からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★


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裏切り

主が受けた苦悩

テーマは 『 主が受けた苦悩 』 です


【マルコの福音書14章50節】

すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。


神が人となってこの世に来られた方がイエス・キリストです。

そして その方の最後は十字架の死でした。


キリストが受けた苦悩は計り知れないものでした。

どんな苦しみと苦悩があったでしょうか?





皆から捨てられたので、孤独の苦悩がありました




弟子であるユダは、イエスの敵に銀貨30枚を受けて イエスを勝手に売りました。

愛する弟子に裏切られました。


ユダはイエスを捕らえるために武器を持った者たちを連れて来ました。


その様子を見て 他の弟子たちも自分たちに被害が来ることを恐れて、みなイエスを見捨てて、逃げて行きました。

弟子たち全員に見捨てられました。


預言通りのことであっても、逃げて行く弟子たちを見た主の心は相当苦しかったと思います。



愛する者から裏切られた経験がある人は、心に深い傷が出来て長い間苦しみます。


主は一人だけでなく、みんなに裏切られました。

その苦しみと苦悩は計り知れないです。


一人取り残されたイエス様の苦しい心の内は誰も想像することが出来ないです。




イエス様は私たちが苦しむ時にも裏切らず、私たちのために働いて下さる方ですが、私たちは困った時にイエス様を見捨てて逃げたことがどれほどあったでしょうか。


父なる神にも捨てられた時に、主はどんなに辛く孤独だったでしょうか。

これが一番辛い苦悩だったと思います。


父なる神はその苦悩を知っていても、その苦悩もキリストが受けるべき苦悩と考えていたので、顔を背けていました。

主の苦悩はこの叫び声で分かります。


『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』





人々から受けたひどい侮辱と恥による苦悩がありました




主は人々からあらゆる差別、嘲り、誹謗中傷、侮辱を受けました。


【マタイの福音書27章29-30節】

それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」

また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。


【マタイの福音書27章39-44節】

道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、

言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。


十字架の上で 『渇く』 と言われた時も 人々は主を嘲笑いました。

主に恥をかかせることが、この時はみんなの楽しみでした。


その時、主にある苦悩は相当なものだと思います。


人から聞いた嫌なことば一つでも苦しいと叫ぶ者たちは、主が人々から受けたものと比べてみることです。





肉体の苦悩




イエス様が十字架の上で受けたのは極限の肉体的苦痛でした。


ローマの兵士たちは、イエスを鞭打ってから地面に置いた十字架にイエスを寝かせた後、両手、両足に大きな釘を打って体を固定してから十字架を立たせました。


恐ろしいほどの肉体的苦痛が全身に走り、死ぬまで続きました。


むち打たれた時に出来た体の傷と、釘打たれたところからは絶えず血が流れました。

6時間も十字架の上で苦しみ続けました。


耐えられない苦しみを受けながら、主は自分のなすべきことをしました。




罪人のために、救いの道を完成することは あらゆる苦痛と苦悩を伴うことでした。


それでも主は そこから逃げることなく、すべての苦しみをその身に受けました。



自分が受ける苦しみが まるで世界一重い苦しみだと思って、主に文句を言う私たちは、もっと主が受けた苦しみを考えることです。



主は文句ひとつ言わずに私たちのために耐えていました。

私たちが受けているすべての祝福は、主の苦悩と苦しみの結果です。


私たちに対する主の愛ほど強いものはありません。


主の苦悩を思いながら、たとえ苦しいことがあっても、主から離れず、耐え忍ぶ者になりたいです。


アーメン (TДT)


2023.3.26
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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キリストが受けた苦難の数々

※ 今回は内容を簡潔にまとめさせていただきました。恵みが三十倍、六十倍、百倍になりますように。


テーマは 『 キリストが受けた苦難の数々 』 です

【ヨハネの福音書1章9-11節】

すべての人を照らすそのまことの光が来ようとしていた。

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

4月は キリストの受難週、十字架の死、復活などキリストに関わる重要な出来事が色々ありますので、そのことに対して語ろうと思います。

私たちの目をキリストにしっかり向けて、キリストが私たちのために どのような苦難を受けたのかを今日は知りましょう。


キリストが受けた苦難は むち打たれ、釘打ちにされ、十字架に架かっただけではなく、それ以前からもたくさんありました。

身体に受ける暴力もつらい事ですが、精神的な暴力のほうが ある意味もっときついかも知れません。


拒絶、無視、脅迫、敵対、裏切り、見捨てられるなど 人間から様々な苦しみを受けました。
どのような苦難を受けたのか知っていますか?




