からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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解決

苦難の時に何をするのか

テーマは 『 苦難の時に何をするのか 』 です

【ヨナ書2章1-10節】

ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、

言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。 私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。

あなたは私を海の真ん中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。

私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」と。

水は、私ののどを締めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。

私は山々の根元まで下り、地のかんぬきがいつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。

私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。

しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」

主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。

本文には、ヨナという人物が出てきます。
ヨナは預言者です。

この時、彼はどこにいるでしょうか。
魚の腹の中という有り得ない場所にいます。

なぜ彼はそのような場所にいて、ありえない苦しみを受けているのでしょうか。


実際彼が受けている苦しみは、死よりも辛い苦しみかも知れません。

私たちがもし同じ状況の中にいるならば、「なぜあの時に死ななかったのか。死んだ方がましだ。」という思いになります。


なぜなら、息が出来ないことによる肉体の苦しみがひどいからです。
水に溺れている状況なので、まともに息が出来ないです。

肉体の苦しみの中で 痛みがあることも辛いですが、息が出来ない苦しみも相当辛いです。


また、体の身動きがとれない苦しみもとても辛いです。

そして精神的にもかなり辛い状況でした。それは自分が人間世界から隔離されてしまったからです。


地球上での海と陸の割合は7:3です。

昨年失踪したマレーシア航空機が海に消えたと言われて、今も捜索していますが、まったく見付かっていない状況です。

(陸ではなく海の中だと)分かって探しても 見付からないほど広くて深い海という環境が、さらに絶望を大きくします。そこは救助される期待すら出来ない場所です。


霊的には自分が神様から受けた使命を拒んだことで自分の身に降りかかった試練なので、霊的にも追い込まれた状況でした。

『あの時、主の命令通りにニネベに行って神のメッセージを伝えればこんなことにはならなかったのに』 という後悔と神との関係が断絶され霊的にも絶望的でした。

神の命令に不従順した罪の刑罰として海に投げ出されたヨナはすべてに追い込まれていました。


生きているのか死んでいるのかが分からないような状況です。
生きるのも死ぬのも両方しんどい状態でした。

叫んでも自分の声が誰にも届かないですし、自分がそこにいることを誰も知らないことも最大の苦しみでした。

あらゆる面からも、ヨナの状況は最悪であることは間違いないです。


多くの人は状況をみて怯え、諦め、完全に絶望し、死を選ぶことが多いです。

また ある人は、死ぬ選択すら出来ずに生き地獄の中で生きています。

しかし苦難はその時に何をするかによって解決されるか、苦難が続くかに分かれます。



ヨナの神への不従順は私たちが学んではいけないことですが、生き地獄の苦難の中で 彼が選んだ方法は私たちが学ばなければなりません。

それは祈りでした。
祈り以外に彼に出来ることは残されていませんでした。


身動きが取れなくても、息が出来なくても、闇の中にいても、誰も助ける人が周りにいなくても、そこで唯一出来ることは “祈り” であることをヨナが見せてくれました。




救いの神を思い出した




罪に対して厳しくさばく神であることを ヨナは身をもって体験している最中ですが、その苦しみの中で、救いの神を求めました。


自分に必要な助けだけを求めたのではなく、神自身を求めました。

深い海の中、魚の腹の中から生き返ることは、ヨナの力では不可能でしたので、あらゆる苦難から救い出して下さる主を見上げました。

苦難の時は、何よりも主を求めることです。
神は私たちがどこで叫んでもその声を聞くことが出来るお方です。


さらに主が 自分を救い出してくださると信じて感謝と希望の祈りを捧げました。

私たちは、いつ感謝の祈りをしますか。
解決された後でしょうか?それは信仰による感謝ではないです。

それは当たり前の感謝です。

信仰による感謝は、苦難の中で祈り始めた時から捧げます。



ヨナは9節で感謝の祈りをしました。


【ヨナ書2章9節】

しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」

感謝と希望の祈りは神への礼拝です。

偶像へのむなしい礼拝ではなく、生きておられる神への礼拝です。神は礼拝を受け入れて下さるお方です。


【ヨナ書2章7節】

私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。

どんなに絶望的な状況の中でも 最後まで信仰を捨てず、神の臨在を求め、神が救い出して下さることを信じて感謝を捧げることは、主を礼拝する姿です。


【詩篇107篇10-16節】

やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、

彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。

それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。

主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。

聖書は苦難の時に主を求め、神が彼らに救いの手を差し伸べた事実がたくさんありますので、それを信じて神を求めることを勧めます。




悔い改めの祈りをした




人間は罪を知らないから罪を犯すのではなく、知っていながらも 罪の誘惑に弱い者であるので、次から次へと罪を犯します。

悔い改めが必要のない日はあるでしょうか。
「今日私は何一つ罪を犯していない」と言える人がいますか?


