テーマは『 聖餐式について 』です
【ルカの福音書22章7-30節】
私たちは毎月 聖餐式がありますが、感動があるでしょうか? それは儀式的ではないですか?
神様の身体であるパンと、ぶどう酒を飲んで食べたら「聖餐式は終わった。来月にまたある」と
そのような思いで感動も臨在も感じることもなく、(聖餐式の)深い意味も知らないで1つの儀式として
行ってきた部分がすごくあると思います。
聖書箇所の場面は、イエス様と弟子たちの最後の晩餐であります。
今、私たちが聖餐式で受けているような小さな杯にブドウ酒、小さなパンではなく、
初代教会の時代は食事でした。それが聖餐式でありました。
最後の晩餐の時の背景を見てみると、過越しの祭りの時でした。
過越しの祭りとは?
イスラエルの民たちが奴隷としてエジプトで430年間もいました。
彼らがエジプトから出てくる時に、最後に神様がその場で災いを下して神様の力を見せつけました。
そして神様がイスラエルの民たちをそこから解放していく時に、最後の晩に「帯をしっかり締めて、服を着て
エジプトから出る準備をしなさい。」と語り、その時に神様が教えてくださったのが、
「羊をほふりなさい。そしてそこから出てくる血を全部(門)構えのところに塗りなさい。
その血を見て、血が塗られていない門の初子(家畜も含む)を全て殺し、あなたたちをこの国から解放するんだ。」と、先に語ってくださいました。
それを聞いた民たちは羊をほふり、門に血を塗りました。
その時に死の霊がその血を見て、そのまま通り過ぎたので、過越しの祭りになりました。
その時に犠牲になっているのが、子羊であります。最後の晩餐、それが過越しの食事の時であります。
イエス様ご自身が過越しの祭りの子羊のように ほふられるんだということをイエス様が語っておられます。
「わたしのからだ、わたしの血」ということは、「わたしがその時の子羊のように、わたし自身も
十字架にかかってこういうふうになるんだ」とイエス様が示されました。
弟子たちが過越しの祭りの為に、何かをしたというものはありませんでした。
イエス様ご自身が全部準備をしました。それも不思議な方法でした。
場所など自分でシナリオを書いたのではなく、全知全能の神様でありますので
全てわかっておられます。(イエス様が言われた通りに全てが進み)弟子たちと一緒に行って座りました。
これが最後の晩餐であります。
私たちが聖餐の意味を知る為に、
最後の晩餐の時に何があったのかを知らなければならないです。
【ルカの福音書22章21-22節】
裏切る者、これはイスカリオテのユダだけではないです。全ての者がイエス様に対して裏切りの罪を
行っているのです。それまで一緒だった人が、簡単に裏切る。簡単に約束を破る。簡単に離れて行く。
私たちは聖餐の時に、そのメッセージを思い出さなければならないです。
『 私はイエス様を裏切っていないのか? 』
私はそこに参加していたからOKということではないです。心が離れているということは裏切ることであります。
【ルカの福音書22章34節】
聖餐を受ける時に、「私は日々の生活の中でイエス様を知らないとは言っていないかな」
「否定する行為を私はしているか、していないか?」を確認しなければならないです。
神様が語る新しい契約とは、人間と人間の契約ではないです。
人間同士の契約は変更されることもたくさんあり、守られないこともとても多いですが、
イエス様が人間に与えた契約は勝手に変えることはなさらないです。
それは必ず守られる契約であるとイエス様は語っておられます。
新しい契約ということは、イエス様が十字架に架かって血を流すことによって立てられる計画でありますので、
この計画を私たちは覚えておかなければならないです。
聖餐式の時に「イエス様が私の為に、自分が犯した罪の代価を払ってくださった」ということを
思い出さなければならないです。自分達が良い事をしたから救われたということではないです。
私たちは何もしていないのに、イエス様が十字架に架かって一方的に私たちを罪から贖ってくださいました。
イエス様は私たちの命の恩人であります。それがなければ永遠の死でした。
【Ⅰコリント11章26節】(聖餐式の際に読まれる聖書箇所です)
私たちには主の死を告げ知らせる義務があります。
聖餐を受ける時には、「私はイエス様の言葉通りに、イエス様を人々に伝えているのか?」と
考えなければならないです。自分だけ受けて終わりではないです。
なぜこのことを最後の晩餐の時に告げたのでしょうか?
イエス様は離れていきますので何か弟子たちに残したかったです。
弟子たちは誰も気付かず、これが最後の食事になるとは思っていなかったです。
弟子たちは全然違うことを考えていました。「この中で誰が一番偉いのか?」ということを議論していました。
イエス様がいくら十字架のことを語っても、関心が違うので全く耳に入っていないです。
イエス様は「こんな者たちが、わたしが去った後(人々に)福音を宣べ伝えることができるだろうか」
そういう意味でイエス様はいつまでも覚えられるように最後の晩餐の時にそれを語りました。
【Ⅰコリント11章20-21節】
今は教会で食事をしないところも多いですが、食事をするのが初代教会の姿でありました。
ただ空腹であるから食事をするのではなく、主を信じる者が一緒に食事をすることは、
最後の晩餐のことをいつも思い出しなさいということです。
そこでイエス様が語ったメッセージを思い出しなさいということであります。
ただ食べることに必死になるなら、それは動物的欲求だけで終わってしまうことです。
それは意味のない食事になります。
これから私たちが教会で聖餐を行う時には、いつも自分に質問をすることであります。
- 私は日々の生活の中で、イエス様を裏切っていないのか
- イエス様を知らないと認めないで今生きているのではないのか
- ずっとイエス様の十字架の死を人々に伝えているのか、いないのか
それを確認する時間でもあります。
思い出しなさいと神様が語っていますので、
私たちは主が語った通りに覚えて実際の生活の中ですることです。
それが聖餐の意味を知っている姿です。 (。・ω・)ノ゙
もしその通りに出来ていなかったならば悔い改めて、主のメッセージ通りに私たちが生きる必要があります。
今年はその意味をはっきり知って、聖餐式を行う時には自分の中でそのメッセージを思い出して質問してください。
2013.1.6
聖日礼拝メッセージ
八戸ノ里キリスト教会
*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜
金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ
□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■