からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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苦難

岩のように揺るがない信仰が必要

テーマは 『 岩のように揺るがない信仰が必要 』 です

【第1テサロニケ3章7-8節】

このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。

あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。

信仰については今までたくさん話してきました。

信仰にも色々な信仰があるからです。


どんな逆境にも乗り越える信仰があれば、小さな試練にも すぐ倒れる信仰もあります。


ある信仰は主に褒められましたが、ある信仰は主に非難されました。

力ある信仰があれば、死んだ信仰もありました。


深く根を下ろした信仰もあれば、根が浅く すぐ消えていく信仰もあります。


なぜ私たちは主にあって堅く信仰に立つ必要があるでしょうか?




永遠に生きるために




イエス・キリストに対する信仰は 神の恵みを受け、その魂が救われ、いのちを得ます。


それから その人は “義人は信仰によって生きる” という主のことばのように、信仰によって生きなければなりません。


主に対して変わらない信仰をもって、主の前に立つ時まで生きると 主から永遠のいのちを受けます。


過去にあった一時的な信仰で 将来の永遠のいのちを受けるのではなく、人生の最後まで主にあって変わらない信仰を持つ者だけが永遠のいのちを持ちます。




罪に勝つために




罪は、たましいに対しては “致命的” なものです。

それは のろいと死をもたらします。


聖徒たちに罪を犯させるために、サタンが日々どれほど巧妙に しつこく強く働いているか分かりますか?


何とかして聖徒を倒そうと、サタンは日々奮闘しています。

良いことならば問題ないですが、その反対に とにかく信じる者を誘惑して 罪に倒すことだけを考えています。


それなのに聖徒が それに気づかないならば、その誘惑に敵対することも出来ず、必ず倒れてしまいます。


私たちが目をさまして身を慎んでいないと、このサタンに勝つことは不可能です。


罪の誘惑は 飽くことを知りません。

一度警戒して勝利しても、それで終わりではありません。


形を変えて すぐ違う誘惑が来ます。

誰でも罪の誘惑に陥るならば、深刻な結果をもたらします。


【箴言11章19節】

このように、義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る。

死ではなく、命を得るためには “サタン と 世” に勝たないといけないです。


勝つためには 堅く信仰の上に立つことです。 “信仰” という 大盾が必要です。




患難の中で揺れないために




私たちの人生は、いつも平坦な道ばかりを歩くのではないです。

悲しみの道、苦しみの道、笑いの道、平坦な道を歩く時があります。


しかし、いつも私たちを助けておられる力ある主に頼り、信仰の上に堅く立つ時に、聖徒たちは どんな苦難や患難の中でも 信仰が揺るがされず勝利することが出来ます。


激しい苦難や迫害の中でも忍耐出来た聖徒たちは 何によって耐えることが出来たでしょうか?


彼らが特別に強い人間だったからですか?
それとも、何か特別な力があったからでしょうか。

彼らも普通の人間でした。


彼らが持っていたものは、“揺るがない信仰” だけでした。


それが彼らを激しい迫害の中でも 忍耐出来るようにさせました。


信仰をもって生きる時に、サタンは必ずその人を狙います。

それを恐れるならば、信仰生活を維持することは出来ません。


主が語ったことばを思い出しましょう。


【ヨハネの福音書16章33節】

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」


患難の中でも 主のみこころを行いながら耐えているならば、主は必ずその人を新しい天と地に導いて下さいます。

それが主の約束です。


目に見える宗教儀式だけに熱心で、神との深い関係がない “形式的な信仰” では いのちを得ることは出来ません。


主の中にある まことの信仰の中に深い根をおろした人だけが “勝利者” になります。


その信仰を見せる人だけが主に認められます。
(☆゚∀゚)


2017.4.30
聖日礼拝メッセージ

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信仰の試練

テーマは 『 信仰の試練 』 です

【ヤコブ1章2-4節】

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

【ヤコブ1章12-14節】

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

今回は “信仰の試練” に対して 神の言葉を伝えます。


本文の中には何度も “試練や誘惑” という言葉が書かれていますが、よく読んでいくと それぞれ意味が違うので、そのことを理解する必要があります。


信仰には “試練” がつきものです。

試練に会って、「どうして私に?」と思うのではなく、「来るべきものが来たのか」と肯定的に捉えることが必要です。


なぜならば、その試練が悪いものではないからです。


どのような意味があるのかを学びます。




・私たちを完全な者にするための試練




ヤコブ1章2-4節に出てくる試練は、“私たちを鍛錬するため” の試練です。


聖書に出てくる信仰の人たちは、皆 この試練を受けました。
これは、鍛錬のためのテストです。


代表的な人物はアブラハムです。

創世記22章にアブラハムが受けた試練がありました。
それは神から来た試練でした。


【創世記22章1-3節】

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

ある日、突然ふりかかった とんでもない試練でした。

アブラハムへの信仰のテストでした。


自分の思いを優先するならば、神に従うことが出来ません。

親として愛する自分の子どもを殺すことは出来ません。


しかし 信仰で考えるならば、どんなことであれ 神に従うことが優先です。


信仰のテストは (自分の思いではなく)信仰を選ぶならば、すぐに正解を出せます。
(神から)言われた通りに従えば 問題がないです。


どちらが正解か と迷う必要もありません。

しかし肉の思いで悩むと さらに苦しくなり、神と戦うようになり、だんだんと心が不信仰に傾くので、最後には不正解を選ぶようになります。


アブラハムはどうでしたか?

それまでも神の言葉に従って歩んで来たアブラハムは、今回も信仰による決断しかしませんでした。


すぐに支度をして翌朝早く 示された場所に向かい、イサクを言われた通りに全焼のいけにえとしてささげようとしました。

その瞬間、「アブラハム。アブラハム」と彼を呼ぶ御使いの声がありました。


初めは「アブラハムよ」と呼びかけましたが、次は「アブラハム。アブラハム」と呼びかけ、緊迫したようにも聞こえます。

アブラハムが刀を取って自分の子を殺そうとしたのが あまりにも本気だったからだと思います。


アブラハムは前回と変わらない答えでした。
「はい。ここにおります。」

御使いは次のように仰せられました。


【創世記22章12節】

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

信仰の試練は、神が第一なのかをテストします。

神が一番でないならば、その信仰は 神が喜ぶ信仰ではないです。


その人にとって “一番” になっているものが(その人にとっての)神であり、それは偶像の神です。

そのような人は偶像崇拝をしており、信仰は “形だけ” です。


ですから、試練を与えてテストをすると分かってきます。

人間はいつも変わるので、時々試練を与えてテストをする必要があります。


この信仰の試練によく耐える人は ますます信仰が強くなり、さらに神を愛し、神を恐れる人になります。


だんだんと信仰のレベルが上がっていき、強度が強くなります。


アブラハムは この試練に耐えたので、“信仰の父” になりました。

このような試練は、私たちを成長させ、豊かにし、完全な者にさせます。




・イエスを信じることによって来る試練




ヤコブ1章12節のみことばです。

『試練に耐える人は幸いです。』


ここでの試練は “苦難、患難、迫害など” です。


試練を持ってくるのは神ではなく、悪魔です。

神に敵対する悪い勢力を悪魔が使って試練を与えます。


キリスト教は長い間 迫害を受けました。

新約聖書が書かれた時代は 激しい迫害がありました。

その時代に一番迫害と試練にあったのは、使徒パウロでした。



【第2コリント1章8-9節】

兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、

ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

主の弟子たちは、試練に対してとても肯定的な思いで受け取っていました。


その試練によってイエス様の苦難にあずかる者になったことを喜びましたし、その試練によって肉の思いが砕かれ、もはや肉に頼る者ではなく、神に頼る者になることを期待しました。


ペテロもそのように試練を捉えていました。


【第1ペテロ1章6-7節】

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。

この試練は悪い者たちによって受ける試練ですが、神はそれを善に変えて下さいます。


その試練に信徒が忍耐して 信仰を守り通す時に、素晴らしい報いを与えて下さいます。


それはいのちの冠で、最も価値ある報いです。


ですから、試練が来た時に 喜んで受け入れないといけないです。

それによって大きな報いが与えられるからです。





・私たちを倒そうとする誘惑




これは ヤコブ1章13-15節にある誘惑です。

この誘惑は 神から来るものではないので絶対受けてはならないです。

これはサタンが私たちを悪に誘う誘惑です。


今の日本では迫害は ほとんどないですが、この誘惑はたくさんあります。


激しい迫害に耐えた人でも この誘惑に負ける人がいます。

サタンが アダムとエバを倒したのは、まさに この “誘惑” でした。


目の欲、肉の欲を刺激しました。

刺激されたエバが善悪の木を見ると どうなったでしょうか。


【創世記3章6節】

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

誘惑に負けた姿です。

誘惑された時に すぐさまサタンを追い出さないで、好奇心で見るならば 必ず誘惑に負けます。

見た瞬間に心にある欲が目覚めて誘惑と結びつき 罪を生み出します。


誘惑は罪を犯させるためにサタンが仕掛けた罠です。


それに引っかかると必ず罪を犯します。


立派な信仰を持っていたダビデが倒れたのも、1人の女を見て誘惑されたからです。

目の欲に揺れた時に サタンを追い出せば良かったのに、それをせず女を連れて来させたので、そこから信仰が転落していき、そのことでダビデがどれほど辛い日々を送るようになったか分かりません。


誘惑は本当に気を付けないといけないです。
サタンは欲につけ込みます。



女の欲があるならば 女で誘惑します。

名誉、地位、情など色々な誘惑のパターンがあります。


自分が持っている欲はすべてサタンの標的になります。


この誘惑に負けないためには2つの方法があります。

神の武具を身に着けて誘惑が来た時に戦うことです。

サタンを追い出します。


誘惑されると罪を犯すので神は血を流すまでは戦いなさいと言いました。


いつも神の武具を身に着けて警戒することです。


そして自分の中にある様々な欲を打ち砕いて捨てることです。

それには霊的訓練が必要です。
知識ではなく実践です。


自分の欲と戦い、試練の中で実践をすることです。

自分の中にある欲を捨てないと いつまでもサタンは誘惑を止めません。


ですから自分がしんどくなり、誘惑と欲に疲れ果ててしまいます。


霊的訓練で内側にある欲を取り除かないといけないです。

生きている限り、信仰の試練はあります。


試練があって当たり前と思って下さい。

しかし それは悪いものではなく、私たちに必要であることを認識して、逃げず、文句を言わず、耐え抜いて勝利して下さい。

そうすると必ず成長しますし、神からも良い報いを受けます。
(・∀・)つ

2016.2.28
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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感謝が人生を変える

テーマは 『 感謝が人生を変える 』 です

【詩篇136編1-3節、23-26節】

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。

主の主である方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。


主は私たちが卑しめられたとき、私たちを御心に留められた。その恵みはとこしえまで。

主は私たちを敵から救い出された。その恵みはとこしえまで。

天の神に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。

今日は収穫感謝礼拝を主に捧げます。


あと1か月半で今年も終わります。あっという間です。


主から受けた恵みを全部覚えていますか?

