からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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競争

最後まで走りぬく

テーマは 『 最後まで走りぬく 』 です

【伝道者の書 3章1-14節】

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。

生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。

殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。

泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。

石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。

捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。

引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。

愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。

働く者は労苦して何の益を得よう。

私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。

また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。

私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。

私たちが今 生きている人生は平坦ではありません。


「救われていたら、いつも良いことばかり」、「問題なんか起こらない」、「ずっと平安であり、幸せである」わけではないのです。



実際に聖書にはこのように死ぬ、失う、殺す、崩す、投げ捨てる、引き裂く、戦う時があると書かれていて、現に私たちの人生でも これは起こっているのです。

その時々は、苦しいものであり、楽なものではありません。


私達が生まれる時があり、癒やされる時があり、喜ぶときがあり、収穫する時があり、それぞれがその時にかなっているように、これらの困難も時にかなっているのです。






私たちは生きていると、いずれ死にます。

その死ぬタイミングは誰にもわからないのです。


急に事故で亡くなる場合もあれば、病気で徐々に亡くなる場合もあります。


命は神様が握っているものであり、その “時” は神様にしか分かりません。



生きていれば苦しみもありますし、そしていずれは死ぬのです。

その中で私たちがすべきことは何でしょうか?


それは神様が与えてくださった使命に対して 忠実に働き、喜び楽しむことなのです。


また、真理を知り、神様のみことばを かみしめて生きることです。



神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

神様がなさることは時に私たちは全く理解できない時もあります。

ただ、神様のなさることはすべて時にかなって美しいのです。






例えば、イエス様をこの世に送り、罪人のために身代わりになって死ぬことは普通に考えてありえないことなのです。


ご自分の息子を、罪のない息子を、否定し拒絶し侮辱し痛めつけ 裏切り苦しめる者たちのために わざわざ十字架につけさせるのです。


ペテロもそれが理解できなかったのです。

なぜイエス様が捕まえられて苦しみを受けないといけないのか。


十字架にかけられるその瞬間だけを見ると むごく、ひどい、あり得ないことなのです。



ですが、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のです。


神様がそのようにイエス様をわざわざ罪人のためにこの世に送り、十字架にかけさせたのは、罪人を救うためであり、解放するためであり、死に打ち勝って勝利をおさめ、栄光を受けるためでありました。


私たちが永遠に神様とともに生きるために、自らを犠牲にして来てくださったのです。



私たちの目には見えないことがたくさんあります。

生きていて理解できないこと、辛くてしんどいことがあるのです。


「何でこんなことが?」「なぜ私ばかりこんなに苦しむの?」
そう思うことがたくさんあります。


それでも、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と信じる信仰が必要です。


神様にゆだねながら、私たちは今 神様に与えられた使命をしっかり果たすことです。

その中で喜びを得ることなのです。






もう一つ、人生を生きていくための秘訣があるので、みことばを見ていきます。


【へブル12章1-3節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

忍耐を持って最後まで走りぬくことが大切です。


天の御国に行くその最後まで、信仰のレースを走り抜かないとだめなのです。

途中で信仰のレースをやめることは、神様と一緒に生きないことであり、御国に行かないことであります。


どんなに辛かろうが、私たちは走り抜かないといけないのです。



陸上のレースでも走り切らないと記録は残らないのです。

どんなに有名な選手であったとしても、レースの途中で終わってしまうと、それは意味がないのです。


むしろタイムが遅かったとしても最後まで走り抜いた者に栄冠がいくのです。



最後まで走り抜く方法を神様は ここで語ってくださっています。


―いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けること―信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないこと です。



陸上のレースで大きなかばんを担いでる人、重荷を背負ったまま本番に臨む人を見たことがありますか?

