からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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罪人

永遠の愛

テーマは 『 永遠の愛 』 です

ハレルヤ
1週間守ってくださった主に感謝します。

また、礼拝出来る恵みも感謝します。


【イザヤ書43章4節】

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

自分が信仰ある人か、信仰のない人かは、何で判断しますか?

信仰ある人は神の言葉に対して「アーメン」と素直に認めます。

それに反論したり、否定したり、矯正したりしません。


信仰のない人は、神の言葉にケチをつけます。

すぐに否定して別のことばを話します。

それは自分の考えであったり、人からのことばであったりします。


例えば、今日のことばに対しても素直に認めていますか。


それとも「私は何の取り柄もないダメな人間です。値打ちもない人間です。」と否定しますか?

特に日本人は自虐的な人が多いです。


自分のことを愛せない人も多いですし、自己評価が低いです。

それを謙遜と勘違いをする人もいます。

しかし、自分を愛する人を見ると、ナルシストだと悪口を言います。


どちらも間違えています。


聖書には、神のことに関しては「神は愛です。」と書いてあります。

ここに最大のポイントがあります。


神が愛であるから、神にとって愛せない人は1人もいないことです。


愛の心で、愛の目で見ると、すべてが愛する対象に見えます。

神は罪人も悪者も愛しています。


【マタイの福音書5章43-46節】

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。

神の愛は、太陽のような愛です。

暖かく包んでくださる愛です。


渇いた心が潤うように恵みの雨のような愛です。

もし神に愛がなかったならば、人間誰一人 地球上に存在することが出来ません。


神の愛を受けているのに、「どこに神の愛があるんだ」という人は、太陽の光を見ながら、太陽がどこにあるんだという人と同じです。

また、雨を見ながら、雨がどこにあるんだという人と同じです。


神の愛は永遠の愛です。

イエス様は自分を十字架につけた人に対しても愛を示しました。

彼らのために涙を流しました。


私たちは神が自分たちをどんなに愛しているかを知らないといけないです。


自分が神を愛してなくても、神が「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われた時に、むしろ喜びながら神に感謝しなければなりません。


「こんな者をそこまで愛してくださる神様、感謝します。自分よりも自分を愛しておられる神様。感謝します。」と喜ばないといけないです。

「なんで愛してくださるのですか?」と聞く必要すらありません。


愛するのに理由はないからです。


人を愛せないのは、愛する理由を求めているからです。

愛するのに自分の基準があって、「これだから無理だ。愛せない。」と愛することを拒否します。


よく考えましょう。


自分は神に愛される条件を満たしたから神に愛されているでしょうか?

神の愛に条件があるならば、私たちは一番不適格な人に入ります。


神の愛のことばに素直に喜びましょう。
v( ̄∇ ̄)v

2016.1.22
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神の選びと召しの目的

テーマは 『 神の選びと召しの目的 』 です


【第2テサロニケ2章13-14節】

しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。

ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。

日本では春と秋に園遊会が開かれます。

天皇、皇后の招待によって、議会の議長、各界の著名人、功績者などが配偶者と共に招かれるので 2千人を超える人々が参加します。


誰でも招かれるのではなく、その時に活躍した人たちが招かれると思います。

招かれた時に、嫌がって断る人がいるでしょうか。

特別な理由がない限り断る人はいないと思います。


むしろ天皇、皇后からの招待だからこそ 光栄と思って喜んで参加するでしょう。


私が思うには まことの天の神に招待されることほど、この世で一番光栄な招待はないと思います。


その価値を知らない人はそうとは思わないでしょうが。


園遊会で天皇と会話をしている人たちを見ると、みんな緊張しているのが見てわかります。


救われた人が いつか天国で神と対面した時はどうでしょうか。

緊張よりは あまりにも嬉しくて言葉も出ないと思います。

想像するだけで心にこみあげてくるものがあります。


神様が私たちを特別に選び、召されるにはどのような目的があるでしょうか?


功績も活動もしていない者たち、罪と咎の多い者をなぜ選ぶのでしょうか。

この世では招かれることもない者たちを 神様が選び召される目的を、私たちは知る必要があります。


知らないと価値が分からず、感謝も出来ず、宝物を持ち腐らせる結果になります。


神様ははっきりとした目的をもって私たちを選んで下さいました。

今回はそのことを伝えます。




1.救いとキリストの栄光を得させるために




今回の本文に そのことが書かれてあります。


神様が私たちを選ぶ目的は たましいの救いを得させるためです。

このことは救われた人ならば皆が知っています。


救われないと誰も神の国に入ることは出来ません。

神の国に入る第一条件は “救われること” です。


神の恵みと福音によって罪人が救われます。

決して人間の努力や力で救いを受けることは出来ません。


神の真理のことばを聞いて 信仰で受け止める時に、神の恵みによって罪赦され、救いを得ます。


そしてキリストの栄光を得させるためです。

人からの栄光ではなく、神の栄光を与えて下さるために召して下さいます。


勝利の行列に私たちを入れて下さいますし、キリストの栄光も与えて下さいます。




2.完全な者、強い者、不動の者とするため




【第1ペテロ5章10節】

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

私たちをありのままの姿で選んで下さる神様ですが、ありのままの姿で生きるのではなく、新しい人にするように私たちを変えるために召して下さいました。

これは祝福です。


神にあって私たちは変わります。

それも弱い者ではなく強い者に、完全な者に変わります。

召しの目的です。




3.聖潔を得させるため




【第1テサロニケ4章7節】

神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためでる。



4.キリストの平和を与えるために




【コロサイ3章15節】

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

救われた人はイエス様によって神と和解した人です。


和解した人に与えられるのがキリストの平和です。

罪人にはこの平和がありません。




5.神のしもべとして用いるために




【ローマ1章1節】

神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、

召されたすべての人は しもべとしておのおの主から受けた召命があります。
忠実に従う時に、神は必ずその人に良い報いを与えて下さいます。




6.祝福を受け継ぐために




第1ペテロ3章9節】

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのですから。

祝福を受け継ぐために召された人は、祝福の種を蒔かなければなりません。


悪を蒔いて祝福を願っても祝福はありません。
蒔いた種が悪いからです。

祝福の種を蒔けば祝福を刈り取ります。


神は このようにすべて良いものを与えるために 私たちを選び、私たちを召されます。


しかし、このことを どんなに人に話してもほとんどの人は関心を示しません。

目に見えるものではないと見向きもしません。

(その人たちは)人からの栄誉ではないと興味も示しません。


ある人は 「そんなものは要りません」 と拒否します。

ある人は知ろうとしません。

また 疑います。
「今は忙しいから いつか考えます」 と言って、神の選びと招待を断ります。


これは本当に愚かな選択だと思います。
自分の祝福を自分で断ることです。


偉い人の招待は 他のことを犠牲にしても喜んで応じる人が、神の招待だけは嫌って断る人が多いです。


このように素晴らしい祝福をどこで得られるでしょうか?

