からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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貧困

患難の時に取るべき態度

テーマは 『 患難の時に取るべき態度 』 です

【ヨハネの福音書16章33節】

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

昨年の9月15日に息子と車で熊本県へ行きました。
阿蘇山の近くを通りましたし、黒川温泉にも行きました。

その少し前に阿蘇山の噴火もありましたが、大きなことにはならず収まっていました。


良かったと思いながら阿蘇山を見ました。

それが今回とんでもない地震が起こってしまいました。


日本中で誰一人この時に、このような大きな地震が熊本で起こるとは予想もしていなかったです。

地震の専門家たちも皆 驚いています。


綺麗な景色を楽しんだ昨年のことを思い出しながら、地震のニュースを聞くと 心苦しくなります。

今はその地域全体が 不安と苦しみに満ちた場所になりました。


ずっと余震が続き、雨も降っているので最悪な環境ですね。

ライフラインが寸断されたので生活が出来ないことが一番辛いと思います。


以前、この教会で1年間奉仕をしてくれた南さんが熊本の教会で働きをしています。

昨日“ライン”で安否を聞きましたが、今朝になって無事に避難をしていることと、教会や信徒たちも無事である連絡がありました。

断水で大変であること、祈りの要請などがありました。
皆で祈りましょう。


突然の患難に見舞われた人々を見て、それが他人事ではなく、自分たちも いつこのような患難に遭うか分からないなと改めて思いました。


イエス様が弟子たちに語った今回のことばは、患難の時に私たちが取るべき態度を教えています。


イエス様も激しい患難を通った方でした。

誕生した時から、患難の連続でしたので、患難の中にいる人たちの心境を誰よりも知っています。


患難の時に取るべき態度を主のことばから学びます。




・患難は誰にでもあることを認識する




聖書は繰り返して信じる者にも 熱心に主に仕える者にも 患難があることを話しています。


“患難がない” と言われたことがありません。

ですから患難が来た時に「どうして私に患難を与えるのですか」と戸惑うことも、つぶやく必要もないです。


信仰があっても、バラ色の人生で 患難がない人生を約束されたということはありません。


主のことばのように、この世で生きている人には誰にでも患難があります。


今回の地震でも、地震が “人を選び、場所を選ぶ” のではないです。

日本は、どこで地震が起きても不思議ではないですし、火山噴火も起こりやすい国ですから、起きたらそこにいる人たちは皆がその被害を受けます。

それは、ひどい被害か、軽い被害か が違うだけです。


クリスチャンだから守られて、いっさいの被害を受けることがないということはありえないです。


守られる時もあれば、そうでない時もあることは、信じない人にも当てはまります。


クリスチャンでも病気にかかりますし、死にます。
家庭に問題もありますし、貧困にもなります。


旅路である地上が私たちの定着地ではありません。

ですから地上では様々な患難にあうようになってあります。


患難が来ても、それが不思議ではないことを まず認識しましょう。


患難が特別なのろいでもなく、誰の所に来ても、それが不思議ではないことです。




・勇敢でありなさい




患難の中で “勇敢でありなさい” と言われました。


患難に遭うと人間はとても弱くなります。

気落ちし、不安と恐れで心が潰されそうになります。


心のバランスを失って フラフラ状態になります。

どうしたらよいか分からず悩みます。


その時、主が私たちに語ることばは「勇敢でありなさい」です。

なぜ勇敢な態度を取る必要がありますか。


主ご自身が “患難に、この世にすでに勝ったからだ” と理由を語って下さいました。


それが私たちの患難と何の関係があるでしょうか?


私たちが気落ちしたり、絶望したりするのは、自分たちには患難に勝つ力がないからです。

しかし私たちの力では何も出来ないですが、勝利の主が共におられるならば問題がないです。


どんな患難が来たとしても私たちに力を与えて下さる神によって、私たちは患難を乗り越えることが出来ます。


力ある主の手が支えて下さいます。
この信仰を持っている人が 本当に世に勝ことが出来ます。


神を信じる人は、自分の力ではどうにもならない時に簡単に諦めてはいけないです。


そこで諦める人は、神も神の力も信じていない人です。

意外とこのようなクリスチャンが多いです。


患難が来た時に、世の人々とまったく同じ言葉や態度を取る人が多いです。


それならば神は自分にとってどのような存在ですか?

