からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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謙遜

謙遜の衣を着る

テーマは 『 謙遜の衣を着る 』 です

ハレルヤ。

主の御名をほめたたえます。


信仰告白をしてイエス様を信じて長い年月が過ぎたにも関わらず、人格も行動も変わっていない人の問題点は何でしょうか?


“自分は信仰がある”と言いますが、聖霊に逆らっている人が多いです。


最近、韓国で名の知れた牧師先生の目のあたりにアザが出来ていました。

その先生とは、私も大阪で一緒に食事をしたことがあります。

謙遜な先生で、貧民たちがいるところで教会を開拓し、彼らの世話をしていました。


そして、その教会がある程度大きくなった時に、他の先生を後任者にして自分はそこを去り、田舎の方で また開拓しました。


そして最近、教会の創立記念日が近付いたので、それに参加したい意思を伝えました。

そうしたら、そこの教会から何人かの信徒が訪ねてきました。


理由は“来てほしくない”と言うためでした。

彼らは牧師に対して誤解していました。


再び牧師として戻るのではないかと思って、それを止めたくて来た人たちでした。

その中のひとりの長老が帰り際に、いきなり牧師の顔を一発殴りました。

その長老は、18年前から一緒にいた信徒でした。


そして、その信徒たちは帰っていきました。

牧師は突然殴られたのでびっくりしました。


噂を聞いて、記者が訪ねてきて「その信徒を傷害罪で訴えますか?」と聞かれた時に、牧師は「そんなことはしない」と、はっきりと言いました。

信徒を訴えることは出来ません、赦します、と言いました。


相変わらず謙遜な先生でした。

その態度に安心しましたが、その先生を殴った長老に対して考えてみました。

牧師が何もしていないのに、暴力を振るったことが理解できませんでした。


しかし、聖書の中で答えを見つけました。

敬虔なステパノがユダヤ人たちに語ったことばで分かりました。


【使徒の働き7章51-54節】

かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。

あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。

すなわち、神の教えを聞き、世話をしてもらっても いつもその心が高慢で、心を頑なにしていると、うなじのこわいものになって 神のことばには不従順、聖霊には逆らいます。


心と耳に割礼を受けない者は、いつまで経っても人格も性格も態度も変わることがありません。


彼らに対して預言者はこのように言いました。


【エレミヤ書6章10節】

私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。

私たちは、心と耳に割礼を受けて、神のことばを聞いたら 真理を悟って従順する人になりましょう。


そして謙遜の衣をいつも身にまとうようにしましょう。
(・◇・)ゞ

2016.1.16
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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実が結ばれる良い地

テーマは 『 実が結ばれる良い地 』 です

【マタイの福音書13章8節】

別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。

【マタイの福音書13章23節】

ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

マタイの福音書13章には種まきのたとえがあります。


四つの異なる所に同じ種が蒔かれました。

すると、まったく実りがない所があれば、豊かな実を結ぶ所もありました。


今回の本文は、豊かな実を結んだ良い地に対して語っています。


私たちも出来れば多くの実を結びたいと願っていますので、どうすれば良い地になって実を結ぶことが出来るかを学びたいと思います。




柔和で謙遜な心は良い地




普通に考えても悪い心から良い実を結ぶことは不可能です。

悪い心からは悪い実が結ばれます。


ですから、良い心から良い実が結ばれることは 神の法則です。

柔和な心は柔らかい心です。


私たちがある人を見て「あの人はいい人だ。」と言う時があります。

柔らかさや暖かさを態度や声で感じると 好印象を受けて、良い人だと思い込みます。


新約聖書で柔和な人で思い浮かぶ人は バルナバです。

“慰めの子” と呼ばれました。


彼の行いを見ると、神の言葉を聞いた時に感動を受けて、自分の畑を売り その代金を使徒たちの足もとに置きました。

大金だと思いますが、それを自慢することもなく、身をかがめて使徒たちの足元に置きました。


そしてもう1つは パウロが回心した後、皆はそのことが信じられず、パウロを恐れて近づかなかったですが、バルナバはパウロを引き受けて、使徒たちに紹介しました。

柔和な人なので、人にとても優しいです。


彼のことを聖書はこのように言いました。


【使徒の働き11章24節】

彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。

これは良い実を結んだ姿でしたので、多くの人々が導かれました。






モーセは謙遜な人でした。

普通の謙遜ではないですね。
次のような評価をもらうこと自体、すごい人だなと思いました。


【民数記12章3節】

さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

彼が立派な指導力を発揮して、自分の役割を果たすことが出来たのは、彼の心が良い地であったからです。


心の土壌が荒っぽく かたくなな人は、絶対に立派な人格を備えることが出来ないですし、立派な人生を歩むことも出来ません。


イエス様の謙遜もすべての人にまさっていました。

自ら自分のことを次のように言いました。


【マタイの福音書11章29節】

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば安らぎが来ます。

そのような心があるので 罪人を招き、問題のある人を受け入れ、助けを求めるひとを拒みませんでした。

パウロもその心を見習い、柔和で謙遜な人になりました。

ですから私たちにも良い心になるように命じました。


人を自分よりもすぐれた者と思う心がまた 良い実を結ぶ謙遜な心です。


謙遜と柔和の土壌から良い実がたくさん結ばれます。


【箴言22章4節】

謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。

良い地から結ばれる実です。




◎従順する心に良い実が結ばれる




私たちの人生で、良い実を結ぶためには 土壌だけ良ければ、あとはいらないことではないです。


良い土壌に実を結ばせるためには、聞く耳をもって主のことばをよく聞き、そして聞いたことばに従うことです。


【第1サムエル記15章22節】

するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

知識ある人も才能ある人も 誰でも実を結ぶためには、主のことばを聞かなければなりません。


御言葉をないがしろにするならば、良い実を結ぶことは出来ません。


御言葉を聞いて、すぐ実行に移すことを “従順” と言います。


いくらみことばの知識をならべても、理論を立てても、行いが伴わないと 実を結ぶことは出来ません。


従順も、“完全な従順” が実を結びます。


聖徒の中でも、聞くことは聞きますが、実行せずにそのままにしている信徒が多いです。

いくら悟っても従順しないならば、価値がありません。

主は天国に入る資格でも次のように語りました。


サウロ王はみことばを聞きましたが、完全な従順ではありませんでした。

それでサムエルが今回のことばを彼に語りました。


主のみこころを知っていても、それを行わないならば天国に入れません。
そして良い実を結ぶことも出来ません。




忍耐する心が実を結ぶ




忍耐は、まず希望をもって忍耐することです。
希望があると忍耐出来ます。


自分の人生の土壌に 実を結ばせたい人は、忍耐することを学ばないといけないです。

忍耐できる土壌は良い土壌です。


いくら実を結ぶ完璧な条件が揃っていても、忍耐出来ないならば、実を結ぶことは出来ません。


ヨブは忍耐の人でした。

すべてが取られ、人生最悪の苦難を受けていましたが、神を呪うことも、神から離れることも、つぶやくこともせずに ひたすら忍耐していました。


忍耐の中での彼の告白でわかります。


【ヨブ記23章9-10節】

左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。

しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。

彼のことをヤコブ書にはこのように書いてあります。


【ヤコブ5章11節】

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

ヨブは試練の以前よりも試練に耐えた後にさらに豊かになりました。


農夫が 暑さや疲れにも耐えて熱心に働くのは、豊かな収穫を期待するからです。

収穫が農夫の希望です。


忍耐は最後までしなければ、実を刈り取ることが出来ません。


もし途中で諦めるならば、それまでの忍耐も労苦も報われません。


選手がゴールまで辿り着かないと失格になります。

勝利することは出来ません。


リンゴも梨もぶどうも完熟まで待たないと 甘さが足りないので、美味しいとも思わないです。

完熟するまで忍耐が必要です。


【ヘブル10章36節】

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

熱心さも才能も重要です。

しかしそれが全部揃っても忍耐出来ないならば、実は期待出来ません。


主は、私たちが実を結ぶことを期待します。

良い実を期待します。


私たちが実を結ぶ時に、私たちが主の弟子であることが認められます。

それは私たちの土壌が良かったことを意味し、そこに柔和と謙遜な心、主のことばと従順、忍耐がすべてあったことを証明します。


自分の状態をよく見て下さい。

それらのものが揃っているでしょうか。


良い地になるように、日々よく管理しましょう。
(。・ω・)ノ゙

2016.10.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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永遠の愛

テーマは 『 永遠の愛 』 です

ハレルヤ
1週間守ってくださった主に感謝します。

また、礼拝出来る恵みも感謝します。


【イザヤ書43章4節】

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

自分が信仰ある人か、信仰のない人かは、何で判断しますか?

