からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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訓練

大胆さが必要

テーマは 『 大胆さが必要 』 です

【申命記31章6-8節】

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目で彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。

主ご自身があなたの前に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。

モーセが民に対して、そしてヨシュアに対して、なぜ同じことばをもって励ましたでしょうか?


それは、これからカナンの地を征服しないといけない大きな戦いが 目前に迫っていたからでした。

戦う相手には 高い城壁、訓練された勇士たち、様々な武器がありますが、荒野を40年間通って来た自分たちには 武器も訓練された勇士も戦いの経験もまったくないので、どうしたら良いか分からず、当然民たちには不安と恐れがいっぱいでした。


戦う前から敗北感を味わっていたと思いますし、無気力状態だったと思います。


しかし神の約束を信じ、荒野で40年間 神の守りを見てきたモーセですので、自分がいなくても神ご自身が イスラエルの民を約束の地に必ず入れて下さると信じていたので、自分の後継者として これから指導者になるヨシュアと共に 戦いに参加する民を励ましました。


「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。」

このことばは、終わりの時代を生きている私たちに、今 もっとも必要な言葉だと思います。

なぜなら 主を信じている者にとって、これからの時代は患難の時代になるからです。


信じない人たちは世の流れに従い、それに合わせて生きるので、そんなに大変とは言えないです。


しかし神のみこころのままに生きようとする者には、それに逆らわなければならないことが多くなるので、戦わないと信仰を捨てるしかありません。


信仰を捨てることは、永遠のいのちを失うことですが、それでも現実の患難に勇敢に戦うことが出来ず 目先のことで恐れが入り、クリスチャンとして生きていくことをやめてしまいます。

これから ますます戦いが激しくなることは預言されてあります。


そして、その戦いは霊的戦いではなく、実際の戦いになるからです。


祈りの中で「サタンよ。イエスの御名によって出て行け。」は誰でも言えます。

別に怖いことも不安になることもありません。


しかし実際の戦いは、そんなものではなく “実戦” です。

現実の戦いで勝利することは 簡単なことではないです。


私たちがこれから直面する戦いが、どのような戦いになるのかを聖書と歴史を通して なぜ “大胆さ” が私たちに必要であるかが分かります。


信仰だけでは戦いに勝利できないです。

大胆さがないと、信仰があっても 負ける戦いがたくさんあります。


現実の中でどのような戦いがあるのかを学びます。




世の権力、すなわち政治的圧力との戦い




これはイエス様も バプテスマのヨハネも 聖書に出てくる多くの預言者も そして迫害を受けた信徒たちも経験しました。


神に逆らう法律を作って、クリスチャンを攻撃しました。

クリスチャンから信仰を奪うためでした。


従わない人は 殺されたり、迫害を受けました。


大胆な預言者や信仰ある人たちは見て見ぬふりをせず、不正と不義に対して大胆に抗議したため迫害を受けたり殉教したり、預言者たちは殺されました。


アメリカでもオバマ政権の時に、キリスト教に対して圧力をかける法律を作って物言えぬようにしました。


アメリカのクリスチャンたちは それに対して沈黙しました。

大胆に戦ったこともなく、とても無力でしたので、神が忌み嫌う法律が次々と決まってしまいました。

クリスチャンたちの負けでした。

それは政治的圧力との戦いに失敗したことになります。


その時に 大胆にそれに向かって立ち上がったのが 今のトランプ大統領でした。


彼にある最高の賜物は “大胆さ” です。

1人で不正な権力に立ち向かいました。




軍事的脅威との戦い




ダビデとゴリヤテの戦いがありました。


ペリシテ人の陣営から 並外れた体と戦いに強いゴリヤテが出て、イスラエル陣営に向かって脅しの言葉を掛けただけで イスラエルの民は意気消沈し、非常に恐れて誰も戦いに出なくなりました。

このままならば 完全にイスラエルの負けでした。


しかし、たまたま そこにいた兄たちに会いに来ていたダビデが まったく恐れず、大胆にゴリヤテに向かって叫びました。


【第1サムエル記17章45、47、46節】

おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。

この戦いは主の戦いだ。

主はおまえを私の手に渡される。

そして1人で立ち向かいました。


結果はどうなりましたか?
殺されましたか?


その戦いの結果は、ダビデの勝利でした。

ダビデに力があったのではなく、彼の大胆な行動に 神が働き、彼のことば通りの結果をもたらして下さいました。


そのことで司令官に任命されたダビデは、それからのすべての戦いに いつも神に頼って大胆に戦ったので一度も負けたことがありませんでした。




軍事力脅威による戦い




まさに いま世界の多くの国々は軍事力の強い大国を目指しています。


代表的な国は、ロシアと中国と北朝鮮です。

周りの国や世界を不安にさせます。


軍事大国だからということで、戦争にいつも勝つでしょうか?

