も続いていたのです。生放送だったので(イスラム教の)人々は放送を止めることが出来ませんでした。
イエス様が現れて自分たちの命を助けたという、科学や人間の考えでは有り得ないようなことだったので、イスラム圏ではまずい放送でした。

生き埋めにされていたら、あっという間に死んでしまいますが生きていました。
しかし聖書では死人も生き返りますし、他にもこのような出来事があるのです。

今、イスラム教では同じようなことがたびたび起こるらしいです。
なぜなら福音が伝えられなく、今は終わりの時であるのでイエス様や御使いたちが直接現れてその者たちに語るのです。
ですからそのような体験をした人はキリストを信じずにはいられなくなるのです。
その男は判決が出て今年7月に死刑になったと思います。イスラム教は家族であっても容赦なく平気に殺します。
これは心が麻痺されない限り出来ないことであります。


しかし、私たちの主は聖書にあるように、愛の神様であります。
先にイエス様ご自身が犠牲を払ってくださいましたので、私たちも見習って犠牲を払い自分の十字架を負うことが、損ではなく祝福の道であり、もっと神様からの素晴らしい恵みを受けます。

ヨナが失敗をしたのは賢すぎたからであります。自分で計算をして神様のやり方がおかしいと思いました。
自分は何一つ損をしたくないと思うのは高慢な姿であります。

私たちは賢い者になるのではなく、人々の目から見たら(自分は)主にあって損をする生き方をするようにならないと、神様には認められないです。




③主のしもべとして生きてきたのか

主が自分に任されたことを忠実にしたのか、それとも怠けていたのか。
「自分の賜物も才能も時間も、全部 土の中に埋めました。全部 自分で使いました。」こういう者を見て、イエス様は「悪い怠けたしもべである。」と語りました。
ある者には「わずかなことにも忠実なものであった。自分は神様の目にどのように映るのか――。

与えられたことをブツブツ言いながら仕方がなくしたならば、何の意味もありません。
だけど喜んで、もちろん辛い事もありますが「神様が私のような者を選んでくださって感謝します。」と、これがないなら役に立たない者なのです。
神様が小さな働きを任せるということは、私たちを役に立つ者だと思うからそれをさせるのです。
ですから私たちはその働きを喜んでしなければならないです。


天国の報いは、私たちがしもべとして働いたかどうかで決まります。
救いは恵みでありますが、私たちがそこで受ける祝福は 地上で蒔いたものに対して 神様がくださるものであります。

ですからたくさん働くことは良いことです。
神様に「私は2タラント残しました。5タラント残りました。」この働きを私たちがしたかどうかを振り返ってみてください。
私たちは忠実なしもべを目指していかなければならないです。

振り返ってみたときに信仰によって歩むと決心していたのに、それが出来なかったなど反省することが誰もがあると思います。
反省をして そこで終わるのではなく、悔い改めて神様に赦しをもらい 新年を共に出発していきたいと思います。
(´∀`)

2013.12.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

イエス様を誰だと思いますか?

テーマは『 あなたはイエスをだれだと思いますか 』です

【マタイの福音書16章13-15節】

さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」

彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも 言っています。」

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

皆さんは、イエス様をだれだと思っているでしょうか。
多くの人々が1人のイエス様を見て、色々な言葉を使って表現しました。

「わたしはイエスをこのように思います。」

これは人間として来られたイエス様なので、実際に目に見えていたので、人々の心にはそれぞれの心がありました。
当時の人々は、イエス様のことをヨハネやエレミヤだと言う人たちがいました。

今の世の中の人たちに聞くと、「キリスト教の神様でしょう?」「外国の神様でしょう?」と、私とは関係がないと言います。

イスラム教の人に聞くと、彼らは知っているので「預言者の1人だと思います。」と答えます。
イエス・キリストを否定するわけではないですが、彼らはアッラーの神を信じていますので、それを紹介したマホメットよりも下にいるのがイエス・キリストという預言者の1人だと思っています。


大切なことは、イエス様は「あなたはどう思っているのか?」であります。
それによって私たちに救いがあるか、ないかが変わってきます。

毎年 クリスマスを祝う人はいますが、ある人は何も考えずに祝っているのです。
「喜びの日だから遊ぼう。お酒を飲んで、チキンとケーキを食べて楽しくしよう。」と思っている人が多いです。
イエス様の誕生日であることも知らず、イエス様を招かないのです。

私たちは肉体をもって地上に来られた時のイエス様をどのように思っているのでしょうか。
今は復活されて天におられますが、どのように思うかによって、私たちと神様との関係が全く違います。




①一番大きい方であるのに、一番小さい方として、この地上で生きていた


一番大きいということは、イエス様は創造主であるということです。全知全能なる神様であり、そこにあるものは支配と権威であります。
王の王、主の主ということは、それよりも上に立つものはないのです。

