からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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重荷

愛を見せなさい

テーマは 『 愛を見せなさい 』 です

【ヨハネの福音書14章21節】

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」

男性は愛を見せることがあまり上手ではないところがあります。


“言葉で言わなくても見たら分かるだろう” と勝手に思います。

女性は度々「愛している」という言葉を聞きながら、相手の愛を確認して幸せを感じ安心感を得ると言われています。

それは別に男性を疑っているわけではないです。


夫は、妻が愛のことばを言ってほしいと言われると、うっとうしいと思いますが、女性の心理を知って 理解するのが良いですね。


女性は愛されたい気持ちが強いので 愛を確認したいですし、男性は尊敬されたい思いが強いので 愛のことばよりは 尊敬のことばに感動するそうです。


イエス様は男性でしたが、やさしく愛をよく現していました。
心がとても温かい方でした。


愛は、無言で また何もしなくても感じるものでしょうか?


神様さえも私たちを無言で何もせずに愛したのでなく、行動で愛を現しました。


愛が本当にあるならば、それは必ず見える形で現れます。

ですから神は “愛を見せなさい” と語りました。


イエス様の告別メッセージには、特に “愛” に関することばが多かったですし、それが重要なテーマでした。


本文でも「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」と語りました。



また、次の箇所にはこのように語っておられます。


【ヨハネの福音書13章34節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

【ヨハネの福音書14章15節】

もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

【ヨハネの福音書14章23-24節】

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

【ヨハネの福音書15章12節】

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

イエス様はこのように “愛すること” が新しい戒めであると明確に教えて下さいました。


私たちは 愛し合うという新しい戒めを、どれほど守っていますか?


さらに、“神を愛すること”、“互いに愛すること” は切っても切れない関係であることが次の箇所に書かれています。


【第1ヨハネ4章7-16節】

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

愛を軽く考えてはならないことが、これらのことばでも分かりますね。


愛はことばだけで伝わるのではなく、イエス様を愛する人は主の戒めを守ることで、主への愛が証明され、互いに愛することで神への愛がその人の中にあることが証明されます。


愛は、いのちある種です。

蒔かないと実が結ばない種です。


主の名によってどんなに素晴らしい働きをしても 愛が抜けてあるならば、いのちの実がない葉っぱばかりの働きになってしまいます。


それは実を結ぶことを期待する主を裏切ることになります。


【第1コリント13章1-3節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。

働きと賜物も重視しますが、それを価値あるものにするのは “愛” です。

愛のないものは主が受け取らないです。

この世の評価は すべて結果ですが、主の評価は “愛があるかどうか” です。


なぜ主は、愛で評価をするのでしょうか?

愛は結果ではなく “方向” だからです。


結果ばかり考える人は、目指す方向が “結果” ですから、働きや賜物を重視し、そこにいつも目を向けます。

ですから確かに結果はついてくると思います。


しかし主を愛する人は、愛の対象である “主” に目を向けます。

つまり 愛の方が働きよりも優先です。


ですから、いつも目も心もイエス様に向けます。
その人たちは、イエス様から目を離しません。



【ヘブル12章2節】

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

このように私たちがどこに目を向けるべきかを教えて下さいました。


愛は、愛の対象に関心があり、そこにすべてを向けます。

主がそのようにしました。


働きよりは 人に関心を示し、人を愛することがいつも優先でした。

私たちもそうあるべきであると主は教えました。


マリヤとマルタ姉妹のことは皆さんも知っています。

マルタは働き者です。
しかしマリヤは怠けているように見えました。


なぜならマルタは忙しく回っているのに、マリヤはイエス様の足元に座ってイエス様を見ながら話を聞いていたからです。


手伝わないマリヤを見て、マルタは腹が立ってイエス様にその不満をもらしました。

しかしイエス様からは意外なことばが返って来ました。


【ルカの福音書10章41-42節】

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

多くのクリスチャンが“マルタ状態”かも知れません。


熱心な人は主のために何かをしようとあれこれとやりますが、それが段々しんどくなり、主に会うと文句を言います。


ある人は、自分の仕事や遊びが優先で主と会う約束をいつも破ります。

礼拝や祈りの時間は主と先約した時間です。


しかし、よく破るのでイエス様はその人に会えないです。


イエス様は愛する人を待っているのに、その人が来ないと寂しい思いをします。


主が一番願うのは、私たちが主を愛することです。


そして主との時間を大切にし、主のことばに耳を傾けることです。

そして聞いたことば通りに行動することです。


これが主を一番喜ばせることです。


主を愛する時間もない人は、主を忘れ、いつか主も「あなたが誰なのか知らない」と言います。


いつも主を愛して共にいますか?
それとも忘れていますか?遠く離れていますか?


聖書でマリヤとマルタの姿を見ても、マリヤの方が主への愛が強いように見えます。


主を愛するのでイエス様から目を離さないでいましたし、主のことばは彼女には一番のごちそうでしたので、みことばを消化していました。


主を愛する人は 主の戒めをないがしろにせず守ります。

それは当然ですね。






ベロニカという女性が主の恵みによって地獄と天国を見学しました。

地獄に多くのクリスチャンがいる姿を見てとても疑問でした。

クリスチャンがいるとは思ってもみなかったからです。


それで 主にその理由を聞きました。


主の答えは「彼らはわたしを信じてはいたが、わたしのことばに従って生きることはしなかった。
多くのクリスチャンが教会の中、家族の前、知り合いの前だけおとなしく行動しているが、彼らは自分自身をいつも騙しながら生きているのだ。
私の父の目はすべてを見ているし、どこでもすべてのことばを聞いているのだ。」でした。


形式的で愛の冷めた結婚生活のような信仰生活を 主が喜ぶでしょうか?


主がもっとも望んでおられるのは愛の関係です。

主の愛は熱い愛なので、なまぬるい愛では満足しません。

“あなたの愛を見せなさい” と言われます。


信じる者として生きることは、愛の関係をずっと保っていくことです。


愛すれば愛するほど 心も霊的にも豊かになります。

そこから多くの実が結ばれていきます。


愛は話したり、考えたり、感じたりする以上のものです。

愛の関係が必要です。


イエス様は、私たちを愛して十字架に架かると話しただけではなく、実際に架かりました。

いのちを実際に捨てました。


喜んで自分を与えるのが愛です。

私たちのために十字架を負った主が語ったことばがあります。


【マタイの福音書16章24節】

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

主を愛する者ならば 自分の十字架を負って主についていきます。


ある教会で 主の教えとは違って人間的な思いで「こんなに苦労の多い時代に 教会の中でも重たい話を聞くならば ストレスガ溜まって死にます。教会では慰めと平安と安息を得なければなりません。」といつも祝福のメッセージだけを伝えるところがあります。


主の十字架は愛です。

私たちを愛したので死にました。


私たちが負う十字架も愛の十字架です。主への愛です。


自分のストレスの方がもっと大切で、自分が負う十字架を嫌がって拒否することは 主を愛していない証拠です。


愛する人には十字架は決して重荷ではないです。

育児は大変ですが、それを重荷と思って育児を拒否するでしょうか?