歴史を見ると、そうでもありません。


劣勢だったのに 神に祈って大胆に行動したことで勝利した実際の戦いは 歴史の中にも色々あります。

世界のあちらこちらで さらに戦争や内戦が起こります。


聖書にそのことも預言されてありますので、驚くことでもないです。




宗教弾圧による戦い




イエス様に対して敵意を持って殺したのも 当時の宗教指導者たちでした。


ローマ時代にあったクリスチャン対する大量虐殺、日本でも同じことがありました。

今もイスラム世界、北朝鮮で弾圧を受けるクリスチャンも多いです。


そして聖書の預言にもあるように 主の再臨の前に、反キリストが現れ、世界的に激しいキリスト教徒に対する迫害が起こります。


その迫害に耐えられず、信仰を捨てる者が大勢出てくると言われました。

しかし、その中でも最後まで耐え忍ぶ者が救われます。


主の弟子ペテロが “いのちを捨てても主に従う” と言った後に、何時間も立たないうちに主を知らないと三度も言ったことを見ても、人間は本当に弱い者です。


信仰が強い者でも、迫害に耐えることは大変です。


その時は殉教する覚悟が出来た人が 大胆に戦うことが出来、信仰を守ることが出来ます。


それ以外は無理です。




悪口、誹謗、中傷など人から受ける多くの攻撃や経済的攻撃




その時、つまずいたり、疑いや不安や恐れで心が折れて戦うことが出来ず、敗北してしまう人も多いです。

信仰を捨て、イエス様から離れる人も多いです。

そうなると 救いも永遠の命も失ってしまいます。


私たちが戦いに勝利して信仰を守るためには 人や環境を恐れず、また死をも恐れない大胆さが必要です。

それなしには恐れに負けて 勝利出来ないです。


「死ななければならないならば死ぬ。」という覚悟があると大胆になります。




大胆になるために役立つ方法




① モーセが話したことばに、その方法があります。


「あなたの神、主ご自身があなたと共に進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」


主が共におられることへの確信が 私たちを安心させ、大胆にさせます。


ヨシュアもダビデも その確信で大胆に戦い勝利しました。

主は力があり、味方になって下さいますし、約束に対して真実な方です。そして戦いに強い方です。


② すべての主権者である神を一番恐れることで、他のものへの恐れが消えて大胆になります。


【マタイの福音書10章28節】

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

人を恐れるとわなに陥ります。


③ 神の言葉の上に堅く立つ時に大胆になれます。


みことばは 力を与え、希望を与え、慰めを与えます。


そして、みことばを守る者には 神の助けと守りがあります。


【第2コリント4章16-18節】

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

④ 自分の弱さを知って神に頼り 大胆さを祈り求めることです。


パウロは自分の弱さを知り、自分が祈るのはもちろん、他の人々にも自分が大胆に福音を伝えることが出来るように 祈りの要請をいつもしていました。


神様にいつも大胆になれるように祈り求めることが必要です。

祈りの備えが いざという時に力になります。


⑤ 聖書に出てくる人物が、戦いや攻撃を受けた時に どのように戦ったのかを、しっかり学ぶことで その大胆さの秘訣も学べます。


攻撃や患難に人間的な方法で戦うのではなく、勝利した人たちからやり方を学び、その通りにやってみることも一つの方法です。

このようにして、普段から大胆さを身に着けるように訓練していかないと、すぐに恐れが入ってそれに負けてしまいます。


パウロは次のように言いました。


「私は私を強くして下さる方によってどんなことでもできるのです。」
大胆な宣言です。


そしてその通りに彼は激しい迫害の中でも福音を伝え、自分の使命を果たし、殉教しました。

殉教は負けたことではなく、いのちを懸けて信仰を守り通した証です。


目まぐるしく変わる世の中で、それに流されず神のみこころを行いながら生きるためには、たくさんの戦いに大胆に取り組まないといけないです。

目を覚まして神から力を受けて勝利していきましょう。
( ̄‥ ̄)=3

2017.1.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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祝福の価値基準

テーマは 『 祝福の価値基準 』 です

【マタイの福音書5章3-12節】

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

聖書が提示する祝福の概念は、旧約時代と新約時代は同じではないです。


旧約時代での祝福は目に見える物質的な祝福でした。

アブラハムもヤコブも神に祝福されて、あらゆる面で豊かになりました。敬虔なヨブも一番の富豪でした。


旧約聖書での祝福の概念が書かれた箇所は【申命記28章1-13節】です。

その中で11-12節に書かれている祝福は次のとおりです。


【申命記28章11-12節】

主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んで下さる。

主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。

しかし新約時代になると、それがおもに霊的祝福へと変わりました。


今日のみことばがそれをはっきりと見せてあります。

さらに次の箇所のことばもそれを裏付けます。


【エペソ1章3節】

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

神様がこのように祝福の価値基準を変えたならば、私たちも祝福に対する価値観を変えなければなりません。


旧約時代の価値観で見ると、イエス様が語る祝福の価値が分からなくなります。


また、正しい祝福の価値基準を持たないと混乱が生じ、そこに世俗主義が浸透してきます。

そして神の御心に対する概念も崩れ、神様に対して正しい祈りすら出来なくなります。


“いくら祈っても祝福して下さらない”と文句を言うようになります。

私も以前そのような者でしたので、そのことで失敗したことがあります。
お金や健康などが一番の祝福と思っていたので神様にたくさん不満を漏らした時がありました。


その後、神様から色々と訓練されて、自分の価値観が変わっていきました。


間違えた祝福の価値基準が教会や個人に入ってくると、極端な禁欲主義になったり、富を悪と思ったり、質素に生きることが敬虔であるかのように思ったり、またその反対に 金持ちになってたくさんの献金をするのが神の祝福で、貧乏は呪いであると決めつけたりと、聖書の本質からかけ離れてしまいます。


実際に 貧乏でも敬虔なクリスチャンとして生きた人もいれば、金持ちでも呪われた人生を生きた人もいます。


ですから私たちは、聖書が教える正しい祝福の価値基準を知ることで “本当の祝福” を求めることが出来ますし、また神様から祝福された時に その価値を知っているので感謝することができます。






マタイの福音書5章はイエス様が語った『山上の垂訓 (さんじょうのすいくん)』として とても有名な箇所です。


どのような人が祝福されるか、そして その人たちが受けた祝福の中身も教えています。

主が教えた8つの祝福は すべて霊的祝福で、永遠に価値のある祝福です。


これはイエス・キリストを自分の救い主、王として迎え入れた人だけが受けることが出来る祝福です。


キリストにあって天国の民になった人に神が与える祝福です。
それは天にある霊的祝福ですので、キリストの外にいる人が得られる祝福ではありません。


人として地上に来られたイエス様が悪魔の試みにあう場面が【マタイの福音書4章】にありますが、悪魔は次のような誘惑をしました。
それは世の人々が切に求めているような祝福でした。


