からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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高慢

謙遜の衣を着る

テーマは 『 謙遜の衣を着る 』 です

ハレルヤ。

主の御名をほめたたえます。


信仰告白をしてイエス様を信じて長い年月が過ぎたにも関わらず、人格も行動も変わっていない人の問題点は何でしょうか?


“自分は信仰がある”と言いますが、聖霊に逆らっている人が多いです。


最近、韓国で名の知れた牧師先生の目のあたりにアザが出来ていました。

その先生とは、私も大阪で一緒に食事をしたことがあります。

謙遜な先生で、貧民たちがいるところで教会を開拓し、彼らの世話をしていました。


そして、その教会がある程度大きくなった時に、他の先生を後任者にして自分はそこを去り、田舎の方で また開拓しました。


そして最近、教会の創立記念日が近付いたので、それに参加したい意思を伝えました。

そうしたら、そこの教会から何人かの信徒が訪ねてきました。


理由は“来てほしくない”と言うためでした。

彼らは牧師に対して誤解していました。


再び牧師として戻るのではないかと思って、それを止めたくて来た人たちでした。

その中のひとりの長老が帰り際に、いきなり牧師の顔を一発殴りました。

その長老は、18年前から一緒にいた信徒でした。


そして、その信徒たちは帰っていきました。

牧師は突然殴られたのでびっくりしました。


噂を聞いて、記者が訪ねてきて「その信徒を傷害罪で訴えますか?」と聞かれた時に、牧師は「そんなことはしない」と、はっきりと言いました。

信徒を訴えることは出来ません、赦します、と言いました。


相変わらず謙遜な先生でした。

その態度に安心しましたが、その先生を殴った長老に対して考えてみました。

牧師が何もしていないのに、暴力を振るったことが理解できませんでした。


しかし、聖書の中で答えを見つけました。

敬虔なステパノがユダヤ人たちに語ったことばで分かりました。


【使徒の働き7章51-54節】

かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。

あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。

すなわち、神の教えを聞き、世話をしてもらっても いつもその心が高慢で、心を頑なにしていると、うなじのこわいものになって 神のことばには不従順、聖霊には逆らいます。


心と耳に割礼を受けない者は、いつまで経っても人格も性格も態度も変わることがありません。


彼らに対して預言者はこのように言いました。


【エレミヤ書6章10節】

私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。

私たちは、心と耳に割礼を受けて、神のことばを聞いたら 真理を悟って従順する人になりましょう。


そして謙遜の衣をいつも身にまとうようにしましょう。
(・◇・)ゞ

2016.1.16
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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天国と地獄からのメッセージ

テーマは 『 天国と地獄からのメッセージ 』 です

【ルカの福音書16章19-31節】

ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、

金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。

私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』

アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

本文の内容は、生きている人たちの地上での話ではありません。


死んだ人たちの会話の内容をイエス様が私たちに語って下さいました。

死んで天国に行った人と、死んで地獄に行った人の会話の内容を通して 主は “天国と地獄に行った人たちが送るメッセージを聞いてほしい” と願っています。


物乞いであったラザロと、名前が書かれていない金持ちの人がいました。

地上での生活はどうでしたか?


金持ちは 金がありますから、いつもいい服を着ていました。

全身ブランドものを着て、毎日贅沢に遊び暮らしていました。

庶民の生活とは かけ離れた生活でした。


ドバイやモナコとかの国の風景を見ると、金持ちの生活がどんなに贅沢かわかりません。

その人たちが着ているもの、乗っている車、住宅などがすごかったです。


人生楽しんでいて、自分たちは特別に祝福された者だと思っています。

彼らの目には貧困層など見えません。

なぜなら日々付き合う人はみんな似たような金持ちや権力者ばかりだからです。


今日の本文の金持ちも、地上であふれる祝福を受けました。


金持ちは 地上でこんなに祝福されているから、死んでも祝福がある天国にいけると思ったに違いありません。


まさか自分が地獄に行くとは考えたこともなかったでしょう。

もし考えたならば、そんな生活はしなかったと思います。

ですから立派な棺とお墓、たくさんの人が集まる葬儀、そして荘厳な儀式、まるで天国へ凱旋でもするかのような姿だったでしょう。


しかし死んで連れて行かれた場所は 真っ暗な地獄で、永遠に消えることもない火が燃えており、地上では見たこともない恐ろしい悪魔がたくさんいるし、そこには数えきれない魂が様々な苦しみの中で叫んでいました。


見たこともない空間にいて、悪魔に囲まれ、そこから出ることすら不可能であることも知りました。






一方、ラザロはどうでしたか?


なぜ物乞いになったかわかりませんが、食べ物、着るもの、住むところもないホームレスの人でした。

金持ちの家ならば残飯でも もらえると思って、門前に座っていますが、残飯をもらったという記録もありません。


ラザロは、金持ちをみて羨ましかったと思います。

すべてをもっている金持ちは、毎日が贅沢三昧の生活、ラザロは食べるものすらない辛い生活をしていました。

ラザロの願いは金持ちの残飯でも腹いっぱい食べることでした。


彼はある日、力尽きて門前で死んだでしょう。

彼のために悲しむ者も 涙を流す者もいないと思います。


ラザロ本人は天国に行けるとは思わなかったかも知れません。

もちろん天国はだれもが行きたい場所です。


自分は神から見捨てられて食べ物もろくに食べられない超貧乏生活をしているので、地上で祝福されてない者が天国で祝福されるわけがないと思っていたでしょう。


しかし死んだ後に、思ってもいなかった所に連れて行かれました。


そこは地上とはまったく違う美しい天国でした。

何の不自由も不足もない素晴らしい所でした。


ラザロが天国に着いた時に 彼はそれが現実ではなく、夢のように思われたでしょう。

あまりにも自分が生きた世界とは違っていました。

苦しみも悲しみも痛みも すべて消えていました。


天国に入った時の喜びは半端ではなかったと思います。

汚かった自分の姿もきれいな姿に変わりました。


2人がそれぞれ死んだ後に、天国と地獄での対面がありました。

普通は(対面は)出来ませんが、神の特別な恵みならば このようなことも出来ると信じます。


天国では ラザロが信仰の先祖アブラハムと共にいました。

それを見た金持ちがアブラハムを呼びました。




・地獄からのメッセージ




【ルカの福音書16章24節】

彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

私たちはイエス様の言葉で 地獄が実際に存在することを知りました。


作り話だと思っている人は、これこそが現実であることを知る必要があります。

この 地獄からのメッセージを聞かなければなりません。


地獄に落ちた金持ちは、自分がいる地獄の状況を話しました。

まずは、自分をあわれんで下さいと叫びました。


地上では自分をあわれな者と思ったことは一度もなかったと思います。

反対にラザロのような人をあわれな人と思って生きていたでしょう。


しかし地獄に行く人が一番あわれな人間です。


そして地獄から出られないことも訴えました。

炎の中で焼かれていても、“死ぬことも出来ない” と地獄にいる者が 地獄の様子を語っています。


地獄の火は「永遠に消えることのない火」であるとマタイの福音書25章41節にあります。

そして黙示録19章20節には「火の池」であると書いてあります。


金持ちは苦しくてたまらないと叫びました。

地獄のような苦しみは生前では体験することが出来ません。


すべてが耐えられない苦しみですが、そこでは “永遠に受け続けなければならない苦しみ” です。


水一滴もない所です。

何の楽しみも、休みも、遊びもなく、そこにあるのは 苦しみと惨めさとあわれな姿、絶望しかない所です。

水一滴の願いも叶えられない場所です。


その人はアブラハムに2つの願いをしました。


1つは自分のためにラザロをよこして水で舌を冷やしてほしいと願った事です。

次には家族のための願いでした。


金持ちの家族は、彼が天国で何の心配もなく、地上の延長線のような贅沢な暮らしをしているだろうと思っているでしょう。


地上にいる人は彼の心配などしていないですが、地獄にいる彼は、生きている兄弟のことを心配していました。

生きている人が死んだ人をかわいそうに思って悲しむことはありますが、地獄に行ったと思って心配することはないですね。

日本だけではなく、他の国の人でも 死んだら天国に行けると思っている人が多いです。


しかし全く違うことを知った金持ちは、その現実を まだ生きている自分の兄弟に知ってほしくて、ラザロを彼らの所に遣わして、“自分がいる地獄には来てほしくないと伝えてほしい” と願いました。


良い所ならば みんな来てほしいと願いますが、あまりにも苦しい所ですから、特に家族は誰一人来てほしくないと願いました。


そして地獄に行った人は、自分が地獄にいる理由を地獄に行って やっと悟りました。

その理由は、悔い改めがなかったことでした。


悔い改めることは決して難しいことではないですが、世を愛する心が強いと悔い改めが出来ないです。

金持ちの生活を見ると世を愛し、快楽を求め、彼の思いは地上の事だけでした。


神のことばが耳に入って来なかったですし、心は高慢になって弱い立場の人に手を差し伸べることもしませんでした。


本当に必要な “神を愛し、隣人を愛すること” が完全に抜けていましたし、罪に対しても無感覚で、むしろ罪を楽しんでいましたので 彼の人生は地獄という恐ろしい所に送られてしまいました。


神様は (神様のことを)信じない者だけではなく、信じていて自分は間違いなく天国に行けると思っている人の中でも、実際は天国には行けない人もいることを教えています。


金持ちの地獄からのメッセージは 震えながら、苦しみながら語っている警告のことばです。


「ここに来たら駄目だよ!とんでもない苦しみの場所だよ!奇跡をみて信じるのではなく、神の言葉を聞いて悔い改めないといけないよ!」と必死の思いで叫んでいるメッセージです。




・天国からのメッセージ




物乞いラザロは、地上では良いことは何もありませんでした。


人が寄って来ることもない孤独な人生で、惨めで、ひもじい思い、悪いことしかない生活をしました。

人から見ても本当にあわれな人生でした。


だれがこの人が天国に行けると思ったでしょうか。

反対に天国には行けないと思ったでしょう。
彼の悲惨な生活は 神にのろわれていると思うからです。

しかし人々の予想とは違って、ラザロは天国に行き、信仰の先祖アブラハムのふところにいました。


何の苦しみもなく、平安で、食べ物や着るもの、住む所で心配する必要も完全に消えました。
そして愛されていました。


ラザロも自分は天国に行けないと思ったかも知れません。

何も良いこともしていないし、神に文句も言ったこともあったでしょう。

彼は物乞いの人生を感謝したことはないと思います。


彼のどの部分が良かったかはわかりませんが、彼はきっと自分の罪を悔い改めたに違いないです。


金持ちが悔い改めなかったので天国に入れなかったのですから、ラザロが天国に入ったことは確かに悔い改めがあったと思います。


天国は悲しみも苦しみもなく、地上の生活がどんなに惨めであったとしても、その延長線で苦しみを受け継ぐことはない場所です。


天国は 神と信仰の先輩たちと仲良く暮らす場所です。

信仰の先祖アブラハムがそこにいました。


天国には燃える火も悪魔も存在しません。

天国は慰められる所で、涙もなく平安がある所です。


もし自分が神を信じ、悔い改め、神の御心にそった生活をしているならば、地上でたくさんの苦労があっても天国に望みを置いて下さい。


神は必ず天国に迎え入れて下さいます。


地上での豊かな生活が祝福ではないです。

多くの金持ちの姿をみると、神を求めず、快楽に更けて肉を喜ばせる生活をしています。


ラザロは天国で何も話してはいないですが、代わりにアブラハムが天国からメッセージを送りました。


まずは希望のメッセージです。

警告ではなく希望のメッセージです。


地上で悪いものを受けていたラザロが、今はいいものを受けていると伝えました。

そして天国で慰めを受けていると伝えました。


苦しみも、悲しみも、飢えも、貧困もない天国であると伝えました。


“天国に入りたいならば、神のことばの教えを聞いて信じて、悔い改めなさい” と天国に入る方法も教えました。


信仰と悔い改めは死ぬまで継続しなければなりません。


やめてしまうと天国には入れません。

私たちは両方のメッセージを聞かなければなりません。


地獄に行かないために地獄のメッセージ、天国に入るために天国のメッセージを聞かなければなりません。


「地獄に行ってもいい」 とは決して言わないで下さい。

ありえないほどの苦しみが永遠に続く場所ですから、目指すなら天国です。
ヽ(TдT)ノ

2016.7.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖霊の働きとは

テーマは 『 聖霊の働きとは 』 です

【ヨハネの福音書16章7-14節】

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたを真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

