からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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自己中心

救いをもたらした神のみわざ

テーマは 『 救いをもたらした神のみわざ 』 です

【ルカの福音書1章76-79節】

幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、

神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、

暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

今日の本文は「ザカリヤの賛歌」と呼ばれる箇所の一部です。


ザカリヤは祭司で、バプテスマのヨハネの父親ですが、この賛歌を聖霊に満たされて預言のことばとして語りました。

生まれてくる息子・ヨハネに与えられた神からの使命と、その使命は「メシヤが来られるための道を備える働きである」と語りました。


メシヤは神が約束した救い主で、神の御子であり、救いをもたらすために来られるイエス・キリストです。


メシヤこそ神のみわざの現れです。


人間には なぜ救いが必要なのかを知らない人がとても多いですし、宗教は何でも良いと言う人も多いので、そのことをはっきりするために必ず語らなければならないのが “罪の問題” です。



今日の本文にもあるように、ヨハネの働きの中には、神の民に “罪の赦しによる救いの知識を与えるため” もありました。


世界が創造された時から罪が存在したのではありません。
もし存在したならば、罪は神が造ったことになります。

罪が存在しない世界に最初に罪をもたらしたのは、最初に造られた人間であるアダムとエバであることは知っていますね。


それ以後、生まれてくる人間の中には、まるで遺伝子のように罪が組み込まれています。

それを聖書は「原罪」と言います。英語ならば “Original Sin” です。


そこからすべての罪が始まります。
原罪なしに生まれる人間は誰もいません。


それなのに人間はそのことに対してあまりにも無知でした。
なぜならそれが自然体であったからです。


何の違和感もなく、(罪が)体の一部として自分の中で働いていたからです。


教会に来るまでは、罪ということばをあまり聞く機会がないですが、教会に来ると “罪” ということばをよく聞くので、「何故 いつも罪、罪と言うのか」と不思議に思う人や聞きたくないと思う人がいます。


それは罪という存在を気付かせるためです。

罪に対して無知であってはならないからです。

罪を理解しないと、救いの定義が分からないですし、なぜ救いが必要なのかも分かりません。


また神の救いがどのように大きな恵みであるかも分からないです。


罪の恐ろしさも知らないと罪を警戒することもしないです。

罪のことをよく言うのは、罪に対していつも警戒してほしいからです。






罪を分かりやすく理解するためには、罪を犯す前の状態と罪を犯した後の状態を見れば良いです。


罪を犯す前の人間の状態は 神を愛し、喜び、神と共に歩む「神中心」の生活でした。

神が「神中心」に生きるように人間を創造しました。


しかし罪を犯した後の状態は「自己中心」になりました。

世界の主人を神とせず、自分自身が直接主人になる姿です。


アダムとエバは神のようになりたくて、神のことばに逆らいました。

しかし人間が神になることは出来ません。

なぜなら人間は、あくまでも人間以上になることは出来ないように神が創造したからです。


ですから今も自分を神だという多くの異端の教祖たちは嘘つきですので、騙されないようにしましょう。


また、そこまでではなくても 神のことばに従順せず、自分の欲に従って好きなように生きようとする利己的な心があります。


罪のない状態を体験したのは、アダムとエバだけであり、その後は皆 原罪をもって生まれて来ました。

ですから罪から逃れることが出来ません。

それで聖書はすべての人間を差別なく「罪人」と呼んでいます。


罪は神の御心から外れた思い、考え、決定、価値観、行動すべてです。
神のことばに不従順するのが罪です。


なぜ人間はそのように生きていながら、罪人の認識がないのでしょうか。


人間は相対的な価値観を持っているので、世の法の基準に合うならば、自分は正しく生きていると錯覚します。


ですから「私は人を殺したこともないし、物を盗んだこともないし、自分なりに正しく生きて来たのに何が悪い。私は罪なんか犯していないし、罪人ではない。」と言い張ります。


