からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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赦し

あなたは正しい者ですか、それとも罪人ですか

テーマは 『 あなたは正しい者ですか、それとも罪人ですか 』 です

【ルカの福音書5章27-32節】

「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。

するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。

そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。

すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」

そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

皆さんは自分を正しい者と思っていますか。それとも罪人と思っていますか。

これはとても重要な質問です。

この質問に どのように答えたら良いか、困るでしょうか。

自分を正しい者と言う勇気もないし、罪人と答えるのも嫌な感じがするし、「どちらでもありません」というのが一番無難な気がしますか?


日本は先進国の中で一番クリスチャンが少ない国です。

少ない理由は色々あると思いますが、自分を正しいと思う人が多く、罪人という認識が少ないことがあるかも知れません。

そもそも罪がどういうものか知らないのが問題かも知れません。


そして日本には “本音と建て前” の文化があります。

文化と言えば悪いものだと思わない傾向がありますが、それは偽善者または二重人格者と何が違うでしょうか。

偽善者だと思います。

もし皆さんが他の人から「あなたは偽善者で二重人格者です。」と言われたら すごく腹が立ちますし、良い気持ちがしないですね。




偽善者の姿




偽善者の姿をちょっと見てみたいと思います。

ルーマニアで最も影響力があったリチャード・ウォンブラント牧師ですが、この牧師はチャウシェスク独裁政権の時に、キリスト教の牧師であるだけの理由で捕まり 14年間も共産党本部の地下牢に入れられ、まともな食事も与えられず、日々拷問を受けて奇跡的に生き延びましたが、解放されて世界中を回りながら、その体験を語りました。


牧師はニュージーランドのクライストチャーチ市に行きました。
都市の名前が「キリストの教会」という意味です。

ですから、牧師はそこに住む人は全員クリスチャンだと思いました。

ある時、レストランで男性と合席になり、そこで会話が始まりましたが、その男性がクリスチャンではないことが分かりました。


牧師は「どうして教会に行かないのですか?」と聞きました。

すると男性は次のように答えました。
「教会に行くと偽善者が多過ぎて、私は教会には行きません。」

それを聞いたリチャード牧師は「私は教会に偽善者が多いので、教会に行くと心がとても楽です。なぜなら私も偽善者ですから。」と答えました。

皆から尊敬される立派な牧師が自らを“偽善者”と認めました。

そのことばの意味を私たちは悟らなければなりません。


皆さんは偽善者ですか。それとも「私は偽善者ではありません」と否定しますか。

今日の本文には偽善者の姿が出て来ました。

それはパリサイ人と律法学者です。彼らのどこが偽善でしょうか。

彼らの生活を見ると偽善的な姿は見えません。むしろ敬虔な姿です。


神のことばを文字通り守りますし、いつも聖書を読むし、よく祈るし、施しも熱心で、献金もよくささげ、落ち度のない敬虔な生活をしていました。

しかし彼らの心をとらえているものがありました。

それは他人に対する優越感、自分を正しいと思う心、それによって他人を裁いていました。

本文でもその姿がありました。


イエス様が自分たちが罪人だと思う人たちと一緒に食事しているのを見て非難しました。


別の箇所でさらに彼らの姿を見たいと思います。


【ルカの福音書18章9-14節】

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんで下さい。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

パリサイ人の姿は“高慢”です。神様が一番嫌う罪は高慢です。


高慢の基にあるのは「私は他の人よりましだ、もっと正しい」と思う優越感です。

この意識に捕えられると、自分より劣る人に対して 自分が審判者になって軽蔑したり、非難したり、裁いたり、また怒ったりします。

イエス様は このパリサイ人に向かって「まむしのすえたち、偽善者」と呼びました。

そのことばを聞いた時に彼らは怒り狂ってイエス様に対して殺意を抱きました。そして後になって十字架につけました。


なぜそこまでしたのでしょうか。
彼らは完全主義者だったからです。

彼らの一番恐ろしいことは、(外見は)謙遜で覆われている高慢です。

それがパリサイ人たちの典型的な姿でした。

教会の中にはパリサイ人のような偽善者もいれば、他人の行動を見てつまずいて 教会を離れるもう一人の偽善者もいます。


リチャード牧師と話をした男性も偽善者です。

なぜその人たちが偽善者だと思いますか。

その人たちが他人を裁く時には「私はあの人のように高慢ではない。私は偽善的ではない。あれでもクリスチャンか、あれでも牧師か、私ならばあんなことはしない」と自分自身を高く評価するからです。

それで教会を離れて、信仰を捨て、他の宗教に改宗する人もいますが、それはその人の信仰が不透明であったことを改めて見せていることです。


信じた時から クリスチャンは世の光、世の塩ですが、(周りが)暗いからといって光を放ちたくないと嫌がる光を見たことがありますか。

(味がなくて)美味しくないから 入って塩味をつけたくないという塩があるでしょうか。

そのような確信がないので 人を見て揺れ動き、他人を非難して人のせいにした挙句、神から離れます。


信仰生活は、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない(ヘブル12章2節)生活です。
信仰はイエス・キリストを信じることから始まり、生活はそれを持続することです。


信仰生活は、まずは神様と私たち自身の問題で、次に他の人たちとの間で生きることです。


それなのに他の人たちと生きることが嫌で信仰を捨てるということは矛盾していると思いませんか。


問題は他人ではなく自分自身にあります。
いくら弁明しても自分と神の関係がはっきりしないので心が揺れて人間関係につまずきます。

私たちは人を見て信仰生活をするのではなく、イエス様を見て信仰生活をします。

他人のあやまちや罪を見た時には祈り、自分もそのような罪を犯さないように、罪の誘惑に負けないように気をつけることです。


自分のことは棚にあげて、他人が悪いという偽善者たちにイエス様がはっきりと語りました。


【ルカの福音書5章31-32節】

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」





私たちは体の調子が悪いと病院に行きますね。

病院へ行くと、もちろん病人だらけです。そして あらゆる病気の人がいます。

それが嫌で病院へ行くのを諦めますか?

