からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2013年07月

愛の必須ビタミン❤

※こちらの文は、聖日礼拝メッセージではなく訳をしたものです。

 愛のための7つの必須ビタミン 


(Ⅰコリント13章1-13節)


① Accept (認める。受け入れる)

相手を直そうとせず、ありのままを受け入れる意味です。
私と違うからと無理やり直そうとするなら、関係を壊しやすいので
ありのままを認める姿勢が必要です。
お互いに違いを認め合う時に、やっと同じ方向を見ることができます。


② Believe (信じる)

人は信頼、信用というビタミンを食べながら成長します。
反面、疑いは疑いを食べながら、どんどん大きくなっていきます。
相手を信じない人の愛には必ず限界がきますので、
美しい関係になれるはずだったのが不幸、虚しさ、傷だらけで終わってしまいます。
相手に対する確かな信頼は必須です。


③ Care (世話をする)

愛するならば自然に相手に対する心遣いや配慮が出てきて、関心をもって世話するようになります。
喜びや幸せの時より、つらい時、悲しい時に世話をするのが もっと素晴らしいことです。


④ Desire (期待する)

お互いに信頼しながら相手が良くなることを願い、励まし合いながら夢を育てる心です。
相手を過少評価せず「あなたなら出来る」という期待感を持つのは
相手を認めることであり、上昇させるエネルギーになります。


⑤ Erase (消し去る)

相手の過ちや弱点は早く消し去らなければなりません。
自分の失敗に対しては厳しく、相手の失敗や悪い所に対しては 相手の立場になって考えながら
理解しようとする努力がないなら 愛はもちろんのこと、良い人間関係も難しくなり
だんだんとヒビが入って、結局は別れてしまいます。


⑥ Forgive (ゆるす)

過去のことを言えば言うほど、前に進むことは出来なくなります。
お互いに過去の失敗や過ちをゆるさなければなりません。
何の条件もつけず、恨みも持たず ゆるすことです。


⑦ Give (与える)

言うまでもなく、与えるのが 受けるよりはもっと大きな喜びであることを
自ら体験することが必要です。
与えれば与えるほど、愛はさらに深くなり、強くなっていくのを二人が共に経験しているならば
それは一番望ましい愛の姿になり、二人は共に歩んでいるということです。


八戸ノ里キリスト教会

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イエス・キリストを信じる信仰

テーマは『 イエス・キリストを信じる信仰 』です

【エペソ1章19-23節】

私たちはイエス様を信じる者ですが、キリストに対する信仰が自分自身にどのような影響を与えているでしょうか?
キリストにあって、どのような祝福を受けていますか ――。

多くの人は「罪が赦されて天国に行けるんだ」と言いますが、天国に行くだけが私たちに与えた祝福ではないです。
もちろん それも後に受けますが、神様は今回のみことば箇所で はっきりと語っています。

今の世の中でも祝福されないならば、それはみこころではないのです。

なぜ私たちが祝福されなければならないのでしょうか?
それは もともと神様が人間を造った時は祝福されていました。
しかし人間が神様から離れたことによって全てを失いました。
それでイエス様が来られて働いてくださったことによって(祝福が)回復されました。

「死」は十字架によって「命」に取り換えました。その他にもイエス様はたくさん回復してくださいました。

つまりキリストを信じるということは、回復されたものを(受け取ると)初めから約束されているのです。
キリストの中に全てのものが満ちていますので、その祝福を私たちが信じる瞬間から受け取るのであります。

神様はそれを与えたいので私たちを呼んでくださいました。
クリスチャンの生活になるということは、キリストが準備をしているものを相続者として受け、
楽しみながら生活をすることであります。


【イザヤ53章4-6節】

これは救われる者たちのためにしてくださったことです。
病の討ち傷をイエス様が負って、それを回復してくださいましたので私たちが受けるものは癒しであります。
病気になった人が「あぁ、これは主のみこころであるんだ」という人がいますが、とんでもないことです。
主のみこころには、私たちを病気にさせて滅ぼすということはなく、神様が祝福として用意したものではないです。


【Ⅱコリント8章9節】

弟子たちは家族のもとに帰りましたが、イエス様には帰る家がないです。
ですから山に行って、夜通し父なる神様にお祈りし話をしながら寝る事もありました。
しかし、それは何の為でしょうか?

