からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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義人

キリストの死は何が違うのか?

テーマは 『 キリストの死は何が違うのか 』 です

【ヨハネの福音書10章17-18節】

わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それを もう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

今は受難週ですので、イエス様に目を向けて イエス様のことをもっと考えたいと思います。

生まれた人間は 必ず死を迎えますが、“人間の死”と“イエス様の死”は同じでしょうか?
それは全く違うものであります。


キリストの死が すべての人の死と同じであるならば、キリストの死には何も特別な意味はありません。

(イエス様は)2千年も前に亡くなった方ですが、普通ならば既に亡くなった人の死を、いつまでも語る必要はありません。

しかし、今もずっとキリストの死が語り続けられているのは、その死がほかの人間の死とは 明らかに違うからです。


キリストは生きている時に、既に 自分の死について語り続けました。
イエス様は33歳で亡くなりました。
30歳から公の場で働きを始めましたが、その時から「死」のことを語っておられます。
年を取った人が死について語るのは不思議ではないです。

しかし 一番力に溢れ、働き盛りの30代前半の男性は いわば「死」とは無縁ですが、自分の死に関して何度も 語りましたので、周りが聞いたら不思議だったと思います。

そして、33歳の時に イエス様ご自身が語られた通りに十字架にかかり死にました。


自分の死に対して「自分から命を捨てるのです。」と言いました。

この世が辛くて死にたいから 自身の死のことを語ったのではないです。
(イエス様は世に対して「嫌だ」と言ったことはないです。)
イエス様は自発的に天から地上に来られましたが、死ぬ時も自発的な死でありました。

これは 誰かが無理やり「死になさい」と言ったのではないです。

この「自発的な死」が、『キリストの死の特徴』です。


ここで なぜ「自発的な死」が必要であったかを考える必要があります。

「自発的な死」でないならば、本人は死にたくないのに(いじめなどで)誰かの強要で自殺に追い込まれることが世の中では起こっています。

しかしキリストが十字架に至るまでの過程は、様々な人間が関わって十字架にかけ 他人によって殺された形にはなっていますが、キリストはそれらのことが起 こる前に 「自らいのちを捨てます。」と自分の死について預言を語り、その死は「自発的な死」であることを明らかにしました。


その「自発的な死」はこのためであります。

人々は普通なら「長生きをして 人々に役立つ働きをしよう。」と考えます。
でも、イエス様はたった3年間しか働きをしていないです。

なぜイエス様に自発的な死が必要だったのでしょうか?それは次の箇所に書かれています。


【ヨハネの福音書10章10-11節】

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

盗人とはサタンのことです。そして もう1人の盗人は宗教指導者・偽預言者たち、言わば惑わす者であります。
当時も、宗教指導者たちは盗人でした。サタンがその宗教指導者たちの中で働くのです。


その者たちは神様の言葉を伝えますが、イエス様から見れば 全てが「盗人」でありました。
それは魂に関心がないからです。
自分の目の前にいる魂が、狼の餌食になっているのに 魂に関心がなく、自分の地位や権力・豊かな生活に関心があるのです。ですから、羊を食い物にしているのです。

そこでイエス様が羊のために働きをすると、彼らは妬み、敵対し、殺したいと思いました。その姿は盗人であります。
そして、狼が羊を襲うと、彼らは自分の命を守るために逃げるのです。


しかし、イエス様は違いました。
キリストの自発的な死は、羊のために自らがいのちを捧げたことが分かります。

旧約時代においては、神様のことを「羊飼い」と表現しました。民たちのことは「羊」と言いました。

ダビデも詩篇23編で「主は私の羊飼い」と呼びました。


【イザヤ書40章11節】

主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

ここには良い羊飼いとしての神様の姿があります。
羊を飼い、世話をし、弱い子羊を引き寄せて主のふところに抱くとは どれほど主は優しいお方でしょう。
これが神様の姿であります。


それは、自分自身が全人類の救い主であることと、主ご自身が神であることの宣言です。


キリストの十字架の死は、本当は(私たち)羊が死ななければならないのですが、代わりに死んでくださったのです。

キリストの死の自発性は 人類の救いにおいては、必要不可欠な要素です。
もし、イエス・キリストの死が自ら選んだ死でないならば、人類を贖う効力(救い)が そこにはないです。
これでは(キリストは)死にたくもないのに殺された ということになるからです。