主のことばから はみ出た行動はいくらでも自分たちにはあります。

“罪から来る報酬は死” であることに変わりはないです。


しかし神様は罪人が罪の中に留まって死ぬことを願わないので、悔い改める者に恵みと救いを用意しておられます。


神の命令に不従順して神から刑罰を受けているヨナに対しても神はすぐに彼を死なせず、魚の腹の中に入れたのは悔い改めるチャンスを与えたことでした。

悔い改めのチャンスは主のあわれみです。主の恵みです。悔い改めのチャンスは助かるチャンスでもあります。


ヨナにとっても助かる道は、悔い改める道しか残されていませんでした。

きっと涙を流しながら三日間 心の中で泣き叫んで祈ったでしょう。

息苦しくて声を出すことが出来ないので、声なき声で叫んだことでしょう。


「私が悪かったです。もう2度と主に逆らいません。私の罪を赦して下さい。ここから助けて下さるならば言う事を聞いてニネベに行って主のことばを伝えます。」と誓いを立てながら悔い改めの祈りをしたでしょう。


悔い改めの祈りほど神に早く届く祈りはないと思います。

それは、なぜだと思いますか。


多くの願いの祈りは、神様を変えてでも自分の願いを押し付けて、欲しいものを手に入れたい思いがあります。

しかし、悔い改めは 祈る人自身が変わらないと出来ないことなので、その祈りをする人自身が変わったので神様が喜び、その祈りに早く答えて下さいます。


ヨナも苦難の中で変わりました。
罪の恐ろしさが分かり、自分の愚かさにも気付きました。

そして罪を捨てて、神に立ち返りました。

救いの神が救うことが出来るように 神を呼ぶ者になりました。


悔い改めていない者を助けたとしても、その人たちは神様を侮ります。

「誰が助けてくれと頼んだのか。ほっといてくれ。」と言います。


しかし悔い改めた人は、主の助けと救いに心からの感謝が出てきます。

神様は悔い改めるヨナを見て、救いの手を差し伸べました。魚の中から彼が生還出来るように恵みを与えました。

悔い改めたことによってヨナは再び太陽の光を見ることができ、自由に息をすること、そして体を動かすことが出来るようになりました。

絶望から希望に移されました。そして再び主の働きが出来るようになりました。

もしヨナに祈りがなかったならば、聖書に「ヨナ書」は存在しなかったですし、ヨナが誰なのかも私たちは分かりません。


イエス様も悔い改めの祈りがもたらす祝福について次のように教えて下さいました。


【ルカの福音書18章13-14節】

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

聖徒たちにとって、祈りは必須です。それは祈りによって神との会話が成立するからです。

祈りを通して神様と交わりをし、霊的呼吸をします。

しかしすべての祈りが神様と通じるものでもないです。


悔い改めの祈り、神を求める祈り、神を信じて感謝と希望を持って祈る時、苦難の時に救いの神を切に求める祈りをする時に、主は救いの手を、救いの道を開いて下さいます。

それならば何でも聞いて下さいますかと質問する人がいますが、それを確認して祈るのではなく、 神をただ信頼して祈ることが大切です。


目に見えなくても、しるしがなくても、何も確認が出来なくても 今も働いておられる神がおられることを信じて、本人が必死に祈り求めることです。すべてを懸けて助けを求めます。


祈りを他人任せにする人がいますが、そうするとその人自身の苦難は根本的に解決出来ないです。

それはその本人の問題なので、神様はその人を待っておられます。

長い間、絶望と落胆の中にいる人がいるならば、それは未だに悔い改めていない自分の罪の為ではないのかを考えてみて下さい。

そしてヨナのようにやってみて下さい。
ヽ(TдT)ノ

2015.5.31
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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曜日別の祈りです(リニューアルしました)
今日の祈り

神様からの警告のことばです(新コーナー)
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

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毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
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シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

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聖霊とその働きとは?

