からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

八戸ノ里キリスト教会より メルマガ配信中!

メルマガ購読・解除

読者購読規約
毎朝7時に配信しています! 1日の始まりを神様の恵みで満たしてくださいね
powered by まぐまぐ!
 
         

聖徒

自分を捨てる者の義務

テーマは 『 自分を捨てる者の義務 』 です

【マタイの福音書16章24節】

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

主 (イエス・キリスト) について行きたいけど、自分を捨てることが どういうことか分からないという聖徒も多いです。


今回は、自分を捨てる者の義務について伝えます。




1.世の心配を捨てる


【マタイの福音書6章25ー34節】

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。



2.自分の思いよりも、主の思いを優先する


【ルカの福音書14章26ー27節】

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。



3.放蕩に走らないように気をつける


【ルカの福音書21章34節】

あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに望むことのないように、よく気をつけていなさい。



4.兄弟のつまずきになるようなことはしない


【ローマ14章21節】

肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。



5.信仰の弱い者のために自分の行動を自制する


【ローマ15章1節】

私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。



6.他人の利益に心がける


【第1コリント10章24節】

たれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。



7.肉の欲を取り除く


【ガラテヤ5章24節】

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。



8.情欲によって滅びていく古い人を脱ぎ捨てること


【エペソ4章22節】

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、




9.たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざける


【第1ペテロ2章11節】

愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。



10.罪の生活から離れる


【ローマ6章6ー7節】

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

(。・ω・)ノ゙ アーメン

2017.5.14
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会


~ 新しいブログです ~

Bible66のブログ

みことばサプリ


~ お知らせ ~

からし種の信仰と成長:ブログランキング
人気ブログランキングへ
(別ウィンドウで開きます)

多くの人に読んでもらえる可能性があるので
皆さんのクリックが、福音伝道に繋がります☆


*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

聖徒だけが持つ特権

テーマは 『 聖徒だけが持つ特権 』 です

【ヘブル4章16節】

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

“特権” とは特定の人、身分、階級に与えられている、他に優越した権利です。


特権を持つ人は良い待遇を受けることも多いです。

月に何度も飛行機に乗りますが、飛行機一つにしてもダイヤモンドカードを持っている人は優先的に乗れますし、荷物の制限もなく、ラウンジも自由に使えます。

もし自分が持っている特権を知らないならば、その権利を使うことも知らないので、もったいないです。


聖徒である皆さんは “聖徒だけが持つ特権” が何かを知っていますか?


聖徒が持つ 特権も義務も責任も知らないで信仰生活する人が実に多いです。

そして特権を使ってはいますが、それが特権と思わずに使っています。


今回は聖徒だけが持つ特権に対して学びます。




神の御座に近づける特権




これを特権と思わない人が多いですが、これは聖徒だけが持つ特権です。


たとえば安倍総理は日本の総理ですが、いつでも皆さんが会いたいと思う時に会えますか?

たぶん会うのは無理です。


認められる何かがある場合は別だと思いますが、それは簡単ではありません。

しかし安倍さんの子どもならば、家で自由に会うことが出来ますし、別のところでも許可をもらうのは難しくないですね。


神は世界で一人の神ですが、人間が会いたいと言って いつでも会えるでしょうか。
―― 会えないです。


しかし神に贖われて、神の子になると立場が変わります。


聖徒には、神がいつでも神の御座に近づくことが出来る特権を与えておられます。


“キリスト” によって神と和解させられ、神の子になったので、その特権を得ています。


【ヨハネの福音書14章6節】

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

聖徒は、“道” であるイエス様を信じる者なので、キリストも その人のことを知っていて、その道を通って父なる神の前に行ける許可を与えておられます。


「イエスの血で神の前に、イエスの血で父の前に一歩ずつ進む。」

このような賛美があるように、父なる神の前に行ける特権は イエス様によって与えられた素晴らしい特権です。


旧約時代は神の臨在がある聖所には、任命された祭司以外は誰も入ることが出来ませんでした。

しかし新約時代の聖徒たちは、神の臨在の中に入ることが出来ます。


死んだら もっと神は近くにおられます。



【ヨハネの黙示録4章4節】

また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。

聖徒にとって、神は 決して遠く離れて近づくことも出来ない神ではなく、いつでも近づくことが出来ます。




永遠のいのちがもらえる特権





【ヨハネの福音書3章36節】

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

“永遠のいのち” ほど価値あるものは 世には存在しません。


金持ちの青年が主の所に来て、永遠の命を得るためには何をしたら良いのかと イエス様に聞きました。

イエス様は、「財産を売って貧しい者に与えてから、私について来なさい」 と言われましたが、金持ちは財産を手放すことが出来ないので、そのまま帰り、2度と帰ってくることはありませんでした。