大変でも子どもを愛するので犠牲を喜んで払います。

他の理由はありません。


主を愛する人は自分が負う十字架を見るのではなく、愛する主を見て、自分も十字架を負います。


イエス様に対する自分の愛に偽りがあるならば、それは愛ではないです。

愛のない者に主は分からないとまで言われました。


主を愛する者は 父なる神に愛され、イエス様にも愛されます。


愛の本質は まぎれもない愛です。

愛がないならば、それは値打ちも本質も中身もない形だけのむなしいものになります。

互いに愛することで私たちが主を愛していること、そして神を知っていることが分かります。


主を愛していますか?互いに愛していますか?
愛の実が結ばれていますか?


それとも自分だけを愛しながら満足していますか?
Σ(`□´/)/

2016.5.8
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私のたましいが神を待ち望む理由

テーマは 『 私のたましいが神を待ち望む理由 』 です

【詩篇62編1-12節】

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。

おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁が、ぐらつく石垣のように。

まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。

私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。

圧政にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富はふえても、それに心を留めるな。

神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。

主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

2月5日、熱海発大島行きの高速ジェット船が クジラと衝突し、海上を漂流していましたが、海上保安部の巡視船が救助に向かって彼らを助けました。


74人が乗っていましたが、全員無事に助けることが出来ました。

クジラとぶつかって船がダメージを受けて漂流し始めましたが すぐに助けを求めたので助かりました。


最近ギリシャのエーゲ海では難民船が次々と漂流したり、沈んだりして多くの人々がいのちを落としています。


彼らがいのちを落としたのは、漂流しても助けを求めるところがなかったからです。

ですから、船に1つでも問題が起きてしまうと 助かることもなく、悲惨な結果に繋がってしまいます。
とても気の毒です。


助けを求めるところがあれば、多くの人が助かったと思います。


それを見ても、助けを求めるところがあるのと ないのとでは天と地ほどの差があります。

それで生死が決まってしまいます。


人生の海上で漂っている時に、助けを求めるところがある人は 本当に幸いです。


本文は、助けを求める所があったダビデの告白です。


助けを求めた後は、助けが来るまで じっと待つ姿が見られます。

これこそ神にすべてをゆだねている姿です。


さらにダビデは、自分がなぜ黙って、ただ神を待ち望むかについて語っています。




・すべての救いは 自分が待ち望む神から来る




この救いは、自分のいのちを狙う者からの救いはもちろん、たましいの救い、絶望からの救い、悪者からの救い、苦しみや患難からの救い、病気や痛みからの救いなども含まれた “すべての救い” です。


私たちが信じる神は “唯一の救い主” であるからです。


世界にはたくさんの宗教があり、「それぞれに救いがある」 と言いますが、まことの救いは、イエス様から来ることを知らないといけないです。


【使徒の働き4章12節】

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、 私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

主は私たちの救い主です。

ですから苦しみに会った時には、人間的な方法や思いで救いを得ようとするのではなく、初めから絶対的な信頼を この神に置いて神に助けを求めることです。


これが救われる一番の近道です。

神様にすべての状況を話して 神の助けが来るまで神を待ち望むことです。


この詩篇を書いたダビデも、そのようにしていつも救い出されました。


彼は 救いを神に求めた後は、自分の信仰を次のように告白しながら保っていました。


【詩篇62編1-2節】

私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。



・すべての望みは 自分が待ち望む神にある




人間には様々な希望があります。

救いへの希望もあれば、叶えたい夢もあります。


しかし、人間の欲望が入った希望は むなしく終わることが多いです。


世にあるすべてのものを欲しいままに手に入れ、欲望をすべて満たしたソロモン王が告白したことばを聞いてみましょう。


【伝道者の書で1章14節】

私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。

欲望から出た人間的な望みは消えて行くものです。

自分の欲望によって 永遠の喜びと満足を与えることはないですが、聖徒が持っている望みは それとは違います。


聖徒にある “望み” とはなんでしょうか?


【箴言10章28節】

正しい者の望みは喜びであり、悪者の期待は消えうせる。

これは、消えることのない喜びです。


【箴言14章32節】

悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。

正しい者は、たとえ死の瞬間でも 神に信頼しているので、永遠のいのちへの希望があります。

“死者の復活” という望みがあります。


この望みほど素晴らしい望みはありません。

これは神の恵みによって与えられる望みです。


【詩篇62編7節】

私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。

この言葉は 私が辛かった時や、死にそうだった時、そして先が見えなかった時に、本当に力と希望を与えたことばでした。


よく このみことばを告白していました。

望みを抱いて忍耐しました。


他にも支えになったことばがあるので紹介します。


【詩篇68編19節】

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。

【詩篇118編17節】

私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のわざを語りつげよう。

【ローマ5章5節】

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

これらのことばを信じ、望みを持って神を待ち望みました。

そして大変な時期を乗り越えました。


ダビデ自身 いつもそのように助け出されました。


【詩篇62編8節】

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

このように勧めています。




・神が一番安全な避け所であるから神をただ待ち望む




これから起こるかも知れない人生の苦難や嵐のための避け所を 必死で造ろうとするのが人間ですね。


財産、人間関係、地位など色々あります。


“それさえあれば助かる、何とかなる” と思いながら頼ります。

しかしそれは不完全であるので、一時的な避け所に過ぎません。


私たちには、安全で決して揺るがされない避け所が必要です。


神の中ほど安全な避け所はありません。


【詩篇63編7-8節】

あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。

私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。

これは、彼がユダの荒野にいた時の告白ですが、避け所である神の中にいる姿です。


神に仕えていたすべての信仰の人たちも苦しみや迫害の中で似たような告白をしました。



【イザヤ書25章4節】

あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。

【エレミヤ書17章17節】

私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。

“神を 自分の一番安全な避け所” と思う聖徒になりましょう。


神に向かって人生の航路を固定しましょう。


なぜなら、神様だけが 私たちの人生に救いを与え、望みを与え、安全な避け所であるからです。


たとえ嵐にぶつかることがあっても主が助けて下さいます。



【詩篇107編27-31節】

彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。

主があらしを静めると、波はないだ。

波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

(・∀・) アーメン

2016.2.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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失敗しない信仰生活

テーマは 『 失敗しない信仰生活 』 です

【ヘブル12章1-2節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

今回のメッセージタイトルは「失敗しない信仰生活」ですが、なぜこのようなタイトルにしたかと言うと、「信仰生活に失敗も成功もない」と思っている人が多いからです。


たとえば日本では信仰を持っていない人でも、“死んだらみんな天国” という発想がありますね。

ですから 信仰を持っている人は、さらに自分は天国は間違いないと確信を持っているので、果たしてそうなのか?ということを確認したいと思います。


あなたの信仰生活は大丈夫ですか?と聞きたいです。


1節に、「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから」と ありますが、彼らは誰でしょうか。そしてなぜ私たちを取り巻いているのですか。

彼らは私たちの何を見ているのでしょうか?


多くの証人たちとは、へブル11章に書かれている信仰の先輩たちで、キリストの証人としての働きを全うした人たちです。

すなわち神に勝利者として認められ、天の御国に入れられた人たちです。

信仰を全う出来なかった人たちはその中にはいませんでした。


天にいる彼らは 主の恵みによって、私たちのことを天から観察しています。

彼らは信仰によって生きている後輩たちを応援するために、エールを送っています。


彼らが見ているのは、私たちの信仰の競争です。


大勢が参加する競走を見ると、最後まで全うする人、途中で棄権する人、脱落する人が必ず出てきます。

棄権や脱落する人は、信仰の競争を全う出来ず失敗した姿です。

誰がそこに入るかは分かりませんが、必ずいます。






私たちが棄権や脱落をしないためには、どのようなことに気をつけなければならないでしょうか?


