テーマは 『 あなたは正しい者ですか、それとも罪人ですか 』 です
【ルカの福音書5章27-32節】
「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。
するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。
すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
皆さんは自分を正しい者と思っていますか。それとも罪人と思っていますか。
これはとても重要な質問です。
この質問に どのように答えたら良いか、困るでしょうか。
自分を正しい者と言う勇気もないし、罪人と答えるのも嫌な感じがするし、「どちらでもありません」というのが一番無難な気がしますか?
日本は先進国の中で一番クリスチャンが少ない国です。
少ない理由は色々あると思いますが、自分を正しいと思う人が多く、罪人という認識が少ないことがあるかも知れません。
そもそも罪がどういうものか知らないのが問題かも知れません。
そして日本には “本音と建て前” の文化があります。
文化と言えば悪いものだと思わない傾向がありますが、それは偽善者または二重人格者と何が違うでしょうか。
偽善者だと思います。
もし皆さんが他の人から「あなたは偽善者で二重人格者です。」と言われたら すごく腹が立ちますし、良い気持ちがしないですね。
偽善者の姿
偽善者の姿をちょっと見てみたいと思います。
ルーマニアで最も影響力があったリチャード・ウォンブラント牧師ですが、この牧師はチャウシェスク独裁政権の時に、キリスト教の牧師であるだけの理由で捕まり 14年間も共産党本部の地下牢に入れられ、まともな食事も与えられず、日々拷問を受けて奇跡的に生き延びましたが、解放されて世界中を回りながら、その体験を語りました。
牧師はニュージーランドのクライストチャーチ市に行きました。
都市の名前が「キリストの教会」という意味です。
ですから、牧師はそこに住む人は全員クリスチャンだと思いました。
ある時、レストランで男性と合席になり、そこで会話が始まりましたが、その男性がクリスチャンではないことが分かりました。
牧師は「どうして教会に行かないのですか?」と聞きました。
すると男性は次のように答えました。
「教会に行くと偽善者が多過ぎて、私は教会には行きません。」
それを聞いたリチャード牧師は「私は教会に偽善者が多いので、教会に行くと心がとても楽です。なぜなら私も偽善者ですから。」と答えました。
皆から尊敬される立派な牧師が自らを“偽善者”と認めました。
そのことばの意味を私たちは悟らなければなりません。
皆さんは偽善者ですか。それとも「私は偽善者ではありません」と否定しますか。
今日の本文には偽善者の姿が出て来ました。
それはパリサイ人と律法学者です。彼らのどこが偽善でしょうか。
彼らの生活を見ると偽善的な姿は見えません。むしろ敬虔な姿です。
神のことばを文字通り守りますし、いつも聖書を読むし、よく祈るし、施しも熱心で、献金もよくささげ、落ち度のない敬虔な生活をしていました。
しかし彼らの心をとらえているものがありました。
それは他人に対する優越感、自分を正しいと思う心、それによって他人を裁いていました。
本文でもその姿がありました。
イエス様が自分たちが罪人だと思う人たちと一緒に食事しているのを見て非難しました。
別の箇所でさらに彼らの姿を見たいと思います。
【ルカの福音書18章9-14節】
自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんで下さい。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
パリサイ人の姿は“高慢”です。神様が一番嫌う罪は高慢です。
高慢の基にあるのは「私は他の人よりましだ、もっと正しい」と思う優越感です。
この意識に捕えられると、自分より劣る人に対して 自分が審判者になって軽蔑したり、非難したり、裁いたり、また怒ったりします。
イエス様は このパリサイ人に向かって「まむしのすえたち、偽善者」と呼びました。
そのことばを聞いた時に彼らは怒り狂ってイエス様に対して殺意を抱きました。そして後になって十字架につけました。
なぜそこまでしたのでしょうか。
彼らは完全主義者だったからです。
彼らの一番恐ろしいことは、(外見は)謙遜で覆われている高慢です。
それがパリサイ人たちの典型的な姿でした。
