テーマは 『 好意を持たれるクリスチャンになる 』 です


【使徒の働き2章46-47節】

そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

神を賛美し、 すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

日本ではクリスチャン人口がとても少ないので調査をすることはあまりないと思いますが、
韓国ではクリスチャン人口が多いのでキリスト教倫理実践運動という団体が
“2013年 韓国教会の社会的信頼度 世論調査”を実施しました。

そこでは様々な人が参加をし、クリスチャンではない人たちも大勢いました。
宗教全体に対する調査もあり、カトリック教会、プロテスタント教会、仏教の信頼度などの結果が公開されました。





◎ 宗教や信者に対して信頼しているか?

信頼-[ 19.4% ]、信頼していない-[ 44.6% ]、普通-[ 36.0% ]
(信頼と答えた人の内訳  カトリック教会-[ 29.2% ]、プロテスタント教会-[ 21.3% ]、仏教-[ 28.0% ]


◎ 無宗教の人たちに聞いた各宗教への信頼度

カトリック-[ 32.7% ]、プロテスタント-[ 8.6% ]、仏教-[ 26.6% ]、
プロテスタントに対しては10%にも満たなかったです。


◎ プロテスタント教会の構成別信頼度

信徒-[ 30.3% ]、牧師-[ 21.1% ]、教会活動-[ 14.1% ]
牧師に関しては信徒よりも信頼度が低かったです。


◎ 社会奉仕活動
カトリック教-[ 32.1% ]、プロテスタント教-[ 41.3% ]、仏教-[ 6.8% ]


これらの結果を見て、初代教会の姿からは程遠いものを感じました。
韓国では アメリカから宣教師が来て、プロテスタントが拡がっていきましたが、当時は人々から好意を持たれていました。教会に対しては人々が迫害をしましたが、そこで働く人々の姿勢に対しては信頼度が高かったのです。
しかし、信者がとても増えたため 至る所に教会が建てられ豊かになりました。その反面、信頼度はどんどん落ちていきました。
その問題が 内部のものだけではなく、ニュースに流れるものでしたので、未信者や無宗教の人々が幻滅する姿に映りました

また、信徒よりも牧師に対する信頼度が低いのも、社会的に有名な牧師たちが様々な問題を起こしたためでした。

そして 教会の信徒たちに対する信頼度が、何故ここまで低いのか? ということも調査されていました。




① ほかの宗教に対する排他的態度-[ 24.0% ]
キリスト教を信じる人たちは、自分たちだけが正しいとし 他の宗教の人に対しては排他的な態度を取ることが信頼度を落としています。


② 不透明な財政使用-[ 22.8% ]
牧師が教会の財産をたくさん使ったり、長老たちが教会のものを自分勝手に運用することがニュースで報道されました。
宗教は 税金を支払っていないので、大きな教会になるとたくさんのお金があります。それを申告しないので、どのようになっているのか分からないのです。


③ 教会指導者-[ 21.0% ]
指導者たちの生き方そのものが人々の模範ではなく、贅沢三昧な生活をしたり傲慢な姿であったり、女性問題やお金の問題があって信頼度が落ちているのです。


④ 教会成長主義-[ 14.5% ]
教会の規模を大きくしようとするのは人々の目につきます。街で一番高い建物は教会であります。建てること自体は悪いことではありませんが、
正しい成長をしていないのに(無理やり人を引っ張ってくる等)、人数が多くなったことを周囲に自慢します。


⑤ 信徒たちの生活そのもの-[ 13.1% ]
「そんなことをして、それでも信徒か」と人々は見ているのです。



信頼度が低い・信頼しない理由

◎ 言語一致していない
口先だけ色々なことを語りますが、行動が伴っていないです。

私たちは、自分たちと関係がないとは言えないです。
聖書に書かれている初代教会の姿は、世界中の教会でもなかなか見られなくなりました。

宗教の対立は霊的なものでありますので、対決は必ず起こります。
しかし 私たちが非難される者になるならば、それは間違えた姿であります。


クリスチャンはイエス様によって価値ある者にされました。しかし、価値ある者になれたはずなのに本人が価値のないものにしてしまうならば、神様がすごく悲しみます。

不正などのニュースはとても耳が痛い話ですが、私たちはこのようなことに対して改善していくべきです。
そのような問題があることで 私たちは人々に福音を伝えることが出来ないと言い訳をし、何もしないのは大きな間違いであります。
間違えたものは改善していかなければならないです。


私たちは教会そのものを動かすことは出来ませんが、「私自身」というものを変えることは出来ます。
自分1人を変えることで周囲の見方が変わるのです。1人1人がとても大切です。




どのように改善していくべきでしょうか――?