そして、すでにこの召しを受けた人は 召しにふさわしく生き、絶えず神様から受けた恵みに感謝して、さらなる祝福を神から受けましょう。
(・∀・)


2016.5.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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救いをもたらした神のみわざ

テーマは 『 救いをもたらした神のみわざ 』 です

【ルカの福音書1章76-79節】

幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、

神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、

暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

今日の本文は「ザカリヤの賛歌」と呼ばれる箇所の一部です。


ザカリヤは祭司で、バプテスマのヨハネの父親ですが、この賛歌を聖霊に満たされて預言のことばとして語りました。

生まれてくる息子・ヨハネに与えられた神からの使命と、その使命は「メシヤが来られるための道を備える働きである」と語りました。


メシヤは神が約束した救い主で、神の御子であり、救いをもたらすために来られるイエス・キリストです。


メシヤこそ神のみわざの現れです。


人間には なぜ救いが必要なのかを知らない人がとても多いですし、宗教は何でも良いと言う人も多いので、そのことをはっきりするために必ず語らなければならないのが “罪の問題” です。



今日の本文にもあるように、ヨハネの働きの中には、神の民に “罪の赦しによる救いの知識を与えるため” もありました。


世界が創造された時から罪が存在したのではありません。
もし存在したならば、罪は神が造ったことになります。

罪が存在しない世界に最初に罪をもたらしたのは、最初に造られた人間であるアダムとエバであることは知っていますね。


それ以後、生まれてくる人間の中には、まるで遺伝子のように罪が組み込まれています。

それを聖書は「原罪」と言います。英語ならば “Original Sin” です。


そこからすべての罪が始まります。
原罪なしに生まれる人間は誰もいません。


それなのに人間はそのことに対してあまりにも無知でした。
なぜならそれが自然体であったからです。


何の違和感もなく、(罪が)体の一部として自分の中で働いていたからです。


教会に来るまでは、罪ということばをあまり聞く機会がないですが、教会に来ると “罪” ということばをよく聞くので、「何故 いつも罪、罪と言うのか」と不思議に思う人や聞きたくないと思う人がいます。


それは罪という存在を気付かせるためです。

罪に対して無知であってはならないからです。

罪を理解しないと、救いの定義が分からないですし、なぜ救いが必要なのかも分かりません。


また神の救いがどのように大きな恵みであるかも分からないです。


罪の恐ろしさも知らないと罪を警戒することもしないです。

罪のことをよく言うのは、罪に対していつも警戒してほしいからです。






罪を分かりやすく理解するためには、罪を犯す前の状態と罪を犯した後の状態を見れば良いです。


罪を犯す前の人間の状態は 神を愛し、喜び、神と共に歩む「神中心」の生活でした。

神が「神中心」に生きるように人間を創造しました。


しかし罪を犯した後の状態は「自己中心」になりました。

世界の主人を神とせず、自分自身が直接主人になる姿です。


アダムとエバは神のようになりたくて、神のことばに逆らいました。

しかし人間が神になることは出来ません。

なぜなら人間は、あくまでも人間以上になることは出来ないように神が創造したからです。


ですから今も自分を神だという多くの異端の教祖たちは嘘つきですので、騙されないようにしましょう。


また、そこまでではなくても 神のことばに従順せず、自分の欲に従って好きなように生きようとする利己的な心があります。


罪のない状態を体験したのは、アダムとエバだけであり、その後は皆 原罪をもって生まれて来ました。

ですから罪から逃れることが出来ません。

それで聖書はすべての人間を差別なく「罪人」と呼んでいます。


罪は神の御心から外れた思い、考え、決定、価値観、行動すべてです。
神のことばに不従順するのが罪です。


なぜ人間はそのように生きていながら、罪人の認識がないのでしょうか。


人間は相対的な価値観を持っているので、世の法の基準に合うならば、自分は正しく生きていると錯覚します。


ですから「私は人を殺したこともないし、物を盗んだこともないし、自分なりに正しく生きて来たのに何が悪い。私は罪なんか犯していないし、罪人ではない。」と言い張ります。


それは人間の基準であって、“神の基準” ではありません。


人間は神のことばに従順して生きるように造られ、決して世のことばに従順して生きるように造られてはいないです。


みことばに違反した時から、人間は自分が創造の目的から離れたことに気付かなければなりません。


この罪の深刻さをはっきりと認識する時に、私たちの罪を洗って下さったイエス様の十字架の恵みがどんなに大きいかを知るようになります。

神は、罪によって神から分離された人間に対して怒りや憎しみではなく、憐れみの心を抱きました。


サタンのことばに簡単に騙されて、罪を犯してしまった人間を 神は深いあわれみの心で見ていました。

そこから神の救出作戦が始まりました。


人間を救うための神の壮大な計画でしたが、人間はそんなことも知らないで、相変わらずサタンのことばに騙されて、自分のいのちをサタンに預けています。






難民たちの状況がそれに似ています。

今、ヨーロッパには難民が急増して大変問題になっています。

内戦があるシリアやアフガニスタン、イラクなどから自由と豊かさを求めて危険を覚悟で渡っています。


戦争も内戦もすべて自己中心の人間たちが起こしたことです。

今年だけで既に35万人で、途中で死亡した人の数が2600人に達したと発表されました。


お金を仲介者に支払って、ヨーロッパに向かって行く 多くの人々が仲介者に騙されています。

そこで放置されて死亡する人も多いです。


ヨーロッパの政府も一般の人々も面倒なことだと思って、あまり関心を持たなかったですが、最近シリアからの難民が乗った船が沈んでしまい、乗っていた12人が亡くなり、一緒に乗っていた3歳の男の子が流されて砂浜にうつぶせになって死んでいる映像が世界中で公開され、それを見た人々は感情を揺り動かされて、非常な悲しみを覚えました。


私もそれを見ましたが、本当にかわいそうで心が痛くなりました。

その映像で今まで難民に対して無関心だった一般市民から非常に大きな反響があって、今は難民のための寄付金がたくさん集まる流れに変わっています。


私はそれを見て、これも神様の憐れみだと思いました。


今までも多くの子どもたちが死んでいましたが、戦争がない国の海岸に衣服や靴を身に着けたままの可愛らしい子がうつぶせで死んでいる姿は、自己中心的な人間の心に憐れみの心を起こしました。

自分たちの子どもの姿を思い出したでしょう。


もしかしたら多くの難民を助けるために、その子はその砂浜にたどり着いたのかも知れないです。

それによってヨーロッパの国々が難民のために本格的に対策を考えるようになり、難民を受け入れる国が増えました。


難民たちのことで、なぜかバプテスマのヨハネとイエス様のことを思い出しました。


自分たちを騙している人間に お金まで渡して、保冷トラックの中で窒息して死んだ71人を騙した人たちはサタンの姿に見えました。


死ぬかも知れない危険がいっぱいあるにも関わらず、次から次へとそれに飛び込む人たちは、いま永遠の死の道に向かっているかも知れないと思いながらも、その道を歩んでいる人々と良く似ていると思いました。