まずは、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てることです。


いっさいの重荷を捨てることは、信仰生活を妨げるすべてのものを捨てる事であり、まつわりつく罪を捨てることは、徹底的に罪を悔い改めることです。


これをやらないと、その信仰生活は必ず失敗に終わります。

教会に通うだけで何とか済ませるようなことではないです。


信仰の競走が何年、何十年前にスタートしたのに、いつも同じ状態ならば、未だにその人は この2つに係わっています。


そのような人は、信仰の妨げになるものがあっても そのままにしていますし、罪に対しても甘い考えを持っています。

この2つを持っている人は、真の信仰とは何か?そして御言葉通りに生きることが どのようなことであるのかを知らない人です。


それは怠けた姿であり、やる気がまったく見えない姿です。

そして不信仰で 形式的に信仰生活をしているので、神はその人を見て “怠けた悪いしもべ” と言います。


みなさんはいつも罪を捨てるための悔い改めをしていますか?


現代教会の大きな問題は、罪と悔い改めのことを叫ばす、信徒の耳に良いことばや世の価値観と妥協するメッセージだけを伝えることです。


牧師が神を意識せず、信徒の表情を意識するならば 罪と悔い改めのことは語りません。

みことばを正しく教えないので、信徒が罪の意識も持たず、何を悔い改めたら良いのかも分かりません。

これはとても危険です。


罪を捨てないで信仰を全うすることができるでしょうか?

罪を悔い改めないと、その人は罪人の姿のままです。


罪を洗う主の血潮は 悔い改める時に注がれますが、悔い改めないならば 罪は洗われることなく、そのまま残ってしまいます。


全身汚れた姿で主の前に立つことが出来ますか?


その姿が天国にふさわしくない姿であることは自分でも分かると思います。

罪を捨てず、罪を犯し続ける姿を堕落した姿と言います。

その人たちに対することばがあります。



【へブル6章6節】

しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

例えば ずっと盗みの罪を犯し続けているならば、その人はイエス様の手に釘を打ち続けているのです。

また 思いの中で罪を犯し続けているならば、主の頭に いばらの冠を載せ続けているのです。


そうしながらも、いたずらに主の名を呼ぶことはあってはならないことです。


そしてどんなに辛くても信仰の競走は忍耐をもって走り続けることです。


イエス様は自分の十字架を最後まで負いました。

その十字架は、罪を犯したから負った十字架ではなく、悪い人たちが負わせた十字架でした。

正しいことをしたのに迫害されて負わせられた十字架でした。


主が最初から私たちに語った言葉がありました。



【マタイの福音書16章24節】

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

この十字架は自分が犯した罪によって負う十字架ではなく、信仰のために負う十字架、悪い者から受ける迫害の十字架です。


この場合は忍耐しながら最後まで十字架を負ったイエス様のように十字架を負わないといけないです。


忍耐に対して次のように言われました。



【ヤコブ1章2-4節】

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

この忍耐がないと試練の時に倒れてしまいます。


忍耐のために私たちは、私たちを取り巻いて応援する証人たちを見、そして励ましを受けることです。
そうすると、力が得られます。


【ヤコブ5章10-11節】

苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

試練の中でも忍耐して信仰を守り、神のことばに従順した人が証人であり、その人たちが信仰を全うしました。


祝福は受け入れても、苦難を拒む人は信仰の失敗者になります。






失敗しない信仰生活のために、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てること、そして忍耐することも重要でありますが、もっとも大切なことはイエス様から目を離さないことだと教えています。


信仰そのものがイエス様を信じることなので、イエス様を見ることは当然でありますね。


しかし見ていない人が多くいます。目を違う所に向けています。

これが失敗の原因になります。


信仰生活において、生きる目的や 目指す目標も すべてイエス・キリストに焦点を合わせないと、競走の道から外れてしまいます。


イエス・キリストに焦点を合わせないすべてのものは間違えています。


信仰生活も、天国だけに目標を置くならば、それも間違いです。

教会を大きくしたくて、教会成長だけに目標を置くならばそれも間違いです。


目標はあくまでも、“イエス・キリスト” でなければならないです。


イエス・キリストに焦点を合わせて信仰生活をするならば、天国には間違いなく入れますし、教会も成長していきます。


証人たちはイエス様から目を離さなかったので、試練の中でも忍耐し信仰を全うすることが出来ました。

イエス様の十字架の勝利を見たので自分たちの十字架を最後まで負うことが出来、そしてイエス様が受けた栄光を見たので、喜びながら競走を走り続けることが出来ました。


イエス様だけを求め、見つめ、思う人は つまずくことも競走にやぶれることも脱落することも失敗することもありません。

しかし目を離してしまうと、その反対のことが起こります。


イエス様から目を離さず、すべての目標もイエス様に定め、すべての焦点もイエス様に合わせましょう。

これ以外に失敗しない方法はありません。
v( ̄∇ ̄)v

2015.10.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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幸いな人とわざわいに陥る人

テーマは 『 幸いな人とわざわいに陥る人 』 です


【箴言28章14節】

幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。

人間にとって一番の願望は、幸せになることです。

また人間が一番恐れているのは、わざわいに陥ることです。


箴言28章14節には “幸せになれる人と、わざわいに陥る人” のことが書かれています。


今回は幸いな人とわざわいに陥る人に対して語ります。

決して難しい内容ではないので、聞く耳をもって聞いて下さい。




幸いな人はいつも神を恐れる人です




“恐れる” ことは神様を恐がることでしょうか?
そういう意味ではないです。

色々な意味がありますが、一番の意味は 真実な心と愛をもって神に仕えることです。


神は心を見抜くお方ですから、私たちが偽りの心で神に仕えても 全てお見通しです。

そして、私たちのそのような心と態度を忌み嫌います。


しかし神を信じる人が皆、神を恐れているでしょうか?


恐れる人よりは、恐れない人の方が圧倒的に多いです。


まずは神に対する真実な心があまりないです。

自分の都合によって神に近づいたり、距離を置いたり、離れたりといつも変わります。


その心や愛が本物には見えず、偽りが多いです。


皆さんの心はどうでしょうか?

何があっても神を愛する心に変わりはないですか?