次の箇所では、キリストの死が自発的であることと、羊のためであったことが書かれています。


【Ⅰペテロ2章24-25節】

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、 自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

キリストの自発的な死のことも書かれていますし、イエス様が私たちの魂の牧者であることと 私たちは羊であることがはっきりと書かれています。

キリストは自分のいのちを捨てる権威があると語りました。そして、自分にはもう一度(いのちを)得る権威があることもヨハネの福音書10章に書かれています。これは、蘇るということをイエス様が宣言したということです。

つまり「死では終わらない」ということであります。

なぜなら、羊にいのちを豊かに与えると約束されたイエス様が 蘇らないならば、いのちがないのですが
復活することによってイエス様が語った通りに、羊にいのちを豊かに注ぐことができるのです。


「死」が無ければ 罪人の贖いはありませんし、キリストの「復活」が無かったなら 永遠のいのちが与えられることもありませんでした。 つまり福音が存在しなくなります。


福音には必ず十字架の死があり、その後に必ず復活があります。これで完全な贖いになります。

罪人たちが死ななければならないのに イエス様が代わりに死に、そして命を得る時にイエス様が3日後に墓から復活したので命が与えられています。


また、キリストの死は さらに他の人たちとの違いがあります。それを みことばで紹介していきます。




従順の死



【ピリピ2章8節】

自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

イエス様は神様がたてられた自分の計画に対して、たとえ死ぬことであっても従順しました。




代表者としての死



【ローマ5章19節】

すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

ひとりの人の不従順とは、人間の代表者であったアダムです。

原罪というものがありますが、人間は生まれがら罪があります。
しかし人々は、罪を知らないので 赤ちゃんを見て、「この子には罪がないです。」と言うのは聖書的ではないです。
まだ自らは罪を犯していなくても アダムから来た原罪の罪があるのです。

すると人々は「それは関係がないでしょう?アダムが犯した罪なのに、何で私が背負わなければならないのか?」と反論します。


もし このように言われたら、皆さんはどうしますか?
アダムは神様が一番初めに造った人間ですので、神様から見たらアダムは人間の代表者です。

この人間の代表が罪を犯したので、それに属するすべての者が汚れた者になっているということになります。


また、“ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです”というのは、イエス様が人類の代表者になるということです。その方の従順によって全人類の罪人たちが義人になるチャンスが与えられたことになりました。


私たちは「アダムのせいで私は滅ぼされるのだ」と不平不満を言う必要がないです。
なぜなら、イエス様が他に救いの道を備えてくださっているからです。

もしイエス様が代表者でないならば、1人の罪を贖うためにイエス様は毎度も死ななければならないのです。
この地球上に70億人が住んでいます。その人たちを救うためにイエス様が70億回死ぬことになりますが、それは出来ないことであります。


ですから、代表者を1人たてて(人々の罪を)イエス様が背負って死ぬならば、他の人たちが十字架にかからなくても イエス様を見て信じる者には神様がそれを認めて義人にしてくださるということです。これが神様の法則であります。

1人の罪人(アダム)によって全てが罪人になり、1人の従順(イエス様)によって私たちが義人になる道が開かれたのが「イエス様の死」です。




無罪の死



【ヘブル7章26-27節】

また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。 というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成した遂げられたからです。

ここに書かれている通り、イエス様は罪人を救うために共にいましたが、彼らと一緒になって罪を犯したことは1度もありませんでした。

無罪で死んだこの方こそが 私たち罪人を救うことができます。

誰が「私にはあなたは要りません。」と言えるでしょうか?
もし そう言うならば、その人は未だに自分が罪人であることを分かっていない人です。

分かっているならば、拒むことはできません。

もし自分が罪人であることを知っているならば、“誰が私をここから救い出してくれるのか、どうやったらこの罪が赦されるだろう?”と求めるようになります。

それに必要な方がイエス様であります。


しかし、イエス様を要りませんと言う人は、自分の罪の代価を自分で払わなければいけないのです。

神様はそのことを知っていましたので 私たちにとって必要なイエス様を無罪であるにも関わらず十字架にかかるようにしてくださったのです。
それによって神様と敵対関係にあった私たちが和解するようになりました。

そこで自分の罪を悔い改めた人は、神様から罪が赦されて、神様の子供になり和解できるのです。


歴史の中でイエス様以外に全人類のために命を捨てた人はいません。
自分の名誉、権力、利益、家族のために命を懸ける者はいるのですが、まったく関係のない全人類のために 罪がない者が死ぬということはないです。