人は自分が生まれる国も親も環境も選ぶことが出来ません。


そして変わっていく環境も自分では止められないことが多いです。

ですから自分が努力もしないで与えられる良い環境は本当に恵みだと思います。


良い国や親や環境、そして救いも世に存在します。

しかしそれをみんな受けるのではないです。






先週、マレーシアへ行った時に夜の11時過ぎの繁華街で小さな女の子二人を見ました。


たぶん上の子は5歳位で、下の子は3歳未満の小さな子でしたが、歩きながら手に持っている物を人々に売っていました。
それを見て大変だなと思いました。他にも何人かの物乞いも見ました。


その人たちの環境は厳しいですね。

そしてマレーシアはイスラム教徒がとても多いですが、生まれた環境によってイスラム教の枠から出られないことがとても気の毒に思われました。


特に女性のムスリムは体を隠し、頭にもスカーフをみんな被っていますが、中東から来たと思われるカップルを見ると、男性はTシャツ&短パン姿なのに、女性たちは全身真っ黒の長い服を着て、目だけ見えていました。


暑いのに1年中そのような姿はかわいそうな気がしました。


家族以外に自分の姿を見せることも、おしゃれをして歩くこともないので、そのような国で生まれなくて良かったと思いました。

そして どんなに熱心に礼拝し、規律に従って生きても 救いを得られないことがとても残念と思いました。


キリスト教以外の、どの宗教も人間の罪に対しては触れません。


そのことに触れると、罪が何なのか、どこから始まったのか、救われる方法があるのかを説明しないといけないので、それには触れず、自分たちの言う通りにすれば天国へ行けるし、良い生活が出来ると言います。


しかしキリスト教だけは、神の存在、人間の創造と罪、堕落、罪の赦し、救い、天国や地獄、裁きなど何一つ隠すこともなく明確に教えていますし、サタンの存在も教えます。また、神がどのような方であるのかも教えます。
そして、その先のことも聖書は預言しています。


これは真の神ではないと出来ないことです。

バプテスマのヨハネの出現も、すでに旧約で預言されていました。


【マラキ書3章1節】

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。

その預言通りにヨハネは来て、メシヤのための道を整える為に、神からのメッセージを伝え、水のバプテスマを授けました。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいた」と叫びました。


人々はそのメッセージを聞いて、自分の罪を告白して、ヨルダン川でヨハネから水のバプテスマを受けました。

そして さらに人々に語りました。


【マタイの福音書3章11節】

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

このように人々に罪の認識をさせ、告白するように導き、罪を赦して下さるメシヤが来られることを待ち望むように準備をさせました。


それからメシヤはその預言通りに来られ、その方がイエス様であることは、ヨハネも聖霊によって教えられて確認しました。

ヨハネ自身は、罪を認めず 罪を楽しむ者の手によって 首を切られて殉教しました。30代前半でした。

そして神の預言通りにメシヤである神の子イエス・キリストが来られて救いが完成しました。


イエス・キリストが来られたのは、罪人に対する神の深いあわれみ以外に何ものでもありません。


罪の恐ろしさも深刻さも知らないで生きている人間に対するあわれみです。


神ご自身はそのために御子イエス・キリストを犠牲にしなければならない深い痛みを伴いましたが、それでも人間のために尊い犠牲を払いました。


その犠牲の象徴であるイエス・キリストの十字架を見て、罪に無関心だった人間がやっと罪に気付き、神の憐れみに対しても無反応だった人間がやっと反応するようになりました。


人間の罪に対する無関心は、他人が犯したひどい罪によって、無関心から関心に変わります。

人間がこんなにひどいことを平気にやるんだ と、人間の罪深さや残忍さに改めて気付きます。


難民事故も幼い命の悲惨な姿を見て 人々は自己中心から、少しだけ人の痛みにも目を配るようになりました。






イエス・キリストの悲惨な十字架がなかったならば、神の愛も憐れみも罪の赦しも人々は気付くことがありません。

罪のない方が なぜ死んだのかに関心がある人は、神の言葉に耳を傾けます。


しかし、私とは何の関係もないと言う人は 救いが存在しても、それに気付くことがないです。

自分が好む方法で自分の罪を解決しようとしても、罪の問題は解決されません。


十字架だけが人間の罪を赦し、悪の力から救い出し、暗黒と死の陰から光に導くことが出来ます。


人間はキリストの血の贖いを信じる信仰によって救われることが出来ます。
これは100%神の恵みによります。

福音を聞かされたことが恵みであり、救いを受けたことは人生最大の祝福であります。


人生の中で一度も福音を聞くことがなく死ぬ人も大勢いますし、聞かされても信じない人も多くいます。


そのような中で、福音を聞いて救われたことがどれほど大きい祝福であるか分かりますか?

救われたことは ただ事ではないです。本当に特権であります。


地上に生きていながら、真の神を知り、神からの救いを受け、神の守りの中で天に向かって歩む人生は自由と豊かさと平和を得ています。


これらのものは自分が努力して得たものではなく、すべて神の憐れみと恵みによります。


「私のような者がこんなに大きい祝福を得て良いのでしょうか?」と聞くぐらいに謙遜にならないといけないですね。

救われた環境の中にいる人は一番幸せな人です。


【エペソ2章1-9節】

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです ――

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

救われる前の姿と救われた後の姿では どちらが良いでしょうか。

この地上ではどちらの姿でも 自分で選ぶことができます。


しかしその後の世界では、神が私たちを見て決めますので、自分で選ぶことは出来ないです。


神が持っている基準は、救われているかどうかです。

それを変えることは人間には出来ないことです。


神は私たちを憐れんで、救いの恵みを与えようとして今も人々を待っておられます。

この神の所に来ませんか?
(*´ -`)(´- `*)

2015.9.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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あなたは正しい者ですか、それとも罪人ですか

テーマは 『 あなたは正しい者ですか、それとも罪人ですか 』 です

【ルカの福音書5章27-32節】

「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。

するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。

そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。

すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」

そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

皆さんは自分を正しい者と思っていますか。それとも罪人と思っていますか。

これはとても重要な質問です。

この質問に どのように答えたら良いか、困るでしょうか。

自分を正しい者と言う勇気もないし、罪人と答えるのも嫌な感じがするし、「どちらでもありません」というのが一番無難な気がしますか?


日本は先進国の中で一番クリスチャンが少ない国です。

少ない理由は色々あると思いますが、自分を正しいと思う人が多く、罪人という認識が少ないことがあるかも知れません。

そもそも罪がどういうものか知らないのが問題かも知れません。


そして日本には “本音と建て前” の文化があります。

文化と言えば悪いものだと思わない傾向がありますが、それは偽善者または二重人格者と何が違うでしょうか。

偽善者だと思います。

もし皆さんが他の人から「あなたは偽善者で二重人格者です。」と言われたら すごく腹が立ちますし、良い気持ちがしないですね。




偽善者の姿




偽善者の姿をちょっと見てみたいと思います。

ルーマニアで最も影響力があったリチャード・ウォンブラント牧師ですが、この牧師はチャウシェスク独裁政権の時に、キリスト教の牧師であるだけの理由で捕まり 14年間も共産党本部の地下牢に入れられ、まともな食事も与えられず、日々拷問を受けて奇跡的に生き延びましたが、解放されて世界中を回りながら、その体験を語りました。


