からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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誘惑

貪欲な心

テーマは 『 貪欲な心 』 です

ハレルヤ。

主の守りが今日もありますように祈ります。


他の神々に使えることだけが偶像礼拝ではなく、それよりも警戒しなければならない偶像礼拝があります。

それは “貪欲” です。


神の人たちが、この貪欲によって、たくさん倒れましたし、今も多くのキリスト教の指導者や信徒たちが、それで倒れています。

本人たちは、なかなかそれに気付いていないですね。

実際は貪欲の深みにはまっています。


この貪欲に対して、ソロモンは次のように言いました。


【伝道者の書1章8節】

すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。

知恵の王と呼ばれたソロモンさえも、この貪欲に倒れてしまいました。

妻とそばめが千人もいました。


金や銀、宝石は数えきれないほどありました。

ありとあらゆるものを手に入れました。

それでも満足しなかったと言われました。


アダムとエバが罪を犯したのも貪欲でした。

食べてはならないと神が命じたにも関わらず、欲しくなって善悪の知識の木から採って食べました。

そのことで祝福に満ちたエデンの園から追い出され、死と呪いと労働と、女には産みの苦しみが入ってきました。


ロトは、罪に染まったソドムの豊かさに誘惑されて、そこに定着しました。

ソドムが神によって滅ぼされたときに、彼はすべての財産を失い、命からがらで その町から逃げました。

それもアブラハムのとりなしがあったので助かりました。


生活に困ることなく、十分なものを持っていたにも関わらず、貪欲な心があったので、罪に染まった町であっても、豊かさをさらに求めてその町に移り住んで後にひどい目に遭いました。


アカンは、神に捧げるべきものを欲しがり、自分のために残したことで神から捨てられました。

イエス様の弟子であったイスカリオテ・ユダもお金が欲しくなって、イエス様を金で売りました。

後になって苦しくなり自殺しました。


貪欲にも、2つのパターンがあることを知らないといけないです。


積極的な貪欲は、欲しくて誘惑されて取りに行く貪欲があります。

もう1つの、消極的な貪欲は、もったいないと思う惜しむ心です。


サウル王やアカンがそうでした。

戦いの勝利で、多くの家畜や家や物などが手に入ったのに、それに手を付けず、“生き物は全部殺すように、あとは燃やしたり、壊すように” と神から言われたのに、それをもったいないと思い、それを横取りしました。


“もったいない” は、節約精神のように思われまが、裏を返せば そこに潜んでいるのは、物に執着する貪欲な心があります。


貪欲な心は、自分だけ富ませ、他人に与え、他人を祝福することが出来ません。

貪欲には警戒が必要です。
。゚(゚´Д`゚)゜。ウァァァン

2016.3.5
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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罪の始まりと死の始まり

テーマは 『 罪の始まりと死の始まり 』 です

ハレルヤ。

主の豊かな恵みによって今日も守られますように。


人々に 人間の罪の始まりと、死の始まりを教えるためには、必ず最初の人間として神に造られたアダムとエバの話をしないと説明ができないです。


聖書を知らない人たちにとって、この話は初耳になりますね。

ですから、ノンクリスチャンに罪の話をはじめる時は、その部分から説明をはじめます。

最近もこの話をしたことがあります。


なぜ、アダムとエバは “採って食べると必ず死ぬ” という言葉を、あらかじめ神から聞いていたにも関わらず、手を伸ばして ≪善悪の知識の実≫ を採って食べたのでしょうか?


これは罪の始まりですから、私たちに大いに参考になります。

自分たちが罪を犯す時も、同じ原理から罪が始まります。


彼らは神様のことばを聞いたにも関わらず、神の言葉を軽く考えました。

真剣に受け止めたのではなく、 “軽く” 考えました。

これが彼らの重大なミスでした。


“必ず死ぬ” と言われたにも関わらず、“死ぬかもしれない” くらいな感じで受け止めていました。

これは 私たちにもよく見られる姿です。

「こんなことで 神様が殺すわけがないだろう。神は愛なんだから。恵みの神は赦してくれるでしょう。あとで悔い改めたし」と軽く考えます。


神はそのように思っていないのに、自分で勝手に神の心を変えてしまいます。


【マタイの福音書5章18節】

まことに、あなたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

【箴言13章13節】

みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。

神の言葉をさげすんで、勝手な思いで罪を犯すと 自分の身に滅びを招くことになります。

そして、アダムとエバの中に 神の言葉に対する疑いが生じました。

それは、そそのかすためにサタンがついた嘘の言葉を聞いた後でした。


【創世記3章4-5節】

あなたがたは決して死にません。

あながたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることは知っているのです。」

耳に甘い言葉が、サタンの口から出てきました。

昔から「甘い言葉には気を付けなさい。

この世の中、そんなに甘くない」とたくさん聞かされていても、人間には欲があるので甘い話にコロッと騙されます。


その言葉がエバの心を誘惑しました。

神以外の者から、初めて違う言葉を聞きました。

そして、その言葉は耳を喜ばせる言葉でした。


このような状態が、次の言葉にあります。


【ヤコブ1章14-16節】

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。

エバが誘惑されて見ると、「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」ので、その実を採って食べ、アダムにも与えたので2人とも食べてしまいました。


神は嘘を言わない方なのに、サタンは神を嘘つきにしました。

そして、嘘つきの自分(サタン)を 親切で真実な者のように偽装しました。

これがサタンが最も使う策略です。


これに騙されると罪が生まれます。

さらに神のようになろうとしたことは、神の領域を侵害したことでした。


神の言葉を信じず、それに従わないことは、自分が神になっている姿です。

これらの部分を注意しないと、いつでも私たちは罪の奴隷になります。

気を付けましょう。
( -д-)ノ

2016.1.21
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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新しい人として生きていますか

テーマは 『 新しい人として生きていますか 』 です

【第1テモテ1章5節】

この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。

キリストの血潮によって罪赦され、聖霊によって生まれ変わった人を “新しい人”と呼びます。

新しい人にふさわしいのは当然新しい生き方です。


皆さんは新しい人ですか?
そして、いま新しい生き方をしていますか?


今日のテーマは「新しい人として生きていますか」です。


まずは新しい人の身分と、それにふさわしく生きることの内容を聖書で調べます。




・新しい人とその生き方




新しい人は以前とは違う状態に変わったことを次のことばが説明してあります。


【第1ペテロ2章9-12節】

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり、寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。

新しい人は神のあわれみを受けて、神に選ばれた者であり、祭司として神に仕え、罪赦され聖なる者になり、神のものになった人です。


古い人とはまったく違う状態になりました。


人の知恵や力によるものではなく、すべて神のみわざと力によって新しくされました。

肉体が変わったのではなく、その人の魂や身分が変わりました。


ですから新しくなった人は 肉に従って歩むのではなく、御霊の導きと神のことばに従って歩まなければなりません。


そのために必要なのが 新しい生き方を学ぶことです。

新しい生き方を学ばずに 新しい人として生きることは出来ないです。


信じた後でも何も変わらず以前と同じ生き方をする人が多いですが、それは問題です。

それは古い人のままで生きている姿です。


新しい生き方で歩もうとする時に、それを邪魔する強い敵に私たちはすぐ遭遇しますが、それは外部の敵ではなく、自分の中に長く住みついた “肉の欲” です。


これが なかなか消えません。

また、自分でもこれに執着して 何もせず礼拝出席や奉仕だけで信仰生活をしようとします。

クリスチャンの中で一番多いタイプです。


救われたのに、相変わらず広い道を歩んでいますし、間違えた教えをする牧師たちは さらにその道を広げて信徒たちが古い人の姿のまま生きるようにさせています。


「救われた人はそんな事を気にせずに自由に生きたら良い」と甘い言葉をかけます。

これが最悪のサタンの策略です。


神からのことばは 次のように言われています。


【第1ペテロ2章11節】

たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

古い人の中にあるものは肉の欲です。


古い人は、肉の欲に従って歩みました。

それが何の問題でもありませんでした。

肉の欲がないと成功しないし、金持ちにならないし、祝福もされないと教えられたので、肉の欲があることが自然体だと考えていました。






しかし新しい人に “肉の欲” は癌細胞のように危険です。


私たちを再び罪の中に引き込もうとする誘惑であり、魂を汚すものであり、世に関心を持たせ、神から引き離そうとするものです。


せっかく新しく生まれ変わったのに、古い人に再び転落する恐ろしい誘惑なので警戒が必要です。


この肉の欲を遠ざけるために必要なのが、神のことば、きよい心、正しい良心と偽りのない信仰です。


私たちの内面が それらのもので満たされないと、以前からの古い生き方を変えることは出来ません。

古い人の時は 肉の欲を誘惑とは思っていなく、“それくらい皆もやっているから“ と嘘や不義なやり方で自分の利益を先に求めていました。


しかし新しい人になった後に そのやり方をすると、私たちの中にある良心は騒ぎ出します。


「そんなことして良いの?」と胸騒ぎがします。

また、心の中におられる聖霊様が悲しみます。


「聖霊を悲しませてはならない。」と言われたのは、私たちが霊的に無感覚になって 不義を行う時に、神様は私たちを見て心を痛めるからです。

良心が麻痺されると嘘をついても不義を行っても心があまり痛くないです。


良心の声よりは、利益のために少々のことは言い訳をして平気にやります。

しかし新しい人の道徳観、倫理観、生き方は そのレベルであってはいけないです。


主が主の祈りの中で教えて下さった祈りの中に次のことばがあります。


【マタイの福音書6章13節】

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

と、ありますが、これが「たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」という言葉と繋がりがあります。


