からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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2013年01月

砕かれた、悔いた心とは

テーマは『 砕かれた、悔いた心 』です

【詩篇51編17節】

私たちには色んな痛みがあります。
軽い痛みもあれば、骨が押し砕かれた耐えられない痛みもあります。

砕かれたものから生じる痛み。
自分達の心の中に自分が犯した罪に対してそれくらいの痛みを感じることをここで語ってあります。
心が痛くてどうにもならない状態です。
罪は腐敗したものであります。自分の中に腐敗したものがあることを考えてみてください。

骨が砕かれた時に感じる痛みのように、自分の罪を見て、自分の心でそのように感じることであります。

クリスチャンは教会に来て初めて罪というものに対して、みことばを通して聞きます。
世の中では聞くことができないようなことが聖書に書かれてあります。
罪というものは恐ろしいものなのです。
なぜかというと、罪には必ず神様の怒りが下るからです。

多くの人が罪の奴隷として、「今さえ良ければ」と、目の欲や情欲、その中で皆が生きているので
罪の認識がないです。

この世が全てであるならば、それで(罪が)無になれば良いのですが、そうではないです。
私たちが肉体を脱ぎ捨てる時は、神様の裁きの座の前に立ち、自分たちが無意識に犯していたことまでも
神様が引っ張り出して、それに対して神様の怒りが下ります。

犯罪人が罪を犯している時には、自ら好んで罪を行います。捕まらない限り、何度も繰り返します。
しかし捕まって裁判にかけられて「あなたの罪は終身刑だ。」と一生 刑務所から出られないとわかると
その時に初めて自分が犯した罪の重さに気付き、心が痛くなります。
しかしその時に悔いても既に手遅れです。

この世の刑務所に入らなくても、死んで自分の罪が暴かれて刑罰が下った時には、
いくら胸を叩いて悔い改めても地獄から出られることはないです。

その時に私たちが泣く者になるのではなくて、今 砕かれた心にならなければならないです。

【詩篇38篇1-10節】

罪に気付いて、その前で砕かれた魂になっている姿です。それが神様が喜ぶ姿であります。
私たちは自分たちが犯した罪に対してこのような思いで祈ったことがあるでしょうか?
「私は何という罪人でしょうか」。それが本当に自分の中で起こされている人は、
神様はその人を見捨てることがないです。

【詩篇34篇18節】

他人から受けた傷のために悩みをもって苦しんでいる人は世の中に数えきれないほどいます。
呟きながら誰かを憎んで苦しんでいる人、神様はそういう人達に目を留めるのではないです。
人は、他人からされたことに対しては心に刻んでいつまでも覚えているのですが、
自分が他人にしたことや自分が神様に犯した罪に対しては蓋を閉めて
「そんなことはしていない」と 言います。これは多くの人間の姿です。

心が砕かれた人は、他人を見るのではないです。他人が自分にしたことを見るのではなくて、
自分そのものが罪人であるんだ、と自分の姿を見て悲しみ、苦しむ人であります。

【ローマ7章15-19、24節】

罪は、聖霊様に反抗するものです。そして神様に従わないようにします。
心が砕かれた者というのは、霊的に貧しい者たちであります。
貧しいということは、いつも神様にすがりつく思いで頼ります。

【ヨハネの黙示録2章9節】

【ヨハネの黙示録3章17節】

心砕かれた者たちは自然と謙遜になります。心の高慢な者は感謝をしないです。
神様は日々心を痛めながら、神様の憐みや恵みに感謝をする人に目を留めてくださいます。

【イザヤ書66章2節】

こういう人達を神様は喜んで天の御国に入れてくださいます。
私たちは神様の恵みや救いを軽く考えてはいけないです。もしも軽く考えるならば怒りが後で来ます。
罪に気付くこと、そして心を砕くということは、自分が生きる道なのです。

クリスチャンは恵みのことを考える時に、自分の罪がどれほど重たいのかを考えるべきであります。
罪がない人のような顔をして平気に生きるのは、まだ自分の罪の姿を見ていないことです。
他人のことを非難しながら、自分の中に汚れや腐敗している姿に気付いていないです。
これでは十字架をまともに見る事もできないです。

神様は心砕かれた者に目を留めることをしっかりと覚えてください。
毎日、自分の心を打ち砕くことが魂を聖く守っていく方法であり、神様が共に歩んでくださいます。 (´;ω;`)

2013.1.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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信仰の柔順

テーマは『 信仰の従順 』です

【へブル12章2節】

-信仰にはいくつかのタイプがあります ――――――

薄い信仰 →【マタイ6章30節】、【マタイ14章31節】

行いのない空しい信仰 →【ヤコブ2章18節】、【ヤコブ14章17節】

愛のない信仰 →【Ⅰコリント13章2節】

生温い信仰 →【ヨハネの黙示録3章16節】

立派な信仰 →百人隊長・・・【マタイ8章10節】、【ルカ7章9節】
         カナンの女・・・【マタイ15章28節】、【マルコ7章26節】

愛によって働く堅い信仰 →【ガラテヤ5章6節】、【コロサイ2章5節】

神の力を信じる従順する信仰 →【コロサイ2章12節】、【Ⅱテサロニケ1章4節】

偽りのない聖い信仰 →【Ⅰテモテ1章5節】、【ユダ20節】

純粋な全き信仰 →【へブル10章22節】

-信仰とは ――――――

【へブル11章1節】

見えるもの、感じるものに頼らないで、みことばに信頼をすることです。

【へブル11章6節】

【マタイ9章29節】、【マルコ16章17節】

私たちは自分の心配事を祈り、それを主の御座に置いてきます。
しかし、またそれを自分で持ち帰ってきて「大丈夫かな?」と心配をして、
自分の力で何とかしようとする愚かなことをしていないでしょうか。
それは、主に委ねきっていない信仰の姿です。

【詩篇37編5節】

【ローマ14章22節】、【ヨハネ6章28節】

-今回のテーマである『従順する信仰』について ――――――

【ローマ10章17節】

①信仰によって、人々が7日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。
 信仰の叫び声をあげました。

②信仰によって、ノアは家族の救いの為に箱舟を造りました。

③信仰によって、モーセは はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民と共に
 苦しむことを選び取りました。

④信仰によって、アブラハムは受け継ぐべき地に出て行けと言われた時、行く先を知らずに
 出て行きました。【へブル11章8節】

アブラハムも、神様を信頼し、信じていたので主が共にいてくださるだけで、
充分だと思い信仰によって出て行ったのではないでしょうか。

私たちも同じように神様を信頼して従順するならば、必ず時が来たらみこころの道を
明らかにしてくださるお方です。

【ローマ4章18-21節】

アブラハムの信仰の試練です。彼は、望みを抱き信じたことによりイサクが与えられました。
そのイサクを、神様は捧げるように語りました。(私たちが自分の身に起きたらどのように思うでしょうか)
しかし、アブラハムは信仰の目で見ていました。
これは「全き信頼と従順の姿」です。

【へブル5章7節】、【Ⅰテモテ6章12節】、【ヨハネの黙示録14章12節】

主に従順して行く時に、強い信仰が養われていきます。
からし種ほどの小さな信仰を働かせる時に、主の大きな御業を見ることができます。

パウロほど艱難、迫害、苦しみを受けた者はいないでしょう。
素晴らしい信仰の姿勢、模範を見ることができます。

【Ⅱテモテ4章7節】

強い信仰は、一夜にして生まれたものではなく、いくつもの艱難に耐え、勝ち取ったものです。

私たちは様々な試練や悩みが生じてきます。その時に、みことばの約束を握り信仰の祈りを
捧げて行く時に、必ず勝利をさせてくださいます。

「貴方方はこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私は世に勝ったのです。」
と、みことばに書いてあります。
ですから、「私は信じる」と信仰の告白をしたらどうでしょうか。

試みの中で、信仰が試されますが、それも父の許しなしには起きないことなのです。
また、あなたがたのあった試練は、みな人の知らないようなものではないです。

【Ⅰコリント10章13節】、【Ⅰペテロ5章9節】

強い信仰を知る唯一の方法は、いくつもの大きな試練を耐えることです。

【ヤコブ1章3-4節】

信仰の力とは、神様のみことばの約束をどれだけ信じているかに比例するのではないでしょうか。
信じて体験していけばいくほど、信仰の力は増し加えられていきます。
主によって語られた事は、必ず実現すると信じきった人は何と幸いでしょう。

【Ⅱコリント13章5節】

力と聖霊と確信は、力あるみことば、聖霊様の慰め、励ましと助け、導きを受けながら
強い信仰と確信へと導かれて行きます。

【エペソ1章17-19節】

2012.11.4
聖日礼拝メッセ―ジ

八戸ノ里キリスト教会

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悟りがなければ

テーマは『人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい』です

【詩篇49編1ー20節】

ホームページの【幻と啓示】で、神様は地獄のことを続けて語っておられます。
それは私たちに対しての警告であります。地獄が本当にあるということを人々に神様が教えたいのです。

また地獄は、人々が考えているような軽い場所ではないです。
その地獄へ1人として行ってほしくない、(神様は)愛の方であるということも教えたいのです。

イエス様を信じているあなたにとって「悟り」とは何でしょうか?