イエス様は自発的にそれをしましたし、死にいたるまで従順しました。
私たちのために犠牲の死を払いました。


この特別な方は、私たちにとって なくてはならない必要な方であります。

「イエス様がいなければ、今も自分の罪の中にいますし、救いとは無縁な者でした。そして天国にも入られない者でした。」ということを自覚して欲しいです。

私たちのために命を捨ててくださったイエス様に、常に感謝をして“この恵みこそが 私たちにとって最も大きな恵みであること”を覚えて感謝しましょう。
.。゚+.(・∀・)゚+.゚

2014.4.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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力と恵みと憐みの神様

テーマは『 力と恵みと憐れみの神様について 』です

【Ⅱサムエル記22章17-30節】

主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。

主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。

彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。

主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。

主は、私の義に したがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。

私は主の道を守り、私の神に 対して悪を行わなかった。

主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。

私は主の前に全く、私の罪から身を守る。

主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって、私に償いをされた。

あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、

きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者には目を向けて、これを低くされます。

主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。

あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。

この箇所は、ダビデの賛歌です。聖書には色々な賛歌があり、その人たちの信仰告白が書かれています。

ダビデほど波乱万丈な人生を送った人はいません。
神様がダビデをイスラエルの王にしなかったならば、とても平凡な人生だったと思います。
父が飼っている羊の世話をする羊飼いでありました。羊飼いの生活はとても単調です。
人との関わりが少ないので、他人から来るストレスがあまりなく、毎日同じことをします。
他人から命を狙われることもなく、妬まれることもないです。

しかし、神様がダビデに目を留めて イスラエルの王にするために油注ぎをした時から、彼の人生は本当に変わってしまいました。

羊飼いから王様になることは、ものすごく祝福があって、権力を手に入れて好きなように生きていけるだろうと思うのは世の中の人の考えです。

ダビデはそうではなかったです。
油注ぎがあった時から神様の計画の中で激しい人生を生きるようになりました。
その時から神様の恵みも多く注がれましたが、同時に別の力も襲いかかってきて急に敵が増えてしまいました。

毎日、戦いに出て行かなければなりませんでした。
妬む者たちが増えて、とにかく彼を殺したい人間が増えました。
一番激しかったのは義理の父であるサウル王でしたが、権力による妬みでした。

様々な苦しみをダビデは味わってしまいました。家庭の中でも色々なことがありました。
その中で誰1人 彼を助ける人はいなく、自分の身を隠すところも受け入れるところもありませんでした。
ダビデを誰が助けたでしょうか?――それは、神様であります。

私たちは、ダビデの人生を通してどのようにしたら神様だけに頼って生きることができるでしょうか。
そして、救われた者たちは、どのように生きるべきなのかを彼を通して学びたいと思います。




【Ⅱサムエル記22章2-3節】

彼はこう歌った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。 わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。

私の神という言葉が連続して出てきます。これはすごく私たちが学ばなければならないことですし、
彼にとって神様がどのような神様であったのかを強調する言葉であります。

多くの者は神様は創造主であることを知っています。世界は神様が支配していることも知っています。
しかし、それだけでは何も始まりません。

ある人は「彼らの神様」と言います。それは自分たちと(彼らの神様)は何の関係もないです。
ある人は「われわれの神様」と言います。それも十分ではないです。
何が大切かと言うと、その神様が「私の神様」でなければならないです。

ダビデは「私の神」という言葉を使いました。
これは神様との関係が親密であることを示しています。

遠くに神様がいる感じがするのは、まだ親密度が薄いということです。
「わが巌、わがとりで」となった時は、その人自身が神様を日々の生活の中で体験していることを意味します。

私たちは自分で神様を体験しないと、わが神とは言えないです。

十二弟子のトマスは、イエス様が蘇った時に信じませんでした。ずっと疑いを持っていました。
そこでトマスの手が イエス様の傷跡に触れた時に初めて「わが主よ」と告白しました。

「わが巌、わがとりで、わが救い主」ということばを自分で認識し、信じて頼ることがないならば、
その神様と自分は何の関係があるでしょうか?


教会でも「私の神様」ではない人たちがいます。
「神様、神様」と呼んではいますが、親密な交わりがない中で信仰生活をしても何が得られるでしょうか?