私たちが一番試みにあっている部分が “肉の欲” です。

口では「主よ。主よ」と言うのに、心にある主人は肉の欲です。


世を愛し、金銭を愛する心がある人が 一番誘惑に弱く、一番惑わされやすいです。


その人たちは良心までも麻痺されています。




・肉の欲の危険性




【第1テモテ4章1-2節】

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、

この言葉のように、肉の欲には “惑わしの霊と悪霊の教え” が入りやすく、もし入ると、この世と妥協して自分の利益を優先するので良心が汚れ、悔い改めすら出来ないように心が麻痺していきます。


麻痺とは “無感覚” になったことを意味します。不義を行っても悲しくも苦しくもならないです。

反対に「何が悪いの?」と開き直ります。


パウロのことばを聞きます。


【使徒の働き20章33節】

私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。

サムエルのことばも聞きます。


【第1サムエル記12章3-5節】

さあ、今、主の前、油そそがれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、私はあなたがたにお返しする。」

彼らは言った。「あなたは私たちを苦しめたことも、迫害したことも、人の手から何かを取ったこともありません。」

そこでサムエルは彼らに言った。「あなたがたが私の手に何も見いださなかったことについては、きょう、あなたがたの間で主が証人であり、主に油そそがれた者が証人である。」すると彼らは言った。「その方が証人です。」

二人のことばで明らかになったのは、神のことばをしっかり守りながら生きていることと、人の前でも自分の良心にとがめがない生き方をしていました。


しかし外側は敬虔に見えるパリサイ人たちに対して、主は彼らを “偽善者” と呼び、次のように語りました。


【マタイの福音書23章28節】

おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

神の子どもたちが 不法なやり方で利益を得たり、他人に被害を与えたり、嘘を言ったりすると、正義と公義の神様が 自分の子どもがそのような生き方をしているのを いつまでも黙って見ているわけがありません。




・神は神の子どもたちに何を願っているのか




【ミカ書6章8節】

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

“公義” とは「律法にかなった正しい行動」です。

公義を行うことが良いことで、神が喜ぶことです。


肉の欲のために、罪に足を一歩でも踏み入れると 私たちは一つの罪だけではなく、律法全体を犯すものになります。

箴言のことばを三つ開きます。


【箴言1章19節】

利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。

【箴言20章10節】

「異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、そのどちらも主に忌みきらわれる。

【箴言20章17節】

だまし取ったパンはうまい。しかし、後にはその口はじゃりでいっぱいになる。

政治家たちのことを思い出してみて下さい。

自分の利益のためにわいろを取ったり、支出をごまかしたりして職を失い、恥をかき、反対にもっと大きなお金を失くしたりもします。


もしクリスチャンである私たちがそれと似たようなことをすると、誰よりも聖霊が悲しみます。


新しい人の自覚をもって生きることは、楽ではなく反対にしんどいです。

生き方を修正することはとても難しいし疲れます。


戦いも楽ではありません。負ける時が多いです。

それで「昔の方が楽だったのに」と思います。


しかし新しい人として生きるためには、嫌でも肉の欲を遠ざけないといけないです。


肉の欲と戦いもせず、好きなように生きると それは古い人のまま生きることを選んだことになるので、神の子どもとして生きることを辞めたことになります。

きっといつか後悔するでしょう。


戦いに負けることがあったとしても あきらめず、神の言葉の基準や良心のとがめがない生き方を選びましょう。


私たちが信仰を持ったのは、新しい人として生きるためです。

神の愛を受けたので、自分も神を愛して生きることを選びました。


ですから神を愛することをやめると、信仰生活は維持できないです。

信仰生活はみことばの上に立ち、神を愛し、新しい生き方をすることです。


古い人は、十字架の上でキリストと共につけられて死んだことを再確認して 新しい生き方を実行していきましょう。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2016.8.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私たちのための主の祈り

テーマは 『 私たちのための主の祈り 』 です

【ヨハネの福音書17章15-22節】

彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。

またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

今月はキリストの受難、十字架の死、復活があります。

その流れを今月のテーマとして語ります。


イエス様は いつも祈りをささげる方でしたが、特に自分の死が迫って来た時に、弟子たちのためにいつもより長い祈りをしました。

聖書に書かれたイエス様の祈りで、ヨハネの福音書17章の祈りが一番長いです。


その内容は弟子のため、また私たちのための祈りでした。

その祈りには、主の深い愛と主の願いがありました。


そして私たちに対する主の期待も反映されています。


今回は 祈りの内容に心を向けたいと思います。




・悪い者からの守りを祈る




悪い者に出会って良いことはありません。

サタンはいつも聖徒たちを狙います。


罪を犯させるために誘惑して、サタンがどれほど策略をもって働くか分かりません。


それに気付かず眠っている聖徒が多いのは事実です。

皆さんは目を覚ましていますか?
悪い者に いつも警戒していますか?


3年間、弟子たちと共にいたイエス様は 弟子たちの姿をよく見ていました。


肉の欲と思いで 互いに妬んだり、高慢になったり、争ったりする姿を見ました。

主と共にいながらも サタンの誘惑に負け、罪を犯していました。

そのことを深刻に考えている弟子はいませんでした。


悪者を警戒するように教えても、実行できていない弟子たちを見て、死が迫った時でも主は彼らのために祈りました。

主は 彼らの活躍、健康、幸せ、成功などは祈りませんでした。


なぜなら それより大切なことは、彼らが罪を犯さないことでした。


“罪” は神との関係を悪くし、いのちに関わることです。


人は罪を犯すと “罪の奴隷” になってしまいます。
それが神との関係を壊す要因になります。


“ 罪から来る報酬は死 ” ですので、悪の道へと誘う悪い者から守って下さるように祈りました。


この祈りはいつも必要な祈りです。

私たちも 神様に、悪い者から守って下さるように祈らないといけないです。

イエス様がそのように祈ったならば、私たちもそのように祈ることです。


実際に十字架にかかる前の晩に悪い者が近付くことを知っている主は 必死に祈りました。


そして弟子たちにも 「誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさい。」 と何度も命じました。

しかし眠気に負けた弟子たちは、誰も祈ることができず寝てしまい 祈りが出来ませんでした。


その結果、祈りがなかったので 人を恐れて、信仰から離れ、自分たちを愛し育てたイエス様をみんな裏切りました。


もし彼らのためのイエス様の祈りがなかったならば、彼らは誰も立ち直ることが出来なかったと思います。

そして主のための働きも出来なかったと思います。


ある時に、弟子たちが “祈りを教えて下さい” と言われた時に、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい。」と祈るように教えました。

しかし彼らは その意味が分からなかったですが、あやまちを犯した後に その祈りの重要性をすごく実感したと思います。


弱い私たちも 主が私たちのために「悪い者から守って下さい」と祈ったように同じく祈ることです。




・聖別されること祈る




ヨハネの福音書17章17節にある 「真理によって彼らを聖め別ってください。」 と祈りました。


【ヨハネの福音書8章32節】

そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

このような みことばがありますが、“真理を知ることは キリストを知ること” で、“ 自由になることはキリストを信じて信頼し服従すると罪から解放され罪に支配されることがない” ということです。