永遠のいのちは、主に従ってくる聖徒たちに与えられます。

永遠の命はあまりにも高価なので金で買えるようなものではなく、キリストを信じて神の子になった者が、特権として受けられものです。


永遠のいのちは “死とは無縁” です。

それを持っている人は聖徒だけです。


聖徒をやめたら、もはや永遠のいのちは自分のものにはなりません。




祈りが答えられる特権




聖徒の祈りに聞いて下さる方がおられます。

私たちの霊の父である “神様” です。


この世には自分を神と呼ぶ人間がいて、それを信じる者も多いです。


「統一教会」や「神の教会」という異端も、教祖が “人間” なのに、自分自身を神と呼び、それに従う者も(その人物のことを)神と信じています。

(その教祖は)2人とも死にましたが、未だに死人を神と思ってそこから離れません。


中身を見ると教祖が彼らの祈りを聞いて祝福したのではなく、人々が教祖の願いや要求を聞いて、自分たちのもので教祖を満たしていました。


サタンが目をくらませると、悟りがなく盲目的になるので、騙されて利用されるだけです。


人間を神と信じるのも、偶像の神を造って願いを叶えて下さい と祈るのも同じです。



【イザヤ書44章9-11節】

偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。

だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。

見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。

ですから、彼らが自分の神に祈っても それはむなしく恥を見るだけですが、聖徒たちの祈りは むなしくなることも、恥をかくこともありません。


聞いて答えて下さる神がおられるからです。

聖書には祈りの答えがいっぱいです。


神は喜んで聖徒たちの祈りを聞き、答えて下さいます。

祈らないと特権を使わないことですので損をします。




復活の特権





【第1コリント15章43-44節】

卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

復活は永遠のいのちの始まりです。

イエス・キリストがよみがえられたことで、この特権が聖徒にも与えられました。


私たちも、いつかキリストと同じ体になります。

時間や空間の制約、そして朽ちることもない体に復活するのは聖徒だけの特権です。


信じないものは永遠の死ですが、聖徒は永遠に死の支配を受けることがなく、キリストのように死の力を打ち破って復活します。


自分が死んで復活することは、今はどのようなものか想像も出来ませんが、その日には喜び踊る者になると思います。




天国に入る特権




天国は聖徒たちのために主が備えて下さった場所です。

聖徒以外の人は、入ることが許されない場所です。


そこは神がおられる場所で、神が聖徒と共に永遠に住む場所です。

死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない場所です。


信じない人は、どんなに入りたくても入ることが出来ません。


入りたいならば生きている時に、罪を悔い改めて、イエス様を 自分の救い主として心に迎え入れ、聖徒になれば入れます。

天国はお金があるから、良いことたくさんしたから、立派な人だから入れるのではなく、信仰で入る国です。


神を信じて、天国を信じて入る準備をした人が入る所です。

自分を聖徒と思っても、準備出来てない人は入れないです。


天国のたとえで使われた “10人の花嫁の姿” を思い出して下さい。

10人の花嫁は、花婿である主を待ち続けていました。


賢い5人の花嫁はいつ花婿である主が来られても迎えられるように、ともしびと油の備えをしました。


しかし愚かな5人の花嫁は、花婿がいつ来るかもわからないのに、ともしびだけを準備し、油の用意はしていなかったです。

花婿が来るのが遅くなり、今にも ともしびが消えそうになりました。


それで油を買いに行っている間に 花婿が来られて、そこにいた賢い5人の花嫁だけが結婚式場に入りました。

油を買いに行った愚かな5人の花嫁の姿は哀れでした。

彼女たちの様子を次の箇所で見ます。


【マタイの福音書25章11-12節】

そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。

しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。

天国に入ることが出来ず、外の暗やみに置かれてしまいました。


せっかく天国に入る “特権” があったのに、その場にいなかったために、特権が無効になってしまいました。


その特権が認められず、残念な姿でした。

このようになって、聖徒の特権を失う者も実に多いです。


“目をさまして、身を慎み、用意していなさい” と言われた通りにしている聖徒が、天国に入り、言われてもそのようにしていない聖徒は、特権を使うことが出来ません。

世を愛して放蕩生活をしている人に、“天国の扉” は開かれません。


聖徒として準備した人は、問題なく天国に入ります。


このように聖徒としてどのような特権があるかを知り、いつ それを使うかを知って使う人が賢い聖徒です。

神が与えて下さった特権としての祝福をすべて自分のものにしていきましょう。

(・◇・)ゞ

2016.9.25
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

聖徒の使命

ハレルヤ。

今日も皆さんの健康が守られますように祈ります。


先日、甲子園では春の高校野球が盛り上がっていました。

若い選手たちが一生懸命にプレイしている姿に 人々は感動し応援しています。


キリスト者が、野球チームの選手として例えた人がいました。


選手名簿に名前が載ったすべての選手たちは、自分の打席が回ってくるまで待ちながら、他の選手を応援し、自分の番になると最善を尽くします。


1つのチームでホームランや長打を打つ選手は限られていますが、投手も内野手も外野手もみんな安打を打ちたいと願っています。

そして全力でボールを打ちます。


同じくキリスト者というチームで、すべての聖徒たちは クリスチャンとしてあらゆる分野で活動しようと励んでいます。

そして実際に、特定分野で優れた活動をしている聖徒たちもいます。


“そのように活動する人がいるから、自分が打席に立って最善を尽くさなくて良い”ということはないですね。


例外なく、聖徒たちは神によって使命が与えられ、働きも与えられていますので、各自が与えられた役割をしていかなければなりません。

イエス様はたとえ話を通して、そのことを教えて下さいました。


【マタイの福音書25章14-30節】

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。

彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。

同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。

ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。

すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。

私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』

ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。

だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。

だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

最善を尽くした人には、神からの称賛が、自分の働きをしていない人には厳しい叱責がありました。


評価されずに終わることがありませんので、そのことを覚えて、自分の出番が来た時には最善を尽くしましょう。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2016.4.3
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

みことばがあふれています!
八戸ノ里キリスト教会ホームページ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

