からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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裁き

主から知らないと言われた人々

テーマは 『 主から知らないと言われた人々 』 です

【ルカの福音書13章24-27節】

「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』

だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

福音書には、イエス様と人々の会話の内容がたくさん書かれています。

イエス様ご自身から 人に真理を話すことが多いですが、人々の質問に対してイエス様が答えて教えたこともありました。


本文のことばは、「主よ。救われる者は少ないのですか」という質問に対しての主の答えでした。


結論から言うならば、答えは「救われる人は少なく、救われない人が多い」ということです。


すべての人が救われることが主のみこころではありますが、現実はとても厳しく 実際に救われる人は少ないと聖書は答えています。


そのことが主の悲しみですが、その原因はあくまでも人間にあります。

その原因になっている人間の姿を見たいと思います。


今日のテーマは「主から知らないと言われた人々」ですが、そのように言われた人々が意外とたくさんいました。

一体どのような人に向かって主が「知らない」と言ったのでしょうか。


主の裁きの時、そして再臨の時は、キリスト者と呼ばれる人々の中からも羊とヤギ、麦と毒麦が分けられるように、本物のキリスト者と偽物のキリスト者がきれいに分けられます。


それまで一緒だったのに 急に2つに分けられ、主に受け入られる人と 主から知らないと言われ追い出される人が出てきます。


今その裁きが行れるならば、自分はどちらでしょうか?
メッセージを聞きながら考えて下さい。




不正を行う者




【ルカの福音書13章27節】

『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

主のことばをよく聞いてみると、“あなたがたがどこの者なのか知らない” とは言いましたが、彼らが不正を行う者であることは知っていました。

一見、矛盾しているように聞こえますが、これには意味があります。


【ヨハネの福音書10章27節】

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

イエス様が “知っている” という意味は、「その人が主のもの、主の羊」である意味で、知らないと言うのは「主の羊ではない」という意味です。


イエス様がいるところには いつもたくさんの人が集まり、一緒に食事をしたり、教えを聞いていました。

今も全世界の教会にはたくさんの人が集まって礼拝をしています。


しかし その中には、真実な信仰を持って主を愛し、恐れ、また御心にふさわしく生きるために悔い改めながら罪から離れる人もいれば、悔い改めと信仰のない偽善的、形式的な信仰だけで生きる人も大勢います。


主は同じ扱いはしません。
主に認められる人もいれば、あなたを知らないと厳しく言われる人もいます。

教会に出席する事が、礼拝に参加することが イコール “天国への保証” ではないです。


天国から拒否される人は、信仰をごまかしながら生きる不正を行う者です。

主は不正を行う人を羊とは呼ばないです。


本人たちが いくら「羊です」と主張しても、主の目にはヤギに見えます。

その人の姿が主に似ていないからです。


羊は主の所に入りますが、ヤギは外に追い出されます。


自分のことを てっきり羊だと思っていたヤギは、外に出されてから やっと自分の姿に気付き びっくりして必死でした。

それまではヤギとして形式的な信仰生活をした人たちが、死にもの狂いで「ご主人さま。開けてください」と必死に戸を叩くようになると、イエス様は話しました。


その時、外の暗闇に追い出された人にあるものは恐怖と絶望です。


必死に主の名を呼んでも、一度閉められた戸の向こうから聞こえてくる主のことばは、「知らない」という冷たい言葉だけです。
そのことに耐えられますか?

一度想像してみて下さい。それがもし自分だったならばと――。




不法をなす者たち




【マタイの福音書7章21-23節】

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

不法をなす者とは どのような人でしょうか。


真理を知っていながらも、真理通りに生きることをしない人たちです。


みことばを聞きながらも行わず、砂の上に自分の家を建てる人です。

主を信じると言いながらも、不法をなす者が大勢いると言われましたが、実際大勢います。


信仰の形はありますが、御言葉よりは自分の思いのままに生きています。

そのような人に対して次のように語りました。


【マルコの福音書7章6節】

『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。

これは神と人を騙している信仰の姿であり、偽りで信仰告白する人の姿です。

そして、偽宗教指導者が不正をなす者たちのことで、自分を偉大な主のしもべだと思って、人の上に君臨する指導者たちです。


自分が主の名によって力ある働きをするので、それに酔って、態度が高慢であったり、人を利用したり、また貪欲であったりと悪い実を結ぶと、主はその人に向かって 「不法をなす者。わたしから離れて行け。」と言います。


今は立派な働きのように見えても、いつか捨てられる時がきます。

そして、まことの羊飼いであるキリストに従わないで、悪い偽者の牧者に従っていく人々も 不法をなす者なので、主は “彼らを知らない” と言います。


異端の教祖、自分を再臨イエスという人間について行く者に対しても、主は「知らない」と言います。

主が再臨してもないのに「再臨した」と言うことが間違っているのに、多くの人が惑わされています。


また口では自分は神の子どもと言いながら、行動においては主のことばに耳を傾けないで、従順しない人に対して主は 「知らない」と言います。




油の備えが出来てない人




花婿を迎える10人の娘のたとえがあります。


【マタイの福音書25章1-12節】

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。

愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。

娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。

ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』

しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。

そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。

しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。

  • 10人の娘 → “聖徒”
  • ともしび → 聖徒たちの “信仰の姿”
  • 油 → 信仰を維持させる “聖霊”
  • 花婿 → 再臨する “キリスト”
  • 夜中 → “罪が満ちた時 を意味する”

花婿が迎えに来た時間は夜中でした。

油の用意をしなかった愚かな5人は、残念ながら婚礼の祝宴に入ることも出来ず、花婿であるキリストに会う事すら出来ず、花婿から「知らない」と言われましたが、なぜでしょうか。


信仰の形はありますが、信仰を維持させる聖霊の働きがない信仰だったからです。

形だけの信仰は、主に喜ばれる信仰ではなく、それは死んだ信仰です。


生きた信仰は、聖霊の助けによって 神が喜ぶ聖霊の実を結ぶことが出来ます。

そして日々聖霊の導きを受け、主の再臨を準備するために目を覚ましていますので、油の備えがあります。


「いつか用意します」では遅いです。
いつまでも恵みの日が続くのではなく、いつまでも救いのチャンスがあるわけでもないです。

そして、いつまでも神様が忍耐していることもないです。


罪に満ちた世界は裁かれ、そこに残された人々が苦しみを受ける時がきます。


“実” のない信仰生活がその時、自分のいのちを救うことは出来ません。


いくら主を知っていると叫んでも主はあなたを知らないと言います。

主の基準で、私たちの行動が不正、不法であるかによって運命が変わります。


形だけのクリスチャンであった大勢の人が その時には慌てふためきます。


必死になりますが、戸が閉められてからは、すべてが終わりです。

いくら叩いても一度閉められた戸は開かれません。






いま神に逆らう人間が作る秩序が世界をどんどん支配しています。


罪が罪ではなく、真理を行うことが罪に定められるという おかしな時代になりました。

これは裁かれたソドムの時代や、ノアの時代と同じです。


ですから主は 「目を覚ましていなさい」 と警告しています。

最近、日本では大雨や台風に対して 「各自しっかりと対策してください」 と よく聞かれるようになりました。


国だけでは守ることが出来なくなったからです。

それと同じで、準備をしっかりしていないと後で大変なことになります。


目を覚ましていることは具体的にどういうことかを聖書から学びます。


【ローマ12章11節】

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

【ヘブル10章24-25節】

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

【ヤコブ5章8-9節】

あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

【第1ペテロ4章7-8節】

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

世の終わりの姿は、政治・経済・社会などよりは、人々の姿に一番現れています。


どの時代にも 神の裁きは人間が堕落し、神に逆らい、愛が冷め、罪が満ちた時に起こりました。

自分が自分の身に裁きを招きます。


しかし知恵ある人は、万物の主を恐れ、その秩序を守り、時代を分別し、信仰によって備えをします。

いつも伝えていますが、形だけの信仰、眠っている信仰、不従順の信仰が自分を守ることは出来ないです。


「自分は大丈夫だ」 という安心感ではなく、危機意識が必要です。
( ̄‥ ̄)=3

2015.10.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖霊による変化

テーマは 『 聖霊による変化 』 です

【使徒の働き2章14-18節】

そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。

今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。

これは、預言者ヨエルによって語られた事です。

『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

イエス様が天に帰られた後の最大の出来事は、何と言っても聖霊が下ったことですが、それに気付いていない人がとても多いですね。

キリストが誕生した時も、世の人々はそれに気付きませんでした。

何も起こっていないかのように普段の生活をしていました。


ですからキリストが活躍した時も、自分たちとは無関係だと思いましたし、今も無関係だと思っている人がどれほど多いか分かりません。

それは自分の魂が救われるチャンスを逃していることを意味しています。

地上ではキリストと無関係であっても特に問題はないですが、それが問題になるのは死後です。


死後には神のさばきがあり、それによって永遠のいのちか 永遠の滅びかを受けますが、その時にキリストが大いに関係してきます。


キリストを信じたか信じなかったかによって行き先が変わります。

ですから生きている時に信じる必要があります。






また、聖霊はどうでしょうか。

クリスチャンは聖霊を受けても受けなくても良いでしょうか。


答えは、受けなければなりません。
なぜなら、“受けなさい” とイエス様が命じたからです。


【使徒の働き1章4-5節】

彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

ヨハネは水でパプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」


【使徒の働き1章8節】

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

この言葉は、弟子たちだけに与えられた言葉でしょうか。

そうではなく、信じるすべての人は聖霊を受けなければなりません。

しかし それを知らない人が多いですし、また 受けなくても良いと言う人もいます。


当時もたくさんの人が主のことばを聞きましたが、実際にエルサレムに留まりながら父の約束を信じた人は120名ほどしかいませんでした。

彼らは全員で心を合わせ、祈りに専念していました。
そして10日後のペンテコステの日に初めて人々に聖霊が下りました。


120名ほどが受けた聖霊は、初めての不思議な経験でしたが、それによって彼らは大きく変わりました。


聖霊によってどのような変化が起きたでしょうか?