テーマは『 聖霊とその働きについて 』です

【ヨハネの福音書14章16-17節、26節】

聖霊様はどのようなお方でしょうか?
聖霊様はイエス様が遣わしてくださった助け主です。

【ヨハネの福音書16章7節】

聖霊様が来てくださったことは、私たちに益であります。
助け主というのは、英語で言うならばカウンセラーです。

しかも聖霊様はカウンセラー以上のものです。
イエス様が「いつもあなたたちと共におられる」ということを理解しやすくするには、
選手とコーチの関係をイメージすると良いと思います。

選手とコーチはいつも一緒です。
例えば、フィギュアスケートならば、コーチは必ず選手の傍にいて(リンクで演技をする前にも)助言をし、
演技が終わったらコーチの元に来ます。
コーチは厳しく色々なことを教えます。いつも共にいながらその人の働き1つ1つ、間違えたところを教え、
直しながら技術を教えます。そして1人の選手を育てていきます。
良い選手は、良いコーチなしに誕生することはないです。


聖霊様は、人格を持っておられる方です。ロボットではないです。
人格を持っている方で私たちの傍にいて、私たちを助け、時には慰め合い、
時には教え、時には叱責を与えて、私たち人間を造り直してくださいます。

これが助け主・聖霊様であります。

1人の人間として成長していくには、自分に教えるコーチである聖霊様がいなければ難しいです。

どんなに才能がある選手でも、自分の力以上のことは1人ではできないです。

旧約時代にも聖霊様が働きました。旧約の聖霊様はいつも共におられるわけではないです。
聖霊様が来たり帰ったり離れたりします。

それは、サウロ王を見るとよくわかります。
油注ぎを与える時に神の霊が強く働きました。しかし、彼が罪を犯したときに聖霊が去り、
悪霊が入りとんでもないものになりました。

旧約時代は必要な時だけ聖霊様が来て働き、そして去っていきましたが、
新約時代には、イエス様が「いつもあなたと共にいます。」と語りました。

そうすると例えば私たちが罪を犯した時、旧約時代のように罪を犯しても悔い改めをしないならば、
聖霊様が(私たちに)働くでしょうか――?
そうではないです。
聖霊様は離れないです。しかし、聖霊様が悲しみます。


【エペソ4章30節】

私たちが罪を犯したり、自分勝手に生きる時に、共におられる聖霊様は悲しみます。
コーチ(聖霊様)の言う事をまったく聞かないです。

聖霊様の心はとても悲しみますが離れないです。
なぜ離れないのかというと、私たちがイエス様の十字架の血によって贖われた者ですので、
イエス様を見て離れないのです。しかし喜びながらではなく、悲しみながら共におります。

救いが完成されるのはイエス様が来られた時です。つまり再臨の時であります。
再臨された時に、聖霊様が保障をするのです。
「この者は罪人でありましたが、キリストを信じて  キリストの血によって贖われた者なのです。」と、
私たちの傍に立って聖霊様が(私たちが)救われていることを保障する大切な役割をしてくださるのに、
私たちが聖霊様を悲しませるならば、聖霊様はどのような思いになるでしょう?

自分の命の保障ために聖霊様がおられるのに、言う事を聞かないで、
ずっと聖霊様に涙を流させ、(私たちが地上を離れる時に)聖霊様が「ずっとこの者はわたしを
悲しませました。」と言うならば、それを聞く父なる神様はどのように思われるでしょうか。

ですから私たちにとって、いなくてはならない聖霊様を悲しませてはいけないです。


また、聖霊様は真理の御霊で、私たちを真理に導いてくださるお方です。

【ヨハネの福音書16章13節】

聖書を教える先生です。なぜなら聖書は神の霊感によって書かれたものだからです。
ですから聖霊様が書いたものでありますので、正しく教えることができます。

【ヨハネの福音書8章32節】(ある韓国牧師の証の中より)

聖霊様はただ聖書の言葉を教えるのではないです。
みことばを悟って、生活の中で適応していかないと、みことばの意味がないです。

人間は色々なものに縛られています。その為、神様の中にいても不自由なのです。
みことばの真理を味わって悟るならば、その人はその言葉を繰り返し思いを持ちながら
行動や言葉、生活の中に出てきます。

行動とみことばを別々にするならば、それはまだみことばを悟っていないです。
知識だけ、情報だけのものであります。
聖霊様が悟らせ教えてくださると、私たちは生活の中で出来るようになります。