それなのに、地上におられた時にイエス様は一番小さい者として歩んでいました。
30年間 大工をしていましたが、時が来たときに福音を宣べ伝えながら奇跡を行いました。その時から人々に知られるようになりました。
一番初めに目をつけた人たちは 宗教指導者たちでした。
人々が驚くほどイエス様が語る言葉には権威がありましたので、宗教指導者たちがイエス様を迫害するようになりました。

それでもイエス様はその人たちと戦ったでしょうか? ―― 戦ってはいないです。
何も言わずに黙って、対決することを避けていました。

そして、十字架に架かる前に捕らえられた時は政治が絡んできました。植民地でありましたので、ローマの相続であるピラトのところへ連れられてきました。
そこで宗教指導者たちは偽りの証言をしながら訴えていました。しかしイエス様はピラトに何も語りませんでした。


イエス様は権威あるお方でありましたが、その権威に力を持って戦ったことが無かったですし、その権威を前にひざまずいたこともなかったです。
「わたしが死ぬことが父のみこころである。」と世の権威に対しても黙っていました。一番小さい者のように黙って自分の命を差し出しました。

本当は 王の王で、誰も逆らえないのですが、自らそれらを全て捨てて罪人や奴隷のように自分自身を低くしました。

実際に罪を犯した人でも、自分の無実を訴えます。イエス様はこのままでは死ぬということが分かっていても権威にはひざまずかなかったです。

ピラトは、イエス様には罪がないのに黙っている姿を見て びっくりしました。




②一番偉大な方なのに、一番卑しい人のようにこの地上で過ごしていた


【ピリピ2章6-8節】

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、 人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

天にいる時と全く違う姿で、地上で30年間 大工の仕事をしながら、本当の意味では繋がりのない家族を養っていました。

その後 3年間、人々はあまりにも素晴らしい奇跡を行うイエス様でしたので、王様として立てようとしましたが「わたしは仕えるために来ました。」と毎日彼らに仕えていました。

イエス様が捕えられた時に、どれほど人々から悲惨な目に遭っているのか 皆さんも分かると思います。
もし私たちも同じようなことをされたとしたら、カァ~ッと頭に血が上って その者に向かって敵意を持って戦うと思います。
今は学生が先生に平手打ちをされたら社会的に大きな問題になっています。


全ての誉れと賛美を受けていたイエス様がムチで39回打たれて身体が裂けました。私たちがその場にいたとしたら人々と同じことをしたと思います。

良い時は「主よ、感謝します。」と言いながら、気に入らない時はイエス様に不平不満を言います。これはイエス様をムチで打つことと同じであります。


【イザヤ書53章3節】

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

人々から蹴られたり はずかしめを受けたりしましたが、イエス様は黙っていました。私たちだったらその場から逃げると思います。
イエス様が一番卑しい人として生きていたことを知ることが出来ます。




③一番豊かなイエス様でしたが、地上では一番貧しい者になっていた


本来、創造主ですので天や地上の全てのものの所有者であります。私たち人間も所有されているものです。
しかし、イエス様は何も持っていない者として地上に来られました。

イエス様は金持ちや政治家と仲が良かったでしょうか――? 彼らからは憎まれていました。
イエス様はいつも困っている者たちと一緒にいて 彼らを助けていました。

宗教指導者たちは近づいたら汚れるからと、その者たちに近づかなかったです。しかしイエス様は自らが近づいていきました。


【Ⅱコリント8章9節】

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。 それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

私たちのために貧しい者になりました。ですからイエス様は金持ちの人たちに対して厳しい言葉を言いました。
なぜなら彼らは 富をもって贅沢に暮らしますが、本当に困っている人たちに対しては無関心であったので、それが大きい罪でありました。

私たちは大きいことをしたいと願うのではなく、私たちはイエス様からたくさんの恵みを受け取りました。
それはイエス様の方から私たちに関心をもって 友となり、悩みを聞き、憐れんで愛を示してくださいました。




イエス様はすべての権威と力を持っていても、それを私たちのために無い者のように生きたのですが、イエス様が1つだけ権威を使い強かった部分がありました。


④サタンに対して強かった


サタンが持っている死の力も、ご自分の命を捧げて、それから復活したことによって勝利しました。
それは自分の力を見せるわけではなく、捕らえられた人々を助けるためにイエス様は見せてくださいました。

私たちがイエス様から学ぶ姿は、最も小さな者として生きることであります。

権力に頭を下げず、一番最高のイエス様に頭を下げて、この世の権力にペコペコするのではないです。

そして、私たちは一番卑しい者のように生きるのです。
それは謙遜にならないと出来ないことであります。

困っている人たちがたくさんいるので、その人たちの力になること、慰めや助けになるために生きるのです。人々を差別をしたり蔑むのでは、何一つ良いことがありません。

イエス様は今も聖霊を送って日々私たちを助け、恵みを与え、愛し守ってくださる方であります。 (*´∇`*)