それは人間の基準であって、“神の基準” ではありません。


人間は神のことばに従順して生きるように造られ、決して世のことばに従順して生きるように造られてはいないです。


みことばに違反した時から、人間は自分が創造の目的から離れたことに気付かなければなりません。


この罪の深刻さをはっきりと認識する時に、私たちの罪を洗って下さったイエス様の十字架の恵みがどんなに大きいかを知るようになります。

神は、罪によって神から分離された人間に対して怒りや憎しみではなく、憐れみの心を抱きました。


サタンのことばに簡単に騙されて、罪を犯してしまった人間を 神は深いあわれみの心で見ていました。

そこから神の救出作戦が始まりました。


人間を救うための神の壮大な計画でしたが、人間はそんなことも知らないで、相変わらずサタンのことばに騙されて、自分のいのちをサタンに預けています。






難民たちの状況がそれに似ています。

今、ヨーロッパには難民が急増して大変問題になっています。

内戦があるシリアやアフガニスタン、イラクなどから自由と豊かさを求めて危険を覚悟で渡っています。


戦争も内戦もすべて自己中心の人間たちが起こしたことです。

今年だけで既に35万人で、途中で死亡した人の数が2600人に達したと発表されました。


お金を仲介者に支払って、ヨーロッパに向かって行く 多くの人々が仲介者に騙されています。

そこで放置されて死亡する人も多いです。


ヨーロッパの政府も一般の人々も面倒なことだと思って、あまり関心を持たなかったですが、最近シリアからの難民が乗った船が沈んでしまい、乗っていた12人が亡くなり、一緒に乗っていた3歳の男の子が流されて砂浜にうつぶせになって死んでいる映像が世界中で公開され、それを見た人々は感情を揺り動かされて、非常な悲しみを覚えました。


私もそれを見ましたが、本当にかわいそうで心が痛くなりました。

その映像で今まで難民に対して無関心だった一般市民から非常に大きな反響があって、今は難民のための寄付金がたくさん集まる流れに変わっています。


私はそれを見て、これも神様の憐れみだと思いました。


今までも多くの子どもたちが死んでいましたが、戦争がない国の海岸に衣服や靴を身に着けたままの可愛らしい子がうつぶせで死んでいる姿は、自己中心的な人間の心に憐れみの心を起こしました。

自分たちの子どもの姿を思い出したでしょう。


もしかしたら多くの難民を助けるために、その子はその砂浜にたどり着いたのかも知れないです。

それによってヨーロッパの国々が難民のために本格的に対策を考えるようになり、難民を受け入れる国が増えました。


難民たちのことで、なぜかバプテスマのヨハネとイエス様のことを思い出しました。


自分たちを騙している人間に お金まで渡して、保冷トラックの中で窒息して死んだ71人を騙した人たちはサタンの姿に見えました。


死ぬかも知れない危険がいっぱいあるにも関わらず、次から次へとそれに飛び込む人たちは、いま永遠の死の道に向かっているかも知れないと思いながらも、その道を歩んでいる人々と良く似ていると思いました。


人は自分が生まれる国も親も環境も選ぶことが出来ません。


そして変わっていく環境も自分では止められないことが多いです。

ですから自分が努力もしないで与えられる良い環境は本当に恵みだと思います。


良い国や親や環境、そして救いも世に存在します。

しかしそれをみんな受けるのではないです。






先週、マレーシアへ行った時に夜の11時過ぎの繁華街で小さな女の子二人を見ました。


たぶん上の子は5歳位で、下の子は3歳未満の小さな子でしたが、歩きながら手に持っている物を人々に売っていました。
それを見て大変だなと思いました。他にも何人かの物乞いも見ました。


その人たちの環境は厳しいですね。

そしてマレーシアはイスラム教徒がとても多いですが、生まれた環境によってイスラム教の枠から出られないことがとても気の毒に思われました。


特に女性のムスリムは体を隠し、頭にもスカーフをみんな被っていますが、中東から来たと思われるカップルを見ると、男性はTシャツ&短パン姿なのに、女性たちは全身真っ黒の長い服を着て、目だけ見えていました。