神であるイエス様が人間になったのは、人間になりたかったのではなく、人間の罪を贖うためには 人間の姿になって十字架にかかって罪を清算しなければならなかったからです。


そして十字架にかかり、人間としては死にました。

墓に葬られ、三日後に栄光の体に復活しました。


イエス様は復活した栄光の体で 私たちの所に留まらず、助け主 すなわち聖霊を遣わすと約束されました。


聖霊は すべてイエス様のものを受けて、イエス様への栄光を現わすと(イエス様が)前もって教えて下さいました。

そして聖霊を受けなさいと命じました。


私たちは、聖霊なしにイエス様を信じることが出来ないです。

それは なぜか、そして 聖霊がどのような働きをするのかを今回は学びたいと思います。




聖霊は私たちの罪を悟らせる





【ヨハネの福音書16章8節】

その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。

聖霊が私たちに罪について悟らせるのは、世の基準での罪の判断ではありません。


世が示す罪は どのようなものかを教えなくても、人々は悪いことをすると罪の自覚が出てきます。


しかし 聖霊が悟らせる罪は、人間の自己中心的な生活から出てくる罪や 神を神と思わず、偶像崇拝の不信仰の罪、言い換えれば、神への不従順、そして救い主イエスを信じない不信仰のことなので、それを見て責めます。


聖霊の働きは、世にいる人々に(イエスを信じない)不信仰の罪を悟らせ、人々を死と罪の刑罰から救って下さるイエス様に導きます。


誰も聖霊の導きなしに自分の罪を悟ってイエス様のところに来る人はいませんし、イエス様を主とも言えないです。



【第1コリント12章3節】

聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

私自身も聖霊から「あなたは罪人ではないのか」と罪を指摘されて、初めて自分の罪に気付きました。


罪を犯していないからではなく、罪があるのに、それが罪であるという認識がなかったので、何も考えずに 日々過ごしていました。


指摘されて初めて、それが罪であることに気付きました。

神の前に罪を犯してない人間は1人もいないと聖書は はっきりと指摘しています。


しかし、それを知らない人に罪の話をしても「私は罪なんか犯していない」と否定します。

ですが、神様は罪が赦される道をイエス様によって完成しましたので、すべての罪は悔い改めるならば 神から赦しを受けることが出来ます。


だけど、不信の罪を悟らせる聖霊の働きを拒否し(罪を)認めないならば、その罪は赦されません。


【マタイの福音書12章32節】

また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

クリスチャンとは 聖霊の導きによって自分の罪を悟り、罪を悔い改め、イエスを主と告白する人たちです。


聖霊が自分の罪を指摘する時は、敏感に反応して悔い改めて罪から離れ、聖い生活を目指しましょう。




聖霊よって私たちは生まれ変わる




生まれ変わる とは、罪によって死ぬしかない罪人が イエス様を信じることで永遠のいのちを受けることを指します。

“ただ心を入れ替える” ことではないです。


聖書では、生まれ変わることを次のように言われます。


【ヨハネの福音書3章6節】

御霊によって生まれ変わる

神様は 私たちが肉体を持って生まれるようにした後に、聖霊によって新しく生まれ変わるようにします。


聖徒は、自分が罪人であることを聖霊の指摘で悟り、罪を悔い改めて、罪を赦す権威のあるイエス様の血潮を信じることで救われます。

生まれ変わることは霊的救いを受けることを意味し、さらに人格と心に変化が起こることを意味します。


聖徒が生まれ変わると聖霊はその人の心の中に住み、そこに神の愛を注ぎます。

それで聖徒は、生まれ変わる前の悪い行いを捨てて、日々変わりながら聖霊の実を結ぶようになります。


自分は一生懸命に努力をしているのに、なかなか変わることが難しいという人が意外と多いですが、それは根本的に間違えています。

自分の努力で変わるのではなく、聖霊に頼る時に、聖霊の働きによって変わることが出来て、聖霊の実を結ぶことが出来ます。


聖霊なしに生まれ変わることは、100% 無理です。

自分で自分の罪を赦すことは出来ないですし、死からいのちに移すことも出来ないです。


自分に出来ることと、出来ないことがはっきりとしています。
出来ないことを頑張っても出来るわけがないです。


ですから聖徒は、自分の中に聖霊を迎え入れ、自分の中で働いておられる聖霊にいつも頼り、感謝と賛美をささげないといけないです。


霊的なことは すべて聖霊なしですることは出来ません。

生まれ変わった状態を次のように説明しました。


【第2コリント5章17節】

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。



聖霊は私たちを助けて下さる




聖霊の住まいは、聖霊を受け入れた人の心の中です。

なぜ そこを住まいにするのでしょうか?


それは、聖徒たちと共に歩みながら いつでも聖徒を導き助けるためです。

聖霊は聖徒の保護者の働きをしておられます。



【ヨハネの福音書14章17-18節】

その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

もし私たちが聖霊の助けなしでも立派なクリスチャンになれると思うならばそれは大きな錯覚です。

それは高慢な思いです。


「神のことばがあるし、それを行えば立派なクリスチャンになれるから、別に聖霊は要らない」 という人たちもいますが、自分たちに神のみことばを行う力がありますか?


パリサイ人たちのように、うわべは神のことばを実行しているように見えても 心の中は変わりませんでした。

それはイエス様が語った次のことばの通りです。


【マタイの福音書23章28節】

そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

頭では分かっているのに自分の弱さの為、再び罪に巻き込まれることは いくらでもあります。


その時に誰の助けを求めますか?

自力では なかなかそこから抜け出られないです。


しかし聖霊に助けを求めるならば、聖霊は助けて下さいます。


聖霊の実を結びながら、正しい聖徒の生活を送るためには いつも聖霊の助けを求めなければなりません。


聖霊は聖徒たちの痛みや傷を癒し、導き助けて下さいます。

助けて下さる聖霊の働きが 次の箇所にあります。


【ローマ8章26-27節】

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

聖霊は私たちを孤児にさせず、助けるためにイエス様が遣わした方ですから、いつも頼り、また助けを求めましょう。


信仰を守るのもだんだん難しい時代になってきました。


ですから聖徒たちは さらに聖霊に頼りながら、この世と罪から自分を守り、聖霊の力を受けて大胆に神の子どもとしての歩みをしていきましょう。
(´∀`)


2015.11.22
聖日礼拝メッセージ

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あなたは正しい者ですか、それとも罪人ですか

テーマは 『 あなたは正しい者ですか、それとも罪人ですか 』 です

【ルカの福音書5章27-32節】

「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。

するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。

そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。

すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」

そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

皆さんは自分を正しい者と思っていますか。それとも罪人と思っていますか。

これはとても重要な質問です。

この質問に どのように答えたら良いか、困るでしょうか。

自分を正しい者と言う勇気もないし、罪人と答えるのも嫌な感じがするし、「どちらでもありません」というのが一番無難な気がしますか?


日本は先進国の中で一番クリスチャンが少ない国です。

少ない理由は色々あると思いますが、自分を正しいと思う人が多く、罪人という認識が少ないことがあるかも知れません。

そもそも罪がどういうものか知らないのが問題かも知れません。


そして日本には “本音と建て前” の文化があります。

文化と言えば悪いものだと思わない傾向がありますが、それは偽善者または二重人格者と何が違うでしょうか。

偽善者だと思います。

もし皆さんが他の人から「あなたは偽善者で二重人格者です。」と言われたら すごく腹が立ちますし、良い気持ちがしないですね。




偽善者の姿




偽善者の姿をちょっと見てみたいと思います。

ルーマニアで最も影響力があったリチャード・ウォンブラント牧師ですが、この牧師はチャウシェスク独裁政権の時に、キリスト教の牧師であるだけの理由で捕まり 14年間も共産党本部の地下牢に入れられ、まともな食事も与えられず、日々拷問を受けて奇跡的に生き延びましたが、解放されて世界中を回りながら、その体験を語りました。


牧師はニュージーランドのクライストチャーチ市に行きました。
都市の名前が「キリストの教会」という意味です。

ですから、牧師はそこに住む人は全員クリスチャンだと思いました。

ある時、レストランで男性と合席になり、そこで会話が始まりましたが、その男性がクリスチャンではないことが分かりました。


牧師は「どうして教会に行かないのですか?」と聞きました。

すると男性は次のように答えました。
「教会に行くと偽善者が多過ぎて、私は教会には行きません。」

それを聞いたリチャード牧師は「私は教会に偽善者が多いので、教会に行くと心がとても楽です。なぜなら私も偽善者ですから。」と答えました。

皆から尊敬される立派な牧師が自らを“偽善者”と認めました。

そのことばの意味を私たちは悟らなければなりません。


皆さんは偽善者ですか。それとも「私は偽善者ではありません」と否定しますか。

今日の本文には偽善者の姿が出て来ました。

それはパリサイ人と律法学者です。彼らのどこが偽善でしょうか。

彼らの生活を見ると偽善的な姿は見えません。むしろ敬虔な姿です。


神のことばを文字通り守りますし、いつも聖書を読むし、よく祈るし、施しも熱心で、献金もよくささげ、落ち度のない敬虔な生活をしていました。

しかし彼らの心をとらえているものがありました。

それは他人に対する優越感、自分を正しいと思う心、それによって他人を裁いていました。

本文でもその姿がありました。


イエス様が自分たちが罪人だと思う人たちと一緒に食事しているのを見て非難しました。


別の箇所でさらに彼らの姿を見たいと思います。


【ルカの福音書18章9-14節】

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんで下さい。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