2013.12.22
クリスマス礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

私たちの罪と神様の恵み

テーマは『 私たちの罪と神様の恵み 』です

【ミカ書7章18-20節】

あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、 怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、 すべての罪を海の深みに投げ入れてください。

昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。

ミカは預言者です。神様は彼の口を通して、罪深いイスラエルに対して裁きの言葉を語りました。

憐み深く、恵み豊かな神様ではありますが、選ばれた民たちが神様の恵みに感謝もせず、仕えることもしないで神様を悲しませました。

聖書には、「憐れむのに飽いた」という言葉があります。神様が何度も憐れんでも、民たちが罪の中に留まり立ち返らないのです。

聖書に出てくる「罪」とは何でしょうか?
全ての人間は罪を犯していますが、人間は神によって造られた被造物であります。
ですから、造られたものは 当然のように神様のみこころに従って歩まなければならないです。
これが救われた人間の義務でもあります。

しかし人間が みこころに従わず、自分勝手に行動をすることが罪なのです。


【ローマ6章23節】

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

人間はなぜ死ぬのでしょうか。

ただ身体が弱ったから死ぬのではなく、主が語った言葉通りに罪から来る報酬を自ら受け取るので死ななければならないです。

罪は人間から出たものです。自らが罪の種を蒔き、さらに罪を犯して大きくしていきます。
神様は罪がない方であり、神様から出てくるのは恵みであります。
罪を犯している人間に対し 神様は律法通りに裁くならば、その都度 殺さなければならないです。
そうすると地上に人間は存在しなくなります。

しかし、罪を犯しても神様は何度も赦して、私たちを生かしてくださいました。


神様の恵みから離れると(その人から)何が起こるでしょうか――。
自らが罪を犯すと、消えていくものがあります。それは恵みです。

神様の恵みは、みことばや聖霊様から来るものが一滴一滴 自分の中に貯まり、それを飲んで癒されていくのです。

罪を犯すと、一滴一滴の中に毒が撒かれるのと同じであります。つまり飲めない水になるのです。
そうすると汚れてしまい喜びや平安が消えます。
外見では、笑ったり 信仰も形式的に守っていくのですが、その人の深い部分には喜びがないです。
霊が枯れて飲む水がなくなるので その人は死にます。

完全に器を変える為には悔い改めて、神様に洗ってもらわないと心の泉が綺麗にならないです。
神様に立ち返る方法しかないです。
足を洗い、心を洗って帰ってきたら 神様はその人に希望を与えてくださいます。

不従順・不信仰は、神様に敵対することであります。それによって得るものは無いです。

人間が罪を犯すと、罪の奴隷になります。


【箴言5章22節】

悪者は自分の咎に捕らえられ、自分の罪のなわにつながれる。

これは奴隷の姿であります。
罪を断ち切らないと、繋がれているので離れられなく 罪から解放されることがないです。
初めは小さな誘惑から始まりますが、そこから立ち上がらないのでサタンは足かせをかけておくのです。

サタンの手から逃れるために 必死に もがいて神様を求めるならば、その罪を赦してくださいますが、
ある部分ではその人は その罪を楽しんでいるのです。
自分の肉の欲の方が強いので「私はしばらくここで楽しみたい」とサタンに繋がれているにも関わらず気にしないのです。

神様から「立ち返りなさい。」と言われた時には、“その時 ” が立ち返る時であります。


それが神様の愛と憐みであり、恵みであります。
神様はたくさんの厳しい叱責の言葉を語ります。これは「愛」なのです。愛がなければ言わないです。

なぜなら、そのままだと滅びに至るからです。
それなのに、「イヤだ。良い言葉が欲しい。厳しい言葉は聞きたくない。神様は私のことを憎んでいる。」
これは、目がくらんでいる姿です。罪によって目がくらむと悟りがないのです。自分の足の下には地獄が待っているのに気付いていないです。

周りの人たちは、それに気付いているので 離れるように言いますが、その人は罪によって、みことばに覆いが被されているので暗闇に陥っていきます。

しかし、神様は私たちが罪深い者であることを知っているのです。そして神様の恵みの手が働きます。

今、自分の目が開かれていると思っている人たちは考えなければならないです。本当に自分は目が見えているのでしょうか?