イエス様ご自身が、人間が地上で何を食べるか何を飲むのか、そのような貧しくて苦しんでいる問題を
回復させる為でした。

今、地球上にいる80%が貧しい者です。食べ物がなくて亡くなる人もいます。家がない人も大勢います。
明日のことを心配する人もたくさんいます。何も心配せずに生きている人は、どれだけいるでしょう。

イエス様は人間の悲惨な状態を見たのです。それをイエス様ご自身も通ってきました。
十字架の上でイエス様が「完了した」と言ったのは、人間が失ったすべてのものをイエス様が回復する働きを
終えたということであります。

ですから私たちが様々な問題の中で苦しむ必要がないということです。


物質についても、(私たちが)貧しいのが神様のみこころであると、どこに書いているでしょうか?
それだとイエス様がずっと貧しく生きていた意味がないです。

昔から教会で間違えた聖書の解釈をするので、真理ではない言葉を流していくのです。
クリスチャンは貧しくなるのが敬虔な姿であるというのは、とんでもないことです。
貧しくなって施しが出来るのですか?人の益になること、物を分け与えることができるのでしょうか?

―― できないです。イエス様は常に人々に与えました。弟子たちにも与えていきました。
そこでキリストを信じる信仰とはこういうものなんだと、イエス様が(信じる者に)準備をした恵みの中に入りなさいと、
これがクリスチャン生活のスタートラインであります。


だからと言って、キリストを信じた瞬間に宝くじに当たってお金が与えられるということではないです。
それは祝福ではないです。キリストの祝福はそんなものではないです。
「何を食べて何を着るかを心配するな」と神様がすべて知っておられるからです。
世の中でも、悪い親でも子供には良いものを与えるように、神様は 神様を求める者たちに悪いものを与えるはずがないのです。

皆さん、クリスチャンの人たちはキリストに出会ってからも なぜ苦しむのですか?
なぜいつも日常の生活の中で、今も罪の問題、病の問題、貧困の問題、家庭の問題などを自分でそれを背負って
苦しむのでしょうか?

それは信仰が間違えているからであります。
なぜ自分がキリストを信じる信仰がそこに1つも影響力がないのでしょうか?
なぜキリストが与えた影響力が自分のものにならないのか、それは神様のせいでしょうか? とんでもないです。

神様は私たちが祈る以前に備えてくださっています。ですから、問題は常に私たちにあります。
その問題点を挙げます。


①キリストと1つになっていない


これはまだ生まれ変わっていないということであります。
信仰が形式的で、信仰の味をまだわかっていないです。私たちが生まれ変わるということは、何だと思いますか?
信仰をもって信じて、キリストと1つになることです。キリストの中に入ることです。
そして その人自身が古い人を脱ぎ捨てて、新しい人になることが生まれ変わったことであります。

古い人のままで生まれ変わることはないです。もはやあなたが生きるのではなくて、キリストがあなたの中で
生きているということを主が語りました。

キリストと1つになって生まれ変わっていないので、キリストが自分のために備えているものが
自分のものになっていないのです。
そして相変わらず 自分で全てのものを背負って「主よ、主よ、どうしてですか?!」になってしまうのです。

これはキリストにある権利を知らないからであります。
私たちがクリスチャンになって出発する時は、キリストが回復しておいた根本的なところに
気が付かなければならないです。
クリスチャンになることは何か?という時に、「あぁ、これから厳しい信仰生活が始まるなぁ」ではなく、
「キリストが回復したものを私が相続するんだ」と全ての良いものを自分が受けるという認識がないといけないです。


聖書に2人の放蕩息子の例えがありますが、これは2人とも間違えていました。
1人の放蕩息子は父の財産を「ください、ください」と言って(父から)もらいましたが、神様の目的とは違う
自分の快楽のために財産を湯水のように使って、結局は父の家にいた時より悲惨な罪の奴隷になりました。

もう1人、家の中に留まっていた長男ですが、この長男の姿のようなクリスチャンが多いです。
自分の弟が帰ってきた時に 父が赦して指輪をはめ、新しい服を着させ、ご馳走を食べさせたことに
ものすごく腹を立てました。
「私は朝から晩まで汗を流しながら働いているのに、私には1つも良いものをくれたことがありません。」と
言いました。長男の問題は何でしょうか?