パリサイ人の姿は“高慢”です。神様が一番嫌う罪は高慢です。


高慢の基にあるのは「私は他の人よりましだ、もっと正しい」と思う優越感です。

この意識に捕えられると、自分より劣る人に対して 自分が審判者になって軽蔑したり、非難したり、裁いたり、また怒ったりします。

イエス様は このパリサイ人に向かって「まむしのすえたち、偽善者」と呼びました。

そのことばを聞いた時に彼らは怒り狂ってイエス様に対して殺意を抱きました。そして後になって十字架につけました。


なぜそこまでしたのでしょうか。
彼らは完全主義者だったからです。

彼らの一番恐ろしいことは、(外見は)謙遜で覆われている高慢です。

それがパリサイ人たちの典型的な姿でした。

教会の中にはパリサイ人のような偽善者もいれば、他人の行動を見てつまずいて 教会を離れるもう一人の偽善者もいます。


リチャード牧師と話をした男性も偽善者です。

なぜその人たちが偽善者だと思いますか。

その人たちが他人を裁く時には「私はあの人のように高慢ではない。私は偽善的ではない。あれでもクリスチャンか、あれでも牧師か、私ならばあんなことはしない」と自分自身を高く評価するからです。

それで教会を離れて、信仰を捨て、他の宗教に改宗する人もいますが、それはその人の信仰が不透明であったことを改めて見せていることです。


信じた時から クリスチャンは世の光、世の塩ですが、(周りが)暗いからといって光を放ちたくないと嫌がる光を見たことがありますか。

(味がなくて)美味しくないから 入って塩味をつけたくないという塩があるでしょうか。

そのような確信がないので 人を見て揺れ動き、他人を非難して人のせいにした挙句、神から離れます。


信仰生活は、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない(ヘブル12章2節)生活です。
信仰はイエス・キリストを信じることから始まり、生活はそれを持続することです。


信仰生活は、まずは神様と私たち自身の問題で、次に他の人たちとの間で生きることです。


それなのに他の人たちと生きることが嫌で信仰を捨てるということは矛盾していると思いませんか。


問題は他人ではなく自分自身にあります。
いくら弁明しても自分と神の関係がはっきりしないので心が揺れて人間関係につまずきます。

私たちは人を見て信仰生活をするのではなく、イエス様を見て信仰生活をします。

他人のあやまちや罪を見た時には祈り、自分もそのような罪を犯さないように、罪の誘惑に負けないように気をつけることです。


自分のことは棚にあげて、他人が悪いという偽善者たちにイエス様がはっきりと語りました。


【ルカの福音書5章31-32節】

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」





私たちは体の調子が悪いと病院に行きますね。

病院へ行くと、もちろん病人だらけです。そして あらゆる病気の人がいます。

それが嫌で病院へ行くのを諦めますか?

諦めるならば治る病気も治らず 痛みで苦しむか、病気が悪化して死ぬかです。
多分そんなことで病院へ行くのを諦める人はいないと思います。

医者に病気を隠すどころか、症状を一生懸命説明して、治してほしいと訴えます。


しかし教会に他の罪人が来るのを見て、それが理由で行かないとは自分の魂が死んでいくのに その自覚がなく、自分の魂が死ぬのを放置しているのと同じです。

罪は魂の癌であって、これによっては100%死にます。

また、罪の癌は神様に出会うまでは自覚症状が全くないです。自覚がないので軽く考えています。


日本人が信じている信仰は罪に対しては全く触れないです。
でも触れないからといって罪が存在しないということはないですね。罪は存在します。

イエス・キリストはそれに触れ、その罪を悔い改めるならば、その罪を赦し、そして罪に定めないと恵みを備えています。


それは恵みであり、難しくないですが、サタンはそこから目をそらさせ、そしてアダムとエバを騙したように「あなたは罪人じゃないよ。罪によって死ぬことはない。先祖たちもみんな天国に行ったよ。」と甘いことばでささやきます。

神の真実とサタンの騙しことばを人々に伝えると色々な反応があります。

特に日本人は真理は信じないで、サタンの偽りのことばを信じる人が圧倒的に多いです。

または「自分は罪が多いし、もっとまともになってから信じます」という人がいます。
これも偽善者になりやすい姿です。


なぜなら正直に、道徳的に、倫理的に清く生きることは素晴らしいことですが、それが自己義に変わる時に、それはパリサイ人と同じ悪を行うことになります。

自分が道徳的に倫理的にまともな人間だと思う人に罪人の認識があるでしょうか。

自分を正しい者と思うので、さらに救いからは遠くなります。
その人たちは神様を求めることをせず、自分の努力だけで生きるようになります。

でもそれで罪が消えるわけではないですね。


罪の問題は、神様の赦しを得なければならない次元です。努力では得られないです。

ですから その人たちは自分は罪が多いと言いながらも、実はそこまで罪に対する自覚がないです。

一見、謙遜な姿に見えますが、自分の力でなんとかしようとする高慢が隠れています。


そして自分の罪を全く認めていない人がいます。

目が見えない人の姿です。
正しい者でもないのに、自分を正しい者と勘違いしながら死ぬまで生きる人です。


また、自分の罪を認めてはいますが、自分は罪深い人間だから赦されることはないと勝手に決めてしまう人もいます。

病院では軽い病気は受け入れ、重い病気は受け入れないでしょうか。
絶対にそんなことはないですね。

重い病気の人が優先になります。


神様の赦しにも 重い罪も軽い罪もないです。






そして本文に出てきた人物レビのような人がいます。

レビは取税人です。
彼の仕事はお金はたくさん入りますが、評判の悪い仕事でした。

その理由は、不正な方法でお金を手に入れる人たちが多かったからです。

レビもそのような人だったと思います。

一般の人たちは彼らを罪人と呼びました。


イエス様は彼に目を留め、いきなり呼びました。
「私について来なさい。」とひと言言っただけで、何もかも捨てて、立ち上がってイエス様に従いました。

そして自宅に招いて大ふるまいをしました。それも他の大勢の人を招いて食事会をしました。


それには2つの理由があったと思います。

罪人である自分を招いてくれたことに対する感謝と喜びの気持ちを現すために自宅に招きました。
そして今までお世話になった仲間や愛する人たちとの別れの挨拶でもありました。

古い生活を清算し、新しい生活への出発を祝うためでもあったでしょう。


お金をたくさん手に入れて良い家に住み、毎日ごちそうを食べ、良い服を着て、良い車に乗り、外国へ旅行するのが人生の目的で、それで満足するために生きていますか。

レビはそれを手に入れていましたが、罪の意識だけは消えなかったでしょう。

罪人の自覚は、自分の中には罪があり、弱さがあり、汚い思いがあり、いくら努力しても自分という人間が変わっていないことを認める時に出てきます。


さらに謙遜さも それを認めるところから始まります。

罪に対する自覚があると他人に対する優越感と、優越意識が消えていきます。

そして自分には罪の赦しが必要であると救いを求めます。


レビはイエス様に従って12弟子のひとりになりました。

そして新約聖書のマタイの福音書を書きました。マタイとはレビの別名です。

イエス様の招きを受けたことで彼の人生は罪人から弟子に変わりました。


どちらが良かったと思いますか?

取税人の時の罪を犯しながら贅沢な生活の方が良かったですか。
それともお金もなく苦難も多い弟子になったことが良かったでしょうか。

実際 レビが取税人に戻っていないことを見ると弟子になったことが良かったみたいです。


罪人がイエス様を信じて損することがありますか?

――全くないです。反対に得することだらけです。

人々から罪人だと軽蔑されていたレビは、立派な弟子になり多くの人々からも尊敬される人になりました。






もしイエス様が「私は正しい人を招くために来た」と言われるならば、私たちは皆 その資格がないのです。

しかし罪人を招くために来たというので誰にでも受ける資格があり、とてもありがたいです。


そしてイエス様の魂に対する思いがどんなに強いかを語った箇所があります。


【マタイの福音書18章11-14節】

〔人の子は、失われている者を救うために来たのです。〕

あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。

そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

私も以前は迷い出た一匹の羊でしたが、神様の忍耐と憐れみ、恵みによって救われました。

それがなかったならば、この世がすべてと思って自分がどこに向かっていくのかも知らず生きていたと思います。


でも今は安心しています。
自分がどこに向かっていくのかを知っていますし、真理も知っています。そして永遠の世界も知っています。

自分を主の前で罪人だと認めたことによって得られた祝福はたくさんあります。

罪を告白しただけで赦してもらいましたし、受け入れてもらいましたし、神の子どもになる特権まで与えて下さいました。


こんな素晴らしい祝福を拒否することは本当に大きな損失です。

失った後に胸を叩きながら永遠に後悔することはないようにしましょう。


自分が信じたい時に信じるのではなく「きょう、もし御声を聞くならば心をかたくなにしてはならない。今は恵みの時、今は救いの時です。」と語ったことばのように、今日が恵みを受ける時と思って恵みを受け取って下さい。
(・∀・)つ

2015.6.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス様の心を持つ信徒はどれくらいいるのか

テーマは 『 イエス様の心を持つ信徒はどれくらいいるのか 』 です

【ピリピ2章1-5節】

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

私の喜びが 満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

自分のことだけではなく、 他の人のことも顧みなさい。

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

全世界の人口は正確には分かりませんが、約70億人近くいます。
その中でキリスト教が一番多く、33%と言われています。22億人がクリスチャンということになります。(プロテスタントとカトリックの比率は50%です)


今、クリスチャン人口が一番増えている国は中国です。
人口13億人のうちの5%にあたる6700万人がクリスチャンであると言われています。
そして2030年になると、2億4700万人がクリスチャンになる計算です。

今はアメリカがクリスチャン人口が一番多いですが、2030年になると中国が世界一キリスト教徒が多い国になります。

日本は、東アジアの中で一番クリスチャン人口が少なく、1%くらいです。

韓国は人口の4分の1はクリスチャンであります。リバイバルをして6万ほどの教会が建っています。
しかし教会が大きくなっていくと様々な問題が生じ、クリスチャン人口が減ってきています。これはとても残念なことです。

原因はクリスチャンたちの生き方が人々に好感を持たせなかったからです。
初めは良かったのですが、大きくなるにつれて様々な問題が生じて人々が離れたり、またそれ以上増えませんでした。


神様は、ただ多くの人たちがクリスチャンになれば喜ぶでしょうか?
たとえ全世界の人がキリストを信じたとしても、神様はそれで満足をするでしょうか?


数え切れないほどの教会が建ったからと言って、イエス様はそれで満足しません。
神様は、このように数字や形には関心がないのです。

主が一番関心のあることは、私たちの心であります。

その心がキリストと一致しているのか、ということです。
それはキリストの心が自分たちの中にも無ければいけないということです。


“うわべ”だけのクリスチャンや、クリスチャンと言いながらも教会に通わず、祈りもまったくせず、みことばも読まないようなクリスチャンを神様は喜ぶでしょうか。

このような信仰で「私と神様は一致している」と言えるでしょうか?