1.他国のことば(異言)で話しだした




私たちは外国語は習わないと理解することも話すことも出来ません。

何年間 習ってもうまく話せないのが外国語です。
英語を幼稚園から大学まで習っても まともに話せない人がほとんどです。


それなのに、どこの国の言葉かも分からず 聖霊が語らせるまま話し出したので、集まった人々はそれを見てびっくりしました。


私の知り合いの女性の牧師先生は若い頃、ナンパをしようと付きまとって来た男の人に困り、何かを言おうとして口を開くと中国語が勝手に出てきて、それを聞いた男の人が「何だ、外国人か」と言いながら去って行ったと聞いたことがあります。


聖霊を受けた人たちが祈りの時に使う異言は、聖霊が語らせることばです。

自分にとって未知の言葉なので意味は分かりませんが、異言で祈ることは素晴らしいことです。


なぜならば 次のように書いているからです。


【第1コリント14章2節】

異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。


【第1コリント14章4節】

異言を話す者は自分の徳を高めますが


【第1コリント14章14節】

もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。


【第1コリント14章22節】

それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。

このように異言は神に話す言葉であり、自分の徳を高めますし、また不信者へのしるしであるので、パウロは「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいます」と語 りました。


異言がまだ話せない人は、異言が話せるように聖霊に求めて下さい。
私も聖霊様に求めて受けました。





2.霊的に強くされ、大胆な者に変化した




“聖霊が望むと力を受ける”と語ったように 皆に力が与えられ、霊的に強くなり、大胆な者になりました。


以前は人を恐れて、イエス様を3度も知らないと言ったペテロの変えられた姿を見て下さい。
まるで別人のように変わりました。

環境や、人、権力を恐れていたペテロでしたが、大勢の前で大胆に即興で説教をする姿に人々は驚きました。


世の中で一番強い人は勇士ではなく、力士でもなく、聖霊充満な人です。

なぜならば、この人たちは 人や環境、サタンや権力、迫害や死も恐れないからです。


弟子たち全員は殉教しましたが、彼らはどこでも大胆な者でした。
聖霊が彼らの中に力を入れたからです。


【第2テモテ1章7-8節】

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

いつも何かを恐れ、自信がなく、消極的であるならば、いつも聖霊に満たされるように祈って下さい。


「強くあれ。雄々しくあれ」と主が命じておられます。





3.自己中心的な人から、神中心の人に変化された




自己中心であることは聖書に基づく考えではなく、自分の考え・知識・経験が 自分の価値観や行動の動機となります。


イエス様と共にいた時の弟子たちの姿を思い出して下さい。

霊的な人は1人もいませんでした。

イエス様の傍で3年間訓練されても、それぞれ自分が一番偉いと思っていましたし、出世することを夢見ていました。


相変わらず“自分”が世界の中心にいました。
それが、主が捕えられ十字架の事件が起きた時に明らかにされました。

皆がイエス様に背を向けました。
自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従うことが出来ませんでした。


しかし皆が聖霊によって180度変わりました。

自分のために生きる者はいなくなり、主のために生きる者に変わりました。


【ピリピ1章21節】

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。




4.みことばの悟りが与えられ、確信ある信仰に変わる




以前ペテロは、みことばに対してあまり分かりませんでしたし、イエス様から話を聞いても間違った解釈をしていましたが、聖霊を受けた後 その場で立って旧約聖書の言葉を正確に理解し、立派な説教が出来ました。

それには人々もびっくりしました。

そして人々がどのような間違いをしているのか、はっきりと指摘が出来るほどキリスト教の教理に対して正確に理解することが出来ました。


これによって信仰もみことばの上にしっかりと立つようになり、それからは真っ直ぐに進むことが出来ました。


聖霊の助けなしに神の言葉に対する悟りを得ることは難しいです。

自分勝手に解釈をして、悟りを得たという人もいますが、本当に悟りを得るためには聖霊の力と助けが必要です。


無学なペテロがこのように立派な説教がいきなり出来たのは 彼の力ではなく、すべて聖霊のよるものです。





5.使命を果たすことが出来る




弟子たちの例を挙げるならば、彼らが選ばれた時に言われたのは「あなた方を人間を取る漁師にしてあげよう。」でした。

すなわち魂を勝ち取るのが彼らの使命でした。

しかし聖霊が下るまでの姿は人間を取る漁師ではなく、再び魚を取る漁師に戻って行きました。


聖霊によって使命から離れていた彼らが使命を取り戻しました。
ですから福音が世界に広がるようになりました。それは聖霊が彼らを使命に目覚めさせて下さったからです。


そして彼らには証人としての使命もありました。
証人とは見たもの、聞いたものを隠さず ありのままを伝えることです。


自分のことを話すのではなく、イエス・キリストはこのような方でしたと証言をすることです。

彼らは聖霊に満たされた後、すぐに人々の前に証人の働きを始めました。



このように聖霊は人々を新しく変えて下さいます。

生ぬるい者ではなく、形式的な信仰生活ではなく、今回話したような変化を人々にもたらします。

それらのすべての変化は聖霊なしで得られることは不可能です。


弱いクリスチャン、名ばかりのクリスチャン、証人として働いたこともないならば、聖霊に対して無関心であるか、自分から勝手に聖霊と縁を切ったかです。


もし弟子たちのように変わりたいならば、何よりも聖霊に満たされることを求めて下さい。


聖霊なしの信仰生活は、ガソリンの入っていない車に乗っている人と同じです。

変化もなく、いつも同じ所に留まっている車の様です。

求めるすべての人に聖霊を注いで下さいますので、聖霊を受けて力強い信仰生活、実を結ぶ信仰生活をしましょう。
(。・ω・)ノ゙

2015.5.24
ペンテコステ礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神なしの人生と、神にある人生

※本日は教会イベントの為、礼拝はショートメッセージでしたので、
13日に行われた「水曜礼拝・聖書の学び」を載せました。


テーマは 『 神なしの人生と、神にある人生 』 です

【伝道者の書1章2-3節】

空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。

伝道者の書を開くと いきなりこの言葉が出てくるので、多くの人は戸惑うと思います。
この書は人生のむなしさを語る書だと思う人が多いでしょう。

まるで虚無主義者が書いたもののように見えますし、哲学書にも見えると思います。


しかし「伝道者の書」は、“人間がどのように真の幸せを追求できるか”がテーマです。

そして神なしの人生が いかにむなしいかを語っています。

生と死を真剣に考える人ならば、この伝道者の書で悟りを得ることが出来ます。


今回は「神なしの人生と神にある人生」の差が いかに大きいかを比較しながら恵みを受けたいと思います。




労苦に対して





【伝道者の書1章3節】

日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。


【伝道者の書2章18節】

私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。

“日の下”という用語は 物理的な空間の意味ではなく、神様は天に、人間は地上に住むという考えから出た表現です。

神様との関係が断絶され、罪によって汚れた地上で、短い人生を送りながら労苦しても、すべてむなしいということです。

地上のものに目標を定めて汗を流し 労苦をしても、永遠にそれが続くわけではありません。


しかし神様との関係が回復し、神様の中で生きる人たちは何が違うのでしょうか。


【ピリピ1章6節】

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

主にあるすべての労苦に対して、主は良い実が結ばれるように助けて下さるだけではなく、さらに良い実に対して報いも与えて下さいます。

神の国においても、素晴らしい報いを受けます。



【第1コリント15章58節】

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。


労苦した聖徒には「義の冠、いのちの冠、栄光の冠」などが用意されています。




新しいものに対して





【伝道者の書1章9節】

昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。

むなしく無意味で、満足のない人生を根本的に変える 新しいものはないことを語っています。

ある人たちは色々な最新のものを見せながら、「これは新しいものではないか」と反論しますが、多くのものは既にあったものを新しく発展させて作ったものです。


しかし主にある者はこのように変わります。


【第2コリント5章17節】

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

神との関係、自分の所属、身分、行き先、死からいのちへと、何もかもが新しくなりました。

自分の力ではなく、神様の一方的な恵みによって新しくされ、それまでなかった祝福を受けるようになります。


神は創造主で、今も創造の働きをしておられます。




死に対して





【伝道者の書6章12節】

だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを。


【伝道者の書9章3節】

同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行われるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。