牧師はニュージーランドのクライストチャーチ市に行きました。
都市の名前が「キリストの教会」という意味です。

ですから、牧師はそこに住む人は全員クリスチャンだと思いました。

ある時、レストランで男性と合席になり、そこで会話が始まりましたが、その男性がクリスチャンではないことが分かりました。


牧師は「どうして教会に行かないのですか?」と聞きました。

すると男性は次のように答えました。
「教会に行くと偽善者が多過ぎて、私は教会には行きません。」

それを聞いたリチャード牧師は「私は教会に偽善者が多いので、教会に行くと心がとても楽です。なぜなら私も偽善者ですから。」と答えました。

皆から尊敬される立派な牧師が自らを“偽善者”と認めました。

そのことばの意味を私たちは悟らなければなりません。


皆さんは偽善者ですか。それとも「私は偽善者ではありません」と否定しますか。

今日の本文には偽善者の姿が出て来ました。

それはパリサイ人と律法学者です。彼らのどこが偽善でしょうか。

彼らの生活を見ると偽善的な姿は見えません。むしろ敬虔な姿です。


神のことばを文字通り守りますし、いつも聖書を読むし、よく祈るし、施しも熱心で、献金もよくささげ、落ち度のない敬虔な生活をしていました。

しかし彼らの心をとらえているものがありました。

それは他人に対する優越感、自分を正しいと思う心、それによって他人を裁いていました。

本文でもその姿がありました。


イエス様が自分たちが罪人だと思う人たちと一緒に食事しているのを見て非難しました。


別の箇所でさらに彼らの姿を見たいと思います。


【ルカの福音書18章9-14節】

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんで下さい。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

パリサイ人の姿は“高慢”です。神様が一番嫌う罪は高慢です。


高慢の基にあるのは「私は他の人よりましだ、もっと正しい」と思う優越感です。

この意識に捕えられると、自分より劣る人に対して 自分が審判者になって軽蔑したり、非難したり、裁いたり、また怒ったりします。

イエス様は このパリサイ人に向かって「まむしのすえたち、偽善者」と呼びました。

そのことばを聞いた時に彼らは怒り狂ってイエス様に対して殺意を抱きました。そして後になって十字架につけました。


なぜそこまでしたのでしょうか。
彼らは完全主義者だったからです。

彼らの一番恐ろしいことは、(外見は)謙遜で覆われている高慢です。

それがパリサイ人たちの典型的な姿でした。

教会の中にはパリサイ人のような偽善者もいれば、他人の行動を見てつまずいて 教会を離れるもう一人の偽善者もいます。


リチャード牧師と話をした男性も偽善者です。

なぜその人たちが偽善者だと思いますか。

その人たちが他人を裁く時には「私はあの人のように高慢ではない。私は偽善的ではない。あれでもクリスチャンか、あれでも牧師か、私ならばあんなことはしない」と自分自身を高く評価するからです。

それで教会を離れて、信仰を捨て、他の宗教に改宗する人もいますが、それはその人の信仰が不透明であったことを改めて見せていることです。


信じた時から クリスチャンは世の光、世の塩ですが、(周りが)暗いからといって光を放ちたくないと嫌がる光を見たことがありますか。

(味がなくて)美味しくないから 入って塩味をつけたくないという塩があるでしょうか。

そのような確信がないので 人を見て揺れ動き、他人を非難して人のせいにした挙句、神から離れます。


信仰生活は、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない(ヘブル12章2節)生活です。
信仰はイエス・キリストを信じることから始まり、生活はそれを持続することです。


信仰生活は、まずは神様と私たち自身の問題で、次に他の人たちとの間で生きることです。


それなのに他の人たちと生きることが嫌で信仰を捨てるということは矛盾していると思いませんか。


問題は他人ではなく自分自身にあります。
いくら弁明しても自分と神の関係がはっきりしないので心が揺れて人間関係につまずきます。

私たちは人を見て信仰生活をするのではなく、イエス様を見て信仰生活をします。

他人のあやまちや罪を見た時には祈り、自分もそのような罪を犯さないように、罪の誘惑に負けないように気をつけることです。


自分のことは棚にあげて、他人が悪いという偽善者たちにイエス様がはっきりと語りました。


【ルカの福音書5章31-32節】

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」





私たちは体の調子が悪いと病院に行きますね。

病院へ行くと、もちろん病人だらけです。そして あらゆる病気の人がいます。

それが嫌で病院へ行くのを諦めますか?

諦めるならば治る病気も治らず 痛みで苦しむか、病気が悪化して死ぬかです。
多分そんなことで病院へ行くのを諦める人はいないと思います。

医者に病気を隠すどころか、症状を一生懸命説明して、治してほしいと訴えます。


しかし教会に他の罪人が来るのを見て、それが理由で行かないとは自分の魂が死んでいくのに その自覚がなく、自分の魂が死ぬのを放置しているのと同じです。

罪は魂の癌であって、これによっては100%死にます。

また、罪の癌は神様に出会うまでは自覚症状が全くないです。自覚がないので軽く考えています。


日本人が信じている信仰は罪に対しては全く触れないです。
でも触れないからといって罪が存在しないということはないですね。罪は存在します。

イエス・キリストはそれに触れ、その罪を悔い改めるならば、その罪を赦し、そして罪に定めないと恵みを備えています。


それは恵みであり、難しくないですが、サタンはそこから目をそらさせ、そしてアダムとエバを騙したように「あなたは罪人じゃないよ。罪によって死ぬことはない。先祖たちもみんな天国に行ったよ。」と甘いことばでささやきます。

神の真実とサタンの騙しことばを人々に伝えると色々な反応があります。

特に日本人は真理は信じないで、サタンの偽りのことばを信じる人が圧倒的に多いです。

または「自分は罪が多いし、もっとまともになってから信じます」という人がいます。
これも偽善者になりやすい姿です。


なぜなら正直に、道徳的に、倫理的に清く生きることは素晴らしいことですが、それが自己義に変わる時に、それはパリサイ人と同じ悪を行うことになります。

自分が道徳的に倫理的にまともな人間だと思う人に罪人の認識があるでしょうか。

自分を正しい者と思うので、さらに救いからは遠くなります。
その人たちは神様を求めることをせず、自分の努力だけで生きるようになります。

でもそれで罪が消えるわけではないですね。


罪の問題は、神様の赦しを得なければならない次元です。努力では得られないです。

ですから その人たちは自分は罪が多いと言いながらも、実はそこまで罪に対する自覚がないです。

一見、謙遜な姿に見えますが、自分の力でなんとかしようとする高慢が隠れています。


そして自分の罪を全く認めていない人がいます。

目が見えない人の姿です。
正しい者でもないのに、自分を正しい者と勘違いしながら死ぬまで生きる人です。


また、自分の罪を認めてはいますが、自分は罪深い人間だから赦されることはないと勝手に決めてしまう人もいます。

病院では軽い病気は受け入れ、重い病気は受け入れないでしょうか。
絶対にそんなことはないですね。

重い病気の人が優先になります。


神様の赦しにも 重い罪も軽い罪もないです。






そして本文に出てきた人物レビのような人がいます。

レビは取税人です。
彼の仕事はお金はたくさん入りますが、評判の悪い仕事でした。

その理由は、不正な方法でお金を手に入れる人たちが多かったからです。

レビもそのような人だったと思います。

一般の人たちは彼らを罪人と呼びました。


イエス様は彼に目を留め、いきなり呼びました。
「私について来なさい。」とひと言言っただけで、何もかも捨てて、立ち上がってイエス様に従いました。

そして自宅に招いて大ふるまいをしました。それも他の大勢の人を招いて食事会をしました。


それには2つの理由があったと思います。

罪人である自分を招いてくれたことに対する感謝と喜びの気持ちを現すために自宅に招きました。
そして今までお世話になった仲間や愛する人たちとの別れの挨拶でもありました。