神様からの警告のことばです
警告のラッパ

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

聖徒が逃してはならないチャンス

テーマは 『 聖徒が逃してはならないチャンス 』 です

【イザヤ書1章18節-20節】

「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。 たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。

しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、 主の御口が語られたからである。

先週は「今悔い改めなさい」という内容のメッセージをみなさんは聞きました。
そのメッセージを聞いて悔い改めた人たちがたくさんいると思います。

悔い改めた人たちにとっては、今という悔い改めのチャンスを逃さずに悔い改めたので、与えられたチャンスを生かした人たちです。

天国は悔い改めた人たちが入る所です。
“良い人”が入るのではなく、“悔い改めて赦された者”が入る所が天国であります。


地獄は“悪い人”が入るのではなく、“悔い改めるチャンスを逃し 罪を持ったまま”の人が入ります。


地獄へ行った人たちが1番願うことは、『私をここから出してください!出してくれるならば悔い改めます!』ということです。

地獄に来た人々は悔い改めのチャンスを逃したために自分たちがここに来ていることが分かっていました。
悔い改めをしなかったことが1番の心残りです。

ですから、地獄へ来ている人たちが1番欲しいと願っていることは「地上での悔い改め」であります。


チャンスは生きている時にしか得られないです。

そこで今回は、聖徒が逃してはならないチャンスが何か? をいくつか語りたいと思います。




①救いをもたらす悔い改めのチャンス




悔い改めない限り 救いはないです。
救いを受けるために悔い改めのチャンスを絶対に逃してはいけないです。

神様は初めから赦しの計画をもって罪人たちに語っておられます。


アダムとエバが罪を犯した時に、2人とも神様から離れて隠れていました。
しかし、神様は2人がどこに隠れているのか全てご存知です。

そこで神様は 怒って彼らを強制的に連れ出して厳しく責めたのではなく、彼らがどこにいるのかを知っていながら「あなたはどこにいるのか」と声をかけました。

「早く出て来い!」ではなく「あなたはどこにいるのか」でした。

これはすべてを知っておられる主のやさしい心から出たことばです。


本文でも「さあ、来たれ。論じ合おう」とやさしい言葉で語りかけています。
これは悔い改めのチャンスを与えていることばです。
神様は既に彼らを赦す計画で「出て来て悔い改めるならば わたしはその罪を赦す」と待っておられるのです。

このことばに耳を傾け、素直に応じて悔い改めるならば、神様はその人の罪を赦し、救いを与えてくださいます。


ここで私たちが反抗する心ならば、救いのチャンスを自分で捨てるようなものです。


神様は裁くために「出てきなさい」と言ったのではなく、裁くために「悔い改めなさい」と言ったのでもないです。

人間はとても心が頑なであります。

自分のために本気になって語ることばはいらないと言います。
そしてサタンは私たちを滅ぼすためにたくさんの偽りを言いますが、その言葉には素直に従順します。


サタンが何も言わなくても、人間は後ろをついて行きます。その道が死の道・滅びの道であるにも関わらず自らサタンの方へと進みます。

これが人間の姿であります。


私たちは最期まで諦めずに(人々に)悔い改めとイエス様を受け入れることを伝えることです。

私たちの周りには 心が頑なな人たちが大勢います。

それは人間が悪いからというのではなく、サタンの支配であります。サタンが(イエス・キリストを)信じないように妨害するのです。その人たちの心を頑なにして地獄へ連れて行く計画があるので そうするのです。


しかし神様が、私たちの周りの人たちのたましいを憐れむなら最期までチャンスを与えますが、最期のチャンスも逃してしまうなら後がないです。


そのような思いで私たちが福音を伝えることであり、「今日が最期かもしれない」という思いで罪を悔い改めたのかを自分自身に聞くことであります。




②主を迎え入れるチャンス




福音は悔い改めだけではないです。

悔い改めて、イエス様を自分の主として迎え入れなければならないです。


【ルカの福音書19章41節-42節】

エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、

言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら、しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。

イエス様は平和の主、救い主、慰め主、世界の光としてこの世に来て下さいました。
まずは選民であるイスラエルに来られました。

しかし彼らの反応は次の箇所にあります。


【ヨハネの福音書1章11節】

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

イエス様はご自分の国へ行ったのに、民たちは心を閉ざしました。
もし主を迎え入れていたなら、次のような祝福がありました。


【ヨハネの福音書1章12節】

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

すばらしい祝福を持ってイエス様は来てくださいましたが、民たちは『人間 イエス』につまずきました。

光(イエス様)を拒否し、神の子どもとなる特権も拒否しました。


その後の彼らは苦難の道を歩むようになりました。

イエス様の預言通り、AD70年にローマ軍が入ってきてエルサレム神殿をすべて壊しました。
これはイエス様を受け入れなかったので起きたことでした。

そして全世界に散らされ、どこの国でもユダヤ人は歓迎されず迫害されました。

600万人のユダヤ人が第二次世界大戦の時に殺され、国が再び建国されてからも常に戦争状態です。
今も彼らには覆いがかけられ、メシアを受け入れていない状態です。


歴史を支配しているのは神様であります。






今、プロテスタントとカトリックのことを研究しているところです。

このような書籍は日本でも売っていますが、普段 みことばにふれていない人が書いています。
このように信じていない人の観点ではなく、(準備が出来ましたら)聖書の言葉を通して正確に皆さんに教えようと思います。


黙示録を読むとカトリックの姿がたくさん書かれています。一体、何が間違えているのでしょうか?