教会に集まる人たちも色々な人たちがいます。
そこで問題や分裂、争いがあります。信徒同士や牧師など色々あります。


しかし、よく考えると その問題の原因になっているものは何かを詳しく調べていかなければなりません。

うわべに表れているものが、その問題の原因ではないです。

例えばピリピ教会の中でも信徒同士に分裂の問題がありました。
その信徒たちの自己中心的で高慢、妬み、争いなど、様々な思いで人間関係が壊れていました。


教会とは頭(かしら)がキリストであります。そして信徒は1つ1つの身体の器官だと聖書に書かれています。
目には見えない神様ですが、頭のない身体は存在しないのです。

そこで私たちが組み合わされているのが教会です。


ですから、そこにイエス様が存在しないならば、建物があって人が集まったとしても そこは教会ではないです。それを神様が教会とは認めないです。

しかし、ある意味で イエス様が存在しない教会が多いのです。形は教会でも、中身は教会ではないのです。

今回のテーマ箇所の3節に「自己中心」ということばが書かれていますが、自己中心が様々な問題の原因となっています。自己中心は、ある意味で高慢であります。「自分が1番」であるのです。


クリスチャンであり神様のことばを聞きながらも変わらない人々がいるのです。自己中心的な人がたくさんいます。
ですから問題が消えなく、分裂が起こります。


信仰歴が長い人でも自分を捨てないならば、自己中心的な思いが消えることはないです。


「私の意見が正しい。私の考えは曲げる必要はない」と自分が間違えていても変えようとしないのは高慢です。


【Ⅱ歴代誌7章14節】

わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、 わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

これは全ての人に向けて語ったのではなく、「わたしの名を呼び求めているわたしの民」に語りました。

民になったから全部同じだということではないです。
民と呼ばれているにも関わらず、神様のみこころと反する生き方をする者たちが相変わらずいることを神様は見ておられます。


神様が求めているものは、みずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、悪い道から立ち返り罪から離れる者に対して神様は、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそうという言葉があるのです。

神様は、神様と心が1つになっている者を求めているのです。


【Ⅱ歴代誌16章9節】

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。 あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。

世界人口の33%がクリスチャンだと語りましたが、その中から神様と心が1つになっている者を探さなければ見つけることが出来ない状態なのです。

それは神様と全く一つになっている者が少ないということを意味するのです。


私たちはすぐに神様から見つけ出される者でしょうか?

外見はクリスチャンらしくしていても、神様とは違う心を持っている人が多いのが現実です。それをそのままにしておいても良いでしょうか。

私たちがキリストと同じ心を持っているならば、行くすべてのところの問題が消えていくと思います。
しかし、外見はクリスチャンだとしても 悪魔の心を持っているならば、争いや分裂の原因を作るでしょう。

自己中心的な思いは、どこにいても問題を起こします。


皆さんは精神科病院へ行ったことはありますか?

私は行ったことがあり、精神病にかかった人と多く接しました。見た目は変わったところがなく、分別力もあります。きちんと話もしますが、その人たちの中で共通するものがあります。

皆、自分の話しかしないのです。自分のことにしか関心がありません。
また、被害者意識が強く、他人の話を聞かず、変えようともせず、自分の考えや思いを主張する傾向が強いです。


クリスチャンも「主よ、主よ」と言っている人が、神中心ではなく自己中心な思いがすごくあり、自分の考えを捨てないです。


自己中心は何1つ良い実を結ぶことがないです。


ですからイエス様が「わたしについて来たい者は自分を捨て」という言葉を使いました。
これは自分の良い部分を捨てなさいという意味ではなく、自己中心的な思い、高慢な思いを捨てない限り、(イエス様とは)一致しないということであります。

イエス様と自分の中で葛藤が多い人は、何が問題でしょうか?
神様や環境ではなく、自分自身が問題であります。相変わらず虚栄心などを持っているのでイエス様と合わないのです。

イエス様と一致しない人は、周りの人とも一致ができないです。
一致をするためには、それらを捨てなければならないです。


私たちがイエス様の心を持つための1番の方法は、イエス様をいつも見ることであります。

福音書を読むと、イエス様の姿が出てきます。イエス様から目を離さず、イエス様の姿をジーッと見ることです。
これはイエス様を観察をすることであります。


そして、私たちがイエス様の心を持ちたいと思うならば、へりくだり謙遜にならなければいけないです。

イエス様はもともと神でありました。神が人間の身体をとって地上に来られました。
もうこれだけでも謙遜であります。人間は神になろうとしますが、イエス様(神様)は人間になりました。さらに人に仕えたので、ものすごく謙遜です。

私たちの足を洗い、私たちの重荷を負ってくださるのは、神様の謙遜な姿であります。

私たちが高くなろうとするなら、イエス様と一致するのは不可能です。

しかし、高慢で高ぶっていた者が自分を低くして へりくだっていくならば、だんだんイエス様の心を自分の中で持つことができます。

私たちはイエス様を見ながら、頭を下げて自分の身を低くしていかなければならないです。






愛・憐み・寛容な心は、なぜ必要だと思いますか?

私たちは他人を愛することが出来ない者であります。
自分のことや所有物、家族は愛しても、それ以上の愛がないです。

他人を愛することも、自分の好みの人だけを愛します。自分のことを愛してくれる人を愛します。
少しでも気に入らないと私たちは、その人と縁を切ってしまいます。その人を嫌ったり呪ったりします。
私たちはそのような者であります。


教会の中で、私たちが他人に接する姿をイエス様は見ておられます。
例えば、教会でアルコール中毒者が来たとします。また、麻薬中毒者が入ってきたとしたら、その人たちを歓迎するでしょうか?しないでしょうか?

そのことによって私たちの中にキリストの心があるかどうかが試されていきます。
「あんな人は来なければ良いのに」という思いを持って、その人に見向きもしないならば、自分にキリストの心がないことであります。


イエス様は罪人や遊女、悪霊にとりつかれている者や病人のところへ行きました。
そのことを宗教指導者たちはものすごく軽蔑をして悪口を言いました。

もし私たちが宗教指導者たちと同じ心を持つならば、それはパリサイ人、まむしのすえどもと同じであります。

私たちは自らその場所へ訪ねていかなければならないです。そして歓迎をしなければならないです。
そのような人の中にはイエス様の愛や憐み・寛容な心があるのです。寛容は広い心で、差別することがなく、その人を受け入れる心です。


神様はクリスチャンに願っているのは、イエス様の中にある心を持って欲しいということです。
愛を持って接するならば、死んでいたたましいが生き返ります。


信仰生活を送りながらも、心が冷たい人がいるのです。その人の中に温かいものがないです。人と接する時にも笑顔がないです。

これは鏡で自分の姿を見て、みことばに照らし、「果たして自分はどうなのだろう?」と自分の中にイエス様の心を持っているのかを確認しなければならないです。


イエス様が再臨した時は、信仰歴が長い者でも、奉仕をたくさんする者でもなく、イエス様と心が1つになっている者が一番初めに天に引き上げられます。






バンジージャンプをしたことはありますか?
ロープに身を任せて、高い所から飛び降ります。それはとてもシンプルです。飛び降りれば良いことです。
これは子供にも分かることです。それは理論的に難しいことがないからです。

しかし、知識と実際にやることは全く別のものです。
ある者は「出来ます」と言って 身体にロープをつけたのに、直前になって出来ない人もいます。


これを見て、私たちが分かることは、いくら理論を知っていても実際に飛び込まないと分からないことであります。
飛び降りた人が初めてバンジージャンプがこういうものだということが分かるのです。

私たちはイエス様に対しても、そういうことであります。

「イエス様の心を持つことはこういうものです。」と、このように言うこと自体は知識です。
しかしイエス様と親しくなってイエス様の心を持つことは全く別のものです。


理論だけで生きているクリスチャンが多いということです。実際に(イエス様に)飛び込んだ人は少ないということであります。知識を持ったからといって、それが何になるでしょうか。

信仰生活は実際にやらないと分かりません。実際にイエス様に近づかなければ、イエス様がどのような方なのかは分かりません。


クリスチャンは「信仰、信仰」と言っても、キリストの中に飛び込まないと、いつまで経っても その人の心が燃えることはなく、心が変わることもないです。

しかし、私たちがキリストの中に飛び込むなら、キリストも私たちの中に飛び込んでくださるのです。そこで1つになるのです。

信仰は知識ではないです。もしも知識の信仰ならば、その知識が偶像になります。


皆さんはイエス様に出会ったことに対して、どのように思っていますか?
イエス様に出会えたことは人生で最高の恵みだと思っているでしょうか?

皆さん1人1人の信仰の姿は違います。しかし神様が求めるのは1つであります。「わたしの心を持ちなさい。」ということです。

信徒1人1人にその心があるなら、争いが起こらないのです。皆違うのでバラバラになり分裂、争い、戦いがあるのです。

ですから、「自分の心にイエス様の心が無いのが問題であり、いつも私が問題を起こしているのだ。」と思ったら良いです。


自己中心を捨てない限り、イエス様の心が私たちに入ることはないです。

イエス様が行ったことはすべて正しいので分別をする必要がないです。
つまり、イエス様の口から出ることば、すべての行動は正しく、真理そのものですので、私たちがそのまま受け入れて良いということです。


様々な問題は自分自身の中にあるのです。ですから自分自身が変わらなければいけないです。


イエス様の心をもっと持たなければ、イエス様が私たちを見た時に「あなたはどこから来たのか。わたしはあなたを知らない。」という結果になると思います。
ですからそういうことにならないように、イエス様の心を皆さんが持ってください。それが聖徒であります。
(^∀^)

2014.8.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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効果的な祈りの模範

テーマは 『 効果的な祈りの模範 』 です

【イザヤ書37章1-7節】

ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入った。

彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちは荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。

彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。

おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。』」

ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、

イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしたちを冒瀆したあのことばを恐れるな。

今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。 わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」

クリスチャンは危機の瞬間にどこへ行きますか?家族の元に行きますか?友人の元ですか?
そして危険な環境の中でどのように対応をするでしょうか?これはすごく大切なことです。


今、イラクでは誰が迫害されているでしょうか?

イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が他宗教・キリスト教徒やクルド人の宗教少数派の人たちを敵視しています。

女性数百人は捕らえられ、奴隷にされ、改宗を拒否する者を殺しています。
大量虐殺が行なわれる恐れがあります。この者たちはナイジェリアで200人以上の女生徒を拉致した組織と同じ思考回路で行動していると言われています。アメリカは空爆を始めましたが、彼ら(イスラム国)は残虐な者です。

クリスチャンや少数派の人々は10万人が山へ逃げています。食べ物や水、着替える服も何1つありません。
改宗するか、町から出て行くか、それとも税金(日本円で約4万8000円)を払うかという厳しい条件をつけて、住み慣れた場所から追い出しています。


今、子供も大人も砂漠へ逃げ込んだり、海へ逃げたり、山へ逃げたりと 聖書の預言通りの終わりの姿であるのです。これは宗教戦争なのです。

彼らはイスラム教の中でも違う神なのです。
彼らは「あなたもイスラム教ですか?それなら仲良くしましょう。」ではないのです。

自分たちと少しでも宗教観が違う者は自分たちの敵であり、「ジハード(聖戦)」の対象であるから平気で殺します。

人権などは無いです。
神が喜ぶのは自分たちの敵を殺すことだと思っています。


キリスト教の教えとは全く異なります。
キリスト教の教えは「あなたの敵を愛しなさい。」「敵が飢えているなら与えなさい。」「赦しなさい。」という言葉を使っています。

イラク政府は自分たちの力ではどうにもならないので、アメリカに助けを求めました。


私は今回のテーマ箇所であるイザヤ書37章を読みながら、ヒゼキヤ王がアッシリヤの侵略を受ける直前に彼がどのような心境であったのかを考えました。

時代は違いますが、似たような場面であります。

アッシリヤは多くの軍隊があり、力や武器もあります。彼らはあらゆる戦いで勝利をしています。
その国がイスラエルを侵略しに来るのです。そして宣戦布告しています。


【イザヤ書36章20節】

「これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか」

これは彼らだけを侮辱することばではないです。
お前たちが頼っている神の力が自分たちの力よりも弱いと侮辱する敵の高慢なことばです。


聞くだけでも恐れてしまうようなことばです。

今、イラクで起きているのが これと同じです。

この状況の中でヒゼキヤは軍隊もまともに持っておらず、力も無く、その中で彼が王としてどのような態度を取ったのか 私たちが学ぶべきものがあります。




1.自分が重大な問題を抱えていることを認識し 神に祈った




まず彼は今、自分が重大な問題を抱えていることを認識しました。そしてそのことを神に祈りました。

祈り以外には、これを乗り越える方法はないと認識したのです。


イザヤ書37章1節で、ヒゼキヤは侮辱・恐れあることばを聞いて、“自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮にはいった。”と書かれています。