【マタイの福音書4章8-10節】

「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、

言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたにさしあげましょう。」

イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

その誘惑に主は勝利しましたが、多くの人が、またクリスチャンもこの誘惑に負けて、神を裏切り、悪魔にひれ伏して拝み、この世の富、権力、人気、名誉を得ます。


ハリウッドスターの多くがそれらのものを手に入れるために自分の魂をサタンに売ったと公然と話しているのを聞きました。そして実際 彼らは魂を売って世の祝福を得ました。

それは たましいの安売りに過ぎないですが、それでも欲しいものを手に入れるためにそうしました。


「後のことはどうでもいい。今さえ良ければ」と彼らは思っています。
彼らだけではなく、もっと多くの人々がそのようにしています。


目に見える祝福だけに執着すると、そのように平気に悪魔にひれ伏します。


「キリストを信じたら祝福されます」と福音を伝える時によく言いますが、その祝福を世的なものと関連して伝えると後で色々と問題が生じます。


信じたのにお金も入って来ないし、健康にもなっていないし、仕事もうまくいかないし、別に何も祝福されていないと言って、信仰をやめたり、文句を言ったりします。

また自分が求めているものをくれるならば、たとえそれが悪魔から来たものであっても構わないと思って簡単に拝むようになります。


キリストが伝える祝福の価値観が、この世の祝福の価値観と違うことを知らないと、同じようなことがクリスチャンの中でも起こりやすいです。






主が話した8つの祝福は、どのような祝福よりも価値があり、それは神様との関係の中で得られるものです。

天の御国を相続し、主に慰められ、霊的に満ち足りる祝福、主の恵み、主の憐れみなど特別に価値ある祝福を受けます。


使徒パウロは主イエスに出会った後に、この祝福を受けてから、祝福の価値観が大きく変わったことを明確に告白しました。


【ピリピ3章7-8節】

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

これは、世のものは もう要らないという意味ではありません。

この世でも必要な祝福はたくさんあります。


ただ、今までは知らなかった価値あるものを見つけたので、自分の祝福の価値基準が変わったことを意味します。

何が一番の祝福で価値あるものかが分かりました。


イエス様が天国のたとえで話したことを参考にすると、さらに理解が出来ます。


【マタイの福音書13章44-46節】

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。

すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

イエス様がマタイの福音書5章で “こういう人が幸いです” と言われた人たちは、価値ある宝と真珠を見つけた人たちであり、霊的祝福に気付いた人たちです。


今までは目に見える部分の祝福だけを求めていた人たちが、隠されていた宝を見つけて大喜びでそれを手に入れました。




どのような人たちが 霊的祝福を見つけやすいでしょうか




  • 自分が主の前には罪人で無能な人間であることに気付いた人
  • 主の前に謙遜になった人

  • いつも信仰をもって神の前に生きる人
  • 自分を捨てて主に従っていく人

  • 毎日神の恵みを求めながら、天にあこがれて天を目指して生きる人
  • いつも主を賛美する人

  • 子どものような純粋な心で主を慕い求める人
  • 小さいことにも感謝する人

この人たちは霊的祝福の価値を知っているので切に求めます。


主が語る霊的祝福の価値を知らない人に対して、主は次のように語りました。


【マタイの福音書7章6節】

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。

霊的祝福は、誰もが知っている祝福ではありません。


ほとんどの人は、その祝福に無関心です。
何を食べようか、何を飲もうか、何を着るかに一番関心があります。


しかし本当の祝福と幸せは、“物”ではなく、内面が満たされる時に、霊的に祝福される時だと知っている人は それを求めて主の前に来ます。


その祝福をイエス様が持っておられるからです。


みなさんはその祝福が一番の祝福であることに気付いていますか。
そして求めていますか。また、すでに受けていますか。


自分の財産目録を今一度調べてみて下さい。

一番の宝は何でしょうか。それはいつまで続くものでしょうか。


それが自分のいのちよりも価値あるものでしょうか。
(((( ;゚д゚)))

2015.7.5
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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新しい人と古い人の戦い

テーマは 『 新しい人と古い人の戦い 』 です

【Ⅱコリント5章17節】

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

このことばは神の約束であり、キリストを信じて受け入れた人は、その約束通り 新しい者になります。

それは素晴らしい約束であり、新しくなることは祝福です。
しかし実際の姿はどうでしょうか?


自分の中で、新しい人とは正反対の姿(つまり古い姿)を見て失望したことはありませんか?

神のことばによると、自分の中には新しく造られた人が存在するのに、日常の中で以前と変わらない古い姿を見ると『何も変わっていない』と みことばを疑う人や、自分に失望して古い姿のままで生きている人が多いです。


聖書が語る“新しい人”と、現在の自分の姿との“差”をどのように解決したら良いのか、
また、新しい人が勝つためにはどのようにしたら良いでしょうか。

まずは新しい人、すなわち新しく造られた人が何であるかを知らないといけないので、そのことを先に語ります。




イエス様とニコデモの会話





【ヨハネの福音書3章3-8節】

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。

肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

この内容で分かるのは、新しい人は御霊によって生まれるということです。

奇跡の中の“奇跡”というのは、病気が癒されることではなく 御霊によって新しく生まれることです。

まるで赤ちゃんが生まれるように、“霊の人”が生まれることです。神の驚くべき被造物である新しい人は、実際に生きている生命体です。


“霊の人”という新しい人は、神を知ることが出来、霊の目と耳が聞かれ、キリストの恵み、贖い、神のみこころに対して喜び、神様を賛美します。そして自分の罪を悟り、神の愛を感じます。

自分の思いのまま、自己中心的に生きていた者が神に頼り、その導きを受けて生きようとします。


しかし新しく生まれたからといって霊的なことが何もかも分かり、その通りに生きられるわけではありません。


なぜなら私たちが新しく生まれても自分の中にある“霊の人”はまだ赤ちゃんに過ぎないからです。

そして自分の内には 肉の人、古い人が死んではいません。
古い人は死の判決を受け、権利を奪われましたが、相変わらず抵抗をします。それは(肉が)死ぬまで抵抗を続けます。


肉の人は、霊の人が生まれたことを知り、それを憎み殺そうとします。


そのことによって私たちの中には戦いが始まります。
つまり霊の人と肉の人、新しい人と古い人との戦いが始まります。


パウロ自身もその戦いを経験していたので、その様子をこのように話しました。


【ローマ7章18-25節】

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、 それを実行することがないからです。

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。

もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

そして次の箇所でも、その戦いがあることが書かれています。


【ガラテヤ5章17節】

なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

このことで分かることは、この霊的戦いが信徒の生活の中に起こるということです。

生まれ変わった瞬間からこの戦いは始まります。
そして いつも(肉か霊の)強い方が主導権を握ります。


自分がどちらを選ぶか、どちらが好きか、どちらの味方になるかによって戦いの結果が変わります。

私たちが戦いで勝つ方法は1つしかありません。


私たちが霊的に強くなり、霊的に成長することです。

霊的に成長すればするほど、肉の人、古い人は力を失っていきます。


それでは、どのように私たちがこの戦いで勝利を得られるのかを学びます。




1、自分自身との戦い




私たちの敵は 他人ではなく、自分の内にある古い人です。
それは肉に従って歩もうとする肉の人です。


【ローマ8章13節】

もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

このみことば通りだと思います。

私たちが霊の人として生きるためには、古い人を殺さないと自分自身が死んでしまいます。


古い人を殺す方法は、自分の中にある(古い人の)強い欲を殺すことです。



【ガラテヤ5章24節】

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

たとえば、自分の欲で好むことだけをするならば、霊の人は成長することができません。

霊の人が成長するためには、みことばを読まないといけないですし、祈りも必要なのにテレビばかりを見たり、眠りをむさぼったり、人とばかり話したりすると霊の人はまったく成長しません。

自分の欲に従う人は、霊の人を殺してしまいます。そして自分の心の中に怒り、憎しみ、悪い感情などを入れたままにすると霊の人はだんだんと死んでいきます。


新しい人を成長させたいと願う人は、「体の行いを殺すんだ」と決心しなければなりません。

自分の中に存在する様々な情欲に対して「NO」と はっきりと言うことが大切です。


イエス様に集中したいと願う人は、自分の時間と関心を奪うものを退けなければなりません。

これは聖書の教えに私たちが従うことです。


古い人を助けてしまうものを十字架に釘つけることが大切であり、絶えずこの戦いをしていかなければなりません。

一度戦ったからといって肉の欲が消え去るわけがないです。そして自分の力で常に勝利するわけでもありません。


パウロのように「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と主の助けを求めることです。

彼は戦い続け、主の助けを求めました。


あまりにも信徒たちがこのことに対して無関心、無抵抗なので次の箇所でこのように語っています。


【ヘブル12章4節】

あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。




2、イエス様を見上げること




イスラエルの民たちが罪を犯し、神が送った火の蛇によって多くの者がかまれて死にました。
その時に神はモーセに青銅の蛇を作りなさいと命じ、それを見た者は死ぬことがありませんでした。