父のものが自分のものだという認識がないのです。
つまり求めなかったことです。彼の中には「あれはお父さんのものであって、私のものではない」と思っていました。
ですから一度も父に「ください。」と言ったことがないです。
ただ黙々と死にそうな思いで働いたうえに、父に対して不満な心がありました。


父のものは自分のものだという根本的な権利を知らない長男でした。
知らないので1つも自分のものになっていないのです。こんなに金持ちの父親がいても、奴隷なのです。

「私が心の中でこんなに想っていても1つも叶えられない」というのは、世の中の宗教の信仰と同じであります。
信仰で必死に求めているのですが、それを叶えてくれるものがいないのです。
つまり神がいないということです。聞いてくれないものに いくら自分たちが拝んでも得るものはないです。


私たちの信仰も、(神様は)父のものはあなたのものなのに、なぜ自分のものだという認識がないのか―?と
語ります。自分のものだという認識があるならば、自由に使って良かったのです。
いちいち父親に許可をもらわなくても、正しくそれを使うならば、父親は喜んだと思います。
彼がその中で喜んで生活をする姿を見たら父親も嬉しいのに、いくら経っても何一つ求めないのです。
そして、いつ見ても不満な顔をしているのです。

クリスチャン生活はそのようなものではないです。信じる者の為にイエス様が犠牲を払って回復してくださいました。
天国に無いものはないです。

歪んだ信仰で何が生まれてくるでしょうか? 私たちは正しい者でなければいけないのです。


②期待しないものに神様は絶対に働かない


奇跡を行う神様だと期待をしないので奇跡が起こらないです。期待をしないので御使いも現れないです。

聖書はすべて言葉で書かれていますが、
言葉が働くのは、私たちが信じて期待をして宣言をする時に言葉が動き出します。
言葉は私たちが宣言をしない限り、絶対に動かないです。

私たちが色々な問題を抱えた時に みことばを宣言するのです。
「キリストの懲らしめによって私は平安になった。サタンよ、出て行け!」と潰すことです。
病気の時は「キリストの討ち傷によって私は癒された!」と宣言をします。
「もっとひどくなるのかな?」と、このような言葉を言うならば 癒しは絶対に起こらないです。

困った時だけ神様に求めるのではなく、初めから自分のものなのです。その中で生きることです。
キリストと自分が別々に生活をして、困った時にその問題を持ってわざわざキリストの所へ行き、
「私 困りました。」では得られないです。


キリストの中に住むということは、自分の人生すべてをいつも委ねて生きることなのです。
心の王座に自分が座っていてはいけないです。そこにはキリストが座るのです。
多くの人達が「主よ、主よ。」と言いながら、全部自分の力で色々なことをしようとします。

ちっぽけな人生を自ら歩もうとするのは、キリストが見て「それが信仰か」と泣いています。
私たちは「王の王、主の主」の子どもなのです。

祈って委ねると大胆になれます。毎日幸せだと宣言をします。
口から出る(不信仰な)言葉が恵みを閉ざしてしまいます。
不満を言うのはキリストが何をしてくださったのかをまだわかっていないです。
「私はまだ生まれ変わっていないんだ」と知り、反省をしなければならないです。

体験のない信仰は、信仰が1つも動いていないことであります。みことばが自分の生活の中で動いていないです。
それはその言葉を使っていないからです。


「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのすべてのものは与えられます。」
ということは、キリストの中で自分が今生きている目的は「キリストなんだ」ということです。
私のために良い事をしてくださったキリストを喜ばせる生活、キリストを愛する生活、キリストを敬う生活、
これが私たちの日々することであり、それをやっておけば自然と蛇口をひねって恵みが流れるように
主が備えてある祝福は全部自分のものになるのです。

ですから、自分の努力で得る必要は一切ありません。主のみことば通りにすれば、自然とついてくるものです。

信仰生活は最初から祝福を受け取る生活です。努力をして何もないところから一から始めるのではなく、
初めからあるものを信仰によって受け取るのです。

自分がいかに信仰によって、それを自分のものとして使うのか、これが試されているのです。
喜びながら、心配をしないことが信仰なのです。「豊かな祝福を一生受けます」と宣言をしてください。

一体、私は誰なんだ? ―― 私は王様の息子、娘であるということをもっと自覚して欲しいです。
以前は奴隷であったけど、今は違うという大胆さです。

嵐が起きていても立ち止まる必要がないです。蹴ったら良いです。
誘惑するものに向かって、いちいち立ち止まって潰れて、元の道に戻ることはサタンに負けることであります。
「下がれ。サタン。お前と私に何の関係があるのか。今の私は以前とは違うぞ」と戦うことであります。

イエス様がしてくださったものを、しっかりと受け止めてください。 (・◇・)ゞ

2013.7.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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救われる人の実態とは?