諦めるならば治る病気も治らず 痛みで苦しむか、病気が悪化して死ぬかです。
多分そんなことで病院へ行くのを諦める人はいないと思います。

医者に病気を隠すどころか、症状を一生懸命説明して、治してほしいと訴えます。


しかし教会に他の罪人が来るのを見て、それが理由で行かないとは自分の魂が死んでいくのに その自覚がなく、自分の魂が死ぬのを放置しているのと同じです。

罪は魂の癌であって、これによっては100%死にます。

また、罪の癌は神様に出会うまでは自覚症状が全くないです。自覚がないので軽く考えています。


日本人が信じている信仰は罪に対しては全く触れないです。
でも触れないからといって罪が存在しないということはないですね。罪は存在します。

イエス・キリストはそれに触れ、その罪を悔い改めるならば、その罪を赦し、そして罪に定めないと恵みを備えています。


それは恵みであり、難しくないですが、サタンはそこから目をそらさせ、そしてアダムとエバを騙したように「あなたは罪人じゃないよ。罪によって死ぬことはない。先祖たちもみんな天国に行ったよ。」と甘いことばでささやきます。

神の真実とサタンの騙しことばを人々に伝えると色々な反応があります。

特に日本人は真理は信じないで、サタンの偽りのことばを信じる人が圧倒的に多いです。

または「自分は罪が多いし、もっとまともになってから信じます」という人がいます。
これも偽善者になりやすい姿です。


なぜなら正直に、道徳的に、倫理的に清く生きることは素晴らしいことですが、それが自己義に変わる時に、それはパリサイ人と同じ悪を行うことになります。

自分が道徳的に倫理的にまともな人間だと思う人に罪人の認識があるでしょうか。

自分を正しい者と思うので、さらに救いからは遠くなります。
その人たちは神様を求めることをせず、自分の努力だけで生きるようになります。

でもそれで罪が消えるわけではないですね。


罪の問題は、神様の赦しを得なければならない次元です。努力では得られないです。

ですから その人たちは自分は罪が多いと言いながらも、実はそこまで罪に対する自覚がないです。

一見、謙遜な姿に見えますが、自分の力でなんとかしようとする高慢が隠れています。


そして自分の罪を全く認めていない人がいます。

目が見えない人の姿です。
正しい者でもないのに、自分を正しい者と勘違いしながら死ぬまで生きる人です。


また、自分の罪を認めてはいますが、自分は罪深い人間だから赦されることはないと勝手に決めてしまう人もいます。

病院では軽い病気は受け入れ、重い病気は受け入れないでしょうか。
絶対にそんなことはないですね。

重い病気の人が優先になります。


神様の赦しにも 重い罪も軽い罪もないです。






そして本文に出てきた人物レビのような人がいます。

レビは取税人です。
彼の仕事はお金はたくさん入りますが、評判の悪い仕事でした。

その理由は、不正な方法でお金を手に入れる人たちが多かったからです。

レビもそのような人だったと思います。

一般の人たちは彼らを罪人と呼びました。


イエス様は彼に目を留め、いきなり呼びました。
「私について来なさい。」とひと言言っただけで、何もかも捨てて、立ち上がってイエス様に従いました。

そして自宅に招いて大ふるまいをしました。それも他の大勢の人を招いて食事会をしました。


それには2つの理由があったと思います。

罪人である自分を招いてくれたことに対する感謝と喜びの気持ちを現すために自宅に招きました。
そして今までお世話になった仲間や愛する人たちとの別れの挨拶でもありました。

古い生活を清算し、新しい生活への出発を祝うためでもあったでしょう。


お金をたくさん手に入れて良い家に住み、毎日ごちそうを食べ、良い服を着て、良い車に乗り、外国へ旅行するのが人生の目的で、それで満足するために生きていますか。

レビはそれを手に入れていましたが、罪の意識だけは消えなかったでしょう。

罪人の自覚は、自分の中には罪があり、弱さがあり、汚い思いがあり、いくら努力しても自分という人間が変わっていないことを認める時に出てきます。


さらに謙遜さも それを認めるところから始まります。

罪に対する自覚があると他人に対する優越感と、優越意識が消えていきます。

そして自分には罪の赦しが必要であると救いを求めます。


レビはイエス様に従って12弟子のひとりになりました。

そして新約聖書のマタイの福音書を書きました。マタイとはレビの別名です。

イエス様の招きを受けたことで彼の人生は罪人から弟子に変わりました。


どちらが良かったと思いますか?

取税人の時の罪を犯しながら贅沢な生活の方が良かったですか。
それともお金もなく苦難も多い弟子になったことが良かったでしょうか。

実際 レビが取税人に戻っていないことを見ると弟子になったことが良かったみたいです。


罪人がイエス様を信じて損することがありますか?

――全くないです。反対に得することだらけです。

人々から罪人だと軽蔑されていたレビは、立派な弟子になり多くの人々からも尊敬される人になりました。






もしイエス様が「私は正しい人を招くために来た」と言われるならば、私たちは皆 その資格がないのです。

しかし罪人を招くために来たというので誰にでも受ける資格があり、とてもありがたいです。


そしてイエス様の魂に対する思いがどんなに強いかを語った箇所があります。


【マタイの福音書18章11-14節】

〔人の子は、失われている者を救うために来たのです。〕

あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。

そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

私も以前は迷い出た一匹の羊でしたが、神様の忍耐と憐れみ、恵みによって救われました。

それがなかったならば、この世がすべてと思って自分がどこに向かっていくのかも知らず生きていたと思います。


でも今は安心しています。
自分がどこに向かっていくのかを知っていますし、真理も知っています。そして永遠の世界も知っています。

自分を主の前で罪人だと認めたことによって得られた祝福はたくさんあります。

罪を告白しただけで赦してもらいましたし、受け入れてもらいましたし、神の子どもになる特権まで与えて下さいました。


こんな素晴らしい祝福を拒否することは本当に大きな損失です。

失った後に胸を叩きながら永遠に後悔することはないようにしましょう。


自分が信じたい時に信じるのではなく「きょう、もし御声を聞くならば心をかたくなにしてはならない。今は恵みの時、今は救いの時です。」と語ったことばのように、今日が恵みを受ける時と思って恵みを受け取って下さい。
(・∀・)つ

2015.6.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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今日の祈り

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殉教する人々

テーマは 『 殉教する人々 』 です

【ローマ8章35節】

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

キリスト教の歴史は “血の歴史”とも言えます。

まずはイエス・キリストが十字架につけられて亡くなられました。

十二弟子のイスカリオテ・ユダはイエス様を売ってから自殺しましたが、ほかの弟子たちはヤコブが一番最初に殉教し、そのあと全員が殉教しました。

パウロも殉教し、初代教会やローマ時代は実に多くの信徒たちが殉教しました。


ローマ帝政時代は300年のキリスト教迫害がありました。
その期間、数えきれないほどの多くのクリスチャンたちが殺されました。日本ではどうだったでしょうか?