(神は)頼れる力もない存在ですか?

助けて下さらない方だと信じていますか?


私には出来ないけれど、神が助けて下さるならば何でも出来るという “確信” が信仰であり、そのように信じるならば その通りになります。

不可能が可能になります。


神に愛された信仰の人々は、すべて患難の中から出て来た人たちでした。

患難の中で神の力に頼り、勝利した人たちでした。


英雄が激しい戦いの中で生まれるのと同じです。

人が出来ないことをやり遂げた人が、勇士になり英雄になります。

彼らには勇敢さがあります。


使徒パウロほど 多くの患難に遭った人はいないです。

しかし彼は患難の中でも勇敢な人でした。


患難に対する正しい態度が彼を勇敢にさせました。

彼は常に神に頼っていました。


【第2コリント1章4-10節】

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。

兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、

ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

さらに ここにも彼の勇敢な態度があります。

勇敢とは、環境に支配されず、反対に “環境を支配する態度” です。


【ピリピ4章11-13節】

乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

患難の中で絶望したり、恐れたり、気落ちしたりする姿は パウロにはありませんでした。


それが出来たのは 彼が神に頼り、主のことば通りに勇敢な態度を取ったからです。

患難の時にこそ、さらに御言葉を守り、主に頼ることです。


すると世に勝った主の力が働いて患難を乗り越えることが出来ます。

主は私たちに平安を与えると約束して下さいました。


主に信頼し、患難に向かって勇敢に戦う時に平安が与えられます。

平安は、勝利者にあって 敗北者や絶望している人にはありません。


患難の時には環境ばかり見るのではなく、御言葉に従って行動するように励むと、主の力と助けが与えられて乗り越えることが出来ます。
( ̄‥ ̄)=3

2016.4.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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こんな時はどうすればいいのか

テーマは 『 こんな時はどうすればいいのか 』 です

【ヤコブ5章13-15節】

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。

あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

パソコンやスマホ、電化製品などを買うと、その製品の使い方や困った時の解決方法などが書かれている分厚い説明書が必ず付いてきます。


小さい文字で あまりにもたくさん書いてあるので、ほとんどの人は説明書をあまり読まないですね。

しかし困った時は 説明書を調べます。


すると そこに解決方法が書かれているので助かることが多いです。

造った人が1番その製品に対して詳しいので、きちんと解決方法を知っています。


聖書は私たちのことを “神の作品” だと呼んでいます。

すなわち人間は 神の手によって造られた作品です。


ですから私たちを1番よく知っているのは神様です。


神は(すべてを造った)創造主ですので、被造物のことを全て知っておられます。


造られた者として どのように生きるべきかを神が教えないと、私たちは分からないです。

そのことを聖書だけが正しく教えています。


神から言われた通りに生きる人は、人間を造った神の目的にふさわしく生きる人です。


神はまた 人間に何か問題が生じた時に一番有効な解決方法も創造主は持っておられます。


すでに創造主を信じ、聖徒になった人たちは 神が示した有効な解決方法を常に用いることです。

今回の本文は、その中の一部分ですが、私たちが使うと 大いに役立ちます。





苦しんでいる人は祈りなさい




私たちの人生には 多くの苦しみがあります。

別れや失敗、病気、貧困、悩み等々。


その時の一番の解決策は、まず神に祈ることです。


「祈るだけで解決されるのか」と言う人は、祈りのパワーをまったく知らない人で、神がどれほど偉大で力ある方であるかを知らない人です。
また、神がどれほど自分のことを愛しているかを知らない人です。