テーマは『 救われる人の実態 』です

【ルカの福音書13章22-28節】

今回は、どのような人が救われ、どのような人がそこから外れるのかを伝えます。

主が、13章24節で大切な事を教えています。
入りたくても、入れない人が多いというのは、てっきり本人は入れると思っていたのに、
実際には「あなたは入れない」と追い払われる人が多いということです。
「ご主人さま、開けてください。」と言うことは、既にイエス様のことを知っていて、
自分はイエス様のしもべだと思っている人です。扉の向こうにはイエス様がおられることを知っています。

しかし、扉は開けられることはないので、その人たちはびっくりするのです。
そして、イエス様に「どうして私のことを知らないのですか?」と聞くのです。

しかしイエス様は、この人たちには入る資格がないことを知っているのです。

これらの言葉は、イエス様のことを信じて「知っています」という人に語る言葉であります。

アブラハム、イサク、ヤコブは自分の身を聖く保った者でした。
すなわち、天の御国に入れるように常に準備をしながら聖別された生活をし、悔い改めをし、
最期まで信仰を守り通しましたので、その人たちが(天の御国に)入れただけであり、
その人たちのことをあなたたちが知っているからと言って、
あなたたちが自然と(天の御国に)入れる事はないと語っています。

イエス様は1人の魂も滅びることを願わないのですが、人々が自分で滅びの道を選んで歩くのです。


【マタイの福音書25章1-13節】

ここに書かれている人は、すべて救われた人々のことであります。
なぜなら、イエス様を花婿と思っているからです。ですから未信者の人ではないです。

賢い5人は自分たちの信仰が消え失せないように、日々守っていました。
「油」は聖霊様であります。いつも聖霊充満な生活をしていました。

しかし、愚かな5人は肉に満たされて この世を愛しながら形だけの信仰を持ち
やっとの思いで教会を行ったり来たりする生活をしていました。今にも ともしびが消えそうでした。

そして主が来られた時、イエス様は10人が入って来るのを期待していました。
しかし、愚かな5人はそこにはいませんでしたので、準備が出来ている賢い5人だけを入れました。

愚かな5人は、主が見えなくなってから一生懸命に 主を呼びました。
しかし、ルカ13章のように、2度と戸が開くことはありませんでした。


【ルカの福音書17章26-30節】

イエス様は終わりの時代の話をされる時は、ノアの洪水とロトの時代のことを必ず語ります。
預言者は神様の言葉を伝えるために存在しています。(これから何が起こるのかを)前もって語ります。
ノアは箱舟を造りながら人々に語り続けました。


【創世記7章23節】

救われたのは、たったの8人でした。そして他の人たちも神様のことを知っていました。
このことから、救われる人は とても少ないということがわかります。


【創世記19章27-29節】

ロトの時代の ソドムとゴモラは、エデンの園のように豊かな地でした。
そこには多くの人たちが生活をしていました。その他の地域は荒れた地が多いです。

しかし、そこに住んでいる人たちは、とても悪いものでした。
快楽や多くの同性愛者がいました。アブラハムがとりなしの祈りをしましたが、
神様は、「正しい者がいないから滅ぼす。」と語りました。
アブラハムは甥・ロトの為に、とても祈りましたので、神様はロトの家族4人を連れ出されました。
しかし、ロトの妻は神様の言葉に従わずに、すぐに後ろを振り向いたので塩の柱になりました。

ロトの娘2人も姦淫の罪を犯したので、その2人が悔い改めていなければ、天国で見ることはないです。
(その後、2人はどうなったのかはわかりません。)