感謝をしましたか?


昨日パリで連続テロ事件が起こり、世界をびっくりさせました。

フランスにとっては悪夢の日でした。
百何十人が死亡し、多くの人が負傷しました。

テロは突然 何の前触れもなく起こり、多くの尊い いのちが突然奪われました。


6ケ所でテロが起こりましたが、コンサート会場で一番多くの死者が出ました。

アメリカのロックバンドのコンサートでしたから、犠牲者の多くは若者だと思うので、短い人生で終わった人が多かったと思います。


最近はテロ爆発事件で亡くなる人も多いので、自分が いつどこで人生が終わるか分からないです。


人生は短いです。

その人生をどのように生きるかがとても重要です。

ある人たちは人生がいつまでも続くと勘違いしながら生きていますが、人生は短いです。


歳を重ねていくと人生はさらに短く感じます。


しかしある意味では人生は長いです。

まだまだ夢のために、ビジョンのために生きる時間が残されているからです。

そして死後の世界もあるので、その意味で人生が終わることはありません。


「人生とは何か」を論じても それはむなしいですし、答えるのも難しいです。

しかし日々をどのように生きるかによって、人々は自分の人生に対しては答えを出すことが出来ます。


何よりも良い人生を造り出すためには、感謝に優れていないといけないです。


感謝が多い人はまず表情が明るいし、肯定的な人生を生きていますので、幸せオーラが出ています。


反対に 感謝せず、何かと不満が多い人は 表情が険しく、不幸がにじみ出ています。


どちらが良い人生であるかは、見た目でも判断が出来ます。






今回は “ 感謝が人生を変える”  ことに対して話します。


詩篇136編は神の前で感謝をする みことばです。


この箇所には感謝の原理があります。

1節から26節まで 感謝の内容が並べられていますが、神からの受けた多くの恵みを思い出しながら、1つ1つ感謝する内容でした。


主が良くして下さった恵みを忘れないことは良い事です。


しかしそれを神の前に1つ1つ取り上げながら感謝することは神がとても喜ぶ事です。


人間関係においても、もし過去に人から受けた恵みを忘れず、何年後でも相手に感謝を忘れていないことを伝えると「昔のことなのに、未だに覚えているんですか?」と驚きながらも嬉しい気持ちになります。


しかし受けた恵みに対して覚えておらず、感謝のことばも無いならば どのような気持ちになりますか?

これからは何もしないと心で決心しますし、したくなくなります。


皆さんは受けた恵みをよく覚えていますか?

そして感謝もしていますか。

感謝は日々の生活の中から生まれて来なければなりません。


私たちの日常は毎日がお祭りではありません。

平凡であるから、感謝そのものを忘れることが多いです。


特別に良いことがあると感謝しやすいですが、そうではないと感謝することもなく、1日が終わることが多いでしょう。


しかし平凡な日常の中でも感謝することを捜して感謝することが大切です。


私たちは食事の時に食べ物に対して感謝の祈りをします。
それは本当に感謝な事です。


イスラエルの民は40年間 荒野を通りましたが、その間ずっと神が与えた特別な食べ物・マナを食べて生きました。


最初は喜んで感謝して食べましたが、しかし しばらく経たないうちにマナに対して悪く言い始めました。

「こんな みじめな物は食べたくないし、もう飽きた。」
感謝が消えて、文句を言いながら “ 肉が食べたい ” と要求しました。


しまいには、奴隷の時を懐かしく思いました。
それには神様もびっくりでした。


もしマナが毎日与えられなかったならば、イスラエルの民は全員荒野で飢え死したと思います。

それは彼らにとっては いのちのパンでした。


しかし毎日与えられると、それが当たり前になり、感謝することもしなくなりました。


昔より今は食べ物が豊富ですが、昔より食べ物に文句を言う人が多いです。

毎日 食べ物があることは すごく感謝で、毎日ご飯が食べられることは素晴らしい恵みです。


神戸地震の時にいつも冷たいおにぎりばかりを食べていた避難民たちは 温かいご飯を食べた時にしみじみと温かいご飯のありがたさを感じました。


そのように平凡な日常の中に感謝なことは たくさんあります。


まずは平凡な日常の中で感謝するものを捜して感謝することです。
それは目に見えるものだけではありません。


昨日 電車で帰る時に、どのような感謝があるのかを考えました。

そしたら正常に呼吸していることが感謝でした。

以前、呼吸困難になったことがありました。


息をすることの しんどさを初めてその時に感じました。

苦しくて酸素缶を買い、酸素を吸いました。1本1000円でしたが、2本買って吸いました。

少しは楽になりましたが、高かったです。


お金も支払わず、タダで空気を吸って呼吸していることは、実はすごく感謝なことです。


見えること、聞こえること、歩けること、話せることも大きな感謝です。


ですから、探せば 感謝出来ることがいくらでも出てきます。

失ったものや、無いものばかりを考えながら生きると、感謝が出て来ることはないですが、あるものに目をとめると、すべてが感謝に変わります。


人生の晴れの日に感謝するのは一般的です。


しかし、人生の雨の日に感謝ができるのは 聖霊充満な人生です。


そのためには普段から すべてを主の手にゆだね、たとえ最悪の状況に出会っても感謝をすると、自分の心に決めておくことが大切です。


なぜなら主の約束のことばがあるからです。


【ローマ8章28節】

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

約束を信じて、心の準備をしておかないと、最悪の時に信仰が揺れ動いて倒れやすくなります。


そして私たちの感謝の出発は「主は慈しみ深い方であり、その恵みはとこしえまで」と信じる信仰からです。

信仰と感謝は比例します。


信仰の目で見ると感謝することがとても多いです。

神様に対する信仰が強いと感謝もそれに比例して多くなります。






神はどのような方ですか?
世界で一番偉大な方です。


神の神、主の主とは、神の偉大さと絶対主権を現すことばです。


人間の力と努力だけで、何かを成功させることは出来ないです。
神の恵みなしにすべては不可能です。


尽きない神の恵みがあって すべてが動いていますし、祝福されています。


苦難と問題の中にいる人が、今 いるかも知れません。


しかし人生の問題は、視覚と思いと信仰の問題です。

信仰があるので すべてが栄え、問題も起こらないとは神が約束していないです。


何があってもいつも喜び、絶えず祈り、すべてについて感謝するのが信仰だと教えました。


太陽の光も、苦難の雨も聖徒たちに降ります。

それは苦難の中で 私たちの人格を整え、肉の視覚を信仰の視覚に変えるためです。

試練の中で聖徒たちは変わっていきます。


イエス様に似る者にするために、“試練”という炉を通ります。


様々な問題の炉を通りながら、内側にある不純物が取り除かれ、聖くなり、悟りを得、問題を克服していく過程の中で さらに成熟していくことが多いです。


ですから、私たちが試練の荒野を通る時には、環境の変化を祈る前に、自分自身の変化のためにまず祈ることです。

また、どんな環境の中でも感謝出来る者になれるように祈ることです。

自分が変わると環境も不思議に変わります。


しかし自分が変わらず、文句ばかり言うならば試練はさらに厳しくなります。

苦難を克服する最善の道は、すべてに感謝する事です。


苦難を“自分が成長するチャンスだ”と信仰で受け止め 感謝すると、信仰も成長し、神様もその人を助けて祝福して下さいます。


感謝をする時に、人生は変わります。


私たちは生まれた時に何も持たずに生まれましたし、何も持たずに世を去ります。


欲深い人は感謝が出来ないですし、その人生は幸せにはならず、むなしい人生で終わります。


しかし小さなことに対しても感謝をする人は、感謝することが多いので、自分の人生をますます幸せにしていきます。


肉の視覚と思いで足りないもの、あらさがしをすると不満がますます増えていきます。

しかし視覚と思いを変えると、不満だったことを感謝の条件に変える事が出来ます。


世を見ると絶望や失望することが多いので、希望が見えてこないです。


しかし目をイエス様に向けると希望が生まれ、喜びが生まれ、感謝が生まれ、平安な心になります。

このように自分の視覚を変えると、人生も変わります。


世界で起こっていること、自分の人生で起こっていることを、神に信頼しながら、信仰の視覚で見ると違って見えます。


神様はすべての状況をすぐにでも変える力がある方ですが、良い目的をもって沈黙を守る時があります。

イエス様が十字架で苦しんでいる時も、神様は沈黙を守りました。

それは、イエス様の死が 人類の救いのために必要であったからです。


もし試練があるならば、そこに神の良い目的があることを信じて感謝してみて下さい。

いつかそれがはっきり分かる時が来ます。


自分は幸福ではないと言う人たちも多いです。

もちろん色々な原因があると思いますが、感謝が足りないことも原因の1つです。


感謝が足りないと魂が渇きますし、感謝はたましいに潤いを与えます。


そして感謝は幸せと祝福の扉を開ける鍵です。

ですから感謝する心は環境を変えますし、さらに人生を変えます。


また、さらに神のみこころも計画も変えることが出来ます。

懲らしめが恵みに変わることがあります。


すべてのことについて感謝することを習慣化して下さい。その感謝によって幸せが訪れ、奇跡が起こります。


感謝は神との関係も人との関係もよくします。

そして神を喜ばせ、人も喜ばせることが出来ます。


感謝のことばが口から絶えることがないようにしましょう。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2015.11.15
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聖書に出てくる地域教会①