みんな薄く軽いユニフォームを着ているだけで、荷物は何一つ持たずに全力で走っています。


私たちが走り抜くこのレースでは、すべての重荷と罪を捨てて走らないといけません。


重荷を担いだまま、罪を背負ったまま走るのは とても大変であり、走り抜くことは不可能なのです。






何のために自分でその重荷を抱えようとするのですか。

何のために罪を持ったまま生きようとするのですか。


それが私たちを助けてくれるでしょうか。


―― いいえ、そんなことはありません。


私たちは信仰のレースを走り抜くためには、一切の重荷、罪を捨て去らないといけないのです。



そして、それにはもう一つ大切なこと、「イエスから目を離さないこと」です。


イエス様から目を離すこととは、“イエス様以外のものを見ていること” です。

つまりは、イエス様を見上げないといけないのに、人を求める、問題を見る、罪を見る、環境を見ることです。


人を見ている間、問題や自分の罪、環境を見ているということは、つまりはイエス様から目をそらしているということなのです。



一生懸命 人を見て求めると、罠にかかります。

神様よりも人のことを大切に思い始めるのです。


人に愛されること・認められることを先に求めるのです。

問題や環境ばかりを見ても、問題は解決されません。


罪ばかりを見ても、それから免れることはないのです。






私たちが必要なのは、イエス様を見ることです。


イエス様を見、イエス様の生き方・人生を見ることで知恵が与えられ、慰めが与えられ、元気が与えられ、勇気が与えられ、愛が与えられるのです。


イエス様は私たちが通った以上、(今まで)経験した、またこれから経験する試練以上の試練と困難、苦しみ、死をすべて受けた方なのです。

それでも走り抜いたのは、その先にある “栄光・命・復活・喜び” をずっと見ていたからです。



私たちもイエス様を見上げ、イエス様のように “その先にあること” を見るのです。


【へブル12章10-11節】

なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

試練は失望に終わることはありません。


人間の目や価値観では すぐに分からなくても、もはや生きている間に分からなかったとしても、耐え忍び、最後まで走り抜くことで、平安の義の実を結ぶのです。



神様の中で強くありましょう。

ますますイエス様を見上げましょう。


注意散漫にならず、イエス様を見上げましょう。

そして、信じ、ゆだねることです。


神様のなさることはすべて時にかなって美しい、ということばをかみしめ、味わっていきましょう。


アーメン (・∀・)

2019.8.25
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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信仰の競走を続ける

テーマは 『 信仰の競走を続ける 』 です

【へブル12章1-3節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

駅伝で走る選手たちが何よりも心掛けているのは、早くタスキを次の選手につなぐことです。


お正月になると、多くの人々がテレビを通して箱根駅伝を二日間視聴します。

ハラハラドキドキしながら観ています。

その中で一番心が痛むのは、遅れてタスキを渡した選手たちが泣き崩れる場面ですね。


誰もがいのちを懸けて必死に走ります。

周りを見ながら、休みながら走る選手は 今まで見たことがありません。

全選手が全力で前に向かって走っていきます。






この姿は私たちが信仰に適用しても良い姿です。


私たちには、私たちよりも先に走った信仰の先祖たちがいます。

そして、その先祖たちの前には 私たちの主イエス様がいのちを懸けて走りました。


イエス様からタスキをもらった先祖たちも 必死に走って、そのタスキを私たちに渡しました。

ですから私たちも、それを次の選手たちに渡すために必死に走らないといけないですね。


辛くてやめたくなる時もあります。

疲れて休みたくなる時もあります。

ですから忍耐が必要です。


忍耐できないならば その競争に失敗します。



日本各地でマラソン大会が開かれていますね。

それに参加する人たちはすぐに分かります。

昼でも夜でも街をよく走っています。


夏の暑い時も汗をかきながら走っています。

マラソン大会に参加してゴールするためには 日々体を鍛え、走り続けないと、参加してもゴールまでは とても難しいです。

誰もが本当に必要なものだけを身に着けて走っていました。


競争するのに まとわりつくものがあるならば、どんなに不便でしょうか。

ですから最小限のものだけを身に着けます。



信仰の競走を邪魔するものには何があるでしょうか?