日の下にいる人間は死ぬしかない存在です。

罪を犯した人間が、避けることが出来ない1つの定めは「死」です。
そして死後の「裁き」です。


【ヘブル9章27節】

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように。

たとえ人間が、神の摂理に従順することを拒みながら生きていたとしても、死の摂理に対しては従順するしかない弱い存在であること、そして神に頼らない人生は、まるで実態のない影のように むなしく去って行くということを伝えています。


しかし神にある者には素晴らしい約束があります。


【ヨハネの福音書3章16節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

キリストを信じる者の肉体も 地上では死を迎えますが、(キリストにあって)罪赦された人は裁きにあわず、永遠のいのちを受けて生きるようになります。


【ヨハネの黙示録20章12-15節】

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。

海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。

それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

この時、自分の不信仰をいくら嘆いても、時遅しです。

今も多くの人々が自分の力や財産、知識、偶像に頼りながら生活をしています。


ある人は、真の神に頼って生きる者を弱い者だと言ってバカにしたりしますが、いつか神の前に立った時には 誰が知恵ある者で、誰が愚か者であるのかが明確にされます。




快楽について





【伝道者の書8章15節】

私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。

この言葉は、快楽を勧めているのではないです。


日の下で行なわれる様々なことや矛盾に対して、私たちは全て理解しているわけではありません。

その中で失望したり、諦めるのではなく、神様が与えて下さった人生を 意味ある人生にすること、そして楽しく生きることも必要です。


ただ肉体の快楽というよりも、労苦に対する喜びを味わうことです。

ですが、その快楽も一時的なものです。


しかし主にある者には違う喜びがあります。


【ピリピ2章13節】

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

これは主の外にいる人には説明しても分からないと思います。


しかし主にある人は、快楽に勝る喜びを 主の働きの中で感じることができます。
私自身もその快楽に勝る喜びを主にあって発見することが出来ました。




悟りに対して





【伝道者の書8章17節】

すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。

神様から特別な知恵を授かったソロモンでさえ、神のみわざを全て知ることは出来ないと告白しました。


いくら人間に知恵があっても、人間として超えることが出来ない限界があることを ここでもはっきりと伝えています。

これが主にあってはどのように変わるでしょうか。


【第1コリント13章12節】

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

預言や啓示によって 今も主にある人々には、主を知らない人々よりも多くの部分で悟りが与えられていますが、いつか私たちが完全に悟る日が来ることがとても楽しみです。




人間としては予測不可能な時と機会に対して





【伝道者の書9章11-12節】

私は再び、日の下を見たが、競争は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。

しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、わなにかかった鳥のように、人の子らもまた、わざわいの時が突然彼らを襲うと、それにかかってしまう。

日の下で行われる全てのことが、人間の常識の中の理解できる範囲で論理的に行われることはありません。


優勝は間違いないと思われていた選手が脱落し、意外な選手が優勝することもよくあることですし、才能や能力があると必ず成功するとも限らないです。

その人たちが失敗する姿を見ることによって、人生の成功や失敗は その人自身の能力や人格、才能や努力だけで決まるのではなく、人間の判断を超えた神の主権が働いているので、人間は主権者である神を恐れなければなりません。

災いや災害は、どんなに科学が進んでいても、いつどこで何が起こるか人間には分かりません。


不確実な現実の前で、人間はむなしさを感じますが、その中で、謙遜な心を持って自分の人生が主の主権の下にあることを認めて生きなければならないことを教えています。


神が人間に対して絶対的主権者であることを教える言葉があります。


【第1コリント1章26-29節】

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。



老年を迎えた時に




世俗的な価値観を持っている人は、神のさばきがあるとは思っていないので、老年になってもそれに対して何の準備をすることもなく、ただ自分の価値観によって自分の人生の決算をするだけです。

幸せであったのか、不幸であったのか――。


しかし神のさばきは、昔も今も変わらない神様の主権によって行われます。
それに対して伝道者の書12章では警告を与えています。


人生は 長く生きることやスピードではなく、方向が大切です。
自分の思うままに生きたり、すべてを手に入れて満足しても、その方向が間違っているならば、すべてはむなしく終わってしまいます。


【伝道者の書12章1節】

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

そして神を恐れることと 神の命令を守ることを勧めました。


【伝道者の書12章13-14節】

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。

「伝道者の書」の結論は、虚無主義でも運命論でもなく、神を知らない人生、神のいない人生がどんなにむなしく無益であるかを教えています。


神なしの知恵、労苦、人生の目的、成功、欲望、名声、権力、富などは何になるでしょうか。
結論はすべてがむなしいです。


特に老年に必要な知恵は 神を恐れ、神の命令を守ることです。

神様の前に立つ日が近いからです。


伝道者の書は、ソロモン王が老年になって人生を振り返りながら悟ったことを教えています。

すべてのものを手に入れ、あらゆるものを楽しんだ者が語ることばでありますので、受ける教訓があります。
Σ(・ω・ノ)ノ

2015.5.13
水曜礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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パウロメッセージの重要テーマ

テーマは 『 パウロメッセージの重要テーマ 』 です

【使徒の働き20章19-21節】

私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。

益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたに教え、

ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

パウロは復活したイエス様によって直接使徒として召されました。

その場面は次の箇所にありますが、パウロに対して主が語ったことばです。


【使徒の働き9章15節】

わたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

そしてパウロは主の心にかなう働きをしました。
救われた異邦人にとってパウロの存在は本当にいのちの恩人です。


パウロの働きは簡単に出来たわけではありませんでした。

真の神を知らない異邦人の所へ行って、彼は命懸けで福音を伝えました。
多くの迫害と反対の中でも彼は伝えるべきことは大胆に伝えました。


私たちも神様のことを人々に伝えますが、人々が喜んで聞くことはほとんどありません。

その為、私たちは委縮し、消極的になり、何をどう伝えたら良いのかと悩んでしまいます。
聖書のことばはたくさん知っているのに、伝えるべきことばが分からず困ったと言うクリスチャンも多いです。


今回は最高の伝道者であったパウロのメッセージの重要テーマが何であったのかを皆さんに伝えます。

これから皆さんが福音を伝える時に、その内容で伝えたらいいと思います。





1.神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰




【使徒の働き20章21節】

ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

悔い改めと信仰は切り離すことが出来ないものです。


悔い改めなしに救われることはないですし、また 信仰なしに救われることもありません。


キリスト教のもっとも基本的な真理は神様に対する悔い改めと信仰です。

罪を犯したことのない人間は世には存在しません。
自分には罪がないという人は罪に気づいてないか、罪が何なのかを知らない人です。

悔い改めとは、自分には罪があることを神の前で認めることであり、罪を憎んで罪を悔いている心の変化を意味します。

そして主イエスに対する信仰は、キリストが十字架の上で死んで成し遂げた贖いとキリストが救い主であることを信じることです。


救いはまず悔い改めがあり、それに信仰が結びつく時に得られるものです。パウロは必ずこのことを語りました。




2.キリストによる罪の赦しと義




【使徒の働き13章38-39節】

ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいて下さい。

モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。

パウロはすべての人はキリストを通して神様からの罪の赦しを受けるべきであると強調しました。

なぜならば罪によって神様との関係が断絶された人間は、キリストを通して罪の赦しを受けるまでは神様と和解することが出来ません。


【コロサイ2章13節】

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、

神様は私たちが罪を悔い改める時にその罪を赦して下さる方です。

モーセの律法はそれを犯す者に対する刑罰はあっても罪の赦しや救いの保証はありませんでした。

イエス・キリストは律法が保証しなかった罪の赦しを保証しただけではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められ、救いを得ることまでも保証しました。




3.イエス・キリストの復活




【使徒の働き17章3節】

そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」と言った。

キリストの復活は作り話ではなく、実際にありました。

多くの目撃者があり、復活してからも何度も弟子たちや人々の前に現れました。
そしてパウロ自身も復活した主によって使徒と任命されました。

それまでパウロはキリストに敵対し、信徒たちを激しく迫害した者でした。


そして “キリストの復活” こそ信じる者たちの希望です。

キリストの復活がないならば、私たちの信仰もむなしいものになります。




4.神の国(天国)