テーマは 『  聖書に出てくる地域教会① 』 です

【使徒の働き8章1節】

サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

聖書に出てくる地域教会に対して、今回と次回の2回にわたってメッセージを伝えたいと思います。


ヨハネの黙示録に出てくるアジアの七つの教会に対してはよく聞きますが、それ以外の教会もありますので、今回は七つの教会以外の教会はどのような教会であったのかをみて、自分たちの教会も良い所は学びたいと思います。


イギリスに留学中の韓国留学生たちが、宣教師と教会を探していました。

イギリスには古くから大きな教会がたくさんありますが、
彼らが使わない時間に教会を借りようと思い、ロンドンにある多くの教会を訪ねました。


すると、すべての教会の責任者たちから まず最初に聞かれたことは、“賃貸料としていくら支払うのか?”でした。


なぜ皆が同じ事を聞くのか、だんだんと不思議な気がして来ました。

どうして教会がお金のことを先に聞くのかと思い、その理由を聞きました。


そうしたら、どこの教会も貧しいので冷暖房を使うことが難しく、もし冷暖房を使用するならお金が必要である為、お金のことを先に聞いたと言われました。


教会の建物は立派ですが、信徒は年寄りばかりで 前から2列目まで人が座り、その後ろは空席状態でした。

イギリスは18世紀から19世紀にかけて信徒が多く、世界的に有名な説教者たちも多かったです。

スポルジョンの教会には6千人の座席があり、世界中に宣教師たちも送りました。


しかし、今はどこの教会も人が少ないので、以前のような輝きは完全に消えてしまいました。



反対にイスラム教を信じる人がすごく増えて、教会の建物までイスラム教が買い占め、建物はそのままで、十字架だけを取り除き、そこにイスラム教のシンボルである三日月を飾っています。

三日月は発展を意味します。


モスクに違和感を持っているヨーロッパ人が多いので、教会を買ってそのようにすると 周りの人がモスクだと気付かず、教会だと思っているようです。


イスラム教徒は世界で4人に1人です。
日本でも外国人を含めて11万人のイスラム教徒がいます。お金の力でどんどん浸透しています。


このような時代ですので、教会がしっかりしないと 後でとんでもないことが現実に起こります。


リバイバルした時代の教会の姿が聖書に出てくるので、それを学んで初心に戻らないと、すべての教会が衰退すると思います。


信徒の数が増えるのもリバイバルですが、霊的に強くならないと サタンやこの世に潰されてしまいます。


ですから、その時代の教会の姿をしっかりと学び、受け入れるべきものは受け入れたいです。
今、とても弱さを感じていますので、教会が変わって欲しいと思います。


これから初代教会の姿をみていきます。




エルサレム教会




エルサレム教会は聖霊降臨の後に最初に出来た教会で、霊的に一番強い教会でした。

教会の指導者たちが主の弟子たちでした。


【使徒の働き2章40-47節】

ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。

そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。

信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。

そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。

そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

特徴としては、聖霊の働きが活発で 多くの奇跡が起きたこと、そして主のことばに対する全き従順、信徒たちの深い交わり、霊的祝福を何よりも求めた教会でした。


そして評判の良い教会でしたので、毎日救われる人がたくさんいて、爆発的なリバイバルがありました。

しかしこのような状態は長く続きませんでした。

サタンによる激しい迫害が始まり、それによって使徒たち以外はエルサレムに留まることが出来ず、諸地方に散らされていきました。


散らされた人たちは、ただ逃げたのではなく、みことばを宣べながら巡り歩きました。

そして彼らが行く町に奇跡が起こり、大きな喜びが起こりました。


しかし迫害によって使徒ヤコブが殉教し、他の使徒たちも苦難を受け、多くの信徒たちも苦難や殉教をしましたが、その中でも彼らは喜んでいました。


最強の教会でした。


それが出来たのは、信徒たちが聖霊に満たされ、みことばに満たされ、伝道に熱い思いを持っており、神の国とその義とを第一に求めたからです。


これは心を神に向ける時に可能ですので、私たちが学ぶべき姿です。


形式的な信仰生活では、迫害にすぐ倒されてしまいます。

そのような信仰生活では聖霊に満たされることも、従順することも、使命に燃えることも出来ません。


私たちにはこれが足りないと思います。
形式的で生ぬるい信仰がとても多いので、悔い改めが必要です。




アンテオケ教会




次はアンテオケ教会の姿です。


【使徒の働き11章25-26節】

バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、

彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

アンテオケはローマ帝國で、ローマ、アレクサンドリアに続いて 3番目に大きな都市で人口は50万人いました。


アンテオケ教会に初めて異邦人伝道の基地が設置され、バルナバとサウロ(=パウロ)がそこで人々を教えました。

ここは異邦人教会の中心地であり、宣教基地でした。


この時、初めてキリスト者と呼ばれたということは、キリスト教がユダヤ教とは完全に区別された新しい宗教であると認められたことを意味します。

それまでユダヤ人は、キリストを信じる者を “ナザレ人”や“ガリラヤ人”と呼んでいました。


アンテオケ教会は、断食と祈りをしながら聖霊の導きを受けて、正式にバルナバとサウロを宣教師として派遣しました。

そしてこの教会は 愛がある教会で、ユダヤにいる信徒たちがききんのために困っている知らせを聞くと、それぞれの力に応じて救援物資を送りました。


アンテオケ教会は霊的に成長し、数においても大きく成長した教会でした。

教えられたみことばをよく守り、よく祈り、愛の労苦があったのでリバイバルしました。


数は多くても霊的に弱い教会も多いですが、アンテオケ教会はバランスの取れた教会でした。




カイザリヤ教会




カイザリヤ教会に対しては知らない人も多いと思います。

カイザリヤは地中海に面した所にありますが、ここはエルサレム教会の執事であったピリポの故郷でした。


ピリポはエルサレム教会で最初に選ばれた7人執事の1人でした。

その時に選ばれた執事の条件は、「御霊と信仰と知恵に満ち、評判が良いこと」でしたが、7人の中で一番活躍したのはピリポでした。


彼の活躍は使徒の働き8章に書かれていますが、たくさんの奇跡を行い、誰よりも伝道に熱心で、至る所で福音を伝えました。


【使徒の働き8章40節】

それからピリポはアゾトに現れ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。

自分の故郷へ行って教会を設立しました。

私たちもこの姿勢を学ぶべきです。
直接私たちが行けないならば、自分の故郷に教会が出来るように祈ることです。


日本人はキリスト教に対して興味がなく、無関心な人がとても多いです。


しかしキリストを信じている人は、その人たちに関心を持って自分たちの故郷にも教会が出来るように祈ることです。


教会がないと、たとえ救われたとしても礼拝する場所がないので困ります。

私たちはピリポのように、執事でも このような立派な働きが出来ることを知って挑戦することです。


牧師だけが教会を建てるのではなく、信徒たちも出来ます。
熱心に伝道したら教会が建ちます。


神戸教会は魂が救われてから出来た教会でしたし、私も信徒の時に教会を開拓しました。


熱心に伝道する信徒がいると、教会はリバイバルしますし、伝道しないとリバイバルはないです。


伝道して下さい。たましいにみことばを伝えて下さい。
そうすると聖霊が働きます。




ローマ教会




伝承によれば、最初 ローマに福音を伝えたのは、バルナバと言われています。


この教会は、ローマ帝國の最大都市であるローマに出来た教会でした。

人口が80万人もいる大きな都市でした。

皇帝が存在し、多くの神殿がありましたし、帝國らしいあらゆる設備が整った大都会でした。


ローマ教会の構成は、ユダヤ人と異邦人が混ざっていましたが、異邦人の方が多かったです。


ユダヤ人と異邦人が一緒にいることで、教会の中には様々な摩擦がありました。

間違えた律法主義信仰を持ったユダヤ人と、それとは反対のキリストにある自由を強調する異邦人の間で意見の衝突がありました。


ローマ書は キリスト教の教理が一番書かれていますが、それは教会の問題点を解決するためにパウロが、救いや信仰、律法、キリスト者の生活全般に対して詳しく教えました。


ローマ教会だけではなく、異邦人がいる教会では同じ問題がありましたので、代表的存在であるローマ教会に教理を伝えました。

ローマ教会は地理的な面もありますが、異邦人教会の代表的な存在になっていきました。


ネロ皇帝は自分でローマ市に火をつけておきながら、その犯人がキリスト教徒であるとして大迫害を加え、焼き殺しました。

また何人かの皇帝によって激しい迫害があり、信徒たちは地下に潜るようになりましたし、その迫害の中で多くのキリスト教徒が殉教し、ペテロもパウロも殉教しました。


それでも信徒たちは信仰を捨てることをせず、命を懸けました。

やがてキリスト教はローマ帝國で認められるようになりました。


ローマ教会をカトリック教会の始まりと思っている人がいますが、それは大きな間違いです。
なぜならば、カトリック教会に初代ローマ教会のような姿はありません。

(初代教会は)ペテロを法王にしたこともないですし、巨大な権力も富も持ちませんでした。


ローマ教会の信徒たちは、信仰のために貧しくなり、権力にも妥協せず、迫害され殺されていきました。

それはカトリック教会とはまったく違う姿でした。似ても似つかない姿です。






これからの時代は、世の権力と富と他の宗教との戦いが激しくなる時代になります。


すでに韓国でもイスラム教が学校の中でも、色々なところでぶつかっています。

とても怖い時代になってきました。


私たちは、聖書にある教会が それらの戦いの中で生き残ったことを見ながら、信仰を強め、聖霊に満たされ、みことばに堅く立って、ますます愛し合い、助け合わないと教会はだんだん衰退して消えていきます。


「この教会が潰れたら、他の教会に行けば良い」と思うのは、神も教会をも愛していない姿です。


ますます主のために良い働きが出来る教会になるように、力を合わせないといけないです。


信徒が教会に無関心であるならば、未信者よりも悪い姿です。


初代教会はとても霊的に強い教会で、神の言葉に対しても よく聞き従順していました。
そして迫害にもよく耐えました。


主の再臨が近づいているので、私たちは目を覚まして、神の働きにも力を入れて、教会を強め、魂に対しても関心を持ってみことばを伝え、それぞれが出来ることをしていきましょう。