またイザヤ書37章3節では、“きょうは苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。”と言っています。
これは、私の力ではどうすることも出来ないです という絶望的な状況です。

彼はすぐさま神に祈りました。


当時、エジプトはとても強い国でした。
今の時代ではアメリカに「私たちを助けてください」という思いになるのですが、私たちは(何かが起こると)強いものに頼りたくなるものです。これは私たちの心に自然と出てくる思いであります。

しかし、私たちの神様は「あなたが困った時は力ある人のところへ行き相談をしなさい。」と語ったでしょうか?
そうではないです。


神様は クリスチャンはこのような時に、どのような態度を取りなさいと言うのか、みことばで答えをもらわなければいけないです。


【イザヤ書30章2-3節】

彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。

しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。

エジプトは強い国でしたので、多くの者たちが周りの国から侵略を受けるとエジプトに助けを求めに行くのです。

これは無償で助けることはなく、助けられる ということは、そのものにひざまずくことであります。借りを作ると後で返さなければならないです。


神様に祈りもせず、自分たちの計画でエジプトに下ろうとするのです。
“こんな時に神様に祈ってもすぐに答えを得られないし、私は祈っても神様の声が聞こえないし。”という思いがあるのです。






神様は、誰かに頼ることはむなしくなることを警告しました。

それならば神が望むのはどのような姿でしょうか。


【イザヤ書30章15節】

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」 しかし、あなたがたは、これを望まなかった。

静かにしなさいということは、そこで神様の助けを求めなさい ということであります。


神様は私たちを助けてくださるお方です。

私たちに問題がある時に、確実に答えを得る方法は神様に祈ることです。
神様は祈る人に対して答えてくださるのです。

人はまともに祈りもせずに「この問題を何とかしてください!」と、これを祈りという人もいるのですが、これは祈りではないです。


そこに信頼する心がないからです。これは神様にお願いをする姿ではないです。


誰かに頼み事をする時は、礼儀をもってお願いをすると思います。
謙遜にして身を低くし、事情を話し丁寧な言葉で頭を下げると思います。

しかし神様にお願いする時には「なぜ神様はこんなことをするんですか?私が何か悪い事をしたのですか?!早くなんとかしてください。」

神様は私たちのしもべではないです。


神様に向かって口汚く心焦って語るならば、神様は聞きたくないです。「わたしを誰だと思うのか?」

私たちは神様に対して自分の態度が礼儀をもって語っているのかを考えるべきであります。


そこには信仰が必要です。
“神様は私のことをすべて知っている。今 私がどんな状況にいるのかも神様は知っている。ここで神様を信じて頼るならば、神様はきっと私を助けてくださる。”と落ち着き・信仰の心が必要なのです。


【詩篇68篇19-20節】

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。

神は私たちにとって救いの神。死を免れるのは、私の主、神による。

これを自分の心の中で信じることであります。

神様が私たちのために重荷をになってくださるということです。
私たちは、になう力がないと下敷きになって倒 れてしまいます。

ですから神様はそうなさらないです。


私たちが重荷を背負ってしんどい時に「神様、私を助けてください。」と祈るならば神様は私たちの荷を軽くしてくださるのです。


しかし荷を完全に取って あなたは一生重荷を負う必要なない、ということではないです。


【マタイの福音書11章28節】

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

このように約束のことばがあります。

神様は私たちが倒されて死ぬことを願うのではなく「わたしがあなたの救いの神であるのだ。あなたの重荷を軽くする神である。」と神様に頼り求めるように語っておられます。


主こそが私たちの救い主であり、私たちが信頼しても安心できる方であり、私たちの喜びや悲しみにも共感し、私たちの荷を軽くしてくださる方です。

自分の手に負えない問題に出会った時にはこの神に頼るのが一番の方法です。


【詩篇68篇35節】

神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。

私たちが神様に信頼し、静まっているならば私たちは 神様から“力と勢い”が来るのです。
戦う力と試練を乗り越える力を神様が与えてくださいます。

問題を神様に委ねて「神様、私は○○○で困っています。私の力には負えません。私を助けてください。」と、祈ると神様は力を与えてくださるのです。




2.問題解決と共に神に栄光を捧げる




次にヒゼキヤは問題解決と共に神に栄光を捧げる解決策を求めました。

ヒゼキヤは自分の国の問題のためだけではなく、敵が自分たちにかけた言葉で神を侮辱する言葉がありました。


彼は神様に“あの者たちは神様を侮辱しました。神様がこの問題を解決してください。そして私たちが神様に栄光を捧げるようにしてください。”と祈りました。ヒゼキヤが祈った目的は次の箇所です。


【イザヤ書37章20節】

私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、他のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。

侮辱した者たちが恥を見ますようにと祈りました。

神様が私たちを彼らの手から救い出して、彼らに神が生きておられる救い主であることを見せてください。と 祈っていました。神様はすべての祈りを聞きました。

祈りを聞いて預言者イザヤを通して、次のようなことばを与えてくださいました。


【イザヤ書37章6-7節】

イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちが わたしたちを冒瀆したあのことばを恐れるな。

今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。 わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」

結果はどうなったでしょうか?本当にその通りになりました。

その後の部分を読めば分かりますが、人間の手によらない神様の方法で侵略した者は死んでしまいました。


今、イラクで行われていることも 神様は彼らが神に向かって侮辱していることばを全て知っています。
神の子どもたちを彼らが激しく迫害している姿も 虐殺している姿も全部見ています。

すると、あるクリスチャンは「どうして神様はそれが起こる前に防がないのですか?」と言います。
神様の聖書の大きな計画は、最初から人間を祝福した神様でした。


しかし人間自らの欲・堕落した行動によって世界中であらゆる問題が出ています。

クリスチャンだとしても、皆が主のみこころに従って生きているでしょうか?
「私は神様のみこころとみことばを知っているのですが、それに従順していない時の方が多いです。」このように言うのは正直な告白であります。


そうすると、神の目から見るならば私たちも変えなければならないのです。クリスチャンであってもただ甘やかすことではないです。私たちは聖める必要があります。


まず初めにクリスチャンの方から苦しみが来るのです。私たちが道からそれたり汚れた者になると、神様はそういう悪者たちを使うのです。

その時に初めてクリスチャンは自分が横道にそれたことによって襲った苦難が、自分の罪によって刈り取っているのだと気付いて、立ち返るのです。


神様に立ち返って祈ることであります。名ばかりのクリスチャンで神様は喜ぶでしょうか?
喜ばないです。愛のムチをもって「来なさい。そのまま行ったら滅びなのだ。」と語ります。

そしてクリスチャンを目覚めさせる為に用いた悪者には、その後に神様がひどい目に遭わせるのです。


神様に敵対する者に対して、何もしない神様ではありません。


歴史を見ても独裁者たちの最期を見ると分かります。
彼らは権力と富を手に入れ、人々を簡単に殺しました。その人たちの最期が平安だった人はいないです。殺されていきました。

今、この時代に生きている私たちに対して、神様はどのように語っているでしょうか?次の箇所です。


【Ⅰペテロ5章6-10節】

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

終わりの時代はますます敵である悪魔が働きます。

ですから今は、昔では考えられない悪が地上で行われています。中東、アフリカ、ウクライナ、南米など私たちは見ています。
多くのクリスチャンが苦しみを受けています。神様にはその目的があります。

“あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。”これは純潔のものです。


不純物が取り除かれて神の国に入るのに相応しい者にさせるために、そのような苦しみを受けるのを神様が赦しているのです。


私たち人間は力が無いですが、神様には力があります。何もない所でも神様に助ける力があります。どのような方法でも使うことが出来る神であります。


ヒゼキヤは祈って助かりました。
そしてその後にヒゼキヤは病気にかかり、預言者イザヤを通して「あなたは死ぬ準備をしなさい。今すぐ家を整理しなさい」ということばでショックを受けました。

ヒゼキヤは大声で泣きながら「神様、助けてください」と祈りました。
すると神様はすぐさま答え「あなたに15年の命を加える」と語りました。神様は助けてくださいました。


神様の答えは、一番良い答えであります。
普段、私たちはどのような言葉を使っているでしょうか?神様は全てを聞いています。

ですから私たちは悪い言葉を使わないことであります。後で自分で刈り取った時にビックリするようなものが、以前に蒔いた言葉の種が成長してそのようになったことであります。


私たちは後でこのような実がなるのだと思いながら、良い種を蒔くことです。
良い種を蒔いたら、後で必ず良い実を刈り取るようになるのです。

また、普段からしっかりとした祈りをしてください。そうすると神様は必ずそれに対して答えてくださる方であります。

祈ることを神様は願っています。どのような時でも「祈り、祈り、祈り」です。これが一番効果的な態度です。


自分の計画、自分の方法でやっていたら、後で困ることがたくさんあります。

ですから始めから 知恵があり、力があり、すべての良い計画をもっている神様の手に委ねて、
「私は力がない者です。私は弱い者です。私は知恵もない者です。神様、どうしたら良いのか教えてください。」と導きを受けるならば、後のことは私たちが心配しなくて良いです。


ただ困る時だけ祈る神頼みは、それは宗教であります。

生きておられる神様に委ねて祈ると、神様から導きがあり、神様の計画が現れ、解決の方法が現れますので、私たちは神様の御手の中で守られるようになります。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚ アーメン

2014.8.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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御霊に導かれて

テーマは 『 御霊に導かれて 』 です

【ガラテヤ5章16節、18節、25節】

・御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことは、ありません。

・御霊によって導かれるなら、 あなたがたは律法の下にはいません。

・もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

聖霊様は、どのようなお方でしょうか。

どんな時も助け、慰めを与え、力を与え、励ましてくださり、信頼することのできるお方で、私たちの為にいつもとりなし、愛を注いでくださり、罪を教え悔い改めに導いてくださり、世が与えるものとは違う平安・喜び・希望を与えてくださるお方であります。

御霊は、私たちの内に住んでくださり、教え導いてくださいます。


【ピリピ2章13節】

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

【Ⅰヨハネ2章27節】

あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。 彼の油がすべてのもとについてあなたがたを教えるように、―― その教えは真理であって偽りではありません ――また、その油が あなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

油がすべてのことについて教えてくださいます。
愛するがゆえに、進むべき道を示すために聖霊様を送ってくださり、誰よりも私たちのことを理解してくださっています。


御霊は賜物を与えてくださる

【Ⅰコリント12章8節】

ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、

知恵の言葉、知識の言葉、信仰、奇跡の力、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力です。

聖霊様の働きを決して留めることのないように気を付けましょう。



神の御霊に導かれるとは、どのようなことでしょうか ――?