古い生活を清算し、新しい生活への出発を祝うためでもあったでしょう。


お金をたくさん手に入れて良い家に住み、毎日ごちそうを食べ、良い服を着て、良い車に乗り、外国へ旅行するのが人生の目的で、それで満足するために生きていますか。

レビはそれを手に入れていましたが、罪の意識だけは消えなかったでしょう。

罪人の自覚は、自分の中には罪があり、弱さがあり、汚い思いがあり、いくら努力しても自分という人間が変わっていないことを認める時に出てきます。


さらに謙遜さも それを認めるところから始まります。

罪に対する自覚があると他人に対する優越感と、優越意識が消えていきます。

そして自分には罪の赦しが必要であると救いを求めます。


レビはイエス様に従って12弟子のひとりになりました。

そして新約聖書のマタイの福音書を書きました。マタイとはレビの別名です。

イエス様の招きを受けたことで彼の人生は罪人から弟子に変わりました。


どちらが良かったと思いますか?

取税人の時の罪を犯しながら贅沢な生活の方が良かったですか。
それともお金もなく苦難も多い弟子になったことが良かったでしょうか。

実際 レビが取税人に戻っていないことを見ると弟子になったことが良かったみたいです。


罪人がイエス様を信じて損することがありますか?

――全くないです。反対に得することだらけです。

人々から罪人だと軽蔑されていたレビは、立派な弟子になり多くの人々からも尊敬される人になりました。






もしイエス様が「私は正しい人を招くために来た」と言われるならば、私たちは皆 その資格がないのです。

しかし罪人を招くために来たというので誰にでも受ける資格があり、とてもありがたいです。


そしてイエス様の魂に対する思いがどんなに強いかを語った箇所があります。


【マタイの福音書18章11-14節】

〔人の子は、失われている者を救うために来たのです。〕

あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。

そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

私も以前は迷い出た一匹の羊でしたが、神様の忍耐と憐れみ、恵みによって救われました。

それがなかったならば、この世がすべてと思って自分がどこに向かっていくのかも知らず生きていたと思います。


でも今は安心しています。
自分がどこに向かっていくのかを知っていますし、真理も知っています。そして永遠の世界も知っています。

自分を主の前で罪人だと認めたことによって得られた祝福はたくさんあります。

罪を告白しただけで赦してもらいましたし、受け入れてもらいましたし、神の子どもになる特権まで与えて下さいました。


こんな素晴らしい祝福を拒否することは本当に大きな損失です。

失った後に胸を叩きながら永遠に後悔することはないようにしましょう。


自分が信じたい時に信じるのではなく「きょう、もし御声を聞くならば心をかたくなにしてはならない。今は恵みの時、今は救いの時です。」と語ったことばのように、今日が恵みを受ける時と思って恵みを受け取って下さい。
(・∀・)つ

2015.6.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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恵みを理解した時以来

テーマは 『 恵みを理解した時以来 』 です

【コロサイ1章5-6節】

それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。

この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び 広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。

福音は良い知らせです。祝福の良い知らせなので、それが私たちにとって恵みであります。
聖書の中には「恵み」という言葉がたくさん出てきますし、礼拝メッセージでも「恵み」という言葉を何度も聞きます。
また、クリスチャンの交わりでも「恵み」という言葉をたくさん使います。

しかし「恵み」という言葉を聞いたり 使ったりするだけでは、私たちが恵みを理解しているとは限りません。

恵みを理解するならば、その結果 多くの実を結ぶことができますが、理解しないと実を結ぶことができません。

理解をすることと しないことでは、大きな差が出てきます。




①真理のことばの恵みを理解する


真理の言葉を聞いて悟ることは、神様からの大きな恵みです。
神様の恵みを理解することは、真理の言葉を理解することであります。


【ローマ10章17節】

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

みことばを聞かないと 信仰が始まらないです。
しかし私たちは聞くだけで信じることが出来るのかと言えば、そうではありません。

真理の言葉を聞いて ある人は理解して喜んでイエス様を信じました。しかし、ある人たちは毎日 神様が語っているにも関わらず何一つ理解することができませんでした。
まるでイエス様が語る言葉が外国語のように聞こえました。

私たちが御霊の実を結ぶためには、みことばを悟らないと実を結ぶことができません。

みことばの知識がたくさんあっても、その意味を理解しないとその人は絶対に変わらないです。
御霊の実は変わる人が結ぶ実であります。

真理の言葉は、私たちをキリストに導き、私たちを救うために与えられた神の言葉です。
この言葉を聞いて理解し、受け入れて信じ キリストから救いを受けることは、どんなに大きな恵みでしょうか。

真理の言葉を理解しないと、信仰生活は始まらないです。

そして、理解しないならば、その人の生活は変わることがないです。
私たちが御霊の実を結ぶためには、みことばを悟り、その中で私たちが変わらないと何も始まりません。


【マタイの福音書7章24節】

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

理解できていない者を賢い人とは言わないです。いくら言っても分からない者は愚か者であります。
しかし、聞いた言葉が理解できた者は賢い人です。
理解をしてみことばが落ちて種が蒔かれたので、そこから芽が出て実を結ぶようになります。

実際に行った人は、みことばの恵みを理解した人なので行うことができました。行ったことは実を結んだことであります。




②永遠の慰めと、素晴らしい恵みを理解する


【Ⅱテサロニケ2章16-17節】

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを 与えてくださった方ご自身が、

あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。

これを私たちが理解するならば、私たちはあらゆる部分で変わることができます。

神様の本質は慰め主であり、望みの主であります。

それは、主ご自身のためではなく、堕落した人間はその時から呪われてしまいました。
そしてあらゆる災いが入るようになり、重荷を負って苦労しながら地上で生きている私たちのために、神様は慰め主として 望みの主として近づき、 私たちに慰めを与え、望みを与えておられます。


【マタイの福音書4章23-24節】

イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、 中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。

人間は誰でもこのようなものを持っていますが、その人たちは何が欲しいのでしょうか――?
慰めであります。そして希望・望みであります。

そのようなものはどこにあるのかと人間は探します。
そしてイエス様に出会い、この恵みを受けた人たちが主を信じ、弟子になり、また彼らも出て行きイエス様がなさったように働きをして多くの実を結んでいました。
それによって神の国も広がって行きました。