私たちがみことばを読む時には、聖霊様に「私が聖書を理解できますように。
悟ることができますように。生活の中で適応できますように教えてください。」と祈ることです。


【ヨハネの福音書14章26節】

私たちは生きている時に色々な問題に出会います。
どのように解決をしたら良いかわからないので、答え(解決する方法)が欲しいのです。

その時に聖書をあちらこちらを開き(解決する答えを)探します。
そしてなかなかみことばが見付からない時は、祈ってみてください。
すると以前に聞いたみことばが思い出されてきます。これは聖霊様が私たちにそのように
させてくださるのです。

聖霊様は生かす霊であり、宣教の霊であります。
聖霊様は必ず死んだ者を生かす霊であります。

死んだ者も生かしますが、また弱い者も生かす働きもするのです。
イエス様と共に3年間いても弟子たちの姿はとても弱かったです。人間の顔色をうかがったり、
不安がったり、失敗が多かったり、勝手な思いもありました。
イエス様が地上から離れる時もその姿が変わっていませんでした。

しかし、聖霊が五旬節で降った時に弟子たちの変化は驚くほどでした。
聖霊が降った時に神様の言葉がありました。「聖霊があなたたちに降ると、力が与えられます。」
この力が生かす霊であります。


【エゼキエル書37章2節】

谷間にたくさんの干からびた骨がありました。それは死んだ人の骨であります。
預言者が「これは生き返ると思うのか?」  これは人間の目から見たら不可能であります。
「骨に預言せよ。」と言いました。すると主が預言した通りに干からびた骨が立ちあがり、肉が付いて
息を吹き込んだ時に生きた者になりました。これは人間の姿であります。

聖霊を受けていない姿が干からびた骨と同じであります。そこに命がないです。
しかしその命がないところに聖霊様が降った時に命が生まれました。

ですから、聖霊が臨むと死んだ者が生き返るのです。それは魂だけではないです。
みなさんの家庭が死んだような状態であるならば、「あぁ、ダメだ。この家に帰りたくない。」ではなく、
家の中で「ここに命よ、溢れよ。聖霊様、この死んだ家庭を生き返らせてください。」と命じることであります。

「神様、死んだ職場を生かしてください。」、「死んだ私の心を生かしてください。」
そこに聖霊様の力が注がれます。


【ゼカリヤ書4章6節】

聖霊様の力の大切さを教えています。人間の力だけでどんな働きができるのでしょうか?

いつも聖霊に満たされてどんどんアップグレードしていく(容量を大きくしパワーを付ける)ことであります。
そうすると色々な働きができるようになります。


【Ⅰテサロニケ5章19節】

弟子たちが聖霊を受けた時に、火のような聖霊が降りました。
(聖霊を)消すということは、その「火」を消すことであります。
私たちはその火を燃やしていかなければならなく、燃やしていくのがアップグレードすることです。
しかし聖霊様を無視するならば、共におられる聖霊様なのにまるで共におられないようにするならば
聖霊様に向かって「引っ込んでいなさい。口を挿(はさ)まないでください。」と言っていることであります。

聖霊様は導こうとするのに、言うことを聞かないなら、「聖霊の火」を消すことです。
これは私たちに1つも良いことがないです。

私たちの人生を輝かせようとしているのに、自分の欲や計画が強すぎて、いつも導きに対して
無視をしています。

そして罪を犯しても悔い改めないので悲しませています。

私たちは聖霊様の人格を認め、世の中で一番素晴らしいコーチが来てくださったので
常に教えていただくことです。自分が改め正す部分を他人ではなく、聖霊様に聞くのです。

「立派な選手として実を結ぶために私をコーチしてください。自分の力では出来ません」と
このように祈るならば、聖霊様は知恵や すべてのものを用いて私たちを変えてくださいます。

自分のやり方でするならば、その人たちは立派な者には絶対なれないです。

私たちはいつも聖霊様を歓迎し 導きを受け、そして聖霊の賜物も自分が働くための大事な道具で
ありますので、それも求めながら日々聖霊を求めましょう。

聖霊様はとても喜んで聞いてくださると思います。その人の手足となって教えてくださると思います。

日々、聖霊様と仲良くしましょう。 (⌒-⌒)b

2013.5.19
ペンテコステ・聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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