【使徒の働き19章8節】

それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。

神の国、すなわち天国こそが聖書が提示する究極的なビジョンです。
神の国があるからキリスト教の救いは永遠性を持ちます。


天国がないならば私たちにどんな希望があるでしょうか。どこに向かって歩んだらいいかわからなくなります。

この世がすべてであるならば、私たちは神様を信じる理由がありません。
狭い道を歩む理由も、迫害される理由も、また忍耐する理由もなく、好きなように生きればいいです。


しかし、天国は間違いなくあります。

信仰の人々はどの時代にも天国にあこがれていて、地上では旅人として生活しました。


天国はお金で行ける国でもなく、権力で行ける国でもなく、キリストの十字架を通った人たちが行ける国です。
神様が支配し、涙も苦しみもない平安の場所です。

神様が準備した最高の場所です。
「私の父の家には、住まいがたくさんあります。」とイエス様が教えて下さいました。


地上でどんなに辛いことがあっても、天国があるから先が楽しみです。




5.偶像崇拝者に対する最後のさばき




【使徒の働き17章16節】

さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。

この憤りはパウロ個人の憤りでしょうか?
―― これは神様の憤りです。


なぜならば神様は次のようにはっきりと宣言しました。

「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」 と。


神様を無視し、神でもない偶像を拝む者に対しては厳しい裁きがあります。


【ヨハネの黙示録21章8節】

しかし。おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

パウロはこれ以外にも人々にとって益になることは、少しもためらわずに知らせました。

なぜならばパウロは誰よりも人々の魂を深く愛したからです。
パウロの心と姿勢はイエス様に見習ったものでした。


一人の魂も滅びることを願わない神の心を知って、パウロ自身もその心で福音を伝えました。

私たちは何を伝えたら良いかを考える前に、魂に対する深い愛が自分にあるかどうかを調べなければなりません。
愛がないと語ることが出来ません。


愛がないならば、主に愛の心を求めましょう。
そして愛の心をもって人々の救いのために祈り、パウロが伝えたように伝えましょう。
(・∀・)つ


【使徒の働き20章24-27節】

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。

ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。 私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。

私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。

2015.3.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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死んだ行いを悔い改める

テーマは 『 死んだ行いを悔い改める 』 です

【ヨハネの黙示録3章1-6節】

また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『 神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」 』

サルデス教会に送った神様の啓示の言葉は厳しい言葉であります。

今の時代、私たちは本当に聞かなければいけない言葉だと思います。

この箇所を読んで何かを感じることはありますか?
彼らは教会に属して信仰生活をしています。しかし、悲劇的な姿であります。神様が喜ぶ姿ではないです。
神様に叱られている姿であり、悲しい姿であります。


彼らの中で一番悲劇的なのは『福音から離れた生活を行っていること』であります。

私たちは 福音に出会ったので救われました。


イエス様がどのようなお方なのか、なぜイエス様が十字架にかかって死んでくださったのか ――?
私たち罪人がそれを見て「私の罪のために死んでくださったのだ」、「救われる為には十字架に架かってくださったキリストを信じなければいけないのだ」、
「自分が犯した罪を悔い改めなければいけないのだ」と、私たちが罪から離れて自分の罪を悔い改めて イエス様を受け入れて 信じました。

信じたということは、魂が救われたことを意味するのです。


私たちが福音を受け入れたならば、その後はどうでも良いかと言うと決してそうではないです。
その時から本当の信仰生活がスタートするのであります。
生まれ変わった時から、私たちは生まれ変わった者として生きていかなければならないです。

もし 再び死んでしまうならば、どうやって救い出すことができるでしょうか?


サルデス教会の人たちは死人の方が多かったです。多くの中、生きている人は幾人しかいないということでした。
これは教会の姿なのです。イエス様は黙示録で 世の中に対してではなく、教会に対して警告を与えておられます。

「救われたから あとは天国に行けるし安心だ。」 このように思うのは、とんでもないことです。
もし教会の全員が天国へ行けるならば、このような啓示の言葉を教会ではなく まだ信じていない世の人に向けて神様が語ると思いますが、そうではないです。
すべて教会に教えています。



神様が語る言葉は「悔い改めなさい」、「目を覚ましなさい」であります。これは私たちに対する言葉です。
「終わりの時代なのに、まだ寝ているのか ――?」、「あなたは罪の中にどっぷりと浸かっているのか ――?」

福音から離れた生活をするということは、死んでいる状態であります。


福音を受け入れた人は、その時から信仰生活は福音の中に根を深く下ろして、そこから成長をして実を結ばなければいけないです。

根がないのに 実を結ぶことはないのです。私たちは「御霊の実」を結ばなければいけないです。

しかし、福音から離れて 世に根を下ろしている人たちが御霊の実を結ぶのは、有り得ないことであります。



教会の中で信徒たちの姿を見ると、同じ神様を信じて 同じメッセージを聞いて 同じ場所で礼拝を捧げているのに、
ある人たちは福音の力がすごくあります。実をどんどん結んで変化をしています。そして神様が喜ぶ姿に変わってきています。

しかし、ある人は力が全然ないです。クリスチャンであるにも関わらず 無気力で力がないです。
ある人は「私 本当に救われているのかな?」と 確信がないです。


「私、天国に行けるのかな?私、地獄に行くのかな?」 また、ある人は「私は地獄に行くと思います。」と自分で言う人は 地獄へ行くと思います。
「私は まだ救われていないかも知れません。」と自分で言う人は、その人はまだ救われていないのです。
自分の中で確信がないならば まだ救われていないのです。そのことに気付かなければいけないです。






神様は、自分の子どもたちを無理やり地獄へ送りたいとは思っておられません。

イエス様が血を流して代価を払い買い取られた者が堕落していく姿を見た時に 神様はどれほど苦しいでしょうか――?
地獄へ向かっていく人たちを見て、天の父なる神様は 大きな声で一言 次のように語ります。「悲しい ――。」
神様の胸が潰れるような思いであります。


イエス様は色々な人たちを地獄へ連れていき、地獄の姿を見せますが イエス様はそこで泣いておられます。
そこで苦しんでいる魂を見て、憐れみの心で涙を流しています。

そういうことを聞くと人々は「イエス様に憐みの心があるならば、そこで叫んでいる魂や“悔い改めます”と言っている魂を救い出せば良いでしょう?」と言います。
しかし、それは神様の公義ではないです。


イエス様はみことばで はっきりと語りました。
へブル書に「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」という言葉があります。
それを私たちは聞いています。特にクリスチャンであるならば 礼拝がありますので みことばを聞いています。それなのに なぜ化石のような状態になったのでしょうか。

なぜ無気力なクリスチャンになってしまったのでしょうか。なぜ死んでしまったのでしょうか。
これはすごく問題であります。


これは誰のせいでしょうか――?

自分自身のせいです。
自分が福音の中に根を下ろしていないので、神様を信じていても(自分で)好きなように生きています。

みことば中心に生きるのではなくて、自分がしたいように生きています。神様の言葉がもはや その中には存在していないです。


そして 一番の問題は、祝福を与えてくださる神様なので きちんと(祝福を)用意してくださっていますが、
神様を信じる目的が「自分の問題を解決して欲しい」、「病気を癒して欲しい」、「祝福して欲しい」、「私を天国に行かせて欲しい」など、それだけの思いで神様を信じるならば偶像崇拝と何ら変わりがありません。

世の中の人たちが神社やお寺へ行って拝む理由は何でしょうか?
祝福して欲しいからです。「地上で生きている時、私を祝福してください。この問題を解決してください。私の病気を癒してください。」


このように彼らは拝むのですが、クリスチャンが神様に対しても同じで、神様に祈るのが自分の祝福のため、欲しいものを手に入れるため、問題が解決されて欲しいという思いだけならば「偶像崇拝」です。ただイエス様の名を呼ぶことだけが違うことで、それでは神様は喜ばれません。
神様は「わたしを利用しようとするのか。」とおっしゃいます。これはとんでもないことであります。




悔い改め



地獄に落ちる理由は、悔い改めて新しくなる姿がないからです。

私たちは神様を信じるということは、何のために信じるのかを明確にしなければならないです。


皆さんは何のためにイエス様を信じていますか?
ただ単に この世で自分の願いが叶えられて 欲しい物を全部手に入れて 贅沢に生活をしたいためにイエス様を信じているのでしょうか?
もし そうならば、とんでもないことです。

私たちが福音を信じるということは、何を食べるか何を飲むかの問題で信じるのではないです。
“生きるか死ぬか”の問題であります。


福音は生きるか死ぬかをはっきりと分けるのです。
イエス様は「悔い改めて立ち返り 信じる者は救われる。信じない者は永遠の滅びである。」と語りました。
そのことを知らない人はいないと思います。

この言葉を信じて、もう滅ぼされたくないという思いで信じていますが、自分は命の道を歩いているのか?それとも相変わらず世と仲良くして
この世の霊に満たされて 妥協をしながら生きているでしょうか?