主の働きをする人たちの姿を見ると、以前 神様によって苦しみから救い出された人が主のために働きをするのです。

永遠の慰めと素晴らしい恵みを理解する人は、絶望することがなく恐れません。
主が今も自分のためにその働きをしてくださると堅く信じることができます。




③自分に与えられた神の恵みが、どれほど素晴らしいかを理解する


【Ⅰコリント15章9-10節】

私は使徒の中で最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも 多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

パウロは恵みを理解したことによって、彼の人生は大きく変わりました。

パウロは、イエス様に出会うまでは自分は立派な働きをする役立つ者だと思って活動をしていました。
しかし、その活動とはキリストを信じる者や教会を迫害することでした。

そのようなパウロに、一方的な神の恵みによって、自分がやっていることがとんでもないことだということを知りました。
それによってパウロは理解する者になり、さらに神様はパウロを働き人として召されたことに 彼は死ぬまで感謝を捧げました。


私たちも同じような者であり、罪人であり、神を知らない者であり、たくさんの偶像崇拝をした者であります。
もし、神様が私たちを救い出してくださらなかったら 今もその中で何も知らずに歩んでいると思います。その先にあるのは永遠の滅びなのに――。

私たちはこのことを本当に理解しなければならないです。自分が受けた恵みを悟らなければならないです。

その恵みを悟ると、自分のすべてを捧げて主に従い 働き人になるのです。
働き人は嫌々 働き人になるのではないです。
自分が受けた恵みを本当に理解すると「命を捧げなさい」と神様がおっしゃると捧げるようになるのです。
イエス様は初めから命を捧げるようには言わないのですが、この人たちはイエス様が自分のために命を捧げたことを理解していますので
すべてを捧げる思いになっていきます。そして喜んで仕える者になります。

主のために自分のすべてを惜しまないで使って仕える人は、自分に注がれた神の恵みを知っている人です。
言われなくても、その恵みを理解しているので感謝に溢れて働くことができます。

恵みが理解できないと、いつまでも「これも あれも私のもの。恵みをください。他の人はたくさんもらっているので私は足りません。もっと恵みを!」と
動かないでいつも口だけを開けて、自分が神様に対して仕えるということに気付かないのです。


喜んで仕える人は恵みを理解したので、それが出来ます。
自分中心に生きるのではなく神様中心に変わり、多くの働きを通して神様に栄光を捧げるようになるのです。

私たちは神様から「命」という大切なものを受けているのです。

それ以外のものは、いざという時に何の価値もないです。
死が来たときに財産が何になるでしょうか。何も価値がないです。
それを持って天国へ行くことは出来ませんし、それが足かせになっていることが多くあります。

恵みを理解してください。そうすると、そこから私たちの新しい人生が始まるのです。
実を結ぶ人生に変わっていきます。 (´∀`*)

2014.1.19
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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3本の十字架

テーマは 『 3本の十字架 』 です

【ルカの福音書23章32ー48節】

「どくろ」と呼ばれる同じ所に建てられた3本の十字架ですが、行き先が全然違います。

私自身はどこの十字架にかかっているのかを見なければならないです。


①滅びの十字架

犯罪人がそこに架かりました。
救われていない魂たちが架かる十字架です。自分の罪の刑罰をその身に受けている全ての罪人が、
架かります。

人々は「私は救い主なんかいらない。そこまで私は悪い事をしていない。私は死んでも地獄ではない。天国に行く。」
これは勝手な思いであります。
聖書には、すべての者は罪を犯したので、わたしの元には来ることができないと書かれており、
創世記からヨハネの黙示録まで変わらない真理であります。

この1人の犯罪人はイエス様の傍にいながら、イエス様に向かって罪を犯しました。
とても悪い者でした。これは救われていない人だからそうしているのではなく、
救われていながらも私たちはそのようにしていることが多いです。

私たちは犯罪人になって滅びの十字架を背負って死んではいけないです。


②救いの十字架

もう1人の犯罪人でした。同じ死刑宣告を受けた者は、死と滅びの道で真っ逆さまに地獄へ堕ちる直前に
イエス様に出会いました。

救いのチャンスは誰にでもあります。これは私たちの姿でもあります。

自分に残されたものは「死」しかないと思った瞬間 に違うものがあることを見付けました。
それはパラダイス(天の御国)があることでした。

そして罪のないイエス様には自分達を救うことが出来るんだということがわかりました。
イエス様に謙遜な言葉を語り霊が開かれました。

③力の十字架

イエス様が架かった十字架であります。

死に至る人を救い出す力の十字架です。

光として来られたイエス様が死ぬので暗闇になりました。

私たちは 「イエス様が罪人ではなくて、私が罪人で、とんでもない犯罪人なのです。
私の代わりに十字架に架かったイエス様、本来ならば私がもう1本の十字架に
架からなければならないのに、イエス様が代わりに死んでくださいました。
私はあの救われた犯罪人なのです。」 と、クリスチャンたちはそのように思います。

イエス様は地獄に堕ちていく人たちを救い出すことができる力のある十字架です。


【Ⅰコリント1章18-19節】

私たちは力ある十字架によって救われたことを感謝しなければならないです。
これは一方的な神様の恵みであります。これほど感謝すべきことはどこにあるのでしょうか。

その恵みを受けた者がどうやって感謝をすれば良いのか、
自分自身が今得ている命をもって、どうやったら神様を喜ばせることができるのか、
それを考えなければならないです。

自分の肉の思いの為に生きるのではなくて、命を与えてくださったイエス様に
「私はどうやったら主を喜ばせ、どうやったらこの感謝を捧げることができるのか」
これを私たちは死ぬまですべきことであります。

感謝をする人は、みことば通りにします。もっとも小さい者に愛を示します。

パウロは命を懸けてイエス様を愛していました。その愛は、人々を愛することに現れました。

全ての信徒たちの神様の働きの1番は魂を愛することです。
滅びていく魂を憐れむ心、そして隣人を自分のように愛しなさい。と、「愛」であります。 .。゚+.(・∀・)゚+.゚

2013.3.24
聖日礼拝メッセージ・受難週

八戸ノ里キリスト教会

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あなたは誰ですか?伝道について

テーマは 『 伝道するために 』 です

【ルカの福音書15章3-10節】

魂を救う為に、伝道しなければならないということは知っていますが、
「どうやったら伝道できるのか?」と悩んでいる人が結構多いです。

神様が一番喜ぶことは、罪人が悔い改めて、主に立ち返ることです。

天国に喜びを与えるために私たちが人を導くのではないです。
救われた人たちは、まず救いがどういうものであるのかを理解しなければならないです。

【Ⅰペテロ2章9ー10節】

救いを受ける前と、救いを受けた後は、状態が変わったことをこの箇所で主が教えてくださいました。
救いを受けた人たちは、今度はそれを伝えなければならないです。
その使命を神様が私たちに与えてあります。
私たちは(世の人たちと)区別されていますが、私たちも以前はそこにいた者で、神様から救い出されました。
ですから今度は私たちが行って、その人たちをそこから救い出しなさいというのが神様が私たちにさせることです。