暑いのに1年中そのような姿はかわいそうな気がしました。


家族以外に自分の姿を見せることも、おしゃれをして歩くこともないので、そのような国で生まれなくて良かったと思いました。

そして どんなに熱心に礼拝し、規律に従って生きても 救いを得られないことがとても残念と思いました。


キリスト教以外の、どの宗教も人間の罪に対しては触れません。


そのことに触れると、罪が何なのか、どこから始まったのか、救われる方法があるのかを説明しないといけないので、それには触れず、自分たちの言う通りにすれば天国へ行けるし、良い生活が出来ると言います。


しかしキリスト教だけは、神の存在、人間の創造と罪、堕落、罪の赦し、救い、天国や地獄、裁きなど何一つ隠すこともなく明確に教えていますし、サタンの存在も教えます。また、神がどのような方であるのかも教えます。
そして、その先のことも聖書は預言しています。


これは真の神ではないと出来ないことです。

バプテスマのヨハネの出現も、すでに旧約で預言されていました。


【マラキ書3章1節】

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。

その預言通りにヨハネは来て、メシヤのための道を整える為に、神からのメッセージを伝え、水のバプテスマを授けました。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいた」と叫びました。


人々はそのメッセージを聞いて、自分の罪を告白して、ヨルダン川でヨハネから水のバプテスマを受けました。

そして さらに人々に語りました。


【マタイの福音書3章11節】

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

このように人々に罪の認識をさせ、告白するように導き、罪を赦して下さるメシヤが来られることを待ち望むように準備をさせました。


それからメシヤはその預言通りに来られ、その方がイエス様であることは、ヨハネも聖霊によって教えられて確認しました。

ヨハネ自身は、罪を認めず 罪を楽しむ者の手によって 首を切られて殉教しました。30代前半でした。

そして神の預言通りにメシヤである神の子イエス・キリストが来られて救いが完成しました。


イエス・キリストが来られたのは、罪人に対する神の深いあわれみ以外に何ものでもありません。


罪の恐ろしさも深刻さも知らないで生きている人間に対するあわれみです。


神ご自身はそのために御子イエス・キリストを犠牲にしなければならない深い痛みを伴いましたが、それでも人間のために尊い犠牲を払いました。


その犠牲の象徴であるイエス・キリストの十字架を見て、罪に無関心だった人間がやっと罪に気付き、神の憐れみに対しても無反応だった人間がやっと反応するようになりました。


人間の罪に対する無関心は、他人が犯したひどい罪によって、無関心から関心に変わります。

人間がこんなにひどいことを平気にやるんだ と、人間の罪深さや残忍さに改めて気付きます。


難民事故も幼い命の悲惨な姿を見て 人々は自己中心から、少しだけ人の痛みにも目を配るようになりました。






イエス・キリストの悲惨な十字架がなかったならば、神の愛も憐れみも罪の赦しも人々は気付くことがありません。

罪のない方が なぜ死んだのかに関心がある人は、神の言葉に耳を傾けます。


しかし、私とは何の関係もないと言う人は 救いが存在しても、それに気付くことがないです。

自分が好む方法で自分の罪を解決しようとしても、罪の問題は解決されません。


十字架だけが人間の罪を赦し、悪の力から救い出し、暗黒と死の陰から光に導くことが出来ます。


人間はキリストの血の贖いを信じる信仰によって救われることが出来ます。
これは100%神の恵みによります。

福音を聞かされたことが恵みであり、救いを受けたことは人生最大の祝福であります。


人生の中で一度も福音を聞くことがなく死ぬ人も大勢いますし、聞かされても信じない人も多くいます。


そのような中で、福音を聞いて救われたことがどれほど大きい祝福であるか分かりますか?