この世の流れがとても不気味です。
イスラム勢力は拡大してきています。


クリスチャンとして生きにくい時代になっています。

生ぬるい教会では飲み込まれてしまいます。


生ぬるい信仰では妥協して名ばかりの信仰になり、迫害があると“主を知らない”と言います。


必ずその時代が来ますので、危機感をもって信仰生活をしましょう。
(・◇・)ゞ


2015.7.12
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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ダニエルを助けた神様

テーマは 『 ダニエルを助けた神様 』 です

【ダニエル書6章19-28節】

王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。

その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」

すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように。

私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」

そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出られたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。

王が命じたので、ダニエルを訴えた者たちは、その妻子とともに捕らえられ、獅子の穴に投げ込まれた。彼らが穴の底に落ちないうちに、獅子は彼らをわがものにして、その骨をことごとくかみ砕いてしまった。

そのとき、ダリヨス王は、全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに次のように書き送った。

「あなたがたに平安が豊かにあるように。私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神、永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。

この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇跡を行い、獅子の力からダニエルを救い出された。」

このダニエルは、ダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えた。

聖徒たちが特別な理由もなく苦難を受ける時があります。

また、神様をもっと信じようとする時に、大きな苦難にぶつかる時もあります。


「なぜだろう。神様は私を本当に愛しているだろうか。私を助けて下さるだろうか。」と思う時もあります。

しかし聖書では 信仰の先祖たちも問題にぶつかり苦難の時があったことを知ることができます。
その時、彼らは立派な信仰を見せました。


苦難に会って何をどうしたらよいか分からず 右往左往する弟子たちの姿を見て、イエス様が「なぜ恐れるのか。信仰の薄い人たち」と言われたことがありました。

そのことばでも分かるように、どんなに大きな苦難や試練に会っても、しっかりと信仰の姿勢を見せると神の奇跡を体験することが多いことを聖書で発見することが出来ます。

ですから試練の時は聖書に出てくる信仰の人物を通して、どうすべきかを学ぶことができます。


ダニエルは私たちが学ぶ事が多い信仰の人で、神にも人にも認められた人で、彼は忠実で 何の怠慢も欠点もなく人間としても素晴らしい人でした。

捕虜として連れて来られた者でありながら、その優れた知恵と悟り、また忠実さによっていつの間にかバビロンの総理にまでなりました。

それは神の祝福でもあり、彼が王に信頼されているしるしでもありました。


また彼は祈りの人で、日に三度いつも神様に祈りをささげ、とても敬虔な信仰を持っていました。


しかし、このように祝福されていたダニエルに思いがけない大きな試練が来ました。

それは罪によるものでも、神からの試練でもなく、彼の出世を妬んでいる政治家たちの陰謀による試練でした。

その者たちの心にはダニエルに対する激しい妬みがありました。
サタンも妬みのある人々を使ってダニエルを倒そうとしました。


ダニエルを倒すために彼らが考え出した策略は次の箇所に書かれています。


【ダニエル書6章7節】

国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施して下さることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。

ダニエルを妬んで彼を倒したい人たちは、高い地位にいるすべての人がまるで賛同したかのように嘘をつき、また自分たちが王に忠実な者であるかのように偽って、王の高慢な心と名誉欲をそそりました。

そして王であるダリヨスは、軽率にもその禁令を承認しました。

その禁令によって (ダリヨスが)大事にしているダニエルを殺すための策略であることも、王はまだ気づいていませんでした。

そしてダニエルはその禁令によって信仰の試練に会いました。


いつも通り、1日3度神様に祈るべきか、それとも1か月間 祈りを休むかを決めなければなりませんでした。

神様を第一にして生きる人にとって、これは大きな試練です。

信仰の薄い人や信仰がない人には何の問題にもならない禁令です。
なぜならば1か月間 祈りを休めば済むことなので悩む必要もないと思うからです。

しかしダニエルのように信仰深い人にとって、祈りは 神との会話であり、霊の呼吸なので、1か月どころか1日でも止めることが出来ない大きな問題でした。

これは呼吸を止めることと同じなので出来ないことです。


特にダニエルは、決まった場所で窓を開けてエルサレムに向かって祈りをささげる規則正しい信仰生活をしていましたし、いつも感謝を捧げていました。

そして禁令が出た後でも、何事もなかったかのように いつも通り祈りをささげていました。

それは“信仰を捨てることも、神に黙っていることも出来ない”というダニエルの意思表示でした。

これによって彼がどのような信仰を持っているのかがはっきりと分かります。


そして私たちが学ぶべき信仰の姿勢があります。

権力や富を得るために罪のない人を殺そうとする人もいますが、それを手放しても信仰を守ろうとするダニエルのような人は、自分のいのちをすべて支配している神に委ねます。

このような人は死をも恐れません。


信仰には必ず勇気ある実践が必要です。

都合が悪い時に退く信仰では神を喜ばせることが出来ません。


信仰は隠すものではありません。


ダニエルの信仰はとても勇気あるものでした。


【マタイの福音書10章28節】

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

【ヘブル10章39節】

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

敵がいくら悪い方法で攻撃をしてきても、熱心に善を行いながら対処するダニエルは素晴らしい人でした。

その時は損をしているように見えますが、後には善を行った人たちが勝利します。


ダニエルは 禁令が自分を殺すためのものであることを知りながらも、「死ぬ時は死ぬんだ」と決心して信仰をもって神様に祈りました。

そして祈る姿が見つかったことで獅子の穴に投げ込まれました。


ダニエルを大切に思っていた王はやっと自分が愚かで軽率な判断をしたことに気づき、ダニエルを助けようとしましたが、結局はその禁令に縛られてダニエルを助けることが出来ず、獅子の穴に投げ込むよう命令を出しました。

それは王にとって辛い決断でした。
王はダニエルのことで一晩中断食をして寝られませんでした。

神様はその時に何をしたでしょうか?


神は、危機の中にいる神の人を見捨てることはしません。


神様はいのちの危険からダニエルを助けるために御使いを送りました。

そして このような形で神様が人を助けるとはだれも想像していませんでした。


決して獅子の穴に入らせないことだけが神の助けではありません。


神様はダニエルが死を覚悟して自分の信仰を見せた後に彼を助けました。

口先だけで 実際信仰の行動がないのに、神を動かすことが出来ると思うことは間違っています。


神様は神に頼る信仰を見たいと願っておられますし、信仰がなくては神を喜ばせることが出来ないと聖書に書かれています。

神様は、聖徒が試練を通して信仰が成長することを願っています。


試練の中でも世に頼らず、最後まで神に頼る時に、神は御使いを送り助けて下さいます。


神様はダニエルが無罪であることを証明して下さいました。

聖徒は神に栄光をささげながら真理も現していかなければなりません。

世の光と塩の役割がある聖徒が 罪を犯して苦しみを受けているならば、それは話にならないです。


しかしダニエルは、自分を陥れようとする悪者たちの策略によって禁令が出来たことを知りました。

ダニエルの前には2つの選択肢がありました。

神の真理を守るか、それとも真理を捨てて妥協しながら死を免れるか。


ダニエルが選んだ道はたとえ死ぬことがあっても、真理を守るといつか神様が自分の真実を証明して下さると信じて大胆に獅子の穴に入りました。

このような信仰が聖徒には必要です。


真実は神によって明らかにされるもので人間によってされるものではありません。


神様は何もかもご存知で、神の目に隠されるものはありません。

たとえ汚名をかぶったとしても真理を守り通すならば、いつか神が真実を証明する時が来ます。

ダニエルの真実は神が彼のいのちを助けたことで証明されました。


ダニエルは獅子の穴で生きていたのでそのことを話しました。

「私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」と、はっきりと語りました。

王はそのことで非常に喜び、そしてダニエルを穴から出すように命じました。


ですから聖徒は理由もなく非難されたり、悪口を言われる時に失望せず、神に任せましょう。
真実が明らかにされる時が必ず来ます。


私もその経験があります。
ある出来事があって2年後に神様は真実を明らかにして下さり、その時は本当に心が晴れました。


神様はダニエルを助けた後に、彼を殺そうとした悪人たちを滅ぼし、ダニエルをさらに祝福しました。

当初ダニエルを訴え、彼が獅子の穴に入ったことを確認した悪者たちは、自分たちの計画通りになり、王様までも騙すことに成功したので勝利の歌を歌いながら大喜びし、自分たちの策略に酔っていたと思います。

そしてこれからは自分たちの思い通りになると考えていました。


しかし彼らを待っていたのは悲惨な結末でした。

偽りと悪を裁く神によって、彼らは自分たちが考えたこともない獅子の穴に投げ出される羽目になりました。
それも家族全員でした。

彼らが投げ込まれた時に、お腹を空かせた獅子たちは飛び上がって彼らを食い尽くしました。


しかし神に助け出されたダニエルはさらに王に信頼され、ますます栄えました。

それだけではなく、王はダニエルを助けた神をほめたたえました。

神のことをよく知らない王であるのに、ダニエルが助けられた姿を見て神を体験しました。

それで全国民に「ダニエルの神の前に震え、おののけ」と宣言しました。
それは神が栄光を受けた瞬間でした。

いのちを懸けたダニエルの信仰が、神の栄光を国中に現す結果となりました。


神様は 神を頼り、離れない者に対しては見捨てることなく必ず守って下さるお方であり、徹底的に守り導いて下さいます。

神がその人の救いとなり、避け所になって下さいます。

神の助けの手は真理を行いながら妥協しない人に差し出されています。


苦難の中で信仰を捨てる人もいます。

しかしある人は苦難の中でさらに信仰が強くなり、さらに神に頼る人もいます。

神に頼り、聖徒に対する神の愛を知っているならば恐れる必要がありません。
神は共におられ助けて下さいます。


もしかしたらその苦難が神を体験するチャンスかも知れません。

ダニエルを助けた神は私たちの神です。

ダニエルのように信頼しましょう。どんな時にも信頼しましょう。
(*´ -`)(´- `*)

2015.6.14
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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苦難の時に何をするのか

テーマは 『 苦難の時に何をするのか 』 です

【ヨナ書2章1-10節】

ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、

言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。 私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。