伝道をする時に、いくつかの方法があります。“語るべき言葉”です。


① 「あなたは誰ですか?」

この質問をするなら、びっくりすると思います。それで相手の人は名前を言うかも知れませんし、
自分が所属している名称を言うかも知れません。

ですが、本当の意味で あなたという存在は、何ですか?と聞くことであります。
質問を受けた人々は答えられないと思います。
自分という本質は何であるのか――?わからないと思います。
ですから、神様を求めないのです。救いが何であるのかがわからないのです。

聖書には、全ての人間はこういう者であると教えてあります。

【ローマ3章23節】

神様から見る私たちの姿は「罪人」であります。これは全ての人間に共通した部分です。
これを伝えなければいけないです。

「私が何の罪を犯したんですか?」と腹を立てるかも知れません。
その時に「神様があなたを罪人だと言っている姿はこの姿です。」と教える部分は、
人間だけは神様の姿に似せて造られたものですが、それは神様の栄光を現す為に造られた目的があります。

しかし、人間が神様の初めの言葉を無視して逆らいました。それが罪の始まりでした。
神様が人間を造った(本来の)目的通りではないです。

ですから神様の栄光を受けるに相応しくなく、栄光を現す事もできないのであります。
その姿が、神様の目から見たら罪人なのです。

すべての人間は汚れているので、罪とは言わないで「似た者同士でしょう~」と、
お互いの汚い部分は見ようともしません。

しかし、聖い神様の目から人間を見ると、誰もが罪人です。それを神様が教えてあります。

それでも「私は罪人ではない」と語るならば、その人たちの罪を見せることです。それが次の箇所です。

【ローマ1章19-32節】

この箇所に1つも当てはまらないという人はいないです。これらは罪の姿であります。
私たちはこういう罪を人々に見せなければならないです。


② 「あなたはどこに向かっていくんですか?」

私たちの人生はどこかに向かって歩いています。立ち止まった人はいないです。
永遠にこの世で生きる人はいないです。
どこかに行くのです。

それを相手に聞きます。
人によって「知りません。」、「天国に行きます。」、「死んだら【無】でしょう?」等と答えるでしょう。
しかし、それが真理でしょうか?
神様から出た真理の言葉はそうではないです。

【ヘブル9章27節】

どこに向かっていくのですか? ――神様の裁きの座に私たちは死んでから、まず向かっていきます。
そこに誰もが立たなければならないです。

「私は【無】になった方が良いです。」と言っても誰も逃げることができないです。
なぜなら、世界を造ったのは神様であり、法則を造ったのも神様であるからです。

自分は願っていても、これだけは避けることができないです。

【ヨハネの黙示録20章11-15節】 、 【ヨハネの黙示録21章7-8節】

いのちの書に書かれている人は、勝利者として神様の御国に入ります。
もう1つは、その人達の不信仰によって、数々の罪によって火と硫黄の燃える池の中に永遠に閉じ込められます。

ですから、「どちらに行きますか?」ということであります。あなたは、どちらに行きたいですか?
これは2つに1つで、その中間はないです。

もし「救いの道に行きたいです」と言うならば、そのまま(救いの道に)行くのではないです。
“みことばを通して神様は「そこに行きたいならば、こうしなさい。」と、あなたに対する解決策を
神様が持っていらっしゃいます。”と、次の箇所を伝えます。

【エペソ2章8-9節】

信仰というものは、神様の言葉を聞く事であります。
福音は悔い改めなしには無理なのです。私たちの信仰には悔い改めが必要であります。

救いは悔い改めなしには、救いはないです。悔い改める時にイエス様の血潮が注がれるのです。

現代の福音は間違ったものが多いです。教会でも悔い改める事を語らず恵みだけを伝えることは、
それによって魂は救われません。

信仰を見せるということは、罪を認めて立ち返ることであります。
罪人であると自分を認めることです。「私には救いが必要です。私を救ってくださるのは神様しかいません。」と
それが信仰であります。

【ヨハネの福音書3章14-16節】

【民数記21章4-9節】

自分の罪によって死んでいく者であっても、イエス様の言葉を信じて十字架を見上げるならば、
その人は生きます。
しかし、不信仰なまま神様の言葉を耳に入れないならば、その人はそのまま死にます。
ですから同じように蛇にかまれた者であっても、1人は生き、1人は死にます。
その違いは神様の言葉を信じたか、信じなかったか、です。

行いを良くするからと言って、罪が消されることはないです。
自分の汚れは、それを洗い落とさない限り汚れが付いたままです。
イエス様の血潮でないと、その汚れは絶対に無くならないです。

それが神様が用いた方法・解決策であります。

私たちは十字架がこういうものであるのだということを“民数記とヨハネの福音書”の聖書箇所で
知ることができます。
私たちは愛だけを伝えるのですが、それだけを伝えると十字架が見えてこないです。
罪人のためにイエス様が十字架に架かって死んでくださいました。


③ 「あなたはどうしますか?」

決断は私たちがするのではなくて、
みことばを聞いた人たち、解決策を聞いた人たちが選ばなければならないです。

あなたがそれを信じて、決断をするならば、こうなりますと次の箇所があります。

【ヨハネの福音書1章12節】 、 【ヨハネの福音書5章24-25】

神様はどんな時でも私たちがみことばを聞いて、信じて救われる事を望んでおられます。

救いは軽いものではなくて、本当に永遠の命を得るか、永遠の死を受けるか、一番大きい問題であります。

ある人たちは、平気に「地獄が良い」という人がいます。
それは地獄を見ていないから言えるのです。

この地上でも地震が起きたり、テロが起きている悲惨な場面を見ているだけでも、ゾッとします。
恐怖や不安でいっぱいになります。

だけど、それは地獄に比べたらある意味では大したことではないです。なぜならそこから逃れる道があるからです。

しかし、地獄というところは、どんなに逃げたくても逃げられなく、終わって欲しいと願っても終わらない世界です。
どうやって人間を常に苦しめようかと楽しんでいるサタンが取り囲んでいます。
燃える火に投げ込まれても、一度入れられたらどうにもならないです。

「天国はつまらなさそう」という人もいます。その人がそういう世界があることを信じないから言うのですが、
「本当に 本当に、そのような世界があったらあなたはどうするのか?」と
「死んでしまったらもう遅いよ!」と私たちはその人たちを責めなければならないです。
「それでも良いのか!?」と私たちは語るべきであります。

私たちは神様の素晴らしさを伝える使命があります。しかし、(私たちに)みことばが何もないのなら、
人々にただ「信じなさい」と言っても、その人達は何を信じたら良いのかわからないです。

なぜ信じなければならないのか、その意味もわからないのです。
ですから私たちは、みことばには力があるので順序正しく、「あなたはこういう者です。」
「あなたはどこに向かっていくんですか?」とそれを教えることであり、
そして「救いはこういうものであります」と自分の努力や行いでは救われなく、
どんなに拝んでも、良い働きをしても、それでは救われません、と

それを教えることであり、救われたらこういう素晴らしい状態になりますと私たちは伝えることであります。

始まりがあり、終わりがあります。中途半端に教えるのではわからないです。
罪人であることを教えない限り、悔い改めることはしないでしょう。
悔い改めなしに主に立ち返ることもないです。救われることもないです。