こういうことは多分、クリスチャンの人も分からないと思います。


しかし、クリスチャンこそ正しく知らないと、惑わしの霊がたくさん来た時に騙されてしまいます。

そして教会の教えも、有名な先生だからといって、語ることばが全て真実かといえば、そうではありません。
大きな教会でも反キリストの霊が多く働いています。

世の中の色々なことに騙されないように、聖書のことばと照らしてプリントを配ろうと思います。


今の時代は、ただ教会へ行けば良いということはなく、その教会で正しい真理が語られているのかが大切です。


今は恵みの時、救いの時です。恵みを受けてはじめて私たちの信仰が成長し神を知るようになります。

しかし、まだ神を受け入れていない人は、誰かが福音を語る時は、今がイエス様に出会うチャンスなのです。
もしそれを逃したら、いつ誰がその人に福音を語るでしょうか?その後クリスチャンに出会うこともなく世を去る場合もあるのです。

私たちは伝えていかなければならないです。
拒否をする人たちもたくさんいますが、それは(受け入れなかった)その人の問題(責任)であります。




③献身・召命実践のチャンス




クリスチャンは恵みだけを受けて「あぁ良かった。天国に入るまで何もしなくて良いのだ。」ではないです。

マタイの福音書25章はクリスチャンに向けたメッセージです。
選ばれた者がどのように献身し歩むべきなのかを教えています。


一タラント、二タラント、五タラントがあり、これは召命実践のチャンスです。
召命は皆違います。皆が同じ賜物や同じ働きはないのです。神様は1人1人に応じて使命を与えました。

私たちは自分は神様からどんな召命を受けたのか知らなければなりません。
祈りながら主に聞いてみて下さい。「私は主のために何をしたら良いでしょうか」と。

ある者には一タラント、ある者には二タラント、ある者には五タラントを任せました。そして働くように言いました。


あなたが受けた召命を、実践によって実を結びなさいということです。

二タラントと五タラントをもらった2人は一生懸命働いて次のように報告しました。


【マタイの福音書25章20-21節】

すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、 ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。」

その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。 主人の喜びをともに喜んでくれ。」

その人たちは死に至るまで忠実な人でした。ですから このような素晴らしい決算が出来ました。
主人がその人の働きをとても喜び褒めてくださいました。このしもべは天国でたくさんの報いを神様から受けます。


そして、一タラントもらった者は何と言ったでしょうか。次の箇所です。


【マタイの福音書25章25節】

私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。

彼は働かず地の中に隠していたので、何1つ増えていなかったのです。その人は死ぬまで自分が(神様から)何をもらっていたのかを知らず、関心すらありませんでした。

働きが一切無いのです。土の中に入れましたので、それを主人に持ってきました。
主人は次のように言いました。


【マタイの福音書25章26-30節】

ところが、主人は彼に答えて言った。「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。

だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。

だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。」

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、 持たない物は、持っているものまでも取り上げられるのです。

役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

3人のしもべたちは、選ばれた信じる者なのです。

2人はきちんと主人の言葉通りに商売をして もうけました。
しかし1人は言うことを聞きませんでした。それは主人を侮ったことであります。


神様は怠け者、そして主人に対して悪い思いを持っている者は役に立たない者であるので、外の暗やみに追い出しました。外の暗やみの世界とは地獄であります。


私たちはチャンスを逃してはいけないです。「私はこんなに小さな働きだから…」ではないです。

どんなに小さな働きであっても、その時にそれが与えられたなら 一タラントであっても忠実に働くことが、すごく大切なことであります。


五タラントもらった人が二タラントの働きしかしていないならば、その人は怠け者です。五タラントには五タラントの働きが必要です。

働きは、教会だけに限られていないです。どこにいても私たちは主のみこころに従うなら、働く場所があるのです。
私たちが働く場所は人間なのです。他人に仕えることです。

家庭でも私たちはクリスチャンとして仕える働きがあるのです。


主が喜ぶ働きをするなら、立派な奉仕です。24時間どこででも私たちは奉仕が出来るのです。




献身のチャンスとは?




自分の召命のために働くことも献身ですが、あなた自身を捧げないと出来ないことがあります。

これは誰にでも出来ることです。

そして献身のチャンスを逃した人たちの言い訳の姿は次の箇所です。


【マタイ25章44-45節】

そのとき彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、 お世話をしなかったのでしょうか。』

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、 この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

最も小さい者は私たちの目には入らないでしょう。
これは献身する思いがないと、自分を捧げることができないです。
自分のものを主張しないことであります。


聖書で見るならば、良きサマリヤ人の姿です。
憐れんで手を差し伸べる者こそが神様が求める者であり献身であります。

愛と関心、そして自分がその人に対して何かをしてあげようという思いがあれば出来ます。


「私は助けるものがなくて出来ません。」というのは全て言い訳であります。
私たちは有り余って処分するのが困るくらい持っているのです。

それなのに、本当に困っている人がいるのに助けないのは無関心の姿であります。


私たちはいつもアンテナをはって「私が助けなければならない人はどこにいるのか。」と、見ることであります。

私たちは与えることが愛であります。相手から返してもらおうと思うのは計算をしたことになります。


このチャンスも生きている時にしかできないです。本当に困っている時に知らんぷりではなく、食べ物を与え、着る者を与え、助けることが必要です。




④再臨の主を迎えるチャンス




このチャンスを逃したら本当の意味で終わりです。


【ルカの福音書17章34-35節】

あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台で男がふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