―――主が私の羊飼いとなってくださり、魂を贖ってくださった方であり、
生きている今も、そして後に来る世界でも、私のただ一人の助け主、救い主、贖い主、
栄光の主であるということです。

私たちがその「悟り」を得たなら、どうしたら良いでしょう?
―――これは1人で持っておくべき悟りではないです。
人々に流していかなければならないです。
私たちの恵みを人々に与えない、流さない。「自分だけ」となると神様はその姿勢を喜びません。
神様はその人に恵みを流した後に、その人がどのようにするのかをよく見ておられるお方です。

10人のライ病人がイエス様のもとに来られて、10人全員が癒されました。
9人は喜んで、そのまま行ってしまいました。そして戻ってきたのは、たった1人でした。
それもユダヤ人ではなく、異邦人でした。

恵みを受けたら、神様のところに戻ってきて感謝をするべきであり、
恵みを受けたら、周りを幸せにする為に流していくべきであります。

そうすると、あなたの周りがだんだんと明るくなっていきます。
神様から受ける恵みはクリスチャンを通してやってきます。
まず、(クリスチャンである)あなたが祝福の基となることなのです。

【ルカ11章24-26節】

私たちが悔い改めをしたり、サタンの追い出しをして悪霊が出て行きます。
悔い改めというのは、自分の中にあるサタンの餌を放り出すことなのです。
例えば、怠けの心があるとします。怠けはサタンの最高の餌になります。
それによって、その人を神様から引き離すことができるからです。
悔い改めることによって、餌とサタンはその人から出て行きます。

サタンはその後、ウロウロして自分の休み場を探しています。
多くの人々がいるので、サタンはどこにでも入ることができるのですが、
特にサタンはクリスチャンの中に忍び込みたいのです。
サタンは、神様の最高の被造物である人間を地獄へ連れて行きたいのです。

聖書のどこに「怠けて良いよ」、「あなたが疲れている時は、聖書を開かなくて良いよ」と書いてあるでしょうか?
聖書は神様からあなたへの地図であり、ラブレターなのです。

【民数記13章25節 -14章10節】

2つの反応が出ました。多数の偵察隊は「上っていけない」ということでした。
そこには強い民、背の高い民がいるから。私達には無理だということです。

私達も「無理」という言葉は、本当に無理だから言うのでしょうか?
―――無理なことは頼んだりしません。それは神様も同じです。無理なことは頼みません。

預言で神様から自分に与えられた言葉がありますが、
そこで神様から「しなさい」と言われたことが色々あると思います。
神様は私たちにとても期待をしてくださっています。
この通りにするなら、祝福があるとおっしゃいます。
しかし、それをしないならば、祝福は手に入らず いつまでも不平不満で終わると語っておられます。

また、ヨシュアとカレブの反応は違いました。
「無理」とも「出来ない」とも言いませんでした。「上っていこう」と言いました。

この2つの反応、自分だったら どちらへ行きますか?考えてみてください。

言葉は怖いものです。
否定的な言葉を言って、それが自分の頭の上に降りかかってきたらどんなに怖いでしょうか。
「どうして神様は助けてくださらないんですか?」
神様は答えてくださいます。―――「あなたの信仰のとおりになれ。」

「神様はあの人ばっかり恵んで、どうして!?」
私達の心はとても汚くて、すぐに相手と比べたりします。とめどなく汚い物が出てきます。
普段は出てこないのですが、何か事が起こるとコップの中にある土と水をかき混ぜた状態のように濁って
泥水のように変わります。
何もない時はクリスチャンの姿ですが、しかし何かが起こった時に心が揺さぶられると
あなたの中にあるものがハッキリとわかります。

「(私の中に)・・・こんな物があったんだ。こんな不信仰なものがあったんだ。」と。
気が付かなかったことが気が付くというのは感謝なことです。

みことばは飾りではなく、聞いて行う時に問題を乗り越える力を与えてくれるものです。

【Ⅰサムエル17章34-37節、45-47節】

ゴリヤテの姿は、巨人の姿です。これを私達に例えて言うなら、「自分に向かってくる問題」です。
この問題をどうしていくか。自分にとっては大きな問題です。
逃げることもできるし、「無理、無理。」と言うこともできます。
自分の問題は、誰かにしてもらうことはできず、自分で立ち向かわないと解決されません。

解決されないばかりでなく、いつもそのことで自分が脅かされます。
自分の中で起こってくる問題は、神様によって乗り越えていかないと同じような問題で苦しめられることが
何度もあります。

それは、どうしてでしょうか?―――学んでいないからです。
その訓練を受けて、クリアをしていないので また同じ問題を神様がテストされることが多いです。

ダビデは、このゴリヤテにどうやって立ち向かう勇気があったのでしょう?
ダビデに初めから勇気があったからではなく、神様を信頼していたからです。
これもそうですし、34-36節のみことば、神様を信頼する信仰はダビデが羊飼いの訓練を受けて
培われていったものです。
羊の世話をするのは、ダビデの毎日の生活の一部でした。
ダビデは日々の小さい訓練の中から学んでいきました。獅子が来たらどうするか、熊が来たらどうするか。

これこそが神様がダビデに与えた日々の訓練です。
このような小さなことをなおざりにすると、いくら「私はクリスチャンです」と言っても力がありません。

神様は私たちに力がないことをご存知なので、いきなり大きな敵(問題)と戦えとはおっしゃらないです。
今ある力と、今ある信仰で戦えということです。

神様は私たちが弱いままでいることを望まれていないです。
私たちが一歩ずつ、「あの問題も、この問題も、自分には出来ないと思っていたんだけど、
牧師の助言を通して、また みことばを通してやってみて逃げないことで、乗り越えることができた。」となります。
大きい問題が来た時も「やってみよう」とその時の信仰と力で、神様に頼りながらしようとすると
「すごい、神様出来ました~!」となります。

もしも出来なかったとしても、「神様、私に力をください。次は闘って勝利出来ますように」と力を求めます。
失敗して、そこで終わりではないです。
そこで失敗したからといって2度とチャンスが来ないわけではないです。また必ず来るのです。
その時までに力を付けておくと、必ず乗り越えることができます。

サタンは、神様の守りが強いことを知っているので、神様の守り抜きで「出て来い」と私たちに言います。
「あなただけで出て来い。そしたら、なぶり者にして 殺してやるから」と。
私たちが祈らないで出て行く時は、そういう姿なのです。自分1人で出て行ってあっという間にやられます。

「神様、一緒にこの問題に立ち向かってください。」と祈るなら、ダビデと同じように神様の強い力が働きます。

神様は素晴らしい計画をあなたに立てておられます。それは平安な計画であって、災いではないです。
今、災いの渦中にいるとしても、必ず嵐がおさまる時が来ます。
そしてあなたとあなたの家族の上に平安が訪れて、天から光が射し、和らぐ時が来ます。

その時を私たちが、いつも先取りして見ることです。必ず乗り越えて行けるんだ。
神様と共に歩み、神様に期待しながら喜べる日が来るんだと思ってください。 (*´ω`*)

2012.10.21
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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実に対する教訓

テーマは『 実に対する教訓 』です

【マタイ7章17-18節】

聖書には信仰の奥義が教えてあります。それを通して私たちが何を学ぶのかが大切であります。
今は10月なので収穫の時期です。特に果物を育てている人たちは猫の手を借りたい程、とても忙しい時です。
汗をかきながら収穫しますが、すごく大変だと思います。
夏の時期に汗を流して、苦労しながら育てた果物の木からたくさんの実をとる時に農夫たちはたくさんの
祝福を受けます。

私たちが実を結ぶまでの過程は色々と苦労があります。
忍耐しながら良い実を結んで行く人たちは満ち足りた人生を歩みます。

実に対する教訓の中で一番に見たいものがあります。実を通してその人を知ることができます。
誰かのことを知りたいならば、その人がどんな実を結んであるのか、それを見ればわかると思います。

― 唇(言葉) ――――――――――――――――――

【マタイ7章16節】

心の中に色んな思いが詰まってくると、それが下に流れるだけではないです。
詰まった思いは、口を通して言葉になって外に現れてきます。
悪い思いがいっぱい詰まった人たちは、良い言葉が語れないです。
もし良い言葉を語ったとしても、それは嘘であります。
嘘はしばらく経つと見抜けることができます。反射的に、とっさに出てくる言葉があります。
それを見ると、この人はこういう考えなんだということが言葉を通して知ることができます。