それでは神様を知ることができず、神様を体験することもないです。
神様は私たちに「近づきなさい」という言葉を使いますが、これは親密度なのです。
自分1人の神様ではなく、もちろんみんなの神様でありますが、ダビデは「私の神」と言える強い思いがありました。

ダビデがどのような状況の中にいたのでしょうか。次の箇所です。


【Ⅱサムエル記22章5-7節】

死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。

よみの綱は私を取り囲み、 死のわなは私に立ち向かった。

私は苦しみの中に主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。

どれほど彼が厳しい環境の中にいたでしょうか。

サウルと3千人の勇士が、自分1人の命を狙うために追いかけてくるのです。
その中でダビデは生と死の隣り合わせでした。
もしこれが 私たちの姿だったとしたら、ものすごい恐怖心が出ると思います。

ダビデはどれほど不安・恐れがあったでしょうか。ですから彼は神様に頼るしかなかったのです。
身を避けることも出来ない荒野で神様を呼びました。その祈りが神様に聞かれました。
そして、一度たりとも神様は ダビデをサウルの手に渡しませんでした。反対にサウルをダビデの手に渡しました。
ダビデにとっては何度もサウルを殺すチャンスがありました。しかし手を下しませんでした。

自分を守ってくださった神様に対する恵みに溢れて、主が油注がれた者を殺さないという立派な信仰でした。
ただ自分自身が 神様に助け出され、神様が自分の避け所であったことだけでも喜びと感謝に溢れて、神様を褒め称えました。

これが私たちが 最初にダビデから学ぶ姿であります。

神様が 「 私の神様 」 になっているのか、その確信を持って神様に日々頼っているでしょうか?




そして、救いを受けている人たちは、神様の前にどのように生きるべきでしょうか。次の箇所です。


【Ⅱサムエル記22章21-25節】

主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。

私は主の道を守り、私の神に 対して悪を行わなかった。

主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。

私は主の前に全く、私の罪から身を守る。

主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって、私に償いをされた。

ダビデが神様の前で自分の行いを誇っていると思ったらいけないです。
救われた人たちは、このように生きていかなければならないです。
「神様は救い主であるし、恵み豊かな神様だから、その恵みがいつまでもあるから自分が好きなように生きて良い」ということは、絶対にないです。

神様が自分を救ってくださったならば 恵みの中に留まり、その救いに相応しく生きていかなければならないです。


【マタイの福音書5章48節】

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

なぜこのような言葉がこの箇所に出てきたのかは、その前の部分を読むと分かります。
それを理解しないと「完全」だという言葉の意味が分からなくなります。次の箇所です。


【マタイの福音書5章46-47節】

自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。

また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

この言葉を比べるとダビデが言った意味が分かります。

神様が「完全」と言ったことは、取税人や異邦人よりもあなたたちは勝る者でなければならないということです。
取税人や異邦人と同じことをするならば、それは救われた人の姿でしょうか?――そうではないです。

ですから、ダビデが神様の前で「手をきよくしました。自分が罪を犯さないように生きました。」と言ったのは、
そのようになるために彼が努力をしている姿であります。

神様は私たちを見て言います。人間には、誰1人完全な者はいないというのは神様が一番よく知っておられます。

それなのに、神様が私たちに完全でありなさいとおっしゃったのは、「あなたたちは救われた者として、実を結びながらわたしの前できよく正しい者として生きていきなさい。」というみこころなのです。

私たちは完全にはなれないのですが、だからといって何もしないのではなく、私たちは完全になろうと努力をして
取税人や異邦人に勝る者にならなければいけないです。

もし人間が完全な者だったとしたら、神様はいらないと思います。


パウロは、他の十二弟子よりも勝っている部分がたくさんあります。
しかし、パウロが語った言葉を見ると、自分は100%弟子になったと誇ったことがあるでしょうか?――それはありませんでした。
常に自分の中にある肉と戦い、肉を打ち叩きながらたくさん働いても「まだまだ私は足りない者」と語りました。

私たちは頑張っても罪を犯すことがあります。時には努力が足りなくてそうなる時もあります。私たちが完全ではないからです。時には弱くて倒れる時もあります。

ソドムとゴモラの町では「義人は1人もいなかった」と滅ぼされましたが、今の時代は義人がいるから違うだろうと思う人もいるかも知れません。
しかし、「私が義人です。」と誰が言えるでしょうか。世の終わりの時にもそう言える人はいないと思います。