神は決して人間を強い者として造ったわけではなく、神に依存しながら生きるように造りました。


ですから人間は、苦しみがあると すぐに落胆し、つぶやきます。

その状態ならば苦しみが増すだけです。


ですので、神は私たちに 「助けるから苦しい時は一人で悩まないで わたしに祈りなさい。」 と解決方法を教えて下さいました。


祈ると、苦難を乗り越える力を神様から受けることが出来ますし、神のみこころを発見出来ますし、また神様から慰めを受けますし、そして助けられます。


聖書には実際にそのようにして神の恵みを受けた多くの聖徒たちの姿が出てきます。


【詩篇91編15節】

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

神様はこのように約束して下さいました。

そして そのように苦しみの時に 主に祈った現代の聖徒たちも、主の助けを受けました。


ジョージ・ミュラーは、94歳までイギリスで孤児院を経営した立派なクリスチャンでしたが、彼を有名にしたのは 5万回の祈りが答えられたことでした。


お金がない中での孤児院経営は大変ですが、彼は資金集めのためにチャリティー募金活動などをしたことがありませんでした。


彼が孤児院を維持するためにやったことは 神への祈りだけでした。

神はそのすべての祈りに答えて下さり、孤児たちを養うことが出来ました。


私も皆さんも 苦しい時に神に祈って助けてもらった証はたくさんあります。


神の言葉は真実です。神の約束も真実です。





喜んでいる人は賛美しなさい




良いことに対して1人で喜んでいる人がいます。

良いことがあったのに証をしない人もいます。


恵みと祝福を隠して、自分1人で楽しむ事でも喜ぶことでもありません。


良い恵みを与えて下さった神には 必ず栄光と感謝をささげることです。


それが神に賛美をささげることです。

歌を歌うだけが賛美ではなく、賛美する香は “神を礼拝すること” です。


礼拝の中には感謝がありますし、祈りがありますし、賛美がありますし、献金があります。


私たちが受けた恵みに対して黙っていることは罪です。

なぜなら、神に栄光をささげない行為は “恩知らずな者” だからです。


恵みを “恵み” として認識していないので “罪” と言えます。

神の恵みに感謝して、神に賛美をささげることがとても大切です。


苦しい時に神に祈ることはたくさん出来るのに、祝福された後に 神に賛美をささげる人は少ないです。






四つの福音書を読むと、様々な人の姿が出てきます。


苦しんでいる人、病気の人、悪霊に取りつかれた人などが みんなイエス様の所に助けを求めて集まってきて、皆が癒されました。

しかし感謝し、神を賛美した人は1割程でした。


10人の らい病人が癒された時に、感謝して主を賛美した人は1人だけでした。

それも、ノンクリスチャンでした。


ユダヤ人は選民でしたが、サマリヤ人は選民ではありませんでした。

選民ではないサマリヤ人が、わざわざイエス様の所に戻って来て 主にひれ伏して感謝し栄光をささげました。

これは、クリスチャンが感謝していなかったことになります。


神の恵みを一番受け、誰よりも恵みを知っているはずなのに なぜ感謝しなかったでしょうか?


クリスチャンは神からの恵みを “当たり前” と思う傾向があります。


“特別” という認識が足りないです。
恵みを受けるのが自分の権利だと思っています。


「それを いちいち言葉や行動で表さないといけないですか?」と思っているならば、賛美しなさいと言われた神のことばに逆らっている姿になります。


神様はそのような姿を喜ばないです。

恵みを受けて喜んでいるならば、まず神に賛美しなさいと言われました。


神にきちんとお礼を伝えて、栄光をささげることが聖徒としてすべきことです。




病気の人は祈ってもらいなさい




これは苦しんでいる人に祈りなさいということを、さらに強調したことでもありますが、それは病気にかかった人は苦しんでいる人だからです。

本人が祈るだけではなく、なぜ教会の指導者を招いて祈ってもらいなさいと言われたでしょうか。


医者でもなく 教会の指導者を招いて祈ってもらいなさいというのは、医者は要らないというわけではないです。


ヤコブは 優先順位のことを言いました。

医者を招く前に、まず神を求めるようにと勧めています。


教会の指導者は信徒を世話する者です。そして、聖徒のためにとりなしをする者です。

ですから信徒が病気の時には必死に神に祈ります。


私たちを造った神様ほど、人体に対して詳しい方は存在しません。


そして主は癒し主ですので、その神に まず先にお祈りすることは当然です。


その例が旧約聖書にあります。


【第2歴代誌16章12節】

それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。

なぜこのことが聖書に書かれていると思いますか?