私たちが亡くなる時は、神様は必ず「悔い改めさせよ。」という言葉を牧師に語ります。
そしてその言葉通りに悔い改めをする人は、幸いな者であります。

自分の信仰ではなく、神様の憐れみによって天の御国に入りますので、
「悔い改め」が(天の御国に入るための)準備であります。そして神様を信じる信仰が必要です。

しかし、「私、まだ健康だし・・・。死ぬ時に悔い改めをしたら良い」と直前にするという人が多いですが、
私たちは自分がどんな死に方をするのかわかりません。ある人は突然事故で亡くなる人もいますし、
突然倒れて亡くなる人もいます。また、ある人は長い闘病生活の末、亡くなる人もいます。

ですから普段から「今日、私は死ぬかも知れない」という思いで悔い改めておかなければ、
自分が亡くなる時には傍に牧師がいるとは限らないですし、信仰の友がいるとは限らないです。
「今、悔い改めなさい」と言う人が必ずいるということはないです。


【Ⅰコリント10章1-12節】

せっかくエジプトから出たのに荒野で滅ぼされました。
もともと、エジプトから出て来た時は250万人がいましたが、カナンの地に入れたのは何人でしょうか?
カレブとヨシュアの2人だけです。


【ヘブル3章7-19節】

かたくなな心を潰さない限り、安息に入ることはないです。
かたくなな心は、神様の言葉を受け入れず、神様の言葉があっても証拠を求めます。
いつも文句を言いながら否定をすることであります。高慢になると私たちの心は かたくなになります。

そして、かたくなな心は罪になっていきます。
罪がある者は天の御国には入れないです。これは悔い改めていない姿であります。
悔い改めないならば、心はますます固くなり罪が留まります。

私たちは弱いので罪を犯します。しかし神様の言葉を聞いて悔い改めることが大切です。
「私は罪人です。主よ、赦してください。」のように、「赦してください。」と悔い改めるのは
やわらかい心であります。いつも自分の心を耕します。石や雑草、いばらを全部取り除くことで
ますます やわらかい地になります。

心が固くなり過ぎると、悔い改めができなくなります。

黙示録には教会に送る神様の手紙がありますが、それは そのまま私たちに宛てた手紙であります。
7つの教会のうち、5つの教会に悔い改めなさいという言葉が送られました。
神様はどういうことで悔い改めなさいとおっしゃったのか、
この言葉を送る理由は、教会に来たからと言って、聖日を守ったから、什一献金をしたからと言って、
それだけの理由で天国には入れないということです。


【ヨハネの黙示録2章5節】

・キリストの身体ではない死んだ教会です。

【ヨハネの黙示録2章16節】

・悔い改めないのなら、みことばで刑罰を与えます。

【ヨハネの黙示録2章21-22節】

・悔い改めないと出てくる結果は呪い・滅びであります。

【ヨハネの黙示録3章3節】

・いつ来るか決してわからないので、滅ぼされてしまいます。

【ヨハネの黙示録3章19節】

・熱心になって悔い改めないと滅びます。


そして、残り2つの教会には、そのような言葉ではなく、励ましの言葉を送っています。

【ヨハネの黙示録2章10節】

・信仰を守ろうとする時に、悪魔から激しい戦いと誘惑がきます。その中でも信仰を守り通しなさいと
いうことです。そのことで命の冠を受けます。冠を受ける時まで戦いは続くということです。


【ヨハネの黙示録3章11節】

・取られたら終わりということであります。信仰と悔い改めをしっかり守り、
誰にも奪われてはいけないです。あなたの信仰を揺るがすものが来るかも知れないです。
それでも、それを最後までしっかりと持っていなさいと主が語っています。
ここには、安心しなさい という言葉はどこにもないです。


ただ耳に甘いメッセージだけを聞いて、魂がすっかり居心地が良い眠りについてしまったら
いつイエス様が来られるかわからないです。安心して食べたり飲んだりしている時に
ノアやロトの時代のように、人の子が来ます。

最後まで信仰を守り、自分を聖く保っている人だけが神様が天に引き上げてくださいます。
そして他の人たちは地上に残されてしまいます。その時には悔い改めるチャンスがないです。

ともしびをしっかり持って、油を用意し、目を覚まして いつイエス様が来られても良いように準備してください。

今日が人生最期の日かもしれないです。私たちはその意識がとても大切であります。

最期の時は、悔い改めて信仰を奮い立たせて 神様の御前に出なければならないです。
手遅れにならないようにすることが大切です。

自分はどういう姿なのかを見て、思い当たることがあれば熱心に悔い改めたら良いです。
それが命を守る道であります。 ヽ(TдT)ノ

2013.6.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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