私たちは神様の恵みがないと、生きる道がなく希望がないです。


【Ⅱペテロ3章9節】

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。 かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを 望んでおられるのです。

すべての人が罪を犯したので、神様からの栄誉を受けることが出来なく、それによって神様は裁きを遅らせているのです。

それは神様の深い愛であり 憐れみであります。「帰ってきなさい。」と恵みのところに来ることを望んでおられます。
このように優しく語ってくださる神様がどこにいるでしょうか?―― この世に神と呼ばれるものはたくさんあっても、
憐み深く、赦してくださる神様はいないです。

他の宗教では、罪の話は全くしないです。彼らがしない理由は そこに救いがないので 初めから触れないのです。
そして良いことをしなさいと言いますが、一度汚れてしまった者に良い服を着せたとしても中身が汚れていますので 絶対に聖い者にはならないです。


しかし 主は汚れた罪を始末する恵みを持っておられます。
私たちは罪や咎ばかりですが、主の恵みで そこから救い出してくださいました。

この素晴らしい神様を悲しませてはいけないです。

自分が今どのような姿なのかを見て、まず自分が先に立ち返ることです。
祈りでも、自分が欲しいものを求めて祈るのではなく、祈りをしてから 神様に耳を傾けることであります。

私たちは神の声を聞くために祈るのです。

立ち返ることは祝福です。主の言葉を信じるのが祝福であり信仰であります。

他人が自分に対して罪を犯した時も、私たちは愛のある者、憐み深い者、許す者にならないといけないです。
他人を裁くと、神様から「あなたはどうなのか?あなたの心のほうが、よっぽど汚れている。しかし わたしがあなたを赦しているのだ。」という声を聞かなければならないです。

私たちを愛し、赦してくださった神様に対して 私たちは本当に感謝をして、私たちも神様を愛し、神様の傍から絶対に離れないようにしましょう。

忍耐をしながら ますます神様に頼っていくならば、神様から来るものは、恵みの上にさらに恵みであります。
命の水が枯れることはないです。 (^∀^)

2013.12.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

恐れに対して

テーマは『 恐れに対して 』です

恐れは、「恐怖・不安・心配」であり、クリスチャン=霊の世界の中で生きる者にとっては、恐れの霊によります。
つまり サタンがもたらす霊によって恐れが心の中に湧きあがってきます。

サタンが持ってくる悪魔の種は、「見る・聞く」など身体の五感を通して入ってくることもあります。
五感の扉を通して私たちに様々な考えを吹き込みます。それはサタンが最も得意としている策略です。
怒り・恐れ・情欲・憎しみ・妬みなどの思いを送りこみ 私たちを潰そうとしてきます。

たかが 思いなのですが、この「思い」によって全身に悪影響を及ぼし、病気になったりします。

サタンは「偽りの父」です。
その恐れが私たちの心に入ると無力になってしまいます。そして愚かな決断をしてしまいます。
これでは聖霊による祝福ではなく、呪いをもたらす方向へと歩んでしまうことになります。


【ローマ8章1-2節】

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

いのちの御霊の原理とは、キリスト・イエスにあります。イエス・キリストを信じる信仰によって、
それまでは 罪と死の原理の中で生きていた私たちが、いのちの御霊の原理のほうへ移されることになります。

いのちの御霊の原理は、「愛、希望、喜び、平安」です。
また、罪と死の原理の性質は「絶望」「自分さえ良ければいいという利己主義」「憎しみ」です。

私たち人間は「いのちの御霊の原理」か、「罪と死の原理の中」で暮らしています。

クリスチャンになったからといって、これから先も いのちと御霊の原理の中で歩めるかと言えば、そうではありません。
それは何故でしょうか? ――信仰がないからです。

信仰があれば恐れを抱く必要はありません。しかし、心に恐れがあるので信仰が揺らいでいきます。
「いのちと御霊の原理」と、「罪と死の原理」のどちらが自分のものになるかは、自分次第です。


【箴言18章21節】

死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。

私たちがどのようなことを信じて、どのような言葉を口にするかによって、どちらの力が自分のものになるかが決まってきます。
そして、それを支えているのは御使いです。
自分の意思、言葉、行動によって、私たちの歩む方向が決まります。

私たちが選んだものを自分自身が証人として立ち、自分にとっては どちらが真理であるかを立証していかなければなりません。

信仰が心に芽生えると、私たちは自由になります。
ですから サタンは私たちから自由を奪おうと必死になります。

信仰に堅く立ち、信仰による自由を選択しているならば、サタンは私たちに太刀打ちできないことをよく知っています。
ですからサタンは、私たちから信仰を奪おうと必死になっています。

クリスチャンを地獄に突き落とす事が出来ないのなら、サタンはその人から自由を奪って身動きができないようにし、
キリストの証人として立てないようにしてきます。

恐れは神様からもたらされたものではありません。恐れは罪だからです。それはみことばを信じていないことを意味しています。


【Ⅱテモテ1章7節】

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

ここの「おくびょう」という言葉を英語で調べると「fear」になります。その意味は「恐れ」です。


【ローマ8章15節】

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。 私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