イエス様のことを三度も知らないと言ったペテロに対して 主が質問したのは1つでした。


「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と三度も聞きました。

自分のいのちが危なくなった時に、ペテロはイエス様を捨てて、「知らない」と言いました。


ペテロ本人はイエス様のことを他の誰よりも愛していると思っていましたが、実際その愛は 真実な愛ではありませんでした。


真実な愛は愛する相手と一緒に重荷を負い、死の道も一緒に歩みます。


私たちが神の愛を確認したのもイエス様の十字架でした。

神はその愛を、イエス・キリストを私たちのために十字架の上で死なせたことで見せました。



【ローマ5章7-8節】

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

愛にはこのように はっきりとした証拠が要求されます。

言葉だけの愛は真実な愛ではありません。


神を恐れている人には 真実な愛があるので、何があっても変わらない愛をもって忠実な態度で神に仕えます。


また神を恐れることばの違う意味は、神に従順することです。


従順のない礼拝に何の意味があるでしょうか。

従順のない信仰は偽善の信仰です。


神は偽善の信仰を一番嫌います。


神が私たちをどれほど愛しているかを私たちが知っていながら、その神に従順しないならば、私たちが 「神を愛する」 と告白しても、そのことばは偽善的なことばにしか聞こえません。

愛には従順が必須です。


ですから神は “わたしを愛する者は わたしのことばを守りなさい” と言われました。




神をどのように恐れるのか




神を恐れることは、生まれながらの人間には出来ません。

必ず神様の教えを学ばなければならないです。


神を恐れたことのない人間が、信じてすぐに変わるわけではないです。


神がモーセを通して律法を与えた理由は何でしょうか。


【申命記4章10節】

あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」

私たちが神を恐れ、神からの祝福を受けるためには、神のもとに来て学ばなければならないです。


ですから “神に仕える” と言いながら、神の言葉を聞くことを嫌がる人は 神に愛される資格がありません。


神はホセア預言者を通しても語りました。



【ホセア書6章6節】

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

ですので、ホセアは「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」と民に語りかけました。


どのようにして神を恐れるのかを 神から聞かないとその方法がわかりません。


主のことばを学ばず、興味も持たない人は神を恐れることを知らないので、神を恐れることもしないですし、神の愛も祝福も受けることが出来ません。




神を恐れる人が受ける祝福は何か




神を恐れる人は幸いであると初めから言いましたが、どのような祝福があるでしょうか。

神は蒔いた通りに刈り取る法則を作っておられます。


私たちが祝福を受ける目的で 神に仕えることをしなくても、神は初めから祝福を備えておられます。

祝福の約束が聖書に書かれています。


【箴言22章4節】

謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。

この祝福は、この世で生きている間に受ける様々な祝福を意味します。


誉れは 他の人から尊敬される位置にまで上がって神に栄光を現します。

そして最も優れた祝福はいのちです。


いのちとは救いを意味し、永遠のいのちを意味します。


神を恐れる人に 神はこのような祝福を約束し、神の御国を相続させて下さいます。

そして神を恐れる人たちの祈りを神は喜んで聞いて下さいます。


神を恐れず自分勝手に生きて困った時だけ神に助けを求める人と、いつも神を恐れている人が神に求めた時に どちらの人が より祈りの答えを得ると思いますか。

断然、神を恐れる人の祈りです。


神は喜んでその人たちを助け、祝福を与えてくださいます。




心をかたくなにする人が陥るわざわい




かたくなな心に対しての聖書のことばは結構厳しいです。


“かたくなな心” とは、その心が石のように硬くて 神の恵みを受け入れることが出来ない状態です。


恵み深い神様はすべての人に恵みを注ごうとしますが、かたくなな心の持ち主はそれをかたく拒みます。


心を閉ざすので、神の恵みを受けることも出来ないですし、実を結ぶことも出来ません。

金槌のような主のことばで叩いても何とも思いませんし、聖霊の強力な火のようなことばを聞いても何も感じません。


聖書ではこのような人を愚か者と言います。


本人たちは自分を賢い人、慎重な人と思うかも知れませんが、神の目には愚か者に過ぎません。


その心は道ばたのような心です。

なぜ人の心がそこまでかたくなになるのでしょうか?
それは “罪” によるものです。



【ヘブル3章13節】

「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

このように言われたように罪の誘惑を受けると 心がかたくなになり、罪に落ちていきます。


私たちは毎日襲ってくる罪の誘惑を信仰によって勝たなければなりません。

私たちを誘惑する最大の敵は 外にあるのではなく、自分の中にあります。


自分の中にある罪の性質がいつも自分自身に戦いを挑みます。


パウロはこの激しい戦いのことで次のように語りました。



【ローマ7章19-20節】

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。

もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。


【ローマ7章24節】

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。


このように自分の中に激しい戦いがあることを語りました。


外からの誘惑、内からの誘惑に勝たないと ますます心は罪によってかたくなになっていきます。

この世の誘惑に負けると、この世のあらゆるものに心が縛られて、心が石のように堅くなり、なかなか癒されません。


心のかたくなな人が災いに陥る根本的な理由は、神のことばを聞こうともせず、そのことば通りに生きることをしないからです。

そのような人は神のことばを聞くことすら嫌がり、耳を塞いで 「聞きたくないから話すな」 と言います。


皆さんの中で 神のことばを聞きたくないと思っている人がいるならば、その人は自分の心がかたくなになっていることに気付かなければなりません。そして早く悔い改めることです。


心がかたくなになることは なぜ恐ろしいことなのでしょうか。


なぜ災いに陥りますか?


神様は心のかたくなな者に対して干渉せず、好き勝手に生きるように放置します。

するとその人の状態はどのようになるでしょうか。次の箇所です。



【ローマ1章24-32節】

それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、

同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。


“死罪に当たる” ということばがあるように、最後は永遠の死を迎えるようになります。


自分の好き勝手に出来ることを喜び、地上で何も起こらないからと安心していても、永遠に消えることがない苦痛が待っています。


その人たちは自分自身でわざわいを招いていることに気付かなければなりません。

神を恐れることが祝福への道です。


皆さん全員が神を恐れ、幸いな人生になってほしいです。
(*´∇`*)

2015.9.20
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神の守りと慰め

テーマは 『 神の守りと慰め 』 です

【詩篇116編1-19節】

私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり 主を呼び求めよう。

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

主は情け深く、正しい。 まことに、私たちの神はあわれみ深い。

主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。

まことに、あなたは私のたましいを死から、 私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。

「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。

私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ」と言った。

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を 呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを 解かれました。

私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。

私は自分の誓いを主に果たそう。 ああ、御民すべてのいる所で。

主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真ん中で。ハレルヤ。

祝福の中で、平安の中で、いつも神様と親しい関係を持ちながら神様を第一にして生きる人の信仰は成熟した素晴らしい信仰です。

なぜならば これが意外と難しいからです。
私たちは何も問題がない平安の中でいつも変わらない心で神様を第一にしながら生活をすることは 案外難しいのです。


知らぬ間に、神様への想いが薄れていき、信仰も生温くなり霊的にはダメになってしまうからです。
これは誰にでもなる危険性があるということであります。

神様は人間が苦難の時より、苦難から救い出され 祝福された時のほうが神様のことを忘れる可能性があることを指摘されました。


【申命記8章10-14節】

あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜った良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。

気をつけなさ い。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。

あなたが食 べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、

あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、

あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。――

神様のことを“忘れる”という言葉が出てきます。私たちは この言葉を心に留めて気を付けなければいけません。

苦しい時は必死に神様を求めたのに、苦しみが消えた途端 自分に祝福を与えてくださった神様のことを忘れてしまうのです。

詩篇116編は、神様からの救いを体験した者が その恵みを忘れることなく神様への感謝を捧げています。
これが私たちの姿でなければいけないです。


本文を通して、神様がどんなに素晴らしい方であるのか、そして その主に対して私たちがどのような姿勢で接するべきかを考えたいと思います。

私たちが今生きているのは、すべて主の恵みであります。
主の恵みはどのような形で現れたでしょうか。

恵みを受けることだけが大切なことではないです。
受けた後も、私たちは神様に対して正しい姿勢を見せなければならないです。




聖徒たちの祈りと願いを聞いてくださる主



【詩篇116編1-2節】

私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり 主を呼び求めよう。

幼子が言葉を覚えてくると、お母さんに1日中 話しかけてきます。
「これは何?」、「どうして?」と好奇心旺盛です。
その姿は とても可愛いですし、嬉しいのですが 1日中だと、お母さんはさすがに疲れてきて うっとうしくなり
「うるさいよ」、「静かにしなさい」と愛する子供であっても 親はだんだん返事もしなくなります。
これは子育てをした人なら誰でも経験したことがあると思います。


しかし、私たちの神様はどうでしょうか?