信仰ある人は神の言葉に対して「アーメン」と素直に認めます。

それに反論したり、否定したり、矯正したりしません。


信仰のない人は、神の言葉にケチをつけます。

すぐに否定して別のことばを話します。

それは自分の考えであったり、人からのことばであったりします。


例えば、今日のことばに対しても素直に認めていますか。


それとも「私は何の取り柄もないダメな人間です。値打ちもない人間です。」と否定しますか?

特に日本人は自虐的な人が多いです。


自分のことを愛せない人も多いですし、自己評価が低いです。

それを謙遜と勘違いをする人もいます。

しかし、自分を愛する人を見ると、ナルシストだと悪口を言います。


どちらも間違えています。


聖書には、神のことに関しては「神は愛です。」と書いてあります。

ここに最大のポイントがあります。


神が愛であるから、神にとって愛せない人は1人もいないことです。


愛の心で、愛の目で見ると、すべてが愛する対象に見えます。

神は罪人も悪者も愛しています。


【マタイの福音書5章43-46節】

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。

神の愛は、太陽のような愛です。

暖かく包んでくださる愛です。


渇いた心が潤うように恵みの雨のような愛です。

もし神に愛がなかったならば、人間誰一人 地球上に存在することが出来ません。


神の愛を受けているのに、「どこに神の愛があるんだ」という人は、太陽の光を見ながら、太陽がどこにあるんだという人と同じです。

また、雨を見ながら、雨がどこにあるんだという人と同じです。


神の愛は永遠の愛です。

イエス様は自分を十字架につけた人に対しても愛を示しました。

彼らのために涙を流しました。


私たちは神が自分たちをどんなに愛しているかを知らないといけないです。


自分が神を愛してなくても、神が「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われた時に、むしろ喜びながら神に感謝しなければなりません。


「こんな者をそこまで愛してくださる神様、感謝します。自分よりも自分を愛しておられる神様。感謝します。」と喜ばないといけないです。

「なんで愛してくださるのですか?」と聞く必要すらありません。


愛するのに理由はないからです。


人を愛せないのは、愛する理由を求めているからです。

愛するのに自分の基準があって、「これだから無理だ。愛せない。」と愛することを拒否します。


よく考えましょう。


自分は神に愛される条件を満たしたから神に愛されているでしょうか?

神の愛に条件があるならば、私たちは一番不適格な人に入ります。


神の愛のことばに素直に喜びましょう。
v( ̄∇ ̄)v

2016.1.22
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主が喜ぶこと

テーマは 『 主が喜ぶこと 』 です

ハレルヤ

今日も主の守りがありますように。


イエス様が私たちに一番求めておられることは、何だと思いますか?

私たちが主のために何かをすることよりも、“私たちの変化” です。

日々 新しく変わることを一番求めておられます。


主のためにたくさの働きをしたから、それが豊かな人生を保証することにはならないです。


私たちが主に出会って、どれくらい変わったのかを主は関心を持って見守っておられます。

どれほど私たちの内なる人が成長するかを主は楽しみにしておられます。

私たちが日々新しく変化していくためには、主と共にいる時間が必要です。


イエス様さえ、地上での忙しい日々の中で、いつも静かな所に一人でいました。

それは休むためではなく、父なる神と共に過ごすためでした。


時には徹夜をしながら父と共にいました。

次の日は寝ることなく働きました。

繰り返し毎日のようにしました。

その時間が主にとって安らぐ時間であり、神の前に静まる時間、黙想する時間でした。


日々、あれこれと忙しい私たちにとって、このような時間はとても必要ですが、本当に邪魔するものが多く、また肉体の休みや、自分がしたいことを優先する傾向があるので、頭では分かっていても実行することが難しいことも確かです。


主の前で静まる時間がないと私たちの内なる人が変化することは とても難しいです。

だんだんそのことに対しても関心が薄れていきます。

身体が疲れると、すぐ眠くなることを皆さんは経験していると思います。


私たちが神と交わる時間を持たず、みことばも食べないと、内なる人はだんだん疲れて栄養失調になり弱って、知らぬ間に眠ってしまいます。


霊的眠りより怖いものはないです。

寝てしまった人は横で騒ぎが起こっても知らずにいることが多いです。


その人たちは主が来て起こしても、その声が聞こえません。

主は「目を覚ましていなさい」といつも語っておられます。

そのためには日々、個人的に主と過ごす時間が必要です。


主のことばに耳を傾ける必要があります。

その中で深い理解と分別力、愛、謙遜、奉仕、そして成熟していきます。


主といつもともにいる人が主の香りを放つことが出来ます。


そのように変化していくことを、主は私たちに期待し、変化していくと一番喜んでくださいます。
(。・ω・)ノ゙

3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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どのような人が神の恵みを受けるのか

ハレルヤ。
今日も良い日です。

自分が生きていることも、ここまで守られてきたことも、すべて神様の恵みのおかげであることは、クリスチャンになってから初めて分かりました。

それで神の恵みがどんなにありがたいものかを知ったので、今も日々 神の恵みを求めています。


旧約聖書の多くの部分で「神は恵み豊かな神である。」という言葉がありますが、そのことばに触れると心が温かくなります。

この神に愛され、恵みをもらって生きていることが嬉しくなります。


そして神の恵みなしに生きることはできないと本当に思います。

寒い時、雲の間から太陽が出た時に、太陽の熱で身体が温かくなっただけでも神の恵みをすごく感じます。


1つ部屋を暖かくするにもお金がかかるのに、いつもタダでこのような恵みを受けているのだと思うと感謝が出てきます。

すべての恵みは上におられる神から私たちに流れてきます。

信じる者にも信じない者にも 差別なく与えられる恵みはとても多いです。


神は 恵み深い神であるので、私たちにさらに恵みを受ける道を教えてくださいました。

この恵みは一般的な恵みではなく、特別な恵みです。


どのような人が特別な恵みを受けるでしょうか?


恵みは神の主観的なプレゼントであるので、“なぜ私にはそれを下さらないのですか” と誰も言えないです。

恵みは、神の主観的なプレゼントですが、このような人に与えると神が教えてありますので、受けたいならばその通りにしたら良いと思います。


特別な恵みを1番受けやすい人は、謙遜な人です。

“主の食卓から落ちるパンくずでも良いです” と言える人が、パンくずではなく、主の食卓に着いて 主が用意したごちそうを食べることが出来ます。

“私はパンくずなんか食べる人ではない。もっと良いものを出しなさい。”という高慢な人は追い出されます。


祈る人も、神の恵みを受けることが出来ます。

神の前にひざまずく人は挫折をしないです。

反対に 神のみわざを体験します。


聖書で奇跡を体験した人、大きな恵みをもらった人は 砕かれた心を持って主に祈った人たちでした。

また神に恵みを受けた人たちは、神を信じ 信頼した人たちでした。

イエス様に従うことは、自分と自分のすべてを捨てて神に頼りながら 神のみこころを行う生活です。

ダニエルが自分のいのちを捨てた時に、神は彼のいのちを守ってくださいました。


飢えた獅子がいる穴に落ちた人が、傷一つなく命が守られたことは特別な恵みです。


神は、神を恐れて不義を行わず自分の命までも捨てた人に 大きな恵みを与えて下さいましたし、国の中に神の偉大さを表しました。

このような素晴らしい恵みを今も備えておられる神様ですから、神に日々恵みを求めて祈っています。
(*・ω・)ノ

2016.4.21
3分テレフォンメッセージ

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主の怒りの日にかくまわれるために

テーマは 『 主の怒りの日にかくまわれるために 』 です

【ゼパニヤ書2章1-3節】

恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。

昼間、吹き散らされるもみがらのように、 あなたがたがならないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。

