からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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聖書

人間をとる漁師

テーマは 『 人間をとる漁師 』 です

【マタイの福音書4章18-20節】

イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。

イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

彼らはすぐに網を捨てて従った。

イエス様が最初に弟子として選んだペテロとアンデレ兄弟は、職業が漁師でした。


仕事が終わって網を打っていた時に、イエス様が近づいて話かけてきました。

「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と。


すると二人はすぐに網を捨てて従いました。

ものすごく早い決断でしたが、イエス様が語ったことばの意味をちゃんと理解していたでしょうか?


後の彼らの行動を見ると、イエス様の思いとは違っていたことが分かります。

彼らは、“偉い人になって人々の上に君臨する” という意味で理解していました。


最初は他に選ばれた弟子も同じで、誰が一番になるかをみんな興味があって、もめたこともありました。

「人間をとる漁師」ということばは、イエス様が多分初めて使ったことばだと思います。

聖書以外では聞いたことがないことばです。


魚をとる漁師たちに対して、「人間をとる漁師」ということばは イエス様の洞察力から出たことばだと思います。

イエス様が彼らにさせようとする働きが、漁師の働きと似ているからです。


イエス様はいま私たちにも同じことを語っています。


「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

これは主の約束でもあります。


私たちは自分たちの努力で 人間をとる漁師になるのではありません。


主について来るならば漁師にしてあげる と言われました。

主について来ない者は、まず人間をとる漁師にはなりません。


人間をとる漁師はイエス様によって造られていきます。


弟子たちの姿を見ると造られていくのが分かります。

魚をとる漁師の姿と、人間をとる漁師の姿は共通点が多いです。


漁師が働く場所は広い海か湖です。

弟子たちが働く場所は 全世界です。


【マルコの福音書16章15節】

「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

漁師は広い海に出て行って魚がとれそうな場所に網を仕掛け、餌を蒔いたりもします。

そして次の日に網を回収するためにまた出掛けます。

回収すると たくさん獲れていたり、一匹も獲れなかったりもします。


聖書では、二回 弟子たちが何も獲れなかった日がありました。

海に網をおろしたからと言って必ず獲れることではありません。

何も獲れない時もあります。


伝道することは、それと似ています。


一生懸命 網をおろして働いたからと、それが必ず報われることはありません。

何にもない時もたくさんあります。


それでも海に文句を言いながら (獲ることを)やめる人はいません。

過酷な状況の中でも し続けるのが漁師の仕事です。


人間をとる漁師の働きの中でも直面する多くの戦いがあります。




人間をとる漁師の仕事をなぜ主はさせるでしょうか




全人類に対する神の救いの計画のために働く人が必要だからです。


【第2ペテロ3章9節】

ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

【ローマ10章13-15節】

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

【マタイの福音書24章14節】

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。



人間をとる漁師の主な仕事は、遣わされて人々に福音を伝えること




イエス様が、まずどのような働きをするのかを見せました。


そして弟子たちに 次のように話されました。


【マタイの福音書9章35-38節】

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。

また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

それからマタイの福音書10章では 弟子たちを正式に任命し、彼らに力を注ぎ、人々に遣わしました。


その時に様々な注意点と、彼らが直面する問題や困難に対して詳しく話しました。

それに関しては、みなさんが聖書を読んでみて下さい。


異邦人に福音を伝えたパウロは、この働きに対してこのように言いました。


【エペソ3章7節】

私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。

「人間をとる漁師」に選ばれたことが神の恵みと思って、死に至るまで忠実に働き、数えきれない多くの魂を主に導きました。

立派な 人間をとる漁師になっていました。




「人間をとる漁師」として、どのように福音を伝えるべきでしょうか




福音を伝える方法は 時代によって、地域によって変わっていきます。


イエス様がおられた時代は、人々の所に出かけて直接 福音を語りました。

人々はそこに集まって福音を聞きました。


路傍伝道は、昔 よく使われた方法でした。

人々の生活が、今よりも単調で そんなに忙しくもなかったので、路傍伝道の時も集まって来ました。


しかし、いま路傍伝道はあまり効果がないです。

立ち止まって聞く人はほとんどいないです。


今の時代に合うものが効果あります。

今はすべての人たちがネットを使う時代です。


みんな手に携帯を持って、それで情報を手に入れますし、人と会話をします。

悪魔もそれを大いに使っています。


ISがどのようにして戦闘員を集めたでしょうか?

ネットを使って募集しました。

そこに連絡した人たちが渡って行き、テロリストになっていきました。


SNSを使って、すべての情報が拡散されたり、そこから情報を得たりする時代に変わりましたので、いまこれが福音を伝える一番有効な手段です。


【第2テモテ4章2節】

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

時間も空間も関係なく、SNSを使って福音を人々に伝えることが出来ます。






アメリカでのことです。

最近アメリカでは「Back to church Sunday」運動が盛んになったらしいです。


教会から離れた人や 一度も教会に来たことのない人たちを、日曜日の礼拝に招待する運動ですが、メールで招待状を送る方法です。

それが素晴らしい効果を上げていると聞きました。


この運動に参加する人々は 週に一度、それを1年間、自分が通う教会に招待するメールを送りました。

それによって 70万人が参加しました。

すると一年間で参加した教会の出席者が20%増えました。


最初はそんな方法は “幼稚である” とか、“効果がない” とか否定的だった教会も、いまは参加しているので100万人に増えたと聞きました。

しないよりは した方が良いです。


どんなに小さいことに見えても、しないよりは効果があります。


私たちの周りにいる信じない家族や知り合いの魂を導くためには、小さいことでも実践しようとする意思と努力が必要です。


イランで ムスリムだった人が、アメリカでクリスチャンになって 今は福音を伝える放送をやっていますが、たくさんのムスリムの人が その放送を聞いています。


ムスリムの人たちを伝道するためにやっている90分放送ですが、パキスタンで250万人、サウジアラビアで10万人、スーダンで500万人、イランで100万人、それ以外でも聞いていて今は5千万人が聞いています。


福音に反対する人も多いですが、聞きたいと願っている人も多いです。


教会のホームページでも毎日福音を伝えています。


ただ単に 教会を紹介するために作ったのではなく、福音を伝える目的で作りました。

訪問者がどんどん増えているので効果があります。

「今日のいのちのパン」や「今週のメッセージ」でも毎日訪問者が多くなってきました。


みなさんも個人的にSNSを使って福音を伝えて下さい。


聖書のことばだけを伝えるブログを作っても良いと思います。

メールで伝えても良いです。


良い知らせを伝えることが「人間をとる漁師」の仕事です。


みことばの種が蒔かれると、いつか芽が出る時があります。

自分にも福音を伝える使命があることを覚えましょう。
v( ̄∇ ̄)v


2017.2.5
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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大胆さが必要

テーマは 『 大胆さが必要 』 です

【申命記31章6-8節】

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目で彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。

主ご自身があなたの前に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。

モーセが民に対して、そしてヨシュアに対して、なぜ同じことばをもって励ましたでしょうか?


それは、これからカナンの地を征服しないといけない大きな戦いが 目前に迫っていたからでした。

戦う相手には 高い城壁、訓練された勇士たち、様々な武器がありますが、荒野を40年間通って来た自分たちには 武器も訓練された勇士も戦いの経験もまったくないので、どうしたら良いか分からず、当然民たちには不安と恐れがいっぱいでした。


戦う前から敗北感を味わっていたと思いますし、無気力状態だったと思います。


しかし神の約束を信じ、荒野で40年間 神の守りを見てきたモーセですので、自分がいなくても神ご自身が イスラエルの民を約束の地に必ず入れて下さると信じていたので、自分の後継者として これから指導者になるヨシュアと共に 戦いに参加する民を励ましました。


「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。」

このことばは、終わりの時代を生きている私たちに、今 もっとも必要な言葉だと思います。

なぜなら 主を信じている者にとって、これからの時代は患難の時代になるからです。


信じない人たちは世の流れに従い、それに合わせて生きるので、そんなに大変とは言えないです。


しかし神のみこころのままに生きようとする者には、それに逆らわなければならないことが多くなるので、戦わないと信仰を捨てるしかありません。


信仰を捨てることは、永遠のいのちを失うことですが、それでも現実の患難に勇敢に戦うことが出来ず 目先のことで恐れが入り、クリスチャンとして生きていくことをやめてしまいます。