人間の言葉は軽く考えてはいけないです。その言葉で自分の運命が変わることもたくさんあります。

【箴言12章14節】

良い言葉や正しい言葉を使うと その人に良い実がなります。
普段使っている言葉で自分が他人にどう見られているのか、
外見は気にして飾ることができても言葉に対しては私たちは気を付けないです。

悪い心からは、悪い言葉が出てきます。
神様は使う言葉に対して無関心ではないです。使う言葉によって必ず裁きがあります。
それは「唇と行動の実」で、これらは神様が全て記録しています。

外では言葉を気を付けることができても、家族の間で使っている言葉でその人の人格が丸出しにされます。
自分が使っている言葉は必ず自分に振りかかってくることであります。

クリスチャンは聖徒にふさわしい言葉を使いなさいと神様が語ってあります。

【へブル書13章15節】

一日中、賛美を歌うことではないです。神様に感謝を捧げ、神様のことを褒め称える言葉がたくさんあります。
希望があり、恵みの言葉は聖徒たちにふさわしい言葉です。
自分が使う言葉に徹底する必要があります。

言葉は自分の耳より他人の耳に先に入っていきます。
私たちは他人に向けて言葉を語りますのでもし自分で言った言葉を忘れてしまったとしても、
相手は覚えています。

― 行動の実 ―――――――――――――――――――

言葉は嘘を付くことが出来ますが、行動は自制することが出来ないです。
自然とその人の思いのままに行動へ移っていきます。
表情を見てもすぐにわかります。
その人に信仰があるか、ないかも行動を見てわかります。

神様に対してどんなに犠牲を払っても一生懸命する人に対し、神様は恵みを与えないはずがないです。
妨害や問題があった時に、どうやってそれを乗り越えて行くのかを考え、
そして乗り越えた時に信仰が成長します。乗り越えるとさらに良い事があるので、それには価値があります。

私たちが一歩退くならば、持っている恵みまでも取られてしまいます。
常に乗り越えることを考えます。考えていくと解決するあらゆる方法が出てきます。

信仰の実は神様を喜ばせます。

【コロサイ1章10節】

信仰とは、神様を信じ、イエス様を信じ、そして主の心に適った歩みをするのが信仰生活であります。
教会に来ることが信仰生活ではないです。
どこへ行っても神様を信じて主に適った歩みをする。これが生きている歩みであります。
そうすると、その人達はどんどん成長していきます。
成長していく者は必ず実が結ばれていきます。

自分の人生を通して、正しい信仰と態度をもって生きる人、
神様のみこころに一致するように努力しながら生きている人たちは、ぶどうの木についた枝のように
神様から恵みを受け、命を受け、そしてどんどん実を結んでいきます。

人間が造られた目的は、神様に栄光を捧げるために造られました。
ですから、私たちは神様の心を満足させなければならないです。

栄光を捧げる者として期待をしたのに、その者が反対に恥をかかせる。
その者が何一つ実を結ばない。これほど神様にとって悲しいことはないです。
小さい事でも繰り返しやっていくならば、実を結んでいきます。

――――信仰の実を結ぶために聖書箇所を伝えていきます――――― 

普段、このような生活をずっとしていくならば、どんどんイエス様の姿に似ていきます。

【ピリピ2章15節】、【Ⅱコリント1章12節】、【Ⅱペテロ2章9節】、【Ⅰテサロニケ4章9節】、【Ⅰペテロ5章5節】、
【マタイ5章8節】、【ローマ16章19節】、【へブル12章14節】、【テトス2章14節】、【ヤコブ5章7-8節】、
【へブル13章2節】、【へブル13章5節】、【Ⅰコリント15章58節】、【申命記6章5節】

これを全て紙に書いて貼ってください。常にカバンに入れて持ち歩いてください。
何も考えずに今まで通りに生きるのではなく、常にみことばを読みながら、
一歩ずつでも「今日はこれをやってみよう」と行動すると、皆さん自身の内側から変わっていきます。

― 世の実 ――――――――――――――――――――

「死」を結びます。

【ローマ6章21節】

世の中の全てではないです。信仰の実に対して、正面から対立するもの。
汚れているもの、つまずかせるもの、否定的なもの、偽りのもの。こういう物を「世の実」と言います。

(世の実は)持っていても自分にとって何一つ良いものをもたらさないです。

クリスチャンがどういう生活をしたら「世の実」を結ぶでしょうか。
イエス様が例えをされた「道ばたの心」は、クリスチャンの姿であります。

【マタイ13章19節】

悟りがない。(心が固く閉ざされたことであります。)みこころを受け入れない心であります。
どんなに神様の言葉を聞いても、1つも悟りません。
(心に)蒔かれるのは、悟った言葉だけが蒔かれるのです。

世の実を結ぶ前兆があります。
それは心の中に多くの思い煩いがある人は、どんどん心の中に神様のものではないものが入ってきて、
心を頑なにしていきます。
世に対する思い煩いであります。(明日に対する、お金に対する、健康に対する、人間に対する思い煩い)
こういうものがたくさんあると、みことばが蒔かれなくなります。

【ルカ21章34節】

聖霊充満では沈み込むことはないです。聖霊充満は鷲のように上に昇る力があります。
しかし地面に吸い込まれるように、心の中が沈み込んでいる時に聖霊充満の実が結ばれることは不可能です。

【ルカ14章18-20節】

福音に逆らって生きる姿であります。
世のことに関心があって世に縛られている人たちは、結局は世の実を結んでいきます。
自分が今していること、それによって自分が後で蒔いたものを刈り取っていきます。
このようなクリスチャンは不信仰な人になり、死の実を結んでいきます。

生きている時はチャンスがあります。悔い改めもできます。
生きているということは常に希望があるということであります。

【マタイ21章43節】

異邦人でも神の国の実を結ぶ者たち。神の国はその人たちに与えられます。 .゚+.(・∀・)゚+.゚

2012.10.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンと苦難

テーマは『信者と苦難の問題』です

【ヨハネ16章33節】

信者と苦難の問題は、誰にでもあることです。人間は生まれながら苦難は付き物です。
どの家庭、どの環境に生まれていてもあります。

イエス様が教える苦難の中で、私たちが必ず勝たなければならない苦難がありますし、
そのまま受け入れて忍耐していかなければならない苦難もあります。

しかし、私たちが実際に受けている苦難を見ると、受けなくていい苦難を自ら蒔いて
苦しみの中にいる人がほとんどです。90%以上がそれに当たります。


― 受けなくていい苦難 ――――――――――――――

①罪からくる苦難

自分が犯した罪のために、自分が苦しみを受ける苦難です。
すべての人間は罪人ですので、私たちには罪の性質がたっぷりあります。
良い方よりは、大人になると悪い方に傾いていきます。
罪を犯したからと言って、すぐに刈り取ることはそんなにないですが、
しばらくすると、それによって自分に災難がふりかかることが すごくあります。

クリスチャンは、この苦難はどこから来たのか?
「あの人から来た」ではないです。根本的にどこから来たのかというと【罪】から来ました。

【イザヤ59章1-13節】(みなさんは イザヤ書59章を読んでください)

これを止めない限り、いくら叫んでいても 仕切りになっています。
ですから光が届きません。声も届きません。
神様は光であります。自分たちの罪が、光が入らないように 仕切りを作ると
いくら私たちが神様に求めても、どんなに祈りを積んでも何も起こりません。

この苦難を乗り越えるにはどうしたら良いのでしょうか―――?
十字架の前に出てこなければならないです。
イエス様は私たちの罪を背負って十字架に架かって死んでくださいました。
十字架の前に来て悔い改めて、自分の罪を洗わない限り、いくら「この苦しみから私を救ってください」と
祈っても聞かれることはなく、悔い改めた時に まるで扉が開かれるように消え去っていきます。
そして光が届き、神様の救いが届きます。

自分の罪、家族の罪から出てくる苦難が一番多いです。
自分たちの罪を(自分で)知っています。知っているのですが立ち返りません。
ですからいつまで経っても苦難は消えることがありません。

自分の心に苦しみがたくさんあり、喜びがない、平安がないなら、暗闇の道にいるのです。
十字架の下に返り、イエス様に悔い改めて自分の罪を捨てて、
イエス様の血を求めて洗い聖められた時にその苦難が消えていきます。

②病気

「これは神様のみこころです。」と言う人がいますが、とんでもないです。
みこころであるなら、なぜイエス様は病気を癒したのでしょうか。

【イザヤ書53章4-5節】

イエス様の打ち傷によって癒されたと言っています。
ですから、病気になるのは神様のみこころではないです。
癒され、病気にならないのが、神様のみこころであります。

【詩篇103篇3節】、【Ⅰペテロ2章24節】

罪から来る苦難はいらないものであります。受けてはならない苦難です。
病気で絶望するのではなく、イエス様に癒してくださいと、イエス様に触れることであります。

【申命記28章】

罪から病気になります。私たちは罪から離れることによって変わることが多いです。
ただ「癒してください」ではなく、私たちのガン細胞【罪】というものを
自分の中に留めておくと腐っていきます。そこから病気が出てきます。