日本のキリシタン迫害が世界の中で最も厳しかったと言われています。

1597年に長崎二十六聖人の殉教事件が起こりました。若い人たちが信仰のために殉教しました。
彼らが殺された場所には、記念館が建てられています。

徳川幕府のキリシタン迫害は最も厳しい迫害と言われ、250年間も迫害があり、多くの信徒たちが殉教しました。豊臣秀吉も迫害者でした。


これらの時代を調べてみると、迫害者は信者に「殉教者の道」を選ばせず、棄教するまで監禁して拷問し続けるという策を取りました。

その理由は、迫害者たちがキリシタンを皆殺しにすることは たやすいことでしたが、迫害者たちは(彼らを)棄教させないと、たとえ皆殺しにしても 彼らを自分たちの意に従わせられなかったという侮辱を受けたことになり、自分たちの負けになってしまうので激しく拷問を加えました。


拷問の方法はさまざまでした。

①火炙り…生身の人間を焼き殺す方法です。柱に縛り、苦しみが長く続くようにしました。

②穴吊り…特に残忍だったと言われています。深さ2m、直径1mほどの穴のそばに吊り台を立て、信者を吊り台から穴の中に逆さ吊りをする方法で、穴の底には汚物を入れていました。


信者たちはそれ以外にも激しい拷問を受けましたが、彼らはそれに負けず キリストを裏切ることもなく、自分たちの信仰を守り通しました。


現代は迫害を受け、殉教する人はいないでしょうか?

残念ながら現代も殉教する人は多いです。


シリアとイラクではイスラム国によって多くのクリスチャンが既に殺されてしまいましたし、今も殺されています。首をはねられたり、十字架にかけられたり、石を投げられて死んだりと、とても多くの信者たちが殉教しました。


何年か前にインドでもクリスチャンの家が600棟壊されました。

その時は西側からイスラム教が入ってくることに危機感を感じたヒンドゥー教徒たちがキリスト教に対しても激しく反発し100名がその時に殉教しました。

私はその時の映像を見ましたが、とても残酷な映像でした。

3人のキリスト教信者が多くのヒンドゥー教徒たちに襲われている場面で、棒で激しく殴る者や、足で蹴ったり顔を踏みつけたりとやりたい放題でした。

そして3人のクリスチャンは血を流しながら死んでいきました。心がとても痛む映像でした。


これは2007年4月に、トルコで起こったことです。

聖書配布とC.C.Cの文書の働きをするキリスト教出版社に5名のムスリムが礼拝のために入ってきました。

彼らはイスラム過激派の一員で、20歳前後の若者たちでした。
3ヵ月前から宣教師たちと共に聖書の勉強をしたり、人々に聖書を配ったりもしました。

キリスト教に関心を見せながら接近してきましたが、実は数ヵ月前から殺害計画を立てていました。


彼らは突然入ってきて銃で脅し、宣教師や兄弟たちを椅子に縛り、「イエス・キリストを否定し、そしてアラーの神を唯一の最高の神として受け入れるよう強要しながらナイフで拷問し始めました。

銃とナイフ、ロープやタオルをすでに準備して来た彼らは兄弟たちを残虐に拷問しながら、それをスマホカメラで撮影しました。


1人の兄弟は99回、ドイツ人宣教師ティルマンは156回もナイフで刺されました。ウル兄弟が刺された回数は数えきれません。

彼らは兄弟たちの指を1本1本切り落とし、鼻や口、そして全身を切り裂き、お腹の中から腸を出して、ほかの兄弟たちが見ている前でバラバラにしました。

現地人のウルは32歳の独身、もう1人の現地人には奥さんと子ども2人がいました。

2人は「私は、私の民族に神のまことの愛を伝えながら死ぬ準備が出来ています。」と話していました。

トルコは1000年前はクリスチャンが多い国でした。
アジアの七つの教会もありました。しかし現在はキリスト教は0.3%、イスラム教が98%です。


ドイツ人宣教師ティルマンは46歳で子どもが3人いました。

幸せだった宣教師家族、そして殉教した兄弟たちが一番耐え難かったのは、自分の傍で愛する兄弟たちが苦しみながら死んでいく姿を見ることでした。

殉教した3人の兄弟は、3時間も激しい拷問を受けましたが、誰もイエス様を否んだ者はいませんでした。

最後には3人とも首が切られて亡くなりました。


しかし この事件後、アンカラTVに出演したティルマンの奥さんであるスザンナ宣教師は、『彼らを赦します。なぜなら彼らは自分たちが何をしたのか知らないからです。』と 公開的に彼らを赦しました。

現地人として殉教した兄弟(ネザティ)はいつも「私はムスリムとして生まれましたが、クリスチャンとして死にます。」と言っていました。

最初に韓国人宣教師から福音を聞いて信じたネザティ夫人は、次のように言いました。

“彼はキリストのために生きて、キリストのために死んだので彼の死は 意味ある死です。
私は彼と共に人生を歩んだだけでも栄光だと思っています。そして私はこの地上で栄光にふさわしい人生を生きたいと願っています。”


その後、イスタンブール広場には数百人の隠れていたトルコ人クリスチャンたちが「私たちもクリスチャンだ。私たちも殺しなさい。」と叫びながら集まってきました。

聖徒たちは公に露出されたことで標的にされる危険があるにも関わらず、大胆にネザティの葬儀の場で見守っていました。

予想通りにテロ防止課警察が来て、参加者ひとりひとりの顔を写真に収めました。


日曜日、教会の門には“次はあなたの番”という紙が貼られていましたが、誰も恐れませんでした。

現地の教会の指導者たちは記者会見で “今後、このような悲劇が起こらないことを願います。しかし殺すなら私たちは死ぬしかありません。私たちは信仰で殉教時代を越え、続けて前進していきます。”と霊的宣戦布告をしました。


韓国人の宣教師たちも共に集まって殉教の血が虚しくなることがないように、すでに遺書を書き 最初の殉教者を出したトルコ人クリスチャンたちが迫害に対抗するためではなく、聖徒たちの忍耐のために、そしてトルコの地の救いのために断食祈りをしました。






ルーマニアで14年間も独房の中で迫害を受けた「生きた殉教者」と呼ばれるRichard Wurmbrand牧師の話を聞くと、気が遠くなるような苦しい思いになります。

はたして自分はそのような状況で耐えられるだろうかと自信がなくなります。

14年間、太陽や月、星、花、雪も見たことがありません。本や紙、ペンがなく書くこともできませんでした。女性や子どもも見たことがありません。

ただ看守と拷問専門家だけを見ました。


拷問の方法も色々とありました。
午前5時~午後10時まで正座させられ壁に寄り掛かることも許されませんでした。

時には1日中、スピーカーから流れることばを聞かされました。
「共産主義は良いものだ……キリスト教は愚かだ……もうキリストは信じない……。」
(洗脳するために)繰り返しこの言葉だけが流れました。

時にはまったく音がなく、何も見えず沈黙だけがありました。

それでも彼はキリストを否むこともなく、ほかの信徒たちの名前を口に出したことはありませんでした。
14年間、地下教会の信徒の名前を言えと拷問され続けましたが、ひとりの名前も出しませんでした。


また、インドではクリスチャン一家が住む家が放火されました。

わざと彼らの命を狙っていました。
14才の女の子は身体がすでに半分は焼けて、助けに入ってきた人に 女の子はこのように言いました。

「私はいま やっと十字架の苦しみが少し分かりました。イエス様がどれほど私を愛したかを少しは分かるような気がします。」と。







私たちはここで考えたいことがあります。

彼らが信じるイエス様と、私たちが信じるイエス様は 違うイエス様でしょうか?