主の定めを行うこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。

聖書の中には、主の怒りの日に対して多くのことを語っておられます。
その日は“主のさばきの日”です。

その日には、神のみこころに逆らって悪を行うすべての者にとって滅びの日であり、神は厳しい さばき主となって悪に対して正しいさばきを行います。


神様を信じる人は、「私とは関係ありません。私はすでに救われているし、神は愛の神なので私がさばかれることはありません。」と言います。

しかし自分たちの生活が神様の目がどのように映っているかを聖徒たちは考えなければなりません。


「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」と書かれているように、父のみこころを行ないながら生きているのかを真剣に考えないといけないです。

今、私たちはこの時代が目まぐるしく変わって行くことを日々 実感しています。
しかも、それが良い方向ではなく、不安定な方向に向かっている事を見ています。


とんでもないことをする集団が世界のあちらこちらから出て、世界中に不安をもたらしています。

しかし、これらはすべて聖書の預言通りです。


終わりの時代は困難な時代になるので、たくさんの災いがあり、滅ぼされていくことを、罪を罪とも思わずに生きているすべての人類に対して、主の怒りが注がれる日にどのようにしたら怒りを受けずにかくまわれることが出来るかを主が教えて下さいます。




1.世の罪を離れて、主の前に出る信仰生活をしなければなりません




1節の「恥知らずの国民よ。」とは、悔い改めることを知らない国民のことを指しており、高ぶっていて 横柄でかたくなな国民という意味です。


彼らの心はこの世にあり、この世の流れに従って生きながら、神を恐れることもなく、罪を犯しても恥を知らないかたくなな心になっています。

ゼパニヤ預言者は、その人たちに向け、神のさばきの日が近づいたから早く罪から離れて、主に立ち返りなさいと叫びました。


「こぞって集まれ。集まれ。」ということばは、悔い改めない国民に向かって叫ぶ「悔い改めへの招待」の意味がありますし、自分の思いと世のすべての欲を神のことばに従わせ、神に立ち返りなさいという意味もあります。

聖徒の生活は世に向かって歩む生活ではなく、必ず神に向かって歩む生活でなければなりません。


神に背を向けるのではなく、世に背を向け、罪から離れ、真理である主に立ち返り、いのちの主と歩む生活へと変えなければなりません。


そうしないと、世に神の怒りがくだされる時に、世と共にその怒りを自分自身が受けなければなりません。


イエス様も人々に最初に語ったことばが「悔い改めなさい」でした。
神の前に出て、自分たちが犯した罪を悔い改めて日々自分を聖くしていくのが信仰生活です。


【詩篇32篇3-5節】

私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、 私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。 「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

このように、悔い改めは人の前ではなく、主の前に出て隠さず自分の罪を言い表すことです。

心をきよくして主に従って歩むのが信仰生活です。




2.神の義を慕い求めながら、みことばに従う生活をしなければなりません




人間は生まれながらに罪の性質がありますし、弱い存在です。
堅く決心しても長続きしないですし、また一生懸命努力をしても神様の義に達することができません。


そして人間が考えることも根本的に純粋ではありません。


【エレミヤ書17章9節】

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

このみことばは まったくその通りだといつも実感しています。

ですから人間は、私たちを義なる者にしてくださる神様を求めるしかないですし、神の義によって はじめて神様が願う聖徒の生活を生きることができます。


人間が造り出す義、それ自体は人間をある程度 良い人間に、そして敬虔な生活へと 少しは益をもたらしますが、そのことが人間を罪から救い出し、いのちを与えることは有り得ないです。

神の義は、私たちをいのちの道に導く救いです。


【イザヤ書61章10節】

わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、 花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。


【ローマ4章6-8節】

ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。

「不法を赦され、 罪をおおわれた人たちは、幸いである。

主が罪を認めない人は幸いである。」

聖徒の生活は、神の義を求めながら、その義を守るために従順する姿が伴わなければなりません。




3.神を見上げ、神にたよる謙遜な生活をしなければなりません




聖徒の生活の基準は、神のことばです。
それを守り行うのが聖徒の生活です。それが謙遜な態度です。


人間の中には常に高ぶりの心があります。
偉くもない自分を偉い者と思い、知恵もないのに、自分の知恵を誇ります。

他人の話も神のことばも耳に入れず、自分の思いのままにしたいという高慢さがあります。

このような心のままでは、私たちは神に頼ることをしませんし、みことばに従うこともできません。


ですから、日々 自分を頼らず、神の恵みを求めながら、神に頼らなければなりません。

私たちが救われたのも、すべて主の恵みであり、いま生かされているのも主の恵みであるので、私たちは何も誇るものがありません。


【エペソ2章8-9節】

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

聖徒たちは救ってくださった神の恵みを忘れず、いつも感謝しながら神のことばを守りながら、神の心を喜ばせることが優先です。

聖徒たちの生活は、ますます聖くなっていかなければなりません。


罪人であった私たちにあわれみをかけ、罪を赦してくださいました。

それだけではなく、神の子どもになる特権も与えて下さいました。

その大きな恵みを受けた者たちが、平気に罪を犯しながら、神に逆らい続けるならば、神の怒りが下る時に誰がその人を守ることができますか。


その怒りから逃れることは出来ません。
次のことばも読みましょう。


【Ⅰペテロ4章17-19節】

なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。

義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。

ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。

神の前にへりくだり、神の義を追い求める者に対しては、神ご自身が主の怒りの日に彼らをかくまってくださいます。

その日は、彼らには滅びの日ではなく、救いの日になります。


罪と悪がますます世にあふれるようになってきました。


目をさまして神のことばに聞き従いながら、みこころを守る聖徒になりましょう。
(´∀`*)

2015.1.25
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス様の心を持つ信徒はどれくらいいるのか

テーマは 『 イエス様の心を持つ信徒はどれくらいいるのか 』 です

【ピリピ2章1-5節】

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

私の喜びが 満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

自分のことだけではなく、 他の人のことも顧みなさい。

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

全世界の人口は正確には分かりませんが、約70億人近くいます。
その中でキリスト教が一番多く、33%と言われています。22億人がクリスチャンということになります。(プロテスタントとカトリックの比率は50%です)


今、クリスチャン人口が一番増えている国は中国です。
人口13億人のうちの5%にあたる6700万人がクリスチャンであると言われています。
そして2030年になると、2億4700万人がクリスチャンになる計算です。

今はアメリカがクリスチャン人口が一番多いですが、2030年になると中国が世界一キリスト教徒が多い国になります。

日本は、東アジアの中で一番クリスチャン人口が少なく、1%くらいです。

韓国は人口の4分の1はクリスチャンであります。リバイバルをして6万ほどの教会が建っています。
しかし教会が大きくなっていくと様々な問題が生じ、クリスチャン人口が減ってきています。これはとても残念なことです。

原因はクリスチャンたちの生き方が人々に好感を持たせなかったからです。
初めは良かったのですが、大きくなるにつれて様々な問題が生じて人々が離れたり、またそれ以上増えませんでした。


神様は、ただ多くの人たちがクリスチャンになれば喜ぶでしょうか?
たとえ全世界の人がキリストを信じたとしても、神様はそれで満足をするでしょうか?


数え切れないほどの教会が建ったからと言って、イエス様はそれで満足しません。
神様は、このように数字や形には関心がないのです。

主が一番関心のあることは、私たちの心であります。

その心がキリストと一致しているのか、ということです。
それはキリストの心が自分たちの中にも無ければいけないということです。


“うわべ”だけのクリスチャンや、クリスチャンと言いながらも教会に通わず、祈りもまったくせず、みことばも読まないようなクリスチャンを神様は喜ぶでしょうか。

このような信仰で「私と神様は一致している」と言えるでしょうか?