病気になった時に私たちが、まず すべき事は悔い改めることであります。

③経済的な貧困

全世界を見ると、この経済的貧困によって苦しみを受けている人がとても多いです。
ですが、クリスチャンが経済的貧困になるのは、みこころではないです。

【Ⅱコリント8章9節】

日本の牧師は貧困意識が強いです。
貧しさが美徳と言っていますが、それは聖書を知らない牧師の姿であります。
敬虔に生きることは問題がないですが、
まるで貧しい生活をするのが敬虔な者であるかのように認識しているのは聖書を知らない者です。

(聖書箇所は)貧しさの中でも献金を捧げた人に対して神様が与えた祝福であります。

神様に捧げることがもったいないというのは信仰でも何ものでもありません。
ますます貧困になっていきます。
天国の銀行に積んでいくと、30倍、60倍、100倍の利子がつきます。
神様に投資をします。それは破たんすることもなく、倒産することもないです。
利子が返ってこないこともなく、元金が無くなることもないです。

献金をケチってみてください。他のことでお金が出ていきます。

神様を信じるので貧困意識がないです。
クリスチャンは世の中の人とは違い、神様の中でその祝福を 私たちが神様の法則で正しく使うならば、
貧困になることはないです。持っていなくても豊かであります。

④失敗の苦難

マイナス思考で否定的な思いで満たされてありますので、何をしても失敗をします。
なぜなら その人の口は「何をしても上手くいかない」と言っているからです。
「 私にはできない 」 「 無理 」これは全て失敗意識であります。

【ローマ8章28節】

勝利の意識を持っている人だけが勝利します。
感謝は良い事が起きた時だけが、感謝ではないです。


― 受けなければならない苦難 ―――――――――――

⑤神様のために、福音のために受ける苦難

これはイエス様が与える苦難であります。
神様にひたすら頼りながら忍耐することであります。

使徒パウロはイエス様に出会うまでは全てが順調でした。
しかし、パウロがイエス様に出会ってからは苦難の扉が開かれてしまいました。
「この苦難は救い出してくださいと言うような苦難ではなく、自分の罪からきたのではない。
これは福音のために自分が背負わなければならない苦難であります。」
その苦難を受けながら魂を導かなければならない苦難です。

【Ⅱコリント1章4-5節】

これは、そこから「救い出す」のではなく 慰めであります。
イエス様もその苦難の道を通ったことと、全世界の人々を救うために
わたしもその十字架の苦難と人々からの迫害、そこから来るあらゆるものを わたしは黙って受けたから、
あなたも私の足跡に ついて来なさい。
ですから、イエス様を見ると慰めが来ます。

北朝鮮ではクリスチャンがどれほどの迫害を受けているでしょう。(※下記、詳細へ)
踏まれ、焼き殺されても誰1人、イエス様を否む人はいません。
彼らは皆、その中で黙って重労働をしていました。踏まれる度に「主よー!!」と叫び
彼らのような苦難を受けている人は、ここでは誰もいないです。
このような苦難を受けている人はいないので、今 私たちが受けている苦難は受ける必要がないもの、
自分から出てきた苦難であります。

「何で私がこんなに苦難を受けているんですか?」と神様に言える立場ではないです。
私たちが悔い改めて立ち返るならば、その苦難は祝福に変わっていきます。

【ヨハネの黙示録2章10節】

終わりの時代に艱難があるということは、信仰が試されるということであります。
死んでも良いので苦しみを受けて忠実でありなさい。と、そのような人だけが命の冠を受けます。
神様ご自身が「誰が信仰を持っているのか、信仰を持っていないのか」とジッと見ています。

信仰が不合格な人には、神様は何も言いません。「あなたの信仰はそれしかなかったのか。」
ですが、苦しみの中で耐えて信仰を守る人は、神様は大喜びであります。
全てのクリスチャンではないです。ヤギとヒツジに分けます。これは試してみないとわからないです。

クリスチャンは苦難に対して否定的な思いを持ってはいけないです。
苦難が来た時に自分を振り返ってみるべきです。私が間違った生き方をしたのか――?
私の中にまだ罪があるのか?どの罪がこの苦難をもたらしたのか?
私に感謝が足りなかったのか?神様が願うように私は生きたのか?全然違う道を生きたのか?

このように自分を調べる時間にしたら良いです。

ただ単に「助けてください」ではなく、原因を知らなければいけないです。
そうしないと、その問題が解決されないことであります。

悔い改めることは霊的に目が覚めることです。
口では「神様」と言いますが、神様を本気で求めなかった人が、
ひどい苦難が来た時に初めて本気で求めて従順する人もたくさんいます。
そういう面から見ると、苦難は悪いということではないです。

苦難の圧迫の中で強くなることが多いです。苦難の中で免疫ができます。
同情する者になり、愛のなかった者が愛のある者に変わり、
憐みの心がなかった者が自分の苦しみを通して憐みを知る者になります。その中で人格が変わっていきます。
苦難の中で感謝しなさい。それまで受けたものがどれほど感謝なことだったのか。

【ヨハネの黙示録2章9節】

信徒の姿です。外側から見ると乏しく見えても、彼らの内側には祝福がいっぱい詰まっています。

【ヨハネの黙示録3章17節】

全く逆の姿です。この2つの姿は、自分たちがよく学ぶべきことであります。
私の姿はどうなんだ、と。この苦難は何だ、と。

苦しみの中で変わってください。苦しみの中で自分自身のことをもう一度振り返ってください。
感謝を生み出し、悔い改めると自分の自我が砕かれます。 
謙遜な者は神様に頼る者、そうなると皆さんからいらない苦難が去っていきます。


北朝鮮のクリスチャンに対しての現状です。

北朝鮮ではクリスチャンの迫害が強くあります。
いわゆる“将軍様”を信じない者には、想像を遥かに超えた拷問があります。
これは、北朝鮮から韓国へ脱北した人が、
世界中の人々に伝えたいということでネット上に情報を公開したそうです。
情報を載せた人は、クリスチャンではなく共産党関係の人です。

突然、政治犯収容所での勤務を命じられ、その人は暗い場所へ連れていかれました。
――そこには溶鉱炉がありました。
そして、そこにはクリスチャン達が働かされていました。
ほとんど寝かされず、そして食べ物もほとんど与えられていないので、
その姿は骸骨のようにお腹と背中の部分がくっついていました。
正常な皮膚がどこにもない状態でした。

その人は、遠くから彼らを見ると黒い服を着ているように見えましたが、
少し近くに寄ると1枚の黒い前掛けをした格好でした。
動物以下の扱いを受けて、牛革でできたムチを何度も受けていました。
何度も踏みつけられて、うめき声をあげていました。

『見えない神を捨てて、将軍様を信じろ!』と怒鳴ってムチを打っても、彼らは無言を貫きました。
さらに『勝負だ!』と言って、溶鉱炉へ向かって走り 燃え盛る鉄をバケツに汲んで、彼らにかけました。
彼らは一瞬のうちに炭のような姿になり命を落しました。

その人は、その後 収容所での勤務を離れることができ、韓国へ脱北しました。
目を閉じると、一瞬で炭のようになった姿が浮かぶので恐ろしくて目を閉じることができませんでした。

愛する兄弟姉妹が実際に遭っている現状を知り、その人達のことを祈ることが私たちに出来ることです。

2012.9.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖霊充満な秘訣とは

テーマは『 聖霊充満な秘訣 』です

【ローマ書12章1節】

教会に来る人たちは皆が同じラインに立っているわけでもなく、同じところに属しているわけでもないです。
羊とヤギ、麦と毒麦があります。
麦と毒麦の例えは、1つは実が詰まって良いもの。
1つは実が無いもの。外側は麦のように見えても、中身が無いです。

聖霊充満な人は、どのような人かと言うと、「内なる人」が生きている人、詰まっている人、健全な人であります。
このような人達が聖霊充満であります。

聖会巡りをする人達がいますが、それによって聖霊充満な生活になったでしょうか?
なってはいないです。だから飢え渇いて「どこへ行ったら聖霊充満になるのか?」と全国の聖会をまわります。
それは聖霊充満な姿ではないです。そのような方法で聖霊充満には絶対にならないです。
神様はそのような方法を絶対に使わないです。
その時の一時的な恵みはあるかも知れませんが、聖霊充満にはならないです。


―― 聖霊充満になるには ――

今回の聖句箇所のローマ書「聖い、生きた供え物としてささげなさい。」というのは、
『 献身 』であります。これは自分自身を神様に捧げたことです。
働きのために何かをするためでも、神学校へ行くことでもないです。