パリサイ人は 神の前に来て「これを守りました。あれも守りました。」と言って、自分を義としました。
それをイエス様は退けました。いくら守ったとしても、その心の中には罪があるのです。


神様が言いたいのは、「努力しなさい。神様の命令に従順しなさい、主が喜ぶことをしなさい。」なのです。

神様が語ることは難しくて守れないことではないです。
私たちが本気で守ろうと思うならば、守ることが出来ると申命記30章に書いてあります。

昨日よりは今日、今日よりは明日が良くなるように努力する姿を 神様はすごく喜びます。
ダビデはそのように生きました。罪から自分の身を守ろうと必死でした。それでも人間ですから罪を犯しました。
間違えた判断もしましたが、それでも神様は彼を見て「わたしの心に適う者」と言ってくださったのです。

神様が私たちに多くの恵みを与えてくださるのも、私たちが努力している姿を神様が見るからであります。

まったく努力をしないで 恵みをないがしろにし、苦しい時だけ求めて自分勝手に歩むならば、神様は喜ばないです。


ダビデがそのように生きたことに対して、神様が「わたしのきよさによって、わたしに償いをされた」という言葉が2箇所も出てきます。

これは、神様は私たちの心や行いを見ておられますし、私たちが蒔いた通りに刈り取らせる神様であることが現れています。

神様に頼り、神様を敬う者、従う者に対しては豊かな救いと恵みを与えます。
しかし、主の言葉を退けて悪の道を歩む者に対しては懲らしめます。これは必ず来ることであります。


【レビ記26章23-24節】

もし、あなたがたがこれらのわたしの懲らしめを受け入れず、わたしに反抗して歩むなら、

わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。わたしはまた、あなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを打とう。

これは神様の口から出た言葉であります。
「あなたをわたしの愛する子として見るのではなく、わたしに反抗する者として見る」のです。
そうすると報いを受けます。1人は良い報いを受け、もう1人は悪い報いを受けます。
これはどの時代であっても変わることがないです。神様の言葉は永遠に続く言葉であります。
私たちはそれを忘れてはいけないです。

救いの実を結ばないで、いばらとあざみを出して 自分だけではなく 他人にまでトゲを刺す者、他人の畑までもいばらで覆ってしまう者には、災いが必ず来ます。
悪い実を結ぶので、神様はその人に七倍にして報いを与えます。

私たちはそのことを本当に気を付けなければいけないと思います。




【Ⅱサムエル記22章29節】

主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。

この言葉はとても大切であります。

ダビデ自身が神様をどのように思っていたのかが分かります。

この世は光ではなく暗闇です。
暗闇に ともしびがあるということは、私たちにとって神様の救いと希望、喜びであり祝福であります。
神様に頼って生きることは、神様が自分のそばに共にいることは、自分の歩む道がたとえ暗闇の道を歩いていても その人は、その中で絶望することはないです。

主ご自身がその人の光となり導きとなり、助け・救い平安となり、祝福になりますが、ダビデはいつも自分のともしびにしていました。


私たちも歩む時には、神様が私たちのともしびでなければならないです。
主のともしびがある時に、闇が照らされていきます。

私たちがその道をつまづかずに、わなに掛からないようには、このともしびが必要であります。

私たちが光の中を歩む時に、神様は「あなたたちは世の光である。」と語りました。
ともしびを持たない人が光り輝くことはできないです。これを私たちが手放してはいけないです。

死ぬ時まで神様のともしびに導かれて、ダビデが経験したように私たちもこの地上で経験していかなければならないです。

救われた人はこのように神様と親密な関係を結びながら、「わが神、わたしのとりで、わが巌」このようにしながら
毎日神様をともしびに照らされて、その中を歩むのが信仰生活であります。

その中で受けた恵みを常に思いながら、神様に感謝の賛美を捧げることが 私たちに必要なことであります。
(・∀・)

2013.11.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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義とは何でしょうか?