神様は今回の本文の中で「いのちの書から消すようなことは決してしない。」と書かれていますが、ある人たちはこの5節のみの言葉を取って「一度救われた人は決して いのちの書から名前が消されることはない。」と断言をしていますが、とんでもない間違いです。

これには神様の条件があります。
「勝利を得る者」と語りました。勝利をした人の姿は4節に書かれています。
死人が多い教会の中で幾人かの人たちだけが名前を消されないということであります。


その他の死んでいる者たちや 寝ている者たちに対して語った言葉は、「盗人のように来る」と語っています。
この意味は、神様はもともと盗人ではないです。盗人はサタンです。サタンが来る目的は盗む、殺す、滅ぼす です。
魂を盗むのです。そのため肉体が死に、永遠の滅びに至ります。つまり地獄に落ちるということであります。


神様が盗人のように来るということは、その者を神様が迎えに来るのではなく、イエス様が来る時は裁きの為で、 再臨は救いの為に来るのではないです。
世の終わりであります。すべてのものが終わりです。


その時に神様は勝利した者たちの魂を守ります。

しかし、霊的に死んでいる人たちや眠っている人たちは滅びていくのです。
その人たちにはサタンが飛びかかり、連れて行くところが地獄であります。


サタンも不思議な業を行います。サタンも病人を癒します。サタンは死人を生き返らせることも出来ます。人の人生の中でサタンはいくらでも働きます。
サタンからそういうものを受けて 安心している私たちの姿を見て、サタンは一番喜びます。

安心をしていると自分を顧みることをしないからです。
今、私は神様のみこころに従って生きているのか?と 自分を点検することをせずに眠っているのです。


ダビデが罪を犯して悔い改めていなかった時に、神様は預言者ナタンを遣わしました。
ダビデは預言者でもあり 王様でもあるのです。すごく神様に愛された者であります。
しかし、罪を隠して悔い改めませんでした。

神様はナタンを遣わしましたが、ナタンは行きたくなかったと思います。殺されるかもしれないからです。
王様に言うのは難しいと、それも隠れた罪を告げるのはとても勇気が必要であります。
それでもナタンは遣わされて行き、ダビデに はっきりと語りました。


ダビデの素晴らしいところは、その言葉を受け入れて その場で神様の前に出て灰をかぶり悔い改めをしました。
もし彼が悔い改めなかったならば、たとえダビデであっても地獄へ落ちたと思います。


神様が「いのちの道は狭く険しい。その道を歩む者はまれである。」と語りました。
これはクリスチャンだからと言って、「私、教会に通っています」ということだけで皆が天国に行くことはないのです。それは錯覚であります。

私たちは福音の中に根を下ろして生活をしなければいけないです。

信仰が強い者と信仰が弱い者の根本的な違いは、“十字架を経験したのか、十字架を経験していないのか”であります。


イエス様に出会い、イエス様が架かった十字架が誰のためであったのか? イエス様がなぜ そこで血と水と汗を流して ご自分の命を捧げたのか?
それは あの隣人のためでしょうか――?それとも、あの罪人のためでしょうか――?
これは あなたが十字架を経験していないことになります。


私のような罪人のために十字架に架かり、十字架の前でイエス様に申し訳ない気持ちで涙を流し、そうする中で自分の魂を救ってくださったイエス様に対して
「私は一生イエス様から離れません。恵みを忘れることはしません。」とイエス様と共に毎日 十字架を経験しながら生きる人は 最後まで大丈夫です。


そのような人たちは、イエス様が自分の罪のために十字架に架かりましたので 罪を軽く考えないのです。
「私がまた罪を犯すならば、それはイエス様を十字架につけることになるのだ。」と考えます。




クリスチャンへの裁き



クリスチャンに対して神様の裁きが厳しいのは何故でしょうか?


イエス様が十字架を背負って歩いた時に、エルサレムの神殿を見て泣きました。
これは教会を見て泣く姿であります。

教会が「私たちは神様に仕えています。立派な教会があります。律法を守っています。毎日行いをしています。」と言うのを聞き泣いておられます。
イエス様が泣く理由は、堕落しているからです。


神様のことを知っていると言いながらも、本当は知らないのです。
みこころのままに歩いておらず、クリスチャンが今 罪を犯しているならば
その人たちは日々イエス様を十字架につけています。ですから罪が厳しいのです。

裁きも教会から始まります。つまり、そこにいる信徒たちから始まるということであります。


地獄へ行った人たちの 色々な証を聞いていますが、全員が共通して言うことは、「地獄にクリスチャンがたくさんいた」ということです。牧師たちもたくさんいました。



―― 地獄の証 ① ――

ある南米の女性が イエス様に地獄へ連れて行かれた時に 火が燃えている場所や許さない心を持っていた人が入る場所を見ました。
そこでイエス様が「あなたはどちらに入るのかを選びなさい。」と語りました。彼女が驚いて「それはどういう意味ですか?」と聞きました。

イエス様が語った言葉は「ここは他人を絶対に許さない人が入る場所である。あなたの心の中に未だに許していない人がいるだろう?」とおっしゃいました。


神様は私たちに言いました。
「あなたが人を許すならば、天におられる神様もあなたを赦す」と語りました。

しかし、クリスチャンではありますが いつまでたっても「あの人だけは死んでも許しません!」と言うなら、この地獄があなたを待っているということです。


それで彼女が瞬間的に思い出しました。
彼女は長い間 祖母に対して憎しみの心が消えることがなかったのです。
もし祖母を許さないならば、自分はこの場所に来るのだと分かったので、その場で祖母を本気で許しました。

1人を許さないだけで、永遠に出られない恐ろしい地獄の火の中で(全身の)肉が落ちて苦しみ叫び、悲鳴を上げる暗闇の世界に自分は行きたくないと思いました。


聖書の言葉には従順しなさいということが書かれています。
私たちがこの1つ1つの言葉に不従順するならば、天の御国には入れないです。

不従順するということは、神様に敵対して生きるということであります。不従順はサタンからくる霊であります。



―― 地獄の証 ② ――

また他の人の地獄の証では、ある教会にいる信仰の良い信徒が亡くなりました。

誰もが「あの人は本当に素晴らしい信仰生活をしていたから、イエス様のところへ行って素晴らしい報いを受けるだろう。」と思っていました。

しかし、何と地獄で見つけたのです。
その姿を見てあまりにもびっくりしました。


「イエス様。あの人は生きている時に イエス様のことをすごく愛していました。イエス様からの言葉も“わたしも彼女を愛していた”でした。彼女は神様にたくさんのものを捧げました。彼女は素晴らしい働きをしました。素晴らしい信仰をもっていました。」とイエス様に聞きました。

これらの1つ1つのことに対してイエス様は知っておられて「彼女はそのようにした。しかし彼女は悔い改めなかった。」と言いました。


「何を悔い改めなかったのですか?」と聞くと 神様が見せる場面がありました。
彼女が生きていた時の普段の生活を見せてくれました。


彼女には1人の親しい友人がいました。
友人は病院に勤めていて薬を処方する担当をしていました。
彼女は病気を患っていて、ずっと飲み続けなければいけない薬があり、その薬代が高いので、彼女は友人にお金を支払わないで薬を得る方法を見付けました。

病院の受付時間内ではなく、誰もいない時間にその薬を貰っていました。
これは友人がさせたことではなく、その人が頼んだことでした。
本来ならばきちんと料金を支払って薬を得なければならないのですが、お金を払うのがもったいないという思いが働きました。


神様は 彼女が初めてそれを行った時に、心の中に「それは罪なんだよ。」という思いを入れました。

しかし、彼女は「あ、これは神様からの思いではない。」と考えました。
彼女の中での罪の認識は、人を殺す・盗みなど十戒に書かれているようなものであって
今回のことは合理的に考えました。「少しくらい貰っても」という思いでした。この罪を彼女は小さく考えました。

「私は主のために いっぱい働きをしていて、神様を愛しているし、信仰生活もまともにしているし、貧しい者もたくさん助けたから、地獄へ行くことは考えられない」と思っていました。


(神様は)警告を与えましたが「いや、これは大きな罪ではない。こんな罪で地獄へ行くことは有り得ない。」と ずっと思っていました。
神様の警告を「これはきっと私の考えだから、もう考えないことにしよう。」と死ぬ時まで これをやり続けました。

つまり死ぬ時まで泥棒をしていました。
そして それだけではなく、友人までも罪をずっと犯させ、もう1人の魂も罪人にさせていました。
そして彼女は悔い改めることもなく亡くなりました。


悔い改めなかったので地獄へ来たのです。

それまでどんなにその人が神様の働きをしていても、悔い改めない者は地獄へ行きます。




姦淫



また、姦淫を犯すクリスチャンもとても多いです。

これをやめようとせず 平気に行います。たくさんの罪が相変わらず行われているのです。


これをその人たちは安心しきっているのです。
「私はクリスチャンだし、命の書から私の名前が消されることはない。」という思いであります。

ですから、その人たちが地獄へ落ちた時に 一番びっくりするのです。「何で私はここに来ているの?」と。
そしてイエス様を見た時に「イエス様!私の罪を赦してください!」と叫びます。


しかしイエス様は「もう遅い。」
「何度も何度もあなたに警告をしたが、あなたは聞き入れなかった。罪から手を洗おうとはしなかった。」と語りました。






私たちはいつ死ぬか分からないでしょう?