これから ますます戦いが激しくなることは預言されてあります。


そして、その戦いは霊的戦いではなく、実際の戦いになるからです。


祈りの中で「サタンよ。イエスの御名によって出て行け。」は誰でも言えます。

別に怖いことも不安になることもありません。


しかし実際の戦いは、そんなものではなく “実戦” です。

現実の戦いで勝利することは 簡単なことではないです。


私たちがこれから直面する戦いが、どのような戦いになるのかを聖書と歴史を通して なぜ “大胆さ” が私たちに必要であるかが分かります。


信仰だけでは戦いに勝利できないです。

大胆さがないと、信仰があっても 負ける戦いがたくさんあります。


現実の中でどのような戦いがあるのかを学びます。




世の権力、すなわち政治的圧力との戦い




これはイエス様も バプテスマのヨハネも 聖書に出てくる多くの預言者も そして迫害を受けた信徒たちも経験しました。


神に逆らう法律を作って、クリスチャンを攻撃しました。

クリスチャンから信仰を奪うためでした。


従わない人は 殺されたり、迫害を受けました。


大胆な預言者や信仰ある人たちは見て見ぬふりをせず、不正と不義に対して大胆に抗議したため迫害を受けたり殉教したり、預言者たちは殺されました。


アメリカでもオバマ政権の時に、キリスト教に対して圧力をかける法律を作って物言えぬようにしました。


アメリカのクリスチャンたちは それに対して沈黙しました。

大胆に戦ったこともなく、とても無力でしたので、神が忌み嫌う法律が次々と決まってしまいました。

クリスチャンたちの負けでした。

それは政治的圧力との戦いに失敗したことになります。


その時に 大胆にそれに向かって立ち上がったのが 今のトランプ大統領でした。


彼にある最高の賜物は “大胆さ” です。

1人で不正な権力に立ち向かいました。




軍事的脅威との戦い




ダビデとゴリヤテの戦いがありました。


ペリシテ人の陣営から 並外れた体と戦いに強いゴリヤテが出て、イスラエル陣営に向かって脅しの言葉を掛けただけで イスラエルの民は意気消沈し、非常に恐れて誰も戦いに出なくなりました。

このままならば 完全にイスラエルの負けでした。


しかし、たまたま そこにいた兄たちに会いに来ていたダビデが まったく恐れず、大胆にゴリヤテに向かって叫びました。


【第1サムエル記17章45、47、46節】

おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。

この戦いは主の戦いだ。

主はおまえを私の手に渡される。

そして1人で立ち向かいました。


結果はどうなりましたか?
殺されましたか?


その戦いの結果は、ダビデの勝利でした。

ダビデに力があったのではなく、彼の大胆な行動に 神が働き、彼のことば通りの結果をもたらして下さいました。


そのことで司令官に任命されたダビデは、それからのすべての戦いに いつも神に頼って大胆に戦ったので一度も負けたことがありませんでした。




軍事力脅威による戦い




まさに いま世界の多くの国々は軍事力の強い大国を目指しています。


代表的な国は、ロシアと中国と北朝鮮です。

周りの国や世界を不安にさせます。


軍事大国だからということで、戦争にいつも勝つでしょうか?