これは再臨の主が来られる前の姿です。

イエス様は雲に乗って来られ、既に亡くなった聖徒たちが復活し、地上に残された聖徒たちが天に引き上げられます。


その時にクリスチャンたちの中でも、ふたりのうちひとりが残されるのです。

引き上げられる人と残される人の違いは、主が再臨することを常に知っていて準備をした人と、いつ来るか分からないから今は飲み食いしよう、人生1度きりだから楽しいことだけをしようと準備をしなかった人です。


神様は準備をしている者としていない者の違いを教えてくださいました。

目を覚ませというのはクリスチャンに言っていることであります。主は必ず再臨なさいます。

そこで残されたクリスチャンは悲惨であります。なぜなら大患難に突入するからです。


大患難は私たちが地上で考えたことも聞いたこともないほどの患難だと言っています。
今 信仰を持たなかった人が患難の時に反キリストが出て来て“666”を受けないと何も買えない状況になった時に、果たして信仰は見られるでしょうか?

ものすごく厳しい時代になると思います。




再臨の準備はどのようにしたら良いのか?




仕事を辞めて、祈りとみことばを読む生活をしたら良いでしょうか?と言う人がいますが、イエス様はそういうことではないと語られました。

それはイエス様が望む姿ではないです。次の箇所で良い助言が与えられています。


【Ⅰペテロ4章7-10節】

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。 愛は多くの罪をおおうからです。

つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。

それぞれが賜物を受けているのですから、 神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

これは再臨を準備する姿です。

私たちは毎日の生活の中で準備をするのです。イエス様が喜ぶ生き方をするのが準備をする姿であります。

特別なことではなく、主は ここで3つのことを語りました。


・互いに熱心に愛し合いなさい(8節)

愛は神様から出て来るものであります。神様の兄弟姉妹たちに語ることばです。

・互いに親切にもてなし合いなさい(9節)

教会で食事をすることも、これは愛する姿であります。親切にもてなし合う姿です。
初代教会にその姿がありました。それを私たちが今 実践していくことです。


・互いに仕え合いなさい(10節)


この3つを私たちが実践していたら、その人たちはきちんと再臨の主を迎える準備をしている姿であります。
このような人は非難されるところがないので 何も心配する必要はないです。

これを日々行うことが未来を準備する姿であります。Ⅰペテロ4章7節の「心を整え身を慎む」姿です。

物を蓄えるのは、私たちの魂を救うことは出来ないです。


今、神様によってチャンスが与えられていること自体が恵みであります。今日 生きている者はチャンスがあります。

「明日から」というのはサタンが与える言葉です。どんどん先延ばしにして私たちが出来ないようにします。

ですから、今から行動する人がチャンスを逃さない人であり、「明日からします。」と言う人はチャンスを全て逃す人です。


今からしないといけないのだという思いで全てのことをして欲しいと思います。
(・∀・)

2014.7.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

地獄を見てきた聖徒の証です
幻と啓示~天国と地獄~

こんな時は聖書のどこを読めば良いの?
目的別みことば

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

聖徒の愛の姿とは?

テーマは 『 聖徒の愛の姿 』 です

【ルカの福音書6章27-38節】

しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。

あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。 上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。

すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。

自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。 罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。

自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところが あるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。

返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところが あるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。

ただ、自分の敵を愛しなさい。 彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもに なれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。 赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、 あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

“品格”ということばがあります。
その意味を調べると「その人やその物に感じられる気高さや上品さ」であります。

「男の品格」「女の品格」という言葉がありますが、皆さんは「聖徒の品格」を考えたことがありますか?
また、品格がないことを下品と言います。


「品格のある聖徒と品格のない聖徒」ということになりますが、よく考えてみると品格のない聖徒という言葉はそもそも相応しくないです。
聖徒という言葉自体が、下品な姿ではないからです。