自分自身を聖い生きた供え物として神様に捧げたか 捧げていないか、であります。
捧げた人は聖霊充満に必ずなります。

日々、罪の悔い改めをしてイエス様の血が注がれると聖くなりますが、
どうやって聖い生きた供え物になるかと言えば、その人自身の自我が消えたことを意味します。

自我充満は肉に属している姿であります。
聖霊充満を妨害する1番の悪いものは、自我充満です。

自我がいっぱいになっているのに、聖霊様はどこに入りますか? 入りたくても入れないです。

順序があり「まずあなた自身をわたしの前に捧げなさい。」であります。
これが祝福を受ける秘訣であります。

【ルカ6章38節】

神からのものを受けたいならば、自分の心を空っぽにする必要があります。
「空っぽにして綺麗に掃除をしてきました。どうぞ入って来てください。」と
いうのが正しく聖霊を求める姿であります。


―― 聖霊充満を維持していくには ――

維持する方法は「愛」です。
献身をすると、神様のものが私たちの中に入ってきます。
その中には、賜物もあり、神様の愛もあり、神様がくださる色んな良いものがあります。

それを神様は「あなたが独り占めにしなさい」とは言っていないです。
今度は私たちが得たものを(周りの人に)与えることです。
無条件に与える。神様が示したところに与える。これは愛です。
他人の為に犠牲を払うと、聖霊が消えることはないです。

聖霊様が賜物を与えてくださるのも、他人に仕える為であります。
愛を実践しなさいということで、神様が賜物や恵みを与えてくださいます。

しかし、この愛は自分自身に勝たなければ出来ないことであります。
何故なら人は、自分を愛しているからです。「私のもの、私のもの・・・。」
自分の為には使っても、他人の為には使わない―。
犠牲の精神がない愛は、「愛ではない」です。

神様との関係でも、人間関係でも、犠牲が伴わない愛は「愛」ではなく、
世の中は「愛」、「愛」、「愛」ばかりを言いますが、それは「(自分に)くれ、くれ、くれ」という愛です。
与える愛ではないです。ですので、それには値打ちがなく すぐに壊れます。

しかし、神様は私たちに「あなたたちが聖霊充満を維持したいならば、ずっと続けて毎日のように
この愛を具体的に実践しなさい。」ということであります。
そうするならば、その人の中にある聖霊充満は消えることがないです。

献身はこの道の一番最初、入り口にすぎないものであります。
愛の実践を受けるために神様が与えてくださった賜物をタンスの中に仕舞い込むのではないです。

聖霊充満を受ける為に従順がないと全て虚しくなります。
従順する姿。これは秘訣でありますが、聖徒たちに何よりも必要なものであります。
従順ということは、神様の権威を認めることであります。神様を1番にすることであります。

祈りはたくさんしても、従順が無いならば、その祈りは聞かれないです。絶対に聞かれないです。
祈るということは、まず神様の声を聞くことであります。聞いて、それに従う時に管が良く通るようになります。

たくさん祈ったから与えられると勘違いをしていますが、
神様は「あなたが従順した分だけ、祝福が来る。」と語ってあります。
不従順をすると、神様から与えられたものも 取られます。

神様はどんな人に祝福を与えるか順番を決めるなら、従順した人であります。
神様がパッと見て、一番従順した人に先に与えます。その人をまず先に祝福をして、その次に従順する人、
またその次に従順する人・・・と祝福を与えていきます。
神様の言葉をよく聞いて、従いたいという心を持っている人達であります。

祈りをたくさんすれば、奉仕をたくさんすれば、神様は祝福するだろうと思いますが、
その前提にあるのは「従順」であります。

(神様が)自分に言われたことを、その通りにしていく その姿に神様が感動しますね。
神様はその人を呼んで祝福をしていきます。

従順しない理由は自我充満であります。


―― そして、信頼があります ――

神様は私たちに対する計画があります。私たちは自分で計画を立てて「神様、私の計画通りにしてください」と
神様に願いますが、それは正しいでしょうか?
―正しいものではないです。

神様は私たちに命を与えた時に1人1人に対する計画を持っています。
あなたの人生そのものを捧げなさい。
捧げることは信頼をすることであります。自分の命を神様に任せるということは信頼できなければできないです。
私たちが立てた計画よりも遥かに神様の計画の方が素晴らしいです。祝福するために立てた計画であります。
平安を与えるために立てた計画であります。

私たちは明日のことがわからないです。霧のような人生なのに、「明日のことを心配するのか?」
最後まで自分の計画を握りしめて通そうとするなら、神様がそれを壊してしまいます。
計画通りにならないようにしてくださいます。

私たちが聖霊充満にならないと、魂を失っていきます。
世の中での一番の悲劇は魂を失うことであります。それは全てを失ってしまうことです。
たくさんの世の物を持っていても、墓場に持っていけないです。

イエス様の弟子たちは、無学であっても聖霊充満になることで、
世の中の口の上手い者たちの人間的な知恵を潰しました。
弟子たちは何も持ってはいませんでしたが、魂を生かす者になりました。
神様の働きが出来る者になりました。
自分達の生きる目的が何なのかを聖霊充満の中で悟りました。

自分の魂が失われないように、自分の人生の目的、何の為に生きているのか
これを忘れないようにしっかりと日々生活の中で考えていかなければならないです。
 ( -д-)ノ

2012.9.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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大祭司の祈り

テーマは『大祭司としての祈り』です。

【ヨハネ17章6-19節】

1-5節はイエス様が十字架にかかるので、ご自身のために祈りをしました。
そして(6節からは)弟子たちに祈る、イエス様の祈りであります。
20節からは、未来の信徒たちのためにイエス様が祈る姿です。

イエス様がどれほど私たちのことを考えてお祈りをしているのか、
(この場面は)イエス様が十字架に架かる直前です。
イエス様は自分の為よりも、弟子たちのために祈る姿があります。

一切、世的なことは祈っていないです。
しかし、私たちはどうでしょうか。世的なことをたくさん求めます。
自分達の祈りと、イエス様の祈りが根本的に違います。
ですから、私たちはイエス様のみこころを知らないです。

6ー9節を見ると、弟子たちの霊的知識のために祈りました。
しかし、まだ彼らの中に守っていく力はありませんでした。

弟子たちはイエス様と3年間一緒にいる時に、「私たちは絶対に主を身捨てることはありません」と
語っていましたが、実際にイエス様が捕えられて十字架につけられる時には、1人残らず逃げて行きました。

そこでイエス様は失望するのではなく、そのことを全て知りながらも祈りました。
「1度はみことばから離れた者であっても、その時はあなたがたにみことばの知識がないから。
悟っていないから、そういう行動を取ったんだ。
立ち返ってあなたがたがみことばを守る者になるようにわたしは祈りました。」と。

(父なる神様は天地を造られ、イエス様の祈りを聞いてくださる方であります。)
イエス様が語る弟子とは【この世から取り出して、わたしにくださった人々】です。
その認識を皆さんが持たなければならないです。
この世の人々と自分が変わらないのなら、弟子ではないです。

何か訓練を受けた者が弟子ではなく、この世から取り出されてイエス様のものになってあるならば、
私たちは皆、イエス様の弟子であります。そこで訓練を受けるならば本物の弟子になっていきますが、
そうではない者たちは、何もしていない者になります。(=実を結ばない者です。)

みことばを知るということは、神を知るということであります。
神様の真理を知り、神様のみこころを知って、イエス様の事を知ることであり、自分の姿が見えて来ます。

聖書の言葉を読めば読むほど、神を知ります。読めば読むほど、神のみこころを知ることができます。
自分はどういう風に生きたら良いのか、それを私たちに教えてくださいます。

その為にイエス様は弟子たちのみことばに対する知識のために祈りました。
「彼らがみことばを聞いて悟り、みことばを聞いて守りますように。
わたし(イエス様)のことを確かに知りますように。」
口で言うだけではなく、そのことをイエス様は祈りました。

私たちも祈る時にそのような祈りが必要です。
「私がみことばを悟るように助けて下さい。神様をもっともっと知ることができますように」
聖書を読む時に「みことばを悟らせてください。私はみことばの知識が乏しいです。」

10-12節では、弟子たちの忍耐のために祈りました。これはとても大切なものであります。
聖書には「忍耐」という言葉がたくさん出てきます。何に対して忍耐するのでしょうか?