歴史を見ると、そうでもありません。


劣勢だったのに 神に祈って大胆に行動したことで勝利した実際の戦いは 歴史の中にも色々あります。

世界のあちらこちらで さらに戦争や内戦が起こります。


聖書にそのことも預言されてありますので、驚くことでもないです。




宗教弾圧による戦い




イエス様に対して敵意を持って殺したのも 当時の宗教指導者たちでした。


ローマ時代にあったクリスチャン対する大量虐殺、日本でも同じことがありました。

今もイスラム世界、北朝鮮で弾圧を受けるクリスチャンも多いです。


そして聖書の預言にもあるように 主の再臨の前に、反キリストが現れ、世界的に激しいキリスト教徒に対する迫害が起こります。


その迫害に耐えられず、信仰を捨てる者が大勢出てくると言われました。

しかし、その中でも最後まで耐え忍ぶ者が救われます。


主の弟子ペテロが “いのちを捨てても主に従う” と言った後に、何時間も立たないうちに主を知らないと三度も言ったことを見ても、人間は本当に弱い者です。


信仰が強い者でも、迫害に耐えることは大変です。


その時は殉教する覚悟が出来た人が 大胆に戦うことが出来、信仰を守ることが出来ます。


それ以外は無理です。




悪口、誹謗、中傷など人から受ける多くの攻撃や経済的攻撃




その時、つまずいたり、疑いや不安や恐れで心が折れて戦うことが出来ず、敗北してしまう人も多いです。

信仰を捨て、イエス様から離れる人も多いです。

そうなると 救いも永遠の命も失ってしまいます。


私たちが戦いに勝利して信仰を守るためには 人や環境を恐れず、また死をも恐れない大胆さが必要です。

それなしには恐れに負けて 勝利出来ないです。


「死ななければならないならば死ぬ。」という覚悟があると大胆になります。




大胆になるために役立つ方法




① モーセが話したことばに、その方法があります。


「あなたの神、主ご自身があなたと共に進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」


主が共におられることへの確信が 私たちを安心させ、大胆にさせます。


ヨシュアもダビデも その確信で大胆に戦い勝利しました。

主は力があり、味方になって下さいますし、約束に対して真実な方です。そして戦いに強い方です。


② すべての主権者である神を一番恐れることで、他のものへの恐れが消えて大胆になります。


【マタイの福音書10章28節】

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

人を恐れるとわなに陥ります。


③ 神の言葉の上に堅く立つ時に大胆になれます。


みことばは 力を与え、希望を与え、慰めを与えます。


そして、みことばを守る者には 神の助けと守りがあります。


【第2コリント4章16-18節】

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

④ 自分の弱さを知って神に頼り 大胆さを祈り求めることです。


パウロは自分の弱さを知り、自分が祈るのはもちろん、他の人々にも自分が大胆に福音を伝えることが出来るように 祈りの要請をいつもしていました。


神様にいつも大胆になれるように祈り求めることが必要です。

祈りの備えが いざという時に力になります。


⑤ 聖書に出てくる人物が、戦いや攻撃を受けた時に どのように戦ったのかを、しっかり学ぶことで その大胆さの秘訣も学べます。


攻撃や患難に人間的な方法で戦うのではなく、勝利した人たちからやり方を学び、その通りにやってみることも一つの方法です。

このようにして、普段から大胆さを身に着けるように訓練していかないと、すぐに恐れが入ってそれに負けてしまいます。


パウロは次のように言いました。


「私は私を強くして下さる方によってどんなことでもできるのです。」
大胆な宣言です。


そしてその通りに彼は激しい迫害の中でも福音を伝え、自分の使命を果たし、殉教しました。

殉教は負けたことではなく、いのちを懸けて信仰を守り通した証です。


目まぐるしく変わる世の中で、それに流されず神のみこころを行いながら生きるためには、たくさんの戦いに大胆に取り組まないといけないです。

目を覚まして神から力を受けて勝利していきましょう。
( ̄‥ ̄)=3

2017.1.29
聖日礼拝メッセージ

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私たちを祝福したいと願う主

テーマは 『 私たちを祝福したいと願う主 』 です

【民数記6章23-27節】

「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。

『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』

彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」

人間が神に求めることは、何と言っても祝福ですね。

自分を呪ってほしいと神に祈る人がいるでしょうか。


時にはあまりにも辛いので、神に「生きるより死んだほうがましです。私の命を取って下さい。」と嘆くことはあるかも知れません。


しかし、本音は “祝福されること” です。

祝福されたら死にたいとは言わないと思います。


聖書によると、私たちが必死に祝福を求めて、やっと祝福されるのではなく、神の方が私たちを祝福したいと強い願いを持っていることが分かります。


親子関係で考えるとその意味が分かると思います。

子どもが生まれると、子どもが何も願わなくても、親の方がたくさんの祝福を与えようとあれこれ考えます。


神様もそうですね。

神様は私たちを愛しているので、祝福したいと願っています。


神が選んだ神の民には、特別な祝福があることを、イスラエルに向かって語った言葉で知ることが出来ます。


それは神を信じる者に与える祝福です。


今回は そのことを考えながら メッセージを聞いて下さい。




神は 祝福の神で、祝福を与えたいと願っています




神ご自身が「受けるよりも与える方が幸いである」と言われました。


世界とその中にある すべてのものを造ったのは 神であり、神はそれらを私たちのために与えて下さいました。

空気もタダ、太陽の光や熱もタダ、山や川、空もタダで見ることが出来ます。


とても大切なものをタダで使うようにしたのは神です。


それは神が “祝福の神” だからです。


【マタイの福音書5章45節】

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

すべてのものを人間の祝福のために創造し、創世記から黙示録まで読むと、神の祝福がたくさんあることが発見出来ます。

神を信じることは、その祝福を受けるためです。


神ほど私たちを祝福したいと願う方はいません。


人間は悪いことがあると、神様のせいにして、神のことを悪く言いますが、それは “悪魔” がしたことを神と勘違いした人がいう事です。


ですから 神に悪口言う前に、自分が信じる神が 本当の神かどうかを調べてから言って下さい。


人に悪を働くのは神ではなく、悪魔(サタン)であることを知りましょう。


聖書には悪魔の仕業がたくさん出てきます。

“盗む、滅ぼす、惑わす、誘惑する、罠を仕掛ける、襲いかかる、苦痛を与える、病気を与える、死をもたらす” など様々な例があります。


しかし神は初めから祝福の神です。

その祝福なしには人間は存在できないです。


【哀歌3章22-23節】

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。

それは朝ごとに新しい。

祝福の神を信じる人は幸いな人です。


神を誤解しながら生きる人は、特別な神の祝福を逃すことになりますので本当にもったいないです。




祝福の神は、私たちが祝福を求めることを願っています




神は “祝福の神” ですが、私たちがその祝福を求めて神の御前に出ることを願っています。


何も求めないで、神に任せるのが “信仰深い姿” だと思いますか?

―― そうではないです。


神は祝福に対しては、求めるように言われました。


【第1ヨハネ5章14-15節】

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

イエス様は、声を上げてイエス様を呼んだ人々に「何をしてほしいのか」と聞きました。


その時、願いをはっきり言った人たちは みな祝福されました。


祝福は積極的に求めることです。


主がそのようにしなさいと言われましたので、祝福は本人が積極的に求めることです。

神がそれを願っておられるからです。




ほかの人のためにも 祝福を求めることを神は要求します




神はすべての人が祝福されることを願っています。


ですから 自分だけ祝福されることを願う人は、神の心とは違うので、神はそれを “貪欲” と言って嫌います。


神はどの人のことも愛しています。

神の愛は変わることがありません。


私たちは愛される資格があったでしょうか?

他の人より優れた所があるでしょうか?

罪がなかったでしょうか?


それを考えると、他の人を悪人呼ばわりしたり、祝福を受ける資格がないと言ったらいけないです。


神は次のように言われました。


【マタイの福音書5章44節】

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

また弟子たちを遣わした時にも このように話しました。

【マタイの福音書10章12-13節】

その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。

その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。

ですから私たちが他人のために祝福するのは、神のみこころですし、それは必ず相手の祝福になるか、自分の祝福になるかで無駄になることはありません。


相手のために神に求めることも祝福であり、自分が受けた祝福を 人のために使うことも祝福を与えることです。


最近ニュースで知りました。

わずかな年金で生活が出来ない貧困老人がたくさんいるのに、生活保護を申請しない老人が多いということです。


その理由は、受けることを恥だと思うらしいです。

「施しは受けたくないと。
生活はとても悲惨なのにそれでも受けないと。」


生活保護は、最初から困った人のために使う予算です。

自分たちが税金を払って、そこから受けることですから、 “施し“ ではないですね。


国には様々な制度が国民のためにあります。

他の制度は積極的に使いながら、生活保護だけをそのように思うことは、その制度に対する偏見だと思います。

困った人にはそれは準備された祝福です。


悪いのは、お金が十分あるのに、その制度を悪用する人たちです。


私たちは、神がどのような祝福を用意してあるのかを もっともっと知る必要があります。


そして、その祝福の制度を積極的に使うことです。

どうにもならないからと死を選んだり、諦めたりする前に、まだやっていないことがないかを探ることです。


聖書には神の祝福がたくさんあります。

神を信じてそれを求めるならば、その願いが みこころにかなう時には祝福を受けることができます。


神は真実な方ですから、その約束を守ります。
(・◇・)ゞ

2017.1.15
聖日礼拝メッセージ

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人生の台本

テーマは 『 人生の台本 』 です

ハレルヤ。

今日も聖霊に満たされますように祈ります。


人生には台本がありません。

人生ほど先が読めないものはありません。

ですから、ドラマチックでもあります。


聖書にはドラマよりも面白い ある人たちの人生が書かれてあります。


【第2列王記7章3-4節】

さて、四人のツァラアトに冒された人が、町の門の入口にいた。彼らは互いに言った。「私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか。

たとい、私たちが町に入ろうと言っても、町はききんなので、私たちはそこで死ななければならない。ここにすわっていても死んでしまう。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らが私たちを生かしてくれるなら、私たちは生きのびられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」

当時、ライ病人は、町の中に住むことが許されず、町の外に隔離されて生活していました。

普通に生きることができず、社会から疎外されていました。


しかし、神様は彼らを使ってアラムに包囲され、そのためひどい飢饉が町を襲い、飢え死するしか道が残されていなかったユダヤ人たちに勝利の知らせを伝える者にしました。

四人のライ病人たちは、どうせ死ぬ運命だから、祖国を裏切り、アラムの軍隊に降伏するために行きました。


神様は自分の力をあきらめ、神の前に完全に降伏する人たちに恵みを与えた話が聖書に色々と出てきます。

しかし、それが終わりではなく、救い出した人たちを神の働き人として用いてくださいました。


ライ病人がしたことといえば、とにかく生きるために その道を探っただけでした。

何一つ持っていないライ病人として選択できる道は降伏することしかなく、彼らはその道を選びました。


しかし、何が起こったでしょうか?

アラム軍隊の耳には、彼らの歩く音がまるで戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎのように聞こえたので、彼らは恐れて何もかも捨てて逃げていきました。


ライ病人たちは何が起こったかも知らず、アラムの陣営に行って、驚く光景を目にしました。彼らはお腹いっぱいに食べ、この良い知らせをユダヤ人にも伝えました。


これは誰一人想像することすら出来ない 神の不思議な方法でした。

この方法に用いられた人たちは、霊的な人でも 特別な力がある人でもなかったことが、私たちに慰めを与えます。


アラムの軍隊も ライ病人たちも普段通りにやっていたでしょう。

しかし、神のドラマに動員された人たちは、何も分からず その役割を立派にこなしていました。


私たちの人生も、台本を事前にもらって演技をするドラマとは違って、次の場面がどのように進行されていくのか まったく分かりません。

ですから、人生に神の演出という信仰がないと、不安に絡まれてしまいます。


私たちが信じなければならないのは、神のドラマは私たちが想像すらできない神の方法で進みますが、次の箇所にあるように信じなければなりません。


【ローマ8章28節】

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

それを悟る人は患難の中でも、希望をもって感謝し 喜ぶことが出来ます。

神のドラマで、自分がどのような役割をするのか知る必要もありません。

事前に知ったら面白くないです。


ただ自分の役割に忠実であれば良いです。

神が演出する人生には、“失敗” という結末がないことを確信しながら、日々忠実な者になりましょう。
(*´Д`*)

2016.2.22
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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五つの教会が受けた主からの非難と対策

テーマは 『 五つの教会が受けた主からの非難と対策 』 です

【ヨハネの黙示録1章10ー11節】

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤに送りなさい。」

先週は 七つの教会の中で、主からほめ言葉をもらった六つの教会を学びましたが、今回は七つの教会の中で、非難を受けた教会が五つもありましたので、どの部分が非難されたのか。