主はそのことを自分の十字架と重ねてこのように語りました。


【ヨハネの福音書3章14-15節】

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

十字架にかかったイエス・キリストを信仰で見上げていくならば、神のいのちが私たちの中に流れてきます。

それが聖書の真理です。


十字架の上で自分の罪のために血を流しているイエス様を見上げながら、私たちは自分の欲に従ってキリストを苦しめながら生きることができるでしょうか。


私たちがキリストから目を離して世を見るならば、誘惑するものがたくさんあります。

目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢などに心が奪われます。
「欲しい、欲しい」と、そういうものをむさぼるようになります。

主は「それらのものは御父から出たものではなく、この世から出たものです。世と世の欲は滅び去ります。」と語りました。


私たちの中には生まれながら強い欲があります。

そしてこの世は私たちがさらに貪欲になるように教えます。そうしないと金儲けが出来ないからです。

肉の欲に縛られて生きているクリスチャンもたくさんいます。


いつもこの世ばかりを見ながら、イエス様を信仰で見ないので いつまでも霊の人が成長することなく、霊の人なのか、肉の人なのか自分でも分からない状態です。


自分の欲望だけに関心があり、キリストを見上げることをしないなら、自分が本当に救われた人なのかどうかをもう一度考えなければなりません。

生まれ変わった者は自分の主を見て生きるのです。


【ヘブル12章2節】

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

これが私たちへの主からの命令です。




3、訓練だと思って耐え忍ぶ




イエス様の贖いを信じて、信仰の戦いを続けても、また からだの行いを殺しても勝利できない時があります。

その時は戦いをやめますか。絶対に戦いをやめてはいけません。


神様は私たちを戦いの中で訓練するからです。

肉の人から霊の人として変わるには、時間がかかるだけではなく、訓練も必要です。


例えば、ある人が神様よりもっと愛するもの、関心を寄せているものがあるならば、神様はそれを知って、その人がそのことに失望するように、嫌気がさすようにしていきます。

その人がそのことが出来ないように、色々な試練を送ります。


例えば、イスラエルの民が40年間、なぜ荒野にいましたか?
神様はすぐにでも彼らをカナンの地に導き入れる力のある方です。


でもそうしなかったことに神様の理由と計画があります。


【申命記8章2-6節】

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、 あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、 飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出る すべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、 はれなかった。

あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。

あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。

そして新約聖書でも主が語りました。


【ヘブル12章5-7節】

そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。 主に責められて弱り果ててはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

自分の中にまだまだ古い人が強いならば、人を通して、環境を通して訓練が続くと思ってください。

「なぜ私にこんな試練が。神様、なぜ助けてくださらないのですか。」と叫ぶ前に、自分の中にまだ残っている肉の欲が何か、古い人の姿は何であるかを見つけ出してそれを殺す戦いをしてください。


そして霊の人を強くするために、栄養を与え、神の霊の武器を用いて戦ってください。

私たちは新しく生まれ変わった人を愛し、古い人を憎まなければなりません。
自分の中にある様々な欲を十字架につけるならば、自分の中に主の平安と感謝、神の力が臨みます。


私たちのたましいの敵は、私たちを破滅させるために、絶えず欲に火をつけ、罪で誘惑します。


ですから、私たちは絶対的に罪と戦い、自分自身と戦っていかなければなりません。


戦わないなら古い人・肉の人が霊の人を殺し、それによって自分も死んでいきます。

私たちが戦う時は、絶えず小羊イエス・キリストの血と主の御名を使って戦いましょう。

そして勝利したイエス様にいつも頼りましょう。
( ̄‥ ̄)=3


2015.1.18
新年礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖徒が警戒すべきもの

テーマは 『 聖徒が警戒すべきもの 』 です

【ルカの福音書12章1-3節】

そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。

おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。

ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。

【ルカの福音書12章13-21節】

群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。

すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。 さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

9月5日(金)に、スマホを使用していた最中に、突然大きな音とともに表示画面が変わったので、びっくりしました。
きっと、大阪に住んでいる皆さんも同じ体験をしたと思います。

それは、大阪府民880万人に一斉送信された緊急地震速報の避難訓練のお知らせメールで、2度もありました。

自宅はマンションの9階なので、たとえ津波が来ても安全な場所ですが、1階に住む人たちはどうしているのかと思い、外の訓練の様子が気になり 窓から見下ろしましたが、何一つ変わっておらず避難訓練に参加している人は、1人もいませんでした。


南海トラフ巨大地震は、近い将来 必ず起こると言われていますが、いつも情報を聞きながらも、「まだまだ大丈夫だろう。」と思ったり、どうしたら良いのか分からないからと、考えないようにしている人が意外と多いかも知れません。

私は必要なものは備えましたが、何の対策も警戒もしていない人は地震が起きた時、本当に大変だと思います。
私たちはこれらのことも気にしながら、知恵を用いて対策をしなければなりません。


本文のことばは、イエス様が弟子たちに教えられた大切な戒めですが、これは私たちの信仰生活に対する警告であり、私たちを倒そうとするものからの避難訓練でもあります。

この訓練は、日々していかなければならないもので、何かが起きてからでは遅いのです。


これは、いつか起きる巨大地震のようなものではなく、日々私たちを襲ってくる、あらゆる誘惑から自分自身を守るために必要な訓練のことです。


今回は、何をどのように警戒して訓練をしていくのかを学びます。




(1)外側と内側とが違う信仰生活を警戒する




外側と内側とが違う信仰生活のことを一言で言うならば、偽善的な信仰生活のことです。

ルカの福音書12章1-3節で主が語りました。

パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。

おおいかぶさっているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。

ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。

この人たちは宗教的に敬虔に見えますし、祈りも奉仕も熱心にしますので、すごく信仰があるように見えますが、心の中には貪欲、嫉妬、高慢、憎しみや汚れた思いがそのまま残っています。 

肉の思いを捨てることをせず、見える部分だけを、きよく見せようとしても、それは偽善に過ぎません。

イエス様は、いつもそのように生きているパリサイ人たちに「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」と語っていました。


パリサイ人は当時、宗教に一番熱心な保守的な人たちでした。
人々は彼らを尊敬していましたが、イエス様は彼らの偽善を知って暴露し、人々が騙されないようにしました。

偽善は本心を隠しての行動ですが、いつか主の前に立った時には裸にされるように、すべてのおおいが取り除かれて全てが明るみに出されます。

そして偽善的な行動には、神からの報いもありません。反対に さばきが待っています。


【マタイの福音書6章1節】

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

ですから、自分の信仰生活の中に偽善的な要素があるかどうかを、よく調べるのが重要です。


主の前に真実な姿で生きるように心掛けなければなりません。




(2)所有物に対する貪欲にも警戒する




所有物に対する貪欲にもよく警戒をしなければなりません。(13-21節)

本文は、財産分配の問題解決のために来た人を通して、イエス様は人間がどこに価値を置くべきかを教えています。

イエス様は、財産分配の問題の解決よりは、その後に続く金持ちのたとえ話を通して、すべての人の心にある貪欲を指摘して根本的な問題の解決を提示しました。

私たちが根本的な問題を解決しないならば、1つの問題が解決されたとしても、また新たに似たような問題が起こります。

「何で次から次へと同じ問題が起きるのか?」と困惑しますが、自分の中に常に問題の根本的な原因があるからです。


クリスチャンの中でも、この根本的な問題が解決されず、貪欲な心のままで生きている人が多いです。
それがあるので神様を第一に出来ませんし、誘惑に弱いですし、神様が恵みを与えても、その恵みの価値を知らないでこぼしてしまいます。

お金のほうがもっと大切だと思うようになります。

イエス様の教えから、発見される教訓は何でしょうか?