それは信仰を守るために生じてくる苦しみであります。
世の中は罪に染まっているところで、誘惑がたくさん来ます。
誘惑は甘いものですので、その誘惑を振り切って戦う時に必要なのが「忍耐」であります。

最近は、普通の人が平気で罪を犯しています。昔はヤクザや不良が罪を犯していました。
しかし最近の姿を見て下さい。そのような人達ではないです。
どこにでもいるような大学生、高校生、中学生、主婦・・・。恐ろしすぎる罪を犯しています。

私たちは悪を犯さないように耐え忍ばなければなりません。
自分自身を守る一番の姿は、罪を犯さないことであります。罪を犯したら(世の人達と)同じになります。

忍耐はジッとしていることではなく、それが自分に入らないように徹底的に戦うことであります。
辛くてもしんどくても戦って守ります。

13節でイエス様が1つの祈りをしました。「主よ、彼らがいつも喜んでいますように。」という祈りです。
 いつも忍耐で苦しいというのではなく、私たちがいつも喜びで溢れるようにと祈りました。
艱難と迫害と喜びは消えるものではないです。

パウロは鞭打たれた時にいつも喜びに満たされていました。 
忍耐はしなければならないという義務ではないです。
主の喜びがあると、そういうことがあっても平気であります。

クリスチャンとは、どんな時でも喜んでいるのがクリスチャンだと思います。
イエス様はどんな苦しみを受けている時も悲しんでいる姿は一切ないです。
人々が滅びていく魂を見て悲しむことはありますが、イエス様ご自身の人生について呪ったり、
悲しんだりしたことはないです。いつも喜んでいます。

世の楽しみを求めるのではなく、楽しく生きて幸せになる道を選ぶのが
神様が喜ぶことであります。喜びがないのは間違えています。
いつも喜びがないと、イエス様のみこころからズレています。
喜ぶというのは義務ではないですが、主が私たちの喜びのために祈ってくださっているので
私たちがそれを期待することであります。喜ぶことが主のみこころです。
どんな苦難の中でも誰にも喜びを奪われないように、それを自分のものにしていくことです。

暗い顔をして生きるのがクリスチャン。――とんでもないことです。
「主よ、私に今日も喜びで満たしてください。主の喜びで満たしてください。」
これは私たちがみことばを守っていく時に喜びが出てきます。満足感が出てきます。
しかし、みことばから離れて罪を犯したならば、罪責感が出てくるので喜びが消えていきます。

14-17節は、イエス様は弟子たちが聖くなることを祈りました。
弟子たちはイエス様の証人であります。「天の御国の福音を伝えなさい。」
世に生きていますが、世に属する者ではないです。世に生きていながら、世に属さない為には、
自分が聖い者にならなければいけないです。
光が暗闇の中に入って消えるのではなく、暗闇の中で光を放ちます。
塩は腐敗していく中で、それを止める働きをします。

聖くなる方法はみことばであります。みことば(真理)は基準です。
善悪の基準は自分の考えではなく、真理であります。そこからズレているのは罪になります。
罪はどんなに小さなものでも汚れてあります。

【Ⅰテモテ4章5節】

私たちがみことばを読むのは、それは生き方の基準だからです。
どの時代でも変わらないのが真理であります。
私たちが真理を知って守っていく時に、まず自分達が聖い者になっていきます。

18-19節では、弟子たちの使命の為に祈りました。
「世に遣わす証人として遣わす。」

「私はあなたと何にも違いがありません。私から見たら、あなたは相変わらず汚れていますね。
あなたを見たらどこにも喜びがないですね。あなたを見ていたらキリストの知識もないんですね。
学ぶことはありません。」
そうなると、収穫の為の働き人どころか、キリストに対して「あなたは使いものにならないなぁ」という者に
なります。

イエス様が1つ1つのことを私たちのために祈ってくださいました。
「私に対する期待なんだ。私がそうなることをイエス様はすごく願っているんだ」と。

私たちは主の祈りを通して、私たちに望んでいることを悟り、
その祈った通りに生きることが主が喜ぶことであります。祈りと反することをするならば、
イエス様はとても悲しみます。

これはイエス様が十字架にかかる前に祈りました。私たちにたくさんの期待を持って祈りました。
弟子たちは1人以外は使命を全うして生きました。
それをバトンタッチして、今 私たちが受けました。
イエス様の期待に外れないように、そういう者になろうという決心。
これがみことばを聞いている人の姿勢であります。 ヾ(´ω`=´ω`)ノ

2012.9.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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善悪の実を食べた理由

テーマは『善悪の知識の木から取って食べた理由』です

【創世記2章16-17節】、【創世記3章1-6節】

なぜ食べたのか、その理由をみことばを通して知りたいと思います。
エデンの園にある実の中で、この木だけは食べてはいけないことを人間に命令を与えました。
人間が自分の意思で神様に従順するか、しないかを試すためでした。理由はこれでした。

神様が主権者なので、それに従うのが秩序であります。
ですが、それに従うかは(神様は)人間に意思を与えています。
蛇の中にサタンが入って誘惑をしに人間に近づいてきました。

それまでは中央にある木を気にしていませんでしたが、サタンが違う思いを入れました。
それは神様と全く違う言葉でした。

しかしサタンの攻撃が来る以前に、神様は人間に注意しなさいと言葉を伝えていました。
なので人間はそれを守れば良いだけであります。しかし人間の言葉も曖昧になっていました。

「死ぬといけないから」と言いましたが、神様は「必ず死ぬ。」と語ってありました。
この言葉の意味には天と地の差があります。

神様は中途半端な言葉は語らないです。

蛇の言葉を聞いてから、その実がすごく美味しそうに見えるようになりました。食べたい欲が出てきました。
私たちは何かをする時には欲が出てきます。

罪というものは、見た目(包装紙)が美しい物であります。私達を誘惑するものですので、
誘惑されやすい「良いもの」に見えてきます。 

【箴言5章3-4章】

すごく見た時は甘いものなので誘惑されていきますが、一緒になってしまった後で大変なことになります。
見てはいけないものをずっと見ていると、だんだん自分の欲が出て来て、肉の欲、目の欲が出て、
自分では抑えられなくなります。

【ヤコブ1章14-15節】

誘惑されると必ず私たちは行動に移します。全てのものがそうです。
しかし誘惑された瞬間、なぜ人間はそれを止めることができなかったのでしょうか。
神様の言葉があるにも関わらず、なぜ手を伸ばしてそれを食べたのか――。

私たちは神様の言葉があるにも関わらず我々は罪を犯します。
それは私たちと言葉の関係に問題があります。
人が誘惑されるまでは、その言葉が生きてあります。
ですが、サタンにそそのかされてサタンが流した嘘が支配し、思いが支配されるとサタンが働きます。
サタンが働いた時から、みことばがおかしくなります。
みことばに対する自分の態度が(反応が)変わってきます。

アダムとエバの中には、神様の言葉を軽く考える思いが出てきました。
心が汚れたことによって神様の言葉が力を失っていきました。
神の言葉を軽く考えた時から罪が生まれます。罪は神様の言葉から離れたことが罪であります。

【Ⅰサムエル2章30節】

エリ祭司も神の言葉を軽く考えました。
神様が勝手に変わるのではなく、私たちが神様を変えなければならないようにしています。
私たちが罪を犯すなら、神様は約束を果たす義務がありません。

【マラキ書3章14-18節】

主の言葉は「必ず死ぬ」という厳しい言葉です。
サタンは「死ぬどころか、神のようになる」という言葉でした。
アダムとエバは神様の事を軽く考えていたので神様の言葉を疑いました。

罪を犯す者は、判断力、分別力、良心までもがマヒされます。
嘘を信じると、真実を嘘のように思います。

聖徒とは、聖書で神様が語っている約束を信じる者であります。
聖徒とは、聞いて信じて受け入れる人で神様の言葉によって生きる人です。

神様は嘘をつかないです。サタンは初めから嘘です。偽りの父です。

もともとサタンは自分が神になろうとしていましたが、失敗しました。
天使として造られた時は霊的な存在でしたので、人間の力は及びません。
そして神様を直接見た者であります。神の世界のことを全部知っています。
サタンが神になれなかったのに、人間が(神に)なれるわけがないです。
ここに人間の愚かさがあります。
誘惑されると善悪がわからなくなるので、悪いものが良いものに見え、良いものが悪く見える。
真理が嘘のように思え、そして 嘘が真理のように思えます。

欲を持っている人が一番騙されやすいです。無欲であるならば、
どんなに誘惑がきても私には関係がないと思えます。

詐欺師は欲を持っている人達を探します。

もし誘惑されたなら、自分は欲張りだということです。そこには既にサタンが住んでいます。
人々が福音を聞いても信じない理由は、サタンが心に住んでいるからです。
サタンが福音を受け入れることはないです。

エデンの園の「これは食べてはいけない」と言った場所は神様の領域でした。
しかし、そこに人間が足を踏み入れました。人間は許された領域の中でいなければならないです。
神様の領域に入ってタダで出てくることはないです。そこは禁じた場所だからです。
神様は人間をエデンの園から追い出しました。