救われたことは ただ事ではないです。本当に特権であります。


地上に生きていながら、真の神を知り、神からの救いを受け、神の守りの中で天に向かって歩む人生は自由と豊かさと平和を得ています。


これらのものは自分が努力して得たものではなく、すべて神の憐れみと恵みによります。


「私のような者がこんなに大きい祝福を得て良いのでしょうか?」と聞くぐらいに謙遜にならないといけないですね。

救われた環境の中にいる人は一番幸せな人です。


【エペソ2章1-9節】

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです ――

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

救われる前の姿と救われた後の姿では どちらが良いでしょうか。

この地上ではどちらの姿でも 自分で選ぶことができます。


しかしその後の世界では、神が私たちを見て決めますので、自分で選ぶことは出来ないです。


神が持っている基準は、救われているかどうかです。

それを変えることは人間には出来ないことです。


神は私たちを憐れんで、救いの恵みを与えようとして今も人々を待っておられます。

この神の所に来ませんか?
(*´ -`)(´- `*)

2015.9.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエス様の心を持つ信徒はどれくらいいるのか

テーマは 『 イエス様の心を持つ信徒はどれくらいいるのか 』 です

【ピリピ2章1-5節】

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

私の喜びが 満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

自分のことだけではなく、 他の人のことも顧みなさい。

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

全世界の人口は正確には分かりませんが、約70億人近くいます。
その中でキリスト教が一番多く、33%と言われています。22億人がクリスチャンということになります。(プロテスタントとカトリックの比率は50%です)


今、クリスチャン人口が一番増えている国は中国です。
人口13億人のうちの5%にあたる6700万人がクリスチャンであると言われています。
そして2030年になると、2億4700万人がクリスチャンになる計算です。

今はアメリカがクリスチャン人口が一番多いですが、2030年になると中国が世界一キリスト教徒が多い国になります。

日本は、東アジアの中で一番クリスチャン人口が少なく、1%くらいです。

韓国は人口の4分の1はクリスチャンであります。リバイバルをして6万ほどの教会が建っています。
しかし教会が大きくなっていくと様々な問題が生じ、クリスチャン人口が減ってきています。これはとても残念なことです。

原因はクリスチャンたちの生き方が人々に好感を持たせなかったからです。
初めは良かったのですが、大きくなるにつれて様々な問題が生じて人々が離れたり、またそれ以上増えませんでした。


神様は、ただ多くの人たちがクリスチャンになれば喜ぶでしょうか?
たとえ全世界の人がキリストを信じたとしても、神様はそれで満足をするでしょうか?


数え切れないほどの教会が建ったからと言って、イエス様はそれで満足しません。
神様は、このように数字や形には関心がないのです。

主が一番関心のあることは、私たちの心であります。

その心がキリストと一致しているのか、ということです。
それはキリストの心が自分たちの中にも無ければいけないということです。


“うわべ”だけのクリスチャンや、クリスチャンと言いながらも教会に通わず、祈りもまったくせず、みことばも読まないようなクリスチャンを神様は喜ぶでしょうか。

このような信仰で「私と神様は一致している」と言えるでしょうか?

教会に集まる人たちも色々な人たちがいます。
そこで問題や分裂、争いがあります。信徒同士や牧師など色々あります。


しかし、よく考えると その問題の原因になっているものは何かを詳しく調べていかなければなりません。

うわべに表れているものが、その問題の原因ではないです。

例えばピリピ教会の中でも信徒同士に分裂の問題がありました。
その信徒たちの自己中心的で高慢、妬み、争いなど、様々な思いで人間関係が壊れていました。


教会とは頭(かしら)がキリストであります。そして信徒は1つ1つの身体の器官だと聖書に書かれています。
目には見えない神様ですが、頭のない身体は存在しないのです。

そこで私たちが組み合わされているのが教会です。


ですから、そこにイエス様が存在しないならば、建物があって人が集まったとしても そこは教会ではないです。それを神様が教会とは認めないです。

しかし、ある意味で イエス様が存在しない教会が多いのです。形は教会でも、中身は教会ではないのです。

今回のテーマ箇所の3節に「自己中心」ということばが書かれていますが、自己中心が様々な問題の原因となっています。自己中心は、ある意味で高慢であります。「自分が1番」であるのです。


クリスチャンであり神様のことばを聞きながらも変わらない人々がいるのです。自己中心的な人がたくさんいます。
ですから問題が消えなく、分裂が起こります。


信仰歴が長い人でも自分を捨てないならば、自己中心的な思いが消えることはないです。


「私の意見が正しい。私の考えは曲げる必要はない」と自分が間違えていても変えようとしないのは高慢です。


【Ⅱ歴代誌7章14節】

わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、 わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