神様が信徒たちに語る言葉があります。「たえず祈りなさい。」という言葉です。
私たちに絶えず誰かが声をかけてくるならば疲れると思います。でも、神様だけは違います。
絶えず祈りなさいということは、“絶えずわたしに話しかけなさい。”ということであります。

すなわち、神様は私たちがどんなに神様に話しかけても嫌がらないですし、面倒とも思わず むしろ話を聞きたいお方です。

そして願いを叶えてあげ 祝福もしたいと思っています。
死にそうになって助けを求めても誰も聞いてくれる人がいなく、助けてもらえないならば どんなに絶望するでしょうか。


しかし私たちは絶望する必要がありません。

私たちの声にいつでも反応してくださり、そして一番良い時に一番良いものを与えてくださる主がおられることを感謝しましょう。


ある人は「私の祈りは聞かれないんだ。」と言います。
これはどちらの問題だと思いますか?




ある本に次のように書かれていました。

ある人が天国へ行って イエス様によって幻を見せられました。

裁きの座にイエス様が座っておられました。そこに2人の子供を連れた母親の姿がありました。
母親はそこでひざまずくと、瞬間的に御使いによって2人の子供が目の前から消え 残ったのは母親でした。
この母親には旦那さんから受ける苦しみがあったので辛くて 子供を連れて自殺をした身でした。

そこで母親がイエス様に言いました。「私がどれだけ辛かったのかを知っていますか?」
それに対してイエス様は「分かっている。」と答えました。


その旦那さんは小説家で色々なことを妥協してほとんど家に帰ってきませんでした。
母親は2人の子供を育てましたが、苦しみがすごくあるので 旦那さんに色々と言いましたが、旦那さんには聞く耳がありませんでした。
家族をないがしろにし、仕事を優先にしていました。

それで母親が苦しく耐えられなくなり 最後には自殺をしましたが、その母親はクリスチャンでした。
母親は「いつも教会へ行き祈りました。だけどイエス様は全然聞いてくださいませんでした。全く旦那は変わらなく 私の苦しみは無くなりませんでした。
ですから私はあまりにも苦しいので死ぬしかありませんでした。」と言いました。


しかしイエス様が語る言葉は違いました。
「わたしはあなたが一生懸命に祈っているのを知っているし聞いていた。あなたの苦しみも全部知っている。
だから あなたがわたしに祈っている時に、わたしはあなたを助けようと思って何度も何度もあなたのところへ訪ねて行った。」と語りました。
そこで母親が「いつイエス様が私に訪ねてくださったのですか?私はイエス様に会ったことがないです。私がどんなに叫んでも聞かれたという思いが1度もないです。」と言いました。


しかしイエス様は「あなたの扉の外に立って、あなたの心を何度も叩いたのだ。でもあなたは1度も心を開いたことがなかった。わたしがあなたの耳に語ろうとしても、あなたの心の中は“あなたの旦那のこと”しか無かった。あなたは祈りの中でもずっと旦那のことしか考えていない。」と語りました。

母親は問題をイエス様に祈りながらも、母親の中にイエス様が入る隙間すらありませんでした。心の中には、100%旦那のことしか入っていませんでした。


私たちは問題があると神様にすごく祈りますが、
自分の心の中に神様が入ってくることが出来ないように問題だけを考えるのです。朝から晩まで問題を黙想するのです。

イエス様のことを黙想するのではなく、問題だけを黙想して心配ばかりをしているのです。

ですからイエス様がどんなにその人が可哀想に思って助けようとしても、結局はその人が拒んでいることになるのです。

イエス様が母親にそのことを語ると、母親は消えてしまいました。
それは天国ではなく 暗いものが来て一瞬にして姿が見えなくなりました。とても恐ろしいものでした。



私たちはイエス様が耳を傾けてくださることを知っていますが、その後は(祈りを)聞いてくださったイエス様が働けるように イエス様を歓迎し、そして問題を考えるのではないです。

私たちは忍耐をしながら希望をもって祈りながら「今日はどのように神様が働くのかなぁ」とイエス様を見れば良いのですが(イエス様を)見ないので失敗してしまうのです。

神様から祝福を受ける一番の手段は祈りなのです。神様は祈りなしに与えることはないです。
祈りは神様との交わりの手段だけではなく、神の恵みの通路です。




患難・苦痛から聖徒を助けてくださる主



祈りを聞いて、それで終わりということではないです。


【詩篇116編3-6節】

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

主は情け深く、正しい。 まことに、私たちの神はあわれみ深い。

主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。

この詩篇を書いた人がどんなに激しい苦しみの中にいたのかが 1つ1つの言葉で伝わってきます。主の御名を呼び求め、救いを訴えました。

苦しみの中、死の恐怖の中にいるならば 人間は生きてはいけないです。
人々は色々な方法を取りますが、クリスチャンはどのような方法を取ったら良いでしょうか?


どのような時でも聖徒たちは、その苦しみの中から出る為の突破口は 神様であります。他のものに頼るのではないです。

小さなことや、人間の力で出来る範囲のことでしたら、人間の力で解決されるかもしれませんが、
抱えている重荷が自分の力ではどうにもならない時は、「神様ならば この突破口を開いてくださることが出来るのだ」と初めから信じなければいけないです。

最強の救い主であり、最強の助け主であります。


この突破口は神様しかいない!という思いで 神様の御前に出てお祈りをしたら一番早いです。それが(問題解決への)一番の近道であります。


【イザヤ書12章2節】

見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

どのような時代でも、苦しみの時に神様を呼び求めた聖徒たちは 神様から助けてもらいましたので、同じ告白が出ます。


世の中の人たちは苦しい時に何かに頼ります。しかし 祈りの対象を間違えて偶像の神に必死に求めます。


【詩篇115編2-8節】

なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか」と。

私たちの神は、天におられ、 その望むところをことごとく行われる。

彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。

口があっても語れず、目があっても見えない。

耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。

手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。

これを造る者も、 これに信頼する者もみな、これと同じである。

人々は誰かに助けを求めますが、多くの者たちが虚しいことをしているのだということです。
どんなにそこに心を注いでも、それは何も出来ない人間が作った偽りの神の姿であるので(助けることが)出来ないのです。ですから祈っても虚しいのです。