罪がないと十字架がいらないです。十字架が意味のないものになってしまいます。
ですから、十字架は何のためにあるのか・・・。
    → 「罪人である あなたのためにあります」。

神様はあなたが滅びに行くことを願わないです。1人も滅びに行くことを願わないです。
それで神様がそうしました、と。そして福音を伝えることであります。

これが伝道するということです。
私たちが正しいものを伝えない限り、正しい道に導くことはできないです。
今回のみことばは紙に書いてカバンの中に入れておいてください。

こういう伝道方法を用いて、魂を導いてください。 (・◇・)ゞ

2013.2.17
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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いと高き所に栄光が、地の上に平和が

テーマは 『 いと高き所に栄光が、地の上に平和が 』 です。

【ルカの福音書2章11-14節】

今の世の中を見て平和だと思いますか?
戦争がないと、平和のように見えます。ですが、よく見ると本当の意味で平和ではないです。
誰もが平和になって欲しいと願いますが、争いと戦争、殺し合いの中で私たちが生きているのを考えるならば、
毎日が不安や恐れでいっぱいだと思います。

国と国、民族と民族が争いを引き起こして、平和が消えていきます。人間が造り出す平和はないです。

エデンの園は平和な場所でした。しかし、そこにあった平和も人間が壊してしまいました。
人間に欲が出てきて、自分が神のようになりたいという思いを持って神様に逆らった為に、
神様との関係が壊れました。それは平和の関係が壊れたことを意味します。

その後、アダムとエバ、カインとアベルの4人家族の中で殺人が起きました。
兄・カインが、弟・アベルを殺し、平和が消えていきました。
人間が小さな理由で、自分の兄弟であっても憎んで殺してしまいました。

その後、(人間が)それぞれ勝手に生き、そして人間が企んだことは神のようになりたいと
バベルの塔を建てました。それによって神様を怒らせ、言葉が通じなくなるようにしました。
人間同士が繋がらなくなりました。それによって平和が無くなりました。

心の中で平和を願いながら、人間が平和を潰していきました。

そのような時に、イエス様が地上に来られました。その時、今回のテーマとなった言葉がありました。
「今はクリスマスだから楽しもう~!」という人達は世界中にたくさんいますが、
「その日って何の日?キリストは何の目的で地上に来たの?」と、知らない人のほうが多いです。

キリストが来られた目的を知っている人は、キリストが来られたことが自分にとって、
どれほど祝福なことなのかがわかっています。

神様が栄光を受ける時というのは、すべてのものは神様が計画をしています。
それが成就された時に、神様は栄光を受けます。

人間にとってキリストはどういう意味があると思いますか?

「キリスト教の教祖ですか?」――― そういうものではないです。

全世界の人に平和をもたらす為に来ましたが、その平和がどういう内容になっているでしょうか。
イエス様が地上に来られた目的を学んでいきます。


① 【ルカの福音書5章31-32節】

イエス様が一番関心を持っていたのは、罪人です。
人は皆、生まれた時から罪人でした。自分の思い通りのままに生きている姿がすごくたくさん出てきます。

「私は心の中でも罪を犯したことはないです。」というのは大嘘つきであります。
ですから、罪人を悔い改めさせる為にイエス様は来られました。

しかし、自分は正しい者ですと言う人は、残念ながら悔い改めるチャンスを得ることがないです。


② 【マタイの福音書20章28節】

人間の欲の1つは支配欲です。成功したい、人の上に立ちたい。自分に仕える者をたくさん作りたい。
ですが、イエス様が地上に来られたのは、人に仕えるためであります。
それも、小さな見せかけの働きではなく、命までも与えて仕えたいということであります。

世の中に平和がないのは、人々にとって周りの人がライバル・競争相手であり、他人の足を引っ張ってでも
上に立ちたいという思いがあるので争いが消えないです。

みんなが身を低くしているなら(これは奴隷という意味ではないです。奴隷は自分の意思ではなく、
無理やり買い取られて主人に仕えなさいということであります。)
しかし自ら身を低くして「わたしはあなたに仕えます」というのは、人に仕えるのがどれほど素晴らしいことなのかを
知っている人です。

私たちが尊敬をする人は、人に仕えた人達です。
高い地位に就いて、周りの人に命令をして「わたしに仕えなさい。」と言う人は、地位を得るかも知れませんが、
尊敬する気持ちにはならないです。そういう人は周りの人から愛されることはないです。

しかしイエス様は人を支配することは一度もありませんでした。
イエス様の弟子たちは「上に立ちたい」という思いで争いがありました。
その時にイエス様は話を聞き、弟子たちを戒めました。
《 人の上に立ちたい者は、まず仕える者になりなさい。》 と、語りました。

イエス様は徹底的に 人に仕えました。弟子たちの足までも洗いました。
仕える時に、喜びが返ってきます。


③ 【ルカの福音書4章43節】

福音を伝えることは、神様のみこころであります。

人間が勝手に判断するのは、みこころではありません。神様が教えなければわからないことです。
神の御子であるイエス様は誰よりも神様のみこころを知っているお方であります。
そしてその福音を私たちに伝えるために来ました。

イエス様はご自身のことを一言でこのように語りました。
「わたしが道であり、真理であり、命です。」
私たちはそれが必要であります。

  • 道・・・天国への道であります。天国へ行くために、どの道を歩いたら良いのかを導いてくださいます。
  • 真理・・・正しい道であります。変わることがない真理の道は、イエス様ご自身が福音です。
  • 命・・・肉体の命だけではなく、永遠の命です。

④ 【マタイの福音書5章17節】

律法を完成させる為にイエス様が来られました。
律法は世の中の法則とは違います。神様を信じる者たちへの、天国の法律です。

愛が私たちの間にあるならば、私たちは無理して律法を守ろうとする必要はないです。
神様を愛するならば、私たちは喜んで主に仕えることができます。
本当に愛するならば、相手のために生きるのです。自分のことを全部犠牲にしていても、
命まで捨ててでも、相手を大事にするのが愛であります。

愛と言いながら相手を苦しめるのは、愛ではないです。それは愛の仮面を被って、悪を行うことであります。


【ガラテヤ5章13-15節】

神様が私たちに願っていることです。
イエス様によって私たちが得たものは、どれほど素晴らしいものなのかを知らなければならないです。
「主は、私にこういうものを与える為に来てくださったんだ。」 と毎年クリスマスの時期に改めてそのことを
考えることです。そうすることによって、イエス様と自分の関係が より密接な関係になっていきます。
「このお方こそ、私の人生になくてはならない方であるんだ。」 ということがわかると思います。


今回、イエス様が来られた目的を学びました。
罪人たちが必ずイエス様に会わなければならないです。
イエス様から罪の悔い改めのチャンスをいただくことができます。
そして、イエス様は命をかけて私たちに仕えてくださいました。
イエス様は天の御国の福音を伝えてくださいましたし、律法を完成させてくださった神様、
律法の根本的な精神が何かをイエス様は私たちに教えてくださいました。

これがイエス様が地上に来られた姿であり、目的であります。アーメン (・∀・)つ

2012.12.23
クリスマス礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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