罪は私たちを汚しますが、罪赦され、真理の支配を受けると聖くなっていきます。


神の願いは 私たちが聖なる者になることです。

“聖” は神の属性です。


そして信じる者がますます聖化されることを主は願っています。

新しく生まれ変わった者にはこれが必須です。

次の箇所は “聖化” に関することばです。


【エペソ4章23-24節】

またあなたがたが心の霊において新しくされ、

真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

“聖化” は、聖霊抜きにして出来ることではありません。


聖霊が信徒の中に働いて、罪の汚れから解放し、新しい人にして、みこころに従うように、良い行いが出来るようにして下さいます。


“救われたので それで万事OKという事はない” です。


ますます聖なる者となるために、罪から離れ、真理に従うことが大切です。

聖め別たれることは、聖別されることですから、そのためには神の言葉に従うことが必要です。


みことばは 教えと戒めと矯正と義の訓練とに有益で、私たちを聖め、良い働きが出来るようにします。




・一つとなるように祈る




ヨハネの福音書17章21-22節で  一つになるように祈りました。


これは信徒たちが一つになることは もちろんですが、教会が一つになることを祈りました。


イエス様と父なる神は いつも一つでした。


教会はキリストの体で、かしらはキリスト、私たち信徒は 体である教会の各部分です。

そして教会が一つになることは、全世界の教会が連合するという意味ではなく、本質的な側面での統一性を意味します。


父なる神とイエス様はすべてにおいて いつも一致していました。


互いが愛し尊重していましたし、互いに高めていました。

それは素晴らしい関係でした。


それと同じように、私たちが 主と一致すること、聖徒たちもキリストにあって一つになることを祈りました。

教会の体の一部分になった信徒たちが “一つ” になることで、神とキリストを伝えることが出来ます。


分裂したり、争ったりすると キリストを伝えることが出来ません。

そんな所にたましいを導きたいとは誰も思わないですね。


年齢や出身、考えが違っても 互いに愛し合い、人を自分よりも優れた者と思い、互いに重荷を負い合う時に “一つ” になれます。


非難したり、壁を造ったり、差別することは みことばに背くことです。

主は私たちに合わせるために卑しい人間の姿になりました。

それが模範です。


大した者でもない私たちが高ぶった思いをもって一つにならないと、主もその人と一つになることが出来なくなります。


主が与えて下さった新しい戒めが、次の箇所にあります。


【ヨハネの福音書13章34節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

これが一つになれる一番の方法です。

イエス様は、最後の日も このように弟子たちや私たちのために祈って下さいました。


その時、イエス様はどのような気持ちで祈ったのかをよく考えることです。

主の祈りが無駄にならないように、その祈りが自分の身になるように同じ祈りをしながら生きることです。


罪人、悪を行う者、汚れた者、分裂を起こす者は 神に喜ばれることも、御国に入ることもありません。

私たちを愛した主は 一人でも失われる者がないように、心を込めて祈りました。


日々、目を覚まして祈っているならば 悪者の誘惑に負けることはありません。

聖くなればなるほど 神を見ることが出来ますし、神の子と呼ばれます。

そして教会を愛し、キリストを愛し、聖徒を愛するならば それによって一つになれます。


主が祈ったように祈りながら実行してみましょう。
v( ̄∇ ̄)v

2016.6.14
聖日礼拝メッセージ

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信仰の試練

テーマは 『 信仰の試練 』 です

【ヤコブ1章2-4節】

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

【ヤコブ1章12-14節】

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

今回は “信仰の試練” に対して 神の言葉を伝えます。


本文の中には何度も “試練や誘惑” という言葉が書かれていますが、よく読んでいくと それぞれ意味が違うので、そのことを理解する必要があります。


信仰には “試練” がつきものです。

試練に会って、「どうして私に?」と思うのではなく、「来るべきものが来たのか」と肯定的に捉えることが必要です。


なぜならば、その試練が悪いものではないからです。


どのような意味があるのかを学びます。




・私たちを完全な者にするための試練




ヤコブ1章2-4節に出てくる試練は、“私たちを鍛錬するため” の試練です。


聖書に出てくる信仰の人たちは、皆 この試練を受けました。
これは、鍛錬のためのテストです。


代表的な人物はアブラハムです。

創世記22章にアブラハムが受けた試練がありました。
それは神から来た試練でした。


【創世記22章1-3節】

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

ある日、突然ふりかかった とんでもない試練でした。

アブラハムへの信仰のテストでした。


自分の思いを優先するならば、神に従うことが出来ません。

親として愛する自分の子どもを殺すことは出来ません。


しかし 信仰で考えるならば、どんなことであれ 神に従うことが優先です。


信仰のテストは (自分の思いではなく)信仰を選ぶならば、すぐに正解を出せます。
(神から)言われた通りに従えば 問題がないです。


どちらが正解か と迷う必要もありません。

しかし肉の思いで悩むと さらに苦しくなり、神と戦うようになり、だんだんと心が不信仰に傾くので、最後には不正解を選ぶようになります。


アブラハムはどうでしたか?

それまでも神の言葉に従って歩んで来たアブラハムは、今回も信仰による決断しかしませんでした。


すぐに支度をして翌朝早く 示された場所に向かい、イサクを言われた通りに全焼のいけにえとしてささげようとしました。

その瞬間、「アブラハム。アブラハム」と彼を呼ぶ御使いの声がありました。


初めは「アブラハムよ」と呼びかけましたが、次は「アブラハム。アブラハム」と呼びかけ、緊迫したようにも聞こえます。

アブラハムが刀を取って自分の子を殺そうとしたのが あまりにも本気だったからだと思います。


アブラハムは前回と変わらない答えでした。
「はい。ここにおります。」

御使いは次のように仰せられました。


【創世記22章12節】

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

信仰の試練は、神が第一なのかをテストします。

神が一番でないならば、その信仰は 神が喜ぶ信仰ではないです。


その人にとって “一番” になっているものが(その人にとっての)神であり、それは偶像の神です。

そのような人は偶像崇拝をしており、信仰は “形だけ” です。


ですから、試練を与えてテストをすると分かってきます。

人間はいつも変わるので、時々試練を与えてテストをする必要があります。


この信仰の試練によく耐える人は ますます信仰が強くなり、さらに神を愛し、神を恐れる人になります。


だんだんと信仰のレベルが上がっていき、強度が強くなります。


アブラハムは この試練に耐えたので、“信仰の父” になりました。

このような試練は、私たちを成長させ、豊かにし、完全な者にさせます。




・イエスを信じることによって来る試練




ヤコブ1章12節のみことばです。

『試練に耐える人は幸いです。』


ここでの試練は “苦難、患難、迫害など” です。


試練を持ってくるのは神ではなく、悪魔です。

神に敵対する悪い勢力を悪魔が使って試練を与えます。


キリスト教は長い間 迫害を受けました。

新約聖書が書かれた時代は 激しい迫害がありました。

その時代に一番迫害と試練にあったのは、使徒パウロでした。



【第2コリント1章8-9節】

兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、

ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

主の弟子たちは、試練に対してとても肯定的な思いで受け取っていました。


その試練によってイエス様の苦難にあずかる者になったことを喜びましたし、その試練によって肉の思いが砕かれ、もはや肉に頼る者ではなく、神に頼る者になることを期待しました。


ペテロもそのように試練を捉えていました。


【第1ペテロ1章6-7節】

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。

この試練は悪い者たちによって受ける試練ですが、神はそれを善に変えて下さいます。


その試練に信徒が忍耐して 信仰を守り通す時に、素晴らしい報いを与えて下さいます。


それはいのちの冠で、最も価値ある報いです。


ですから、試練が来た時に 喜んで受け入れないといけないです。

それによって大きな報いが与えられるからです。





・私たちを倒そうとする誘惑




これは ヤコブ1章13-15節にある誘惑です。

この誘惑は 神から来るものではないので絶対受けてはならないです。

これはサタンが私たちを悪に誘う誘惑です。


今の日本では迫害は ほとんどないですが、この誘惑はたくさんあります。


激しい迫害に耐えた人でも この誘惑に負ける人がいます。

サタンが アダムとエバを倒したのは、まさに この “誘惑” でした。


目の欲、肉の欲を刺激しました。

刺激されたエバが善悪の木を見ると どうなったでしょうか。


【創世記3章6節】

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

誘惑に負けた姿です。

誘惑された時に すぐさまサタンを追い出さないで、好奇心で見るならば 必ず誘惑に負けます。

見た瞬間に心にある欲が目覚めて誘惑と結びつき 罪を生み出します。


誘惑は罪を犯させるためにサタンが仕掛けた罠です。


それに引っかかると必ず罪を犯します。


立派な信仰を持っていたダビデが倒れたのも、1人の女を見て誘惑されたからです。

目の欲に揺れた時に サタンを追い出せば良かったのに、それをせず女を連れて来させたので、そこから信仰が転落していき、そのことでダビデがどれほど辛い日々を送るようになったか分かりません。


誘惑は本当に気を付けないといけないです。
サタンは欲につけ込みます。



女の欲があるならば 女で誘惑します。

名誉、地位、情など色々な誘惑のパターンがあります。


自分が持っている欲はすべてサタンの標的になります。


この誘惑に負けないためには2つの方法があります。

神の武具を身に着けて誘惑が来た時に戦うことです。

サタンを追い出します。


誘惑されると罪を犯すので神は血を流すまでは戦いなさいと言いました。


いつも神の武具を身に着けて警戒することです。


そして自分の中にある様々な欲を打ち砕いて捨てることです。

それには霊的訓練が必要です。
知識ではなく実践です。


自分の欲と戦い、試練の中で実践をすることです。

自分の中にある欲を捨てないと いつまでもサタンは誘惑を止めません。


ですから自分がしんどくなり、誘惑と欲に疲れ果ててしまいます。


霊的訓練で内側にある欲を取り除かないといけないです。

生きている限り、信仰の試練はあります。


試練があって当たり前と思って下さい。

しかし それは悪いものではなく、私たちに必要であることを認識して、逃げず、文句を言わず、耐え抜いて勝利して下さい。

そうすると必ず成長しますし、神からも良い報いを受けます。
(・∀・)つ

2016.2.28
聖日礼拝メッセージ

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幸いな人とわざわいに陥る人

テーマは 『 幸いな人とわざわいに陥る人 』 です


【箴言28章14節】

幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。

人間にとって一番の願望は、幸せになることです。

また人間が一番恐れているのは、わざわいに陥ることです。


箴言28章14節には “幸せになれる人と、わざわいに陥る人” のことが書かれています。


今回は幸いな人とわざわいに陥る人に対して語ります。

決して難しい内容ではないので、聞く耳をもって聞いて下さい。




幸いな人はいつも神を恐れる人です




“恐れる” ことは神様を恐がることでしょうか?
そういう意味ではないです。

色々な意味がありますが、一番の意味は 真実な心と愛をもって神に仕えることです。


神は心を見抜くお方ですから、私たちが偽りの心で神に仕えても 全てお見通しです。

そして、私たちのそのような心と態度を忌み嫌います。


しかし神を信じる人が皆、神を恐れているでしょうか?