サタンが答えたとしても、与えた後には代価を取ります。その代価とは その人の命です。


しかし私たちの神様は、常に私たちを助けるために来てくださる神様であります。
この神様を心から信頼しなければならないです。

生きておられる神様は ただ1人であり、この神様だけが苦しみの中にいる者を助け 恵みを与え、そして救ってくださいます。




聖徒たちを完全に救いに導いてくださる主



【詩篇116編7-8節】

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。

まことに、あなたは私のたましいを死から、 私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

神様は 私たちの魂だけを救ってくださるために来られたのではなく、魂を死から救うのはもちろん、悲しみの時に慰めを与え、
つまずきから救い出してくださる方です。

イエス様が働いた姿を見ると、魂の救い、病人の癒し、悪霊の追い出し、問題解決、慰め、祝福など何一つ足りないものはありませんでした。

どのような時でも助けてくださる神様に祈らなければならないです。
どんなに小さなことでも、大きなことでも神様にとってすべてが可能であります。


人間にとって不可能なことでも、見捨てることがないです。

人々は試練の中で犯しやすい罪があります。―― それは神様に対するつぶやきです。

ひどい試練の中で、神様につぶやいたり 不平不満の罪を犯しやすいです。
本来ならば神様に助けてもらわなければならない立場なのに、反対に神様の前で罪を犯すので どんどん神様との距離が出来てしまい、なかなか祈りが聞かれなくなるのです。


その中で神様に対する正しい知識を持つことがとても大切であります。
1つのつぶやきがどれほど神様の前で大きい罪かわからないです。

神様に助けてもらうには、つぶやくのではなく 苦しい時、悲しい時、辛い時、どのような時でも神様に信仰によって求めることが大切です。

これが信仰の姿であり、謙遜な姿であります。


自動販売機のようにボタンを押したらすぐに答えが出て来るものではないのです。
頼り続けながら神様に委ねることです。

神様は 私たちを見捨てるどころか このように恵みを与えてくださる方であることを堅く信じてください。


このような素晴らしい神様に対する私たちの態度はどうあるべきでしょうか?
ただ「感謝します。」だけで良いでしょうか?

それで終わってしまうならば、神様の恵みを分かっていない人であります。
私たちは恵みを受けた後が大切であります。

謙遜な態度はもちろん必要ですが、何よりも神様に対する実践的な決断の姿勢が必要です。


【詩篇116編12-17節】

主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

私は救いの杯をかかげ、主の御名を 呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを 解かれました。

私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。

1回きりではなく、死ぬ時までです。
ずっと神様が良くしてくださったことを忘れないことが、神様への感謝のいけにえであります。
常に思い出して感謝を捧げ、祈りの中で誓いを立てたならば それは必ず果たしていくことです。

これを神様が喜んでくださいます。


恵みをいただいた後に、私たちは神様のところを去り 神様を忘れて好きなように生きるならば、いつかその人の魂は死んでしまいます。

神様を見失ってしまいます。
それがどれほど恐ろしいことなのかを知らなければならないです。 (; ̄Д ̄)

2014.3.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私の使命は宣教

テーマは 『 私の使命は宣教 』 です

【マルコの福音書16章15節】

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

宣教は、宣教師・伝道師・牧師だけがするものではなく、救われたすべての人にイエス様が与えた命令であります。

宣教は誰かがするのではなく、「私がしなければならない使命」だと認識をしなければなりません。

初代教会の人たちと、イエス様の弟子たちは この言葉をしっかりと受け取りました。

もし 初代教会の人たちが宣教活動をしなかったならば、福音はそこで終わったと思います。しかし、イエス様が天にのぼられた後に すぐさま立ち上がって福音を伝え、3千名が救われました。
ある程度 増えてくるとグループになって固まろうとするところがありますが、それは神様が喜ぶ姿ではないです。
「まだまだ救われていない魂がいるだろう。」と語ります。


エルサレムの教会に対する迫害があり、信徒たちはそこにいることが出来ず散らされていきましたが「散らされた人たちは、みことばを宣べながら巡り歩いた。 」と主から受けた言葉通りに一般の信徒たちにも福音を伝えました。これは神様が喜ぶ姿であります。

迫害の中でも福音を伝えるということは命懸けなのです。

どの時代でもこの命令が変わることなく与えられていますので、私たちは福音を宣べ伝えていかなければなりません。


日本や韓国は、イスラエルから遠く離れていて福音が届きにくい場所にあります。
今から150年前に 日本にキリスト教が伝えられましたが、当時は交通便も悪いですし、情報を手に入れるのも難しい時代でした。

しかし、十字架の信仰と殉教精神、宣教への情熱を持って多くのクリスチャンが全世界へ出ていきました。

日本も韓国も まずカトリックの神父たちが福音を伝えに入ってきました。そしてその後に宣教師たちが来て、みことばを伝えました。

多くの宣教師たちが迫害に遭い、命を落とし、二度と国に帰ることはありませんでした。
それでも宣教師 たちは途絶えることなくやってきました。とても感謝なことであります。

もしこの人たちが来なかったならば誰1人福音を聞くことが出来なかったと思います。


今回の教役者大会でも、フィリピンの講師先生が「日本へ宣教に来て20年以上経っている宣教師たちは立ちあがって下さい。」と言われた時に、 多くの宣教師たちが立ちあがりました。

言葉が通じないところへ来て 人知れぬ大変な苦労をしながら生活をしていたのだろうと感じました。
講師先生が「この方たちは本当に立派であります。自分の国を離れて、ただ1つ福音を伝えるためだけに来られて20年以上経っていますので拍手を送りましょう。」と言って 皆で拍手を送りました。

この人たちは戦いの戦士に見えました。日本人がなかなか福音を伝えない中で、外国人が戦いの中へ飛び込んでいく姿が想像できました。

私たちはそのような姿を見て、自分たちは何をしているのか ――?自分の家族や周りの人々に福音を宣べ伝えているのか?そのことを心に留め、悔い改めながら新しい思いを持たなければいけないと思います。


終わりの時は今までにない迫害が来て、信じる人たちも自分の信仰を守ることがとても難しくなります。
ですから福音を伝えることはもっと難しくなります。今、家族に福音を伝えなければならないです。

私たち自身がいつも問題ばかり抱えて、神様に出会って何一つ良いことがないならば 証にならないです。
自分自身が変わっていないならば 家族への宣教は難しいです。


宣教は外国へ行くことだけが宣教ではなくて、家族に対しても私たちが変わっていく姿を実際に見せていないと「イエス様を信じて。」と言っても
「あなたは信じて何が変わったの?何も変わっていないじゃない。」と言われ 福音が伝わりません。

私たちには責任があるのです。「私は家族・親戚に良くなっている姿を見せているのか ――?」それを反省しなければならないです。




昨年11月8日~10日まで、イスラエルのベツレヘムで聖会がありました。

そこにあるベツレヘム第一バプテスマ教会が、韓国のヨンセ中央教会と3年間 合同で聖会を年1回 開いています。
その理由は、その地域に住む人たちは福音を聞くチャンスがないまま死んでいく魂が多いからです。

その地で福音を伝えることは命懸けであります。なぜならそこに住むアラブ人はイスラム教を信じる人が多いからです。ベツレヘムはイエス・キリストが生まれた土地であります。
現在はユダヤ人がまったくいない地域でパレスチナ人が住んでおり、いつでもイスラムのテロが起こり得る場所です。