恐れにとっての最高の友は「疑い」です。疑いは、恐れを抱く前に私たちの頭の中に浮かぶものです。
疑いを抱けば 恐れが結びついていきます。

私たちが神様から与えられている約束の言葉に対して疑いを持つことをサタンは望んでいます。
サタンは私たちに みことばの力とイエスの御名の権威に疑いを抱かせようとしています。

疑いを抱くと、私たちの心の扉が大きく開かれて、恐れが簡単に入ることを知っているので、
常にサタンは疑いの言葉を持ってきて恐れさせようとします。


【ヨブ記1章5節】

こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりの ために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と 思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

ヨブの心の中は不安でいっぱいでした。ヨブが心に恐れを抱いたために、サタンとヨブを隔てる垣根が取り外されてしまいました。
それは神様が取り除いたのではなく、ヨブが恐れを抱いたためでした。

ヨブの恐れの心が磁石となり、ヨブが最も恐れていたことを引きつけてしまったのです。


【ヨブ記3章25節】

私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。

ヨブはいつも息子のことで恐れていました。そしてサタンがそこに入ってきました。
その後にヨブはこの告白をしました。

自分の生活の中に、恐れの城壁を築いてしまった時にヨブはサタンに隙を与え、サタンのなすがままになりました。

なぜこのようなことになったのでしょうか――?
それはヨブが神様の約束に拠りすがろうとせず、恐れを選択したからです。

恐れは、聞くことからはじまり、聞くことは悪魔の言葉によるのです。
私たちの生活に祝福をもたらしてくれる法則は 私たちの生活に呪いをもたらす恐れにもそっくり当てはまります。
神様は365日 私たちに「恐れるな」と言われます。




― 恐れの霊を追い出す方法 ―


①恐れを打ち砕くと、はっきりと決意し、滅びの霊を自分から根絶やしにすると決意する


【ローマ8章31-32節】

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、 私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

必ず与えてくださると信じた時に、恐れは出ていきます。


②神がいかに大いなる力で、私たちのことを守って下さっているのかを理解する

神様が今まで私たちをどのように守ってくださったのか、どのように私たちを滅びから救いへと導いてくださったか、
どのように神様は私たちの祈りを聞いてくださったのかを、もう一度思い巡らし、自分に言い聞かせることによって
いかに大いなる神様であることを理解することができます。

イエス様は私たちの救い主です。ということは、私たちは救われた時点で守られることを約束されています。
そのことをしっかりと信じなければなりません。


③神の約束をさらに堅く信じる

私たちは預言の言葉や聖書の言葉を通して 神様から約束をいただいています。
神様からの約束を堅く信じて手放さないようにしなければいけません。


【Ⅱペテロ1章4節】

その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲の もたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

サタンがこの約束を軽んじさせようと色々な手段を使ってくるのです。
神様の約束を堅く信じていれば、私たちは山をも動かし、病人を癒すことも出来ます。
しかし サタンは信仰の力を損なわせようと恐れを抱かせます。

もし、疑いや恐れについてあれこれ考えるようになってしまったなら、私たちは戦いに負けたことになります。

私たちは神様からみことばをいただいたのなら絶対に何があっても しがみつき、手放してはいけません。
信仰は神のみことばを聞くことからはじまります。ですから 何度も口で信仰の告白をしていかなければなりません。

すると、神様はその信仰に答えて、私たちが求めている通りに実現させてくださいます。

その時に必要なのは、忍耐です。

神様からの約束をいただいていると、サタンは攻撃をしてきます。
サタンが攻撃してくるところは、自分の弱い部分です。
私たちはそれによって揺らいでしまう時がありますが、忍耐を持ち続けてサタンと戦い、約束の言葉を宣言していくならば、神様は私たちの信仰に働いてくださいます。


④神の言葉により、サタンに対抗すること

イエスの御名によってサタンを追い出すことです。
サタンが囁く言葉に対して、私たちは神様の言葉を振りかざして「 私は神様からこのような言葉をいただいたのだ。お前たちの言葉は嘘だから出て行け 」と宣言しなければなりません。

神様は、強い信仰を持っている人だけに働くのではないです。

私たち1人1人がどんなに弱い者であっても、神様は働いてくださいます。また私たちの弱さや信仰のレベルも すべてご存知です。ですから、それぞれ信仰の強さが違っても、悪魔に立ち向かう決意をして追い出していくならば、神様は助けてくださいます。

私たちの信仰が弱いからと諦めるのではなく、自分たちがどんなに弱くても神様の子どもである サタンに立ち向かわなければならないと決意をすることです。


【ルカの福音書10章17-19節】

さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」

イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。

確かに、 わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは 何一つありません。

サタンを追い出した後に宣言をし、そして神様からの約束の言葉を告白します。


【ローマ8章37節】

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私たちは弱い者ですが、イエス様は勝利者です。そしてイエスの御名に力があります。
そのイエスの御名を使う時に、私たちは圧倒的な勝利者になります。
その信仰に働いてくださるからです。 v( ̄∇ ̄)v