アサ王が、神の前にいつも悪を行う 神を知らない王だったならば、わざわざ聖書に書く必要はありません。

しかしアサ王は20人いたユダの王の中でも 四人の良い王のうちの1人でした。


もともとは神が喜ぶことを行った王であり、信仰もありました。


しかしだんだんと信仰が弱くなっていきました。

そして病気になった時に神を求めることをせず、医者を求めました。

その行動が間違えていたので、わざわざ聖書に書いて残しました。


聖徒が病気になった時に、私たちは まず何をすべきかを その箇所と今回の本文のことばで教えています。


病人にオリーブ油を塗ったのは古代社会の慣習でもありました。

治療の効果を得るためでありますが、聖書では油は神の恵みのしるしとして言われてありますので、病人に対して神様が関心を持って治療を行っていることを見せるためでもありました。


このように書かれているからと、今も必ず油を用いて祈る必要はないです。
なぜなら時代背景が変わりましたから。


イエスの名によって祈る時に神は病人を癒すことが多いです。


信仰による祈りに、神は奇跡で答え、病人を癒します。


不信仰や疑いを持って祈っても 癒しは起こりません。

神が働かないからです。


病気の中には、罪から来た病気もありますが、それが祈った人によって示され、本人が悔い改めると主がその罪を赦し、病気を癒すこともあります。


私も病人のために祈ることが多いですが、ある時には神がその人の罪を示す時があります。

すると その時は悔い改めるように勧めます。

悔い改めた後に癒された人たちもいます。


このように神様は「こういう時にはこのようにしなさいと」私たちに詳しく教えて下さったので、そのやり方を使うと間違いがないです。


自分が神様より良い方法があるならば別ですが、果たしてもっと良い方法があるでしょうか?
(゚Д゚) !!

2016.1.31
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イエス・キリストを信じる信仰

テーマは『 イエス・キリストを信じる信仰 』です

【エペソ1章19-23節】

私たちはイエス様を信じる者ですが、キリストに対する信仰が自分自身にどのような影響を与えているでしょうか?
キリストにあって、どのような祝福を受けていますか ――。

多くの人は「罪が赦されて天国に行けるんだ」と言いますが、天国に行くだけが私たちに与えた祝福ではないです。
もちろん それも後に受けますが、神様は今回のみことば箇所で はっきりと語っています。

今の世の中でも祝福されないならば、それはみこころではないのです。

なぜ私たちが祝福されなければならないのでしょうか?
それは もともと神様が人間を造った時は祝福されていました。
しかし人間が神様から離れたことによって全てを失いました。
それでイエス様が来られて働いてくださったことによって(祝福が)回復されました。

「死」は十字架によって「命」に取り換えました。その他にもイエス様はたくさん回復してくださいました。

つまりキリストを信じるということは、回復されたものを(受け取ると)初めから約束されているのです。
キリストの中に全てのものが満ちていますので、その祝福を私たちが信じる瞬間から受け取るのであります。

神様はそれを与えたいので私たちを呼んでくださいました。
クリスチャンの生活になるということは、キリストが準備をしているものを相続者として受け、
楽しみながら生活をすることであります。


【イザヤ53章4-6節】

これは救われる者たちのためにしてくださったことです。
病の討ち傷をイエス様が負って、それを回復してくださいましたので私たちが受けるものは癒しであります。
病気になった人が「あぁ、これは主のみこころであるんだ」という人がいますが、とんでもないことです。
主のみこころには、私たちを病気にさせて滅ぼすということはなく、神様が祝福として用意したものではないです。


【Ⅱコリント8章9節】

弟子たちは家族のもとに帰りましたが、イエス様には帰る家がないです。
ですから山に行って、夜通し父なる神様にお祈りし話をしながら寝る事もありました。
しかし、それは何の為でしょうか?

イエス様ご自身が、人間が地上で何を食べるか何を飲むのか、そのような貧しくて苦しんでいる問題を
回復させる為でした。

今、地球上にいる80%が貧しい者です。食べ物がなくて亡くなる人もいます。家がない人も大勢います。
明日のことを心配する人もたくさんいます。何も心配せずに生きている人は、どれだけいるでしょう。

イエス様は人間の悲惨な状態を見たのです。それをイエス様ご自身も通ってきました。
十字架の上でイエス様が「完了した」と言ったのは、人間が失ったすべてのものをイエス様が回復する働きを
終えたということであります。

ですから私たちが様々な問題の中で苦しむ必要がないということです。


物質についても、(私たちが)貧しいのが神様のみこころであると、どこに書いているでしょうか?
それだとイエス様がずっと貧しく生きていた意味がないです。

昔から教会で間違えた聖書の解釈をするので、真理ではない言葉を流していくのです。
クリスチャンは貧しくなるのが敬虔な姿であるというのは、とんでもないことです。
貧しくなって施しが出来るのですか?人の益になること、物を分け与えることができるのでしょうか?