あなたは私を海の真ん中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。

私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」と。

水は、私ののどを締めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。

私は山々の根元まで下り、地のかんぬきがいつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。

私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。

しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」

主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。

本文には、ヨナという人物が出てきます。
ヨナは預言者です。

この時、彼はどこにいるでしょうか。
魚の腹の中という有り得ない場所にいます。

なぜ彼はそのような場所にいて、ありえない苦しみを受けているのでしょうか。


実際彼が受けている苦しみは、死よりも辛い苦しみかも知れません。

私たちがもし同じ状況の中にいるならば、「なぜあの時に死ななかったのか。死んだ方がましだ。」という思いになります。


なぜなら、息が出来ないことによる肉体の苦しみがひどいからです。
水に溺れている状況なので、まともに息が出来ないです。

肉体の苦しみの中で 痛みがあることも辛いですが、息が出来ない苦しみも相当辛いです。


また、体の身動きがとれない苦しみもとても辛いです。

そして精神的にもかなり辛い状況でした。それは自分が人間世界から隔離されてしまったからです。


地球上での海と陸の割合は7:3です。

昨年失踪したマレーシア航空機が海に消えたと言われて、今も捜索していますが、まったく見付かっていない状況です。

(陸ではなく海の中だと)分かって探しても 見付からないほど広くて深い海という環境が、さらに絶望を大きくします。そこは救助される期待すら出来ない場所です。


霊的には自分が神様から受けた使命を拒んだことで自分の身に降りかかった試練なので、霊的にも追い込まれた状況でした。

『あの時、主の命令通りにニネベに行って神のメッセージを伝えればこんなことにはならなかったのに』 という後悔と神との関係が断絶され霊的にも絶望的でした。

神の命令に不従順した罪の刑罰として海に投げ出されたヨナはすべてに追い込まれていました。


生きているのか死んでいるのかが分からないような状況です。
生きるのも死ぬのも両方しんどい状態でした。

叫んでも自分の声が誰にも届かないですし、自分がそこにいることを誰も知らないことも最大の苦しみでした。

あらゆる面からも、ヨナの状況は最悪であることは間違いないです。


多くの人は状況をみて怯え、諦め、完全に絶望し、死を選ぶことが多いです。

また ある人は、死ぬ選択すら出来ずに生き地獄の中で生きています。

しかし苦難はその時に何をするかによって解決されるか、苦難が続くかに分かれます。



ヨナの神への不従順は私たちが学んではいけないことですが、生き地獄の苦難の中で 彼が選んだ方法は私たちが学ばなければなりません。

それは祈りでした。
祈り以外に彼に出来ることは残されていませんでした。


身動きが取れなくても、息が出来なくても、闇の中にいても、誰も助ける人が周りにいなくても、そこで唯一出来ることは “祈り” であることをヨナが見せてくれました。




救いの神を思い出した




罪に対して厳しくさばく神であることを ヨナは身をもって体験している最中ですが、その苦しみの中で、救いの神を求めました。


自分に必要な助けだけを求めたのではなく、神自身を求めました。

深い海の中、魚の腹の中から生き返ることは、ヨナの力では不可能でしたので、あらゆる苦難から救い出して下さる主を見上げました。

苦難の時は、何よりも主を求めることです。
神は私たちがどこで叫んでもその声を聞くことが出来るお方です。


さらに主が 自分を救い出してくださると信じて感謝と希望の祈りを捧げました。

私たちは、いつ感謝の祈りをしますか。
解決された後でしょうか?それは信仰による感謝ではないです。

それは当たり前の感謝です。

信仰による感謝は、苦難の中で祈り始めた時から捧げます。



ヨナは9節で感謝の祈りをしました。


【ヨナ書2章9節】

しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」

感謝と希望の祈りは神への礼拝です。

偶像へのむなしい礼拝ではなく、生きておられる神への礼拝です。神は礼拝を受け入れて下さるお方です。


【ヨナ書2章7節】

私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。

どんなに絶望的な状況の中でも 最後まで信仰を捨てず、神の臨在を求め、神が救い出して下さることを信じて感謝を捧げることは、主を礼拝する姿です。


【詩篇107篇10-16節】

やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、

彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。

それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。

主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。

聖書は苦難の時に主を求め、神が彼らに救いの手を差し伸べた事実がたくさんありますので、それを信じて神を求めることを勧めます。




悔い改めの祈りをした




人間は罪を知らないから罪を犯すのではなく、知っていながらも 罪の誘惑に弱い者であるので、次から次へと罪を犯します。

悔い改めが必要のない日はあるでしょうか。
「今日私は何一つ罪を犯していない」と言える人がいますか?


主のことばから はみ出た行動はいくらでも自分たちにはあります。

“罪から来る報酬は死” であることに変わりはないです。


しかし神様は罪人が罪の中に留まって死ぬことを願わないので、悔い改める者に恵みと救いを用意しておられます。


神の命令に不従順して神から刑罰を受けているヨナに対しても神はすぐに彼を死なせず、魚の腹の中に入れたのは悔い改めるチャンスを与えたことでした。

悔い改めのチャンスは主のあわれみです。主の恵みです。悔い改めのチャンスは助かるチャンスでもあります。


ヨナにとっても助かる道は、悔い改める道しか残されていませんでした。

きっと涙を流しながら三日間 心の中で泣き叫んで祈ったでしょう。

息苦しくて声を出すことが出来ないので、声なき声で叫んだことでしょう。


「私が悪かったです。もう2度と主に逆らいません。私の罪を赦して下さい。ここから助けて下さるならば言う事を聞いてニネベに行って主のことばを伝えます。」と誓いを立てながら悔い改めの祈りをしたでしょう。


悔い改めの祈りほど神に早く届く祈りはないと思います。

それは、なぜだと思いますか。


多くの願いの祈りは、神様を変えてでも自分の願いを押し付けて、欲しいものを手に入れたい思いがあります。

しかし、悔い改めは 祈る人自身が変わらないと出来ないことなので、その祈りをする人自身が変わったので神様が喜び、その祈りに早く答えて下さいます。


ヨナも苦難の中で変わりました。
罪の恐ろしさが分かり、自分の愚かさにも気付きました。

そして罪を捨てて、神に立ち返りました。

救いの神が救うことが出来るように 神を呼ぶ者になりました。


悔い改めていない者を助けたとしても、その人たちは神様を侮ります。

「誰が助けてくれと頼んだのか。ほっといてくれ。」と言います。


しかし悔い改めた人は、主の助けと救いに心からの感謝が出てきます。

神様は悔い改めるヨナを見て、救いの手を差し伸べました。魚の中から彼が生還出来るように恵みを与えました。

悔い改めたことによってヨナは再び太陽の光を見ることができ、自由に息をすること、そして体を動かすことが出来るようになりました。

絶望から希望に移されました。そして再び主の働きが出来るようになりました。

もしヨナに祈りがなかったならば、聖書に「ヨナ書」は存在しなかったですし、ヨナが誰なのかも私たちは分かりません。


イエス様も悔い改めの祈りがもたらす祝福について次のように教えて下さいました。


【ルカの福音書18章13-14節】

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

聖徒たちにとって、祈りは必須です。それは祈りによって神との会話が成立するからです。

祈りを通して神様と交わりをし、霊的呼吸をします。

しかしすべての祈りが神様と通じるものでもないです。


悔い改めの祈り、神を求める祈り、神を信じて感謝と希望を持って祈る時、苦難の時に救いの神を切に求める祈りをする時に、主は救いの手を、救いの道を開いて下さいます。

それならば何でも聞いて下さいますかと質問する人がいますが、それを確認して祈るのではなく、 神をただ信頼して祈ることが大切です。


目に見えなくても、しるしがなくても、何も確認が出来なくても 今も働いておられる神がおられることを信じて、本人が必死に祈り求めることです。すべてを懸けて助けを求めます。


祈りを他人任せにする人がいますが、そうするとその人自身の苦難は根本的に解決出来ないです。

それはその本人の問題なので、神様はその人を待っておられます。

長い間、絶望と落胆の中にいる人がいるならば、それは未だに悔い改めていない自分の罪の為ではないのかを考えてみて下さい。

そしてヨナのようにやってみて下さい。
ヽ(TдT)ノ

2015.5.31
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス・キリストの十字架とあなたはどんな関係ですか

テーマは 『 イエス・キリストの十字架とあなたはどんな関係ですか 』 です

【Ⅰコリント1章18節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

今日は教会歴においてはシュロの日です。

イエスは十字架にかかるためにエルサレムに入りました。
それを知った人々は、今度こそイエスがユダヤの王になると思って、大歓迎しました。


その時、人々はシュロの木の枝を取って、出迎えのために出て行き、
“ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。”と大声で叫びました。


その日をシュロの日と言います。


人々にとっては これから自分たちに何か良い事が起こるという期待が大きかったです。
しかしイエスにとっては 苦難の十字架の道が始まる日でした。

それを知っているのはイエスご自身だけでした。

十字架が見えていない時は イエスは人々に歓迎されましたが、十字架が見えた時から人々の反応が分かれ始めました。

十字架に対して人々はどのように変わっていったでしょうか。


そして、みなさんはイエス・キリストの十字架と どのような関係ですか。




1.十字架を愚かと思い、毛嫌って呪う人




「十字架??あれは凶悪な犯罪人が受ける罰ではないか。」

「何だ、あの人は神でもないのに、自分のことを勝手に神と言い、人を惑わした者だったのか。神を冒涜した人は死ななければならない。騙されたことが悔しい。これ以上は騙されないぞ。」


このように怒りが込みあげてきた人たちは激しく叫びました。


「除け。除け。十字架につけろ。カイザルのほかには、私たちには王はありません。」と、世の王を自分たちの王として選び、まことの神を殺してしまいました。


キリストを十字架につけた彼らは 十字架で苦しんでいるイエスを見て、あざ笑って言いました。


「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら自分を救ってみろ。」

「おお、神殿を打ち壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

「他人を救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」


このように偉い人たちも十字架にかかったイエスを呪いました。


世の基準で見る十字架は 彼らにとっては犯罪人、呪われた者、愚かな生き方をした者、生きていては困る者たちが死んで当然な場所なので、絶対受け入れることが出来ないものでした。


