からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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赦す

受けたものは流して行く

テーマは 『 受けたものは流して行く 』 です

【ルカの福音書6章38節】

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人々を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

家の近くに 第二寝屋川がありますが、水の色がほぼ黒に近く、ごみや黒い油のようなものが浮かんでおり、時々 魚や亀やカモも見えますが、色は全部 “黒” で本当に汚い川です。


その理由は色々あると思いますが、私が感じるのは、流れないので汚い川になっていると思います。

ごみがある時に見ると 全く流れていないです。


時々 機械を使って波を起こすと、ごみは流れて どこかに消えていきます。

どこに流れていくのかは分かりません。

綺麗な川なら良いのに と橋を渡るたびに思います。


夏に上高地に行った時に川の水があまりにも透明で綺麗だったので、そのまま飲みたくなりました。

山からきれいな水が勢いよく下流に流れていくので、いつでも綺麗ですね。


受けても流さないと汚くなりますが、絶えず流すならば いつも綺麗です。


イスラエルのヨルダン川と 死海もよく比べられます。

ヨルダン川は綺麗ですし、大きな魚も住んでいて 主の弟子たちもそこで漁師をやっていた人たちでした。

ヨルダン川の水は綺麗で、泳いでいる魚も見ました。

そこで魚料理を食べたこともあります。


ヨルダン川から流れる水は、死海に向かって流れます。

死海は見た目は綺麗に見えますが、生き物が生息できないので “死海” です。

死海は、“受けるだけ受けて、流さないので死海” になりました。


私たちも受けたものを 流すか流さないかによって “ヨルダン川” にもなり “死海” にもなります。


イエス様は絶えず恵みを流して下さる方です。


皆さんが、認識しているか 認識していないかに関係なく、絶えず恵みを流しています。

私自身は何を見ても、そこに神の恵みが流れているのが見えます。


しかし、ある人はその恵みに気付かず、こぼしていながら 「自分には恵みがない」 と神につぶやいています。

また ある人は、手を握ってあげても 「こんなものは要らない」 と投げ捨てる人もいます。

ある人は受けた恵みを 自分のものだけにして、誰にもそれを流さない人もいます。


そばで困っている人、倒れた人がいても それが目に入って来ないです。

“自分さえ良ければ” という精神は、「貪欲」そのものです。


それは、サタンの思いです。
神様が忌み嫌う心です。


しかし受けた恵みを、きちんと流して行く人たちもいます。

その人たちは、いつも神様から新鮮な恵みを受けています。


他の人たちにも 良い恵みを流すので、神様は天を開いて その人が乏しくならないように与えて下さいます。


イエス様は 最初に弟子たちを遣わした時に このように語りました。


【マタイの福音書10章8節】

病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

イエス様は、まず彼らに恵みと力を与えました。

そして それを使って他の人を助け、恵みを流すように命じました。


私たちが教会で互いに仕え合うことは、お互いが受けた恵みを流して行く姿です。


それによって、みんなが恵みを受けます。


“自分には流す恵みがない” というのは、言い訳に過ぎないです。

流したことがないので、気付いていないだけです。


私たちは、あらゆるところで、色んな人に恵みを流すことが出来ます。


やろうと “決心” すれば、何を流すべきかが分かります。

手を差し伸べれば、そこに恵みを流す対象がいます。


私たちはすでに多くの恵みを神から受けています。

最大の恵みは神から受けた愛です。


(私たちは神から)受けたので、この愛を流して行かなければなりません。

自分が救われたように、人も救われるように神を紹介し、祈りをささげ、世話をすることが 愛の恵みを流している姿です。


自分だけ天国に行くことを喜んだらいけないですね。

他の人も天国へ行けるようにするのが 愛ある姿です。


神が「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と命じましたが、それは本来 私たちに出来ることでしょうか?