2013.12.8
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

信仰生活・成功と失敗

テーマは『 信仰生活・成功と失敗 』です

【ガラテヤ5章16-17節】

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

【ガラテヤ5章24-26節】

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

私たちはイエス様によって信仰生活を始め、それは本当に恵みであります。
神様の恵みなしにイエス様を信じることが出来ないですし、今もイエス様の中に留まって生活をしていることは 神様からの恵みであります。
水が1滴1滴 溜まっていくように、主からの恵みが私たちに注がれています。

誰もが信仰生活を良いものにしたいと願っていると思います。
しかし、ある人たちの信仰生活を見ると、破滅している人もいますし、失敗している人もいます。
また、成功している人もいます。

神様に喜ばれているならば、信仰で成功をしていることであります。
また、失敗している人というのは、「信仰生活をしています。」と言いますが、神様がその人の信仰生活を喜んでいない人であります。

成功・失敗のすべての原因は自分自身にあることを認識しなければならないです。

人々は、失敗や悪いことが起こると誰かのせいにするのです。このように自分ではなく周りで原因を探ります。
しかし、ほとんどの場合の原因は自分の中にあるのだということを、今回学びたいと思います。




― 信仰生活で成功する人たちの姿 ―

ガラテヤ5章16節のみことばにあるように、みことばによって歩むことが原則であります。
これをずっと続けてする人たちは必ず成功をします。
一度 救いを受けただけで、自分がまるで御霊によって歩んでいるかのように勘違いをしてはいけないです。

歩むということは、一歩一歩進んでいく姿であります。

自分の前には聖霊様が立っています。私たちが生まれ変わったのも、聖霊様の働きなのです。
自分の努力や、自分がみことばを守ったから救われたのではないです。

ですから、信仰生活のスタートも聖霊様によるものです。

信仰生活を維持していくには、御霊によって歩まなければならないです。
御霊によって歩む生活とは、どのようなことでしょうか――。
「自分には力がない」「自分は弱い者である」「神様に頼らなければ、私は生きていけない」
これらは、自分の姿を知っている人であります。

神様を信じるのは、ただ弱い者だから信じるのではないです。
人間は誰もが弱く、出来ないものもたくさんあります。
でも真の神様を信じる人は、自分の姿を正しく見ているのです。

人々は 自分がそのような弱い存在であるのにも関わらず、自分を正しく評価することができないです。
本当は力がない者なのに、力があるかのように勘違いをするのです。
出来ないことの方がたくさんあるのに、何でも出来ると勘違いをしています。

そして、神様に頼る者を見て あざけるのです。
神様は「あなたの命は誰が与えたのか?わたしがあなたから取り上げるならば、あなたはその場で倒れるのだ。」と語ります。

ヨブ記には、ヨブと ヨブの友達3人の姿が出てきます。それぞれ違う(自分の)思想がありました。
自分が思っていることは全て正しいと思って、その理論をずっと語り続けました。
ヨブも自分の中に色々な思いがあり、それが正しいと思って神様に訴えました。
しかし、神様からの質問を受けた時に、自分が正しいと思っていたヨブでさえも1つも答えることができませんでした。

世の中で 自分は頭が良いと言う人に、ヨブ記に書かれている神様の質問をしたら1つも答えられないと思います。


本当に信仰生活で成功する人たちは、自分の弱さ、足りなさ、力不足であることを知っています。
それを神様の前に出て来て認めるのです。
「あなた無しには、私は右も左も分かりません。この先、どのように生きたら良いかも分かりません。あなたが私の力になってください。あなたが私の知恵になってください。あなたが私をずっと導いてください。」と、自分の人生のハンドルを聖霊様に委ねるのです。

そのように神様の指示を、神様からの知恵や力をいつももらって頼って生きる人に、神様はつまずかせることはありません。
神様に頼って生きる人たちを大事にします。

信仰生活で成功する人たちはどのような人でしょうか――。


― 主の前に謙遜な人 ―

自分を砕いて、神様の前でへりくだる人、神様はこのような人たちに恵みを注ぐと語りました。

神様が特別に愛し、特別に恵みを与える人は、神様の前でへりくだる人・謙遜な人であります。

イエス様の姿を見ると、謙遜な姿があります。自分を「無」にしました。
イエス様が語る一言一言 すべての中に謙遜がありました。

私たちの中に謙遜さがないと、小さなことにもすぐに反発をするのです。許せないという思いが出てきます。
いつまでも覚えていて、それは謙遜な姿ではないです。

日々、自分を打ち叩きながら自分を無にすることであります。
主が「わたしについていきたいと思う者は自分を捨てなさい」という言葉を使いました。
その人をイエス様は導いて助けてくださいます。そして良い実を結ぶことができます。