今も私たちが神様の言葉を無視し、約束を疑って従わないでアダムとエバと同じように領域を侵害するならば
天国から追い出されることになります。

教会に来る人でも2種類の人がいます。
神様の言葉を恐れる人。人間は、人間として自分の領域を守りながら生きる人。
神様の領域を勝手に汚い足で踏みつけて「何が悪い」と、生きる人。

神様は正しい者と悪者をはっきりと区別するんだと語りました。
その部分で私たちは今も善悪の知識の木、私たちを誘惑して倒そうとしている その木、
それがたくさんあるということです。

パウロと共に働いたテマスは、善悪の知識の木の実を食べた者であります。
一緒に働いた者ですが、その道はとても苦しい道でありました。
他の人達は一緒に闘って最後の勝利を得ましたが、テマスは違っていました。
パウロを通して神の言葉を聞いていましたが、世を愛していました。

私たちが神様の言葉を聞いていても、それを軽く考えて疑って、神様の領域に勝手に入ってくる。
その理由は何でしょうか――?
自分の中にすごく欲があるからです。神様は「持ってはいけないものなんだ。それを何故捨てないのか。」と。
悪魔がもたらしたものなのに、それが自分にとって悪いものかもしれない。
それは自分にとって手放したくないものかもしれません。
すごく甘く見えて、すごく素晴らしく見えます。

神様は、サタンが出したものは見える部分だけではダメなんだと語ります。
その後ろには何を隠してあるのか。後ろに隠しているものが必ずあります。
それは私たちを殺す剣であったり、美味しそうに見えても口に入れた瞬間、毒が出てきて――。
それで良いのでしょうか?

神様の言葉は今の私たちにとって命の木の実であります。これをたくさん食べる人は命が豊かであります。

これは神様が私たちに教えたいことであります。
人間はとても愚かな者です。愚かな者であるからサタンが来て騙されてしまいます。

ですから私たちが誘惑されるものをよく見てください。
「あれを食べたら私はどうなるんだろう?」「食べて腹の中でも甘いだろうか?」
「あれを私が食べてしまうと、それが私にすごく益になるだろうか?」
見た目だけで判断するのではなく、中身、結果まで考えることです。
そして自分が取って食べるなら、それは食べた人の責任であります。

神様は「これは食べてはいけないよ」と聖書の中で親切に教えてくださっています。

私たちは彼ら(アダムとエバ)の姿を見て、同じことを真似してやっているのか?と彼らを鏡にして
絶対に誘惑されないぞという思いがあれば、神様は「エデンの園にそのまま住みなさい。」と
天国まで導いてくださいます。

2012.9.2
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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思いの中にある時は私たちは止めることが出来ますが、
心にその思いが入ってきて願うと自然と身体が動いていきます。

神様から離れた理由

テーマは『私が神様から離れた理由』です 

(坂田姉妹が実際の体験で得た証付きメッセージ)

【Ⅰペテロ5章6-11節】

皆さんに質問です。神様が自分を見ている姿を想像してみてください。どういう表情、雰囲気で見ているのか。
その神様はどんな神様でしょうか? 大きな神様でしょうか、小さな神様でしょうか、
怒っている神様でしょうか、裁いている神様でしょうか、優しい神様でしょうか。

救われたばかりの頃は、ある姉妹と「神様のカバン持ちになりたい。」
「神様の愛をもっと知って人々に伝えたい。」 という思いで神学校へ行きました。
ですが、今はそういう気持ちが無くなっていました。

祈り会の時に、ふと1人の子供がキャッキャ♪ と はしゃぎながら喜びながら飛び跳ねて遊んでいるのが
思い浮かびました。そしてその後ろには大きなお父さんがいて、温かい目でニコニコ笑いながら見ている。
このイメージは神様が私に求めている(神様に対してのイメージ)姿はこれなんだとわかりました。

でもいつも私が罪を犯した時には、神様に対して虐待されている子供が「ごめんなさい!ごめんなさい!」と
うずくまって謝るような、そういう罪の悔い改め方をしていました。
虐待児が親を見るような、そのような目で私は神様を見ていました。

8月のある4日間を、神様から自分自身を捧げなさいという言葉がきました。
7月に知人から、ある集会で神様に祈りを捧げ、交わりをすることを誘われOKしましたが、
そこから1カ月間自分との闘いでした。

本音は行きたくありませんでした。神様から逃げたく、神様から離れて好きなことをしたいと言う自分が
神様のために4日間捧げるということは、今の自分にとってキツイものでした。
集会へ行けないようにいくつかの条件を付けていましたが、全てのことが神様に聞かれ、行くことになりました。

4日間の初日は観光をしようという計画もありましたが、移動の疲れもあり、
この4日間はずっとその集会場で祈ったり、聖書を読んだり、交わりをする時間を過ごしました。
それはとても恵みの時間でした。そこでイエス様が私に教えてくださったことがありました。
証と共に恵みを分かち合いたいと思います。

~ 今回のテーマである「私が神様から離れた理由」より ~

①かたくなさ(反逆心、反抗心)

神様はどれほど私に良くしてくださり、どれほど祈りを聞いてくださって、恵みを与えてくださっていたか、それをわかっているのに、たった4日間神様に捧げることが嫌で嫌でたまらなかったです。
このことで自分の心の中に頑なさがあることがよく分かりました。

神様が祈りを聞いてくださっている時は、私にとって良い神様であるのですが、
神様が「私の命令に従いなさい」という時は、
それによって自分が何かを明け渡さなければならない命令だと「出来ない~!」と握りしめている頑なさ。
しかしそれを持っているとサタンは攻撃をしてくるので自分を滅ぼすものになりかねないので
砕いていかなければならないものだと痛感しました。


②サタンの攻撃

サタンの攻撃はどんどん激しくなっています。この教会はサタンのことをよく教えますので攻撃も強いです。
また、恵みや奇跡も多い。それが多ければ多いほどサタンは攻撃をしてきます。
聖霊のことやサタンのことを教えないのでは、サタンも眠っている教会です。

この終末で、サタンは私たちを神様から引き離そうと必死です。
自分の心の中に心配事や握りしめているものがあると、それが隙になりサタンの餌になります。
そこに食いついてきます。サタンに対して、そして自分自身に対しても戦いであり、
自分の中にサタンの餌をどれだけ少なくするかが戦いに勝利できることだと学ばされました。

長年自分が握りしめているものなので、自分の力ではなかなか捨てることができないので
神様に祈っていくことで、その餌が無くなっていき、だんだん強くなっていきます。


③律法主義(祈り)

本来、祈りは自分の本音を言えば良い場所なのですが、
私は「こんな祈りをしたら裁かれるのではないか」という思いが来て、
なるべく綺麗な祈りをしなければならないと思っていました。
今回の集会へ行きたくないと思って神様に本音をさらけ出していましたが、神様はそれで裁くことをせず、
それどころか祈り通りに恵みをたくさん与えてくださいました。

祈りはストレートであって良いのだと、自分の本音をさらけ出して良いものだと分かりました。
本音をさらけ出して祈るほど、神様は答えを早くくださいます。

家では1時間祈ることを決めていました。それも時計を見ながらで、1時間経ったら祈りをやめていました。

例えば、これが愛する異性だとしましょう。
デートをしました。バ――ッと自分が言いたい事だけを言って、1時間経ったら「バイバイ」。
これは愛とは言えないですよね?

本当に愛し合っている人とならば、いつまで話をしていても飽き足らないし、「こんなことがあったよ。
あんなことがあったよ。こんな苦しいことがあったよ。あんな悲しいことがあったよ。」というのが会話であって、
自分が言いたいことだけを言って、相手が言いたいことを聞かずに一方的に話をして「さようなら」では
神様は悲しみます。


③律法主義(行い)

断食に対してとても弱さがありました。神学校にいる頃や、
自分の祈りを聞いて欲しい時に断食をしたことがあるのですが、
断食をしなければ祈りを聞いてもらえないような気になってしまい、
神様が示していないのに断食をしなければいけないと思い、断食をしたことが度々ありました。

みさえ姉から「神様は、取引きの断食は受け取らない」と。
断食は、神様が与えたい時に示すので、断食しなさいと神様に言われた時にしたら良いということを
教えられて、自分の思いで断食するのは辞めようと思いました。これもある意味、不信仰になります。
「断食をしないと祈りを聞いてもらえない」。そんな神様ではないです。