御霊によって歩きなさい、御霊によって満たされなさい、御霊によって祈りなさい、御霊を消してはいけない。
御霊に拠り頼みなさい ・・・「主よ、導いてください。歩むべき道を示してください。」と祈ったなら、主を信頼し、委ねて待つということです。


困った時、助けが必要な時だけではなく、日常のあらゆる面に、聖霊様をお迎えして信頼し、拠り頼み委ねることを願っておられます。



御霊に導かれて 主のみこころを求め、歩みたいと願う時に邪魔するものがあります。

1つ目は、私たちの内に まだ残っている「肉」です。これは栄光の身体に変えられるまで戦いがあります。
2つ目は、サタンの誘惑・妨害です。


肉から出たもの

【ガラテヤ3章2-3節】

ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

主のために熱心に働きをするのですが、聖霊様に導かれながら進めていくうちに、いつの間にか自分の思いが入ってきて、神の栄光の代わりに自分の栄光へと すり替わってしまっている姿、誘惑され騙され、欺かれた姿です。
聖霊様が気付かせてくださいます。


私たちは、何かをすることによって祝福されるという思い、認められようとする古い自分がいます。
これは思い違いであり、自己義です。またサタンの誘惑です。

律法ではなく、恵みの中に留まるべきです。
私たちが神様のために何かをするのは、恵みに感謝し、主を愛する心から出たものを 主は受け入れられます。

自分の願いや考えを押し通そうとする人は、「周りが悪い」と環境のせいにします。
これは自分の姿が見えていないのです。聖霊様に教えていただき、みことばの鏡に照らし合わせると良いです。


【マタイの福音書12章31-32節】

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒瀆は赦されません。

また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、 赦されません。

霊に注意をしましょう。




サタンに騙されている姿

【Ⅱコリント2章11節】

これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

聖書を読んだり、祈っている時に、用事を思い出したりすることはないでしょうか ――?
これもサタンの巧妙な手だと思います。


【ヨハネの福音書10章10節】

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

みことばを盗み、祝福(平安・喜び)を奪い、信仰を失わせます。
真理から目をそらさせ、確信を揺るがせ、信仰を奪うのです。


【ヨハネの福音書8章44節】

あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから 人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。 なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

サタンは嘘つきです。アダムとエバを霊的に殺しました。
私たちも自分の罪過と罪との中に死んでいた者でしたが、キリストの贖いのゆえに私たちの霊が回復されたのです。


サタンは様々な方法で攻撃をしてきて、神様からの祝福を奪おうとします。聖霊様の導きから外そうとします。

誘惑する者、騙す者、惑わす者、嘘・偽り者、欺く者、不安や恐れ、不信仰、これらは私たちのたましい(心)の部分に攻撃をしてきます。

サタンは、私たちの「弱さ」を責めてきます。不信仰な思いを入れてきます。


①自己評価が低い人
劣等感、自己憐憫。「あなたが変わるわけがない。」、「どうせ無駄」、「時間の無駄」

【Ⅱコリント12章9節】

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。 ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

②固定観念
自分はこういう者だから、と固まった思い込み、どうせ抜け出せない。変わることは難しい。
これは騙され 欺かれた姿です。

【Ⅱコリント5章17節】

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

③高慢な心
私の力が、私の手の力が、私が築いてきた。高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みを注いでくださいます。


④理論的思考
「私は知っている。分かっている。」

【Ⅰヨハネ1章8節】

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。


⑤孤独
誰も分かってくれない。理解してくれない。しかし、捨てて孤児にはしないです。みことばの約束があります。

【イザヤ書43章4節】

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

私たちの立場は、神の子ども、罪赦された者、永遠のいのちが約束された者、神の共同相続人です。


聖霊様は、私たちのために何をしてくださるお方であるかを しっかり霊で受け止めて、自分の方法・思いではなく、 聖霊様はどのような計画を持ってくださっているのか、私はどのように進むべきなのだろうかと、導きを求めて祈り、みこころの中を歩んで いきたいと思います。

そしてもっと親しく 信頼し、頼れるお方であることを信じることが大切ではないでしょうか。


【Ⅱコリント3章18節】

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を 変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

ますます 主を慕い求めて、キリストに似た者と変えられていきたいと思います。
ですから、私たちは内にいてくださる聖霊様の優しい語りかけ、思いを与えて導いてくださる方に、共に歩んでください。私の人生のすべてを支配し、導いてくださいと祈る者になりたいと思います。


そして、目を覚まして御霊によって祈り、御霊に満たされ、御霊に導かれて歩んでいく者になりましょう。 (^∀^)

2014.3.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンの生活とは?

テーマは 『 クリスチャンの生活 』 です

【ピリピ2章12-18節】

そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。

神は、みここころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、

いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだではなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。

根本的にクリスチャン生活とはどのようなものなのか、今回のみことばの中で知ることができます。

キリストに繋がれている者は、当然 頭であるキリストについていくために、似ていく者にならなければいけないです。
世の人から「あなたは本当にクリスチャンだ」と認められないならば、何によって私たちはキリストを現すことができるでしょうか。

模範であったイエス様を見て、謙遜を実践していく姿がクリスチャン生活の1つであります。




①自分の救いを達成していく生活


神様の言葉にクリスチャンが従う1つの目的は、自分の救いの達成であります。
この言葉で誤解をするかも知れません。

「そうしたら、私たちはまだ救われていないのでしょうか?これから自分の努力で救いを得なければならないでしょうか。」と思いそうですが、決してそういうことではないです。

救いの御業は人間ではなく、神によって始まっています。また、私たちが先に神様を愛したのではなく、神様が私たちを愛しました。そして、私たちが神様を選んだのではなく、神様が私たちを選んでくださったのです。

例えば、人を通して その人を導いたとしても、それは神様から出たものです。
人間は本来、神様を求めない者であります。すべては神様の方から招待が来ました。
私たちがそれを受け入れて救われた時から、聖書を通して多くの言葉が語られました。


救いの計画も、人生の計画も神様が全て持っていますが、私たちは恐れおののいて それに従わなければならないということです。

何に対して恐れおののくのでしょうか?―― 救いを与えてくださった神様に対する敬う心であります。

神様は 私たちをロボットや軍隊のように従わせるのではなく、優しくみことばを語りながら教えてくださるので、私たちが従順しながら歩むのは救いの達成に向かっているのです。


救いの達成に向かって進むということは、荒野でのイスラエルの民たちの姿を思い出したらよく分かります。
神様は奴隷生活した彼らを、一方的な神様の御業を通して救い出しました。彼らの努力は1つもありませんでした。
神様は救い出したいと思い、モーセを用いて全員をそこから出しました。これは救いであります。

神様が先頭に立って、イスラエルの民たちは喜びながらついていくと、荒野が見えて来ました。
それは私たちが救いを達成していくために、進まなければならない道なのです。

彼らにマナを食べさせたり 神様からの恵みをたくさん与えました。
そして神様はカナンの地につれていく計画を立てて その中で神様がずっと律法を語っていました。
「(カナンの地へ行くために)わたしの言葉に聞き従いなさい。」と 恐れおののきなさいと語りました。


しかし、恐れおののいた者はわずかでした。モーセ・カレブ・ヨシュアでありました。それ以外は誰もいませんでした。
彼らは神様の約束の言葉や命令を聞きましたが、人間として責任ある行動が出来なかったのです。
救われてエジプトから出ましたが、神様がずっと見ていて(彼らは)天国に入る者として相応しくなかったのです。

彼らは天国を自分のものにしたいという思いがありましたが、神様を恐れおののかず、ずっと不信仰でした。

神様は(彼らに)たくさんの良い恵みを与えて、奴隷から救い出しましたので(神様の)言葉に従ってくれると思っていました。
しかし、神様の言葉に従わなかったので、人格を持っておられる神様は刑罰を与えました。すると彼らは神様に助けを求めましたが、困った時だけ助けを求めました。そして、それが解決されると また不従順の連続でした。

結局2人しか辿りつけず、他の人たちは荒野で倒れました。これは救いの達成が出来なかったということです。


これは今のクリスチャンも同じであり、私たちは不信仰・不従順になると倒れてしまいます。
神様を恐れおののかないと、そこで倒れるしかないのです。

選ばれた人間は、神様に対する責任ある行動と応答をしていかなければならないです。
従順していくと、神様との距離が近くなり一緒に歩めるようになります。神様はその者を一番喜んでくださるのです。

イエス様が謙遜な姿ということは、自分を捨てたことであります。父の御心にいつも自分を合わせていきました。
それによってイエス様も勝利をしていったのです。

クリスチャンは神様を恐れおののいて従順して、自分の救いを達成していかなければならないです。




②つぶやかず・疑わない生活


救いを達成させるための中身は、つぶやかず、疑わない生活であります。
これは謙遜にならなければ無理です。

高慢な人はつぶやきが多いです。高慢な人は欲望が多過ぎるので満たされることがないです。
自己中心なので自分の思い通りにならないと神様に対してもつぶやきが多いです。

イスラエルの民たちの一番の大きな罪は「つぶやき」でした。不平不満が心に満たされていました。感謝をせず、恵みを覚えていないのです。

謙遜は自分を「無」にすることです。
「無」になると、与えられるどんな小さなものでも恵みなのです。「私は無価値な者なのです。」と本気で思う中で、神様が水を一杯でもくださるなら感謝の気持ちでいっぱいになります。

しかし、自分を高く評価する者は「こんなもの食えるか!私を誰だと思っているのか?」と感謝をしないのです。
イスラエルの民たちはマナに対しても「こんな惨めなものは食べたくない。」と文句を言いました。


私たちも、クリスチャンと言いながらも神様に対してつぶやき、周りの人に対してもつぶやくのは感謝をしないことであります。また、家族に対してもつぶやきます。

これは よく考えたら良いと思います。家族が自分にとって、どのような存在でしょうか?