そして、それを変えるために、どのような対策を主から受けたのかを学びます。




◎ エペソ教会




【ヨハネの黙示録2章4ー5節】

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

この教会の問題は、初めの愛から離れたことでした。


他のすべてが良かっただけにこの部分は残念であります。

しかしこのような教会がたくさんあるのも事実です。


なぜ初めの愛から離れてしまったでしょうか。

奉仕や活動ばかりに心が向いてしまって、いつの間にかキリストとの交わりが減り、キリストへの関心も減り、ないがしろになってしまいました。


家庭で例えるならば、家族のために仕事を熱心にするのは良いですが、時間がなくて家族と話す時間も 共に食事する時間もなく 愛し合う時間もないことです。

家庭に一番必要なものが抜けていきます。


それによって すれ違いが生じ、心が離れていきます。


教会に多くの行事があるのを主が喜ぶでしょうか。

それに忙しくて、神とゆっくり交わる時間も 聖徒同士ゆっくり交わる時間もないのが主の願うことでしょうか?
―― そうではないです。


初めは自分たちの心がキリストで満たされていたのに、ある時から無関心になりはじめたのは、主が“どこから落ちたのかを思い出しなさい” と、対策を教えて下さいました。

そして “悔い改めなさい” と語ってくださいました。


自分たちの心が再びキリストに満たされ、キリストと新たな関係を結んで初めて 悔い改めたことになります。


主が一番願うのは“主を愛すること”です。


奉仕ではなく、イベントでもないです。

まずは主を愛し、主の栄光のために働くことです。


いまエペソ教会は存在しません。

エペソ教会があった地域から数キロ以内に教会は存在していなく、イスラムが支配しています。

キリストが燭台を取り外してしまいました。
悲しいことです。




◎ ペルガモ教会




【ヨハネの黙示録2章14ー16節】

しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。

それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。

だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。

バラムは旧約聖書に出てくる にせ預言者で、イスラエル民族をつまずかせた預言者でした。


神は彼がしようとしたことを止めたので、最初はそれに従いましたが、結局 後で彼はイスラエル民族が神に罪を犯すようにたくらみ、イスラエル民族はそれに引っかかりました。

バラムの教えとは、不道徳と偶像崇拝へ導く教えでした。


多くの哲学も教会の中に入り、教会の中に教理というものも出来てしまいました。

非真理に対しては、真理であり 両刃の鋭い剣である “主のことば” で戦わないといけないです。


この時期に異教の多くの教えが教会に入りました。

多くの異教徒の教えが入ると、教会はどうなってしまうでしょうか?


カトリックがやっていることは、聖書にないことですが、それらのものが生まれました。

死人のための祈り、十字架を拝むことや聖人やマリア崇拝、裁きに対する間違った教えなどがあります。


このような混ぜ物で、教会は堕落していきます。




◎ テアテラ教会




【ヨハネの黙示録2章20ー23節】

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。

非難されたことは、イゼベルという にせ預言者の働きを許したことでした。


旧約時代のイゼベルは残忍な殺人者であり、異教徒でイスラエルの中でバアル崇拝を大々的に行った人物でした。

にせ預言者イザベルも、不義の偶像崇拝を教えていました。

そして決して悔い改めませんでした。


にせ預言者は サタンの霊に完全に支配されて、教会を内部から潰す働きをしますし、信徒たちを惑わして地獄に落とす策略で活動しますので、その者が受ける罰は サタンが受ける罰と同じです。


光の天使のように変装し、神から来たメッセージだと言いますが、中身はオオカミです。

それに騙されないことがとても大切です。

それに従う者は真理から離れて行きます。




◎ サルデス教会




【ヨハネの黙示録3章1ー3節】

また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

“生きているようにされているが、実は死んでいる教会” とは、どのような教会でしょうか。

真理ではないものと妥協する教会のことです。


御言葉に従って信仰生活をするのではなく、様々な教理や形にとらえられた “形” だけの教会です。

名ばかりの教会で、そこには いのちも主の臨在もありません。


どんなにたくさんの人や活動があったとしても、それが主の心に適っていないならば 主はそれを神の働きではなく、人の働きと見ます。

すなわち神とは何の関係もないということです。


このような姿も、多くの教会の中で見られる姿です。

真理に戻り、神が喜ぶことをしないといけないです。




◎ ラオデキヤ教会




【ヨハネの黙示録3章15ー19節】

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

無関心、なまぬるく無気力が彼らの姿でした。


見た目は何一つ乏しいものがないように見えました。

しかし彼らの霊の状態は みじめで、哀れで、貧しく、盲目で、裸でした。


神聖な部分がなく、教会が世俗化されてしまいました。

クリスチャンと言いながら、重要なキリスト教理を軽く考え、世の価値観で生きる人、反キリスト的な思想で生きている人、御霊に従うよりは肉に従うことを好む人たちがたくさんいる教会です。


それが当たり前のような教会で、悔い改めることもない教会です。


【第2テモテ3章5節】

見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

主から指摘された悪い部分を直すこともなく、放置するならば、それが癌細胞のように広がって命取りになります。


主がいない建物だけの教会、いのちのない死体のような信徒たちになってしまいます。


悔い改めることが一番の対策であることを主が教えて下さいました。
。゚(゚´Д`゚)゜。

2016.9.11
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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愛を見せなさい

テーマは 『 愛を見せなさい 』 です

【ヨハネの福音書14章21節】

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」

男性は愛を見せることがあまり上手ではないところがあります。


“言葉で言わなくても見たら分かるだろう” と勝手に思います。

女性は度々「愛している」という言葉を聞きながら、相手の愛を確認して幸せを感じ安心感を得ると言われています。

それは別に男性を疑っているわけではないです。


夫は、妻が愛のことばを言ってほしいと言われると、うっとうしいと思いますが、女性の心理を知って 理解するのが良いですね。


女性は愛されたい気持ちが強いので 愛を確認したいですし、男性は尊敬されたい思いが強いので 愛のことばよりは 尊敬のことばに感動するそうです。


イエス様は男性でしたが、やさしく愛をよく現していました。
心がとても温かい方でした。


愛は、無言で また何もしなくても感じるものでしょうか?


神様さえも私たちを無言で何もせずに愛したのでなく、行動で愛を現しました。


愛が本当にあるならば、それは必ず見える形で現れます。

ですから神は “愛を見せなさい” と語りました。


イエス様の告別メッセージには、特に “愛” に関することばが多かったですし、それが重要なテーマでした。


本文でも「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」と語りました。



また、次の箇所にはこのように語っておられます。


【ヨハネの福音書13章34節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

【ヨハネの福音書14章15節】

もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

【ヨハネの福音書14章23-24節】

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

【ヨハネの福音書15章12節】

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

イエス様はこのように “愛すること” が新しい戒めであると明確に教えて下さいました。


私たちは 愛し合うという新しい戒めを、どれほど守っていますか?


さらに、“神を愛すること”、“互いに愛すること” は切っても切れない関係であることが次の箇所に書かれています。


【第1ヨハネ4章7-16節】

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

愛を軽く考えてはならないことが、これらのことばでも分かりますね。


愛はことばだけで伝わるのではなく、イエス様を愛する人は主の戒めを守ることで、主への愛が証明され、互いに愛することで神への愛がその人の中にあることが証明されます。


愛は、いのちある種です。

蒔かないと実が結ばない種です。


主の名によってどんなに素晴らしい働きをしても 愛が抜けてあるならば、いのちの実がない葉っぱばかりの働きになってしまいます。


それは実を結ぶことを期待する主を裏切ることになります。


【第1コリント13章1-3節】

たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。

働きと賜物も重視しますが、それを価値あるものにするのは “愛” です。

愛のないものは主が受け取らないです。

この世の評価は すべて結果ですが、主の評価は “愛があるかどうか” です。


なぜ主は、愛で評価をするのでしょうか?