①人生の真の価値は財産にあるのではなく、永遠のいのちを所有することにあります。

皆さんのいのちは何でしょうか?お金ですか?

すべての人に共通するものが1つあります。
私たちの人生は、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。どんなに長生きをしても、100年ちょっとです。

先日、交通事故で死亡した韓国ガールズグループのウンビさんは21歳で、まだ若いです。
死は何の前ぶれもなく、突然起きました。


私たちも、明日のことは分かりません。生きているか、死んでいるか――

金持ちでも貧しい者でも、死の前では無気力な存在です。

財産が私たちの命を守るために、死を止めることができるでしょうか?

それにもかかわらず、財産を人生の目的として貪欲になっているのは愚かなことですが、それに気づかない人も多いです。


②すべての富も命も、主の手の中にあり、私たちの人生は、神の管理人としての使命があります。

豊かさは神の恵みと祝福によるものであり、いのちも神の主権的な手にかかっているのです。


③自分に与えられた富を貧しい者のために使う人は、天に宝を積む人で、神さまはその人のことを豊かな人だと語りました。

愚かな金持ちのように、自分のためだけに使うならば、必ず神さまのさばきにあいます。
なぜなら、神の目的に逆らって生きたからです。

“貪欲”とは、愚かな金持ちを通しても分かったように「自分の所有や感情の満足を追求するために、絶えず生まれる欲」です。


貪欲におちた人は霊的に見えない者になり、霊の世界も分からず、自分の肉の欲のままに歩むようになり、信仰生活もつまらないです。

物質世界の中で、もっとも私たちが警戒しなければならないものは この貪欲です。






ですから、貪欲に対して聖書の多くの所で教えています。


【詩篇39編6節】

まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。


【ハバクク書2章9節】

わざわいだ。自分の家のために不正な利得をむさぼり、わざわいの手からのがれるために、自分の巣を高い所に据える者。

将来の不安対策として蓄えるので、「これでも足りない」と、いつも不満足な状態です。


【Ⅰテモテ6章9-11節】

金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。

貪欲はあらゆる悪の根であると教えます。


【コロサイ3章5節】

ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

貪欲はそのまま偶像礼拝になります。

偽善的な信仰生活をしている人の中にあるものは、この貪欲が原因です。

神様を第一に求める人のように見せかけながら、心の中では別のものを熱心に求めています。

イエス様のところに来て財産分配の問題を解決して下さいと頼んだ人も、イエス様をメシアとして崇めたのでもなく、イエス様を利用して自分が財産をもっと貰いたいという貪欲の思いの方が強かったのです。


また貪欲は、使うべき所にも使わず、ひたすら集める人だけが持っているものだと思ってはいけないです。

自分の欲望や物欲のために自分の収入以上に使う人の中にも貪欲があります。借金までして手に入れます。
この貪欲は、そのまま偶像崇拝になりますので、本当に私たちが警戒をしなければなりません。


偽善的な信仰生活と貪欲には深い関係があります。この世と神を求める二股状態です。

うまく続けられると自分で思っていても、結果は「愚かな者」と主から言われるようになります。


他にも聖書には警戒すべきものがありますが、今回は最も警戒が必要な偽善と貪欲について話しました。
貪欲は私たちの中で持っていない人はいないほど、根が深いものです。

(自分の中には)存在しないと思っていても自分の心を掘っていけば、どんどん出てきます。


探し出して捨てていくのが、警戒して訓練をしている姿です。

私たちがみことばに従って、神を喜ばせるならば、神様は私たちに必要なものを備えてくださる方です。
欲しい物よりも、生きる為に必要なものを与えて下さいます。それを信じて、必要なものは神様に求めましょう。

そして、偽善と貪欲は捨てましょう。
(*・ω・)ノ

2014.9.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神のことばの力

テーマは 『 神のことばの力 』 です

【ヘブル4章12節】

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、 心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

もし クリスチャンではない人が、皆さんに「神のみことばって何ですか」と聞くならば何と答えますか?

「聖書は神のことばです。」「神のことばは真理です。」
これは間違いではないですが、その言葉だけで相手は理解できるでしょうか?

また次に「聖書って何ですか?」という質問に対しては、「神のことばです」と言っただけでは 相手の人は「一体何が書かれているんだろう?」と思います。

「真理です」と答えても「真理って何ですか?」と聞かれたとしたら、私たちは正しく説明できるでしょうか?


私たちクリスチャンはいつも神のことばを聞いているので、神のことばに対して よく知らなければならないです。
そして人々に正しく伝えなければなりません。


「神のことば」が何であるかは聖書の中にちゃんと書かれていますので今回はそれを学びます。
今日の本文のことばに注目しましょう。




①神のことばは生きている



神のことばは生きていると説明することができます。
生きているということは、そこに“いのち”があることを意味します。

“いのち”があるということは、人を生かす力があるのです。これはイエス様もはっきりと語ってくださいました。


【ヨハネの福音書6章63節】

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

死んだ人に対しては「いのち」という言葉は使いません。
「いのち」は“今、生きている”ということです。


神のことばは、死んだ言葉ではないです。私たちに益をもたらす、生きたことばであります。

神のことばは死んだたましいに生命力と活気、満足を与えます。


生きているということは、働きますし、変化と発展をもたらします。
死んだものは動きませんし、死んだものが他のものを生かすことは出来ません。そして変質されていきます。

しかし、神のことばは世が始まる前からありました。そのことばによって、全てのものが生かされています。


クリスチャンが成長したいならば、そして神の子どもらしく生きるためには、神のことばが必要です。


【Ⅱテモテ3章16-17節】

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

“矯正・義の訓練・整える” これはすべて私たちを成長させるものです。


私たちはもともと神の人ではなく、サタンの奴隷でした。
そこで、サタンの奴隷から神の人に変えていくのに用いられているのが“神のことば”であります。

皆さんが霊的訓練を受けていた時に、世の教えで訓練をしたのではないです。
神様のことばを用いて訓練をしました。


それを聞いて、私たちは自分の中にあった死んでいる部分を見付けました。
そして神のことばを聞いて私たちは成長してきました。

ですから変わっていくためには神のことばを聞いて、それによって訓練されなければならないです。


肉の思いは何の益も もたらしません。
例えば、皆さんにお配りしたパープルブックですが、みことばを書く訓練はとても大切であります。

(聖書を)読んで通り過ぎるよりも、書くことによって みことば1つ1つが心に入ってくるのです。
みことばを読まないのは成長を止めていることになります。それは自分が死んでいく姿であります。