教会に集まる人たちも色々な人たちがいます。
そこで問題や分裂、争いがあります。信徒同士や牧師など色々あります。


しかし、よく考えると その問題の原因になっているものは何かを詳しく調べていかなければなりません。

うわべに表れているものが、その問題の原因ではないです。

例えばピリピ教会の中でも信徒同士に分裂の問題がありました。
その信徒たちの自己中心的で高慢、妬み、争いなど、様々な思いで人間関係が壊れていました。


教会とは頭(かしら)がキリストであります。そして信徒は1つ1つの身体の器官だと聖書に書かれています。
目には見えない神様ですが、頭のない身体は存在しないのです。

そこで私たちが組み合わされているのが教会です。


ですから、そこにイエス様が存在しないならば、建物があって人が集まったとしても そこは教会ではないです。それを神様が教会とは認めないです。

しかし、ある意味で イエス様が存在しない教会が多いのです。形は教会でも、中身は教会ではないのです。

今回のテーマ箇所の3節に「自己中心」ということばが書かれていますが、自己中心が様々な問題の原因となっています。自己中心は、ある意味で高慢であります。「自分が1番」であるのです。


クリスチャンであり神様のことばを聞きながらも変わらない人々がいるのです。自己中心的な人がたくさんいます。
ですから問題が消えなく、分裂が起こります。


信仰歴が長い人でも自分を捨てないならば、自己中心的な思いが消えることはないです。


「私の意見が正しい。私の考えは曲げる必要はない」と自分が間違えていても変えようとしないのは高慢です。


【Ⅱ歴代誌7章14節】

わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、 わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

これは全ての人に向けて語ったのではなく、「わたしの名を呼び求めているわたしの民」に語りました。

民になったから全部同じだということではないです。
民と呼ばれているにも関わらず、神様のみこころと反する生き方をする者たちが相変わらずいることを神様は見ておられます。


神様が求めているものは、みずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、悪い道から立ち返り罪から離れる者に対して神様は、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそうという言葉があるのです。

神様は、神様と心が1つになっている者を求めているのです。


【Ⅱ歴代誌16章9節】

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。 あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。

世界人口の33%がクリスチャンだと語りましたが、その中から神様と心が1つになっている者を探さなければ見つけることが出来ない状態なのです。

それは神様と全く一つになっている者が少ないということを意味するのです。


私たちはすぐに神様から見つけ出される者でしょうか?

外見はクリスチャンらしくしていても、神様とは違う心を持っている人が多いのが現実です。それをそのままにしておいても良いでしょうか。

私たちがキリストと同じ心を持っているならば、行くすべてのところの問題が消えていくと思います。
しかし、外見はクリスチャンだとしても 悪魔の心を持っているならば、争いや分裂の原因を作るでしょう。

自己中心的な思いは、どこにいても問題を起こします。


皆さんは精神科病院へ行ったことはありますか?

私は行ったことがあり、精神病にかかった人と多く接しました。見た目は変わったところがなく、分別力もあります。きちんと話もしますが、その人たちの中で共通するものがあります。

皆、自分の話しかしないのです。自分のことにしか関心がありません。
また、被害者意識が強く、他人の話を聞かず、変えようともせず、自分の考えや思いを主張する傾向が強いです。


クリスチャンも「主よ、主よ」と言っている人が、神中心ではなく自己中心な思いがすごくあり、自分の考えを捨てないです。


自己中心は何1つ良い実を結ぶことがないです。


ですからイエス様が「わたしについて来たい者は自分を捨て」という言葉を使いました。
これは自分の良い部分を捨てなさいという意味ではなく、自己中心的な思い、高慢な思いを捨てない限り、(イエス様とは)一致しないということであります。

イエス様と自分の中で葛藤が多い人は、何が問題でしょうか?
神様や環境ではなく、自分自身が問題であります。相変わらず虚栄心などを持っているのでイエス様と合わないのです。

イエス様と一致しない人は、周りの人とも一致ができないです。
一致をするためには、それらを捨てなければならないです。


私たちがイエス様の心を持つための1番の方法は、イエス様をいつも見ることであります。

福音書を読むと、イエス様の姿が出てきます。イエス様から目を離さず、イエス様の姿をジーッと見ることです。
これはイエス様を観察をすることであります。


そして、私たちがイエス様の心を持ちたいと思うならば、へりくだり謙遜にならなければいけないです。

イエス様はもともと神でありました。神が人間の身体をとって地上に来られました。
もうこれだけでも謙遜であります。人間は神になろうとしますが、イエス様(神様)は人間になりました。さらに人に仕えたので、ものすごく謙遜です。

私たちの足を洗い、私たちの重荷を負ってくださるのは、神様の謙遜な姿であります。

私たちが高くなろうとするなら、イエス様と一致するのは不可能です。

しかし、高慢で高ぶっていた者が自分を低くして へりくだっていくならば、だんだんイエス様の心を自分の中で持つことができます。

私たちはイエス様を見ながら、頭を下げて自分の身を低くしていかなければならないです。






愛・憐み・寛容な心は、なぜ必要だと思いますか?

私たちは他人を愛することが出来ない者であります。
自分のことや所有物、家族は愛しても、それ以上の愛がないです。

他人を愛することも、自分の好みの人だけを愛します。自分のことを愛してくれる人を愛します。
少しでも気に入らないと私たちは、その人と縁を切ってしまいます。その人を嫌ったり呪ったりします。
私たちはそのような者であります。


教会の中で、私たちが他人に接する姿をイエス様は見ておられます。
例えば、教会でアルコール中毒者が来たとします。また、麻薬中毒者が入ってきたとしたら、その人たちを歓迎するでしょうか?しないでしょうか?

そのことによって私たちの中にキリストの心があるかどうかが試されていきます。
「あんな人は来なければ良いのに」という思いを持って、その人に見向きもしないならば、自分にキリストの心がないことであります。


イエス様は罪人や遊女、悪霊にとりつかれている者や病人のところへ行きました。
そのことを宗教指導者たちはものすごく軽蔑をして悪口を言いました。

もし私たちが宗教指導者たちと同じ心を持つならば、それはパリサイ人、まむしのすえどもと同じであります。

私たちは自らその場所へ訪ねていかなければならないです。そして歓迎をしなければならないです。
そのような人の中にはイエス様の愛や憐み・寛容な心があるのです。寛容は広い心で、差別することがなく、その人を受け入れる心です。


神様はクリスチャンに願っているのは、イエス様の中にある心を持って欲しいということです。
愛を持って接するならば、死んでいたたましいが生き返ります。


信仰生活を送りながらも、心が冷たい人がいるのです。その人の中に温かいものがないです。人と接する時にも笑顔がないです。

これは鏡で自分の姿を見て、みことばに照らし、「果たして自分はどうなのだろう?」と自分の中にイエス様の心を持っているのかを確認しなければならないです。


イエス様が再臨した時は、信仰歴が長い者でも、奉仕をたくさんする者でもなく、イエス様と心が1つになっている者が一番初めに天に引き上げられます。






バンジージャンプをしたことはありますか?
ロープに身を任せて、高い所から飛び降ります。それはとてもシンプルです。飛び降りれば良いことです。
これは子供にも分かることです。それは理論的に難しいことがないからです。

しかし、知識と実際にやることは全く別のものです。
ある者は「出来ます」と言って 身体にロープをつけたのに、直前になって出来ない人もいます。


これを見て、私たちが分かることは、いくら理論を知っていても実際に飛び込まないと分からないことであります。
飛び降りた人が初めてバンジージャンプがこういうものだということが分かるのです。

私たちはイエス様に対しても、そういうことであります。

「イエス様の心を持つことはこういうものです。」と、このように言うこと自体は知識です。
しかしイエス様と親しくなってイエス様の心を持つことは全く別のものです。


理論だけで生きているクリスチャンが多いということです。実際に(イエス様に)飛び込んだ人は少ないということであります。知識を持ったからといって、それが何になるでしょうか。

信仰生活は実際にやらないと分かりません。実際にイエス様に近づかなければ、イエス様がどのような方なのかは分かりません。


クリスチャンは「信仰、信仰」と言っても、キリストの中に飛び込まないと、いつまで経っても その人の心が燃えることはなく、心が変わることもないです。

しかし、私たちがキリストの中に飛び込むなら、キリストも私たちの中に飛び込んでくださるのです。そこで1つになるのです。

信仰は知識ではないです。もしも知識の信仰ならば、その知識が偶像になります。


皆さんはイエス様に出会ったことに対して、どのように思っていますか?
イエス様に出会えたことは人生で最高の恵みだと思っているでしょうか?