神の愛の恵みがないと出来ませんが、私たちが受けた神の愛を流して行くならば 出来ないこともないです。

そうすると、自分の愛ではなく、“神の愛” で愛することが出来ます。


「こんな私のような者も 神が愛して下さったならば、神はこの人をもっと愛しておられるかも」 と思って、受けた神の愛を流せば良いと思います。


愛を流さず自分だけにとどめるならば “自己愛” ですが、流せば “隣人愛” に変わります。

そして様々な神の恵みを体験したならば、感謝して終わるのではなく、恩返しを忘れてはいけないです。


恩返しは、恵みを流していくことです。

人から良くしてもらったならば、自分も誰かに対して良くしてあげれば、それが恩返しの連鎖になり 人間関係がとても良くなりますし、社会もよくなります。






私自身のことですが、34年前に輸血を受けて いのちが助かった経験がありました。

それがなかったならば、いま生きていないですね。


出産の時に出血多量で2度も意識を失くし、1日中輸血をしました。

それで助かりました。

それがあったので、自分も献血して誰かを助けたいと思いました。


毎年献血しようと思って2回しましたが、その後 法律が変わり、輸血した人は献血が出来なくなりました。

それがすごく残念でした。
それでも したかったので、奈良へ行って献血する所に行きました。


献血する前に問診票に記入しないといけないですが、過去に輸血した人は●をつけないといけないですが、私はそれにつけなかったです。

しかし過去に輸血をしたことが記録に残っていたので出来なく、それからは献血を諦めました。

その法律がないなら、今もずっと献血していると思います。


皆さんは良くしてもらったことはありませんか?
それを他の人たちに流していますか?


過去に終わった事として記憶にもないでしょうか?


【詩篇103編2節】

主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

このように言われてありますが、記憶だけしなさいという意味ではなく、自分が受けた恵みを流すようにするならば 決して忘れることが出来ないです。


自分が神に赦されたならば、他の人のことも赦します。

赦された人はそれがどんなに素晴らしいことかが分かります。


【マタイの福音書6章14ー15節】

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

私たちは罪赦されて “神の子ども” になりました。

ですから当然 神様は、私たちが人に対して赦すことを期待します。


しかし、(私たちが他人の罪を赦さず)期待外れになると、私たちが罪を悔い改めて赦しを求めても、神はそれには応じないと語っておられます。


【マタイの福音書6章14節】

もし人の罪を赦すなら、あなたがの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

神の力が私たちに与えられたならば、神は私たちがその力を持って他の人を立ててほしいと願っています。


知恵の力もあり、金銭の力もあり、健康の力、能力の力もあります。

それを使って人を助けることです。


神様が今日のことばでも “与えなさい” と命じました。

このように あらゆる恵みを私たちが流して行く時に、神が栄光を受けます。


元々それは神から流れて来たものだからです。


与えたらどのようになりますか?

与えた人も、受けた人も 共に神様から祝福を受けます。

しかし与えた人の方が何倍も祝福されます。


本文のことばにその約束があります。


【ルカの福音書6章38節】

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。

一番祝福を受ける人は、“与えた人” です。


神は偽りを言わない方であり、約束を真実に守る方です。


「与えると空っぽになり、損するだけで自分が困る」のではなく、何倍も主が報いて下さいますので さらに豊かになります。


その実例が聖書にも色々あります。

エリヤに与えた貧しいやもめが大いに祝福されました。


また 少年が差し出した小さい弁当で、5千人以上が食べる奇跡もありました。

与え続けた人が乞食になった話は聞いたことがありません。


反対に、たくさん持っていた人がすべてを失って乞食になった話はたくさんあります。

貪欲な心を持っていたイスカリオテ・ユダは結局祝福されることもなく自滅しました。


神様が自分に何かを与えて下さった時には、自分だけの恵みと思わず、それを誰に流そうか?と考えてみて下さい。


パウロは主の教えを守り通しました。

その告白が次の箇所にあります。


使徒の働き20章35節】

このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

私たちも主のことばを心に刻んで、与えることが習慣になるようにしましょう。
v( ̄∇ ̄)v


2016.11.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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すべての事について…感謝❤

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何度まで赦すべきでしょうか

テーマは 『 何度まで赦すべきでしょうか 』 です

【マタイの福音書18章21-22節】

そのとき、ぺテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

人間関係には色々と困ったことがあります。
愛したいのに愛せない悩みや 赦したいのに赦せない悩みがあります。

ある人たちは「死んでも赦さない」と言いますが、この場合は最初から赦す気がまったくありません。

こういう人はとても気の毒な人で、きっと誰から何を言われても絶対に赦すことをしないと思います。


赦さないことは、誰かに対して憎しみや恨みがあるということですが、それを死ぬまで持ち続けているなら安らかに眠れるでしょうか。その姿が気の毒に思います。

自分に対して罪を犯した人を赦したことがありますか。
もし赦したならば、それは立派なことです。

しかし、赦していない人がいるならば、その理由は何でしょうか?