私たちが成長し、もっと変化したいと思うならば 毎日みことばに触れないといけないです。


パープルブックは簡潔に書かれています。書くことで皆さんが訓練をされていることになります。
教科書の宿題のように書くのではないです。

書かないということは、みことばをないがしろにしていることであります。

みことばは食べ物だと言っています。
皆さんは毎日3食をきちんと食べると思います。お腹がすいて夜中に起きて食べることもあります。


それなのに、みことばは一切食べなくても何とも思わず、みことばに触れないままでいると たましいは死んでいきます。

みことばは 私たちが必ず食べなければならないもので、それによって私は生きているのだという認識をし、自分の霊をどんどん生き生きとしたものにしていかないと霊が弱くなります。霊が弱くなると私たちのすべてのものが色褪せていきます。


霊が死んでいる者は、喜びが出てくるでしょうか?平安があるでしょうか?―― それはないです。


一番強くしていかなければならないのは、『霊の部分』であります。
霊の部分が強くなると、その人はとても大胆な人になります。生き生きする者になります。


「最近、元気がないなぁ~」と感じるならば、それは肉体の力以前に 霊の力が消えたことを意味します。
その時は他のことをする前に、みことばを食べることであります。

また、どうやったら毎日みことばに接することができるのかを考えると、不思議と神様が導いてくださって出来るようにしてくださいます。

聖書をいつも手元に置くことであります。スマホで聖書アプリをダウンロードしたら移動中でも読めるのです。


私たちはやろうと思えば出来るのです。みことばに親しんでください。そうすると成長していきます。




②神のことばは力がある



皆さんは神のことばには力があると実感しているでしょうか。


この力が一番最初に現れた場面は、天地創造であります。

神様が「光があれ。」と、全てことば通りになりました。人間以外の世にある全ての万物は神様がことばで造りました。
太陽、月、動物もすべてことば造られました。その威力がすごいです。


また、今も神様が万物を保っておられますが、何によって保っているでしょうか――?次の箇所です。


【ヘブル1章3節】

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。 また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

神様は今もことばによって全てに命令をしているのです。
「太陽よ、正しく回れ。」「月よ、夜に輝け。」と、神様の力あることばに全てが支配されています。

いつか神様が「地球よ、滅びなさい。」と言うならば一瞬にして滅びると思います。
神様はことば1つで それをすることができます。

これほど神様のことばには威力があります。


また、神様のことばの威力は クリスチャンの日々の生活の中で必要です。

悪霊を追い出す時に、私たちは何の力で追い出しますか?
それは神のことばです。

私たちは「イエス様の名」を使います。イエス様ご自身が みことばなのです。


【ヨハネの福音書1章14節】

ことばは人となって私たちの間に住まわれた。

すなわちイエス様のことばは霊でもあります。そこにあるのは力です。


イエス様が40日間 断食をした後で、サタンが試みるために来た時に、イエス様がサタンを何で退けたでしょうか?

喧嘩をして退けたのではないです。神の1つ1つのことばを語る時に、サタンが退きました。

私たちが人間の言葉でサタンと戦っても勝ち目がないです。
しかし私たちが神のことばを信じて 武器(みことばの剣)にして戦うならば、神様の力がそこから出てきます。


ですから、私たちがみことばを蓄えるということは、戦いの時にそのことばを使うためであります。




③両刃の剣よりも鋭い



神様は両刃の鋭い剣のことばで何をするのでしょうか?

私たちの心を刺し通します。
私たちの心がことばによってグサッと刺される時に、一番初めに気付くことは“自分の罪”であります。

そして「私たちは(罪を)どうしたら良いですか?」という反応を見せます。


神のことばに出会った時に、私たちは自分の行動や生き方が 神のことばとは全然違うということに気付きます。
神のことばに違反している自分の罪を示されるのです。

神のことばは本質的なことを示していますので、そのことばを聞いて何も感じないならば それは死んだ者です。


神様のことばは 罪人が聞いた時に心を刺されることばであります。ある意味で聞きたくないです。

私たちは罪にずっと覆いをかけて見て見ぬふりをして生きてきましたので、それを明るみに出して見せられるならば自分の罪であっても見たくないのです。

見たくないですし、逃げたくなりますし、隠したくなります。


しかし、神のことばは全てを刺し通します。『あなたは罪人であるのだ。』

そして神様は別のみことばを出して『だから悔い改めなさい。立ち返りなさい。』と、神様はあらゆることばを通して私たちの中で働くのです。


そこで私たちはどれほど不従順であったのかを気付き、そこから立ち返らなければならないと思うようになります。


また、神様はそのことばを用いて裁きます。
不従順したイスラエルの民たちを全員 神のことばの剣によって打ちました。
これからの時代も同じであります。神のことばによって正確にさばきを受けるようになります。


【ヨハネの福音書12章48節】

わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。 わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

すべてのものが裁かれるその時に ことばがその人を裁きます。

私たちはことばを知らないと自分がどこへ向かっているのか気付かないです。
ことばは聞かなければならないです。


ずっと聞くことで私たちは気付くことがたくさんありますので、礼拝の時にもたくさんのことばを語りますので聞くことであります。

家で聖書を読む時も、神様のことばとしてきちんと聞かなければならないです。




④たましいと霊、肉体すべてを刺し通し、判別することができる



神のことばは ある限られた場所だけで働くのではないです。


人間のすべての面において働きます。すなわち たましい・霊・肉体を新しく生まれ変わらせます。

神様はことばを使って一番したいことは、私たちの霊とたましいを新しくしたいのです。これは神様の願いです。


人はうわべを見ますが、神様は心を見ます。
神様は私たちの心に手を付けて新しくしたいのです。


【Ⅰペテロ1章23節】

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

私たちは死んだ者から新しい者になれたのは、何によってでしょうか?
ここに書かれているように、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによって私たちは聖められました。

このようにして神様は私たちのたましい・霊をいやしてくださいました。


また、神のことばは肉体・病気をいやします。

百人隊長のしもべが病気になった時に、隊長がイエス様の所に来て『おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。』と言いました。

それを聞いたイエス様が『さあ、行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。』と言いました。
すると遠く離れた所にいたしもべは ちょうどイエス様が語った時にいやされました。


つまり場所・空間は関係がないです。
全地・全世界は神のことばによって動いていますので主が働くのです。


また苦しみの中にいる者に主のことばは慰めであります。

皆さんは苦しい時に、神のことばによって どれほど慰めを受けたでしょうか?