皆さん1人1人の信仰の姿は違います。しかし神様が求めるのは1つであります。「わたしの心を持ちなさい。」ということです。

信徒1人1人にその心があるなら、争いが起こらないのです。皆違うのでバラバラになり分裂、争い、戦いがあるのです。

ですから、「自分の心にイエス様の心が無いのが問題であり、いつも私が問題を起こしているのだ。」と思ったら良いです。


自己中心を捨てない限り、イエス様の心が私たちに入ることはないです。

イエス様が行ったことはすべて正しいので分別をする必要がないです。
つまり、イエス様の口から出ることば、すべての行動は正しく、真理そのものですので、私たちがそのまま受け入れて良いということです。


様々な問題は自分自身の中にあるのです。ですから自分自身が変わらなければいけないです。


イエス様の心をもっと持たなければ、イエス様が私たちを見た時に「あなたはどこから来たのか。わたしはあなたを知らない。」という結果になると思います。
ですからそういうことにならないように、イエス様の心を皆さんが持ってください。それが聖徒であります。
(^∀^)

2014.8.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

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神の心にかなった者・ダビデ

テーマは 『 神の心にかなった者・ダビデ 』 です

【使徒の働き13章22節】

それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。 「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしの心を余すところなく実行する。

神様ほど人を正確に知っておられる方はおられません。
人の行動、考え、心すべてを知っておられます。

ですから 神様が下した人の評価は1つも間違いがないです。


ダビデに対する神様の評価は、「彼はわたしの心にかなった者でわたしのこころを余すところなく実行する者」でした。これは最高の評価だと思います。

神様からこのような言葉をいただけるのは羨ましいです。


私たちが裁きを受ける時に、神様が良い評価をするのなら救われた者として天の御国に入りますが、神様がその人に対して悪く思うならば、追い出されていきます。


生きていた時にダビデは神を喜ばせた者であったことが、ここで はっきりとわかります。
ダビデはサムエル記、列王記、歴代誌にも出てくるので、彼がどういう人であったか知ることができます。
そして詩篇の中に、1人の人間として神様の前に立たされている姿があり、そこに信仰の姿が書かれています。


私たちは色々な苦しみがある時に、詩篇をたくさん読むと思います。
読むと1つ1つの言葉は、自分たちの中にある思いを言葉で表現することはなかなか難しいのですが、
ダビデの祈りを聞くと「私自身もそう思っている。これは私の心だ。」と思って、それを自分たちの祈りにする場合がとても多いです。


ダビデが神様に対してどのような信仰を持っていたかは、詩篇の中に現わされています。
神様が最も目を留めているのは、その信仰の姿勢であります。

神の心をしっかり祈って求めるので、神の御心を知っています。
私たちも神様の心を知っています。

聖書のことばを読むと そこに書かれていますが、私たちがそれを聞いた後にどうするのか とても大切であります。
同じことばを聞いていても、その後の信仰の姿勢がそれぞれ違います。


同じ神様を信じて、同じことばを聞いても ある人は恵まれて、ある人は恵まれていない、ある人は良い評価で、ある人は悪い評価。
これは何かというと、その人の信仰の姿勢であります。

ダビデは従順する人でありました。




①従順する人



ダビデは神様だけに従順する人だったでしょうか?

神様は他人に従順する人を最初に選ぶのです。


【Ⅰサムエル17章17-20節】

エッサイは息子のダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。

この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を調べなさい。そしてしるしを持って来なさい。

サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人たちはみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているのだから。

ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、品物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて、陣地に出るところであった。

ダビデはお父さんの命令に対して従順している姿が出ています。
この従順する姿は「嫌だ、嫌だ、仕方がないなぁ」という姿ではないです。

翌朝早くということは、自分で考える時間を与えません。
余計なことを考える必要がないのだという態度であります。


私たちが神様の言葉を聞いて、すぐに従順しないと人間の思いが出てきます。そして結局は自分の思いを優先にして従うことが出来ないです。

神様はまず目の前にいる人間に従順するかを見るのです。

それからが神様の出番になり、準備している祝福を与えて働きをさせます。

この後に、イスラエルの人々を苦しめるゴリヤテとの闘いがありました。
ダビデから見るとまさか戦うとは思いませんでした。ゴリヤテと闘うことは ものすごい大きな働きであります。


ある人たちは「私は神様には従っても、人には従わない。」と言う人がいます。
そう言いながら「私は神様に用いられたい。大きな働きがしたい。」と言いますが、神様は絶対にそういう人たちは遣わないです。

他人に従順しない人を遣いませんし、大きい働きをしたいと言いながら小さな働きに無関心であり、ないがしろにする人は神様は遣うことをしないです。


ある意味で人間に仕えている姿は、神様の1つのテストであります。
私たちは小さなことに忠実に働かなければならないです。聖書はそのことを教えています。


【Ⅰヨハネの手紙4章20節】

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

私は神様を愛しています。と言いながらも、他人に対して憎しみをむき出しにすると、神様は「偽り者」と語ります。

また「神様に従順します。」と言いながらも、(周りの人が)自分のために語る言葉や神様の言葉が伝えられた時に「いや、それはしない。」と言うならば、その人は脱落であります。


ダビデは従順に危険が伴うことでも すぐにその言葉を受け止めて何も言わずに、言われた通りに出掛けました。

これを見ても分かるように、従順する人を神様は喜びます。これがダビデの中にある姿でした。
神様は逆らう人は退けますが、喜んで従う人は神に用いられます。




②謙遜な人



イエス様はすごく謙遜な方であります。

神様は謙遜な人が好きですが、高慢な者は退けるという言葉を使いました。
謙遜な人はどこにいても人から愛されます。神からも愛され、人にも愛されます。


サウルとダビデの姿で違いが出てきます。
王として選ばれた時はサウルも従順で謙遜な者でした。

しかし、サウルは王になってから変わりました。
謙遜な者から高慢な者へと変わり、従順の者から不従順の者に変わりました。

ダビデは羊飼いの時の姿と、王になった後の姿は変わらず、従順で謙遜な者でした。


【Ⅱサムエル記7章18-19節】

ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。

神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にもはるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。これが人の定めでしょうか。

ダビデは「取るに足りない者」と言いました。
またパウロも「月足らずで生まれた者」と言い、彼らは人間の目で見ると偉大な者たちでしたが、 神の前ではどれほど謙遜な姿でしょう。


私たちはどうでしょうか?

私たちは偉そうにしている姿があります。神様に命令を出し、文句を言い、自分を高くして言います。
恵みを受けていても感謝をしなかったり、他人と比較して神様に不平不満を言うのは自分を高く評価することです。

高慢というのは、自分は本来そうではないのに 自分を高く評価することであります。
他人からではなく、自分自身を高く評価することを言います。


本当に評価されるに相応しい人であるならば 神様は高慢とは言いませんが、相応しくもないのに自分を高く評価してアピールするので神様は受け取ることができません。


ダビデは神様の前だけで謙遜な姿を見せたわけではないです。人々の前でも謙遜な姿でした。


【Ⅰサムエル24章14節】

イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、 一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。

人々の前では、神の前よりも もっと自分を低くしている姿があります。

日本では「私はそんな者ではありません。」とよく言います。
謙遜な姿があり、自分をあまりアピールせず低く評価します。

しかし相手の人が「本当ですね。あなたは小さい者で、死んだ犬のようですね。」と言ったとしたら、一生恨むと思います。

でもダビデは自ら身を低くして、自分を殺そうとする相手に対しても自分を低くするのは、彼の人格そのものが謙遜な者であるのです。

私たちはやたらと自己卑下をする必要はないのですが、謙遜から出て来るものには評価してくださいます。


クリスチャンは自分を低くしなければなりません。他の人を高く上げます。それが恵みになります。他人が「この人は人格が出来上がった人だと評価します。」




③試練の中でも信仰を堅く守った人



多くのクリスチャンがいつ倒れるのか、いつ信仰を捨てるのか、それは試練の時が多いです。

もちろん良い時にも堕落することがありますが、試練の中で信仰が揺らいで 信仰が弱くなり、神の前で罪を犯す人が多いです。

ダビデは試練の中でも ずっと信仰を守り通していきました。サウロが彼の命を狙っていました。
サウロの命さえ取れば 自分は試練の中にいる必要がない と人間的にはそのような思いが来るはずです。

しかし、人間から来る思いと、神様のみこころとは一致しないことが とても多いです。


信仰を守り通すということは、どのような試練の中でも人間の思いを優先することではなくて 神様のみこころをまず求めることであります。

ダビデは7年間毎日 命を狙われながら生活をしていましたが、(サウロを殺す)チャンスが来ても彼はみこころを行いました。


【Ⅰサムエル記24章6節】

彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に 絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。

ダビデの部下が、目の前にサウルが現れたことを見て「チャンスです。殺してください」と言った時に、ダビデの口から出てくる言葉はすべてが信仰による言葉であります。人間的な思いが一切ありません。