(1)人から拒絶されました。喜んで歓迎しなければならないのに、最初から人々はキリストを拒絶しました。



一部の人からではなく、すべての者から拒絶されました。


【イザヤ書53章3節】

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

と、預言された通りのことが 実際に起こりました。


【ヨハネの福音書1章11節】

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

民から拒絶された姿でした。
イエス様が育ったナザレの人たちは キリストを受け入れ、認めたでしょうか。
ナザレの人々はもっとひどかったです。受け入れないどころか殺そうとしました。


【ルカの福音書4章28-29節】

これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、

立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。

ユダヤ人たちもナザレの人々と同じ姿でした。


【ヨハネの福音書7章1節】

その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。

どこへ行っても拒絶する人々がたくさんいました。

この状況はとてもつらい状況で 悲しくやりきれない心境になります。

また、家族はキリストを信じ、理解者であったでしょうか。


【ヨハネの福音書7章5節】

兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

キリストと認めず 信じませんでした。




(2)出身地と家庭環境によって 人々から蔑まれました。



人々は先入観と差別意識でキリストを見てました。


【ヨハネの福音書1章46節】

ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」

【ヨハネの福音書7章52節】

彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」

人格を無視されると 私たちの心は本当につらいですね。
イエス様は最初からこのように人格も無視されました。




(3)絶えず人々から来る脅威がありました。



いつも自分を憎んで、妬んで 命を狙う人がいることは大きな苦難です。
キリストは常にそのような状況の中に置かれていました。生まれた時からでした。

キリストが生まれたことを知ったヘロデ王はベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させました。

主の遣いの助けがなかったならば、赤ちゃんの時に殺されたでしょう。
安息日に病人を癒したことでも ユダヤ人はイエス様を迫害しました。
真理を語ると 人々はどのような反応をしたでしょうか。

喜んで受け入れたでしょうか?


【ヨハネの福音書8章40節】

ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。



(4)弟子たちもイエス様が理解できず、ある者は裏切り、非難、否定して離れていき キリストを苦しめました。




十二弟子の1人、イスカリオテ・ユダはお金をもらって祭司たちにキリストを売りました。


【ヨハネの福音書6章66節】

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

イエス様が十字架にかかるために とらえられた時には、ほかの弟子たちまでもがキリストから離れていきました。

信頼し、共に生きてきた人が、ある日 突然離れていくことほど つらいことはありません。


牧師としても愛していた信徒が去っていく時、とてもつらい思いをします。

イエス様は みんなが離れていき、一人ぼっちになりました。
どれほど心がつらかったでしょうか。




(5)そして 最もつらかったことは神に捨てられました。



【マタイの福音書27章46節】

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

神は人類の罪をキリストに負わせ、十字架の上に死なせました。

その瞬間は 自分の愛する子としてではなく、罪人とみなし 顔をそむけました。
いつも父と1つであったキリストにとって この瞬間は最もつらかった時だったと思います。

これらのことを見ると、人間社会でイエス様が受けた苦しみは 私たちの想像をはるかに超えた苛酷なものであったことが分かります。


私たちは人からの言葉1つでも、時には「心が傷つけられた。もう許せない。つらい。憎い。つまずいた。」と大騒ぎをします。

しかし、イエス様の立場から見ると、「たったそんなことで つまずくのか。わたしを見なさい。今もあなたはわたしの言うことも聞かず、苦しめ、悲しませているではないか。どれほど わたしがつらいかを考えたことがあるのか。」とおっしゃいます。




イエス様の十字架の証



ある人が幻で十字架に架かって血を流している主を見ました。


あまりにも苦しい姿でしたので、十字架の周りに集まっていた人からも 主がかわいそうで泣いている人も見えました。

多くの人々は 十字架にかかって苦しんでいるイエス様の姿を見るだけで、
なぜイエス様が十字架にかからなければならなかったのかと その理由を知る霊の目を持っている人は誰もいませんでした。