これは全ての人に向けて語ったのではなく、「わたしの名を呼び求めているわたしの民」に語りました。

民になったから全部同じだということではないです。
民と呼ばれているにも関わらず、神様のみこころと反する生き方をする者たちが相変わらずいることを神様は見ておられます。


神様が求めているものは、みずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、悪い道から立ち返り罪から離れる者に対して神様は、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそうという言葉があるのです。

神様は、神様と心が1つになっている者を求めているのです。


【Ⅱ歴代誌16章9節】

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。 あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。

世界人口の33%がクリスチャンだと語りましたが、その中から神様と心が1つになっている者を探さなければ見つけることが出来ない状態なのです。

それは神様と全く一つになっている者が少ないということを意味するのです。


私たちはすぐに神様から見つけ出される者でしょうか?

外見はクリスチャンらしくしていても、神様とは違う心を持っている人が多いのが現実です。それをそのままにしておいても良いでしょうか。

私たちがキリストと同じ心を持っているならば、行くすべてのところの問題が消えていくと思います。
しかし、外見はクリスチャンだとしても 悪魔の心を持っているならば、争いや分裂の原因を作るでしょう。

自己中心的な思いは、どこにいても問題を起こします。


皆さんは精神科病院へ行ったことはありますか?

私は行ったことがあり、精神病にかかった人と多く接しました。見た目は変わったところがなく、分別力もあります。きちんと話もしますが、その人たちの中で共通するものがあります。

皆、自分の話しかしないのです。自分のことにしか関心がありません。
また、被害者意識が強く、他人の話を聞かず、変えようともせず、自分の考えや思いを主張する傾向が強いです。


クリスチャンも「主よ、主よ」と言っている人が、神中心ではなく自己中心な思いがすごくあり、自分の考えを捨てないです。


自己中心は何1つ良い実を結ぶことがないです。


ですからイエス様が「わたしについて来たい者は自分を捨て」という言葉を使いました。
これは自分の良い部分を捨てなさいという意味ではなく、自己中心的な思い、高慢な思いを捨てない限り、(イエス様とは)一致しないということであります。

イエス様と自分の中で葛藤が多い人は、何が問題でしょうか?
神様や環境ではなく、自分自身が問題であります。相変わらず虚栄心などを持っているのでイエス様と合わないのです。

イエス様と一致しない人は、周りの人とも一致ができないです。
一致をするためには、それらを捨てなければならないです。


私たちがイエス様の心を持つための1番の方法は、イエス様をいつも見ることであります。

福音書を読むと、イエス様の姿が出てきます。イエス様から目を離さず、イエス様の姿をジーッと見ることです。
これはイエス様を観察をすることであります。


そして、私たちがイエス様の心を持ちたいと思うならば、へりくだり謙遜にならなければいけないです。

イエス様はもともと神でありました。神が人間の身体をとって地上に来られました。
もうこれだけでも謙遜であります。人間は神になろうとしますが、イエス様(神様)は人間になりました。さらに人に仕えたので、ものすごく謙遜です。

私たちの足を洗い、私たちの重荷を負ってくださるのは、神様の謙遜な姿であります。

私たちが高くなろうとするなら、イエス様と一致するのは不可能です。

しかし、高慢で高ぶっていた者が自分を低くして へりくだっていくならば、だんだんイエス様の心を自分の中で持つことができます。

私たちはイエス様を見ながら、頭を下げて自分の身を低くしていかなければならないです。






愛・憐み・寛容な心は、なぜ必要だと思いますか?

私たちは他人を愛することが出来ない者であります。
自分のことや所有物、家族は愛しても、それ以上の愛がないです。

他人を愛することも、自分の好みの人だけを愛します。自分のことを愛してくれる人を愛します。
少しでも気に入らないと私たちは、その人と縁を切ってしまいます。その人を嫌ったり呪ったりします。
私たちはそのような者であります。


教会の中で、私たちが他人に接する姿をイエス様は見ておられます。
例えば、教会でアルコール中毒者が来たとします。また、麻薬中毒者が入ってきたとしたら、その人たちを歓迎するでしょうか?しないでしょうか?