私たちは、時と場合によって 信仰と自分の思いを使い分ける時が多いです。それによって聖霊様を悲しませているかもしれません。
しかしダビデは激しい試練の中でも 常に主に目を留めていました。

みこころを行う時には自分で犠牲を払わなければならないことが とても多いです。

しかし犠牲を払った後に、神様の報いが来ます。自分が蒔いたものが信仰なので、後から来るものはとても素晴らしいものであります。


ダビデは信仰第一にしましたので神様のみこころではないと 絶対に私は動かないと頑なな姿がありました。
私たちは信仰に対しては、譲らない姿勢が必要です。「絶対に神の言葉が優先である」と心を決めておかないと、あらゆる誘惑に引っ張られてサタンの餌食になってしまいます。


誰かに「そこまでしなくても良いでしょう?」と言われても良いのです。「これは神様のみこころなので、私は妥協しません。譲れません。」という思いが必要です。
そうすると勝利します。その姿勢を見て、神様が良い報いを与えてくださいます。

信仰によって生きるということは、神様の言葉が1番優先で みこころを行うことが優先であります。




④罪を犯した後に悔い改めた



私たちも罪を犯した後は悔い改めをしていると思ってしまいますが、ダビデの悔い改めは私たちとは違います。

どのような部分が違うのかと言うと、私たちは悔い改めても 時には神様に喜ばれない口先だけのことがあります。
ダビデは深い悲しみをもって本当に悔い改めました。

本当の悔い改めとは、次の箇所です。


【Ⅱサムエル記12章11節】

主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で 取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。』

【Ⅱサムエル記12章14節】

しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」

この2箇所とも耐えられないような厳しい言葉であります。
ダビデはウリヤの妻を取り、自分の妻にしましたが、それは神様のみこころに損なったことであり聖霊様をすごく悲しませました。

それに対して神様はダビデが悔い改めるように勧めましたが、それに併せて神様はこちらの言葉を宣告しました。

これらの言葉を受け取った後のダビデの素晴らしい姿勢が次の箇所に書かれています。


【詩篇51編1-4節】

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

どうか私の咎を、私から 全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、 あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

ダビデが犯した罪に対して悔い改める心をもって、まず神様に赦しを求めました。これは私たちが罪を悔い改める時も同じで誰もが出来ることです。
ここまでは同じであります。しかし、その後が違うのです。


4節に書かれている“あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。”
神様が宣告されているのは厳しい言葉でした。しかし(その言葉を聞いても)神様は正しいです。あなたはきよくあられます。と言える部分が 私たちにあるかどうかであります。

罪を犯したために償いをしなければならないと、神様が私たちを裁くときがあり試練の嵐が来ます。
すると人間はびっくりして「神様、これは何ですか?サタンの攻撃でしょうか?どうしてこんなことが起こるのか、私は神様に悔い改めたから全部赦してもらったと思ったのに、何ですかこの試練は?」と神様を問い詰める時があるのです。


自分たちは勝手に恵みだけを受けて、神様に「私に良いことだけをしてください。」という思いが強いので、その続きで言った言葉には気付いていないかもしれません。

ダビデは預言者を通して神様の言葉を聞き、罪を償うことを受け取りました。
その後、実際に神様の言葉通りに子供は死にました。

それでもダビデは一切つぶやかないで神様の前に出て礼拝をしました。


私たちもそのようにしたら良いと思います。
「どうしてあの人が用いられて、私は用いてくださらないのか。あの人は祝福して、どうして私は祝福してくださらないのですか。差別していますか?」と言う前に、何が違うのかを聞くことであります。


「あなたと私は何が違うの?あなたはどうやって恵みを受けているの?どうやって信仰が成長したの?どうして神様に用いられているの?」と聞くことであります。

私たちはダビデに聞けたら「わたしはこういう者であった。だから神様がわたしを遣ってくださり恵みを受けたのだ。」と、きっと言うでしょう。

(恵みを受けている人と自分には)必ず何かの違いがあるのです。私たちが信仰成長するには、自分との違いを見付けてやってみることであります。


神様はそのようにしてお互いの姿や、聖書の人物を通して成長して欲しいと願っておられます。

私たちが人物を学ぶことは ものすごく自分の信仰に役に立ちます。 (・∀・)つ

2014.6.1
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主の民になったならば

テーマは 『 主の民になったならば 』 です

【エレミヤ書7章21-26節】

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「全焼のいけにえを、あなたがたのほかのいけにえに加えて、その肉を食べよ。

わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。

ただ、次のことを彼らに命じて言った。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。 あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。」

しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。

あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、 たびたび送ったが、

彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。」

人生最大の恵みは何だと思いますか?
私たちが今まで受けた恵みの中で、この恵みが一番だと思っている恵みは何でしょうか?


天地万物の創造主、主権者である神が 自分の神となり、自分が神の民になることは人生最大の恵みであります。


現在、地球上には約70億人が住んでいます。その人たちが皆、神様を信じているでしょうか?
そうではないです。多くの者たちは神様に背を向けています。

彼らも神と呼んでいるものがありますが、その神は実在する神ではないです。
人間が作った偶像の神ですので、そのまま進むならば、彼らに待っているのは裁きしかないです。


この世の多くの人々が捨てられた状態であり 裁きを免れない中で、私たちは天の神の民として生きているのは 恵みの中の恵みです。
これほど素晴らしい恵みはどこにあるでしょうか?そこに自分の永遠の命がかかっているのです。

この世で生きる期間は短いですが、その後に続くのは永遠の世界です。
その永遠の世界で 私たちはどこへ行くのかが重要であります。


私たちはいつも何が大切であるのかを 常に考えなければいけないです。
神様の民である価値を低く考えるならば、その人たちは世のものによって倒れてしまいます。


昨夜、生駒聖書学院長の奥様が病気によって息を引きとりました。その連絡を受けたので祈りました。

しかし、そこには悲しいという思いは一切ありませんでした。
天国がどのような場所であるかを知っていますし、私も天国に憧れているので、
“苦しみから解放されて 今は喜びあふれ、光と平安がある天国でイエス様に出会って喜んでいるでしょう。何と素晴らしいことでしょう?”

私はそこで感謝の祈りをしました。
残された家族のためには慰めの祈りをしましたが、
もしその方が イエス様を信じないで亡くなったならば、感謝の心ではなく 憐みの心が出て来ると思います。


しかし、イエス様を信じて神様のところへ行く人たちは 帰るべきところに帰ることなので、すごく感謝であります。御国の民になった者だけが死んでも幸せになります。


また、救われた者 皆が天の御国に入られるのではないです。
ある者は「主よ、主よ」と言っていましたが、天国に入れない者もいました。

なぜ入れなかったのでしょうか?
それは 神様が見た時に、神の民として選んだのに その人の生き方が神の子どもらしくなかったからです。

そして天国には入れずに、そこで歯ぎしりをするのです。


神様は始めから私たちを幸せにするために民として受け入れて下さいました。これはとても大きな恵みです。

神の民になった者は 神の民らしく生きる時に、神様はその人を神の民として認めて下さいます。


イスラエル民族は選民としてのプライドがものすごく強かったです。
しかし神の目にうつった彼らの姿は、神が民として認めることができないほどのひどいものでした。

彼らは不従順によって神に背を向け、ほとんどが荒野で死にました。神の民にふさわしくなかったのです。
私たちは彼らと同じ道をたどってはいけません。


これは彼らだけではなく、今の私たちに語る言葉でもあります。

「あなたはイスラエルの民とは違うのか?彼らのように歩んでいるのか 自分をよく見なさい。」と、
私たちが救われた時から 私たちはイエス様と1つにならなければならないです。


神の子どもになったので真理のことはもちろん重要ですが、いつもイエス様と共に歩きながら神の民らしく生きることが大切であります。


主の民になったならば、どのように生きるべきかを まず考えないといけないです。
自分の神に対して自分がどうすべきかを考えるのは当然です。
そこで、神のことばの中に神の民として生きるべき姿が出てありますので そのことを伝えたいと思います。



①主のことばに聞き従うこと



主は私たちを救い出した方であります。
それまでは神様とは無関係でしたが、私たちが神の民になった瞬間から神様は当然のように私たちの神になりました。
この神の言葉に対して私たちは聞き従うことであります。