彼らは自分たちの知恵に頼って、それで満足して、十字架を信じるどころか、拒絶反応を起こして呪います。

死んでも関係を持ちたくない と十字架を遠くに投げる人たちです。




2.十字架に無関心な人たち




「あの人は悪いことをしていないと思うよ。毎日 病人を癒し、奇跡もたくさん行ったし、まじめで優しいし。」

「十字架にかかるとはかわいそう。あの人を殺すなんて悪いことをしたな。」

「生かしておけば もっともっと奇跡が見られたのに。病人が助かるのに もったいない。」

「良い人だったのに もういなくなった。でもどうして神と言った人が十字架にかかって死んだのだろう。」

「意味が分からない。もう死んでしまったから忘れよう。」


このように十字架のイエスに対して無関心に生きる人たちがいます。


「別にいなくても困ることはないし、あの十字架とはもう関わりたくありません。」

「他にも信じているものがあるし、あんな死に方をした人を信じるのはちょっと…。」

「もう良いです。自分も救えなかったでしょう。あの人より立派な働きをした人もたくさんいるし。」


キリストの十字架を “無力” だと思って、他に頼れるものを探して、それに目を向けて自分の都合の良いように生きている人が一番多いです。


この世がすべてで、この世で利益をもたらしてくれるならば 魂でも平気に売る人たちにとって、十字架は関わりたくないものです。

「神のことも、罪のことも、悔い改めのことも、地獄の話も聞きたくはない。別に要らない。」と十字架とは無関係に日々生きています。


私自身も信じる前はそのような者でした。
十字架はキリスト教会のシンボルでしか考えたことがなく、イエス・キリストが死んだ十字架だとしか思いませんでした。

なぜ死んだのかと一度も考えたこともなく、キリストの十字架に対して考え始めたのは信じてからでした。

それまでは自分にとって十字架はまったく関係のないものでした。




3.キリストの十字架から目を離さない人々




実際にキリストが十字架にかかった時、十字架の真の意味を知っている人はイエス・キリスト本人以外には誰もいませんでした。

弟子たちも主の母であるマリアも知りませんでした。

キリストは一人で孤独に死んでいきました。


医者たちが、“キリストがどのくらい苦痛を味わったのか”を医学的に検証しました。

その話を聞いた時に、私たちの想像をはるかに超える痛みでした。


汗が血のしずくになるまで祈った時から、体の中ではストレスで血管が破裂していました。

裸にされてローマの兵士たちが力強く打ったむちで肉が裂かれ、神経が痛み、骨までも見えたと言います。

出血によって歩くことが出来ないほどの貧血状態に陥るとも言われました。


十字架の上ではさらに激しい痛みがあり、息をするたびに全身に鋭い痛みが走るので、ことばでは言い表すことが出来ないほどの痛みだと聞きました。

その激しい痛みの中でもイエス様は自分を十字架につけた人々を赦しました。


そして、涙を流しながら十字架を見上げる人たちがいました。
十字架の意味はまだ分かりませんが、主を愛して主に仕えていた人々でした。

たとえ人々がイエスを激しく呪っても、その人たちは主が与えて下さった恵みが忘れられません。
その愛を裏切ることが出来ません。ただ涙を流しながら、主の死を悲しんでいました。






私自身、何日間も ずっと心の中で流れていた賛美がありました。


韓国の賛美ですが、「主はなぜ私を愛したのか。なぜ私のためにカルバリに登らなければならなかったのか。なぜ私のために十字架にかからなければならなかったのか。」という歌詞です。

そうしたら その賛美の中にペテロもパウロも入って来た思いがしました。

彼らも同じ賛美をしているように感じました。


【 ペテロ 】

「主を三度も知らないと裏切った私をどうして赦し愛しておられますか。なぜ私を愛し、十字架にかかりましたか」


【 パウロ 】

「主を嫌い、教会とあなたと信徒たちを迫害した私をどうして愛して、私の罪のために十字架にかかりましたか。」


私も言いました。

「自分勝手に生きて神様を悲しませた私、多くの罪を犯した私をどうして愛して下さったんですか。なぜ主は私のためにカルバリに登らなければならなかったのですか。」

繰り返し心の中で賛美しました。


なぜ私が主に愛されているのか、なぜ私が赦されているのかがわかりません。
その愛から離れることが出来ないから主の十字架を見上げています。


主の赦しが十字架から流れるので主の十字架を離れることが出来ません。

「主よ。なぜ罪のない方が罪人である私のためにその激しい苦しみを受けなければならなかったのですか。」
罪赦して下さる十字架のキリストから離れて行く所がありません。


目が開かれ十字架に隠された恵み、祝福、神の力が見えてきました。

イエスが罪人ではなく、犯罪人でもなく、死んで当然な人でもなく、人を騙す者でもなく、生きてはいけない人でもなく、神を侮辱した人でもなく、自分を救えない人ではないです。


キリストを十字架につけた偉い人たちや呪った人たち、無関心であった人たち、知らなかった人たちや私たちが 本当は主がかかった十字架にかからなければならない者です。


自分に代わって死んで下さった方を愚か者と思っている人がいるならば、その人は世界一愚か者です。

キリストを侮辱するものは神を侮辱する者で、罰を免れることはありません。


もう一度十字架を見て下さい。
愚かに見えますか。関わりたくない十字架に見えますか。

それとも十字架を見て、「なぜ私を愛して十字架にかかりましたか」と涙が出てきますか。
。゚(゚´Д`゚)゜。

2015.3.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主が喜ぶ教会とは?

テーマは 『 主が喜ぶ教会 』 です

【ヨハネの黙示録3章7-13節】

また、フィラデルフィアにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、 彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。

「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いて おいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

見よ。サタンの会衆に属する者、 すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、 わたしがあなたを愛していることを知らせる。

あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを 試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、 あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。 わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを 書きしるす。

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

ヨハネの黙示録は、キリストによって啓示されたすべての世代のキリスト者に伝える神のことばが書かれています。


そして アジヤにある7つの教会に送ったメッセージを通して、すべての教会に さばき主として来られる主を待ち望みながら どのような姿で存在して対処すべきかを教えています。

特に今回は 主が喜ぶ教会とは、どのような姿なのかを 7つの教会を通して学びたいと思います。


自分たちの教会と比べながら主が喜ぶ教会を目指していきましょう。


(黙示録に書かれている)各教会に対して褒め言葉と叱責、慰めと警告がありました。

7つの教会の中で叱責がなかった教会は2つだけでした。
個人的にはフィラデルフィア教会は素晴らしい教会だと思います。


今回は、神様が喜んだ部分だけを2章、3章から見ていきます。




①主のことばを守り、主の名を否まなかった教会(3章8、10節)



少しばかりの力しかなかったのに、主のことばを守り、主の名を否まなかったです。

神様から受けた賜物がそんなに多くはなく、社会的身分も地位も財産も多くはありませんが、信徒たちは主を愛し、主のことばを守り、あらゆる誘惑や迫害にも屈することをせず、信仰を守っていることは狭い道を選んで歩んでいる姿です。


形式だけの信仰と、この世と妥協して世の富と安楽を求めていく教会がますます増えていく中で、純粋に神のことばを守り、正しい信仰を持って従っていく教会は、これからの時代において最も必要です。


主のことばがと主の名が軽んじられる教会は危険です。

パン種の入っていない真理のことばが語られ、正しい信仰を持って そのことばに徹底的に従う信徒だけが背教することなく、主に従っていくことができます。


そして そのような教会に主の力が現れます。




②悪に加担せず、それに染まらない教会



【ヨハネの黙示録2章2節】

「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが 実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。

教会の中に入ってくる悪とは どのような悪でしょうか?

みことばに反する異端の教えは偽りであり、それは偶像崇拝の罪を犯させます。
間違えた教えは“悪”です。人を惑わします。


実際にペルガモ教会には、バラムの教え、ニコライ派の教えがありました。
またテアテラ教会にはイゼベルという偽預言者がいて、真理から離れて偶像崇拝を行いました。

それだけではなく、倫理的、道徳的にも さまざまな罪が教会に入ってきて、それをそのまま受け入れ 悔い改めもしない教会は悪を行う教会です。

教会が同性愛を認めたり、この世と同じ基準ならば主が喜びません。


神様が罪と言うものを罪と認めて悔い改める教会、悪と言うものを悪と認め、それらを教会から取り除く姿が 主が喜ぶ教会です。


人の顔色をうかがう教会は危険です。

罪や悪に対して、それを指摘することなく 悔い改めるようにも言わない教会は必ず神様に裁かれます。
なぜならその教会はすでにサタンが支配してあるからです。

神が喜ぶ教会は、罪と悪を憎み、そこから離れる教会です。




③よく忍耐し、怠けない教会



【ヨハネの黙示録2章3節】

あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

教会の内部では 間違えた教えと戦い、外部から来る迫害と戦って、主の名のために耐え忍ぶことは主が喜ぶ姿です。

サタンはあらゆる手段を使って教会を倒し、信徒たちが信仰から離れることを狙っています。

ですから教会には偽物を本物のように見せかけて送ります。
そして教会の中に間違えた教えを流して乱そうとします。


また、教会に対する迫害も色々ありますが、その時に見て見ぬふりをすることや、そこから逃げることは消極的な態度です。

そうではなく、間違えた教えに対抗するために みことばを熱心に学んで、その間違えた教えを見抜いて惑わされないようにし、迫害の中でも信仰を守っていくのが、よく忍耐して怠けない教会の姿です。


終わりの時代にはますます信仰生活が難しくなっていきます。

積極的に信仰生活をしていかないと、すぐに疲れて忍耐も出来ませんし 信仰生活も出来ません。




④苦難にも耐え最後まで忠実な教会



【ヨハネの黙示録2章9-10節】

「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。 ―― しかしあなたは実際は富んでいる ―― またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

キリスト教の歴史の中で迫害がなかった時代はありませんでした。

自分の国にはなくても どこかで必ず迫害が起こっています。
そして、それが いつ どこで起こるかは誰にも分かりません。

今の時代はイスラム教が強い地域ではどこでも迫害が起こっています。


シリアでは今も多くのクリスチャンが殺されていますし、アフリカでもパキスタンやインドでも教会や信徒たちが苦しめられています。
日本にもその歴史があり、これからは世界中で迫害が起こる時代が来ます。