教会の中にはパリサイ人のような偽善者もいれば、他人の行動を見てつまずいて 教会を離れるもう一人の偽善者もいます。
リチャード牧師と話をした男性も偽善者です。
なぜその人たちが偽善者だと思いますか。
その人たちが他人を裁く時には「私はあの人のように高慢ではない。私は偽善的ではない。あれでもクリスチャンか、あれでも牧師か、私ならばあんなことはしない」と自分自身を高く評価するからです。
それで教会を離れて、信仰を捨て、他の宗教に改宗する人もいますが、それはその人の信仰が不透明であったことを改めて見せていることです。
信じた時から クリスチャンは世の光、世の塩ですが、(周りが)暗いからといって光を放ちたくないと嫌がる光を見たことがありますか。
(味がなくて)美味しくないから 入って塩味をつけたくないという塩があるでしょうか。
そのような確信がないので 人を見て揺れ動き、他人を非難して人のせいにした挙句、神から離れます。
信仰生活は、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない(ヘブル12章2節)生活です。
信仰はイエス・キリストを信じることから始まり、生活はそれを持続することです。
信仰生活は、まずは神様と私たち自身の問題で、次に他の人たちとの間で生きることです。
それなのに他の人たちと生きることが嫌で信仰を捨てるということは矛盾していると思いませんか。
問題は他人ではなく自分自身にあります。
いくら弁明しても自分と神の関係がはっきりしないので心が揺れて人間関係につまずきます。
私たちは人を見て信仰生活をするのではなく、イエス様を見て信仰生活をします。
他人のあやまちや罪を見た時には祈り、自分もそのような罪を犯さないように、罪の誘惑に負けないように気をつけることです。
自分のことは棚にあげて、他人が悪いという偽善者たちにイエス様がはっきりと語りました。
【ルカの福音書5章31-32節】
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
私たちは体の調子が悪いと病院に行きますね。
病院へ行くと、もちろん病人だらけです。そして あらゆる病気の人がいます。
それが嫌で病院へ行くのを諦めますか?
諦めるならば治る病気も治らず 痛みで苦しむか、病気が悪化して死ぬかです。
多分そんなことで病院へ行くのを諦める人はいないと思います。
医者に病気を隠すどころか、症状を一生懸命説明して、治してほしいと訴えます。
しかし教会に他の罪人が来るのを見て、それが理由で行かないとは自分の魂が死んでいくのに その自覚がなく、自分の魂が死ぬのを放置しているのと同じです。
罪は魂の癌であって、これによっては100%死にます。
また、罪の癌は神様に出会うまでは自覚症状が全くないです。自覚がないので軽く考えています。
日本人が信じている信仰は罪に対しては全く触れないです。
でも触れないからといって罪が存在しないということはないですね。罪は存在します。
イエス・キリストはそれに触れ、その罪を悔い改めるならば、その罪を赦し、そして罪に定めないと恵みを備えています。
それは恵みであり、難しくないですが、サタンはそこから目をそらさせ、そしてアダムとエバを騙したように「あなたは罪人じゃないよ。罪によって死ぬことはない。先祖たちもみんな天国に行ったよ。」と甘いことばでささやきます。
神の真実とサタンの騙しことばを人々に伝えると色々な反応があります。
特に日本人は真理は信じないで、サタンの偽りのことばを信じる人が圧倒的に多いです。
または「自分は罪が多いし、もっとまともになってから信じます」という人がいます。
これも偽善者になりやすい姿です。
なぜなら正直に、道徳的に、倫理的に清く生きることは素晴らしいことですが、それが自己義に変わる時に、それはパリサイ人と同じ悪を行うことになります。
自分が道徳的に倫理的にまともな人間だと思う人に罪人の認識があるでしょうか。
自分を正しい者と思うので、さらに救いからは遠くなります。
その人たちは神様を求めることをせず、自分の努力だけで生きるようになります。
でもそれで罪が消えるわけではないですね。
罪の問題は、神様の赦しを得なければならない次元です。努力では得られないです。
ですから その人たちは自分は罪が多いと言いながらも、実はそこまで罪に対する自覚がないです。
一見、謙遜な姿に見えますが、自分の力でなんとかしようとする高慢が隠れています。
そして自分の罪を全く認めていない人がいます。
目が見えない人の姿です。