神様がイスラエルを選んだ時に いけにえが欲しくて選んだのでしょうか?
そうではないです。いけにえは、いわゆる形式です。神様はいけにえを要らないとは語ってはいません。

ただ、いけにえだけでは満足することはないと語っておられます。


神様が求めておられるのはいけにえをささげる人の心です。


すなわち従順する心、感謝する心、きよい心を願っています。神様は 汚れのないいけにえを持ってきなさいと語りました。もしそれがないなら神は決してそのいけにえを受け入れません。

いけにえを持ってくる人が汚れているならば、そのいけにえも汚れてしまいます。


【エレミヤ6章20節】

いったい、何のため、シェバから乳香や、遠い国からかおりの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のいけにえは受け入れられず、 あなたがたのいけにえはわたしを喜ばせない。」

遠い所からわざわざ神様に捧げる為に良いものを買いました。
それを持って神様のところへ来て、神様が喜ぶと思って捧げたのに、それを神様は拒否しました。

問題はその人の心が神様に相応しくなかったからであります。その人自身が不従順の心があるからです。


神様の言葉には従わないのに、物だけを持ってくるのです。
「神様、これで満足でしょう?」「これで私の罪を赦してください。」「これで私を祝福してください。」
それは賄賂のようなものになります。神様はそのようなものを受け取らないです。


神の民になっても、うなじのこわい者がとても多いです。外見は敬虔なふりをしていますが中身は違います。
ですから神様は「偽善者」という言葉を使います。


神様のことを「私の神様です。」という人は、必ず(神様のことばに)従順をしなければならないです。
従順がないと神様はその者を“神の民”と認めることができないのです。従順しない者に 神様の祝福はないです。

神様は、聞き従う者だけに豊かに恵みを与えるのです。神様が私たちを神の民としている目的は、私たちを幸せにするためであります。

愛の神様ですので、私たちにみことばを与えて 「従いなさい。」ということは、私たちに恵みをたくさん与えたいからです。
これは神のルールを教えているのです。


不従順の罪は悔い改めないと天国には入れないです。
心を頑なにして悔い改めをしないならば神様との関係がなくなります。
いくら神の民であっても神に向かってうなじのこわい者、不従順する者に 救いの恵みが臨むことはありません。


神様は「わたしの声に聞き従うならば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と語りました。また神様は従順する者に聖霊を与え、祝福し、幸せにさせると約束してくださいました。


私たちが主の声に聞き従う時に、神様は私たちを民として認めて下さいます。




②霊とまことによって神に礼拝すること



【エレミヤ書7章21節】

全焼のいけにえを、あなたがたのほかのいけにえを加えて、その肉を食べよ。

と語りました。

全焼のいけにえとは、完全に焼いて捧げるいけにえなので 肉は残っていません。そして神様は その香りをいけにえとして受けます。それなのに神様は、肉もないのに、ほかのいえにえを食べなさいと言うのは、神様からの非難的な言葉であります。


全焼のいけにえを捧げているのに、神様はそのいけにえを受け取れないということです。神様が拒否する姿です。
それは神様が受け取らなければいけない物なのに、「あなたが食べなさい。」ということは、「わたしは受け取れないのだ。」ということです。

(受け取らないのは全焼の捧げ物の中に)その人の心が入っていないからであります。


今の時代では私たちが牛や羊を捧げることはないですが、神様に霊とまことによって全焼のいけにえを捧げる方法があります。次の箇所です。


【ローマ12章1節】

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

全焼のいけにえ そのものには、“献身”の意味があるのです。
「私の心も身体も神様に捧げます。神様を信頼し、愛します。」というすべての思いが込められて、神様に捧げることなのです。


神様は常に心を見ておられます。
神様を信頼する心も愛する心もなく ささげる礼拝を神様は喜ぶでしょうか。―― 喜びません。

神様が求めておられる礼拝について書かれているのは次の箇所です。


【ヨハネの福音書4章23-24節】

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

神様はこのような礼拝者を求めておられます。

日曜日に教会で神様に礼拝を捧げることだけが礼拝ではありません。


毎日の生活そのものが神の前で生きながら、神の中に根差して、毎日、毎瞬間 神様に礼拝をすることであります。


私たちが霊とまことをもって礼拝をしたいならば、神の目を常に意識しなければなりません。


私たちは気付いていなくても、神様は何もかも常に見ておられます。

「あぁ、そろそろ祈らなければならないか…」と 形式的に祈るならば神様は受け取らないです。
しかし、形式がなくても私たちが心から神様を見て 愛の心を見せながら感謝して生きるならば、24時間礼拝する者になるのです。


ヨセフがそうでした。ヨセフは24時間礼拝をする者でした。
彼は厳しい試練の中を通っている時 一言も神様に文句を言ったことがないです。
どのような環境に置かれても、常に礼拝でした。

毎日、美しい女性に誘惑されても、ヨセフはそれに倒れませんでした。
倒れなかったのは、ヨセフの心が強かったからではないです。

神様を常に意識するからなのです。
「神の前でこんな罪は犯せません。」と、それを堅く決めているのでブレることがなかったのです。


私たちは、あちこちを見たり世の流れに従ったりするので 倒れたりするのです。
信仰が台風に遭っているかのように常に揺れ動いています。それは礼拝をする態度ではないです。

それによって全部失敗をしながら日曜日だけ神様の御前に出て「私は礼拝をしています!」と言うならば、
神様は「違うぞ。あなたの普段はどこへ行っているのか?普段は何をしているのか?」―― それを私たちは意識しなければならないです。


素晴らしい礼拝者は ヨブもそうでした。ヨブがすべてを失った後に主にささげた礼拝は立派な礼拝でした。霊とまことが彼の中に常にありました。

自分の生活全体を通して神の前にははずかしくないように、神を敬い、心から神を求めて生きる人を神様は喜んで下さいますし、その心で礼拝する者を神の民として認めて下さいます。

神様はいつも私たちに良いものを与えてくださるので、それに対して私たちが常に礼拝を捧げる者ならば恵みがなくなることはないです。



③主の声を大切にすること



神様は昔、まだ聖書がない時代にはしもべたち、預言者を通して民に語りました。
彼らが伝えることばは神のことばであり、神の声でした。

しかし彼らは聞かず、耳を傾けませんでした。
主のことばを聞くことを拒否した結果、神のみこころを知らないので あらゆる不従順と罪を行いました。


神様は聖書の言葉を通して主の声を聞かせたり、礼拝メッセージを通して主の声を聞かせます。また兄弟姉妹を通しても御声を聞かせます。
私たちは それを聞く耳をもって聞くことです。


【箴言16章20節】

みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。

主の声を無視せず、聞く耳をもって聞き、心に入れることです。
みことばを心に刻むと私たちの命になります。


今、私たちはいつでも主のことばを聞けることに対しても喜び 感謝しなければなりません。

人の話には興味があって よく質問までしながら聞くのに、「神の声には聞きたくありません」と耳を閉じるならば 神の民と言えるでしょうか。

個人の生活の中でも、教会でも、神のことばを聞くことほど大切なことはありません。

いつも耳を開いて、主のことばを聞きたいと願う人は主に喜ばれます。


自分が神の民であることを誇りと思っているならば、自分自身がその民にふさわしい者になることは当然です。
神の命令に従順し、霊とまことによって礼拝を捧げ、いつも主の声に耳を傾け、そのことばを大切に真剣に聞くことです。

そのように行う人は、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた 民です。


神の言葉を無視するならば、その時から神様は語らなくなります。その人たちには、みことばを聞けない飢饉が必ず来ます。

「聞けることが感謝です。たくさん語ってください。」と謙遜な思いをもって主の前で聞くならば、その人はどんどん神の民らしく生きることが出来ます。 (´∀`*)

2014.5.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンの生活とは?