その中で勝利する教会は苦難にも耐え、最後まで主に対して忠実な教会です。
恐れ退くならば主は喜ばないと語りました。


イエス様や弟子たち、初代教会の信徒たち、今もシリアやイラクで苦難の中で信仰を守り殉教する多くのクリスチャンがいます。主に対して忠実な姿です。

その反面、苦難を嫌い、世の富と人気と世の教えに寄っている世俗化したラオデキヤ教会のような大教会も世の中にはたくさんあります。


どこを選ぶかは あなたの選択です。
自分を喜ばせるか、主を喜ばせるかを選ばなければなりません。




⑤愛と奉仕があり、すべての面で成長する教会



【ヨハネの黙示録2章19節】

「わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。

行いが伴わない教理だけの信仰は不完全でありますが、教理をないがしろにしたまま 行いだけが熱心であるのも それも不完全です。

一番の理想は「信仰と愛と希望。信仰と行い」を調和させていくことです。


【Ⅰヨハネ3章18節】

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

さらに大きな信仰、熱い愛、熱心な奉仕、そして深い希望を持って主に仕え、人に仕えていくならば、ますます成長して豊かな実を結ぶ教会になります。


教会を良くしていくのは私と皆さんです。
外部の人たちが この教会を良くしていくのではないです。

主が喜ぶ教会にしていくために、私たちが自覚して みことばに従って励む時に主が助けてくださいます。

主が喜ぶ教会を 生涯かけて目指していきたいです。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2015.3.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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効果的な祈りの模範

テーマは 『 効果的な祈りの模範 』 です

【イザヤ書37章1-7節】

ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮に入った。

彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちは荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。

彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。

おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。』」

ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、

イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしたちを冒瀆したあのことばを恐れるな。

今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。 わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」

クリスチャンは危機の瞬間にどこへ行きますか?家族の元に行きますか?友人の元ですか?
そして危険な環境の中でどのように対応をするでしょうか?これはすごく大切なことです。


今、イラクでは誰が迫害されているでしょうか?

イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が他宗教・キリスト教徒やクルド人の宗教少数派の人たちを敵視しています。

女性数百人は捕らえられ、奴隷にされ、改宗を拒否する者を殺しています。
大量虐殺が行なわれる恐れがあります。この者たちはナイジェリアで200人以上の女生徒を拉致した組織と同じ思考回路で行動していると言われています。アメリカは空爆を始めましたが、彼ら(イスラム国)は残虐な者です。

クリスチャンや少数派の人々は10万人が山へ逃げています。食べ物や水、着替える服も何1つありません。
改宗するか、町から出て行くか、それとも税金(日本円で約4万8000円)を払うかという厳しい条件をつけて、住み慣れた場所から追い出しています。


今、子供も大人も砂漠へ逃げ込んだり、海へ逃げたり、山へ逃げたりと 聖書の預言通りの終わりの姿であるのです。これは宗教戦争なのです。

彼らはイスラム教の中でも違う神なのです。
彼らは「あなたもイスラム教ですか?それなら仲良くしましょう。」ではないのです。

自分たちと少しでも宗教観が違う者は自分たちの敵であり、「ジハード(聖戦)」の対象であるから平気で殺します。

人権などは無いです。
神が喜ぶのは自分たちの敵を殺すことだと思っています。


キリスト教の教えとは全く異なります。
キリスト教の教えは「あなたの敵を愛しなさい。」「敵が飢えているなら与えなさい。」「赦しなさい。」という言葉を使っています。

イラク政府は自分たちの力ではどうにもならないので、アメリカに助けを求めました。


私は今回のテーマ箇所であるイザヤ書37章を読みながら、ヒゼキヤ王がアッシリヤの侵略を受ける直前に彼がどのような心境であったのかを考えました。

時代は違いますが、似たような場面であります。

アッシリヤは多くの軍隊があり、力や武器もあります。彼らはあらゆる戦いで勝利をしています。
その国がイスラエルを侵略しに来るのです。そして宣戦布告しています。


【イザヤ書36章20節】

「これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか」

これは彼らだけを侮辱することばではないです。
お前たちが頼っている神の力が自分たちの力よりも弱いと侮辱する敵の高慢なことばです。


聞くだけでも恐れてしまうようなことばです。

今、イラクで起きているのが これと同じです。

この状況の中でヒゼキヤは軍隊もまともに持っておらず、力も無く、その中で彼が王としてどのような態度を取ったのか 私たちが学ぶべきものがあります。




1.自分が重大な問題を抱えていることを認識し 神に祈った




まず彼は今、自分が重大な問題を抱えていることを認識しました。そしてそのことを神に祈りました。

祈り以外には、これを乗り越える方法はないと認識したのです。


イザヤ書37章1節で、ヒゼキヤは侮辱・恐れあることばを聞いて、“自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮にはいった。”と書かれています。

またイザヤ書37章3節では、“きょうは苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。”と言っています。
これは、私の力ではどうすることも出来ないです という絶望的な状況です。

彼はすぐさま神に祈りました。


当時、エジプトはとても強い国でした。
今の時代ではアメリカに「私たちを助けてください」という思いになるのですが、私たちは(何かが起こると)強いものに頼りたくなるものです。これは私たちの心に自然と出てくる思いであります。

しかし、私たちの神様は「あなたが困った時は力ある人のところへ行き相談をしなさい。」と語ったでしょうか?
そうではないです。


神様は クリスチャンはこのような時に、どのような態度を取りなさいと言うのか、みことばで答えをもらわなければいけないです。


【イザヤ書30章2-3節】

彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。

しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。

エジプトは強い国でしたので、多くの者たちが周りの国から侵略を受けるとエジプトに助けを求めに行くのです。

これは無償で助けることはなく、助けられる ということは、そのものにひざまずくことであります。借りを作ると後で返さなければならないです。


神様に祈りもせず、自分たちの計画でエジプトに下ろうとするのです。
“こんな時に神様に祈ってもすぐに答えを得られないし、私は祈っても神様の声が聞こえないし。”という思いがあるのです。






神様は、誰かに頼ることはむなしくなることを警告しました。

それならば神が望むのはどのような姿でしょうか。


【イザヤ書30章15節】

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」 しかし、あなたがたは、これを望まなかった。

静かにしなさいということは、そこで神様の助けを求めなさい ということであります。


神様は私たちを助けてくださるお方です。

私たちに問題がある時に、確実に答えを得る方法は神様に祈ることです。
神様は祈る人に対して答えてくださるのです。

人はまともに祈りもせずに「この問題を何とかしてください!」と、これを祈りという人もいるのですが、これは祈りではないです。


そこに信頼する心がないからです。これは神様にお願いをする姿ではないです。


誰かに頼み事をする時は、礼儀をもってお願いをすると思います。
謙遜にして身を低くし、事情を話し丁寧な言葉で頭を下げると思います。

しかし神様にお願いする時には「なぜ神様はこんなことをするんですか?私が何か悪い事をしたのですか?!早くなんとかしてください。」

神様は私たちのしもべではないです。


神様に向かって口汚く心焦って語るならば、神様は聞きたくないです。「わたしを誰だと思うのか?」

私たちは神様に対して自分の態度が礼儀をもって語っているのかを考えるべきであります。


そこには信仰が必要です。
“神様は私のことをすべて知っている。今 私がどんな状況にいるのかも神様は知っている。ここで神様を信じて頼るならば、神様はきっと私を助けてくださる。”と落ち着き・信仰の心が必要なのです。


【詩篇68篇19-20節】

ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。

神は私たちにとって救いの神。死を免れるのは、私の主、神による。

これを自分の心の中で信じることであります。

神様が私たちのために重荷をになってくださるということです。
私たちは、になう力がないと下敷きになって倒 れてしまいます。

ですから神様はそうなさらないです。


私たちが重荷を背負ってしんどい時に「神様、私を助けてください。」と祈るならば神様は私たちの荷を軽くしてくださるのです。


しかし荷を完全に取って あなたは一生重荷を負う必要なない、ということではないです。


【マタイの福音書11章28節】

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

このように約束のことばがあります。

神様は私たちが倒されて死ぬことを願うのではなく「わたしがあなたの救いの神であるのだ。あなたの重荷を軽くする神である。」と神様に頼り求めるように語っておられます。


主こそが私たちの救い主であり、私たちが信頼しても安心できる方であり、私たちの喜びや悲しみにも共感し、私たちの荷を軽くしてくださる方です。

自分の手に負えない問題に出会った時にはこの神に頼るのが一番の方法です。


【詩篇68篇35節】

神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。

私たちが神様に信頼し、静まっているならば私たちは 神様から“力と勢い”が来るのです。
戦う力と試練を乗り越える力を神様が与えてくださいます。

問題を神様に委ねて「神様、私は○○○で困っています。私の力には負えません。私を助けてください。」と、祈ると神様は力を与えてくださるのです。




2.問題解決と共に神に栄光を捧げる




次にヒゼキヤは問題解決と共に神に栄光を捧げる解決策を求めました。

ヒゼキヤは自分の国の問題のためだけではなく、敵が自分たちにかけた言葉で神を侮辱する言葉がありました。


彼は神様に“あの者たちは神様を侮辱しました。神様がこの問題を解決してください。そして私たちが神様に栄光を捧げるようにしてください。”と祈りました。ヒゼキヤが祈った目的は次の箇所です。


【イザヤ書37章20節】

私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、他のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。

侮辱した者たちが恥を見ますようにと祈りました。

神様が私たちを彼らの手から救い出して、彼らに神が生きておられる救い主であることを見せてください。と 祈っていました。神様はすべての祈りを聞きました。

祈りを聞いて預言者イザヤを通して、次のようなことばを与えてくださいました。


【イザヤ書37章6-7節】

イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちが わたしたちを冒瀆したあのことばを恐れるな。

今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。 わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」

結果はどうなったでしょうか?本当にその通りになりました。

その後の部分を読めば分かりますが、人間の手によらない神様の方法で侵略した者は死んでしまいました。


今、イラクで行われていることも 神様は彼らが神に向かって侮辱していることばを全て知っています。
神の子どもたちを彼らが激しく迫害している姿も 虐殺している姿も全部見ています。