ですから、日々準備が出来ていないといけないです。
のほほんとしているのは寝ている姿であります。

本文の「あなたの行いを知っている。」とは(神様は)全ての行いを見ているのです。
その行いを見て「それでもクリスチャンか」と言います。


人を憎む。神様のものは盗む。赦さない。不品行を行う。あらゆる世の人が行う罪を全て犯していながら 日曜日が来たら 教会でメッセージを聞いて、そしてすぐに忘れて あとは好きなように この世と仲良く生きています。


そうしながら自分が天国へ行くと思うのは錯覚であります。




福音を正しく伝えない



牧師たちが地獄へ落ちる一番多い原因は「福音を正しく伝えなかったこと」です。


「悔い改めなさい」という言葉を語らず、韓国の教会でも堕落をしている多くの理由は「天国も地獄も語らない」です。
「今は21世紀なのに天国とか地獄とか、そんなことを言うのは無知な者が言う言葉でしょう?」

このように一番大切なものが教会で語られずに「この世で祝福を受けましょう。」という言葉に皆が飛びついて「権力と富を手に入れましょう」とメッセージをします。

神様はそれを見て「それはあなたの魂を滅ぼすものなのに、それを求めるのか。」と語ります。


私たちが神様を信じるということは、区別された生活をすることであります。
この世の流れに従って生きるのではなく 私たちをそこから離して生き方を変えていかなければいけないです。

クリスチャンであるのに、口が悪い。他人を裁く。妬み 憎しみ 高慢 これらが身体に付いていると、いつの間にか汚れた衣になっていきます。
臭いがプンプンしている汚れた衣を着ている人を、神様は天国に入れるわけがないでしょう。


悔い改めるということは、その汚れた衣を綺麗に白く洗うことなのです。


黙示録で褒められた教会では悔い改めの言葉がないですが、非難された教会のすべては「悔い改めなさい」という言葉でした。

悔い改めが足りないということは、自分の罪に対する認識が足りないということであります。


これは毎日 十字架を経験していない姿です。十字架を見るならば、自分が犯した罪を思い出すのです。
「今日もこの罪でイエス様を釘つけてしまいました。主よ、本当に申し訳ありません。私の罪を赦してください。」
十字架を見て悔い改めないならば、何なのですか?
十字架の上で苦しんでいるイエス様を見て、「お金をください」「病気を癒してください」と言えるでしょうか。


十字架に架かったイエス様を経験することは、「そこで死ななければならないのは私なのです!罪人である この私なのです。」このように ひざまずいて悔い改めなければいけないです。

言葉だけではなく、毎日の自分の生活が 主に立ち返ってイエス様を見て生きないといけないです。
そして自分の中の小さな罪も、ガン細胞のように 後で私を滅びに落とすのだという怖い思いを持たないといけないのです。


もし自分の体にガン細胞を見付けたとしたら、小さいからと言って無視をしますか?「まだ小さいから病院に行かなくても大丈夫だ」とは誰も言わないと思います。
「小さいうちに見つかって良かった。早く病院へ行ってそれを取ろう」という思いになるでしょう。
お金をたくさん使っても診察へ行くと思います。それをそのまま放置することはないと思います。


それなのに、自分の魂に対しては 関心がないです。

その罪が自分の足かせになって、自分を永遠の滅びに陥れているのに、罪を捨てるどころか、
罪を楽しみながら、罪を増やしながら全身ガン細胞で蝕まれています。そうしたら死ぬしかないのです。




魂に対する準備



神様は 時はいつなのか、今は終わりの時であります。

地震が起こることは災いであるのです。

ある幻が開かれた人は、世界各地へ神様が連れて行き その国を見せるのです。
ソドムとゴモラを見た時に神様は何をされましたか?
同性愛で本当に汚れているので火をもって滅ぼしました。


日本でも、地震が起きるとずっと警告があります。先日も地震がありました。
これは神様が警告をしていることなのです。


私たちは準備をすることはもちろんですが、魂に対する準備は出来ているでしょうか?

私たちは地上でたくさん欲しいと求めていますが、これは肉の目で見るから地上のものを一生懸命集めようとします。しかし、もし私たちが神様の目で見るならば、考え方が180度変わると思います。

180度変わることで、「あの時に 私がもっと霊的になれば良かったのに。あの時にもっと神様に捧げたら良かったのに。あの時 もっと主のために仕えたら良かったのに。あの時に もっと信仰生活をきちんとしておけば良かったのに。」と、全て逆になります。


肉の目で見るなら、「地上のあれも これも欲しい。もっと欲しい。」と まるで永遠に地上で生きるかのように食べますが、神様の目から見たら、神様と私たちの思いは天と地ほどの差があると言います。

神様は霊的に見ているので、私たちの霊的状態を見ておられます。
そして「何と貧しい者であるのか。何と堕落しているのか。何と汚れた者であるのか。」

もし私たちが上から(自分自身の状態を)見るならば、自分の姿を見て飽きれると思います。


「何をしているの?服が汚れているよ!洗いなさい。今、あなたはサタンと仲良くしているよ。どんどん地獄に近付いているよ。早く立ち返りなさい!もっと神様に喜ばれる者になりなさい。」と、霊の目で見るならば、私たちはきっとそのように言うと思います。

神様が一度救われた者は、何をしても どのような罪を犯したとしても天国へ行けるというのは 間違えていると教えています。


聖書には「悔い改めないならば」という言葉がたくさん出てきます。

盗人のように来る、暗闇の中に落とされる、外の暗闇で歯ぎしりする、大きな艱難の中に投げ込む、火の中に投げ込む、「主よ、主よ」と言うものが皆天国に入るのではない。
この言葉を (多少 罪を犯しても天国へ行けると安心している人は)どのように解釈をするのでしょうか?


聖書全体の言葉、主のみこころは何か、悔い改める者に対する神様の恵みはいつでもあります。

しかし、悔い改めることをせずに それを軽く考えていつまでもそこに留まっているならば、いつの間にか罪によって その人を飲み込んでしまいます。

天国は罪人が入れないところであります。


死んだ行い、死んだ自分の心、死んだ信仰生活を悔い改めなければいけないです。


私たちの中に様々な問題を よく考えると神様と自分の関係が悪いと問題が消えることはないです。

この世にどっぷり浸かって生活をするならば、サタンが絶えず問題を持ってきます。
私たちを滅ぼし盗むために、そして私たちが死んだ時に誰よりも早く来るのはサタンです。


神様にたくさん仕えた人たちや、神様がいのちの書に名前を書いている人たちは、死んだ時に悪魔は来られなく、御使いたちが迎えにきます。
しかし どっぷりと罪の中で生活をしていたクリスチャンには、御使いが来ないです。悪魔サタンがその人の肉体から魂を奪い取って地獄へ連れていきます。

また 中途半端な信仰生活をしている人は、御使いとサタンが来て戦います。「これはわたしのものだ」とサタンが主張をし、御使いも「わたしのものだ」と言います。
そこで霊的戦いが起こります。


私たちが想像できないほど地獄は苦しみの場所であります。
すべての感覚が残ったまま 地上では有り得ないような拷問を受けて暗闇で悲劇的な目に遭います。


一番厳しい裁きは何だと思いますか?
神様から切り離され、神様がその人から目を逸らして 断絶された裁きが一番厳しいのです。

神様は私たちの いのちの主であります。その神様が私たちの命に関心がなくなり、助け主ですが もう助けることをしなく、私たちにとって希望ですがそれも神様がしない者に一番厳しい裁きがあります。


ですから地獄にいるその人たちは 必死にサタンに助けを求めますが、サタンは助けることをしないです。
イエス様がたまに訪問すると 魂が助けを求めてきます。しかし地獄から出た者は誰一人いません。そこに来ている人がそこから出て自由を得ることは有り得ないことであります。

天国に入っても同じことです。完全に死んだ人がその所から出たり入ったりすることはないのです。


天国と地獄を「(自分で)見てみなければ分からない。」と言うのではなく、見た時は既に遅いのです。

私たちクリスチャンにとって 天国が一番の希望であります。地上でいくら苦しい生活をしていても天の御国を本気で信じている人は希望があるのです。


悔い改めて「神様、私の魂を守ってください。私を苦しみのないところに導いてください。」と福音の中に深く根を下ろして神様に頼り みこころを行いながら天国に望みを抱き 生活できるように導いてくださいと 毎日自分の力で生きることが出来ないのでイエス様の力を求めるのです。

神様は何もかも知っておられます。そして私たちが今のままで良いのかを考えることであります。
もし今 神様が自分を呼ぶなら天国へ行けるのか ――? 行けない人たちもたくさんいるのです。