今回は赦すことに対して考えたいと思います。


私たちが主のことばに従うために、また自分の心をきよめるためには赦すことをないがしろにしてはいけないです。

まず私たちが自分に対して罪を犯した相手を赦すためにすべきことがあります。




①自分を捨てる道理を学ぶ




本文で、なぜぺテロが「七度まででしょうか」と言ったのでしょうか。

時代背景を考えてみましょう。
ユダヤ人は少なくとも兄弟を3度赦すならば、その人は心の広い寛容な人で立派な人格者だと言われました。

ですからぺテロが「七度まで」と言ったのは、それよりもさらに自分は人格者であることを示したかったと思います。

その心を知っているイエス様は彼の自己中心的な思いを壊すために「七度」を「七十倍」と言いました。


赦しと愛は、人間の義の根拠ではなく誇りにもなりません。
なぜなら、まず神様が私たちを赦し、そして愛してくださったからです。


【Ⅰヨハネ4章10節】

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

“自分には愛があり、心が寛容だから人を赦せる” という思いを捨てて、自分はすでに神様の愛と赦しを受けた者だからこそ神様に借りができているので、私たちもイエス様のように人を愛し、赦していかなければなりません。


また、間違えた教えを捨てなければなりません。


「七度までですか。」とぺテロが言った背景には ユダヤ人の教えがあり、その教えは神から出たものではなく、律法学者などによって教えられたものでした。


赦しの限界を決めて、その限界の中だけで赦しますと言うならば、そこには赦さないと言う意味が含まれています。

人を愛する時に、時間や限界を決めるのではなく、無限に愛するのです。




②終わりのない赦しを学ぶ




イエス様は「七度まででしょうか」と聞いたぺテロに対して「七度までなどとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」

これを計算してみると490という数になりますが、ぺテロが提案した“七度” という数がこれで拒否されました。

主の答えは、赦すのは490度までしなさいということではなく、赦しには限界がないことを意味しています。


人々は他人の過ちを“赦す” と言いながらも、相変わらず過去の嫌な記憶をそのまま心に入れて生活をしています。

そして、また同じ相手から嫌なことをされたり、自分に対して罪を犯したりすると過去の記憶まで思い出し、そのことを再び責めて相手を非難します。


神様が私たちに見せた赦しをみるならば、真の赦しがどういうものかがよく分かります。

私たちが罪を犯した時に、神様は1度赦してくださった(今までの)罪を思い出して私たちを責めたことがありません。それはなぜでしょうか。

聖書には神様の赦しは完全な赦しであることを示すことばがあります。


【イザヤ書1章18節】

「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。


【イザヤ書44章22節】

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを購ったからだ。」

神様の赦しは私たちの罪を完全に忘れることでしたので、私たちの赦しもそのような赦しでなければなりません。


赦したと言いながらもいつまでも過去のことを思い出して責めるならば、それは赦していないことです。

490回だとイエス様が言ったのは、神様が私たちに見せた限りない赦しのように私たちもそのようにしなさいと命令しているのです。


赦しとは、単純に「赦します」 と言葉にすることではなく、自分たちの思いや記憶から消していくことです。


「人間生きている時は誰にでも過ちはある。人を傷付ける時もある。」と思いながら心から赦すことが必要です。


地獄には、“人を赦さない人たちが入る場所” があります。


心の中で妻を赦していない牧師に、イエス様はその場所を見せながら「ここはあなたが来る場所だ」と言いました。
あまりにも驚いた牧師は「妻を赦します!赦します!」と叫びました。

この経験は牧師にとってあまりにも恐ろしいものでした。


人を赦すように命じたことばは聖書に多いです。


【マタイの福音書6章14-15節】

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父も あなたがたの罪をお赦しになりません。


【マタイの福音書18章35節】

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。


【マルコの福音書11章25節】

また立って祈っているとき、だれかに対して恨み言があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、 あなたがたの罪を赦してくださいます。


【コロサイ3章13節】

互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、 あなたがたもそうしなさい。




③十字架の愛を学ぶ




赦すように語った主のことばの中に必ず天の父ということばが共に出てくる理由は何でしょうか?


それは私たちが天の父から赦しを受けなければならない存在であるからです。


私たちは罪人ですから、神の赦しが必要になります。


自分自身が神様の赦しが必要なのに、人を赦さないで神様の御前に出て「私の罪を赦して下さい。」というのは話にならないことです。

瞬間、瞬間 罪を犯しながら生きている人間に、神様の限りない愛と赦しがないならば、人間は絶望的になります。

そしてその罪のために皆 滅ぼされてしまいます。


イエス様は私たちの弱さを知って私たちをただ責めるのではなく、罪のない方が私たちの罪を負って十字架にかかりましたし、自分を十字架につけた者たちに対しても 十字架の上で赦しのことばを語りました。

イエス様はペテロに対しても限りない愛と赦しをはっきりと示しました。

自分の命を守る為に3度もイエス様のことを知らない人だと言い、また呪いまで口にしたペテロに対して、復活した主は彼に会い、回復されました。


【ヨハネの福音書21章17節】

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と 言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」 イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

ペテロを赦し、ペテロを愛し、そして回復されました。これが真の赦しであります。

私たちも早くこのようにしましょう。

相手が生きている時にして、そして自分たちも主に赦していただきましょう。
(´∀`*)

2014.12.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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