―― できないです。イエス様は常に人々に与えました。弟子たちにも与えていきました。
そこでキリストを信じる信仰とはこういうものなんだと、イエス様が(信じる者に)準備をした恵みの中に入りなさいと、
これがクリスチャン生活のスタートラインであります。


だからと言って、キリストを信じた瞬間に宝くじに当たってお金が与えられるということではないです。
それは祝福ではないです。キリストの祝福はそんなものではないです。
「何を食べて何を着るかを心配するな」と神様がすべて知っておられるからです。
世の中でも、悪い親でも子供には良いものを与えるように、神様は 神様を求める者たちに悪いものを与えるはずがないのです。

皆さん、クリスチャンの人たちはキリストに出会ってからも なぜ苦しむのですか?
なぜいつも日常の生活の中で、今も罪の問題、病の問題、貧困の問題、家庭の問題などを自分でそれを背負って
苦しむのでしょうか?

それは信仰が間違えているからであります。
なぜ自分がキリストを信じる信仰がそこに1つも影響力がないのでしょうか?
なぜキリストが与えた影響力が自分のものにならないのか、それは神様のせいでしょうか? とんでもないです。

神様は私たちが祈る以前に備えてくださっています。ですから、問題は常に私たちにあります。
その問題点を挙げます。


①キリストと1つになっていない


これはまだ生まれ変わっていないということであります。
信仰が形式的で、信仰の味をまだわかっていないです。私たちが生まれ変わるということは、何だと思いますか?
信仰をもって信じて、キリストと1つになることです。キリストの中に入ることです。
そして その人自身が古い人を脱ぎ捨てて、新しい人になることが生まれ変わったことであります。

古い人のままで生まれ変わることはないです。もはやあなたが生きるのではなくて、キリストがあなたの中で
生きているということを主が語りました。

キリストと1つになって生まれ変わっていないので、キリストが自分のために備えているものが
自分のものになっていないのです。
そして相変わらず 自分で全てのものを背負って「主よ、主よ、どうしてですか?!」になってしまうのです。

これはキリストにある権利を知らないからであります。
私たちがクリスチャンになって出発する時は、キリストが回復しておいた根本的なところに
気が付かなければならないです。
クリスチャンになることは何か?という時に、「あぁ、これから厳しい信仰生活が始まるなぁ」ではなく、
「キリストが回復したものを私が相続するんだ」と全ての良いものを自分が受けるという認識がないといけないです。


聖書に2人の放蕩息子の例えがありますが、これは2人とも間違えていました。
1人の放蕩息子は父の財産を「ください、ください」と言って(父から)もらいましたが、神様の目的とは違う
自分の快楽のために財産を湯水のように使って、結局は父の家にいた時より悲惨な罪の奴隷になりました。

もう1人、家の中に留まっていた長男ですが、この長男の姿のようなクリスチャンが多いです。
自分の弟が帰ってきた時に 父が赦して指輪をはめ、新しい服を着させ、ご馳走を食べさせたことに
ものすごく腹を立てました。
「私は朝から晩まで汗を流しながら働いているのに、私には1つも良いものをくれたことがありません。」と
言いました。長男の問題は何でしょうか?