愛は結果ではなく “方向” だからです。


結果ばかり考える人は、目指す方向が “結果” ですから、働きや賜物を重視し、そこにいつも目を向けます。

ですから確かに結果はついてくると思います。


しかし主を愛する人は、愛の対象である “主” に目を向けます。

つまり 愛の方が働きよりも優先です。


ですから、いつも目も心もイエス様に向けます。
その人たちは、イエス様から目を離しません。



【ヘブル12章2節】

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

このように私たちがどこに目を向けるべきかを教えて下さいました。


愛は、愛の対象に関心があり、そこにすべてを向けます。

主がそのようにしました。


働きよりは 人に関心を示し、人を愛することがいつも優先でした。

私たちもそうあるべきであると主は教えました。


マリヤとマルタ姉妹のことは皆さんも知っています。

マルタは働き者です。
しかしマリヤは怠けているように見えました。


なぜならマルタは忙しく回っているのに、マリヤはイエス様の足元に座ってイエス様を見ながら話を聞いていたからです。


手伝わないマリヤを見て、マルタは腹が立ってイエス様にその不満をもらしました。

しかしイエス様からは意外なことばが返って来ました。


【ルカの福音書10章41-42節】

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

多くのクリスチャンが“マルタ状態”かも知れません。


熱心な人は主のために何かをしようとあれこれとやりますが、それが段々しんどくなり、主に会うと文句を言います。


ある人は、自分の仕事や遊びが優先で主と会う約束をいつも破ります。

礼拝や祈りの時間は主と先約した時間です。


しかし、よく破るのでイエス様はその人に会えないです。


イエス様は愛する人を待っているのに、その人が来ないと寂しい思いをします。


主が一番願うのは、私たちが主を愛することです。


そして主との時間を大切にし、主のことばに耳を傾けることです。

そして聞いたことば通りに行動することです。


これが主を一番喜ばせることです。


主を愛する時間もない人は、主を忘れ、いつか主も「あなたが誰なのか知らない」と言います。


いつも主を愛して共にいますか?
それとも忘れていますか?遠く離れていますか?


聖書でマリヤとマルタの姿を見ても、マリヤの方が主への愛が強いように見えます。


主を愛するのでイエス様から目を離さないでいましたし、主のことばは彼女には一番のごちそうでしたので、みことばを消化していました。


主を愛する人は 主の戒めをないがしろにせず守ります。

それは当然ですね。






ベロニカという女性が主の恵みによって地獄と天国を見学しました。

地獄に多くのクリスチャンがいる姿を見てとても疑問でした。

クリスチャンがいるとは思ってもみなかったからです。


それで 主にその理由を聞きました。


主の答えは「彼らはわたしを信じてはいたが、わたしのことばに従って生きることはしなかった。
多くのクリスチャンが教会の中、家族の前、知り合いの前だけおとなしく行動しているが、彼らは自分自身をいつも騙しながら生きているのだ。
私の父の目はすべてを見ているし、どこでもすべてのことばを聞いているのだ。」でした。


形式的で愛の冷めた結婚生活のような信仰生活を 主が喜ぶでしょうか?


主がもっとも望んでおられるのは愛の関係です。

主の愛は熱い愛なので、なまぬるい愛では満足しません。

“あなたの愛を見せなさい” と言われます。


信じる者として生きることは、愛の関係をずっと保っていくことです。


愛すれば愛するほど 心も霊的にも豊かになります。

そこから多くの実が結ばれていきます。


愛は話したり、考えたり、感じたりする以上のものです。

愛の関係が必要です。


イエス様は、私たちを愛して十字架に架かると話しただけではなく、実際に架かりました。

いのちを実際に捨てました。


喜んで自分を与えるのが愛です。

私たちのために十字架を負った主が語ったことばがあります。


【マタイの福音書16章24節】

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

主を愛する者ならば 自分の十字架を負って主についていきます。


ある教会で 主の教えとは違って人間的な思いで「こんなに苦労の多い時代に 教会の中でも重たい話を聞くならば ストレスガ溜まって死にます。教会では慰めと平安と安息を得なければなりません。」といつも祝福のメッセージだけを伝えるところがあります。


主の十字架は愛です。

私たちを愛したので死にました。


私たちが負う十字架も愛の十字架です。主への愛です。


自分のストレスの方がもっと大切で、自分が負う十字架を嫌がって拒否することは 主を愛していない証拠です。


愛する人には十字架は決して重荷ではないです。

育児は大変ですが、それを重荷と思って育児を拒否するでしょうか?


大変でも子どもを愛するので犠牲を喜んで払います。

他の理由はありません。


主を愛する人は自分が負う十字架を見るのではなく、愛する主を見て、自分も十字架を負います。


イエス様に対する自分の愛に偽りがあるならば、それは愛ではないです。

愛のない者に主は分からないとまで言われました。


主を愛する者は 父なる神に愛され、イエス様にも愛されます。


愛の本質は まぎれもない愛です。

愛がないならば、それは値打ちも本質も中身もない形だけのむなしいものになります。

互いに愛することで私たちが主を愛していること、そして神を知っていることが分かります。


主を愛していますか?互いに愛していますか?
愛の実が結ばれていますか?


それとも自分だけを愛しながら満足していますか?
Σ(`□´/)/

2016.5.8
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私をあわれんで下さい

テーマは 『 私をあわれんで下さい 』 です

【マタイの福音書15章21-22節】

それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。

すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

「どう祈ったら祈りが答えられますか。どう祈ったらいいかわからないです。」と言うクリスチャンが多いです。

このように、祈りを難しく考える人が意外にも多いです。


イエス様がどのような祈りに いち早く反応したかを聖書で調べるならば、どう祈るべきかが分かります。


イエス様の所には常に様々な問題や悩みを抱えた人たちが ひっきりなしに集まって来ました。

数えられないほどの奇跡がありましたが、ある奇跡は聖書に記録されてあります。


きっとそこには 神様が語りたいメッセージがあったので、特別に記録として残したかもしれないです。


今日の聖書の内容からは、答えられる祈りの言葉が出てきました。


主の所に悪霊に取りつかれた娘を抱えた女の人が来ました。

想像するだけでも日々大変な思いをしながら娘を育てていたと思います。


治す方法すらありませんので 先も見えないです。
毎日が戦いの日々です。


私も、今までそういう人たちを 何人も見てきましたし、悪霊も追い出しました。

家族もとてもつらい思いをしていました。


そのような苦しみを抱えた女の人が、主の所に来て話したことばは とても短いことばでした。


「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんで下さい。娘がひどく悪霊に取りつかれているのです。私をあわれんで下さい。」
この言葉がすべてでした。


これだけでも 辛い状況と切なる願いが伝わってきます。

ことば数が多ければ多いほど(祈りが)聞かれると思って、あれこれと言う人が多いですが、主の耳に一番入りやすいことばは「私をあわれんで下さい」ということばです。


なぜなら主は あわれみ深い方なので、この女の人はそれを知って 主のあわれみに訴えかけました。


そして主も そのことばにすぐ反応しました。

その後、イエス様は彼女の信仰を試しますが、それに対してしっかりと信仰を見せました。


さらに女の人は進み出て、主の前にひれ伏して、「主よ。私を助けて下さい」と懇願しました。


主が “あわれみ深い神” だけではなく、 “助け主” であることも知っている女の人は、積極的に主に願いました。

主は女の人の願いを叶えてあげました。

そして娘から悪霊が出て行き、癒されました。


私たちに主に対する揺るがない信仰があるならば「主よ。私をあわれんでください。私を助けて下さい。」と祈るだけでも主は答えて下さいます。






二人の盲人が目の癒しの奇跡を体験しましたが、彼らにも同じものが見られました。



【マタイの福音書9章27節】

イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。

そして さらにイエス様のみもとまでやって来た時に、イエス様は「私にそんなことが出来ると信じるのか」と聞かれた時に、「そうです。主よ」と自分たちの信仰を見せました。


すると、主はすぐに彼らの目にさわって「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われました。

そして彼らの目が見えるようになりました。


彼らは「主はあわれみ深い方、奇跡を行う主、願いを叶えて下さる主」であることを信じました。


その信仰を持って「主よ。私たちをあわれんで下さい」と叫んだので 主が癒して下さいました。


【へブル11章6節】

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

このように書かれているように、信仰をもって 主に「私たちをあわれんで下さい」と求めたので、奇跡が彼らに起こりました。


また、祈るために宮に来られた取税人の祈りはどうでしたか。

彼は罪の問題を持ってきました。
次の箇所です。


【ルカの福音書18章13節】

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

彼の前に、律法を守って敬虔な信仰生活していると自任しているパリサイ人の祈りには反応しなかった主が この人の祈りには反応しました。

そして彼の罪を赦して下さいました。


罪人が罪を赦してもらうために あれこれ言ったのではなく、自分の罪を悔い改めながら「神様。私をあわれんで下さい」と言っただけでしたが、それは主がとても喜ぶ祈りでした。