そのことによって私たちの中にキリストの心があるかどうかが試されていきます。
「あんな人は来なければ良いのに」という思いを持って、その人に見向きもしないならば、自分にキリストの心がないことであります。


イエス様は罪人や遊女、悪霊にとりつかれている者や病人のところへ行きました。
そのことを宗教指導者たちはものすごく軽蔑をして悪口を言いました。

もし私たちが宗教指導者たちと同じ心を持つならば、それはパリサイ人、まむしのすえどもと同じであります。

私たちは自らその場所へ訪ねていかなければならないです。そして歓迎をしなければならないです。
そのような人の中にはイエス様の愛や憐み・寛容な心があるのです。寛容は広い心で、差別することがなく、その人を受け入れる心です。


神様はクリスチャンに願っているのは、イエス様の中にある心を持って欲しいということです。
愛を持って接するならば、死んでいたたましいが生き返ります。


信仰生活を送りながらも、心が冷たい人がいるのです。その人の中に温かいものがないです。人と接する時にも笑顔がないです。

これは鏡で自分の姿を見て、みことばに照らし、「果たして自分はどうなのだろう?」と自分の中にイエス様の心を持っているのかを確認しなければならないです。


イエス様が再臨した時は、信仰歴が長い者でも、奉仕をたくさんする者でもなく、イエス様と心が1つになっている者が一番初めに天に引き上げられます。






バンジージャンプをしたことはありますか?
ロープに身を任せて、高い所から飛び降ります。それはとてもシンプルです。飛び降りれば良いことです。
これは子供にも分かることです。それは理論的に難しいことがないからです。

しかし、知識と実際にやることは全く別のものです。
ある者は「出来ます」と言って 身体にロープをつけたのに、直前になって出来ない人もいます。


これを見て、私たちが分かることは、いくら理論を知っていても実際に飛び込まないと分からないことであります。
飛び降りた人が初めてバンジージャンプがこういうものだということが分かるのです。

私たちはイエス様に対しても、そういうことであります。

「イエス様の心を持つことはこういうものです。」と、このように言うこと自体は知識です。
しかしイエス様と親しくなってイエス様の心を持つことは全く別のものです。


理論だけで生きているクリスチャンが多いということです。実際に(イエス様に)飛び込んだ人は少ないということであります。知識を持ったからといって、それが何になるでしょうか。

信仰生活は実際にやらないと分かりません。実際にイエス様に近づかなければ、イエス様がどのような方なのかは分かりません。


クリスチャンは「信仰、信仰」と言っても、キリストの中に飛び込まないと、いつまで経っても その人の心が燃えることはなく、心が変わることもないです。

しかし、私たちがキリストの中に飛び込むなら、キリストも私たちの中に飛び込んでくださるのです。そこで1つになるのです。

信仰は知識ではないです。もしも知識の信仰ならば、その知識が偶像になります。


皆さんはイエス様に出会ったことに対して、どのように思っていますか?
イエス様に出会えたことは人生で最高の恵みだと思っているでしょうか?

皆さん1人1人の信仰の姿は違います。しかし神様が求めるのは1つであります。「わたしの心を持ちなさい。」ということです。

信徒1人1人にその心があるなら、争いが起こらないのです。皆違うのでバラバラになり分裂、争い、戦いがあるのです。

ですから、「自分の心にイエス様の心が無いのが問題であり、いつも私が問題を起こしているのだ。」と思ったら良いです。


自己中心を捨てない限り、イエス様の心が私たちに入ることはないです。

イエス様が行ったことはすべて正しいので分別をする必要がないです。
つまり、イエス様の口から出ることば、すべての行動は正しく、真理そのものですので、私たちがそのまま受け入れて良いということです。


様々な問題は自分自身の中にあるのです。ですから自分自身が変わらなければいけないです。


イエス様の心をもっと持たなければ、イエス様が私たちを見た時に「あなたはどこから来たのか。わたしはあなたを知らない。」という結果になると思います。
ですからそういうことにならないように、イエス様の心を皆さんが持ってください。それが聖徒であります。
(^∀^)

2014.8.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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