家族がいなくなったら――?旦那さんが一生懸命働いて家族を養うことは、とても責任あることなのです。
これは立派な働きです。また、休みたくても休まず何十年間も働いています。自分の人生が拘束されて1年間にわずかな休みしかないのです。
会社では辛い事もありますが、我慢をして家族のために働いているのです。

主婦はその点では時間に自由がありますし、楽なのです。
旦那さんから給料を全部取り、わずかな小遣いしか与えないのならとても辛いことだと思います。
もしも、自分が逆の立場だったらどのようにするでしょうか?
常に私たちは逆の立場になって考えたら良いと思います。


神様は、すべてのことに つぶやかず、疑わずに行いなさいと私たちに語りました。
私たちは本気でそのようにすると自分を「無」にして謙遜な姿をもって生きるならば、これは難しいことではないです。

自分の存在価値が高いものだと 勝手に思うので全てが不満になるのです。

霊的に成長すればするほど純真な者になっていきます。私たちの中から肉の不純物がどんどん消えていきます。
肉のものを神様の言葉に服従させて(肉を)消していくならば純粋な者になります。
花嫁の姿の基本は「純真な者」です。日々、自分を綺麗に保っていかなければならないです。

私たちが汚い者になるならば、神様がまとめて火の中に投げ込むのです。

神様の子どもは「光の子ども」であります。悪魔の子どもは「闇の子ども」です。これは水と油のような関係です。
暗闇の中にいても、光るものが1つあれば とても目立ちます。

神様が願うのは、(私たちが)暗闇の中で世の光として目立つ者になってほしいのです。周りの人たちにそれを見せていかなければならないです。

聖書の言葉を握るということは 自分の欲のままではなくて、みことば通りに生きるということなのです。




③喜びの生活


【ピリピ2章17節】

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

パウロは殉教することを知っていましたが、この時は既に捕えられていました。
「わたしは主の働きをして最後に死ぬのだ」ということを知っていましたが、これはキリストの栄光が現れることなので彼はすごく喜んでいました。

死ぬことを喜んでいたのです。キリストと苦難を共にし、わたしが一粒の麦となって死ぬならば、多くの魂の実を結ぶ事ができると見て喜びました。

もしも 私たちが罪を犯して死ぬならば、喜ぶことは出来ないです。
それは何の報いもなく、人々に良い影響を与えるどころか悪い影響を与えるのです。

しかし、キリストのために献身的に働きをし、人のために自分の命を捧げる人は永遠に褒め称えられます。
神様がその人に栄光を注ぎます。その死は新しい命の道に入る1つの扉を開ける栄光の死なのです。
地上での扉は閉まりますが、新しい扉を開けると永遠の命の世界であります。

これは誰でも行ける世界ではないです。黙示録にあるように「勝利する者」という前提があります。
つまり、勝利をしていない者はその恵みを受けることが出来ないのです。


私たちも自分を犠牲にしないと、最期には神様が「あなたは生きる値打ちがない者である。」と犠牲をさせるのです。

私たちの命は自分のために生きるのではないです。キリストにあるものは、キリストのために生きる者であります。

私たちがキリストを取ってしまうならば、それはクリスチャンではないです。
キリストのために生きる者を「クリスチャン」と呼ぶのです。

私たちは生き方によって、神様から救い出された者であることを ずっと見せていかなければならないです。

クリスチャンとして生きることは、教会に行く事、奉仕をすることではないです。

心と生き方すべてのものを神様が喜ぶほうに変えない限り、神様と一致できないですし、救いの達成には至りません。

クリスチャンとしてきちんと生きていく人生を私たちは目指していきましょう。 (・∀・)つ

2014.1.5
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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自分の歩みを点検してみよう

テーマは『 自分の歩みを点検してみよう 』です

【Ⅰヨハネ2章3-6節】

もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。

神を知っていると言いながら、 その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。

しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、 確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。

神のうちにとどまっていると言う者は、 自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

今回は 2013年最後の礼拝ですので、私たちは1年間の歩みを振り返りながら神様の前にどうであったのかを考えてみたいと思います。

人間は反省しないと成長はしないです。
1年間どのように生きてきたのかを考えて、悔い改めたり 感謝をしないと
新年が来てもダラダラと何一つ変わらない中で出発することになると思います。

私たちに与えられる日々は、毎日新しいものであります。私たちに与えられる時間には古いものはないです。
新しいものとして受け入れる為には古いものに対する整理整頓がきちんと出来ていないと汚れた部屋が さらに汚れるようなものになります。

良いことがあった、悪いことがあった 等、このようなことを考えるのではなく、自分の人生そのものを信仰の目で見て、神様が見たときに私たちの人生はどうであったのかを考えます。




①信仰によって歩んだのか

私たちは信仰を持っている者ですので、とても大切なことであります。
口先だけで「信仰、信仰」と言うのは、誰でも言えることです。

しかし365日を信仰によって生きたのか という部分を神様は一番初めに見ます。
その人が仕事をたくさんしたのか、真面目に生きたのかというのではなく、信仰によって生きたのかを見るのです。

信仰によって生きるとはどのようなことでしょうか?
毎日、神様を想いながら御言葉を読んで祈り 真面目に礼拝に参加をすること。
これはもちろんある部分では信仰でありますが、信仰を一言で言うならば、神様の前に自分が従順したかどうかです。
「神様に対して」という部分が重要です。


私たちには自分の思いや計画、考えがあるのです。
私たちが選択をする時に神様のみこころと自分の計画、どちらを優先にしたでしょうか。

明らかに神様から来るものを知っていながら除けて、自分の思いのままに生きたならば、それは信仰とは関係なく生きていることになります。

しかし、自分の中に様々な思いがあった中でも神様のほうから導きや指示や計画があった時に「どうしよう。どちらを選んだら良いだろう。」と考えた結果、
自分の考えを捨てて神様の計画を選んで生きたならば、信仰によって生きた姿であります。

この世には クリスチャンとして、これは神様のビジョンですと言いながら 色々な働きをする人が多いと思います。
しかし自分たちのビジョンが多いです。「これをしたら主が喜ぶだろう。」と、自分たちは喜んでその働きをします。
とても良い働きなのですが、イエス様が「今、それをしなさい。」という部分との調和が出来ていないと、それは神様のみこころではないのです。

神様には「今」指示することと、後で良いよという部分があるのです。
しかし自分の働きに夢中になって、主が語ることをキャッチ出来ないのです。
調和をするには、一緒に歩まなければならないのに勝手に歩み出すのです。

キリストと調和をしながらその道を歩み、勝手に暴走をしていないのか、信仰の耳・信仰の目で見て 自分の手足を神様が喜ぶところで
使ったかどうか、御霊に導かれて歩んだかどうかを点検しなければいけないです。




②自分を否定して、自分を捨て 日々自分の十字架を負ってイエス様に従ってきたのか

「自分を捨てる」―― これは謙遜な姿であります。謙遜でないと自分を捨てることは無理なのです。
「謙遜」の逆は「高慢」であります。
高慢は絶対に自分を否定することは出来ないです。高慢は、常に高慢なことしか考えないのです。
そのような人は、他人が自分を否定するとすぐに腹を立てます。

高慢な人の姿を見て知ることができるのは、「自分が一番」「自分は賢い」なのです。また「自分は正直で正しく、周りの人たちが悪い」のです。
このような人の口から出る言葉は、とても辛辣(しんらつ)であります。常に辛辣な言葉で他人を裁きます。
自分にはそのような言葉は使わず、他人に対してそのような言葉を言います。そして軽率な判断をするのです。
自分の目で見て、すぐに言葉が飛び出してきます。高慢な人には怒りの感情がとても強いです。
そして他人から崇められたくて計算高いです。また 他人をすぐにバカにします。

謙遜な人は、なかなか怒らないです。相手の立場を考えて理解をするのです。
しかし高慢な人は、相手を理解しようとは これっぽっちも思わないです。


十字架を負うということは、自分を捨てて犠牲を払うことであります。イエス様はすべてのものを捨てました。
すべてのものを捨てたので、周りの人はバカにしました。「十字架から下りてみろ」と言われた時も、イエス様は黙っていました。
これをイエス様は私たちに要求をしているのです。「わたしについて来たいと思うならば、自分を捨て自分の十字架を負ってきなさい。」

口先だけで愛を語ったり「十字架を負います。」と言っても、私たちに行動が伴わないならば本当の意味で信仰ではないです。


ここで主は生きておられるという1つの証拠があります。

数か月前に起こったことです。
エジプトではイスラム教の人が多いですが、そこで1つの殺人事件が起こりました。
ある信者の男の妻が聖書を読んでいたので男は腹を立てました。
イスラム教の教えでは、イスラム教の人が他の宗教に改宗をした場合、殺しても良いということが書かれているそうです。男には2人の子どもがいました。上の娘は8才、下はまだ乳飲み子でした。

そして男は妻を殺しました。聖書を読んでいる姿を見ただけで殺害し、誰にも言わずに妻を穴に埋めました。 同時に2人の娘も生きたまま埋めてしまいました。

その後、男は全く関係のない親戚が自分の娘たちを殺害したと嘘を伝えたのです。
しかし、不思議なことが起こりました。その15日後、男の家族の身内が亡くなり、埋葬のために土を掘りました。
すると土の中に、娘たちが生きているのを発見しました。とてもびっくりして大騒ぎになりました。

埋められていた2人のうち 8歳の娘に、アメリカのテレビ局がインタビューに行きました。しかも生放送でした。
どうやってその中で生きていたのかを訊いたところ、「毎日、白いガウンを着ている人が現れました。その人の両手には傷痕がありました。そして自分に食べるものをくれたのです。」
そして乳飲み子には、「お母さんは殺されていましたが、その方が毎日来てお母さんを起こしました。
そこでお母さんが母乳を飲ませていました。」


それが15日間も続いていたのです。生放送だったので(イスラム教の)人々は放送を止めることが出来ませんでした。
イエス様が現れて自分たちの命を助けたという、科学や人間の考えでは有り得ないようなことだったので、イスラム圏ではまずい放送でした。

生き埋めにされていたら、あっという間に死んでしまいますが生きていました。
しかし聖書では死人も生き返りますし、他にもこのような出来事があるのです。

今、イスラム教では同じようなことがたびたび起こるらしいです。
なぜなら福音が伝えられなく、今は終わりの時であるのでイエス様や御使いたちが直接現れてその者たちに語るのです。
ですからそのような体験をした人はキリストを信じずにはいられなくなるのです。
その男は判決が出て今年7月に死刑になったと思います。イスラム教は家族であっても容赦なく平気に殺します。
これは心が麻痺されない限り出来ないことであります。


しかし、私たちの主は聖書にあるように、愛の神様であります。
先にイエス様ご自身が犠牲を払ってくださいましたので、私たちも見習って犠牲を払い自分の十字架を負うことが、損ではなく祝福の道であり、もっと神様からの素晴らしい恵みを受けます。

ヨナが失敗をしたのは賢すぎたからであります。自分で計算をして神様のやり方がおかしいと思いました。
自分は何一つ損をしたくないと思うのは高慢な姿であります。

私たちは賢い者になるのではなく、人々の目から見たら(自分は)主にあって損をする生き方をするようにならないと、神様には認められないです。




③主のしもべとして生きてきたのか

主が自分に任されたことを忠実にしたのか、それとも怠けていたのか。
「自分の賜物も才能も時間も、全部 土の中に埋めました。全部 自分で使いました。」こういう者を見て、イエス様は「悪い怠けたしもべである。」と語りました。
ある者には「わずかなことにも忠実なものであった。自分は神様の目にどのように映るのか――。

与えられたことをブツブツ言いながら仕方がなくしたならば、何の意味もありません。
だけど喜んで、もちろん辛い事もありますが「神様が私のような者を選んでくださって感謝します。」と、これがないなら役に立たない者なのです。
神様が小さな働きを任せるということは、私たちを役に立つ者だと思うからそれをさせるのです。
ですから私たちはその働きを喜んでしなければならないです。


天国の報いは、私たちがしもべとして働いたかどうかで決まります。
救いは恵みでありますが、私たちがそこで受ける祝福は 地上で蒔いたものに対して 神様がくださるものであります。

ですからたくさん働くことは良いことです。
神様に「私は2タラント残しました。5タラント残りました。」この働きを私たちがしたかどうかを振り返ってみてください。
私たちは忠実なしもべを目指していかなければならないです。

振り返ってみたときに信仰によって歩むと決心していたのに、それが出来なかったなど反省することが誰もがあると思います。
反省をして そこで終わるのではなく、悔い改めて神様に赦しをもらい 新年を共に出発していきたいと思います。
(´∀`)

2013.12.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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忘れてはならないこと