自分の姿を見たときに「品格ある聖徒」なのか「下品な聖徒」なのかを考えてみたら良いと思います。

聖徒の品格の中で一番優れているものは、“愛”であります。


この「愛」というのも、誰もが持つような愛ではなく、人が持っていない“愛”です。
男女の愛ではなく、神様が語るアガペの愛(無限の愛)であります。

アガペの愛を持っているなら、その人はどこから見ても品格ある姿です。


イエス様の姿を考えてみてください。

イエス様の姿は誰が見ても品格ある姿であります。イエス様は着飾ったわけではないですし、高学歴でもないですし、ずっと大工の仕事をしていました。

人々はイエス様のことを「この人が語る言葉には権威がある。」と認めました。
イエス様は愛が溢れ品格がありました。

それはクリスチャンに対しても イエス様は同じことを求めています。
無限の愛をあなたたちも持ちなさい ということです。


【Ⅰヨハネ4章7-8節】

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

もし「私は愛がない」と言い、自分の中に本当に愛がないならば、まだその人は神様を知らない者であります。

神の愛に触れ、神の恵みに触れている人は愛が何なのかを知っています。
それを実際に実行するかしないか以前に、愛が何であるのかを分かっています。

『このような者を神様が愛してくださった。恵みを与えてくださった。』
それを感じない者は心が死んでいる者です。

心が生きている人は神様の素晴らしい愛を感じることができます。


神様は「あなたたちが神の愛に触れてクリスチャンになったのなら、あなたもその愛をもって他人に接しなさい。」と命令されています。


今回の本文、ルカの福音書6章27-38節の言葉は、クリスチャンに語る言葉です。


神を知り、神の愛を受けている者は実行しなさいとおっしゃいます。神様は私たちが出来ないことを無理強いしてはいないです。やろうと思えば出来ることだと思います。

これこそが品格ある聖徒の姿であります。

私たちが下品ではなく、品格ある聖徒になりたいならば実行していかなければならないです。


「自分の力や愛ではなく、神様の愛によって私は出来るのだ」と、クリスチャンは 神によって出来るのです。

愛する姿とはこのような姿です。




1.敵を愛し、のろう者を祝福し、侮辱する者のために祈る(27-28節)



これが出来たのなら、それは愛の姿であります。ある意味、世の中とは反対の教えです。
現在、世界で戦争が起こるのもそういうことであります。赦さず憎しみ続ける思いがあります。

しかし、それは愛の姿ではないです。

ここに出てくる敵、のろう者、侮辱する者とは誰のことだと思いますか?
それをまず知らないと、私たちは誰に愛を示したら良いのか分からないです。

自分が罪を犯した相手ではなく、福音を伝えた時に迫害されたり、のろわれたり、侮辱された相手のことです。


私たちが悪い事をしておいて、その人たちが怒って向かってきた時に、「これが私の敵だ」と言うのは、
それは自分が罪を犯したので自分で刈り取らなければいけないことです。

ここで語るのは、福音に対して激しく反対して侮辱する人に対してのことでなので、きちんと区別をしなければならないです。

そのことが次の箇所に書かれています。


【ルカの福音書6章22-23節】

人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。

その日には喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。

イエス様も激しい迫害やのろいや侮辱を受けましたが、彼らと敵対したことがありませんでした。

もちろん弟子たちも人々から迫害された時に無抵抗でした。
しかし、ただ無気力に何もしなかったのではなく、愛をもって彼らを赦し、彼らのたましいのために祝福の祈りをしました。


もしイエス様が十字架の上で自分を殺した人たちに対して「お前たちは地獄へ堕ちろ。一生呪ってやる。」と言ったならば、誰も信じてついて行く者はいないと思います。

歴史にもイエス様の名が残らなかったでしょう。


私たちが行動をする時には「イエス様ならばどうするのか?」と考えるのが行動の基準であります。

イエス様は私たちの模範となってくださいました。

イエス様は十字架の上でも品格があり愛が溢れ、迫害する者のために祈りました。
主の愛は無条件な愛で、その対象も制限がありませんし、その愛も無限です。


自分を犠牲にしてまでも愛した愛です。
神様は私たちにもそれを要求しておられます。

この姿を見て、私たちも自分を迫害する者を愛し、のろう者を祝福し、侮辱する者を祈るならば、それは皆さんの中に愛があるのです。
人々はその姿を見て「この人は本当に愛がある人だ」と認めます。




2.自分にしてもらいたいことを、自分が先に他人にしてあげること



これはマタイの福音書に書かれている黄金律です。

自分にしてもらいたくないことを、他人にするなという言葉がありますが、これは聖書ではなく律法学者からの言葉です。「してもらいたくないことは するな」と否定的な言葉が入っています。


しかし、イエス様は私たちが肯定的に積極的に他人にしてあげなさいと勧めました。


あなたは相手から貰うことを考えるのではなくて、あなたの方から先にその人にやりなさいと語っておられます。

人々は先に「(自分が)受けたい」という気持ちがあります。『あなたが私に先にしてくれるならば、私もあなたにしてあげる。』と、人間の思いはいつもそうです。貰ってから与えます。


しかし、他人を愛する人は違うことをします。

自分の方から相手に先にプレゼントをしたいのです。愛するからその人を喜ばせるために何かプレゼントをしようと考えます。

しかし愛が消えると自分のことしか考えないです。


どの人もそうですが、思いがけないことを相手のためにしてあげると、相手はびっくりするのです。
それを受けながら“その人のことを下品だ”とは思わないです。
また自分への愛を感じるでしょう。人々からの評価は「この人は良い人だ。愛がある人だ。」となります。


その人に愛がないならば、絶対に誰かに手を差し伸べることはしないです。


自分はどうなのかを考えることであります。

自分にしてもらいたいことを考えてばかりいるならば、神様は喜ばないです。それは みことばに反することをしているのです。

愛を蒔くならば、愛を刈り取るようになります。

どんなに冷たい人間であっても、自分が愛を注ぐならば相手の心が変わります。冷たい心がほぐれて愛が返って来るのは聖書の法則であります。




3.人を愛し、良くしてやり、報いを求めない姿(32-35節)



自分を愛する者を愛しても、特別なことではありません。

それは神の律法を知らない人でも誰でも出来ることです。
自分に良いことをしてくれる者に良いことをしても それは特別なことではなく、一般的なレベルに過ぎません。


返してもらうつもりで人に貸したからといって、それが特別な愛でしょうか?そんなことはありません。

金貸しは、しっかりと利子をつけて貸します。それを見て人々は「愛がある」とは誰も思わないです。


イエス様がここで語っている言葉は、それは罪人たちもやっていることである。 わたしの愛を受けている者たちは、彼らのレベルで留まるなら、それは愛ではなく誰でも出来ることだ。ということです。

主が求めておられることは、それ以上のことであります。
アガペの愛は全く違うものです。


35節に聖徒の愛はこうあるべきだと語りました。
「自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。」

これは無条件であり、相手がどんな人であるかは関係がないのです。敵か味方かを考えないで、敵さえも愛すべきです。そして自分の利益を求めないというのは、返してもらうことを考えずにそれをすることです。


私たちがみことば通りにするならば、私たちに良い報いを与えてくださる神様です。

「そうすれば、あなたがたの受ける報いは素晴らしく、あなたがたはいと高き方の子どもになれます。」

皆さんは、目先の利益の方が大事でしょうか?それとも、神様から報いを受けることが大切であるでしょうか?