― 恵みの中に留まる人 ―

主の恵みの中に留まることは、とても大切であります。私たちは恵みなしには信仰生活が絶対に成功できないです。

小さなことにも神様にすごく感謝をする人は、さらに神様は恵みを与えるのです。

信仰が弱い人たちの姿もそれほど心配ではありません。信仰を持ってから日が浅く、今は一生懸命に学んでいるところですので、
その人たちには未来があります。神様の恵みの中でだんだん成長していくのだなぁという望みがあります。


【ガラテヤ5章4節】

律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

恵みから落ちた人の姿を見ると とても苦しい思いになります。

ガラテヤ教会の中で、ある教えを聞いて一生懸命に律法を守ろうとしました。それの何が悪いのかと ある人は言うかも知れません。
外見を見ると すごく信仰が熱心な人に見えるのです。しかし動機を見るとズレているのです。
主を愛して恵みの中に留まりながら信仰生活をするのではなく、自分の力でやろうとして結果的には自分を誇ろうとします。

「私はこんなに一生懸命に求めているのだ!」という思いだと、いつの間にかその人たちは自分の行いを誇るようになります。そして他の人たちに向かって裁きはじめるのです。

イエス様はそのような人の姿を見て、「あなたの心はキリストから離れている」と語ります。
神様の恵みによって出来たという認識ではなく、「私がこんなに一生懸命 求めているから出来たんだ」と知らぬ間に恵みから落ちた姿になっています。

これは悲惨な姿であります。恵みから落ちた人は自分自身で気付いていないので問題です。
そして、その人たちは自分の行いをどんどん誇るのです。

自分の行いを誇れば誇るほど 高慢な者になっていくのです。

恵みから落ちる人は必ず失敗をします。

神様の恵みに頼る者ではなくて、自分の行いに頼る者になると、恵みからどんどん離れていきます。


成功をする人たちは、自分が神様の恵みから落ちてしまうのではないか、と恐れを持っているので用心をします。
いつも客観的に自分の姿を見ているのです。

自分は神様と繋がれているのか、恵みの中に留まっているのか、今の私の行動は神様が喜ぶことなのか、と自分を点検するのです。いつも自分のことを厳しく見るのです。

他人を見るのではなく、自分の姿を見て客観的に調べるのです。
すると、自分がどこに立っているのか分かるのです。

常に自分を見つめながら、神様の恵みから離れないように恵みの中に入る人たちは必ず信仰生活が成功します。

成長をして上っていくのは、とても時間がかかります。それには訓練が必要だからです。
しかし(恵みから)落ちるのは あっという間であります。




信仰生活で失敗をする人たちはどのような人でしょうか――。


― 高慢な人 ―

高慢で虚栄心がある人たちの根底にあるものは、貪欲であります。

欲があり人の上に立って偉くなり、人を支配したいという思いがあります。これも欲しい、あれも欲しいと求めていきます。


【ガラテヤ6章3-4節】

だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。

おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることはないでしょう。

高慢な者は、自分を立派な者だと勘違いをします。そして偉そうにしています。
周りの人にはその姿が全て見えています。本当に立派な人は、自分のことを誇らないです。

イエス様から「あなたの信仰は立派です」と言われた人たちは、どのような人たちでしたか?
――自分のことを価値のない者だと思っていた人たちでした。


高慢な思いを持っている人は、立派でもないのに 立派な者であるかのように、周りの人たちに見せつけるのです。
醜い姿なのに、自分では気づかないのです。なぜならば、高慢な人は自分の姿を見ないからであります。

自分の口から出る言葉が どんな言葉なのか、自分がしている行いがどのような行いなのか、そういうことに関心がないです。
欲が先立って、自分の欲の中で生きています。

みことばに関しても、持っているのは情報だけです。「この箇所に書かれてあり、このような言葉です。」と情報はいっぱい入っていますが、
実際には(みことばを)経験をしていないのです。

情報だけでは人は成長しません。
しかし、高慢な者は情報だけで、まるで自分が何でも知っているかのように自分を誇るのです。
神様はそのような人たちを退けると語りました。

本当に立派な者は、みことばを聞いた通りに行って経験をし、それによって変わる人であります。
そして実際に良い実を結ぶ人が成長していきます。

情報だけで頭だけが大きくなって情報を流すのが、私たちの成長に何の役に立つでしょうか?


