テーマは『 主に委ねよ 』 です。
【詩篇55編22節】
ダビデが客観的に自分自身に向かって語っている言葉です。
詩篇55編を見ると、ダビデが大変な状況にいることがわかります。
【詩篇55編1-8節】、【詩篇55編16-19節】
ダビデほど色々なことを経験した者はいないです。
詩篇は私たちが苦しい時に読む事が多いです。なぜならば、自分たちの中にある色んな思いを
とても詳しくピッタリと表現をしてくれるからです。それはダビデの頭から出たものではなく、
心、身体、環境で体験をして語った言葉だからです。すべて自分で経験をしたものであります。
ですから、何も経験をしないで頭で考えて書いているものとは全然違います。
それで自分たちが共感をする部分がすごくたくさんあります。
ダビデの敵は、彼の家族でもありました。家族や子供がダビデを苦しめました。
親しい友までもダビデを裏切りました。末っ子であるダビデを兄弟たちは冷たい仕打ちをしました。
結婚をしても家庭が平安ではなく、子供たちがダビデをすごく苦しめましたし、長男はダビデを
殺そうとしました。ダビデは悪い事をしているわけではないのに、彼の周りには敵が多かったです。
主は「ダビデはわたしの心に適った者である」と語りましたが、彼には色々な問題がありました。
しかし、その中でもダビデが潰れなかった理由は何でしょうか――?
【詩篇55篇22節】で語ってある通り、重荷を主にゆだねたので神様は彼を救い出してくださいました。
そのことをダビデは経験をしましたので、このような言葉が言えるのです。
ダビデはどんな時でも神様を見ていました。そして重荷を神様に委ねることを日々体験しました。
(金ヘス牧師が)実際に色々な相談を受ける中で、クリスチャンたちが多くの部分で勘違いをしている部分が
見えてきます。相談をする人には2つのタイプがあります。
表情に「問題があります」と書いてあるような曇った顔をしている人たちがいます。
「何かあったのですか?」と尋ねると「こういうことがありました。」と言います。そして、
「神様が私に与えてくださった十字架なので耐え忍んでいます。」と言って、黙って忍耐をしている人がいますが、
(このような姿は)特に真面目な人に多い傾向があります。
しかし、「十字架」と「重荷」は違います。
十字架は福音のために、主の名のために受ける苦しみです。自分がイエス様を伝えることによって、
また みことばを守ることにより生じた様々な苦しみであります。(ヨブがそうでした。)
自分に降りかかった苦しみを全部神様に委ねました。
そのことで失ったことに対してはヨブは一言も(不満を)言いませんでした。
私たちは失ったものに対して、ものすごく神様に文句を言います。それは十字架ではないです。
神様によって生じたものだけが十字架であります。
神様は立ち返らせるために、悔い改めの材料にしますが、十字架(使命)ではないです。
ですが、多くのクリスチャンたちが錯覚をして「どうして私にこんな重荷を神様は負わせるのですか?」と
言う時があります。
それは十字架ではないので重荷をおろして神様に委ねなさいと、はっきりと言います。
サタンに騙されている部分がとても多くあります。
サタンは「(あなたは重荷を)負っていなさい。それはあなたの十字架なのだ。」と言います。
しかし、それは十字架ではないのです。その人自身から出て来た色々な思いがそれを手放しません。
本来ならば手放すものなのに「私の訓練だ」と自分の背中に背負います。
そして苦しみながら「忍耐をしないと。耐えなければ神様が喜ばないんだ」と言います。
そのような考え方を変えなければならないです。神様から与えられた十字架ではないので、
それはあなたが背負っている重荷に過ぎません。
みことばには「あなたの重荷を主にゆだねよ。」と書いてありますので、背負ったままですと不従順になります。
神様は私たちが重荷を背負っていることに対して心配をしてくださいます。
神様は問題を見て心配をするのではないです。その問題を手放さないで抱え込んでいる人を見て
心配をするのです。
重荷を手放すと神様が解決させてくださいます。それが神様のみこころであります。
また、重荷以前に 神様は委ねてほしいことがあります。
【詩篇22篇10節】
自分自身を、命を与えてくださった神様に委ねることであります。
「私を神様に委ねます。」、「私を導いてください。」というのが私たちがすべきことであります。
【詩篇22篇8節】、【詩篇37篇5節】
私たちは神様の前で1つ告白すべきことがあります。
「神様、明日の事は私は何1つわかりません。」と、明日何が起こるのか誰もわからないです。
ですから「神様が私の道になってください」と告白をします。
神様はすべてのことを委ねなさいとおっしゃいます。
家族の問題も私たちの力で(解決)出来るものではないです。
【Ⅰペテロ5章7節】
1つの問題が生じると、一瞬にして思い煩いが私たちを襲います。それによって疲れてしまいます。
しかし神様が私たちが思い煩いで嘆いている姿を見て、心配をします。
ダビデも自分の命を狙う者の中で泣きながら うめきました。
だけどそれは思い煩いではなく、祈っている姿であります。
思い煩いと祈りは全く別のものであり、
思い煩いは肉から出たもので、祈りは神様から出たものです。
祈ると神様が働き、思い煩いがあると私たちの中の信仰が消えていきます。
信仰がなくなると、私たちは神様との関係がどんどん遠くなっていきます。
信仰は神様に近づいていく力であります。神様を信頼し、見上げることです。
思い煩いは問題を見る事であります。問題を見つめると、徐々に力を得て問題が大きくなります。
問題が目の前にあっても私たちはそれを見るのではなく、祈りによって神様の力が表れるように
神様が問題を持っていってくださるようにしなければなりません。
祈りは神様を動かす力でもあります。求めるなら与えられる約束があるので、
私たちがその言葉を握りしめて神様に求める時に、神様が答えを持ってきてくださいます。
ダビデのように朝も昼も夜も祈ったら良いのです。神様に訴えたら良いです。
祈るならば問題が早く解決されます。
次のみことばはダビデの姿です。
【Ⅱサムエル記22章31-35節】
委ねて祈ると神様は乗り越える力を与えてくださいます。それによって私たちは問題を解決する
こ とができます。
【Ⅱサムエル記22章47-51節】
このような姿を私たちは学ぶべき姿であります。どのように委ね、どのように神様との関係を
結んでいったのか、このようなことが聖書には書かれています。
敗北した者はいませんでした。委ねた者は全て神様によって救い出され、勝利者になったことを
私たちは学んでいきましょう。
力あるイエス様が傍にいるのに、(自分は)何をしているのか、自分の姿を見てください。
信仰によって主に信頼して委ねようとするならば、恵みを体験することができると思います。 (*´∇`*)
2013.4.28
聖日礼拝メッセージ
八戸ノ里キリスト教会
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