イエス様は肉体の痛みで苦しいよりは、自分が死ななければならない理由と、自分の心境を知らない人々がかわいそうで何倍も心の中で苦しんでいました。


(その幻をみた人は)それを霊で感じとって

「イエス様。力を出して下さい。私はやっと分かりました。
イエス様は全人類の罪のために大きな働きをしているのですね。
イエス様の死は、いのちを与えるための偉大な愛です。

私がこのことを皆に知らせます。そして、主が選んだ民たちを集めます。
そして主の愛を決して忘れません。」


イエス様は、その人を見て 自分の心を知っている人がいることで、うなずき 微笑んでくださいました。






蘇ったイエス様がペテロに3度も「あなたはわたしを愛しますか?」と聞きました。
イエス様を愛さない者たちが イエス様を苦しめました。

裏切り殺しました。


イエス様は私たちが主を愛することを求めています。

イエス様は 私たちを愛してご自身の命まで捧げたのに、私たちが愛さないなら それはイエス様の心を苦しめることになります。


【Ⅰコリント13章4-7節】

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

イエス様を苦しめず、心からこの愛を持って 愛する者になりましょう。

今まで与えた苦しみだけでも、あまりにも大きいですから。 (TДT)

2014.4.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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罪が招く結果は?

テーマは『ペテロとイスカリオテ・ユダの罪とその結果』です。

【マタイ26章14-16節】、【マタイ26章69-75節】

十二弟子は自らが志願したのではなく、イエス様が呼んだ時に、彼らは従って弟子になりました。
十二弟子は3年間、イエス様の傍で学びを受け、共に生活をしていました。

ペテロは、イエス様のことを裏切るとは思ってもいませんでした。自分は大丈夫だと自信満々でした。
いつも自分はリーダーだと思っていました。
イエス様からそのような扱いを受けた時もあったのでそう思う部分もあったと思います。

ユダはお金の管理をしていました。お金の管理は信用できない人には任せられないと思います。
信用できるから、働きもきちんとするのでユダに全て任せてきました。 

十字架の受難の前に、イエス様は弟子から裏切られたのが最初の受難です。
イエス様に敵対する人からではなく、愛していた弟子からなので心に受ける苦難でした。

そして十字架にかけられる前に、イエス様は39回のムチを打たれましたが
見えないムチを、ユダとペテロが打ちました。
肉体の傷は、治ったら 痛みが治まりますが、私たちは心に受ける傷はなかなか消えません。

人を裏切ること。特に信用していた人から裏切られることほど、心が痛いものはありません。

ペテロとユダは同じ罪ですが、少し違います。どこが違うのかというと、
ユダは、「 計画的 」でした。自分の欲のために1人で計画を立てました。
イエス様を殺そうと考えていた祭司たちに売るということは、ユダがイエス様を殺すことと同じであります。
祭司長にチャンスを与えたのがユダでした。これは、パリサイ人や律法学者よりも悪いです。
サタンのようです。最後の日まで普段と同じ顔でイエス様と共にいました。
神様から見たら、計画的なのはとても重い罪であります。

イエス様を裏切る計画を立てて行動するのはとても重い罪です。
私たちはイエス様がその計画を知って、彼(ユダ)を説得しなかったことに注目しなければなりません。
イエス様がなぜそのことを指摘しなかったのか、悔い改めのことを言わなかったのか。
ただ、『 あなたのやってる事は大きな罪である 』と語りました。出て行く時も止めませんでした。

何が一番痛いのか――?
計画的に裏切る行動をする。そしてそれを実行に移す。
これは説得しても相手は聞かないです。なぜかというと、自分の中でしっかりと計算済みだからです。
たとえイエス様が説得したとしても聞かないです。
イエス様を裏切ってでも自分の思い通りにしたい。
それが先に立っていますので、そんなことをしては駄目だと言ったとしても「あなたが優先ではないです。」と
言うだけです。自分が一番大事になってあります。
良心の咎めはあると思います。「こんな事をして良いのかな」と思いながらも、だんだん自分の思いに引っ張られて、行動する日を決めて実行してしまうと、誰が止めてもダメです。聞く耳がないです。
計算済みでシナリオ通りに動くのです。