テーマは『義とは一体何なのか?』です。

【イザヤ書54章14-17節】

義とは、神から正しい者と見なされ、神から罪のない者と見なされることです。

義について詳しく書かれている箇所が下記です

【ローマ3章19-28節】

3章22節は、神様を信じた人には、神様から義をプレゼントされています。
3章24節は、私たちは何もしないでいても義と認められています。
3章20節は、私たちの行いの正しさを強調するのが律法主義です。しかしこれによって罪の意識だけが
生じてしまいます。

律法主義というのは、「形式主義で心や愛が無いこと」です。
それによって自分が律法主義に陥ると完璧にすることを求めます。
もしも完璧にできないと自己卑下してしまいます。
その結果、コンプレックスに陥り、苦しみ、縛られてしまいます。

モーセは律法の象徴です。モーセはカナンには行けませんでした。
なぜなら律法では天国へは行けないと神様がおっしゃったからです。
天国に行くための唯一の方法は「イエス・キリストを信じること」です。 

自分の行いを強調し過ぎてしまうことは、イエス・キリストの十字架の贖いの大きさを軽く見てしまうことになります。私たちは自分の行いではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義人とされます。

義人とは、神様を信じる人が神様によって義と認められている人です。
神様から新しい者とされ、神様から罪がない者とされている人=すなわちイエス・キリストを信じる人です。
ということは、神様を信じている私たちは、神様から見たら義人であり、
ここにいる全ての人の祈りは聞かれるという権利を与えられているということになります。
また、それによって信仰の行動ができるということです。
律法の行いではなく、イエス・キリストへの信仰による行いが大切です。

しかし、私たちは罪を犯してしまいます。私たちの内にある色々なものが罪の行動に走らせてしまうことも
あります。そういう時には悔い改めをしましょう。

【イザヤ書54章14-15節】

しいたげるものや、攻め寄せる者はサタンを意味します。神様から攻撃は来ないです。
神様は私たちの絶対的な味方であります。
私たちと共におられる神様がサタンと戦ってくださいますが、
私たちが信仰・みことばの剣によって倒さなければいけないです。サタンを追い出したら近づくことはないです。

【ヨシュア1章9節】、【ルカの福音書9章1-2節】、【ルカの福音書10章17-20節】

イエス・キリストの御名を用いることによって、悪魔サタンは出て行きます。
このみことばを握り、宣言し、追い出しをしたら私たちに害を加えるものは何一つありません。

【イザヤ書54章16節】

この世の人間、天地万物全てのものは神様が造られました。破壊者も神様が造られました。

【イザヤ書54章17節】

キリストの血潮にある恵みをもらっているので、私たちはいつも神様の前に正しいとされて
義人として立つことができます。そのような私たちにサタンは攻めることができません。

また他人の口が私たちを罪に定めてくることがありますが、私たちがその人達を罪に定めることにもなります。
神様は人間を愛し憐れんでおられる方なので、その人を「赦しなさい」と言っておられます。
その人たちも神様が愛し憐れむ魂であるので、神様は(その人を)罪に定めるので私たちは赦さなければならないということです。

また、時には自分で自分を責めることはないでしょうか?

悔い改めをして神様から罪を赦していただいたにも関わらず、「私は義人ではない。」
「私は罪赦されていないから、私の祈りは聞かれないのではないか?」と思ったら
それは神様を嘘つきにすることになります。

これは謙遜なように見えて、謙遜ではないです。あなたのみことばが間違えていますということと同じになります。
神様からの「あなたは義人である」という言葉を、素直に受け取り告白することで自分自身が自由になれます。

神様が私を自由にしてくださっているのに、自分が律法的になったり宗教的になって
自分で自分を縛ってしまうのは、神様の御前に正しい姿ではありません。

今、自分が置かれている状態、環境がどうかが大切ではなく、何を信じているのか?
自分を見ているのか、神様を見ているのか、神様を信じ・信頼し見上げているのか
このようなことを神様は見ておられます。

今、苦しんでいるとしても神様を見上げて、自分や周囲、環境が変えられ続けていることを
信仰によって見ることを神様は望んでおられます。

神様を信じる前と、信じた後で何一つ変わっていないという人はいないと思います。
たとえ少しずつでも神様によって変えられています。
このように環境や状況を変えてくださる神様を見なさいと語っておられます。

【エレミヤ書29章11-14節】

神様が未来を見なさいとおっしゃっておられます。これからも絶対にあなたを変えるから
あなたを変えるわたし(神様)を見なさい。
ダメな自分、愚かな自分、失敗する自分、罪を犯す自分、情けない自分を見ないで
全てのことを働かせて益としてくださる神様を見なさい、と語ってくださっています。(^∀^)アーメン

【ローマ8章28節】

2012.12.2
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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