彼らの中には何があって あのように生き、私たちの中には何があって 小さなことにも妥協しながら生きるのか。


私たちはたくさんの物を持っていながらも辛いと言うし、あまりにも不平不満が多いです。
さらに私たちはもっともっと欲しいと言います。


しかし、神様は言いました。
たくさん持っているものには多くのものを要求すると、私たちはメッセージをたくさん聞いていますし、本を読み情報を得ているので たくさん持っている者です。

しかし殉教している多くの人を見ると、彼らには多くの知識や賜物があるのではありません。


彼らは「イエスだけが唯一の救い主だ。」という、この事実だけに彼らは命をかけます。

「イエス・キリストの中に救いがある。主はキリストだ。」 この1つのことを 繰りかえし噛みしめながら信仰を守り通しています。


このように生きている人たちがはっきりと告白することばが、今回読んだローマ8章35節のことばです。


【ローマ8章35節】

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

さらに自分の命や家族よりも、キリストを愛して生きている人たちは次のような姿です。


【使徒の働き20章24節】

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私の いのちは少しも惜しいとは思いません。


【Ⅱテモテ4章7-8節】

私は勇敢にたたかい、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。 かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

アーメン ( ̄‥ ̄)=3

2014.11.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

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目的別みことば

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聖徒が逃してはならないチャンス

テーマは 『 聖徒が逃してはならないチャンス 』 です

【イザヤ書1章18節-20節】

「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。 たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。

しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、 主の御口が語られたからである。

先週は「今悔い改めなさい」という内容のメッセージをみなさんは聞きました。
そのメッセージを聞いて悔い改めた人たちがたくさんいると思います。

悔い改めた人たちにとっては、今という悔い改めのチャンスを逃さずに悔い改めたので、与えられたチャンスを生かした人たちです。

天国は悔い改めた人たちが入る所です。
“良い人”が入るのではなく、“悔い改めて赦された者”が入る所が天国であります。


地獄は“悪い人”が入るのではなく、“悔い改めるチャンスを逃し 罪を持ったまま”の人が入ります。


地獄へ行った人たちが1番願うことは、『私をここから出してください!出してくれるならば悔い改めます!』ということです。

地獄に来た人々は悔い改めのチャンスを逃したために自分たちがここに来ていることが分かっていました。
悔い改めをしなかったことが1番の心残りです。

ですから、地獄へ来ている人たちが1番欲しいと願っていることは「地上での悔い改め」であります。


チャンスは生きている時にしか得られないです。

そこで今回は、聖徒が逃してはならないチャンスが何か? をいくつか語りたいと思います。




①救いをもたらす悔い改めのチャンス




悔い改めない限り 救いはないです。
救いを受けるために悔い改めのチャンスを絶対に逃してはいけないです。

神様は初めから赦しの計画をもって罪人たちに語っておられます。


アダムとエバが罪を犯した時に、2人とも神様から離れて隠れていました。
しかし、神様は2人がどこに隠れているのか全てご存知です。

そこで神様は 怒って彼らを強制的に連れ出して厳しく責めたのではなく、彼らがどこにいるのかを知っていながら「あなたはどこにいるのか」と声をかけました。

「早く出て来い!」ではなく「あなたはどこにいるのか」でした。

これはすべてを知っておられる主のやさしい心から出たことばです。


本文でも「さあ、来たれ。論じ合おう」とやさしい言葉で語りかけています。
これは悔い改めのチャンスを与えていることばです。
神様は既に彼らを赦す計画で「出て来て悔い改めるならば わたしはその罪を赦す」と待っておられるのです。

このことばに耳を傾け、素直に応じて悔い改めるならば、神様はその人の罪を赦し、救いを与えてくださいます。


ここで私たちが反抗する心ならば、救いのチャンスを自分で捨てるようなものです。


神様は裁くために「出てきなさい」と言ったのではなく、裁くために「悔い改めなさい」と言ったのでもないです。

人間はとても心が頑なであります。

自分のために本気になって語ることばはいらないと言います。
そしてサタンは私たちを滅ぼすためにたくさんの偽りを言いますが、その言葉には素直に従順します。


サタンが何も言わなくても、人間は後ろをついて行きます。その道が死の道・滅びの道であるにも関わらず自らサタンの方へと進みます。

これが人間の姿であります。


私たちは最期まで諦めずに(人々に)悔い改めとイエス様を受け入れることを伝えることです。

私たちの周りには 心が頑なな人たちが大勢います。

それは人間が悪いからというのではなく、サタンの支配であります。サタンが(イエス・キリストを)信じないように妨害するのです。その人たちの心を頑なにして地獄へ連れて行く計画があるので そうするのです。


しかし神様が、私たちの周りの人たちのたましいを憐れむなら最期までチャンスを与えますが、最期のチャンスも逃してしまうなら後がないです。


そのような思いで私たちが福音を伝えることであり、「今日が最期かもしれない」という思いで罪を悔い改めたのかを自分自身に聞くことであります。




②主を迎え入れるチャンス




福音は悔い改めだけではないです。

悔い改めて、イエス様を自分の主として迎え入れなければならないです。


【ルカの福音書19章41節-42節】

エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、

言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら、しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。

イエス様は平和の主、救い主、慰め主、世界の光としてこの世に来て下さいました。
まずは選民であるイスラエルに来られました。

しかし彼らの反応は次の箇所にあります。


【ヨハネの福音書1章11節】

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

イエス様はご自分の国へ行ったのに、民たちは心を閉ざしました。
もし主を迎え入れていたなら、次のような祝福がありました。


【ヨハネの福音書1章12節】

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

すばらしい祝福を持ってイエス様は来てくださいましたが、民たちは『人間 イエス』につまずきました。

光(イエス様)を拒否し、神の子どもとなる特権も拒否しました。


その後の彼らは苦難の道を歩むようになりました。

イエス様の預言通り、AD70年にローマ軍が入ってきてエルサレム神殿をすべて壊しました。
これはイエス様を受け入れなかったので起きたことでした。

そして全世界に散らされ、どこの国でもユダヤ人は歓迎されず迫害されました。

600万人のユダヤ人が第二次世界大戦の時に殺され、国が再び建国されてからも常に戦争状態です。
今も彼らには覆いがかけられ、メシアを受け入れていない状態です。


歴史を支配しているのは神様であります。






今、プロテスタントとカトリックのことを研究しているところです。

このような書籍は日本でも売っていますが、普段 みことばにふれていない人が書いています。
このように信じていない人の観点ではなく、(準備が出来ましたら)聖書の言葉を通して正確に皆さんに教えようと思います。


黙示録を読むとカトリックの姿がたくさん書かれています。一体、何が間違えているのでしょうか?