これは私たちの姿であります。
イエス様よりも大事にするから、「イエス様を売ってでも自分の計画の方がもっと良いよ」と思います。

信仰生活は、自分のしたいことをするのが信仰生活ではないです。
イエス様と自分を比べた時、いつでもイエス様を裏切る用意が出来てあるならば、信仰ではないです。
いつでも自分が犠牲になる。いつでも自分を打ち砕く。
この準備が出来ている人が信仰をまともにしている事であります。

イスカリオテ・ユダは3年間、イエス様と共にいて毎日メッセージを聞いていました。
神様は言葉を知らない人ならば説得すると思いますが、言葉や知識はいっぱいあるので、
それを自分で知っていながら犯すことは止められないです。
だからイエス様は止めることをしませんでした。

ユダは神様のしもべではなく、自分が神様を思いのまま動かすこと。まるで物扱いをしていました。
自分の所有物のように、お金を受け取ってイエス様を売りました。
この時点で既にユダにとって、イエス様は救い主でも、先生でもありませんでした。
これは裏切りの罪でとても重いものです。

ペテロは3度 イエス様を知らないと言いますが、彼の中には傲慢な思いがあります。
「他の人が裏切っても、私は絶対裏切りません。」と、聞いた人はその言葉を信じたくなります。
しかし、結果はどうだったでしょうか?

ペテロは自分自身を信じすぎました。イエス様から「あなたは私を裏切る」という言葉を聞いてその言葉を信じて
「主よ、助けてください」と祈るならば、つまずかなかったと思いますが、ペテロはイエス様の言葉を捨てました。
「私は死ぬまで絶対に裏切ることはありません」と言いました。
これは信仰ではないです。彼の傲慢さであります。

この姿が私たちの中にもあります。私たちは「私はイエス様から絶対離れることはありません。」
「イエス様を裏切ることは絶対にしません。」「イエス様と約束したことを守ります。」と言います。
「イエス様から離れます」と言うことはないと思います。
でも実際私たちは日々、イエス様を裏切る行動をたくさんしています。約束を守らず、自分で言った言葉を守らず、
環境が変わると私たちはイエス様からすぐ離れます。

傲慢な者は倒れる。自分が立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい。という言葉があります。

ペテロは人と環境に弱い者でした。突然イエス様が捕えられて状況が一変しました。
それまで自信満々だったのに急に小さくなりました。人の顔と言葉が怖くなりました。
それから彼はイエス様を「知らない」と裏切りを始めました。

私たちもそうであります。小さい迫害や、環境が変わると弱気になってイエス様から距離を置き始めます。
イエス様よりも自分を愛している姿がその中に出ています。

最もペテロが一瞬にして倒れた理由があります。
イエス様が「目を覚まして誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言った言葉をゲッセネマの園で言いました。
祈るということは神様の力を受けるということです。
しかし肉体が弱くて寝てしまいました。ペテロは祈らないといけない時に祈らなかったのです。

「私はいつ倒れるかわからない者です。」「こんなに弱い私を助けてください。」
「環境が変わっても私が倒れないように助けてください。」と毎日イエス様にすがって祈り求めるなら、
環境が変わった時にすぐに「主よ!」と祈ることができます。

普段祈らないから、自分に頼っていたから、いざ問題が起きるとあっという間に倒れてしまいます。

自分の仲間から「この人は絶対に知らないです。」と呪いの言葉をかけられたイエス様の心はどうでしょうか?
心が引き裂かれる思いだったと思います。これほど悲しいことはありません。
その後2本の大きい釘を打たれて十字架にかけられました。

ここまで2人共大きな罪を犯しましたが、その後から2人の人生は全然違う方向へ向かっていきました。

幸いなことに神様は私たちに「悔い改め」という恵みを与えてくださっています。

【マタイ26章75節】

ペテロの悔い改めの姿です。全ての罪は神様の言葉から離れた時から始まります。神様の言葉を思い出すこと。
悔い改めはここから始まります。
立ち返るには神様の言葉を思い出さなければならないです。
言葉を思い出した瞬間に彼の心は耐えられなくなりました。自分の姿が見えてきました。
「結局自分が裏切ったんだ」「私は罪人なんだ」。
激しく泣いたということが悔い改めの涙であります。罪責感で以前の自信満々の姿はなくなりました。

【マタイ27章3-5節】

ユダの姿です。ユダも自分の罪に気付きました。しかし神様の言葉を思い出すことをせず、後悔をしました。
後悔と悔い改めは全然違うものであります。イエス様を信じない者でも後悔はします。
後悔ということは神様に立ち返っていないということです。

ユダはあくまで自分の思いで行動しました。世のやり方で首を吊りました。
死んで償えることはないです。償うということは、生きて償うということです。
イエス様はどんな罪人であっても、それを許す方であります。
しかし、何故ユダは悔い改めができなかったのでしょうか?

