テーマは 『 霊的スランプについて 』 です

【マタイの福音書14章22-33節】

2つの弟子たちの姿を見て、イエス様が言葉を語りました。
1つは、イエス様が湖の上を歩いている姿を見て「あれは幽霊だ」と言って、
12人の弟子たちが叫び声を上げました。
もう1つは、ペテロが水の上を歩いて、そして波を見て怖くなり沈みかけました。
イエス様がその時に語った言葉は 「 信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。 」 でした。

また 「 しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。 」 と語りましたが、
この2つの言葉を私たちが聞くと、その人たちの霊的状態がはっきりと見えてきます。

私たちはいつ霊的スランプに陥るのでしょうか?
本文の弟子たちは苦難があり不安になりました。
私たちの心は、苦難が来た時に 「 何で(苦難が)来たの?! 」 と不安や恐れでいっぱいになります。

そのようになると私たちの中で一番初めにダメージを受けるところは心であります。
弟子たちは実際におぼれたわけでもないですが、しかし彼らを見ると怖くなったのは心の問題でした。

「 しんどいなぁ 」 という言葉は、どういうことを私たちに物語るでしょうか。
霊的スランプに陥ったという信号であります。赤信号です。
心が「しんどいな。」 「辛いな。」 「イライラするな。」 「忍耐できないな。」
私たちの(心の)状態が自分たちの口を通し、身体を通して苦しみが出てきます。

それらのものを私たちは霊的スランプに陥るものだとあまり気が付かないです。

いつもサタンは、私たちがそれに気づかないので働きやすいのです。
しんどい&疲れた&何もしたくない&やる気がない&頭がパニックになる。そのようにして、私たちの力が
抜けていきます。

そしてその人たちは環境を見ます。
「 神様はどこで何をしているのか?私がこんなに苦しんでいるのに。 」 と呟きます。

イエス様が弟子たちに語った 「 しっかりしなさい。 」 とは、何に対して言ったのでしょうか?
それは、あなたの心を立て直しなさいということに対してであります。

多くの人が苦難を受けると、心が沈んでいきます。表情を見ると笑顔がなく喜びがないです。いつも悩んでいます。

今、心の状態を覗いてみてください。どのような状態でしょうか。
――喜びはありますか? ――平安がありますか? ――波が立たない心ですか?
――自分の心をしっかり守っているという状態ですか?


イエス様が心のことを語る時は霊的なものです。

イエス様がここで霊的な姿をしっかりと見せてあります。イエス様やペテロが湖の上を歩いたことは、
それは現実的に可能なことでしょうか?
可能ではないです。現実的には不可能なことであります。

しかし、それは“自然法則がそれを許さなく、裏付けができない”と言うのは、現実だけを見る人たちです。
全てのことを理論的に考える人は、それを受け入れることができないです。

ですから、神様が 「 霊的になれ 」 ということであります。
現実ばかりを見て、信仰がない中で見るならば、「 そんなものは嘘だ 」 となります。

イエス様は、世の中のすべてのものは目に見えるものだけで動くのではないと語っています。

世界が広く、宇宙が広いということは、そこに霊的世界が存在するということであります。
私たちが自然法則だけで理解できないことがたくさんあります。

私たちの心は目に見えないものです。
肉体は機械を通してならば見ることができますが、心はいくら機械を通しても見ることができないです。
心を写真に撮ることはできないですが、でも私たちには心があるのです。

自然法則を乗り越えたもの、霊の世界では不可能がないです。

霊の世界は広く、その中に目で見える現実の世界があり、それは一部分であります。
ですから、神様がすべてのことを霊の目で見ないとあなたは理解できないと語ります。
しかし、私たちはそれをある意味では知っていながらも、訓練をされていないのですべてのものを霊的に
見ることをしないです。(現実に)目に見えるものだけ、人を見て、環境を見て、苦難を見て・・・等、
それだけで心が騒ぎ出して、それだけでもうダメだとなります。