主が罪を赦して下さる主だと信じたので、主に直接お願いしました。


「私をあわれんで下さい」と祈る時に、主はあわれんで下さいます。

「私を助けて下さい」と祈る時に、主は助けて下さいます。


短いことばですが、主はその言葉に その人の辛さ、大変さ、悩み、願いがすべて入っていることを知っておられます。


そして、その言葉とともに主への信仰を持って主に近づく人に 主は答えて下さいます。

あわれみ深い主は、あわれみを求める祈りに すぐに耳を傾けて下さいます。



【ヘブル4章16節】

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

神様は私たちをあわれんで下さる方です。

また助けて下さる方です。


「私を助けて下さい」と信仰の先祖たちが 苦しみの中で主に助けを求めた時に、いつも助けて下さいました。


自分の中に 主への信仰があり、問題を主の所に持って行き 「主よ。私をあわれんで下さい。私を助けて下さい」と言うだけで、主は答えて下さる方です。


たくさん祈らないと主が見向きもして下さらないと勘違いしてはいけないです。


切なる思いで 「主よ。あわれんで下さい」 と祈るだけでも、その祈りは主に届きます。


(神様に)届いた祈りには必ず答えがあります。


「私をあわれんで下さい」という祈りは、謙遜な祈りです。
そして「私を助けて下さい」はSOSの祈りです。



【第1ペテロ5章5節】

みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

主の前にへりくだって切に求める祈りと願いに 主はいち早く答えて下さいます。


「私をあわれんでください。私を助けてください。」は、とても良い祈りのことばです。
(。・ω・)ノ゙

2016.1.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主が喜ぶことをする

テーマは 『 主が喜ぶことをする 』 です

【箴言21章3節】

正義と公義を行うことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。

主が喜ぶことが何かに対して考えたことがありますか。


偉大な信仰の人たちを見て分かることは、彼らは主を喜ばせた人たちでした。

主が喜ぶことをするならば、主もその人を喜んで下さいますし、主が嫌うことばかりをするならば、主もその人を嫌います。

主が喜ぶなら祝福がありますが、主が喜ばないなら 祝福はどんどん遠のきます。


私たちが神を愛し、信じるならば、主が何を喜ぶかに対して特別な関心が必要です。


なぜならば、私たちは自分を喜ばせるために神を信じるのではなく、神を喜ばせるために存在しているからです。


そのために私たちは 主が何を喜ぶかを知ることは、基本中の基本です。

今日の本文にも主が喜ぶことを私たちに教えています。





・正義と公義を行うこと




正義と公義は、人間が追及すべき絶対的価値があるものです。


なぜかというと、聖書が示す “正義と公義” は神のみことばを実践することだからです。


罪は神の言葉に違反した時に生まれました。

罪ほど神を怒らせ、悲しませるものはありませんし、神が一番忌み嫌うものです。


私たちは自身が罪を犯しながらも、他人が犯す罪に対しては怒りを発し 腹を立てます。


先日、殺された中学生たちのことを思うと、罪を犯した犯人に対して怒りの思いが出て来ます。

その犯人を赦して下さいという思いが出て来ないです。


ですから私たちが神に対して 人に対してひどいことをする時に、神様はどのように思うでしょうか。

決して喜ぶことはなく、まずは神の怒りが出てくると思います。


その罪がいけにえで解決されるでしょうか。
旧約時代はいけにえで解決されると思って、いけにえばかり捧げました。


正義と公義を行わず、罪を犯して いけにえばかり捧げたとしても、それで神を喜ばせる事は出来ません。

いけにえよりも、正義と公義を行うことを主は喜びます。


正義と公義を行うためには、まず すべきことがあります。

それは罪を認め、主に悔い改めることです。





・いけにえよりも 悔い改めと神の言葉に聞き従うこと




神は、私たちが罪を悔い改めて神のことばに従うことを願うのに、それをせず 奉仕や捧げもの等でごまかすことを嫌います。


サウル王が神の言葉を無視した後、分捕り物の中から羊と牛を残した理由を、“神へのいけにえのためである” と言われた時に、サムエルが語ったことばを皆さんも聞いたことがあると思います。


【第1サムエル記15章22節】

するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

神様は、主のことばを素直に聞き従うことを喜ぶ方です。

それが主を恐れる姿であり、主の権威を認める姿です。


そして罪を犯した者が言い訳したり ごまかしたりせず、素直に悔い改めることを喜んで下さいます。


ダビデ王も神の前に罪を犯し、しばらくは悔い改めることをせず、罪を隠したままでした。

しかしそのことで彼と神の関係は悪化していました。


悔い改めた後のダビデの告白を聞きたいと思います。


【詩篇51篇16-17節】

たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。

神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

私たちは日々、罪を犯しています。それを素直に認めて神様に悔い改めていますか?

主は罪を赦して下さるお方です。


罪人を受け入れて共に食事をしているイエス様を非難した宗教家たちに主は次のように言いました。


ルカの福音書15章で失われた一匹の羊のたとえを語った後に次のように語りました。


【ルカの福音書15章7節】

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。




・主を正しく知ること




神ほど誤解される存在もいません。

目に見えないので人間が勝手にあれこれと言います。


もし自分のことをよく知らない人間が、自分のことを誤解して違うことを勝手に言うならば、どのような気持ちになりますか?

人間が勝手にいうことばを聞いて主はどのように思うでしょうか。


【エレミヤ書9章24節】

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。― 主の御告げ ―

神を知る努力もせず、自分勝手な神のイメージで神を誤解することは愚かなことです。

自分勝手な信仰生活をしながらも、それが神に受け入れられると勘違いすることも愚かなことです。


主を正しく知ることで、私たちは真理の中を歩むことが出来ますし、まっすぐに歩くことが出来ます。

そのことを主は喜びます。





・絶えずささげる感謝



【第1テサロニケ5章18節】

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

感謝されると、心が自然と嬉しくなります。

感謝は、恵みやありがたさを知っているので出ることばです。

“こんなもん” とか “当たり前” としか思わない人からは感謝は出ません。


いつも口から感謝がこぼれる人を主は喜んで下さり、恵みを注いで下さいます。

それは神の耳に美しい歌のようです。





・神に対する信仰




【ヘブル11章6節】

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

無神論者、偶像崇拝者、信仰の薄い者は神に喜ばれることはありません。

純粋に素直に神を信じる者を主は喜んで下さいます。


自分が持っている信仰が果たして神に喜ばれる信仰かどうかを知る必要があります。

喜ばない信仰をいつまで持ち続けても、それが自分に何をもたらすでしょうか。


主が喜ぶすばらしいいけにえがあります。


【ヘブル13章15-16節】

ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。

神をほめたたえ、人を心から愛し、みことばを実行する時に、主が喜ぶことは当然なことだと思います。


その他にも主が喜ぶことがありますので、それはみことばだけを伝えたいと思います。

みなさんが心に留めて、実生活の中で実行出来たら主は喜んで下さいます。


【箴言11章20節】

心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。




・福音伝道




【ローマ10章15節】

遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」




・神へのささげもの




【ピリピ4章18節】

私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。




・祈り




【黙示録5章8節】

彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。

これらのみことばによっても分かるのは、神を喜ばせることはハードルが高くて難しいことは何もないです。


私たちが神への愛と関心と信仰の心があれば、すべては今すぐにでも実行出来ます。

神は誰にでも出来ることを求め、それに従う人を喜んで下さいます。

神に栄光をささげることは、神が喜ぶことをすることです。


愛は相手が喜ぶことをすることです。

それが犠牲を払う事でも、愛があればその犠牲も喜んで払います。


神を愛していますか?
(・∀・)

2015.8.23
聖日礼拝メッセージ

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誰が冠を受けるのか

テーマは 『  誰が冠を受けるのか 』 です

【第2テモテ4章6-8節】

私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けて下さるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けて下さるのです。

世界で最も値段の高い王冠や宝石をインターネットで調べてみました。

100億円を超えるものから 何十億円のものまでありました。


イギリス王室の王冠などは 宝石がたくさん装飾されており、とても高価に見えますし、他の国の王族やお金持ちが高い宝石を所有していました。


しかし、どんなに高価で輝く王冠や宝石であっても 誰1人それを死後の世界にまで身につけて持っていった人はいません。
誰もが地上に残して行き、その所有者が次々と変わっていきます。


永遠に自分の物にはならず、あっという間に自分から離れて行くものと知っていながらも、人々は地上の様々なものを得るために、自分のいのちさえも惜しまずに必死の努力をします。



最近、東大阪市で 64歳の兄が、61歳の弟を殺害する事件が起きました。

親が残した財産による金銭トラブルでした。

親は子どもの幸せと思って財産を残しましたが、結果は悲惨なものになりました。


持っているために生じるトラブルはたくさんあります。

それでも人はそんなことは心にも留めません。


聖徒もそうやって生きるべきでしょうか?