恐れる人よりは、恐れない人の方が圧倒的に多いです。


まずは神に対する真実な心があまりないです。

自分の都合によって神に近づいたり、距離を置いたり、離れたりといつも変わります。


その心や愛が本物には見えず、偽りが多いです。


皆さんの心はどうでしょうか?

何があっても神を愛する心に変わりはないですか?


イエス様のことを三度も知らないと言ったペテロに対して 主が質問したのは1つでした。


「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と三度も聞きました。

自分のいのちが危なくなった時に、ペテロはイエス様を捨てて、「知らない」と言いました。


ペテロ本人はイエス様のことを他の誰よりも愛していると思っていましたが、実際その愛は 真実な愛ではありませんでした。


真実な愛は愛する相手と一緒に重荷を負い、死の道も一緒に歩みます。


私たちが神の愛を確認したのもイエス様の十字架でした。

神はその愛を、イエス・キリストを私たちのために十字架の上で死なせたことで見せました。



【ローマ5章7-8節】

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

愛にはこのように はっきりとした証拠が要求されます。

言葉だけの愛は真実な愛ではありません。


神を恐れている人には 真実な愛があるので、何があっても変わらない愛をもって忠実な態度で神に仕えます。


また神を恐れることばの違う意味は、神に従順することです。


従順のない礼拝に何の意味があるでしょうか。

従順のない信仰は偽善の信仰です。


神は偽善の信仰を一番嫌います。


神が私たちをどれほど愛しているかを私たちが知っていながら、その神に従順しないならば、私たちが 「神を愛する」 と告白しても、そのことばは偽善的なことばにしか聞こえません。

愛には従順が必須です。


ですから神は “わたしを愛する者は わたしのことばを守りなさい” と言われました。




神をどのように恐れるのか




神を恐れることは、生まれながらの人間には出来ません。

必ず神様の教えを学ばなければならないです。


神を恐れたことのない人間が、信じてすぐに変わるわけではないです。


神がモーセを通して律法を与えた理由は何でしょうか。


【申命記4章10節】

あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」

私たちが神を恐れ、神からの祝福を受けるためには、神のもとに来て学ばなければならないです。


ですから “神に仕える” と言いながら、神の言葉を聞くことを嫌がる人は 神に愛される資格がありません。


神はホセア預言者を通しても語りました。



【ホセア書6章6節】

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

ですので、ホセアは「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」と民に語りかけました。


どのようにして神を恐れるのかを 神から聞かないとその方法がわかりません。


主のことばを学ばず、興味も持たない人は神を恐れることを知らないので、神を恐れることもしないですし、神の愛も祝福も受けることが出来ません。




神を恐れる人が受ける祝福は何か




神を恐れる人は幸いであると初めから言いましたが、どのような祝福があるでしょうか。

神は蒔いた通りに刈り取る法則を作っておられます。


私たちが祝福を受ける目的で 神に仕えることをしなくても、神は初めから祝福を備えておられます。

祝福の約束が聖書に書かれています。


【箴言22章4節】

謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。

この祝福は、この世で生きている間に受ける様々な祝福を意味します。


誉れは 他の人から尊敬される位置にまで上がって神に栄光を現します。

そして最も優れた祝福はいのちです。


いのちとは救いを意味し、永遠のいのちを意味します。


神を恐れる人に 神はこのような祝福を約束し、神の御国を相続させて下さいます。

そして神を恐れる人たちの祈りを神は喜んで聞いて下さいます。


神を恐れず自分勝手に生きて困った時だけ神に助けを求める人と、いつも神を恐れている人が神に求めた時に どちらの人が より祈りの答えを得ると思いますか。

断然、神を恐れる人の祈りです。


神は喜んでその人たちを助け、祝福を与えてくださいます。




心をかたくなにする人が陥るわざわい




かたくなな心に対しての聖書のことばは結構厳しいです。


“かたくなな心” とは、その心が石のように硬くて 神の恵みを受け入れることが出来ない状態です。


恵み深い神様はすべての人に恵みを注ごうとしますが、かたくなな心の持ち主はそれをかたく拒みます。


心を閉ざすので、神の恵みを受けることも出来ないですし、実を結ぶことも出来ません。

金槌のような主のことばで叩いても何とも思いませんし、聖霊の強力な火のようなことばを聞いても何も感じません。


聖書ではこのような人を愚か者と言います。


本人たちは自分を賢い人、慎重な人と思うかも知れませんが、神の目には愚か者に過ぎません。


その心は道ばたのような心です。

なぜ人の心がそこまでかたくなになるのでしょうか?
それは “罪” によるものです。



【ヘブル3章13節】

「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

このように言われたように罪の誘惑を受けると 心がかたくなになり、罪に落ちていきます。


私たちは毎日襲ってくる罪の誘惑を信仰によって勝たなければなりません。

私たちを誘惑する最大の敵は 外にあるのではなく、自分の中にあります。


自分の中にある罪の性質がいつも自分自身に戦いを挑みます。


パウロはこの激しい戦いのことで次のように語りました。



【ローマ7章19-20節】

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。

もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。


【ローマ7章24節】

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。


このように自分の中に激しい戦いがあることを語りました。


外からの誘惑、内からの誘惑に勝たないと ますます心は罪によってかたくなになっていきます。

この世の誘惑に負けると、この世のあらゆるものに心が縛られて、心が石のように堅くなり、なかなか癒されません。


心のかたくなな人が災いに陥る根本的な理由は、神のことばを聞こうともせず、そのことば通りに生きることをしないからです。

そのような人は神のことばを聞くことすら嫌がり、耳を塞いで 「聞きたくないから話すな」 と言います。


皆さんの中で 神のことばを聞きたくないと思っている人がいるならば、その人は自分の心がかたくなになっていることに気付かなければなりません。そして早く悔い改めることです。


心がかたくなになることは なぜ恐ろしいことなのでしょうか。


なぜ災いに陥りますか?


神様は心のかたくなな者に対して干渉せず、好き勝手に生きるように放置します。

するとその人の状態はどのようになるでしょうか。次の箇所です。



【ローマ1章24-32節】

それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、

同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。


“死罪に当たる” ということばがあるように、最後は永遠の死を迎えるようになります。


自分の好き勝手に出来ることを喜び、地上で何も起こらないからと安心していても、永遠に消えることがない苦痛が待っています。


その人たちは自分自身でわざわいを招いていることに気付かなければなりません。

神を恐れることが祝福への道です。


皆さん全員が神を恐れ、幸いな人生になってほしいです。
(*´∇`*)

2015.9.20
聖日礼拝メッセージ

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死の陰の谷はどこなのか

テーマは 『  死の陰の谷はどこなのか 』 です

【詩篇23篇4節】

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

詩篇23篇は、聖書の中で最も愛用されている箇所の一つですが、1節から6節まで全部暗記している人も多いと思います。


今はどのようになっているかは分かりませんが、アメリカの多くの兵士たちが戦争に行く時は 詩篇23篇を書いた紙をポケットに入れて戦場へ行ったと聞きました。


不安と恐れがある時に きっと慰めと力を受けたと思います。


4節に書かれている “死の陰の谷” とはダビデにとってどのような環境だったと思いますか?

私たちは “死” という言葉に反応して「死ぬほど辛い環境」を思い浮かべると思います。

生きるか死ぬか分からない環境の中で、必死に神に叫んでいる姿を想像するでしょう。


アメリカの兵士たちも死と隣り合わせの戦場で戦っていたので、詩篇23篇が慰めになったと思います。


ダビデも数々の戦いがあり、そこで守られたので、自分たちも守られると信じていたと思います。

死は人間にとって最大の恐れであり、最大の敵です。
この死は人間の罪から始まりました。


ですから、環境が厳しかったり、絶望的な中にいるので、そこが “死の谷” ということではないです。

人間が罪を犯して神との関係に問題が生じた時が、人生の一番恐ろしい死の谷であることに気付かなければなりません。


新約聖書でイエス様が 死の道といのちの道について話しました。


【マタイの福音書7章13-14節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

主のことばによれば、狭く険しくて辛い道が死の道ではなく、そこはいのちの道でした。

そして広くて楽な道が祝福の道、いのちの道に見えますが、実は“死に至る道”でした。


私たちはダビデにとって死の谷がどこだったのかを知ることで、自分たちの人生でも どこが死の谷であるかを確認し、そこでどのようするかを学びたいと思います。




ガテのツィケラグの谷がダビデにとって死の谷でした




【第1サムエル記21章10-15節】

ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。

するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」

ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。

それでダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕らえられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。

アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気が狂っている。なぜ、私のところに連れて来たのか。

私に気の狂った者が足りないとでもいうのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来るとは。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」

ガテとはペリシテの国のことです。


ペリシテは5人の王がいる連合国です。そして ガテはイスラエルと国境を共にする国で、お互いの民が行き来したりもしました。

しかしいつも戦っている敵国でもありました。

当時、無名のダビデを一躍有名にした戦いがゴリヤテとの戦いでしたが、そのゴリヤテはペリシテ人でした。


そのダビデがサウルを恐れ、その追跡を避けて逃げたのが敵国であるガテで、そこでもダビデは人を恐れて気が狂ったふりをしました。

ダビデはこの時、どのような心境だったでしょうか。


彼が神を恐れ、神に頼っていた時には巨人ゴリヤテも倒しましたが、人を恐れた時には、心が不安になり、猫の前のねずみ状態で、いのちを守ろうと醜い姿を見せ、人々の物笑いになりました。

自分も恥をかき、神にも恥をかかせました。


そこからダビデは死の谷に足を踏み入れました。


ダビデはそれからアドラムの洞穴に避難しましたが、そこにイスラエルから色々な人が集まって来ました。

問題を抱えた人たちもいれば、戦いに強い勇士たちもいて、600人までに増えました。


以前は1人だったダビデが600人の部下を抱えたので不安と恐れが消えたでしょうか。

彼は相変わらずサウル1人を恐れていました。その時の告白が次の箇所です。


【第1サムエル記27章1節】

「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」

このように思って、再びアキシュ王の所へ行き 安全に住む場所をお願いしました。


アキシュ王も策略家であるので、ダビデと600人を受け入れ、ツィケラグの谷を与えました。

そこでダビデは1年4か月も住むことになります。


サウルは二度とダビデを追うことはしなかったですが、ダビデはそこで何をしたでしょうか。

アキシュ王はダビデを自分の護衛長に任命しました。


“次期イスラエルの王になる” と神から言われたダビデが、敵国であるペリシテの王アキシュの護衛長として働いている姿は本当に情けない姿だと思いませんか。


ダビデにとって肉体的には ある意味安全でした。

そこにいればサウルから逃げる必要もありません。


しかし現実は 神と共に歩みながら、神に仕える姿ではなく、サタンに仕える姿になっていました。

彼は自分の思いで広い道・楽な道を選びました。


ダビデはそこでサウルから苦しめられることなく1年4か月も楽な生活を送っていました。

しかしそこにいる時の彼は、神への1つの賛歌も 信仰の詩も残すことはありませんでした。


ダビデがペリシテの王に仕えたことは人を喜ばせることであって、神を喜ばせることではありませんでした。


肉体は楽でしたが、彼の心は楽ではありません。
その場所で神を礼拝することはありませんでした。


いくら肉体が楽でも、神を礼拝出来ず、神に仕えることが出来ないならば そこが地獄です。


地獄は苦しい場所よりも、神と断絶されたところが地獄です。


その地獄が “死の陰の谷” です。


福音を伝えた為にむち打たれ、牢獄に入れられたパウロとシラスが真夜中に神を賛美し祈りをささげた時に 主がそこに共におられました。

牢獄であっても、主がおられるならばそこが天国です。


自分の肉体を喜ばせ、楽をさせるために礼拝も平気に休んだりするならば、自分がいま死の谷を歩いていることに気付かないといけないです。


広い道、楽な道はいのちの道ではなく、死の道であると 主がはっきりと言われたからです。


ダビデは死の谷で多くの問題にぶつかることになりました。

同族であるイスラエル人とも戦わなければならない場面もあり、家族や財産も全部奪われ、仲間に石打ちにされそうにもなりました。


神様の憐れみと助けがなかったならば、ダビデはイスラエル人から一番憎まれる人になって殺されていたと思います。

自分から死の谷に入りましたので、死にそうなことが起こります。


彼がそこから助け出されたのは神の恵みでした。

ですからダビデは詩篇23篇でそのことを告白しました。


色々な出来事を通して やっと自分がとんでもない所にいることに気付き、神に立ち返ることになりました。


楽な道、広い道を求めてはいけないのは、そこが地獄へとつながる入口だからです。


神が導く道ならば安全ですが、自分の肉の思いから考え出した道は誘惑が多いですし、そこが死の谷になります。




ダビデにとって死の谷はサタンの罠に落ちた所




それはある日起きました。


【第2サムエル11章2-4節】

ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。

ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか」との報告を受けた。

ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。―― その女は月のものの汚れをきよめていた―― それから女は自分の家へ帰った。

その時、国は戦争中でしたが、ダビデ王は軍隊を送り出して、自分は遅くまで寝ていて夕暮れにやっと起きました。

ここで彼の生活も霊的状態も怠けていることがすごく分かります。


【マタイの福音書26章41節】

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。

このように主が言われるには意味があります。

いつも信じる者を誘惑しようとサタンが待ち構えているからです。


ダビデは油断していました。
神を経験し、また神は彼を祝福しました。

ですから自分が誘惑に陥るとは考えていなかったです。


しかしサタンは休まず誘惑、罠、策略をつねに考えながらチャンスを狙います。

そして霊的に油断しているダビデを一人の美しい女を通して誘惑しました。


油断していたダビデはあっという間にその誘惑に陥りました。


彼は王宮の屋上から、死の谷に転落しました。

そこから彼の長い地獄生活が始まりました。


女が妊娠してしまい、それを隠ぺいするために様々な策略を試しましたが失敗に終わり、ウリヤが殺されるように仕向け、ウリヤは死にました。

その後、バテ・シェバを自分の妻にしましたが、それは主のことばをさげすむことであり、とても悪いことでした。


生まれた子は死にましたし、家庭に多くの災いが起こりました。

ダビデがそのような罪を犯していた時には、神を呼んだことはなく、神の前に出ることすら出来ませんでした。


もし神が彼を見捨てたならば、彼はどうなっていたでしょうか。


しかし、この時も彼を死の谷から救い出したのは神様でした。

預言者を通して彼を戒め、罪を赦したと宣言しました。


彼自身のあやまちによって二度も死の陰の谷を歩きましたが、神の憐れみと赦しによってそこから救い出されました。


広い道で自分の欲に従って歩み、自分の欲望を満たしても、それが神なしの人生であるならば、その先はいばらの道が待ち構えていることを知らなければなりません。


本当の死の谷は神のみこころにそむいて歩く道、自分の肉の欲望に従う道、神がいなくても平気と思いながら進む道です。それが本当に怖い道です。


生活が苦しくても、問題が大きくても神に求めるならば、神はそのことで死ぬことがないように助けて下さいます。


しかし広い道、楽な道で楽しいと思いながら歩き、私は大丈夫だと思っている人は自分がいつ つまずくかわかりません。


気楽に歩くその人が一番危ない人です。
なぜなら自分が永遠の死の谷を歩いていることを知らないからです。


いま楽な道だからと安心していますか?
私は大丈夫だと油断していませんか?

誘惑を祝福と勘違いしていませんか?
神抜きでも何の問題もないことを喜んでいますか?


ダビデが通った死の谷をみて考えて下さい。
ヽ(TдT)ノ

2015.8.30
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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誰が冠を受けるのか

テーマは 『  誰が冠を受けるのか 』 です

【第2テモテ4章6-8節】

私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けて下さるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けて下さるのです。

世界で最も値段の高い王冠や宝石をインターネットで調べてみました。

100億円を超えるものから 何十億円のものまでありました。


イギリス王室の王冠などは 宝石がたくさん装飾されており、とても高価に見えますし、他の国の王族やお金持ちが高い宝石を所有していました。


しかし、どんなに高価で輝く王冠や宝石であっても 誰1人それを死後の世界にまで身につけて持っていった人はいません。
誰もが地上に残して行き、その所有者が次々と変わっていきます。


永遠に自分の物にはならず、あっという間に自分から離れて行くものと知っていながらも、人々は地上の様々なものを得るために、自分のいのちさえも惜しまずに必死の努力をします。



最近、東大阪市で 64歳の兄が、61歳の弟を殺害する事件が起きました。

親が残した財産による金銭トラブルでした。

親は子どもの幸せと思って財産を残しましたが、結果は悲惨なものになりました。


持っているために生じるトラブルはたくさんあります。

それでも人はそんなことは心にも留めません。


聖徒もそうやって生きるべきでしょうか?