今まで福音を聞いたことがない1,300名のイスラム教徒のアラブ人が参加し、正統派イスラム教徒も30名が参加したと言われています。
彼らは何が語られるのかと福音を聞きに来ました。神様は彼らにも福音を聞いて救われて欲しいのです。

3日間で5,000名が集まり、その中で175名が救われ、イエス様を救い主として受け入れました。そして悪霊が追い出され、病人が癒される奇跡が起こりました。


伝える人がいなければ、救われる人もいないです。

今までイスラム教徒として生きていた人たちが福音を聞いた時に、力と奇跡を神様は現わし、生きて働く神様を見せてくださいました。

神様は福音が全世界に届いて人々が救われることを願っておられます。




ここで韓国と中国の教会の姿を見てみたいと思います。


韓国の教会は以前にリバイバルをしました。聖霊の働きがとても強く、世界の中でも韓国の教会が一番燃えていました。しかし今は 下り坂になりリバイバルをしなくなりました。そして主のために献身をする十字架の信仰が消えていきました。
その原因は、経済的に豊かになってしまったからです。


その反面、今 中国では聖霊の働きがとても強く現われ、驚くべき成長を見せています。
公認教会や地下教会の人たちは命をかけて福音を伝えています。

彼らは投獄されても福音を伝えており、その多くの者たちに十字架の信仰があります。


韓国でも危機感を持っているクリスチャンたちは目を覚ましています。
「この時代において、私たちが何をすべきか」を考えるようになりました。

韓国教会の時代的使命は、中国宣教であります。
なぜ中国を宣教するのかと言うと 聖霊様の働きで救われる人たちは多いですが、教理的な部分がまだ弱いです。
神学校が足りなく 指導者も足りないです。


韓国は神学校が多く 海外で学んでいる人もたくさんいますし、教理的・神学的に優れています。
しかし熱が冷めて弱くなってきました。
ですから「私たちが持っている教理的・神学的なものや指導者を中国へ送り、中国の人たちが更に力を持って宣教できるようにと たくさんの人たちが中国へ行っています。


中国教会は殉教信仰が強い人もいれば、中国は経済が良くなってきましたので 教会に来る人の中でも経済的祝福だけを求める人が増え、神様よりも 神様が持っているものに関心が多いです。
そうすると神様に対する想いも冷めていきます。それが中国でも実際に起こってきています。

中国は人口が多く、国内では少数民族が55もありますし、中国は、終わりの時代に世界宣教の使命がある国だと思います。


なぜかと言うと日本や韓国がイスラム圏やアフリカに宣教しようとするならば拒まれるのです。それは、アメリカと仲が良いという理由です。イスラム教の国ではアメリカに対する敵対心がとても大きいのです。


しかし中国は社会主義ですので イスラム圏の国やアフリカにたくさん入っていけるのです。

韓国では「中国教会がアラブ、イスラエルなどイスラム圏の国々のために時代的使命を果たすことができるように協力することである」と考えています。




日本はどちらでもないです。
日本ではリバイバルが起こったこともないですし、熱くなったり冷めたりすることもないです。

「韓国や中国には出来ても日本には無理だ」ということを言いますが、これは言い訳にすぎません。
よく考えてみると自分たちが燃えたことがないのです。


自分たちが命を懸けるほど国に福音を伝えようと熱く燃えたことがありますか?


ですから原因は私たちにあるのです。自分たちが勝手に諦めているのです。
人々が滅びていっても関心がなく、家族がイエス様を信じなくても重荷を負わず「私には関係がない」という思いが強いです。
そのことを悔い改めなければなりません。

「ただ他人に迷惑をかけなければ良い」ということではないです。
福音は迷惑をかけても良いものです。「あなたの魂が救われて欲しいんだ。」という熱い想いなのです。


私たちの周りはほとんどの人たちが未信者だと思います。
時々その人たちに みことばカードを使って「お元気ですか?」と手紙を書いたら良いと思います。
その人たちに関心を持って、関係を結んでいくと良いです。みことばカードの言葉が種になって蒔かれていきます。

神様は私たちにそれをして欲しいと願っているのです。他人に関心を持って欲しいのです。
自分たちだけが救われて天国へ来るのではなく 「働きをしなさい。」と主が教えておられます。


私たちが宣教をする時には どのような心を持っていなければならないでしょうか?

私たちはクリスチャンの目で見なければならないです。今、ものすごく悪い勢力が働いています。
それは、日本・韓国・中国を仲悪くさせようとする力が 以前よりも強くなっていることを私たちは見ています。

ネット上でも過激な言葉や非難的な言葉がとても多いです。
過激な言葉を使って本を出版すると人々が買います。これは金儲けで自分たちの利益のために働いています。国のことは関係がないのです。

私たちはそのようなものに翻弄されてはいけないです。

「政治が悪い、国が悪い、国民性が悪い」と言いますが、どこの国でも皆、自分たちの国の方が大事なのです。
ですから色々なことがありますが、クリスチャンがそのような目で見ていたら本当の姿が見えてこないです。


クリスチャンは神の目でこの時代を見ることであります。

「サタンが働いて分裂を起こしているのだ。国々に敵対心を生んでいるのだ。」と、私たちは絶対に悪いものに乗ってはいけないです。

「今は収穫の時である。これが終わりの時のしるしであるのだ」ということを 私たちは知らなければならないです。


【マタイの福音書9章35-38節】

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。

また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

私たちが人々を見るときに、どのような思いで見るのかマタイの福音書9章36節に書かれています。

私たちの周りにいる群衆を見た時に、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れているので「可哀想だ」という思いで見ることです。
そしてその人たちに、水1杯を与えるのです。その水1杯とは神様の言葉であるのです。


弱り果てている人に力を与えるのは みことば しかないです。

まずは自分が働き手として働き、それでもまだまだ福音を聞いていない人が多いので働き手を送ってくださいと祈らなければなりません。


【ヨハネの福音書4章35-38節】

あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。 目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに 入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、 ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。

わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを 刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」

もう色づいているので「まだまだ」だという思いを捨てなさいと教えておられます。
私たちが福音を伝える時の言い訳の1つが「あの人はこうだから、多分 福音を聞かないでしょう。あの人は他の宗教を信じています。 あの人は心が頑なです。」とか先に言い訳をして「だから無理です。今ではないです。」と言います。

イエス様は「あなたが出て行って刈り取る時なのだ」と言っておられます。


私たちが種を蒔いてもビクともしない人がいるかも知れません。
しかし、長い時間が経って別の者がその人のところへ行き 福音を伝えた時に受け入れることがあります。

私たちは自分が蒔いて、自分で必ず刈り取らなければならないということではないです。

今すぐ刈り取ることはできなくても失望せずに、神様は種を蒔きなさいとおっしゃいます。
いつかあなたが流した労苦が必ず実を結ぶことを教えています。


【Ⅱテモテ4章2節】

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

みことばを伝える時は 色々な戦いがあります。拒否する人たちも出て来るのです。
ですから教える時も、責める時も、戒める時も、勧める時も「みことば」を使うのです。そこでは自分たちの言葉はいらないです。
神様の言葉を教えてあげることであります。

神様の言葉には力がありますので、きっとその人たちの心を刺し、悔い改めや立ち返りに導かれるでしょう。


私たちはしっかりと神様の使命を悟り、みことばを宣べ伝えていきましょう。

箴言には知恵の言葉が書かれています。私たちが人間的な言葉ばかり伝えると、人と会話をしても相手の心に残ることがないです。
しかし、私たちの言葉の中に 神様の言葉がたくさん散りばめられていると、その人の魂にぶつかっていきます。


日々、私はこの国に遣わされている宣教師だと思いながらやってください。
これからは伝道を常に心掛け、宣教に力を入れましょう。 ( ̄‥ ̄)=3

2014.2.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主に委ねるとは?