神様が与えてくださる報いは本当に素晴らしいものであります。

私たちがみことば通りにするならば、損するどころか想像もつかない祝福があります。神様が語る祝福は地上のものではなく、天にある祝福です。

地上での旅路は短いので私たちは地上で受けてもそれらを持っていくことが出来ませんので、天の御国で神様は私たちのために備えてくださっているのです。


私たちが本当の意味で神の素晴らしい報いを受けるためにも 敵を愛し、彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸すことが本当の愛の姿であります。




4.あわれみ深い神のようにあわれみ深く、与えることに励む人



神のあわれみの範囲は、恩知らずの悪人にまで及びます。それは35節に書かれています。

恩知らずとは私たちのことであります。
私たちが神様の事を知らない時から命をいただいていますし、神様から毎日すべてのものを受けています。


太陽、空気、水、これらすべては神様から来たものであります。これらを私たちはタダで使っています。

しかし空気があることに感謝しますという人はほとんどいないです。ほとんどの人はそれを当然だと思っています。

このようにどんな人に対しても神様はあわれみ深い方です。
神様はすぐにでも裁くことが出来るのに、裁かず生かしてくださるのが神様のあわれみ深い姿です。


私たちが悔い改めて立ち返るように、常にチャンスを与えてくださっています。
主は私たちに「天の父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くしなさい。」と要求しておられます。

自分が受けた恵みをすっかり忘れて、「私はそんなことは出来ない」と言うのではなく、
恵みを受けているからこそ「私もそのようにします」としたら神様が喜ぶことであります。


クリスチャンは常に与える人にならなければいけないです。

これは世の法則とは違います。世の法則では、握りしめて自分のものにして他人に奪われないようにしなさいと教えます。

しかし神様は、たとえあなたから奪う者がいても与えなさいとおっしゃいます。常に与えることを考えるのです。
イエス様は与え続ける人生を生きてきました。そして命さえも与えてくださいました。


なぜ、神様が「与えなさい」という言葉を使うと思いますか?
それは私たちの為であるのです。私たちに素晴らしい報いを与えるために神様は与えなさいと語ります。

地上で私たちがどれだけ与えたかによって、天で受ける報いが決まります。


「最も小さい者にしたことは、私にしたことです。水一杯あげても、その報いを受けます。」と約束されています。


ですから、神にも人にも与えたことがない人は、天国で何も受ける報いがないと思わなければなりません。
与えることを知らず、自分だけが握りしめている人は自分だけを愛する人です。

他人にもてなすということは素晴らしいことです。それは絶対に無駄なことではありません。
愛の人の周りには、人がたくさん出来るようになります。


その人を利用して来る人は悪い人ですが、私たちは困っている人に与え、蒔くべき所に蒔き、相手が求めなくても「困っているだろうな」と自分の方から手を差し伸べることであります。




5.さばかず罪に定めず、赦す人(37節)



私たちは他人を裁く人を見て、愛の人だとは思わないです。

神様はなぜ私たちにこのように語るでしょうか?

自分の目には梁があるのに、兄弟の目にあるちりに関心がある人たちに対して叱責のことばであると同時に 聖徒たちがさばくのは神の権威に属していることなので、神に任せて赦す人になりなさいと命令しました。


なぜ私たちが他人を裁いたり罪に定めたり 赦さないことがいけないのでしょうか。

それは神様が権威を持っているからです。裁く権威は神様以外には誰も持っていないです。

私たちは罪人ですので、イエス様は私たちの目の中には梁があることを教えます。
しかし自分の梁には関心を持たないで、他人の目の中にある ちりに目を向けて「悔い改めなさい。あなたは罪人です。」と非難をするのでしょうか?


他人を激しく非難したり責める人は、自分の中の梁に気付いていない人であります。
それで他人にある小さなちりを見て罪に定めます。

これは一言でいうなら、愛がない姿です。愛がない人は自分の中に神がいない人であります。

他人を赦すのは相手のためではなく、自分自身のためです。他人を赦すと自分が神様から赦されるので、まず赦します。


天国に行きたいと思うならば、自分が天国に入るためにも他人を赦すのです。

相手が自分に謝らなくても態度が変わらなくても関係がなく、「主よ。あの人の罪を赦します。私の罪も赦してください。」と祈ることです。


イエス様は自分を殺した人たちを赦しました。
私たちもイエス様の姿を見て、見習って行動をすることです。

迫害する者たちが投げた石に打たれながら死にかかったステパノはイエス様と同じく
「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました。そこに愛の姿を見ることができました。
これは聖徒が見せるべき愛の姿勢です。