ですから神様が「目を覚ましなさい」とおっしゃいます。


このメッセージは神様が伝えて欲しいメッセージであります。


寝ているでしょう?―― 起きなさい。
死にかかっているでしょう?―― 生きなさい。
罪を罪とも思っていないでしょう?―― 悔い改めなさい。


教会へ行くのもイヤだ。神様を信じるのも面倒くさいと言っていたら、それが後になって自分の首を絞める言葉になります。自分で自分を地獄へ落とすことになります。


イエス様が「地上では辛いこともある。苦しいこともある。」
しかし私のいのちの主が私たちのために33歳で地上を離れたイエス様、苦しみを受けたイエス様を悲しませるのではなく、その恵みの中に留まる必要があります。 (・◇・)ゞ

2014.3.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私たちの罪と神様の恵み

テーマは『 私たちの罪と神様の恵み 』です

【ミカ書7章18-20節】

あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、 怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。

もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、 すべての罪を海の深みに投げ入れてください。

昔、私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えてください。

ミカは預言者です。神様は彼の口を通して、罪深いイスラエルに対して裁きの言葉を語りました。

憐み深く、恵み豊かな神様ではありますが、選ばれた民たちが神様の恵みに感謝もせず、仕えることもしないで神様を悲しませました。

聖書には、「憐れむのに飽いた」という言葉があります。神様が何度も憐れんでも、民たちが罪の中に留まり立ち返らないのです。

聖書に出てくる「罪」とは何でしょうか?
全ての人間は罪を犯していますが、人間は神によって造られた被造物であります。
ですから、造られたものは 当然のように神様のみこころに従って歩まなければならないです。
これが救われた人間の義務でもあります。

しかし人間が みこころに従わず、自分勝手に行動をすることが罪なのです。


【ローマ6章23節】

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

人間はなぜ死ぬのでしょうか。

ただ身体が弱ったから死ぬのではなく、主が語った言葉通りに罪から来る報酬を自ら受け取るので死ななければならないです。

罪は人間から出たものです。自らが罪の種を蒔き、さらに罪を犯して大きくしていきます。
神様は罪がない方であり、神様から出てくるのは恵みであります。
罪を犯している人間に対し 神様は律法通りに裁くならば、その都度 殺さなければならないです。
そうすると地上に人間は存在しなくなります。

しかし、罪を犯しても神様は何度も赦して、私たちを生かしてくださいました。


神様の恵みから離れると(その人から)何が起こるでしょうか――。
自らが罪を犯すと、消えていくものがあります。それは恵みです。

神様の恵みは、みことばや聖霊様から来るものが一滴一滴 自分の中に貯まり、それを飲んで癒されていくのです。

罪を犯すと、一滴一滴の中に毒が撒かれるのと同じであります。つまり飲めない水になるのです。
そうすると汚れてしまい喜びや平安が消えます。
外見では、笑ったり 信仰も形式的に守っていくのですが、その人の深い部分には喜びがないです。
霊が枯れて飲む水がなくなるので その人は死にます。

完全に器を変える為には悔い改めて、神様に洗ってもらわないと心の泉が綺麗にならないです。
神様に立ち返る方法しかないです。
足を洗い、心を洗って帰ってきたら 神様はその人に希望を与えてくださいます。

不従順・不信仰は、神様に敵対することであります。それによって得るものは無いです。

人間が罪を犯すと、罪の奴隷になります。


【箴言5章22節】

悪者は自分の咎に捕らえられ、自分の罪のなわにつながれる。

これは奴隷の姿であります。
罪を断ち切らないと、繋がれているので離れられなく 罪から解放されることがないです。
初めは小さな誘惑から始まりますが、そこから立ち上がらないのでサタンは足かせをかけておくのです。

サタンの手から逃れるために 必死に もがいて神様を求めるならば、その罪を赦してくださいますが、
ある部分ではその人は その罪を楽しんでいるのです。
自分の肉の欲の方が強いので「私はしばらくここで楽しみたい」とサタンに繋がれているにも関わらず気にしないのです。

神様から「立ち返りなさい。」と言われた時には、“その時 ” が立ち返る時であります。


それが神様の愛と憐みであり、恵みであります。
神様はたくさんの厳しい叱責の言葉を語ります。これは「愛」なのです。愛がなければ言わないです。

なぜなら、そのままだと滅びに至るからです。
それなのに、「イヤだ。良い言葉が欲しい。厳しい言葉は聞きたくない。神様は私のことを憎んでいる。」
これは、目がくらんでいる姿です。罪によって目がくらむと悟りがないのです。自分の足の下には地獄が待っているのに気付いていないです。

周りの人たちは、それに気付いているので 離れるように言いますが、その人は罪によって、みことばに覆いが被されているので暗闇に陥っていきます。

しかし、神様は私たちが罪深い者であることを知っているのです。そして神様の恵みの手が働きます。

今、自分の目が開かれていると思っている人たちは考えなければならないです。本当に自分は目が見えているのでしょうか?

私たちは神様の恵みがないと、生きる道がなく希望がないです。


【Ⅱペテロ3章9節】

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。 かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを 望んでおられるのです。

すべての人が罪を犯したので、神様からの栄誉を受けることが出来なく、それによって神様は裁きを遅らせているのです。

それは神様の深い愛であり 憐れみであります。「帰ってきなさい。」と恵みのところに来ることを望んでおられます。
このように優しく語ってくださる神様がどこにいるでしょうか?―― この世に神と呼ばれるものはたくさんあっても、
憐み深く、赦してくださる神様はいないです。

他の宗教では、罪の話は全くしないです。彼らがしない理由は そこに救いがないので 初めから触れないのです。
そして良いことをしなさいと言いますが、一度汚れてしまった者に良い服を着せたとしても中身が汚れていますので 絶対に聖い者にはならないです。


しかし 主は汚れた罪を始末する恵みを持っておられます。
私たちは罪や咎ばかりですが、主の恵みで そこから救い出してくださいました。

この素晴らしい神様を悲しませてはいけないです。

自分が今どのような姿なのかを見て、まず自分が先に立ち返ることです。
祈りでも、自分が欲しいものを求めて祈るのではなく、祈りをしてから 神様に耳を傾けることであります。

私たちは神の声を聞くために祈るのです。

立ち返ることは祝福です。主の言葉を信じるのが祝福であり信仰であります。

他人が自分に対して罪を犯した時も、私たちは愛のある者、憐み深い者、許す者にならないといけないです。
他人を裁くと、神様から「あなたはどうなのか?あなたの心のほうが、よっぽど汚れている。しかし わたしがあなたを赦しているのだ。」という声を聞かなければならないです。

私たちを愛し、赦してくださった神様に対して 私たちは本当に感謝をして、私たちも神様を愛し、神様の傍から絶対に離れないようにしましょう。

忍耐をしながら ますます神様に頼っていくならば、神様から来るものは、恵みの上にさらに恵みであります。
命の水が枯れることはないです。 (^∀^)

2013.12.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンが語る言葉

テーマは『 クリスチャンの言葉の生活 』です

【マタイの福音書12章35-37節】

心を「良い倉」と「悪い倉」に例えました。
心の中に悪いものがあるならば、それが自然と口から(言葉になって)出てきます。

恵みを受けた人は、言葉が変わっていきます。
以前の言葉は使わなくなります。以前は世の中の言葉を好んで使い、誰かを非難する言葉や
興味のある世のことばかりを語っていました。

しかし恵みを受けた人は、神様のことを語りたくて、うずうずします。誰に対しても神様のことを語ります。
恵みの言葉が、その人の中から出てきます。

言葉は、信仰生活と ものすごく密接な関係があります。

信仰生活をする人が、信仰や神様や恵みの話をしないならば、正しい信仰生活をしていないことであります。

《マタイの福音書12章34節》 に 出てくる「まむしのすえたち」という言葉は、
形では信仰生活を送っているように見えますが、その人たちの口から出る言葉があまりにも悪いのです。
他人を非難したり、罪に定める悪い言葉ばかりが出てきます。

イエス様の言葉はどうだったでしょうか――?
イエス様が来られる以前は、パリサイ人、律法学者、祭司たちが人々に教えていました。
人々はずっとその言葉を聞きながら信仰生活を送っていました。

しかし、イエス様が来られて言葉を語った時に、人々はその言葉を聞き 驚きました。
なぜ驚いたのかというと、(律法学者たちが語る言葉にも似ているのに)イエス様の口から出るのは
恵みの言葉だったからです。

今まで律法学者たちが語っていた(厳しくて 愛のない)言葉で、人々はとても重荷になっていたのですが、
イエス様は、重荷はご自身で負い、人々には恵みを流していきました。
絶望に陥っている人には「心配するな。わたしがあなたと共にいる」と癒し、命を注ぎました。

主から出てくる言葉はすべて私たちにとって益になるものです。

クリスチャンは当然のように、イエス様の言葉を習わなければならないです。
主は「あなたが口を開くならば、どんな言葉を語るのか」と見ておられますので
私たちが口から言葉を出す時には、悪いものを取り出すのか、それとも良いものを取り出して人々に与えるのか、
それを考えなければならないです。

聖書には私たちが避けなければならない言葉や、語らなければならない言葉が書かれています。
私たちは、時が良くても悪くても、口を開いて語らなければならない言葉がたくさんあります。