テーマは『 主に委ねよ 』 です。

【詩篇55編22節】

ダビデが客観的に自分自身に向かって語っている言葉です。
詩篇55編を見ると、ダビデが大変な状況にいることがわかります。


【詩篇55編1-8節】、【詩篇55編16-19節】

ダビデほど色々なことを経験した者はいないです。
詩篇は私たちが苦しい時に読む事が多いです。なぜならば、自分たちの中にある色んな思いを
とても詳しくピッタリと表現をしてくれるからです。それはダビデの頭から出たものではなく、
心、身体、環境で体験をして語った言葉だからです。すべて自分で経験をしたものであります。

ですから、何も経験をしないで頭で考えて書いているものとは全然違います。
それで自分たちが共感をする部分がすごくたくさんあります。

ダビデの敵は、彼の家族でもありました。家族や子供がダビデを苦しめました。
親しい友までもダビデを裏切りました。末っ子であるダビデを兄弟たちは冷たい仕打ちをしました。
結婚をしても家庭が平安ではなく、子供たちがダビデをすごく苦しめましたし、長男はダビデを
殺そうとしました。ダビデは悪い事をしているわけではないのに、彼の周りには敵が多かったです。

主は「ダビデはわたしの心に適った者である」と語りましたが、彼には色々な問題がありました。
しかし、その中でもダビデが潰れなかった理由は何でしょうか――?

【詩篇55篇22節】で語ってある通り、重荷を主にゆだねたので神様は彼を救い出してくださいました。
そのことをダビデは経験をしましたので、このような言葉が言えるのです。

ダビデはどんな時でも神様を見ていました。そして重荷を神様に委ねることを日々体験しました。

(金ヘス牧師が)実際に色々な相談を受ける中で、クリスチャンたちが多くの部分で勘違いをしている部分が
見えてきます。相談をする人には2つのタイプがあります。
表情に「問題があります」と書いてあるような曇った顔をしている人たちがいます。
「何かあったのですか?」と尋ねると「こういうことがありました。」と言います。そして、
「神様が私に与えてくださった十字架なので耐え忍んでいます。」と言って、黙って忍耐をしている人がいますが、
(このような姿は)特に真面目な人に多い傾向があります。

しかし、「十字架」と「重荷」は違います。

十字架は福音のために、主の名のために受ける苦しみです。自分がイエス様を伝えることによって、
また みことばを守ることにより生じた様々な苦しみであります。(ヨブがそうでした。)

自分に降りかかった苦しみを全部神様に委ねました。
そのことで失ったことに対してはヨブは一言も(不満を)言いませんでした。
私たちは失ったものに対して、ものすごく神様に文句を言います。それは十字架ではないです。

神様によって生じたものだけが十字架であります。

神様は立ち返らせるために、悔い改めの材料にしますが、十字架(使命)ではないです。
ですが、多くのクリスチャンたちが錯覚をして「どうして私にこんな重荷を神様は負わせるのですか?」と
言う時があります。
それは十字架ではないので重荷をおろして神様に委ねなさいと、はっきりと言います。
サタンに騙されている部分がとても多くあります。
サタンは「(あなたは重荷を)負っていなさい。それはあなたの十字架なのだ。」と言います。
しかし、それは十字架ではないのです。その人自身から出て来た色々な思いがそれを手放しません。

本来ならば手放すものなのに「私の訓練だ」と自分の背中に背負います。
そして苦しみながら「忍耐をしないと。耐えなければ神様が喜ばないんだ」と言います。

そのような考え方を変えなければならないです。神様から与えられた十字架ではないので、
それはあなたが背負っている重荷に過ぎません。

みことばには「あなたの重荷を主にゆだねよ。」と書いてありますので、背負ったままですと不従順になります。

神様は私たちが重荷を背負っていることに対して心配をしてくださいます。
神様は問題を見て心配をするのではないです。その問題を手放さないで抱え込んでいる人を見て
心配をするのです。

重荷を手放すと神様が解決させてくださいます。それが神様のみこころであります。

また、重荷以前に 神様は委ねてほしいことがあります。


【詩篇22篇10節】

自分自身を、命を与えてくださった神様に委ねることであります。
「私を神様に委ねます。」、「私を導いてください。」というのが私たちがすべきことであります。


【詩篇22篇8節】、【詩篇37篇5節】

私たちは神様の前で1つ告白すべきことがあります。
「神様、明日の事は私は何1つわかりません。」と、明日何が起こるのか誰もわからないです。
ですから「神様が私の道になってください」と告白をします。

神様はすべてのことを委ねなさいとおっしゃいます。
家族の問題も私たちの力で(解決)出来るものではないです。


【Ⅰペテロ5章7節】

1つの問題が生じると、一瞬にして思い煩いが私たちを襲います。それによって疲れてしまいます。
しかし神様が私たちが思い煩いで嘆いている姿を見て、心配をします。

ダビデも自分の命を狙う者の中で泣きながら うめきました。
だけどそれは思い煩いではなく、祈っている姿であります。
思い煩いと祈りは全く別のものであり、
思い煩いは肉から出たもので、祈りは神様から出たものです。

祈ると神様が働き、思い煩いがあると私たちの中の信仰が消えていきます。
信仰がなくなると、私たちは神様との関係がどんどん遠くなっていきます。

信仰は神様に近づいていく力であります。神様を信頼し、見上げることです。

思い煩いは問題を見る事であります。問題を見つめると、徐々に力を得て問題が大きくなります。
問題が目の前にあっても私たちはそれを見るのではなく、祈りによって神様の力が表れるように
神様が問題を持っていってくださるようにしなければなりません。

祈りは神様を動かす力でもあります。求めるなら与えられる約束があるので、
私たちがその言葉を握りしめて神様に求める時に、神様が答えを持ってきてくださいます。
ダビデのように朝も昼も夜も祈ったら良いのです。神様に訴えたら良いです。

祈るならば問題が早く解決されます。

次のみことばはダビデの姿です。


【Ⅱサムエル記22章31-35節】

委ねて祈ると神様は乗り越える力を与えてくださいます。それによって私たちは問題を解決する
こ とができます。


【Ⅱサムエル記22章47-51節】

このような姿を私たちは学ぶべき姿であります。どのように委ね、どのように神様との関係を
結んでいったのか、このようなことが聖書には書かれています。

敗北した者はいませんでした。委ねた者は全て神様によって救い出され、勝利者になったことを
私たちは学んでいきましょう。

力あるイエス様が傍にいるのに、(自分は)何をしているのか、自分の姿を見てください。

信仰によって主に信頼して委ねようとするならば、恵みを体験することができると思います。 (*´∇`*)

2013.4.28
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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