こういうことは多分、クリスチャンの人も分からないと思います。


しかし、クリスチャンこそ正しく知らないと、惑わしの霊がたくさん来た時に騙されてしまいます。

そして教会の教えも、有名な先生だからといって、語ることばが全て真実かといえば、そうではありません。
大きな教会でも反キリストの霊が多く働いています。

世の中の色々なことに騙されないように、聖書のことばと照らしてプリントを配ろうと思います。


今の時代は、ただ教会へ行けば良いということはなく、その教会で正しい真理が語られているのかが大切です。


今は恵みの時、救いの時です。恵みを受けてはじめて私たちの信仰が成長し神を知るようになります。

しかし、まだ神を受け入れていない人は、誰かが福音を語る時は、今がイエス様に出会うチャンスなのです。
もしそれを逃したら、いつ誰がその人に福音を語るでしょうか?その後クリスチャンに出会うこともなく世を去る場合もあるのです。

私たちは伝えていかなければならないです。
拒否をする人たちもたくさんいますが、それは(受け入れなかった)その人の問題(責任)であります。




③献身・召命実践のチャンス




クリスチャンは恵みだけを受けて「あぁ良かった。天国に入るまで何もしなくて良いのだ。」ではないです。

マタイの福音書25章はクリスチャンに向けたメッセージです。
選ばれた者がどのように献身し歩むべきなのかを教えています。


一タラント、二タラント、五タラントがあり、これは召命実践のチャンスです。
召命は皆違います。皆が同じ賜物や同じ働きはないのです。神様は1人1人に応じて使命を与えました。

私たちは自分は神様からどんな召命を受けたのか知らなければなりません。
祈りながら主に聞いてみて下さい。「私は主のために何をしたら良いでしょうか」と。

ある者には一タラント、ある者には二タラント、ある者には五タラントを任せました。そして働くように言いました。


あなたが受けた召命を、実践によって実を結びなさいということです。

二タラントと五タラントをもらった2人は一生懸命働いて次のように報告しました。


【マタイの福音書25章20-21節】

すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、 ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。」

その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。 主人の喜びをともに喜んでくれ。」

その人たちは死に至るまで忠実な人でした。ですから このような素晴らしい決算が出来ました。
主人がその人の働きをとても喜び褒めてくださいました。このしもべは天国でたくさんの報いを神様から受けます。


そして、一タラントもらった者は何と言ったでしょうか。次の箇所です。


【マタイの福音書25章25節】

私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。

彼は働かず地の中に隠していたので、何1つ増えていなかったのです。その人は死ぬまで自分が(神様から)何をもらっていたのかを知らず、関心すらありませんでした。

働きが一切無いのです。土の中に入れましたので、それを主人に持ってきました。
主人は次のように言いました。


【マタイの福音書25章26-30節】

ところが、主人は彼に答えて言った。「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。

だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。

だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。」

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、 持たない物は、持っているものまでも取り上げられるのです。

役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

3人のしもべたちは、選ばれた信じる者なのです。

2人はきちんと主人の言葉通りに商売をして もうけました。
しかし1人は言うことを聞きませんでした。それは主人を侮ったことであります。


神様は怠け者、そして主人に対して悪い思いを持っている者は役に立たない者であるので、外の暗やみに追い出しました。外の暗やみの世界とは地獄であります。


私たちはチャンスを逃してはいけないです。「私はこんなに小さな働きだから…」ではないです。

どんなに小さな働きであっても、その時にそれが与えられたなら 一タラントであっても忠実に働くことが、すごく大切なことであります。


五タラントもらった人が二タラントの働きしかしていないならば、その人は怠け者です。五タラントには五タラントの働きが必要です。

働きは、教会だけに限られていないです。どこにいても私たちは主のみこころに従うなら、働く場所があるのです。
私たちが働く場所は人間なのです。他人に仕えることです。

家庭でも私たちはクリスチャンとして仕える働きがあるのです。


主が喜ぶ働きをするなら、立派な奉仕です。24時間どこででも私たちは奉仕が出来るのです。




献身のチャンスとは?




自分の召命のために働くことも献身ですが、あなた自身を捧げないと出来ないことがあります。

これは誰にでも出来ることです。

そして献身のチャンスを逃した人たちの言い訳の姿は次の箇所です。


【マタイ25章44-45節】

そのとき彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、 お世話をしなかったのでしょうか。』

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、 この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

最も小さい者は私たちの目には入らないでしょう。
これは献身する思いがないと、自分を捧げることができないです。
自分のものを主張しないことであります。


聖書で見るならば、良きサマリヤ人の姿です。
憐れんで手を差し伸べる者こそが神様が求める者であり献身であります。

愛と関心、そして自分がその人に対して何かをしてあげようという思いがあれば出来ます。


「私は助けるものがなくて出来ません。」というのは全て言い訳であります。
私たちは有り余って処分するのが困るくらい持っているのです。

それなのに、本当に困っている人がいるのに助けないのは無関心の姿であります。


私たちはいつもアンテナをはって「私が助けなければならない人はどこにいるのか。」と、見ることであります。

私たちは与えることが愛であります。相手から返してもらおうと思うのは計算をしたことになります。


このチャンスも生きている時にしかできないです。本当に困っている時に知らんぷりではなく、食べ物を与え、着る者を与え、助けることが必要です。




④再臨の主を迎えるチャンス




このチャンスを逃したら本当の意味で終わりです。


【ルカの福音書17章34-35節】

あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台で男がふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

これは再臨の主が来られる前の姿です。

イエス様は雲に乗って来られ、既に亡くなった聖徒たちが復活し、地上に残された聖徒たちが天に引き上げられます。


その時にクリスチャンたちの中でも、ふたりのうちひとりが残されるのです。

引き上げられる人と残される人の違いは、主が再臨することを常に知っていて準備をした人と、いつ来るか分からないから今は飲み食いしよう、人生1度きりだから楽しいことだけをしようと準備をしなかった人です。


神様は準備をしている者としていない者の違いを教えてくださいました。

目を覚ませというのはクリスチャンに言っていることであります。主は必ず再臨なさいます。

そこで残されたクリスチャンは悲惨であります。なぜなら大患難に突入するからです。


大患難は私たちが地上で考えたことも聞いたこともないほどの患難だと言っています。
今 信仰を持たなかった人が患難の時に反キリストが出て来て“666”を受けないと何も買えない状況になった時に、果たして信仰は見られるでしょうか?

ものすごく厳しい時代になると思います。




再臨の準備はどのようにしたら良いのか?