交わりの時でも、みんな信仰の話をしている時に、黙って何も言わないのは問題であります。
「語る言葉がないです」というのは心が空き缶の状態です。心に何も入っていないので語る言葉がないのです。
神様の言葉が1つも留まっていないので、その人は語る言葉がないです。

また、私たちは語らなければいけなく、語る時には気を付けなければならないのですが、
その前に、私たちは入れ物に気を付けなければいけないです。

悪いものを入れたならば、当然のように悪いものが出てきます。


【エペソ4章29節】

他人を傷付ける言葉を口から出してはいけません。それは相手を汚してしまいます。
自分は他人から悪い言葉を聞きたくないでしょう。
私たちは自分がされたくないことを(他人に)してはいけないです。

悪い言葉を使った本人は忘れるかも知れませんが、後になって神様から裁かれることになります。

クリスチャンは、口(=語る言葉)もクリスチャンでなければ ならないのです。
他の部分はクリスチャンで、口だけはサタン。これはいけないことです。

私たちは言葉を変えなければならないです。これは一夜で出来る事ではないです。

心の入れ物を変えていくならば、自然と使う言葉が変わっていきます。
相手を生かす言葉、慰める言葉、愛の言葉は、恵みを与える言葉であります。


【コロサイ3章16節】

まず自分たちの心の中にキリストの言葉を豊かに入れないと、世のものが入ってくるのです。
毎月みことばの暗唱をしていますが、私たちは心にみことばを蓄えて、必要な時にみことばを出せるように
しておかなければならないです。

聖書のことをたくさん知っていても、知識を誇るのではないです。
自分の知識を誇る人たちがいますが、これは高慢であります。
なぜならば主の言葉は、人に役立つように恵みを流しなさいと語っていますので、高慢を流してはいけないです。

ある人は頭に知識を蓄えて知識を語ります。しかし、それを聞いても相手は命を受けないです。

自分の心で噛みしめて味わい 恵みを受けたものを語るならば、人々はそれを聞いて「私もそうしよう」と思います。

しかし頭の中にある知識を、相手より上に立って教えるならば、
聞いてもどう活かしていけば良いのかがわからないです。知識は知識で終わります。
人に役立つ言葉や恵みを流す言葉を知恵にしていかなければならないです。

「私はこのみことばで、これをやってみました。そしたら本当に神様からの素晴らしい恵みがあって、
そしてこういう結果が出てきました。このみことばで力を受けました。」
これは心に(みことばを)住まわせた言葉です。頭の知識ではないです。

知識は冷たいものであります。知識は「あなた、そんなことも知らないの?」と相手を裁くことになります。
それは恵みにならないし、人の益にもなりません。

真理は正しい言葉でありますが、真理そのものを語る時はその人自身が真理を体験してから語るのが
一番良いです。

まず自分で行い、味わってみて、そして美味しかったものを人に伝えると、相手に慰めを与えることができます。


【コロサイ4章6節】

言葉は内容よりも言い方があります。言い方が悪いと、良いことでもトゲが付いたものになります。
綺麗なお花を渡すならば、トゲは取ってから渡すのが良いです。
「綺麗だなぁ」と思ってもトゲに刺されたなら手放してしまいます。

ですから、私たちが使う言葉もいつも剣であるならば、たとえ真理の言葉であっても親切ではない人が語るなら
剣に変わります。
聖書の言葉はすべて素晴らしいですが、愛のない人や親切ではない人が語るなら、裁くための言葉にしか
聞こえないです。

クリスチャン同士がみことばで裁きあって傷つけていることがたくさんあります。

しかし親切な愛の心で使う言葉なら、叱責の言葉であっても聞き入れるべきであります。

悪い言葉はやめようと努力をしなければならないです。
悪い言葉が出そうな時は口を閉ざし、良い言葉の時は口を開いて語るべきであります。


【詩篇37編30-31節】

【詩篇51編15節】

神様が語って欲しい言葉を語られるようにと祈ることであります。
祈る人は唇に気を付けます。口を開くべきか閉じるべきか、それを判断できます。

私たちは悩みを話したり、問題を話したりすることは良いのですが、ある人たちは常に不平不満や
感謝がなく、いつも自分のことしか語らないのは良くないことであります。
その人は相手の言葉を聞かないです。私たちは聖い会話をするべきであります。
私たちが話している言葉を、常に主が聞いておられるんだということを忘れないでください。

私たちも他人に悪い影響を与える者ではなくて、神様が恵みを流していきなさい、益になる言葉を語りなさいと
語ってありますので、私たちの中に留めて相手に益になるのかを考えてからみことばを使っていきましょう。
 (^∀^)

2013.4.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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砕かれた、悔いた心とは

テーマは『 砕かれた、悔いた心 』です

【詩篇51編17節】

私たちには色んな痛みがあります。
軽い痛みもあれば、骨が押し砕かれた耐えられない痛みもあります。

砕かれたものから生じる痛み。
自分達の心の中に自分が犯した罪に対してそれくらいの痛みを感じることをここで語ってあります。
心が痛くてどうにもならない状態です。
罪は腐敗したものであります。自分の中に腐敗したものがあることを考えてみてください。

骨が砕かれた時に感じる痛みのように、自分の罪を見て、自分の心でそのように感じることであります。

クリスチャンは教会に来て初めて罪というものに対して、みことばを通して聞きます。
世の中では聞くことができないようなことが聖書に書かれてあります。
罪というものは恐ろしいものなのです。
なぜかというと、罪には必ず神様の怒りが下るからです。

多くの人が罪の奴隷として、「今さえ良ければ」と、目の欲や情欲、その中で皆が生きているので
罪の認識がないです。

この世が全てであるならば、それで(罪が)無になれば良いのですが、そうではないです。
私たちが肉体を脱ぎ捨てる時は、神様の裁きの座の前に立ち、自分たちが無意識に犯していたことまでも
神様が引っ張り出して、それに対して神様の怒りが下ります。

犯罪人が罪を犯している時には、自ら好んで罪を行います。捕まらない限り、何度も繰り返します。
しかし捕まって裁判にかけられて「あなたの罪は終身刑だ。」と一生 刑務所から出られないとわかると
その時に初めて自分が犯した罪の重さに気付き、心が痛くなります。
しかしその時に悔いても既に手遅れです。

この世の刑務所に入らなくても、死んで自分の罪が暴かれて刑罰が下った時には、
いくら胸を叩いて悔い改めても地獄から出られることはないです。

その時に私たちが泣く者になるのではなくて、今 砕かれた心にならなければならないです。

【詩篇38篇1-10節】

罪に気付いて、その前で砕かれた魂になっている姿です。それが神様が喜ぶ姿であります。
私たちは自分たちが犯した罪に対してこのような思いで祈ったことがあるでしょうか?
「私は何という罪人でしょうか」。それが本当に自分の中で起こされている人は、
神様はその人を見捨てることがないです。

【詩篇34篇18節】

他人から受けた傷のために悩みをもって苦しんでいる人は世の中に数えきれないほどいます。
呟きながら誰かを憎んで苦しんでいる人、神様はそういう人達に目を留めるのではないです。
人は、他人からされたことに対しては心に刻んでいつまでも覚えているのですが、
自分が他人にしたことや自分が神様に犯した罪に対しては蓋を閉めて
「そんなことはしていない」と 言います。これは多くの人間の姿です。

心が砕かれた人は、他人を見るのではないです。他人が自分にしたことを見るのではなくて、
自分そのものが罪人であるんだ、と自分の姿を見て悲しみ、苦しむ人であります。

【ローマ7章15-19、24節】

罪は、聖霊様に反抗するものです。そして神様に従わないようにします。
心が砕かれた者というのは、霊的に貧しい者たちであります。
貧しいということは、いつも神様にすがりつく思いで頼ります。

【ヨハネの黙示録2章9節】

【ヨハネの黙示録3章17節】

心砕かれた者たちは自然と謙遜になります。心の高慢な者は感謝をしないです。
神様は日々心を痛めながら、神様の憐みや恵みに感謝をする人に目を留めてくださいます。

【イザヤ書66章2節】

こういう人達を神様は喜んで天の御国に入れてくださいます。
私たちは神様の恵みや救いを軽く考えてはいけないです。もしも軽く考えるならば怒りが後で来ます。
罪に気付くこと、そして心を砕くということは、自分が生きる道なのです。

クリスチャンは恵みのことを考える時に、自分の罪がどれほど重たいのかを考えるべきであります。
罪がない人のような顔をして平気に生きるのは、まだ自分の罪の姿を見ていないことです。
他人のことを非難しながら、自分の中に汚れや腐敗している姿に気付いていないです。
これでは十字架をまともに見る事もできないです。

神様は心砕かれた者に目を留めることをしっかりと覚えてください。
毎日、自分の心を打ち砕くことが魂を聖く守っていく方法であり、神様が共に歩んでくださいます。 (´;ω;`)

2013.1.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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