① 忠実な生き方をする

これは真面目な生き方をするのとは意味が違います。
クリスチャンにとって忠実な生き方とは、「敬虔な生活」であります。

人々がクリスチャンを見て、最初に求めているものは敬虔な姿です。真理に対して言語一致な生活です。
人は 口先ばかりの発言をする人を嫌います。言うだけで何もやっていないのは忠実な生き方ではないです。

神と共に生きる姿とは、みことば・真理の中を歩み、神様が望むことすることです。
神様がやって欲しいと思うことをよく聞き、それを毎日の生活の中で実行していくことは敬虔な姿であります。



② 愛する生活

【Ⅱテモテ3章1-4節】

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。

そのときに人々は、自分を愛する者、 金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することも知らない者、汚れた者になり、

情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、

裏切る者、向こう見ずな者、 慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、

一番初めに「自分を愛する者」と書かれていますが、神様が、愛する生活をしなさいというのは、自己愛ではないです。 「私が一番大切」、「私が一番」というのは堕落した人間の姿であります。

イエス様は自分を捨てました。神様が語る愛とは、他人を愛する愛であります。
自分を愛する者は それを捨てない限り、神や他人を愛することはできないです。他人に犠牲を払うことが出来ないです。


愛とは自己犠牲があるものです。
自分の時間を他人に捧げるのは嫌というのは愛ではなく、それは「私が(他人のために)苦しむのは嫌。近寄るな、向こうへ行け」という自己愛からきており、 自分中心であるのです。

もしも、なぜ私は他人を愛することが出来ないのか――?と思うならば、それは自己愛が強過ぎるからです。

愛は、自分から手を差し伸べることであります。相手を洗うために自分の手を汚すことであり、そして 自分の物を相手に与えることです。

他人を愛すると言いながらも、文句ばかりを言って 感謝をせず相手を利用するのは愛ではなく、悪魔の心であります。本物の信仰は、キリスト教という垣根を巡らし、自分だけが正しく、他はみな悪魔の子だと追い出す偏ったものではないです。


本物の信仰は“だれでも”神の公義の愛によって接することです。そうする時に彼らにもイエス様による救いを得るチャンスが来ます。いつも彼らに愛の手を差し伸べたり、継続して声をかけるのです。すると相手の人たちも自分たちに興味を持つのです。

キリスト教が非難される理由も“本物の愛”が消えたのがその原因であります。



③ 良き香りを放つ姿

香りは、無理やり作り出すものではないです。
人々は良い香りを出すために香水をかけますが、それは鼻が痛くなることが多いです。周りに迷惑な時もあります。お花も綺麗ですが香りがキツイお花もあります。

しかし、野の花はどうでしょうか――? 野の花はとても素朴であります。
あまり気付かれない存在ですが素朴な美しさがあり、周りにかすかな香りを放つのです。

クリスチャンはそうあるべきです。
私たちは、神と共に歩むなら イエス様の香りが自分に移り、自分でも知らぬ間に(自分から)良い香りが出てくるのです。


自分の口から出てくる言葉、自分の行動から出てくるもの、自分の生き方から出てくるものが、人々に不愉快な思いにさせるかどうかを 冷静な目で調べることであります。

怒ったり 不平不満を言うと醜い顔になります。私たちが地上から離れ、神様が私たちの顔を見たときに「あなたは、わたしの美しい花嫁である」とは絶対に言わないです。
「表情はあなたの一生を証明するものだ。わたしの花嫁には相応しくない。向こうへ行きなさい。」と言われます。


クリスチャンとして 私たちは周りから見られているのです。自分が(キリスト教の)信頼度を落としていく者にはならず、自分たちの生き方を通して今までキリスト教に対して 非難をしていた人たちが 非難することが出来ないようにすべきだと思います。

感謝をする人、いつも笑顔である人、真理の言葉と一致する生活、常に人々に愛を示す生活、
自分だけを愛して地獄へ落ちるよりは、自分の犠牲を払って美しい姿に生まれ変わる方が良いです。

そのような生き方をして神様に栄光を捧げていきたいと思います。

本物の信仰も、本物の愛も 愛する対象を最後まで信じることであり、それを最後まで守ることです。
少しだけ愛して、相手が自分の思い通りにならないからと手を抜くということは、本物の愛ではないです。

信仰も愛も同じで、最後まで耐え忍ぶのが「愛」であります。 (´∀`*)

2014.2.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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