仕事を辞めて、祈りとみことばを読む生活をしたら良いでしょうか?と言う人がいますが、イエス様はそういうことではないと語られました。

それはイエス様が望む姿ではないです。次の箇所で良い助言が与えられています。


【Ⅰペテロ4章7-10節】

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。 愛は多くの罪をおおうからです。

つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。

それぞれが賜物を受けているのですから、 神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

これは再臨を準備する姿です。

私たちは毎日の生活の中で準備をするのです。イエス様が喜ぶ生き方をするのが準備をする姿であります。

特別なことではなく、主は ここで3つのことを語りました。


・互いに熱心に愛し合いなさい(8節)

愛は神様から出て来るものであります。神様の兄弟姉妹たちに語ることばです。

・互いに親切にもてなし合いなさい(9節)

教会で食事をすることも、これは愛する姿であります。親切にもてなし合う姿です。
初代教会にその姿がありました。それを私たちが今 実践していくことです。


・互いに仕え合いなさい(10節)


この3つを私たちが実践していたら、その人たちはきちんと再臨の主を迎える準備をしている姿であります。
このような人は非難されるところがないので 何も心配する必要はないです。

これを日々行うことが未来を準備する姿であります。Ⅰペテロ4章7節の「心を整え身を慎む」姿です。

物を蓄えるのは、私たちの魂を救うことは出来ないです。


今、神様によってチャンスが与えられていること自体が恵みであります。今日 生きている者はチャンスがあります。

「明日から」というのはサタンが与える言葉です。どんどん先延ばしにして私たちが出来ないようにします。

ですから、今から行動する人がチャンスを逃さない人であり、「明日からします。」と言う人はチャンスを全て逃す人です。


今からしないといけないのだという思いで全てのことをして欲しいと思います。
(・∀・)

2014.7.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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救いは神からの賜物

テーマは 『 救いは神からの賜物 』 です

【エペソ2章8-9節】

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

救いは、キリスト教信仰の基本です。
聖書では救いのことを色々なことばで表現しています。

救いが何かをはっきりと知らないと、救われましたと言っても それが何になるのかが分からないです。


様々な宗教では “たましいの救い” について、ほとんど聞いたことがないと思います。

また、クリスチャンであっても救いについて聞かれると きちんと答えられない人が多いです。
中には「私、本当に救われたのでしょうか?確信がありません。」、「救いとは何ですか?」と言う人もいます。




今回は、救いがどういうものであるのかを はっきりと伝えていきたいと思います。


まず、この救いとは人間にとって命のようなものです。

命以上に大切なものはありますか?これは私たちが肉体と共に持っている命のことではないです。

この命とは、私たちが地上を離れてから “永遠に生きるのか” 、 “永遠に苦しむのか” どちらかのための永遠の命のことです。


そして聖書の中で色々な言葉で救いのことを表現しています。

例えば、「永遠のいのちを受けた」、「罪の赦しを受けた」、「生まれ変わった」、「神の子どもになった」、「イエス・キリストを私の救い主として受け入れた」、「私はイエス・キリストを信じます」、「神様と和解した」、「天国の民となった」、「神から義と認められた」 これらは全て救いのことであります。


ですから どの言葉をとっても “救い” は私たちにとって大切なことですが、人々はそのことに対して どのような反応をしているのかと言えば、ピンと来ていないです。


ここで1つの質問をしてみたいと思います。



1.あなたにとって一番重要な問題は何ですか?



「あなたにとって一番重要な問題は何ですか?」と聞かれたら、どのように答えますか?


色々な答えがあると思います。
ある人たちは「健康です。成功です。勉強です。携帯です。お金です。家族です。」など色々あると思います。

人は自分が一番重要だと思うことをいつも考え、目指し、また求めます。

聖書は、そのような姿を見て語ることばがあります。


【マルコの福音書8章36-37節】

人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。

自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。

イエス様が語るのは肉体のいのちではなく、永遠のいのちのことを語っています。


全世界よりも永遠のいのちの方が重要であるのに それらに関心がなく、人々は消えていくものばかりに関心があります。

ですからイエス様は このようにその人たちに語りました。


さらに質問があります。


≪ 今の人生に対してどう思いますか? ≫


このように質問をするならば、人々は色々な答えを言います。

「何の問題もなく楽しいです。」、「まあまあ満足していますので救いは別に要らないです。」
またある人々は「むなしいです。不幸でつらいです。死にたいです。消えて楽になりたいです。救いなんかあるわけないでしょう。」

このどちらの答えも、救いは私とは関係のないものだと思っています。
救いを受ける真理に関心がありません。


ですから福音を聞いても「やめて。私は聞きたくないから。救いなんか私にはどうでも良いことだ。」

教会に来てくださいと誘っても「入りたくない」と言います。



2.自分に対してはどう思いますか。死んだ後は?



自分たちで好きな神々を作り それを信じます。

「自分に対してはどう思いますか?」と質問をしても、言い訳のようなことを言って自分は知恵ある者だと思って「聞きたくない」と言います。

死後のことは哲学ではないので、哲学者の思想を聞く必要がないです。
あなたは何者ですか?それこそ己を知ることがどれほど大切であるか分かりません。


ここでも色々な答えがあると思います。
「私は罪を犯したことがないです。」「私は良い人だと思います。」「私は今まで真面目に生きてきました。」と自慢をする人もいます。


しかし、“あなたは一体誰ですか?”と聞かれた時に、本当の自分の姿は『罪人』であります。

自分の目で 自分を見ても分からないと思います。


「懲役○年生きてきた」、「執行猶予を受けた」という人だけが罪人というわけではないです。


もしも「私は生まれてから一度も罪を犯したことがない」という人がいるなら、その人は世界中で1番の嘘つきであります。


私たちは数々の罪を犯して生きてきましたが、罪人という認識がないだけです。


私がイエス様を受け入れたのは、初めて自分の心に響いて来た主の声を聞いた時でした。
「あなたは罪人ではないのか?」という声を聞き、私はびっくりしました。

もちろん 悪いことは1つもしていないとは思っていませんが、罪人という認識がまったくありませんでした。
それまでも教会へ行ったことは何度もありましたが、賛美が良いとか雰囲気が良いとか、本当に見物人でした。自分の事など分かっていませんでした。
「あなたは罪人ではないのか?」という声は、私をあわれみ私を救おうとした主の導きでした。


そしてなぜか分かってきました。自分が罪人であることが。それで涙が溢れ出て30分以上も泣き続けました。
その後に私はイエス・キリストを自分の救い主として受け入れました。
そこからの私の人生はものすごく変わって「この神様は私にとって1番」という想いになりました。


【ローマ3章10節】

義人はいない。ひとりもいない。

これは神様から見た時に、「罪がないです。」と言える人は1人もいないということです。


【ローマ3章23節】

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

「私は罪を犯していません。」と言うなら、神様はその人が産まれた時から今までの行動をすべて見ていますので、
その姿を神様がパノラマのように見せる時に大恥をかくと思います。