父のものが自分のものだという認識がないのです。
つまり求めなかったことです。彼の中には「あれはお父さんのものであって、私のものではない」と思っていました。
ですから一度も父に「ください。」と言ったことがないです。
ただ黙々と死にそうな思いで働いたうえに、父に対して不満な心がありました。


父のものは自分のものだという根本的な権利を知らない長男でした。
知らないので1つも自分のものになっていないのです。こんなに金持ちの父親がいても、奴隷なのです。

「私が心の中でこんなに想っていても1つも叶えられない」というのは、世の中の宗教の信仰と同じであります。
信仰で必死に求めているのですが、それを叶えてくれるものがいないのです。
つまり神がいないということです。聞いてくれないものに いくら自分たちが拝んでも得るものはないです。


私たちの信仰も、(神様は)父のものはあなたのものなのに、なぜ自分のものだという認識がないのか―?と
語ります。自分のものだという認識があるならば、自由に使って良かったのです。
いちいち父親に許可をもらわなくても、正しくそれを使うならば、父親は喜んだと思います。
彼がその中で喜んで生活をする姿を見たら父親も嬉しいのに、いくら経っても何一つ求めないのです。
そして、いつ見ても不満な顔をしているのです。

クリスチャン生活はそのようなものではないです。信じる者の為にイエス様が犠牲を払って回復してくださいました。
天国に無いものはないです。

歪んだ信仰で何が生まれてくるでしょうか? 私たちは正しい者でなければいけないのです。


②期待しないものに神様は絶対に働かない


奇跡を行う神様だと期待をしないので奇跡が起こらないです。期待をしないので御使いも現れないです。

聖書はすべて言葉で書かれていますが、
言葉が働くのは、私たちが信じて期待をして宣言をする時に言葉が動き出します。
言葉は私たちが宣言をしない限り、絶対に動かないです。

私たちが色々な問題を抱えた時に みことばを宣言するのです。
「キリストの懲らしめによって私は平安になった。サタンよ、出て行け!」と潰すことです。
病気の時は「キリストの討ち傷によって私は癒された!」と宣言をします。
「もっとひどくなるのかな?」と、このような言葉を言うならば 癒しは絶対に起こらないです。

困った時だけ神様に求めるのではなく、初めから自分のものなのです。その中で生きることです。
キリストと自分が別々に生活をして、困った時にその問題を持ってわざわざキリストの所へ行き、
「私 困りました。」では得られないです。


キリストの中に住むということは、自分の人生すべてをいつも委ねて生きることなのです。
心の王座に自分が座っていてはいけないです。そこにはキリストが座るのです。
多くの人達が「主よ、主よ。」と言いながら、全部自分の力で色々なことをしようとします。

ちっぽけな人生を自ら歩もうとするのは、キリストが見て「それが信仰か」と泣いています。
私たちは「王の王、主の主」の子どもなのです。

祈って委ねると大胆になれます。毎日幸せだと宣言をします。
口から出る(不信仰な)言葉が恵みを閉ざしてしまいます。
不満を言うのはキリストが何をしてくださったのかをまだわかっていないです。
「私はまだ生まれ変わっていないんだ」と知り、反省をしなければならないです。

体験のない信仰は、信仰が1つも動いていないことであります。みことばが自分の生活の中で動いていないです。
それはその言葉を使っていないからです。


「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのすべてのものは与えられます。」
ということは、キリストの中で自分が今生きている目的は「キリストなんだ」ということです。
私のために良い事をしてくださったキリストを喜ばせる生活、キリストを愛する生活、キリストを敬う生活、
これが私たちの日々することであり、それをやっておけば自然と蛇口をひねって恵みが流れるように
主が備えてある祝福は全部自分のものになるのです。

ですから、自分の努力で得る必要は一切ありません。主のみことば通りにすれば、自然とついてくるものです。

信仰生活は最初から祝福を受け取る生活です。努力をして何もないところから一から始めるのではなく、
初めからあるものを信仰によって受け取るのです。

自分がいかに信仰によって、それを自分のものとして使うのか、これが試されているのです。
喜びながら、心配をしないことが信仰なのです。「豊かな祝福を一生受けます」と宣言をしてください。

一体、私は誰なんだ? ―― 私は王様の息子、娘であるということをもっと自覚して欲しいです。
以前は奴隷であったけど、今は違うという大胆さです。

嵐が起きていても立ち止まる必要がないです。蹴ったら良いです。
誘惑するものに向かって、いちいち立ち止まって潰れて、元の道に戻ることはサタンに負けることであります。
「下がれ。サタン。お前と私に何の関係があるのか。今の私は以前とは違うぞ」と戦うことであります。

イエス様がしてくださったものを、しっかりと受け止めてください。 (・◇・)ゞ

2013.7.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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