朽ちて行くものを得るために人生を懸けるべきでしょうか。


聖徒の生き方はそれとは違います。

聖徒が得ようとするものはむなしく消えて行く世のものではなく、永遠に消えることのない神が備えておられる冠です。


それは神様が与えて下さる聖徒への報いです。

しかし聖徒という理由だけで、自動的に受けられる冠ではないです。


ある人は、“それならあまり価値がない”と言います。


冠が勝利者に与えられるものであることを知らないといけないです。


それならば、どのような人が冠を神様から受けるでしょうか。
今回はそのことを学びたいと思います。




1.人生の最後まで勇敢に戦い、忍耐によって自分の信仰を守った人




主に選ばれ、主を信じた人たちが皆 最後まで信仰を守り、主と共に歩むと思いますか?
――そうではないです。


多くの人が主から離れて行きます。

イエス様の12弟子の1人であったイスカリオテ・ユダも主を裏切り、去って行きました。


また、イエス様が語ったことばに対し、自分たちが気に入らないという理由でつぶやきながら、12弟子ではない他の多くの弟子たちも離れ去っていき、もはやイエス様と共に歩かなかったと聖書に記録されています。


パウロと共に福音伝道に仕えていたテマスも 世を愛した為、パウロを捨てて去って行きました。

毎日奇跡を体験し、神の存在が明確に現れているのを見ながらも、神から離れて行きました。


実際に この教会でも信仰告白をして救われた人が ずっと教会に残っていたならば、今 空いている席はだいぶ埋まっていると思います。


しかし他の教会に移った人よりも 信仰を捨てた人の方が多いので、とても残念に思います。


なぜそのようになってしまったのかを考えると、サタンに惑わされて不信仰になったり、富の誘惑に目がくらんだり、この世を愛する心が強くて、信仰を捨てて世に戻りました。



信仰の道、いのちの道は狭い道であると 主が語って下さったように、その道を歩むためにはこの世から来るあらゆる誘惑や試み、試練に忍耐しながら戦わなければなりません。


ですから信仰を最後まで守ることは簡単なことではないです。


また、時には信仰のために家族や親族、職場からも反対されたり、迫害されたり、侮辱されたり、不当な扱いを受けたりします。

それで信仰を捨てた人も多いです。


しかし そのような中でも、神から離れず信仰を守った人たちには神が素晴らしい報いとして冠をその人たちに与えることは当然のことです。


神は初めから信仰の勝利者のために、永遠に消えることのない いのちの冠、栄光の冠を備えておられます。


いのちをかけて信仰を守ったのに何もないならば、それほど虚しく無駄なことはないです。

しかし神様はそのようなことはなさらない方なので、豊かに祝福して下さいます。


【マタイの福音書24章13節】

しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

このような約束がありますが、救われることは いのちの冠を得ることを意味します。


このいのちは永遠のいのちです。
いのちほど大切なものはないので、これほど素晴らしい祝福はありません。




2.自分に与えられた使命や働きに忠実な人




パウロが神からの冠を期待する理由は、神から与えられた “走るべき道” を走り終えたからです。


走るべき道がまだ残っているのに走りを中断したのではなく、“疲れたから後はゆっくり休もう” ではないです。

ゴールは、“いのちが尽きるところまで” が走り終える地点です。


ある牧師の話です。

年を取ったので、教会からも引退するように言われ、引退しました。

奥さんの方が先に亡くなり、牧師は子供たちに迷惑はかけたくないということで、老人ホームに自ら入りました。


しかし、そこで何もせずに時間を過ごしたのではなく、周りの入居者の様子を見ていました。

そこには寂しさを感じている人、問題を抱えている人、病気の人など様々な人たちがいました。


そこで牧師は毎日 人々の世話を始めました。
そうすると、皆がとても喜んでくれて、施設の関係者たちもすごく喜んでくれました。

そして、全員がその牧師のことを “神様が送って下さった天使” と呼びました。


これが忠実な働きです。

言い訳が多いのは忠実とは言えないです。


私たちは、“死に至るまで忠実でありなさい” と言われています。


神様が(その働きを)取り上げない限り、自ら辞退をしないことです。

それは主から受ける冠を自分から拒否することになります。






ロサンゼルスオリンピックのマラソンで、ある女性選手がフラフラと意識が朦朧になりながらも、ゴールに向かって歩きました。

何度も倒れそうになりながら、ゴールまで辿り着いて倒れました。


選手としてずっと目指して走って来ましたので、簡単に諦めることが出来なかったと思います。


その姿に皆が大拍手を送りました。

メダルは取れませんでしたが、最後まで走りぬく姿勢は 私たちに感動を与えました。


自分に与えられた神からの奉仕をないがしろにして、忠実でもないのに神様が与えてくださる冠に対しては関心と期待が大きい人がとても多いです。


しかしこのような人たちには、忠実な人だけに与えられる冠を受けることが出来ません。


神の働きをするためには、自分がしたいことを先にしてから 残りの時間ですることは出来ません。
神様は、“神の国とその義とをまず第一に求めなさい”と語りました。


自分のことよりも、神様の働きをまず考えて忠実に働いて下さい。


黙示録でも忠実な人たちだけに与えられる祝福がたくさんありました。

そうではない人たちには「悔い改めなさい」と言われました。


「昔はよく奉仕をしましたが、今はしていません」という人たちがいますが、それは自慢話ではなく、その人が忠実な者から今は怠け者になったことを意味します。


特別な事情も もちろんあると思いますが、本当にそれだけの理由なのかをよく考えてみて下さい。

神様は心の内を誰よりも知っておられるからです。




3.福音を伝える人




イエス様がわざわざ地上に来られた目的は何でしょうか。


【ルカの福音書19章10節】

人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

イエス様ほど魂に対して関心が強い方はおられません。

神様が1番喜ぶのは、失われた魂を捜して救うことです。


よみがえってから天に上る時に、弟子たちに命じたのが 全世界に福音を宣べ伝えることでした。

福音を伝えるのは聖徒たちに与えられた使命です。


自分だけが救われて天国に行くのではなく、他の人も天国へ行けるようにと福音を伝えます。


弟子たち全員は、なぜ殉教しましたか?
――彼らが主の命令に従って福音を伝え、福音を拒否する人たちによっていのちが奪われました。


日本でも韓国でも、初めに福音を伝えに来た外国人の宣教師たちが多くいのちを落としました。
そして信徒たちも殉教しました。


福音の内容もまともに聞かず、最初から反対されました。

心の頑なな者は聞く耳がないです。


古いものに執着を持っている人や既得権を持って良い思いをしている人たちは、新しいものに対していつも反対し妨害します。
それは全世界どこも同じです。


それでも逃げず、恐れずに福音を伝えることが大切です。


なぜなら福音を聞かせないと彼らは救われることがないからです。

反対する人の中にも、聞いて信じる人がいるかも知れないです。


パウロは福音に命を懸けました。

その様子は次の箇所です。


【第1テサロニケ2章9節】

兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

神様はこのように、主のことばに従いながら、働く人に目を留めておられます。

そして彼らの労苦と苦闘に、報いとして栄光の冠をその人たちに与えて下さいます。


この世でも最善を尽くした時に良いものを得ますが、主のために最善を尽くして働いた者たちに対する神からの報いは、私たちが想像することも出来ないほど尊い物であり、永遠のものです。

価値あるものを目指すのが、無駄な人生を歩まない方法です。


財産、権力、名誉、欲しい物のために命を懸けて最善を尽くす人がたくさんいますが、それによって神からいのちの冠、栄光の冠を受けることは出来ません。


聖徒の人生は価値があり 尊いものですので、(まだ救われていない人とは)目指すものが違います。


素晴らしいものを用意しておられる神様に期待しながら、この世で走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通し、そして人々に福音を伝えることです。


そのようにしている人は神様が用意した素晴らしい報いがあります。

それは永遠にその人の冠として その人に栄光を与え続けます。


人それぞれの働きに神は正しく報いて下さいますので、いのちと栄光の冠を受けられるように 与えられた人生で最善を尽くしていきましょう。
( ̄∠  ̄ )ノ

2015.8.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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祝福の価値基準

テーマは 『 祝福の価値基準 』 です

【マタイの福音書5章3-12節】

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

聖書が提示する祝福の概念は、旧約時代と新約時代は同じではないです。


旧約時代での祝福は目に見える物質的な祝福でした。

アブラハムもヤコブも神に祝福されて、あらゆる面で豊かになりました。敬虔なヨブも一番の富豪でした。


旧約聖書での祝福の概念が書かれた箇所は【申命記28章1-13節】です。

その中で11-12節に書かれている祝福は次のとおりです。


【申命記28章11-12節】

主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んで下さる。

主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。

しかし新約時代になると、それがおもに霊的祝福へと変わりました。


今日のみことばがそれをはっきりと見せてあります。

さらに次の箇所のことばもそれを裏付けます。


【エペソ1章3節】

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

神様がこのように祝福の価値基準を変えたならば、私たちも祝福に対する価値観を変えなければなりません。


旧約時代の価値観で見ると、イエス様が語る祝福の価値が分からなくなります。


また、正しい祝福の価値基準を持たないと混乱が生じ、そこに世俗主義が浸透してきます。

そして神の御心に対する概念も崩れ、神様に対して正しい祈りすら出来なくなります。


“いくら祈っても祝福して下さらない”と文句を言うようになります。

私も以前そのような者でしたので、そのことで失敗したことがあります。
お金や健康などが一番の祝福と思っていたので神様にたくさん不満を漏らした時がありました。


その後、神様から色々と訓練されて、自分の価値観が変わっていきました。


間違えた祝福の価値基準が教会や個人に入ってくると、極端な禁欲主義になったり、富を悪と思ったり、質素に生きることが敬虔であるかのように思ったり、またその反対に 金持ちになってたくさんの献金をするのが神の祝福で、貧乏は呪いであると決めつけたりと、聖書の本質からかけ離れてしまいます。