私たちが罪に対して鈍かったので、罪を罪とも思わなかっただけであります。


すべての人間は罪人です。
そして、この罪が私たちにもたらす結果があります。次の箇所です。


【ローマ6章23節】

罪から来る報酬は死です。

ここでの「死」とは、神様から引き離された永遠の死であります。
死んだら「無」になることではなく、死の地獄で永遠に苦しむという報いであります。


例えば、人を何人も殺した殺人者が捕まり 裁判を受けたとします。
もし裁判官がその人に「あなたは懲役1年です。」と判決するならば人々は何と言うでしょうか。
「それはおかしい。何人も殺したのに1年は軽すぎる。もっと厳しくしないといけない。死刑にしなければならない。」と怒るでしょう。


犯した罪が軽いか重いかという以前に、罪から来る報酬は死であります。
それは自分が刈り取らなければならないのです。

神様の前に立った時は 私たちもそのような姿です。そして神様の前に立つと裁判が行われます。
その時は自分たちが考えていた以上に違反行為が出て来ると思います。


神様が最後に「あなたは死だ」と言うならば、永遠の死を受けなければならないのです。

「そんなこと分かるはずがないでしょう?」と言う人たちがいるかも知れませんが、聖書には変わらない真理があります。次の箇所です。


【ヘブル9章27節】

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

1度死ぬことに対しては誰も反論ができないです。なぜなら生まれた人間は必ず死ぬからです。
それは議論する余地もないです。

しかし、その後のことには考えない人が多いです。
「死んだら終わり」と言うのは―― 果たしてそうでしょうか?


肉体が死んでから神のさばきがあることを語りました。この死後にさばきを受けることの方が恐いのです。
なぜなら、地上よりも死後の世界の方が、永遠に続く世界だからです。人々はここで一番つまずきます。


死後の世界は、夢ではなく、現実の世界であります。


人々は「死んだらすべてが終わりだ。死んでみないとわからない。そんなのよくわからない。考えたくもない。」
日本では「死」という言葉がタブーになっています。誰もが必ず死にますが、それについては触れないです。
しかし生まれることについては すごく喜びとしています。

「死についてのことは何も言うな。聞きたくない。そんな話はしたらいけない。」と言います。


しかしキリスト教では、それがすごく大切なことですので、私が牧会する教会では死に対してもたくさん語ります。
なぜならそれが現実であり、その後の世界は実在するからです。



3.罪人たちが救われる道はありますか?



地獄へ行っている人たちは、私たちが想像も出来ない苦しみを受けています。


イエス様は地獄が実在することを私たちに知らせたいので、神様からの特別な恵みで信徒たちに地獄を見せることがあります。地獄にいる人たちがイエス様に向かって同じ言葉を語ります。

地獄の炎の中で苦しんでいる人々が叫びました。「ここから出してください!地上に1分でも良いから、1秒でも良いから出してください!」

そして彼らは「私たちが出たら必ず悔い改めてイエス様を信じます!地獄から出られたら何でもします!」と願います。


信じなかった人々、地獄なんか存在しない、地獄に行っても別に構わない、と言った人々が、実際に耐えられない地獄におちると それが彼らの現実となります。


イエス様は「それはできないんだ。もう遅い。人間は生きている時だけチャンスがあるんだよ。」と語ります。


「私は地獄へ行っても構わない。行ってやろうか?地獄の方が私には相応しいかも!」と言うのは、地獄があることを信じて語る言葉ではなく、皮肉で語る言葉です。そんなことがある訳が無いでしょう?という思いです。




もともとサタンは、御使いが堕落してサタンになりました。
御使いはもともと神に造られたものなのに、御使いが「神になろう」と神の権威に挑戦をして滅ぼされました。


アダムとエバが堕落した理由も同じです。
サタンが近づき誘惑し、「善悪の知識の木の実を食べたら、あなたたちも神のようになる」という言葉を使いました。
サタンは “神のようになりたい” と思い、サタンが人間を誘惑した時も “神のようになれる” と言いました。


日本でよく言われる “仏になるんだ” という言葉は、人間として生きてきた者は死んだら “神になる” ことを指しているのです。

これはサタンの思想であります。自分たちの思いと語る言葉が「神のようになりたい」という高慢な思いです。
人間が神に生まれ変わるはずがありません。

しかし、サタンはそのような思想を人間の思いに入れるのです。

真理の言葉には耳を傾けないのに、自分たちの都合の良いようにそれを信じています。


罪をたくさん犯した者が 聖い神様になれるわけがありません。




先ほども言ったように、罪人として死ぬならば永遠の死を刈り取ることになります。

すると私たちは「罪人たちが救われる道はないのですか?皆が地獄に行くしかないのですか?どうせ地獄へ行くなら、自分の欲のままに生きても良いじゃないか」と思います。

しかし真理を知ると悟りが来ます。
神様は1つの救いの道を用意してくださいました。


天国への道は 1つであります。この たった1つの救いの道を信じるならば救われるのです。


世の中には多くの宗教があります。それらの宗教が語る言葉と、キリストが語る言葉の違いを1つ伝えます。

世の中のすべての宗教は「善行をすれば、その行いによって極楽へ行く」など 必ず “行い” のことを語ります。
「たくさん捧げたら…」、「たくさん良いことをすれば…」
これはカトリックでもイスラム教でも仏教でも言います。


しかし、今回の聖書テーマ箇所で≪ 行いによるのではありません ≫と書かれていました。

どんなに良い行いをする努力をしても救いを受けることはないのです。


例えば、良いことばかりをしてきた善人がいたとします。

しかし、その人がある時に誰かを殺してしまったとします。
裁判に掛けられた時に「私の人生を見てください。私は今までずっと真面目に生きました。他人にも良いことをたくさんしました。ですから、このたった1つの殺人を犯した罪を許してください。私は本当に何十年も良いことをしてきました。」と言ったとすると、

裁判官は「分かった。あなたは1つ悪いことをしたが、今までは良いことをしてきたので罪は無いことにしよう。」と言うでしょうか?絶対にそうはならないです。

裁判官は「今まで良いことをしてきたのは分かった。だが殺人は罪であるから あなたは刑務所に入らなければならない。」と言うでしょう。


罪はあくまでも「罪」なのです。
良い行いは「良い行い」としてありますが、その良い行いによって 罪が消されることはありません。


このように人間の努力では罪を消すことが出来ないので、神の方から提示しました。
その提示が、救い主イエス・キリストを信じることでありました。


【使徒の働き10章42-43節】

イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。

イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

イエス・キリストの十字架には、私たち罪人のために代わりに罪を負って死んでくださったという意味があります。


本来ならば私たちが死ななければならないのに、(私たちが神の御前に立った時に)イエス様が出てこられて「この人の罪をわたしが背負います。わたしがこの人の代わりに死にますので、どうかこの人を解放してください。この人の罪を赦して下さい。」と言うならば身代わりになるということです。

それによって私たちの罪が赦されるということを主が語ってくださいました。


イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。


救いの道、神様の国が救われた人たちの行くところであります。
しかしそれはイエス様の十字架を通らなければ入ることが出来ないとはっきりと言われました。


【使徒の働き4章12節】

この方以外には、だれによっても救いはありません。 天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は、人に与えられていないからです。」