律法主義というものは、自分の心の中にある欲をサタンは利用してきますし、
結局それは自己満足でしかないです。

私が律法主義のことで悩んでいる時に神様から与えられた聖書箇所が次にあります。

【ローマ8章15節】

神様は私たちに恐怖を与えることはありません。それは私たちは神様の子どもだからです。
「お父さん」と言って祈ることができる権利を与えてくださっています。


④神様に対しての間違ったイメージによる恐れ

神様は偉大な方で天地万物を創造されたお方なので、恐れるべきお方ではありますが神様は愛のお方です。

しかし私は「神様=恐ろしい方」というイメージの方が愛よりもはるかに大きくなっていました。

この4日間は祈り、聖書を読み、交わりをしていました。
そして近所にいる開拓伝道を始めて5年経つ韓国人の牧師先生が来られていました。
それぞれが自分達の祈りをしていましたが、最終日に牧師先生が「神様からの思いがきて、
あなたたちに手を置いて祈ってもらいたいです。」と言われ、異言で祈りました。
その時にその牧師先生の悲しみや苦しみが伝わってきて涙が出てきました。
牧師先生は開拓伝道をして5年ですが、初心者ばかり来るのでどのようにしていったら良いかがわからない
ということと、旦那さんは神様を信じていなく、会社員でしたが1年前から失業してしまいそういう意味でも苦しく、
そういう話をしながら分かち合いました。

そして最後に牧師先生が私たち1人1人のために祈ってくださいました。
その牧師先生の預言の言葉が「あなたの足の周りに子供たちが見えます。あなたにはその働きがありますね。
だからその子達のために祈っていきなさい」というものでした。

ここの教会でも同じ言葉をいただいているので、神様から来たものだと安心して
そして神様が導くから大丈夫だよという慰めと励ましの言葉が大きくて、
神様はこのために私たちがその牧師先生を祈らせてくださったんだと感じました。

【ローマ8章34節】

【ルカ22章31-32節】


イエス様ご自身が私たちのために祈ってくださっています。
私たちが間違った道に行かないように、とりなしをしてくださっています。
イエス様は私たちの目線に立って、分かるように教えてくださる方です。

この教会でも、他の教会でも他のクリスチャンを見た時に、
自分にはない賜物を持っている人を見ると、やっぱり自分と比べてしまって自己卑下をしてしまいます。
自分よりたくさん働きをしている人を見ると、自己卑下をしてしまったりしますが、
神様から与えられている使命や命令・賜物は1人1人違うんですね。

神様の命令に従った時に、神様はたくさん恵みを与えてくださるお方です。
従順することによって神様はそれ以上の大きな恵みを与えてくださいます。

罪を悔い改めたら神様は赦してくださいますが、
じゃあ愛の神様だから罪を犯しても赦して下さるだろう。という考えは間違えています。

また、裁かれたくないから罪を犯さない。
これも神様からの目から見たら悲しんでおられることだろうなぁと思います。
わたし(神様)はこんなにあなたを愛しているのに「裁かれたくない。
だから罪を犯しません。」ということだけでは、神様から見ると、神様から本物の愛を受け取って、
そしてその中で罪を犯さないで真理の道を歩んで欲しいという思いからは
自分の思いがズレているのではないでしょうか。 ( ´_ゝ`)

2012.8.26
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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証人になります

テーマは『わたしの証人となります』 です

【使徒の働き1章8-9節】

ほとんどの人は「聖霊があなたがた~力を受けます。」に関心があり日々そのことを祈りますが、
「わたしの証人となります。」には関心がいかないです。「私には無関係です。」と言います。
それは、証人とはどういうものなのかを知らないので言う言葉であります。

証人は自分の努力や力ではできないです。
証人とは、先生でもなく誰かを教えるのでもなく、自分が努力してなるわけでもないです。
証人とは、自分が体験したことをそのまま語ることです。
自分がイエス様に出会って体験したことを語ることであります。

私たちは本を通しても知識を得ることができます。
しかし本を通して得た知識を語る人と、自分が実際に経験して得たことを語る人とでは次元が違います。

証人はイエス様を直接体験した人であります。

【使徒の働き4章20節】

十二弟子に対して、祭司たちが「語るな」と止めましたが、それに対して十二弟子が語った言葉です。 

「弟子たちはイエス様の近くで直接奇跡を見たので、彼らは証人になっても
2000年以上も前のことを、私は直接イエス様に出会ったこともないし聞いたこともないから、
私は証人にはなれません。」 こういう話ではないです。

イエス様は聖霊を送ってくださいました。「聖霊様が下ると、自然とあなたがたは証人になります。」
なぜなら、聖霊様は今も生きて 私たちの内側で働いてイエス様を体験できるようにしてくださいます。
みことばを体験できるようになります。今も昔も変わりがないです。
私たちもイエス様を体験したでしょう? 目でイエス様の姿を見たから信じた人は誰もいないです。

みことばを聞いて、(ある時には)感動が出てきます。みことばを聞いて、悔い改めの心が出てきます。

自分が救われた時、急に涙が出た人達がいます。
それは悲しくて泣く涙ではなく、自分でも何で泣くのかわからないです。
それは聖霊様が触れてくださっているからです。
私たちはその方(聖霊様)のことを知らないのですが、
聖霊様によらなければ、私たちは神様を体験することはできないです。

(聖書の)文字を読んで「信じる」と言った人と、自分で(神様を)体験した人では違うのです。
その時から聖霊様の力が働きますので、みことばを読んだ時に昔話には聞こえないです。
今の言葉として自分の心に落ちてきます。
私はイエス様を信じてもそんな経験が無いんだという人は自分の救いを疑わなければならないです。
「本当に私は生まれ変わったのか?」と。

伝道するから証人ということではないです。知識だけで語るなら(相手は)何も感じることができないです。

私たちはキリストの証人であって、自分の証人ではないです。
誰かに話をする時は、自分の話ではなく、キリストの話をするのが証人であります。
イエス様が重要であり、自分達は重要ではないです。
私たちは死ぬ時まで、キリストの証人にならなければいけないです。
そして証人が証言を変えてはいけないです。正しく語り続けなければならないです。

時には命をかけなければならないです。
今は全世界でクリスチャンがものすごく迫害をされています。
昔は日本でクリスチャンが迫害されてキリストのことを語る者がいれば殺されていました。
それが今は世界中で起こっています。

特にアフリカと中東ではひどいです。イスラム教がどんどん勢力を広げています。
そして政権をイスラム教が握っています。
しかし、それは(今の)クリスチャンのせいでもあります。クリスチャン達が証人にならなかったからです。
信仰があまりにも弱いです。
イスラム教が増えたのは、彼らはとても大胆で、ある意味では証人であるからです。
命をかけて働きをします。そのようにサタンがどんどん奪い取っていきます。

日本でも他の宗教は勢力を増してきています。その人達は団結して働いています。
クリスチャンは「自分は忙しい」と、自分とは関係のないことだと思っています。

中国でも地下教会で行うのは命がけです。中国では「復活」や「王の王、主の主」とも語ってはいけないです。
そして捕まると裁かれます。証人(殉教者)の思いがないとできないです。

「キリストに出会って私はこういう風に変わりました」と、自分が変わったことを人々に堂々と語る言葉は
命をかけないとできないです。

自分が非難され、脅迫が来て、そんなことをしたら殺してやると言われても(はっきりNo!と、)
クリスチャンとしての方法を言える。こういう人達のように私たちもならなければならないです。

ネヘミヤは苦労しならが長い間働きをする者であります。彼からとても学ぶことが多いです。
命をかけているのでビクともしないです。
私たちの信仰が成長していくためには、聖書に出てくる立派に働きをした人たちが目標にならなければ
ならないです。

私たちは今、何に命をかけているでしょうか?
イエス様より大事に思っているものを、イエス様の隣に置いてみてください。
それほどの価値が(それには)あるでしょうか?
自分の計画がイエス様と交換できるほどのものでしょうか。
お金だとしたら、お金が天国へ連れて行ってくれるのでしょうか。

証人の人生は、聖霊様に導かれる人生であります。聖霊様に導かれないと証人にはなれないです。
(自分の計画ではなく)いつでも聖霊様に全ての主権を求めて、
そして聖霊様の導きがあるならばどこに行っても証人としての働きをします。
聖霊様に導かれる事は、一番素晴らしいことであります。(仕方なくやるのではないです)

聖霊様が(自分の)先を行って道を開いてくださる、これほど素晴らしいことはないです。
証人は神様がやりなさいと言う時に、「出来ません」と言うことはないです。
神様の力を受けて従って行動をします。

今、やっていることが神様が喜んでくださるのかを計算しなければならないです。

常に悔い改めが必要です。
真理の中に留まるために、(悔い改めることによって)ズレている部分を元に戻します。

キリストの証人になるには、キリストを直接体験し、聖霊様を体験し、言葉ではっきりと人々に詳しく伝えます。
偉そうな言葉ではなく、親切な言葉で相手に尊敬をもって丁寧に語る時に相手は心を開いてくれます。
また、あまりにも真面目だと相手は引いてしまうので、神様に知恵を求めます。
「生真面目に」とは聖書には書いていないですね。

<今週の目標>

【キリストの証人として働いてください。知り合いなど誰でも、メールでも良いので伝えてください。】

2012.8.19
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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