すると、あるクリスチャンは「どうして神様はそれが起こる前に防がないのですか?」と言います。
神様の聖書の大きな計画は、最初から人間を祝福した神様でした。


しかし人間自らの欲・堕落した行動によって世界中であらゆる問題が出ています。

クリスチャンだとしても、皆が主のみこころに従って生きているでしょうか?
「私は神様のみこころとみことばを知っているのですが、それに従順していない時の方が多いです。」このように言うのは正直な告白であります。


そうすると、神の目から見るならば私たちも変えなければならないのです。クリスチャンであってもただ甘やかすことではないです。私たちは聖める必要があります。


まず初めにクリスチャンの方から苦しみが来るのです。私たちが道からそれたり汚れた者になると、神様はそういう悪者たちを使うのです。

その時に初めてクリスチャンは自分が横道にそれたことによって襲った苦難が、自分の罪によって刈り取っているのだと気付いて、立ち返るのです。


神様に立ち返って祈ることであります。名ばかりのクリスチャンで神様は喜ぶでしょうか?
喜ばないです。愛のムチをもって「来なさい。そのまま行ったら滅びなのだ。」と語ります。

そしてクリスチャンを目覚めさせる為に用いた悪者には、その後に神様がひどい目に遭わせるのです。


神様に敵対する者に対して、何もしない神様ではありません。


歴史を見ても独裁者たちの最期を見ると分かります。
彼らは権力と富を手に入れ、人々を簡単に殺しました。その人たちの最期が平安だった人はいないです。殺されていきました。

今、この時代に生きている私たちに対して、神様はどのように語っているでしょうか?次の箇所です。


【Ⅰペテロ5章6-10節】

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

終わりの時代はますます敵である悪魔が働きます。

ですから今は、昔では考えられない悪が地上で行われています。中東、アフリカ、ウクライナ、南米など私たちは見ています。
多くのクリスチャンが苦しみを受けています。神様にはその目的があります。

“あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。”これは純潔のものです。


不純物が取り除かれて神の国に入るのに相応しい者にさせるために、そのような苦しみを受けるのを神様が赦しているのです。


私たち人間は力が無いですが、神様には力があります。何もない所でも神様に助ける力があります。どのような方法でも使うことが出来る神であります。


ヒゼキヤは祈って助かりました。
そしてその後にヒゼキヤは病気にかかり、預言者イザヤを通して「あなたは死ぬ準備をしなさい。今すぐ家を整理しなさい」ということばでショックを受けました。

ヒゼキヤは大声で泣きながら「神様、助けてください」と祈りました。
すると神様はすぐさま答え「あなたに15年の命を加える」と語りました。神様は助けてくださいました。


神様の答えは、一番良い答えであります。
普段、私たちはどのような言葉を使っているでしょうか?神様は全てを聞いています。

ですから私たちは悪い言葉を使わないことであります。後で自分で刈り取った時にビックリするようなものが、以前に蒔いた言葉の種が成長してそのようになったことであります。


私たちは後でこのような実がなるのだと思いながら、良い種を蒔くことです。
良い種を蒔いたら、後で必ず良い実を刈り取るようになるのです。

また、普段からしっかりとした祈りをしてください。そうすると神様は必ずそれに対して答えてくださる方であります。

祈ることを神様は願っています。どのような時でも「祈り、祈り、祈り」です。これが一番効果的な態度です。


自分の計画、自分の方法でやっていたら、後で困ることがたくさんあります。

ですから始めから 知恵があり、力があり、すべての良い計画をもっている神様の手に委ねて、
「私は力がない者です。私は弱い者です。私は知恵もない者です。神様、どうしたら良いのか教えてください。」と導きを受けるならば、後のことは私たちが心配しなくて良いです。


ただ困る時だけ祈る神頼みは、それは宗教であります。

生きておられる神様に委ねて祈ると、神様から導きがあり、神様の計画が現れ、解決の方法が現れますので、私たちは神様の御手の中で守られるようになります。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚ アーメン

2014.8.10
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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キリストが受けた苦難の数々

※ 今回は内容を簡潔にまとめさせていただきました。恵みが三十倍、六十倍、百倍になりますように。


テーマは 『 キリストが受けた苦難の数々 』 です

【ヨハネの福音書1章9-11節】

すべての人を照らすそのまことの光が来ようとしていた。

この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

4月は キリストの受難週、十字架の死、復活などキリストに関わる重要な出来事が色々ありますので、そのことに対して語ろうと思います。

私たちの目をキリストにしっかり向けて、キリストが私たちのために どのような苦難を受けたのかを今日は知りましょう。


キリストが受けた苦難は むち打たれ、釘打ちにされ、十字架に架かっただけではなく、それ以前からもたくさんありました。

身体に受ける暴力もつらい事ですが、精神的な暴力のほうが ある意味もっときついかも知れません。


拒絶、無視、脅迫、敵対、裏切り、見捨てられるなど 人間から様々な苦しみを受けました。
どのような苦難を受けたのか知っていますか?




(1)人から拒絶されました。喜んで歓迎しなければならないのに、最初から人々はキリストを拒絶しました。



一部の人からではなく、すべての者から拒絶されました。


【イザヤ書53章3節】

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

と、預言された通りのことが 実際に起こりました。


【ヨハネの福音書1章11節】

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

民から拒絶された姿でした。
イエス様が育ったナザレの人たちは キリストを受け入れ、認めたでしょうか。
ナザレの人々はもっとひどかったです。受け入れないどころか殺そうとしました。


【ルカの福音書4章28-29節】

これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、

立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。

ユダヤ人たちもナザレの人々と同じ姿でした。


【ヨハネの福音書7章1節】

その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。

どこへ行っても拒絶する人々がたくさんいました。

この状況はとてもつらい状況で 悲しくやりきれない心境になります。

また、家族はキリストを信じ、理解者であったでしょうか。


【ヨハネの福音書7章5節】

兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

キリストと認めず 信じませんでした。




(2)出身地と家庭環境によって 人々から蔑まれました。



人々は先入観と差別意識でキリストを見てました。


【ヨハネの福音書1章46節】

ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」

【ヨハネの福音書7章52節】

彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」

人格を無視されると 私たちの心は本当につらいですね。
イエス様は最初からこのように人格も無視されました。




(3)絶えず人々から来る脅威がありました。



いつも自分を憎んで、妬んで 命を狙う人がいることは大きな苦難です。
キリストは常にそのような状況の中に置かれていました。生まれた時からでした。

キリストが生まれたことを知ったヘロデ王はベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させました。

主の遣いの助けがなかったならば、赤ちゃんの時に殺されたでしょう。
安息日に病人を癒したことでも ユダヤ人はイエス様を迫害しました。
真理を語ると 人々はどのような反応をしたでしょうか。

喜んで受け入れたでしょうか?


【ヨハネの福音書8章40節】

ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。



(4)弟子たちもイエス様が理解できず、ある者は裏切り、非難、否定して離れていき キリストを苦しめました。




十二弟子の1人、イスカリオテ・ユダはお金をもらって祭司たちにキリストを売りました。


【ヨハネの福音書6章66節】

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

イエス様が十字架にかかるために とらえられた時には、ほかの弟子たちまでもがキリストから離れていきました。

信頼し、共に生きてきた人が、ある日 突然離れていくことほど つらいことはありません。


牧師としても愛していた信徒が去っていく時、とてもつらい思いをします。

イエス様は みんなが離れていき、一人ぼっちになりました。
どれほど心がつらかったでしょうか。




(5)そして 最もつらかったことは神に捨てられました。



【マタイの福音書27章46節】

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

神は人類の罪をキリストに負わせ、十字架の上に死なせました。

その瞬間は 自分の愛する子としてではなく、罪人とみなし 顔をそむけました。
いつも父と1つであったキリストにとって この瞬間は最もつらかった時だったと思います。

これらのことを見ると、人間社会でイエス様が受けた苦しみは 私たちの想像をはるかに超えた苛酷なものであったことが分かります。


私たちは人からの言葉1つでも、時には「心が傷つけられた。もう許せない。つらい。憎い。つまずいた。」と大騒ぎをします。

しかし、イエス様の立場から見ると、「たったそんなことで つまずくのか。わたしを見なさい。今もあなたはわたしの言うことも聞かず、苦しめ、悲しませているではないか。どれほど わたしがつらいかを考えたことがあるのか。」とおっしゃいます。




イエス様の十字架の証



ある人が幻で十字架に架かって血を流している主を見ました。


あまりにも苦しい姿でしたので、十字架の周りに集まっていた人からも 主がかわいそうで泣いている人も見えました。

多くの人々は 十字架にかかって苦しんでいるイエス様の姿を見るだけで、
なぜイエス様が十字架にかからなければならなかったのかと その理由を知る霊の目を持っている人は誰もいませんでした。


イエス様は肉体の痛みで苦しいよりは、自分が死ななければならない理由と、自分の心境を知らない人々がかわいそうで何倍も心の中で苦しんでいました。


(その幻をみた人は)それを霊で感じとって

「イエス様。力を出して下さい。私はやっと分かりました。
イエス様は全人類の罪のために大きな働きをしているのですね。
イエス様の死は、いのちを与えるための偉大な愛です。

私がこのことを皆に知らせます。そして、主が選んだ民たちを集めます。
そして主の愛を決して忘れません。」


イエス様は、その人を見て 自分の心を知っている人がいることで、うなずき 微笑んでくださいました。






蘇ったイエス様がペテロに3度も「あなたはわたしを愛しますか?」と聞きました。
イエス様を愛さない者たちが イエス様を苦しめました。

裏切り殺しました。


イエス様は私たちが主を愛することを求めています。

イエス様は 私たちを愛してご自身の命まで捧げたのに、私たちが愛さないなら それはイエス様の心を苦しめることになります。


【Ⅰコリント13章4-7節】

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

不正を喜ばずに真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

イエス様を苦しめず、心からこの愛を持って 愛する者になりましょう。

今まで与えた苦しみだけでも、あまりにも大きいですから。 (TДT)

2014.4.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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