実際に 貧乏でも敬虔なクリスチャンとして生きた人もいれば、金持ちでも呪われた人生を生きた人もいます。


ですから私たちは、聖書が教える正しい祝福の価値基準を知ることで “本当の祝福” を求めることが出来ますし、また神様から祝福された時に その価値を知っているので感謝することができます。






マタイの福音書5章はイエス様が語った『山上の垂訓 (さんじょうのすいくん)』として とても有名な箇所です。


どのような人が祝福されるか、そして その人たちが受けた祝福の中身も教えています。

主が教えた8つの祝福は すべて霊的祝福で、永遠に価値のある祝福です。


これはイエス・キリストを自分の救い主、王として迎え入れた人だけが受けることが出来る祝福です。


キリストにあって天国の民になった人に神が与える祝福です。
それは天にある霊的祝福ですので、キリストの外にいる人が得られる祝福ではありません。


人として地上に来られたイエス様が悪魔の試みにあう場面が【マタイの福音書4章】にありますが、悪魔は次のような誘惑をしました。
それは世の人々が切に求めているような祝福でした。


【マタイの福音書4章8-10節】

「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、

言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたにさしあげましょう。」

イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

その誘惑に主は勝利しましたが、多くの人が、またクリスチャンもこの誘惑に負けて、神を裏切り、悪魔にひれ伏して拝み、この世の富、権力、人気、名誉を得ます。


ハリウッドスターの多くがそれらのものを手に入れるために自分の魂をサタンに売ったと公然と話しているのを聞きました。そして実際 彼らは魂を売って世の祝福を得ました。

それは たましいの安売りに過ぎないですが、それでも欲しいものを手に入れるためにそうしました。


「後のことはどうでもいい。今さえ良ければ」と彼らは思っています。
彼らだけではなく、もっと多くの人々がそのようにしています。


目に見える祝福だけに執着すると、そのように平気に悪魔にひれ伏します。


「キリストを信じたら祝福されます」と福音を伝える時によく言いますが、その祝福を世的なものと関連して伝えると後で色々と問題が生じます。


信じたのにお金も入って来ないし、健康にもなっていないし、仕事もうまくいかないし、別に何も祝福されていないと言って、信仰をやめたり、文句を言ったりします。

また自分が求めているものをくれるならば、たとえそれが悪魔から来たものであっても構わないと思って簡単に拝むようになります。


キリストが伝える祝福の価値観が、この世の祝福の価値観と違うことを知らないと、同じようなことがクリスチャンの中でも起こりやすいです。






主が話した8つの祝福は、どのような祝福よりも価値があり、それは神様との関係の中で得られるものです。

天の御国を相続し、主に慰められ、霊的に満ち足りる祝福、主の恵み、主の憐れみなど特別に価値ある祝福を受けます。


使徒パウロは主イエスに出会った後に、この祝福を受けてから、祝福の価値観が大きく変わったことを明確に告白しました。


【ピリピ3章7-8節】

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

これは、世のものは もう要らないという意味ではありません。

この世でも必要な祝福はたくさんあります。


ただ、今までは知らなかった価値あるものを見つけたので、自分の祝福の価値基準が変わったことを意味します。

何が一番の祝福で価値あるものかが分かりました。


イエス様が天国のたとえで話したことを参考にすると、さらに理解が出来ます。


【マタイの福音書13章44-46節】

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。

すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

イエス様がマタイの福音書5章で “こういう人が幸いです” と言われた人たちは、価値ある宝と真珠を見つけた人たちであり、霊的祝福に気付いた人たちです。


今までは目に見える部分の祝福だけを求めていた人たちが、隠されていた宝を見つけて大喜びでそれを手に入れました。




どのような人たちが 霊的祝福を見つけやすいでしょうか




  • 自分が主の前には罪人で無能な人間であることに気付いた人
  • 主の前に謙遜になった人

  • いつも信仰をもって神の前に生きる人
  • 自分を捨てて主に従っていく人

  • 毎日神の恵みを求めながら、天にあこがれて天を目指して生きる人
  • いつも主を賛美する人

  • 子どものような純粋な心で主を慕い求める人
  • 小さいことにも感謝する人

この人たちは霊的祝福の価値を知っているので切に求めます。


主が語る霊的祝福の価値を知らない人に対して、主は次のように語りました。


【マタイの福音書7章6節】

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。

霊的祝福は、誰もが知っている祝福ではありません。


ほとんどの人は、その祝福に無関心です。
何を食べようか、何を飲もうか、何を着るかに一番関心があります。


しかし本当の祝福と幸せは、“物”ではなく、内面が満たされる時に、霊的に祝福される時だと知っている人は それを求めて主の前に来ます。


その祝福をイエス様が持っておられるからです。


みなさんはその祝福が一番の祝福であることに気付いていますか。
そして求めていますか。また、すでに受けていますか。


自分の財産目録を今一度調べてみて下さい。

一番の宝は何でしょうか。それはいつまで続くものでしょうか。


それが自分のいのちよりも価値あるものでしょうか。
(((( ;゚д゚)))

2015.7.5
聖日礼拝メッセージ

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イエスから目を離さないでいなさい

テーマは 『 イエスから目を離さないでいなさい 』 です

【ヘブル12章1-2節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷と まつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめを ものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

先月 韓国で ある牧師先生が書いた『イエスから目を離さないでいなさい』というタイトルの本を買いました。

その牧師先生は“24時間 イエス様だけを見て生活すること”を日々 目指しているという内容が書かれており、
読みながら恵みを受けますし、チャレンジも受けています。

目的は「主の臨在の中で生きるキリスト者」です。


これはとても大切なことであります。
「イエスから目を離さないでいなさい」と言われるのは、すなわち「あちこちに目を移さないようにしなさい」ということです。 私たちがいつも見ていないといけないのは「イエス様」だけだという意味です。

いつもイエス様だけを見て生きるというのが、イエス様が私たちに願うことであります。


信徒たちは「24時間 イエス様だけを見るのは難しいです。しんどいです。」と言います。
これはただ単に仕事もせずに、何も考えずに そうしなさいという意味ではないです。

実際 イエス様が自分の心の中におられることと信じているならば、私たちは24時間イエス様を見て生きようと決断するのが当然であり正しいことです。
心の姿勢を徹底的にしなければならないです。


人は何も考えずに生きることはないです。
私たちは必ず何かを考えながら生きています。次から次へと思いが止まることがないです。
そう考えると私たちが24時間イエス様のことを考えることは難しくはないのです。

現実を見ると24時間“恋人”のことばかり考える人や、“株”のことを考える人、“お金”や“仕事”“心配”ばかりを考えています。
自分で自分の思いをどうすることもできないほど 人間は深く考えるとそれに没頭する姿が見られます。

信仰を持っている人はこれをイエス様に対してもそうするように決心をしなければいけないのです。


他のことは出来るのに、イエス様を24時間見るのは出来ないというのは、私たちの心が他のものが関心があるからです。


先ほど紹介した本に書かれている内容で、その牧師先生から影響を受けて 別の牧師も毎日24時間イエス様だけを見て生きる生活を始めました。

本を書いた牧師先生は、霊性日記を書いていますが、それを真似して その牧師も書き始めました。
霊性日記とは、日々の出来事を通してイエス様を見る訓練であります。


ある時に、この牧師は失望した表情で(本を書いた牧師先生を)訪ねて来て 苦しい胸の内を語りました。
「私は24時間イエス様だけを見て、霊性日記をつけていたのですが、私は罪に倒れました。どうしたら良いですか?」と質問をしました。

それを聞いた牧師先生はびっくりして苦しい心で「霊性日記を書いても無理でしょうか。」とお祈りをしました。
するとその時、主はすぐに鮮明に応えてくださいました。

神様は「わたしを24時間見ているなら罪に倒れることはない。その牧師は自らを欺いているのだ。」と語りました。


それでもう一度その牧師を呼び、「日々、どのような生活をしているのですか?」と聞いたので、
その牧師は「私は毎日、霊性日記を書いています。でもいつの間にかニュースのことが気になりインターネットで調べました。
インターネットで調べていると色々なサイトが出て来て、そこにアダルト動画があり、その誘惑が来ました。
その誘惑に勝つことが出来なかったので、アダルト動画を見て罪を犯しました。
霊性日記を書いても、こういう罪に私が倒れてしまったのだ。どうしたら良いのかと思いました。」


しかし神様が教えたのは、彼が語っていることとは違うことなのです。
「あなたは24時間わたしを見たのではなく、わたしから目を離してあなたがそういうものに心を開いてしまったからだ。ネットで調べている時に わたしのことを見ていたのか?」ということでした。

もしイエス様のことを見ていたならば、そういう誘惑が来ても開かないです。「これはサタンの誘惑だ。絶対に見ません。」という心の決断であります。
それをしていたならば絶対に罪を犯すことがありませんでした。

「見たい」という思いが来て、自分の手でそれをクリックして扉を開いてしまいました。
それを見た後に「あぁ、私は24時間 イエス様を見ていたのに罪を犯した。」と言うのは自分を欺いているのです。


神様は誰も誘惑をしません。
あなたが誘惑されたのは自分の中にそういう欲があるから、欲と誘惑の波長が合い繋がったために そこから罪が出て来るものであります。


私たちは一瞬でも、5分でも10分でも誘惑に心が奪われて目をイエス様から離して違うところを見ているから誘惑が来るのです。サタンは常に私たちを狙っているのです。



【箴言4章23節】

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

最も私たちが心を守るために重要なところであります。
なぜ神様はこのように私たちに語ったのでしょうか?