正しい者でもないのに、自分を正しい者と勘違いしながら死ぬまで生きる人です。
また、自分の罪を認めてはいますが、自分は罪深い人間だから赦されることはないと勝手に決めてしまう人もいます。
病院では軽い病気は受け入れ、重い病気は受け入れないでしょうか。
絶対にそんなことはないですね。
重い病気の人が優先になります。
神様の赦しにも 重い罪も軽い罪もないです。
そして本文に出てきた人物レビのような人がいます。
レビは取税人です。
彼の仕事はお金はたくさん入りますが、評判の悪い仕事でした。
その理由は、不正な方法でお金を手に入れる人たちが多かったからです。
レビもそのような人だったと思います。
一般の人たちは彼らを罪人と呼びました。
イエス様は彼に目を留め、いきなり呼びました。
「私について来なさい。」とひと言言っただけで、何もかも捨てて、立ち上がってイエス様に従いました。
そして自宅に招いて大ふるまいをしました。それも他の大勢の人を招いて食事会をしました。
それには2つの理由があったと思います。
罪人である自分を招いてくれたことに対する感謝と喜びの気持ちを現すために自宅に招きました。
そして今までお世話になった仲間や愛する人たちとの別れの挨拶でもありました。
古い生活を清算し、新しい生活への出発を祝うためでもあったでしょう。
お金をたくさん手に入れて良い家に住み、毎日ごちそうを食べ、良い服を着て、良い車に乗り、外国へ旅行するのが人生の目的で、それで満足するために生きていますか。
レビはそれを手に入れていましたが、罪の意識だけは消えなかったでしょう。
罪人の自覚は、自分の中には罪があり、弱さがあり、汚い思いがあり、いくら努力しても自分という人間が変わっていないことを認める時に出てきます。
さらに謙遜さも それを認めるところから始まります。
罪に対する自覚があると他人に対する優越感と、優越意識が消えていきます。
そして自分には罪の赦しが必要であると救いを求めます。
レビはイエス様に従って12弟子のひとりになりました。
そして新約聖書のマタイの福音書を書きました。マタイとはレビの別名です。
イエス様の招きを受けたことで彼の人生は罪人から弟子に変わりました。
どちらが良かったと思いますか?
取税人の時の罪を犯しながら贅沢な生活の方が良かったですか。
それともお金もなく苦難も多い弟子になったことが良かったでしょうか。
実際 レビが取税人に戻っていないことを見ると弟子になったことが良かったみたいです。
罪人がイエス様を信じて損することがありますか?
――全くないです。反対に得することだらけです。
人々から罪人だと軽蔑されていたレビは、立派な弟子になり多くの人々からも尊敬される人になりました。
もしイエス様が「私は正しい人を招くために来た」と言われるならば、私たちは皆 その資格がないのです。
しかし罪人を招くために来たというので誰にでも受ける資格があり、とてもありがたいです。
そしてイエス様の魂に対する思いがどんなに強いかを語った箇所があります。
【マタイの福音書18章11-14節】
〔人の子は、失われている者を救うために来たのです。〕
あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
私も以前は迷い出た一匹の羊でしたが、神様の忍耐と憐れみ、恵みによって救われました。
それがなかったならば、この世がすべてと思って自分がどこに向かっていくのかも知らず生きていたと思います。
でも今は安心しています。
自分がどこに向かっていくのかを知っていますし、真理も知っています。そして永遠の世界も知っています。
自分を主の前で罪人だと認めたことによって得られた祝福はたくさんあります。
罪を告白しただけで赦してもらいましたし、受け入れてもらいましたし、神の子どもになる特権まで与えて下さいました。
こんな素晴らしい祝福を拒否することは本当に大きな損失です。
失った後に胸を叩きながら永遠に後悔することはないようにしましょう。
自分が信じたい時に信じるのではなく「きょう、もし御声を聞くならば心をかたくなにしてはならない。今は恵みの時、今は救いの時です。」と語ったことばのように、今日が恵みを受ける時と思って恵みを受け取って下さい。
(・∀・)つ
2015.6.7
聖日礼拝メッセージ
八戸ノ里キリスト教会
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すべての事について…感謝❤
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