世界のあちこちで「ここに救いがあります。」、「ここにも救いがあります。」と言います。
それなのに、どうしてキリスト教だけが救いがあると言うのですか?それはおかしいでしょう?と反論をします。


その人たちに私たちが示さなければならないことは、「あなたたちの信仰の教祖が、あなたの代わりに死にましたか?その人は神から出た者なのですか?その教祖も罪人なのに誰がその罪を背負うのですか?」


教え自体は良いかも知れないです。ですが 私たちはその教えのことを言うのではなく、「本当にその教祖があなたの罪をどのようにしたのですか?」という部分です。

罪が赦されていないと私たちは地獄へ行くしかないのです。


ですから どんなに教えが良いものであっても、真理ではないです。
それを私たちは言わなければなりません。


救いは神が決めたことを信仰によって受け入れる時に神からのプレゼントとして与えられます。

私たちは信じることだけで、その代わりに何かの代価を払う必要もないです。
「キリストが私のために十字架にかかったことを信じます。」という1つの言葉だけで救いがあるのです。


しかし、世の中の人々の「ふーん。そんなことで救われるの?」と言う人たちに語る言葉があります。


【Ⅰコリント1章18節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

「何もせずに、そんなにすごいこと(救い)を受け取れるなんておかしい」と言います。
なぜならば、今まで散々「良い事をしなければ、努力をしなければ…」という行いが強調されて聞かされてきたからです。

私たちは生きているうちに救いを受けておかなければならないです。


赤ちゃんは母の胎内にいる時に男か女か性別が決まります。生まれてから決まるのではないです。
それも親が性別を決めることはできなく、神様が既に胎内にいる前から決めています。


これは何を意味しているのでしょうか ――?


私たちが地上で生きている時というのは、胎内で生きている命と同じであります。そして胎から出た時に救いを受けていたか受けていないかによって、そのたましいの行く所が決定されます。

ですから私たちは地上にいる時に、自分で行き先を決めなければならないということです。


自分が今 天国に向かって歩んでいるか?それとも地獄に向かって歩んでいるかをよく考えて下さい。
地上にいる時に、自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを受け入れ、日々主と共に歩むならば神の御国に入ることができます。


私たちはいつ死ぬかは分かりません。神様は今が恵みの時、救いの時だとおっしゃいます。

地獄へ行って一番びっくりするのは本人であります。

「実際に地獄があることを知っていたならば、生きていた時にキリストを信じれば良かった」と実感すると思います。


また、口先だけで「信じます。」と言えば良いのだと錯覚をしてはいけないです。


救いの内容がどのようなものであるのか、自分が罪人であることをはっきりと知り、「キリストが私の罪のために既に十字架にかかって死んでくださり、 この方以外には救いがないということを私は信じます。受け入れます。そして感謝します。」

このように理解をして信じないと意味がないです。


自分の命の恩人が誰なのかも知らないで、どのようにして自分が救い出されたのか、救いがどういうものなのか、自分の正体がどんな者であったのかも知らず、 教会に来ているから救われていると思うのは とんでもないことであります。

何十年教会に通っていても、自分の受けた救いが何なのか よく分からない人たちもいます。

ですから、私たちは正しく みことばを通して知らなければならないです。 ( ̄‥ ̄)=3

2014.7.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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心の掃除をして成長しましょう

テーマは『 心の掃除をしましょう 』です。

【Ⅰヨハネ1章8-10節】

今年1年を振り返ると、時間が経つにつれて信仰が生温くなっている心に気付きました。
心の温度が変わっています。目標を立てたにも関わらず、今では怠慢であることがわかります。

悔い改めて、心を立て直すことが必要です。
Ⅰヨハネ1章10節のみことばは、その人の心に神様のことばがなく、
罪がどういうものなのかを知らないという人です。 
【 使徒の働き2章 】に悔い改めのことが書かれています。

悔い改めると罪が赦されますが、このみことばを聞いて腹を立てる人は、パリサイ人であり、
頭の中だけでみことばを理解している人です。

「 悔い改め 」は素晴らしいものです。
罪で裁かれず、神様に立ち返るならば罪が赦され、それは恵みになります。

私たちは手・足・言葉・身体の罪には気付きますが、心の罪には気付きにくいです。

神様が共にいる場所は、私たちの心の中であります。その心の中が主に似ているものにならなければなりません。
神様との深い交わりをするために心の掃除が必要です。

もし、肉の思いで心が満杯なら、神様はその中に入ることができません。

心の中を変えていく時に、神様が働きます。
悔い改めなければいけないものがあるにも関わらず、悔い改めない者。自分で気付いています。
心の中にそういうものがあるならば、そのままにしていてはいけません。

イエス様を見上げながら悔い改めます。
自己中心的なものが多いです。思うまま、自分の為だけに動くことは神様の思いとは違います。
自分が神のようになっています。

そして「 愛 」の部分はどうだったでしょうか?【 Ⅰコリント13章 】
自分の姿と比べてどうでしょうか。私たちは計算的に動いていないでしょうか。
しかし、イエス様の愛はそういうものではありません。

神様を愛する心が足りないから、霊的なものに投資をしなく、
愛があるならば 神の働きをとても喜び、共に過ごす時間が多くなります。

神様は「 あなたたちの行動は計算ばかりでケチだな 」と見ておられます。
神様は私が愛の姿になるのを見たいと願っておられます。

柔和なイエス様に対し、私たちは心が冷たく鋭いです。そのような姿を見て神様は喜ぶでしょうか?
喜ばないですね。

他人に対する赦しは、私自身の罪を赦すことです。
何十年前にイヤなことをした人に仕返しをしたいと思うならば、赦していないということです。
自分が罪を犯すなら罪人になります。
その人を赦してあげなさい。 あとは神様が正しく裁いてくださいます。
あなたがその思いから解放されます。他人を赦すならば、さらに赦される者になります。

「 熱心さ 」に対して、聖書には生ぬるいクリスチャンが多いという言葉が多いです。
(様々な事でも)冷たいものと熱いものはくっつけないです。
冷たいものは、冷たいもの。熱いものは、熱いもの。信仰も熱心な人同士が一緒になり、さらに熱くなります。
生ぬるい者と熱い者は一緒にはなれません。

自分の姿は、以前よりどうなったでしょうか?  ――再び、心が熱くなるように。
神は深い交わりをしたいと思っておられます。あなたの姿を変えていきなさい。
頑なな心は、ますます氷のようになります。→その人にサタンが働き、餌食になります。
心に神様が存在しないので、ますます状況が悪くなります。

部屋の掃除をするときに、心の掃除も同時にしたら良いです。
聖霊様に「 どこを悔い改めが必要でしょうか 」と祈り、イエス様と自分の姿を比べるようにしましょう。

2011.12.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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