【詩篇119編50節】

これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。

悩みの時に、私たちは他人のことばを求める必要はないです。
一番 私たち自身のことを知っているのは神様です。

なぜなら神様には、私たちを生かしたい、新しくしたいという思いがいつもあるからです。


これらのことを通しても分かるように、私たちは単純に神のことばを読むだけで終わるのではないです。
神様のことばを聞いたら、私たちの日々の生活に適応しなければならないです。素直に使うことであります。


なにか大切なことを決めなければいけない時も 自分で色々と考えるのではなく、神様は何とおっしゃるのか?聖書にはどのように書いているだろう?と、みことばを探して神様の導きを受けて決定するのです。

どの道を歩んだら良いのか、その時も私たちはあっちへ行ったり こっちへ行ったりするのではなく、 「道であり真理であり いのちである主よ。今日も私の道を教えてください。」と、神様からことばを貰うことであります。


どう生きるべきなのか 生き方がよく分かっていなくても、聖書を開けば全て書かれています。
聖書には私たちが生きている時に出会う様々な問題に対しての答えが必ずあります。


それを私たちが探すことです。「教えてください。」と探すならば神様はその人に必ず示してくださいます。

私たちが従うならば成長していきます。

神のことばに対して私たちの取るべき態度は、まずは信じること・従うこと・勝手に判断しないこと・適応すること・導かれること・ことばによって生きることであります。


この人たちは明日のことを心配する必要はありません。神様はことばによって その人たちを守ります。
ことばがその人の代わりになってくれるのです。ことばが慰め・平安・祝福をもたらします。

ことばが自分にとってどれほど大切であるかを知らなければならないです。


相手が自分のことをどう思っているのかは考える必要がないです。その相手が神ではないです。
それは自分に対する悪口・批判など私たちを潰す言葉であります。

私を生かすことば、私に益をもたらすことば、私を助けてくれることばに耳を開いて聞かなければならないです。


偽りがたくさんある世の中で、私たちは何を聞くべきでしょうか?

神の真理のことば、それを常に聞かなければならないです。
(・∀・)つ

2014.8.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖書が記録された目的

テーマは『 聖書が記録された目的に対して 』です

【ヨハネの福音書20章30-31節】、【ヨハネの福音書21章25節】

クリスチャンにとって聖書は「命の書」であります。
クリスチャン生活を送るうえで、もしも聖書が無ければどうなるでしょうか?
――それは食べ物がない状態と同じです。飢え渇き死んでいきます。

聖書があることで、自分たちの霊が守られていることを、私たちは知っています。

聖書が記録された一番の目的は、ヨハネの福音書20章31節です。

ただの「イエス」ではなく、神の子・イエスの「神の子」の部分が大切であります。
神の子を信じるということは、イエス様は神様であるということです。

イエス様を信じない人は、人間の子でしか見ていない人が多いです。
多くの異端がよくそのような話をします。

キリスト教はイエス様が教祖なのです。多くの宗教にあるような、人間の教祖です。
ですが、私たちクリスチャンは一度もイエス様のことを教祖と呼ばないです。
なぜならそれは、神の子であるからです。

聖書は、イエス様が神の子であること、そして私たちを救うために人間の姿をもってこの地上に来られ、
罪を犯した人間を救うために、その肉体を十字架にかけるために来られました。
それを聖書が私たちに一番教えています。

聖書は、自分の知識のために読む人も多いですし、疑いの心をもって読む人もいますし、
キリストが神ではないことを証明するために聖書を読む人も多いです。

しかし、クリスチャンが聖書を読む時は、神様が聖書を記録した目的通りに読まなければいけないです。
それは私たちのために来られた仲介者、神様と人間を和解させるために来られた主であるということを
私たちが信じることであります。

神様の知識・情報を「聞く」だけで終わる人が多くいます。
聞くだけで救われるわけがないです。真の神であることを信じて、初めて魂が救われます。
魂が救われることは、永遠の命を得ることであります。


【ヨハネの福音書3章16節】

聖書は人間が作り出したものではなく、聖霊によって動かされた人たちが作ったものであります。

聖書を読む時に、「 そこに神様の姿・全地を造られた主、人間を愛しておられる神様、
そして今も生きて働いておられる神様、これからの将来すべてのことを計画しておられる神様 」
それらの姿を私たちは聖書の中で見なければならないです。
ですから神様を発見することが一番なのです。


私たち個人に対して、クリスチャンはどのように聖書を読むのか?は次の箇所です。

【ローマ15章4節】

教訓を与えます。昔、信仰をもって歩んだ姿を見て、自分たちがしっかりと学ぶことであります。
周りにいるクリスチャンたちや、自分たちの前を進んでいたクリスチャンたち、
従順に歩んだ者たち、不従順に歩んだ者たち、その結果がどうなったのかを私たちが学ぶことであります。
「どうしてこの人は祝福されたのか」、「どうしてこの人は倒れてしまったのか」と、その結果には原因があります。
神様はそれを隠さずに聖書に記録しています。
それは、「あなたが読んで学んで教訓を受けなさい」ということであります。


【Ⅰコリント10章11節】

学ばないと教訓にならないです。


【Ⅱテモテ3章15-17節】

聖書を知らないと、本当の働き人にはなれないです。みことば(黙想)と祈りに専念することです。
聖書は たくさん読むよりも、短く深く読む方が良いです。
しっかりと理解をして自分に適応できるように聖書に触れることが大切であります。

たくさん読んでも1つも頭に残っていないならば、ただ舐めって終わったことになるのです。
自分が何を読んだかもわからないならば、それは間違った読み方であります。
ですから同じ箇所を繰り返して、掘っていき、「神様は私に何を要求しているのだろうか?」と
自分の姿が全然違うのなら、そこで気付いて直して立ち上がることが、本当の意味での訓練なのです。

訓練はただ聞くだけで終わるのではなくて、それによって自分を変えていくのが訓練であります。

神様はそのように訓練をして、(私たちが)良い働きのために相応しい充分に整えられた者となるためです。
私たちが聖書を読みながら、「神様、これによって私がこういう訓練をしっかり受けて、私が整えられる者に
なりますように」と祈ると良いです。


【Ⅰヨハネ2章26節】

終わりの時には、惑わしの霊がものすごく働きます。
ですので、みことばを知らない人たちは一番惑わされます。

サタンは、クリスチャンたちを信仰から落とすために、似たような言葉ですが真理ではない言葉を持ってきて
惑わします。
ですから、みことばを正しく知らないと、その人が惑わされます。

異端は信じていない人が作ったものではなく、信じて教会に通っていた者が異端を作ります。
似たような言葉ですが真理ではないことに騙されている人が、どれほどたくさんいるのかわからないです。

目を覚ますことが大切で、みことばの上にしっかりと立つことであります。
しっかりと立っているならば、サタンはその人を惑わすことができないです。

その人は、真理そのものを握っていますので偽物はすぐに分かります。

聖書は、偽物と本物を見付けるための大切な基準でもあります。
普段からしっかりと聖書を読んでください。
これから起こる終わりの時代に、騙されないために真理を知ってください。 (・◇・)ゞ

2013.5.12
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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報いを期待する