それは、私たちの心はとても重要な部分だからです。

私たちの心には、イエス様が共に住んでおられます。


聖書では、これを「結婚」にたとえました。

これを知るならば、私たちの心に サタンが与える思いを入れることがなぜ大きな罪になるのかが理解できます。
結婚した男が、妻以外の女性を家の中に入れて住むならば、また 結婚した女が、夫以外の男性を家の中に入れるならば、おかしなことです。
結婚生活が成り立たなくなり それは不品行・姦淫の罪なのです。

イエス様は「大丈夫だよ。あなたが罪を犯してもわたしは心が広いから赦してあげる。」とは言わないです。この罪のことだけはイエス様は赦さないのです。

妬む神様であり、他のものとイエス様が共存することはありえないことであります。

体よりも、私たちの心を一番に狙っています。心の中で犯す罪を人間はあまり罪だと思わないからです。


サタンの思いは心に来ます。そして神様も私たちの思いを通して働く方であります。
神様の声は、肉声のように聞こえる声ではないです。

私たちが祈ったりしている時に、急に良い思いが来る時がありますが、それは聖霊の思いです。
これはサタンも同じやり方をします。サタンも急に思いを入れます。それも悪い思い・否定的な思い・不安な思い・恐れの思い・憎しみの思いを入れます。

そこで私たちがその思いにやられて、思いを黙想するので そこから身ごもって大きくなり罪を犯すことになるのです。


神様の思いが来た時に私たちは「これは聖霊様から来た思いなのだ。」と自分の中になかった思いを素直に信仰で受け取って行動をしたら良いです。

神様は からし種のような小さな思いを入れて、それを私たちがキャッチするのです。


私たちはそこで従わないと、その思いは消えていきます。せっかく神様が私たちを助けようとしたのに、私たちは信仰で反応しないとチャンスが消えていきます。

これからは思いがパッと来た時に、サタンによる悪い思いだったら「違う!」と言って、それに心を開かないことであります。しかし良い思いが来る時は、「これは聖霊様から来たものである」と 従って信仰で受け取ることなのです。

心には神様以外を入れないと決めて、それをするならば、神様はそこで働いてくださいます。

ですから、その心を守るために24時間イエス様から目を離さないことが大切です。




狭い門から入りなさい



【マタイの福音書7章13-14節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

滅びに至る道はなぜ広いのでしょうか?なぜそこへ行く人が多いのでしょう。
そこには誘惑するものが多いからです。私たちを潰そうとする敵ががたくさんいます。
でも人々は霊的存在を知らないので、目があちこちへ移ってしまいます。

そこには目の欲を満たすものがたくさんありますので、目の欲、暮らし向きの自慢、肉の欲、そのようなもので倒されていきます。


しかし、狭い道にはイエス様だけが存在しています。イエス様は「わたしが道である。」と語りました。
道そのものがイエス様ですから、誘惑するものがないのです。

私たちの心を守る時に、私たちの霊的命が守られます。心を守れないと命を失うことになり、イエス様も失うことになります。


道であるイエス様がおられないなら、どうやって父なる神様のところへ行けるでしょうか?
イエス様から目を離すということは、滅びが始まるのです。

私たちが本当にイエス様を愛しているならば、イエス様と二人きりになるのが一番楽しいと思います。

愛し合う人同士は、2人だけの時間をたくさん作って、その時間を大切にします。
私たちがイエス様を愛するならば、いつもイエス様のことを思うのは難しくはないと思います。


イエス様と2人で この小道を歩きたい、イエス様とだけ話をしたい、イエス様だけを見ていたい。イエス様とだけ仲良くしたい。という思いが出てきます。

その思いがないならば、イエス様を愛していないことになります。

自分を愛し、自分のために命を捨ててくださった命の恩人であるイエス様。そして自分もそのようにイエス様を愛するならば、他のものがいらないのです。 イエス様だけで十分です。と、このような思いが出てきます。


ですから狭い道でも、険しい道でも 決してその道が いばらの道ではないということであります。
愛する人と共に歩く道は 周りを全然気にしなくなり、イエス様を見るだけで心が幸せになります。

しかし「まだそこまで親密ではないです。」と言うならば(イエス様を)愛していないということです。

イエス様が私たちに一番求める心は「愛」なのです。


本来ならばイエス様を見ていなければならないのに、イエス様を見ずに どうでも良いことに目を奪われているから私たちの心の中には平安がなく、祝福・喜びがなく、いのちがないのです。

ヘブル12章1節に出てくる多くの証人たちは、ヘブル11章に出てくる信仰の人々です。その人たちは、地上で主と共に歩んだ人たちです。
その人たちは私たちより先に 主だけを見て生きた人たちです。彼らはどれほど祝福されたでしょうか。

それを見て、私たちもあちこち目を向けず、主だけを見る生活を目指すべきです。






このような話がありました。

イギリスの とある教会で、ある日の早天祈祷会で時間になっても、なぜか牧師先生が現れませんでした。 5分が過ぎると長老が代わりに祈祷会を導きますが、その日は長老も参加しませんでした。

誰かが祈祷会を導かなければいけないので、仕方なく靴の修理工をやっている執事1人が立ちあがって前に出ました。
その執事は 初めて前に立ちました。そして(今回のメッセージテーマである)ヘブル12章2節を読みました。

「今日のタイトルは『イエス様を見ましょう』です。」 このように言いましたが、次に何を語ったらいいのかわかりませんでした。それで彼はこのように言いました。


「イエス様を見ましょう。イエス様だけを見ましょう。ほかのものは見ないで イエス様だけを見ましょう。
私たちは必ずイエス様だけを見ましょう。
何があってもイエス様だけを見るべきで、他のものは見てはいけません。

とにかくこの世にイエス様がおられるように イエス様を見ましょう。
喜びの時も、悲しみの時もイエス様を見ましょう。

毎日鏡を見るように イエス様を見ましょう。

朝にもイエス様を見て、昼にもイエス様を見て、夜にもイエス様を見ましょう。
立ってもイエス様を見て、座ってもイエス様を見て、寝てる時もイエス様を見ましょう。

生きても死んでもイエス様を見ましょう。私たちは必ずイエス様だけを見るようにしましょう。」


このように たどたどしく、「イエス様だけを見ましょう」という彼の説教を聞いた信徒たちは笑いをこらえたり、失望したり、
ある人は目を閉じてメッセージを聞かずに祈ったりしていました。

しかし当時、その場所には幼い頃の“スポルジョン”がいました。

人類歴史上 一番優れた説教者で、説教の皇帝と呼ばれたスポルジョンだけがそのメッセージを真剣に聞いていました。

そして後に世界的に有名な説教者になりましたが、彼が語ったのは、「わたしはその日聞いたメッセージを一生忘れない。」と、彼が説教者として生きようと決心したのは、そのメッセージを聞いた時であったと告白をしました。





24時間イエス様を見て生きる生活は本当に大切なことであります。

これは主の臨在の中で常に生きる生活であります。これが私たちの目標でなければならないです。

私たちには人生の目標が色々あると思います。しかしその目標は、イエス様の臨在の中で生きている目標よりも高いですか?
それらのものは地上のわずかな時だけの目標であるのです。それはある意味では得なくても良い目標なのです。


他の目標を立てても良いです。しかし一番の目標は“いつもイエス様だけを見て生きる”生活を目指さなければならないです。
自分たちの心・自分たちの思いをイエス様に向けることであります。神様の中にすべてがあるからです。

空を見ても神様を想うのです。生き物を見て神様を見るのです。花を見て神様の作品を感じるのです。自分の身体も自分が造ったわけではないです。
命は目に見えないですが 動いていることは命なのです。空気もすべて神様の恵みであるのです。


ですからどこを見ても私たちは24時間 神様を見ることができるのです。

それを全て神様と繋げて考えるならば、そこに神様が存在するのです。


苦しみがあっても、神様からの教育や方法がその中から見えてきます。全て神様と関連して考えることです。

悪い思いが出てきた時は、「これは私がサタンに心を開いてしまったので サタンが私の心を苦しめているのだ。」と気付いて「出て行け!」と追い出していかなければならないです。


「イエス様。私の中にいつも共にいてください。私の心をいつもイエス様の思いで満たしてください。」と、このように祈るべきであります。
すぐに気付いて、入れるべき物を入れて いらない物は追い出していくのです。


心は常に掃除が必要であります。 心こそ整理整頓が必要です。いらない物が多すぎると語っています。

信仰の創始者であり、完成者であるイエス様だけを見て生きる時に、決して揺れ動くことも 恐れることもなく、信仰の競争で勝利することが出来ます。
v( ̄∇ ̄)v

2014.5.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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