朽ちて行くものを得るために人生を懸けるべきでしょうか。


聖徒の生き方はそれとは違います。

聖徒が得ようとするものはむなしく消えて行く世のものではなく、永遠に消えることのない神が備えておられる冠です。


それは神様が与えて下さる聖徒への報いです。

しかし聖徒という理由だけで、自動的に受けられる冠ではないです。


ある人は、“それならあまり価値がない”と言います。


冠が勝利者に与えられるものであることを知らないといけないです。


それならば、どのような人が冠を神様から受けるでしょうか。
今回はそのことを学びたいと思います。




1.人生の最後まで勇敢に戦い、忍耐によって自分の信仰を守った人




主に選ばれ、主を信じた人たちが皆 最後まで信仰を守り、主と共に歩むと思いますか?
――そうではないです。


多くの人が主から離れて行きます。

イエス様の12弟子の1人であったイスカリオテ・ユダも主を裏切り、去って行きました。


また、イエス様が語ったことばに対し、自分たちが気に入らないという理由でつぶやきながら、12弟子ではない他の多くの弟子たちも離れ去っていき、もはやイエス様と共に歩かなかったと聖書に記録されています。


パウロと共に福音伝道に仕えていたテマスも 世を愛した為、パウロを捨てて去って行きました。

毎日奇跡を体験し、神の存在が明確に現れているのを見ながらも、神から離れて行きました。


実際に この教会でも信仰告白をして救われた人が ずっと教会に残っていたならば、今 空いている席はだいぶ埋まっていると思います。


しかし他の教会に移った人よりも 信仰を捨てた人の方が多いので、とても残念に思います。


なぜそのようになってしまったのかを考えると、サタンに惑わされて不信仰になったり、富の誘惑に目がくらんだり、この世を愛する心が強くて、信仰を捨てて世に戻りました。



信仰の道、いのちの道は狭い道であると 主が語って下さったように、その道を歩むためにはこの世から来るあらゆる誘惑や試み、試練に忍耐しながら戦わなければなりません。


ですから信仰を最後まで守ることは簡単なことではないです。


また、時には信仰のために家族や親族、職場からも反対されたり、迫害されたり、侮辱されたり、不当な扱いを受けたりします。

それで信仰を捨てた人も多いです。


しかし そのような中でも、神から離れず信仰を守った人たちには神が素晴らしい報いとして冠をその人たちに与えることは当然のことです。


神は初めから信仰の勝利者のために、永遠に消えることのない いのちの冠、栄光の冠を備えておられます。


いのちをかけて信仰を守ったのに何もないならば、それほど虚しく無駄なことはないです。

しかし神様はそのようなことはなさらない方なので、豊かに祝福して下さいます。


【マタイの福音書24章13節】

しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

このような約束がありますが、救われることは いのちの冠を得ることを意味します。


このいのちは永遠のいのちです。
いのちほど大切なものはないので、これほど素晴らしい祝福はありません。




2.自分に与えられた使命や働きに忠実な人




パウロが神からの冠を期待する理由は、神から与えられた “走るべき道” を走り終えたからです。


走るべき道がまだ残っているのに走りを中断したのではなく、“疲れたから後はゆっくり休もう” ではないです。

ゴールは、“いのちが尽きるところまで” が走り終える地点です。


ある牧師の話です。

年を取ったので、教会からも引退するように言われ、引退しました。

奥さんの方が先に亡くなり、牧師は子供たちに迷惑はかけたくないということで、老人ホームに自ら入りました。


しかし、そこで何もせずに時間を過ごしたのではなく、周りの入居者の様子を見ていました。

そこには寂しさを感じている人、問題を抱えている人、病気の人など様々な人たちがいました。


そこで牧師は毎日 人々の世話を始めました。
そうすると、皆がとても喜んでくれて、施設の関係者たちもすごく喜んでくれました。

そして、全員がその牧師のことを “神様が送って下さった天使” と呼びました。


これが忠実な働きです。

言い訳が多いのは忠実とは言えないです。


私たちは、“死に至るまで忠実でありなさい” と言われています。


神様が(その働きを)取り上げない限り、自ら辞退をしないことです。

それは主から受ける冠を自分から拒否することになります。






ロサンゼルスオリンピックのマラソンで、ある女性選手がフラフラと意識が朦朧になりながらも、ゴールに向かって歩きました。

何度も倒れそうになりながら、ゴールまで辿り着いて倒れました。


選手としてずっと目指して走って来ましたので、簡単に諦めることが出来なかったと思います。


その姿に皆が大拍手を送りました。

メダルは取れませんでしたが、最後まで走りぬく姿勢は 私たちに感動を与えました。


自分に与えられた神からの奉仕をないがしろにして、忠実でもないのに神様が与えてくださる冠に対しては関心と期待が大きい人がとても多いです。


しかしこのような人たちには、忠実な人だけに与えられる冠を受けることが出来ません。


神の働きをするためには、自分がしたいことを先にしてから 残りの時間ですることは出来ません。
神様は、“神の国とその義とをまず第一に求めなさい”と語りました。


自分のことよりも、神様の働きをまず考えて忠実に働いて下さい。


黙示録でも忠実な人たちだけに与えられる祝福がたくさんありました。

そうではない人たちには「悔い改めなさい」と言われました。


「昔はよく奉仕をしましたが、今はしていません」という人たちがいますが、それは自慢話ではなく、その人が忠実な者から今は怠け者になったことを意味します。


特別な事情も もちろんあると思いますが、本当にそれだけの理由なのかをよく考えてみて下さい。

神様は心の内を誰よりも知っておられるからです。




3.福音を伝える人




イエス様がわざわざ地上に来られた目的は何でしょうか。


【ルカの福音書19章10節】

人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

イエス様ほど魂に対して関心が強い方はおられません。

神様が1番喜ぶのは、失われた魂を捜して救うことです。


よみがえってから天に上る時に、弟子たちに命じたのが 全世界に福音を宣べ伝えることでした。

福音を伝えるのは聖徒たちに与えられた使命です。


自分だけが救われて天国に行くのではなく、他の人も天国へ行けるようにと福音を伝えます。


弟子たち全員は、なぜ殉教しましたか?
――彼らが主の命令に従って福音を伝え、福音を拒否する人たちによっていのちが奪われました。


日本でも韓国でも、初めに福音を伝えに来た外国人の宣教師たちが多くいのちを落としました。
そして信徒たちも殉教しました。


福音の内容もまともに聞かず、最初から反対されました。

心の頑なな者は聞く耳がないです。


古いものに執着を持っている人や既得権を持って良い思いをしている人たちは、新しいものに対していつも反対し妨害します。
それは全世界どこも同じです。


それでも逃げず、恐れずに福音を伝えることが大切です。


なぜなら福音を聞かせないと彼らは救われることがないからです。

反対する人の中にも、聞いて信じる人がいるかも知れないです。


パウロは福音に命を懸けました。

その様子は次の箇所です。


【第1テサロニケ2章9節】

兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

神様はこのように、主のことばに従いながら、働く人に目を留めておられます。

そして彼らの労苦と苦闘に、報いとして栄光の冠をその人たちに与えて下さいます。


この世でも最善を尽くした時に良いものを得ますが、主のために最善を尽くして働いた者たちに対する神からの報いは、私たちが想像することも出来ないほど尊い物であり、永遠のものです。

価値あるものを目指すのが、無駄な人生を歩まない方法です。


財産、権力、名誉、欲しい物のために命を懸けて最善を尽くす人がたくさんいますが、それによって神からいのちの冠、栄光の冠を受けることは出来ません。


聖徒の人生は価値があり 尊いものですので、(まだ救われていない人とは)目指すものが違います。


素晴らしいものを用意しておられる神様に期待しながら、この世で走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通し、そして人々に福音を伝えることです。