そしてすぐに私たちはスランプに陥ります。

聖書に「あなたのこころを見守れ。」ということは、そこからいのちが出るということで、
いのちは霊的なものであります。

私たちがイキイキと常に生きるためには、心が元気でないとできないです。

しかし、人々は身体は元気であっても心が病気であったり、クリスチャンもいつも霊的スランプに陥って、
力のない生活をしています。

環境を恐れるのではく、本当に恐れなければならないのは神様であります。

スランプに陥るということは、サタンに引っ張られているということです。
そのまま引っ張られると不幸な者になります。

神様が私たちに苦難を与えるのは、目覚めさせるためであります。
あなたが誰に頼って生きるべきなのかということと、忍耐をさせるためです。
そして謙遜な者にさせるために苦難も与えると語ってくださいました。

ですから苦難が起こった時に、霊の世界の中でそれを見なければならないです。
誰かのせいではなく、
自分が眠っているから、自分が違うところを見ているから、神様ではなく問題ばかりを見ているから
神様に呟くから、自分の心が高慢だからなど、
神様はそれらのものを通して、私たちがそこから成長をして霊の人になることを望んでおられます。

苦しみに遭って、そこで霊的悟りを得た人は 「 苦しみに遭ったことは幸せでした。」と、
それは霊の目で見たからです。

私たちはすぐにイエス様から目を離します。そして自分で陥っていきます。
心に恐れが出て来るのは、私たちの信仰が薄く霊的スランプに陥ったことなのです。

私たちの心が強くなって自分の心を自分でしっかりと守っていくならば、
イエス様が常に自分と共におられることに気付くはずなのです。
イエス様が共にいるならば、何を恐れるんだ?と、これは成長の言葉であります。

イエス様が共におられながらも幽霊だと思うなら、小さな波でもすぐに落ち込んで沈んでいきます。

神様に従ってみることです。そしたら神様は見捨てることはしないです。
そして自分自身はしっかりと神様に繋がります。激しい攻撃の中でもイエス様だけが命の綱であります。


【Ⅰペテロ3章14節】

ペテロは何度も失敗をし、自分の心を守ることもできませんでした。
しかしだんだん霊の者として成長をしていった時に、すべてのことを霊の目で見ることが出来て、
自分の心をしっかりと守ることができました。

賜物を持っているから聖霊充満ということではないです。
聖霊充満は、自分の心をしっかり守って、その中で聖霊様が溢れることなのです。
聖霊によって導かれ、常に聖霊と共に歩む人が聖霊充満な人であります。

自分の心が揺れる度に、「 しっかりせい! 」 という言葉を自分にかけることです。

クリスチャンなのに現実に縛られて、クリスチャンなのにいつもイエス様を見ないで現実を見て、
悩んだり、苦しんだりする姿を見てイエス様が与えた言葉が次の箇所です。


【ヨハネの黙示録3章1-3節】

霊的スランプは死んでいる状態であります。

大胆に行動をしていくのが生きた信仰であり、ただ悩んで苦しんでいるのは眠った信仰であります。

霊は(出来事を)全ての角度から見ると、それが起きている原因がわかってきます。
すると正しい方法で戦うことができ前進をしていきます。

殺すのも生かすのも自分次第であります。

サタンの攻撃や環境など色んなことを通し、だんだんスランプに陥れて殺そうとしているサタンに向かって
(ダビデは霊的戦いに長けた者であり、色々な失敗を重ねて強くされた者でありますが)
ダビデのことが書かれている箇所があります。


【詩篇25編1-22節】

私たちの心が騒ぎ出す時に、じっくりとこの言葉を食べてください。
神様に助けを求め、神様に目を向けています。そして信頼しています。悔い改めています。
自分の悩みを打ち明けています。敵が立ち去る祈りです。

実際にはものすごい苦しみがあるのです。しかし神様の前に出て神様だけを求めることは、
現実を見ることではないです。
ですからダビデはいつも助け出されました。彼は勝利の人生で終わりました。

私たちは敵の思いのままにしてはいけないです。
自分が恥を受けるのではなくて、自分が信仰によって勝利をし、反対に敵が恥を見るようにしなければ
ならないです。

心が動揺し始めたら放置するのではなく、目を覚まし、自分の魂にしっかり主を見なさいと言葉をかけ、
祈りによって、賛美によって力を受けましょう。

私たちが勝利をすることは神様が喜ぶことであります。 (^∀^)

2013.3.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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