クリスチャンの倫理、道徳の行動基準は低いレベルではなく、むしろ高いレベルです。
それは神ご自身が、この世の神々と呼ばれるものとまったく違う存在であり、愛とあわれみと赦しと偉大な神であるからです。

神様は私たちのことを子どもと呼んでくださっていますので、神の子どもであるならば 聖徒も相応しい姿でなければなりません。


世の中のレベルに合わせるのではなく、神の国の市民として そのレベルに合わせるのです。
私たちは身体は地上にあっても、私たちの国籍は天国であります。

聖徒の品格すら何一つなかった者たちが、日々成長して聖徒の品格を整えていく時に、それが神に栄光をささげる姿です。


愛ある行動ほど聖徒の品格を高めるものはありません。


愛があれば全て出来ることです。愛があるなら問題なく1つ1つのみことばを実行することができるのです。
今日のみことばを目指して日々実行していくならば、誰でも愛の人に変わることができます。
(´∀`*)

2014.7.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

神の奥義の管理者

いくら熱心に主の為の働きをしても、もし誰もそのことを人々が知らないならば、
また 主のための働きをするのに、心に満足がないならば、
また 時には、一生懸命 主の働きをするのに 周りから非難され攻撃されるならば、

働きをする聖徒たちも だんだん疲れはじめるようになります。


そうすると、今まで信仰の良かった聖徒たちも心が荒れ果て、そして耐えることも難しくなって、自分がやったその働きも投げ出す時があります。


これはすべてサタンの戦略でもあります。

サタンは分裂を起こします。
私たちの心に怒りを与えます。私たちの心に霊的に疲労感を与えます。

あらゆるものを動員して神の教会と、聖徒たちが任された使命をしないように私たちを導きます。


これはどれほど大きな損失でしょうか。


そのような状況が実際 教会の中でも起こりますので、パウロはコリント教会に手紙を通してそのことを語りました。


【Ⅰコリント4章1-3節】

こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。

この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。

しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、 私は自分で自分をさばくことさえしません。

皆さんはこの中に「忠実」という言葉が一番重要だと思うでしょうか。
しかし、そうではないです。


その言葉よりも もっとここで重要なことは、「 神の奥義の管理者 」という言葉であります。

忠実は、すなわち神様が私に任せてくださったことに対して忠実であるべきであります。


しかし、多くの人々は自分がしたいことに対しては熱心にしながら、それが神に対する忠実だと思います。
自分がしたいことをいくら熱心にしても、それは神様に対する忠実ではありません。

忠実という言葉は、自分に神様が任せてくださったことに対する忠実であります。

また この忠実も、自分の力だけでは、自分の決心だけでは出来るものではありません。


神の恵みなしに忠実に働くことは不可能であります。


そのため私たちは、一歩一歩 主と共に歩みながら、最後まで神のみことばに従って、自分に任された働きをしていかなければなりません。

そして、この忠実という言葉は、別の言葉でいうならば「 責任感 」であります。

私に任された働きを、責任感を持って最後まで成し遂げること、それを神様が私たちに求めておられます。


皆さんは今、主の働きに対して忠実な者でしょうか。

自分に任されたその働きに対して責任感を持って働いているでしょうか? (゚∇゚ ;)エッ!?

2014.6.5
3分テレフォンメッセージより

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

新しい人の日常生活とは

テーマは『 新しい人である聖徒の日常生活 』です。

【コロサイ3章5-17節】

新しい人と古い人の姿が書かれてあります。

● 古い人―罪の支配を受けている人(神を信じる前の姿)
● 新しい人―キリストと共に十字架につけられ、キリストと共に生きている人(罪から分離された人)

この地上で信じる人と信じない人は一緒に生活をしていますが、身分は違います。
地上の闇、天国の市民です。

クリスチャンはそれにふさわしい生活をしていかなければならないです。

【コロサイ3章5節】

殺さなければならないものです。内側にあるもので、これは育つと実を結んでしまいます。
欲が大きくなってしまうと殺すことが難しくなりますので、欲が小さいうちに殺しましょう。

【コロサイ3章8節】

捨てなければならないものです。持ったままでいると汚されていきます。
日々捨てなければならないです。綺麗になるために捨てて、新しい者にならなければいけないです。

【コロサイ3章9節】

神の子ならば、神の国の言葉を使いなさい。
平気で嘘を付くのは、偽りの父・サタンの支配を受けていることになります。
偽りを言うなら黙っていた方が良いです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

【コロサイ3章12-14節】

これは身につけなければならないものです。
聖徒は神様から日々愛と許しを受けているので、自分達が救われています。
だからその愛を持って、兄弟姉妹たち&人々を愛する人にならないといけないです。

【コロサイ3章15節】

感謝をすると周りの人と調和できる生活になります。感謝なしには仲良くはできないです。
感謝は神様からもらわないとできないことであります。キリストの平和です。
日々の生活で求めなければならないです。
自分に愛が無いのなら、そのままにするのではなく求めましょう。

【コロサイ3章16-17節】

偽りを捨てて、キリストの言葉を入れます。使う言葉を変えましょう。
キリストの言葉を語るならば、人々がその言葉によって生きるようになります。
私たちが生きるために、成長していくためにキリストの言葉をたくさん自分達の中に
住まわせなければならないです。

悪いものを捨てて、良いものを取り入れ、日常生活で実践しましょう。 (・∀・)つ

2012.5.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

livedoor プロフィール
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

(^^) からし種 に投票してね
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