テーマは『 報いを期待する 』です

【Ⅱテモテ2章3-7節】

最近はオリンピックの特集がありますが、そこで選手たちの姿が出てきます。(※2012.7.22現在)
参加する全員がメダルを取るのが目的です。朝から晩まで極限の状態になるまで訓練を受けています。
緊張感もある中、4年毎の大会のためにそれを狙って彼らが練習をします。
自分が一生懸命練習した報いを受け、良いものをたくさん受けることができます。

クリスチャンも同じ姿だと言っています。

――  兵 士  ――

韓国の若い男の人たちは軍隊に入隊します。それは逃げることができないです。
学生であっても、お金を稼いでいた人でも2年間は、家族、友達、知り合いから離れなければならないです。
親が亡くなったとしても、行くことができません。体調が悪くても言い訳が通らないです。
1秒でも遅れると全体に責任が負わされます。入隊が1日違うだけで、年齢関係なく早い方が上になります。
完全に命令に従順であります。軍隊とはそういうものです。

私たち、クリスチャンは誰に召されたでしょうか? イエス・キリストです。
イエス様がある意味でトップの司令官であります。その命令に従わないことは命取りになります。
軍隊ならば、命令に従わなければ殺しても良いことになってあります。

軍隊に入るまでは、自分のために生きていた者が、入った後は、優先順位が「国」に変わります。
「国のためには命を棄てます」となり、「恐くて行けない」とは言えません。
そこで死ぬのがわかっていても「行きなさい」と言われたら行くのが「兵士」であります。

私たちも、自分を呼んでくださった方を喜ばせなければならないです。
神様の命令に不従順して、自分がやりたいことをするならば(神様から)追い出されていきます。

追い出されると、自分が餌食になります。
ですから「キリストの兵士である認識を持ちなさい」とおっしゃられます。
自分達が今まで持っていた、いらない物を捨てる訓練が必要になります。

私たちが厳しい訓練を通ると、神様が認めてくださいます。そしてその者たちを喜んで祝福します。
神様には祝福が必ずあります。

――  選 手  ――

選手は皆、勝利を願います。選手になるものは遊びではないです。趣味ではなく、
選手ということは、必ず結果を出さなければならないです。
訓練を受ける理由は「勝ちたい」ということで、勝ってその勝利を得て喜びたい。
しかし、訓練を受けずに選手生活はできないです。

クリスチャンは実際にそこで走る選手であります。勝利を願って走らなければならないです。
しかし、ただ熱心に走れば良いかというと、そうではありません。
運動の選手であれば、そのルールがあります。それに反すればメダルを取った後でも取り上げられます。
時々ルールが変わることがありますので、それをしっかり理解しなければならないです。
ですので、(クリスチャンも)正しく戦わなければならないです。

神様が私たちに訓練をさせるのも、みことばを色々与えるのも、これは規則であります。
「この規則通りにしなさい」ということです。

選手は知識だけでは戦えないです。実際に身体を動かしてみないと訓練にならないことであります。
競技をしている間は、100%そこに全ての想いと力と精神を注がないと、力が出て来ないです。
もし力を出し切れなければ、負けた時に後悔が残ります。

クリスチャンはとても不思議なもので、
自分が神様から祝福されたい、変わりたい、勝利したいと願いながらも、願いは強いですが、努力をしないです。

このようにしたら祝福され、変わり、勝利されると神様が語る言葉がありますが、
「しんどい、難しい」。このような言葉を聞きます。言い訳をして何もしないです。
訓練というものをとても嫌います。だから何も得られません。

兵士、選手、農夫の姿を見なさい、と。彼らは願いが強いだけではなく、努力をしているのです。
そして戦っています。
だけど、あなたたちは願いが強いだけで、肉体が弱いと言ってすぐに逃げ込みます。
口を開いて、(恵みが)落ちてくることを待ちますが、何も落ちてこないです。

神様だったら誰に恵みを与えると思いますか?
願いが強く、それの為に一生懸命努力する人に、神様は当たり前のように与えます。
その人が本気だからです。
本気とは、集中することであります。そこに全てを注ぎます。

目、時間、能力を注ぎ、それだけをします。そうすると報いがあります。

ですが、努力をしない、忍耐をしない、願いだけが一人前。
「あの人は良いな。何であの人ばかり受けているのか。私は無いな」と、
でもその人はそれだけ努力をして訓練を受け、そして神様のルールを守るから栄光を受けます。

神様は私たちに栄光を与えたいと願っています。神様はただ、奴隷のように働かせるのではないです。
私たちは子どもです。良くなって欲しいと思っていますが、しかし、甘やかすことはしないです。
一人前になって欲しいと願っておられます。 

――  農 夫  ――

ただの農夫ではなく、労苦をした農夫です。
神様は、クリスチャンは農夫である、と語りました。
キリストを信じる農夫が収穫の喜びを味わって欲しいと願っておられます。
この農夫の姿で感じることは「勤勉」であります。毎日、毎日 早い時間に畑に出ていきます。
そこで暑くても種を蒔き、雑草を抜きます。
多くの労苦が必要であります。ですが、そこで実を収穫する喜びがあるので、それが出来ます。
豊かな収穫を得るために、毎日汗を流しながら農夫は働きます。

神様はタダで報いを与えることはしません。「あなたの畑はどうなっているのか?」
「あなたは選手としてどういう働きをしたのか?」、「あなたは兵士としてどういう戦いをしたのか?」
「農夫として勤勉に何を蒔いたのか?」

【Ⅱテモテ2章9-10節】

自分をそこに投資をした「献身」であります。献身は、言葉での献身ではないです。
自分自身の人生をそこに完全に捧げた姿です。
神学校に行くのが献身ではないです。学びをするために行くことであって、
自分を捧げたことにはならないです。

神学校へ行かなくても、自分自身を神様の兵士として、選手として、農夫として全部捧げるなら、
それが献身になります。

もう1つ必要なものがあります。「忍耐」であります。
兵士も選手も農夫も 忍耐がないとできません。楽な道は1つもないです。ある意味休みがないです。
その人達は必ず栄光・収穫を受けます。そして自分の人生が成功していきます。
神様が認めてくださり、喜んでくださいます。ですから、報いがあるからこそ、忍耐ができるのです。
得るものがあるから投資することができます。

神様が、報いを期待しながら自分自身をそこに献身し、そして収穫の時まで忍耐しなさい。と語ります。

1回しかない人生を後悔しない。キリストに選ばれた者がキリストを喜ばせないと報いがないです。
「立派な兵士にしてください。」 「立派な選手にしてください。」 「たくさんの収穫を得る農夫にしてください。」
その思いで立つことであります。 (⌒-⌒)

<今週の目標>

【私はキリストの兵士としてどうやって生きてきたのか?
私は選手としてどうだったのか?私は農夫としてどうたったのか?1つ1つの項目に
 自分を当てはめて振り返ってみる時間にする。そしてどういう風に自分を変えていくのか?
(考えて決めたならば、あとは行動だけです。)】

2012.7.22
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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