そのようにしている人は神様が用意した素晴らしい報いがあります。

それは永遠にその人の冠として その人に栄光を与え続けます。


人それぞれの働きに神は正しく報いて下さいますので、いのちと栄光の冠を受けられるように 与えられた人生で最善を尽くしていきましょう。
( ̄∠  ̄ )ノ

2015.8.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神の約束を信じたアブラハムの信仰

テーマは 『 神の約束を信じたアブラハムの信仰 』 です

【ローマ4章19-21節】

アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。

彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、

神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

聖書から、“神のことばと信仰” を除くならば、何が残るでしょうか。

そして、それらを除いた聖書が私たちにどのような意味を残すでしょうか。
それは何の価値もないものになってしまいます。


信仰は神のことばと私たちをつなぐ役割をします。


いくら聖書が真理であり、いのちのことばだとしても、読む人に信仰がないならば聖書をどんなにたくさん読んでも、その人に聖書の価値はわかりません。


ただの一冊の本に過ぎません。


また、ある人が「自分には信仰がある」と言っても、その人の信じるものが真理のことばでないならば、その信仰はむなしいものとなり、その魂を救うことは出来ません。


アブラハムという人物は、“信仰の父”と呼ばれています。
神様は、アブラハムが見せた信仰を 良い信仰だと認めて下さいました。

それはアブラハムが神の言葉に対して信仰をもって受け止め、その信仰が最後まで生きていたからです。


アブラハムは神様を直接見たから神を信じたのでしょうか?

神を信じない多くの人は、「神を見せてくれるならば信じる」と言います。


高慢と不信仰な心で「神を見せてくれ」と言っても、神がその人に現れることはありません。

なぜなら神が認める信仰は、見て信じる信仰ではなく、見ずに神の約束を信じる信仰をよしと認めて下さるからです。


信仰がない人に神が現れるのではなく、信仰がある時に神を見ることが出来ます。

(ここで、「見る」というのは自分の肉の目で見るという事ではなく、心の目で見るということです。)


神のことばを信じる人は、心の目で神を見るようにして生きています。






アブラハムの信仰が、どのような信仰であったのかを見たいと思います。

アブラハムはある時に神の声を聞きました。それはアブラハムにとって初体験でした。


目で神を見たのではなく、聞こえてくる神のことばでした。

神から聞かされた内容はあまりにもスケールが大きくてよく理解出来ない神の一方的な約束でした。


【創世記12章1-3節】

主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

もし皆さんがこのようなことばを聞いたならば、理解できますか。
そして神のことばを理解できないまま、すぐに従うことが出来ますか。


すぐに出来るならば、アブラハムの信仰を認めた神が、皆さんの信仰を認めて下さると思います。

しかし出来ないならば、アブラハムの信仰を見習うことです。


アブラハムは神の約束のことばを信じ、主が仰せられた通りに出かけました。
冒険するには75歳という年齢は厳しいと思います。


しかし、アブラハムは従順出来ない理由を捜したのではなく、ただ神から言われた通りに従いました。


その時のアブラハムの信仰は、神に完全に従順する信仰でした。

信仰のない人から見ると無謀な人間に見えたでしょう。
“失敗したらどうするの” と心配する声が周りから大きくなるでしょう。



すぐに心配する人は、なかなか信仰が成長しないです。神のことばよりも自分の感情に忠実だからです。

そのような人は神の言葉よりも自分がどう思うのかが一番です。
自分が安心出来たら(言葉に)従うけど 安心出来ないと、神の言葉に頼るのが苦手です。


しかし アブラハムは神のことばだけに信仰を結び付けて従順しました。

簡単そうに見えても、人々はここで失敗することが多いです。


まずは「そんなことが信じられません、そんなことが起こるはずがありません」 と勝手に神様のことばをつぶして従うことはしません。

神がせっかく語って下さったのに、どれほど多くの人々が、自分たちの不信仰で神の言葉を無視するかわかりません。


まるで神様が嘘つき、詐欺師であるかのように「信じたらダメ」 と否定します。


アブラハムは信じて大胆に出かけました。
神様が喜ぶ信仰は、従順する信仰です。


信仰ある人は、自分の頭で理解出来ず 納得できなくても、神が語ったことばが一番で、そのことばに従います。


アブラハムの信仰は、神の約束を最初から疑わない信仰でした。

最初の神の約束のことばを疑わずに受け入れたアブラハムでしたが、すぐにその信仰が認められ、すべての祝福を受けたでしょうか。


現実はどうでしたか―?

75歳で従順して出かけましたが、25年間何事も起こりませんでした。
25年は決して短い時間ではありません。


自分ならばどうするのかと考えてみて下さい。

信じた私がバカだったと自分に対して腹を立てますか?
また、神様に向かって嘘つきと文句を言いますか。


たぶん私たちならば両方やっていると思います。

しかしアブラバムは、子孫が与えられる約束を受けたにも関わらず、いつの間にか100歳になり、生産不能になり、子を持つことが不可能になったにもかからわず、アブラハムは神の約束を疑いませんでした。


これは素晴らしい信仰です。






人々は信仰よりは不信仰を選び、信仰よりは疑いを選びます。

忍耐よりは諦めて、時間を無駄にするよりは他の方法を捜します。

しかし別の方法も見つからず失望して終わる人が多いです。


沖縄に行った時、海岸にある木を見ましたが、形がちょっとおかしく、木の葉や枝が不揃いでした。

台風が多いので、暴風で枝が折れたり、葉っぱが落ちた為だと思います。


でも激しい風の中でもしっかり立っているのは、植えられた所に、必死に頑張ってしがみついて 根を深く降ろしたから倒れなかったと思います。


疑いは二心です。どうしようかと迷う心です。

根を下ろそうか、やめようかと二心で戦いますが、そのような状態では立ってはおられません。

現実の強い風で倒されてしまいます。


アブラハムは自分や妻が年取ってこどもを産む力がないことを知っていても、信仰が弱ることもなく、神の約束を疑うこともなかった理由は、アブラハムが神の無限なる力と 神は約束を守る神であることを信じたからです。


【イザヤ書55章11節】

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。

環境に左右されたり、自分の状態に左右されたりするのは信仰の姿ではありません。


神の絶対的な力と真実さに対する完全な信頼こそ、不可能に見える状況の中でも アブラハムを苛酷な現実から守る信仰の力になっていたと思います。


信仰は力です。

環境を見て信仰が無気力症にかかる人が多いです。それは信仰の根っこが弱いからです。


アブラハムも人間的な目で見ると、大いなる民族の先祖になることは想像出来ない状況でしたが、それでも信じたので 「信仰の先祖」 と呼ばれています。

この姿は私たちが見習わないといけないです。


次々と変わる環境や状況に振り回されて信仰の無気力症に落ちるのではなく、そのような時こそ忍耐をもって神の約束を堅く信じ、耐えることです。


その姿を確信に満ちた信仰と言えます。


確信とは、疑いが入る隙間もないほどに、自分に与えられた神の約束のことばと、神は約束したものを必ず成し遂げる方であることを心の中に満たすことです。


そして日々そのことを黙想することです。

まるでそのことが当たり前であるかのように思われると、信仰の根を深く降ろしたことになるので、過酷な現実の中でも倒れることがありません。


その人たちを倒そうとするサタンの策略も失敗に終わり、さらに試練の中で信仰は強くなり、成長していきます。


見えるものにすぐ心が取られたり、疑ったり、失望すると、倒そうとするサタンに隙を与えることになります。

現実的な可能性があったり、少しでも希望がある時は、信仰を守ることがそんなに難しいことではありません。


ところが、激しい試練や不可能な状況に直面すると、私たちの信仰は病にかかり 倒れやすいですし、疑いと絶望で揺れ動いてしまいます。


しかし、そのような時でもアブラハムがしたように、神に望みを置いて、神の約束を信じ続けるならば、神は約束したことを必ず成就して下さいます。


信仰が弱いと、神から素晴らしい約束を受けても、それを無駄にしてしまうことが多いです。

しかしアブラハムのようにするならば、すべての約束を自分のものにすることが出来ます。


信仰が弱くなったと実感する時は、アブラハムの信仰をもう一度学んで下さい。


彼が教えてくれます。
( ̄‥ ̄)=3

2015.7.26
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