― 不平・不満をたくさん言う人 ―

不平・不満やつぶやきが多いのは信仰生活が失敗します。

イスラエルの民たちが荒野で倒れた原因は何だと思いますか?
――偶像崇拝ではないです。彼らは荒野の40年間は偶像崇拝をしていませんでした。
そうではなく、自分たちの不平・不満が原因で命が取られました。ヨシュアとカレブ以外にはカナンの地に入れませんでした。

不平・不満を言う人は、神様の権威に向かって不平不満を言うことであります。神様の権威に対して挑戦をします。

教会の中でつぶやき、不平不満を言うと、まず自分の信仰が腐っていきます。
その次に、教会を破壊していきます。

その人たちは、すべきことはせず、気に入らないことに対してつぶやきます。旧約聖書を見ると、つぶやく者は次から次へと倒れていきました。
「私は正しいことを言っています。」と言っていても、神様はその人の心を探ります。


心に愛がある人はそのようなやり方をしないです。
本当に教会のためと思う人、そして人を愛する人は不平・不満で、その問題を解決しようとはしません。
そのような人は積極的な解決方法をとります。どのようなことが積極的な方法かと言うと、自分が犠牲を払うことであります。

問題を解決するために、他人に犠牲を払わせるのではなく自分がその中に入って犠牲を払います。

その犠牲を払う方法は色々あります。
人に仕える・人に愛を与える・とりなしの祈りをする。
その問題を自分で解決しようとして神様の力を受けながら一生懸命に取り組んでいくのです。

しかし不平不満を言う人は何もしないのです。腕を組んで誰かを裁くのです。奉仕をせず、とりなしの祈りもしないです。

これは一番サタンが使う方法であります。サタンは心の中に不満を持っている人を捜し、そしてその人を使います。
サタンの言葉を聞き、調子に乗るならば、その人自身は神様によって潰されていきます。

神様は忍耐をする方でありますが、神様が立ち上がったら(その人は)終わりであります。
それは共同体に悪をまき散らすことなので、それを神様は黙って見ておられないです。

その人たちは信仰生活で必ず失敗します。
なぜならそれを止めずにずっと続けていると神様に挑むことになるからです。


― 真理を喜ばない ―

真理を聞きたがらない心があります。そしてサタンの甘い言葉には耳を傾けるのです。

神様の言葉は私たちにとって、時には苦い言葉であります。時にはムチのように痛い言葉であります。

神様から「その道は滅びの道である。」とストップがかかった時に、その人が喜んで「辛いですけど、神様の言葉であるから聞き従わなければならない。」と
立ち止まるならば、その人は滅びから救い出されます。

しかし「聞きたくない。それは私が望んでいる言葉ではない。」と神様の真理の言葉を退けて、甘いサタンの偽りの言葉を聞き、
自分の肉の欲を満たしていくならば、その人は必ず失敗します。


【ヤコブ1章13-16節】

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。

サタンの甘い言葉は誘惑なのです。しかし神様の言葉は誘惑ではないです。
神様の言葉は、私たちに命を与えて正しい道に導く素晴らしい言葉であります。

それなのに、神様の言葉を聞きたくないと思う人は、既に誘惑されています。どんどんサタンと仲が良くなっていきます。

最初に欲を身ごもると、自分の中でどんどん成長していきます。赤ちゃんが胎内で育つことと同じであります。
その時に神様の言葉によって立ち止まらないと、必ずその人は罪を生みだします。
そして罪が自分に もたらすものは「死」であります。

恵みが消えて、その中でサタンが働くのです。そこに自分が望んでいないものが来るのです。
しかし、その原因を作ったのは、その人自身にあります。誘惑が来た時に退けなかったのです。そのような人は失敗するようになります。


神様はそのように失敗する者になって欲しくないと願っておられます。

アダムとエバがサタンの甘い言葉に騙されて罪が入ってきました。
サタンは色々な言葉を語り、甘い言葉に聞き従った結果は 罪が生まれ、死を刈り取りました。

今の時代でもサタンは私たちを誘惑します。自分たちの中に欲があるので、サタンはその欲に火を付けようとします。その心は隙になるのです。

それは誘惑であって、私たちの魂を滅ぼすものであります。恵みから落ちるように誘惑するものであります。

恵みなしに、何によって生きることが出来るでしょうか?
私たちは本当に気を付けなければならないです。

イエス様は騙されないようにしなさいと語りました。
恵みの中にしっかりと留まっていつも主を見上げて恵みを求め、御霊に導かれて
自分の肉の思いを打ち叩きながら生活をするなら問題がないと主が語ってくださいました。

私たちは成功したいのか、失敗したいのか 自分でどちらかに進まなければならないです。
失敗して滅びたい人は誰もいないと思います。

しかし、成功したいならば、みことばにあるように私たちはその中で生きることであります。
(´・ω・`)

2013.12.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

アーカイブ
プロフィール

ヤエクリ

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

(^^) からし種 に投票してね
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