罪も弱さの為に犯したならば立ち返るのも早いです。
しかしユダは計画的だった為、悔い改めが無理でした。
時間をかけてじっくり計算をして裏切る計画を立てて神様から離れる人たちは、
自分の思いが満杯なので悔い改めないです。自分のやり方を通していきます。涙が一滴も流れていないです。

堅い心なので何を言っても聞かないです。相変わらず強気な心です。
「何も言わないでください、自分のことは自分で始末します。」

神様はチャンスを与える方です。
イエス様の前で泣いて赦してくださいと言うならば、血潮で赦してくださると思います。

私たちにもペテロとユダの姿があります。
「私には無い」と言うならばペテロのように倒れていきます。
2つの姿があるから私たちは他人を非難することはできないです。反対に気を付けなければならないです。
「いつかペテロのようになるかもしれないし」「いつかユダのようになるかもしれないし」ということであります。

【ヨハネ21章15-19節】

ペテロは悔い改めた後、ずっと弟子たちと一緒にいました。イエス様は彼を赦しました。
イエス様はいつまでも変わらない方です。そして真実な方であります。
しかし私たちは真実ではないです。信じられないくらい心の移り変わりが激しいものです。

ペテロはイエス様を愛する心が残っていることをイエス様が知っていましたし、
そして悔い改めの涙を流したのを見たので、彼を選んで初代教会の指導者として立たせました。
これはイエス様の素晴らしさであります。
自分の心に一番大きい釘を打った弟子なのに、最初から赦す心を持って接していました。

ユダは悔い改めなかったので永遠に裏切り者として滅んでいきました。

【マタイ26章24節】

これは私たちが心に留めなければならないです。
出会った者には責任があります。イエス様に出会ってそれで良しではないです。
最後の最後の瞬間まで裏切ってはいけないです。

【ヨハネ17章12節】

滅びの子が滅びるとは、イスカリオテ・ユダのことであります。
永遠の滅びです。二度と救われることがないです。多くの恵みを受けたのにないがしろにしました。

【使徒の働き1章17-18節】

首を吊ってただ死んだだけでは終わらなかったです。呪われた死に方です。
悲惨な姿であります。

旧約聖書~新約聖書まで読んでみると、神様に対してひどい事をした人は、普通の人が死ぬような死に方ではなく
悲惨な死に方をすることが書かれてあります。

私たちはこういう者になってはいけないです。
イエス様が願うのは、心から悔い改めなさいという言葉を使っています。
悔い改めないなら永遠の命が消えていきます。永遠の滅びがきます。

罪を犯してもそのままではなくて、悔い改めるならどんなに大きい罪を犯した者でも
心を痛めて涙を流して立ち返る者には、神様はこういう人を指導者として立てます。

「末席に座りなさい。」ではないです。本当に素晴らしい主であります。

パウロもそうでした。「罪人の頭です」と。
でもイエス様が現れた時に悔い改めて3日間断食をして、そして立ち返りその後 命を懸けました。
ペテロは恥ずかしい思いを持ちながら自分が犯した罪のことを思って
2度とイエス様に同じ罪を犯しませんでした。命を懸けて主に従っていきました。

【Ⅰペテロ5章8節】

自ら犯した罪の重さを身に染みて感じたペテロの言葉なので意味が深いです。
同じ目に遭わないために経験者が神の啓示を受けて語る言葉であります。

私たちは弱さの為に倒れてしまうことがあるので、目を覚まして祈らなければならないです。
私たちはこの言葉を重く受け取りましょう。
罪を犯すたびにイエス様を苦しめていますのでそうならないように気を付けましょう。

(イエス様はそれを受けてから、ローマの兵士達に苦しみを受けて十字架につけられます。)

2012.3.25
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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