テーマは 『 クリスチャンの生活 』 です

【ピリピ2章12-18節】

そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。

神は、みここころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、

いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだではなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。

根本的にクリスチャン生活とはどのようなものなのか、今回のみことばの中で知ることができます。

キリストに繋がれている者は、当然 頭であるキリストについていくために、似ていく者にならなければいけないです。
世の人から「あなたは本当にクリスチャンだ」と認められないならば、何によって私たちはキリストを現すことができるでしょうか。

模範であったイエス様を見て、謙遜を実践していく姿がクリスチャン生活の1つであります。




①自分の救いを達成していく生活


神様の言葉にクリスチャンが従う1つの目的は、自分の救いの達成であります。
この言葉で誤解をするかも知れません。

「そうしたら、私たちはまだ救われていないのでしょうか?これから自分の努力で救いを得なければならないでしょうか。」と思いそうですが、決してそういうことではないです。

救いの御業は人間ではなく、神によって始まっています。また、私たちが先に神様を愛したのではなく、神様が私たちを愛しました。そして、私たちが神様を選んだのではなく、神様が私たちを選んでくださったのです。

例えば、人を通して その人を導いたとしても、それは神様から出たものです。
人間は本来、神様を求めない者であります。すべては神様の方から招待が来ました。
私たちがそれを受け入れて救われた時から、聖書を通して多くの言葉が語られました。


救いの計画も、人生の計画も神様が全て持っていますが、私たちは恐れおののいて それに従わなければならないということです。

何に対して恐れおののくのでしょうか?―― 救いを与えてくださった神様に対する敬う心であります。

神様は 私たちをロボットや軍隊のように従わせるのではなく、優しくみことばを語りながら教えてくださるので、私たちが従順しながら歩むのは救いの達成に向かっているのです。


救いの達成に向かって進むということは、荒野でのイスラエルの民たちの姿を思い出したらよく分かります。
神様は奴隷生活した彼らを、一方的な神様の御業を通して救い出しました。彼らの努力は1つもありませんでした。
神様は救い出したいと思い、モーセを用いて全員をそこから出しました。これは救いであります。

神様が先頭に立って、イスラエルの民たちは喜びながらついていくと、荒野が見えて来ました。
それは私たちが救いを達成していくために、進まなければならない道なのです。

彼らにマナを食べさせたり 神様からの恵みをたくさん与えました。
そして神様はカナンの地につれていく計画を立てて その中で神様がずっと律法を語っていました。
「(カナンの地へ行くために)わたしの言葉に聞き従いなさい。」と 恐れおののきなさいと語りました。


しかし、恐れおののいた者はわずかでした。モーセ・カレブ・ヨシュアでありました。それ以外は誰もいませんでした。
彼らは神様の約束の言葉や命令を聞きましたが、人間として責任ある行動が出来なかったのです。
救われてエジプトから出ましたが、神様がずっと見ていて(彼らは)天国に入る者として相応しくなかったのです。

彼らは天国を自分のものにしたいという思いがありましたが、神様を恐れおののかず、ずっと不信仰でした。

神様は(彼らに)たくさんの良い恵みを与えて、奴隷から救い出しましたので(神様の)言葉に従ってくれると思っていました。
しかし、神様の言葉に従わなかったので、人格を持っておられる神様は刑罰を与えました。すると彼らは神様に助けを求めましたが、困った時だけ助けを求めました。そして、それが解決されると また不従順の連続でした。

結局2人しか辿りつけず、他の人たちは荒野で倒れました。これは救いの達成が出来なかったということです。


これは今のクリスチャンも同じであり、私たちは不信仰・不従順になると倒れてしまいます。
神様を恐れおののかないと、そこで倒れるしかないのです。

選ばれた人間は、神様に対する責任ある行動と応答をしていかなければならないです。
従順していくと、神様との距離が近くなり一緒に歩めるようになります。神様はその者を一番喜んでくださるのです。

イエス様が謙遜な姿ということは、自分を捨てたことであります。父の御心にいつも自分を合わせていきました。
それによってイエス様も勝利をしていったのです。

クリスチャンは神様を恐れおののいて従順して、自分の救いを達成していかなければならないです。




②つぶやかず・疑わない生活


救いを達成させるための中身は、つぶやかず、疑わない生活であります。
これは謙遜にならなければ無理です。

高慢な人はつぶやきが多いです。高慢な人は欲望が多過ぎるので満たされることがないです。
自己中心なので自分の思い通りにならないと神様に対してもつぶやきが多いです。

イスラエルの民たちの一番の大きな罪は「つぶやき」でした。不平不満が心に満たされていました。感謝をせず、恵みを覚えていないのです。

謙遜は自分を「無」にすることです。
「無」になると、与えられるどんな小さなものでも恵みなのです。「私は無価値な者なのです。」と本気で思う中で、神様が水を一杯でもくださるなら感謝の気持ちでいっぱいになります。

しかし、自分を高く評価する者は「こんなもの食えるか!私を誰だと思っているのか?」と感謝をしないのです。
イスラエルの民たちはマナに対しても「こんな惨めなものは食べたくない。」と文句を言いました。


私たちも、クリスチャンと言いながらも神様に対してつぶやき、周りの人に対してもつぶやくのは感謝をしないことであります。また、家族に対してもつぶやきます。

これは よく考えたら良いと思います。家族が自分にとって、どのような存在でしょうか?

家族がいなくなったら――?旦那さんが一生懸命働いて家族を養うことは、とても責任あることなのです。
これは立派な働きです。また、休みたくても休まず何十年間も働いています。自分の人生が拘束されて1年間にわずかな休みしかないのです。
会社では辛い事もありますが、我慢をして家族のために働いているのです。

主婦はその点では時間に自由がありますし、楽なのです。
旦那さんから給料を全部取り、わずかな小遣いしか与えないのならとても辛いことだと思います。
もしも、自分が逆の立場だったらどのようにするでしょうか?
常に私たちは逆の立場になって考えたら良いと思います。


神様は、すべてのことに つぶやかず、疑わずに行いなさいと私たちに語りました。
私たちは本気でそのようにすると自分を「無」にして謙遜な姿をもって生きるならば、これは難しいことではないです。

自分の存在価値が高いものだと 勝手に思うので全てが不満になるのです。

霊的に成長すればするほど純真な者になっていきます。私たちの中から肉の不純物がどんどん消えていきます。
肉のものを神様の言葉に服従させて(肉を)消していくならば純粋な者になります。
花嫁の姿の基本は「純真な者」です。日々、自分を綺麗に保っていかなければならないです。

私たちが汚い者になるならば、神様がまとめて火の中に投げ込むのです。

神様の子どもは「光の子ども」であります。悪魔の子どもは「闇の子ども」です。これは水と油のような関係です。
暗闇の中にいても、光るものが1つあれば とても目立ちます。

神様が願うのは、(私たちが)暗闇の中で世の光として目立つ者になってほしいのです。周りの人たちにそれを見せていかなければならないです。

聖書の言葉を握るということは 自分の欲のままではなくて、みことば通りに生きるということなのです。




③喜びの生活


【ピリピ2章17節】

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

パウロは殉教することを知っていましたが、この時は既に捕えられていました。
「わたしは主の働きをして最後に死ぬのだ」ということを知っていましたが、これはキリストの栄光が現れることなので彼はすごく喜んでいました。

死ぬことを喜んでいたのです。キリストと苦難を共にし、わたしが一粒の麦となって死ぬならば、多くの魂の実を結ぶ事ができると見て喜びました。

もしも 私たちが罪を犯して死ぬならば、喜ぶことは出来ないです。
それは何の報いもなく、人々に良い影響を与えるどころか悪い影響を与えるのです。

しかし、キリストのために献身的に働きをし、人のために自分の命を捧げる人は永遠に褒め称えられます。
神様がその人に栄光を注ぎます。その死は新しい命の道に入る1つの扉を開ける栄光の死なのです。
地上での扉は閉まりますが、新しい扉を開けると永遠の命の世界であります。

これは誰でも行ける世界ではないです。黙示録にあるように「勝利する者」という前提があります。
つまり、勝利をしていない者はその恵みを受けることが出来ないのです。


私たちも自分を犠牲にしないと、最期には神様が「あなたは生きる値打ちがない者である。」と犠牲をさせるのです。

私たちの命は自分のために生きるのではないです。キリストにあるものは、キリストのために生きる者であります。

私たちがキリストを取ってしまうならば、それはクリスチャンではないです。
キリストのために生きる者を「クリスチャン」と呼ぶのです。

私たちは生き方によって、神様から救い出された者であることを ずっと見せていかなければならないです。

クリスチャンとして生きることは、教会に行く事、奉仕をすることではないです。

心と生き方すべてのものを神様が喜ぶほうに変えない限り、神様と一致できないですし、救いの達成には至りません。

クリスチャンとしてきちんと生きていく人生を私たちは目指していきましょう。 (・∀・)つ

2014.1.5
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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