テーマは『 忘れてはならないこと 』です

【詩篇106編6-15節】

私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行った。

私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず、かえって、海のほとり、葦の海で、逆らった。

しかし主は、御名のために彼らを救われた。それは、ご自分の力を知らせるためだった。

主が葦の海を叱ると、海は干上がった。主は、彼らを行かせた。深みの底を。さながら荒野を行くように。

主は、憎む者の手から彼らを救い、敵の手から彼らを贖われた。水は彼らの仇をおおい、そのひとりさえも残らなかった。

そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。

しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。

彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。

そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。

旧約聖書はイスラエルの歴史と言っても過言ではないです。
しかし 神様はイスラエルという国のことを私たちに知らせるためではなく、
≪彼らの姿を通して あなたの姿を見なさい。≫ということであります。

クリスチャンは、今の時代に選ばれた選民たちであります。罪から贖われて恵みによって救い出された者であります。
ですから、あなたと同じように選ばれたイスラエルの民たちの歴史を通して、「あなたの人生の歴史を振り返ってみなさい。」と神様はたくさんのメッセージを送っています。

決して「昔の歴史であって、今とは違う。私の国の話ではなく、イスラエルの歴史の話は(私には)関係がないでしょう?」ではないです。


教科書ではなく、聖書に書かれているということは、クリスチャンに対して神様が教えたいことであります。

読んでみると、私たちの姿がそこにあります。「こんな姿は見た事がない」と、誰が言えるでしょうか ――。
(自分の姿が)双子のように、そっくりなのです。

神様は歴史を通して、神様に喜ばれた者は1~3人と 本当に数少ないです。その他の者は、好き勝手に生きている姿がそこにあります。
逆らったり、罪を犯したり、神様に敵対心を燃やしたり、あらゆる姿がそこにあります。

私たちはこのような姿を見て、「これは私の姿だ。私もこのようにしている。」と思いながら読まないと
聖書が 自分とは関係のない書物になってしまいます。
神様はいつも「そこにあるのは、あなたの為の教訓である」と語っておられます。

私たちは彼らの姿を見て、何かを忘れている姿があるのです。
神様が忘れてはいけないと言うのに、平気に忘れていくのでそれによって様々な問題が生じます。




①私たちを憐み、苦しみと罪の中から救ってくださった神様の恵みは、絶対に忘れてはならない

イスラエルの民たちは、神様から恵みを受けました。
奴隷生活が何代にも渡って430年ほど続き、圧迫され自由がなく 人間扱いされない生活だったので(彼らは)当然のように その苦しみの中で神様を叫び求めました。

その叫びが天まで届き、神様は彼らの叫びの声を聞いてモーセを立てました。それは素晴らしい恵みであります。
そして彼らをその苦役の中から救い出しました。これは100% 自分たちの力ではないです。

神様が彼らを憐れんで解放する者を送り、そして神様ご自身の御手で彼らを救い、紅海を渡ってカナンの地へ導くと約束をし 連れ出しました。
しかし紅海を渡った瞬間に神様の恵みを忘れました。既にその前にも パロの軍隊が後ろから迫ってきた時にパニックに陥り、神様やモーセに対して文句を言いました。

彼らは都合の良い者たちなのです。自分たちが発した言葉を忘れています。
助けてくださいと散々言っておきながら、神様が助け出した途端に「あの時の方が良かったのに。なぜ私たちをここへ連れ出し、ここを墓場にする気なのか!」と呟きました。

恩知らずで恵みを忘れているのです。このような姿が私たちにもあります。
(恵みを)受けた時だけ「ありがとう」と言って、すぐに顔を変えます。


恵みを忘れる人は高慢であります。まるで自分の力でやってきたかのように、自分の力でそこから救い出されたかのように恵みをすっかり忘れます。

私たちは他人から裏切られると とても心が痛み、長い間苦しむ人が多いですが、一番痛めているのは神様であります。神様から見たら、裏切り者があまりにも多すぎます。ほとんどの者がそうなのです。

皆さん、振り返ってみてください。神様の恵みがどれほどたくさんありましたか?


イエス様はラオデキヤ教会を批判しました。彼らはなぜ批判されなければならなかったのでしょうか。
それは、恵みを忘れている者たちだったからです。
「自分は富んでいる。豊かになった。何一つ乏しいことがない。」と明言しました。
「これは神様のおかげです」と栄光を捧げる言葉がなかったです。

もしも私たちが神様の恵みを忘れて「私の努力で恵みを受けた」と散々言うならば、
「恵みを忘れた者よ、あなた自身の力か」と神様から叱責を受けます。

自分の姿を見た時に、どちらなのかを見なければならないです。

「神様の恵みによって今はこのようになりました」と言える者なのか、「大きなお世話です。神様がいなくても
自分の力で出来ます」と言う者なのか ――。

人は覚えなければならないことを忘れて、覚える必要のないものは しっかり覚えていることがすごく多いです。
神様はどうでもいいことは忘れなさいとおっしゃいます。


神様から一番大切な救いと恵みを受けて 苦しみから助け出されたことを死ぬ時まで忘れてはならないです。

天国へ入っても忘れてはならないです。
神様の恵みで天国へ入ってこられたことを、神様に栄光を捧げなければならないです。
神様の恵みを一つも忘れてはならないと心に刻まなければいけないです。




②無限なる神様の力を忘れてはならない

イスラエルの民たちが救われたのは神様の力なのです。

なぜ私たちがこの力の業を忘れてはならないのかと言うと、小さな問題にぶつかるとすぐに神様に対して疑い、
不信仰の心が出てくるからであります。

それは神様が過去にどれほど大きな力をもって自分たちを導き 救い出してくださったのか、と それを忘れるので(疑いや不信仰の心が)出てくるのです。


(神様の力の業を)しっかりと覚える人たちは「あの時は自分の力ではどうにもならなかったのに、神様の力によって
私はそこから助け出され、それで問題が解決されました。自分の力でも、他人の力でもなく、神様の力によって出来ました。」と、このことが いざ問題にぶつかった時に思い出すのです。

あの時にしてくださった神様の力は「昨日も今日もいつまでも同じ力である。この力がまた働いて神様が私をまた助けてくださる。」となります。

しかし私たちがそれを忘れてしまうと、問題の前で倒れるのです。
「どうしよう、どうしよう」と明日の事を心配し、神様に呟くのです。

イスラエルの民たちも、あれほど大きな恵みや力を見ながら、目の前にある本当にわずかなことで
つまずいたのであります。私たちもそうでしょう?

他人に語る時は「神様は力ある神様だから信じなさい。」と言うのですが、いざ自分が問題を抱えてしまうと
急に信仰がどこかへ消えてしまいます。そして、いつの間にか無能な神様と思ってしまいます。

これは神様の力を忘れたことであります。


【エレミヤ書32章17-22節】

「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を 造られました。あなたには何一つできないことはありません。

あなたは、恵みを千代にまで施し、 先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方、偉大な力強い神、その名は万軍の主です。

おもんばかりは大きく、みわざは力があり、御目は人の子のすべての道に開いており、人それぞれの生き方に したがい、行いの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます。

あなたは今日まで、 エジプトの国で、イスラエルと、人の中で、しるしと不思議を行われ、ご自身の名を今日のようにされました。

あなたはまた、御民イスラエルを、しるしと、不思議と、強い御手と、伸べた御腕と、大いなる恐れとをもって、 エジプトの国から連れ出し、

あなたが彼らの先祖に与えると誓われたこの国、乳と蜜の流れる国を 彼らに授けられました。

神様の大いなる力の姿が書かれています。
それを体験したイスラエルの民たちが この後どのようにしたでしょうか。次の聖書箇所に続きがあります。




③不義を行う者に対しては必ず神様の懲らしめがある


【エレミヤ書32章23-24節】

彼らは、そこに行って、これを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法に歩まず、 あなたが彼らにせよと命じた事を何一つ行わなかったので、あなたは彼らを、このようなあらゆるわざわいに 会わせなさいました。

ご覧ください。この町を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この町は、 剣とききんと疫病のために、攻めているカルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は 成就しました。ご覧のとおりです。

神様がエジプトの国に対して多くの災いを下したこと、そしてパロとその兵士たちを紅海の海の中に沈めたことを イスラエルの民たちは全て忘れてしまいました。

神様は、神様に敵対する者・不信仰な者・高慢な者に対しては、たとえそれが選ばれた選民であっても
神様は正しく裁く方でありますので同じようになさるのです。
信じない者だけに災いを下して、自分が選んだ民たちが悪い事をたくさんしていても それを黙認する神様ではないです。

彼らの高慢な姿が出てきます。
「私たちは悪いことをしていても 神様が愛して選んだ者であるから、私たちにはそんなものは来ないのだ。」という特別意識があります。
祝福は来ても、災いを下す神様ではないと思いました。これは彼らの大きな勘違いであります。

災いを下さないと、それは甘やかすことになります。
それこそ父(=神様)に逆らう子になるので懲らしめるのです。
イスラエルの民たちが神様に逆らった時は、異邦人よりもひどい目に遭いました。


神様の裁きの時は、神の家から始めると語りました。まずは毒麦とヤギを取り除いて、そこから聖めます。

聖書の言葉は、信じる者にも信じない者にも同じく当てはまるのです。

神様は真理の言葉で私たちを正しく裁く方であり、そこで違反している者に対しては(神様が)同じようになさいます。
ですから、免れることがないです。

神様は 苦難がある時にはすぐに立ち返りなさいと語りました。
イスラエルの民を見て、自分の姿を見ることなのです。

私たちの内側が、神様が願うように いつも恵みを覚えて感謝し、神様の力に完全に頼り、そして神様が喜ばないことはしないことです。神様がおっしゃったことに喜んで仕えるならば、何一つ心配することがないです。


私たちは皆、足りない者で まだまだ失敗が多いですし、弱い者であり、知恵のない者であります。

ですから私たちは言葉を聞いて「神様、赦してください。恵みを忘れてしまいました。神様の力を信頼しませんでした。神様がこんなに良くしてくださったのに、私は自分勝手にそれに甘えて勝手な道を歩みました。主の声を無視しました。自分には災いが来ないと偉そうにしていました。赦してください。恵みを忘れません。神の力を忘れません。不義な者に対する神様の懲らしめも忘れません。」と悔い改めます。

これが今回の本文を通して神様が私たちに教えることであります。


耳のある者は聞きなさい、と私たちは主の前で本当に謙遜になる必要があるのです。
私たちは朝霧のように消え去っていく者であります。

今、平気でやっている小さなことによって 後で大きな代償を払わなければならない時が来たら、多分耐えられないと思います。
ですから私たちは、神様を 本当に恐れなければならないです。
神様という存在を軽く見てはいけないということであります。

受けた恵みに心から感謝して、この神様から絶対に離れないで信頼するならば、主は喜んでくださいます。


私たちが悔い改めをするのは、不義な者に対して神様の懲らしめがあるからなのです。

地上の小さなものばかりを頭の中に入れておいて、神様の存在を遠いところに投げ出して形式的な信仰生活をしているならば、後で 主の手の中で潰されます。

今回の言葉はしっかりと心に留めてください。これは忘れてはいけないことであります。
神様の道が一番安全であり、命の道、将来が保証される道であります。 .。゚+.(・∀・)゚+.゚

2013.10.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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