世のものに対する人間の欲、人生の悩み、罪、私たちを縛る様々な規則などです。


これらは私たちにまとわりついて自由を奪い、邪魔をして競争が出来ないようにします。

これらに気をつけないといけないです。






信仰の競走は それらの障害物を乗り越えて、神の所に走っていくことです。


ゴールにはすでに競争を終えて勝利した勝者たちが次の勝者たちを心待ちにしています。


十字架の苦難を乗り越えて その道を走り終えた信仰の完成者であるイエス様が喜びをもって待っていらっしゃいます。


その手には栄光の冠を持ってくださっています。

イエス様は勝利者として神の右に着座されました。



主の弟子ステパノが反対者たちに迫害されていた時に、ステパノは聖霊に満たされ、人々を見ず、天を見つめイエス様を見ていました。

実際に神の栄光と神の右に立っておられるイエス様を見ました。


イエス様は彼が信仰の道を走り終えようとしていることを知りました。

そして迎えるために立ち上がっていました。


これを見たステパノはどんなに嬉しかったでしょうか。

ステパノは主に叫びました。


【使徒の働き7章59節】

主イエスよ。私の霊をお受け下さい。

イエス様こそ、私たちが到達しなければならない目標点です。


そこに行くためには右にも左にも逸れてはいけないですし、そして後ろに退くことがあってもいけないです。



絶えず信仰の競走をする時に疲れることもあります。

それでも聖徒たちは座り込んだり、疲れ果ててしまったりしてはいけないです。


その時にこそ、イエス様がどれほど忍耐しながら私たちに模範を見せて下さったのかを考えながら、自分たちも苦難と逆境を乗り越えるように励まなければなりません。


怠けたい誘惑、走りたくない誘惑、罪からの誘惑によって広い道に戻って行く人も多いです。

一度その道に入ってしまうと、なかなかそこから戻ることが難しいです。


しかし私たちは忍耐して昔のことは忘れて、ひたすら前のことだけを考え、決して後ろには退かず、他の競争者たちと励まし合い、勇気を与えながら共に走れるように最善を尽くすことです。



箱根駅伝一つを見ても、彼らは一年間 毎日多くの距離を走り続けています。

毎日最善を尽くしています。

永遠のいのちが懸かってもいないのに、あのようにいのちを懸けています。



それなのに永遠のいのちが懸かっている私たちが適当に走っていながらも 簡単に永遠のいのちが入ってくると思うならば、それは間違いです。


召して下さった方のことをいつも思いながら、信仰の競走を続けることです。
アーメン (=゚ω゚)人(゚ω゚=)


2018.11.3
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失敗しない信仰生活

テーマは 『 失敗しない信仰生活 』 です

【ヘブル12章1-2節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

今回のメッセージタイトルは「失敗しない信仰生活」ですが、なぜこのようなタイトルにしたかと言うと、「信仰生活に失敗も成功もない」と思っている人が多いからです。


たとえば日本では信仰を持っていない人でも、“死んだらみんな天国” という発想がありますね。

ですから 信仰を持っている人は、さらに自分は天国は間違いないと確信を持っているので、果たしてそうなのか?ということを確認したいと思います。


あなたの信仰生活は大丈夫ですか?と聞きたいです。


1節に、「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから」と ありますが、彼らは誰でしょうか。そしてなぜ私たちを取り巻いているのですか。

彼らは私たちの何を見ているのでしょうか?


多くの証人たちとは、へブル11章に書かれている信仰の先輩たちで、キリストの証人としての働きを全うした人たちです。

すなわち神に勝利者として認められ、天の御国に入れられた人たちです。

信仰を全う出来なかった人たちはその中にはいませんでした。


天にいる彼らは 主の恵みによって、私たちのことを天から観察しています。

彼らは信仰によって生きている後輩たちを応援するために、エールを送っています。


彼らが見ているのは、私たちの信仰の競争です。


大勢が参加する競走を見ると、最後まで全うする人、途中で棄権する人、脱落する人が必ず出てきます。

棄権や脱落する人は、信仰の競争を全う出来ず失敗した姿です。

誰がそこに入るかは分かりませんが、必ずいます。






私たちが棄権や脱落をしないためには、どのようなことに気をつけなければならないでしょうか?


まずは、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てることです。


いっさいの重荷を捨てることは、信仰生活を妨げるすべてのものを捨てる事であり、まつわりつく罪を捨てることは、徹底的に罪を悔い改めることです。


これをやらないと、その信仰生活は必ず失敗に終わります。

教会に通うだけで何とか済ませるようなことではないです。


信仰の競走が何年、何十年前にスタートしたのに、いつも同じ状態ならば、未だにその人は この2つに係わっています。


そのような人は、信仰の妨げになるものがあっても そのままにしていますし、罪に対しても甘い考えを持っています。

この2つを持っている人は、真の信仰とは何か?そして御言葉通りに生きることが どのようなことであるのかを知らない人です。


それは怠けた姿であり、やる気がまったく見えない姿です。

そして不信仰で 形式的に信仰生活をしているので、神はその人を見て “怠けた悪いしもべ” と言います。


みなさんはいつも罪を捨てるための悔い改めをしていますか?


現代教会の大きな問題は、罪と悔い改めのことを叫ばす、信徒の耳に良いことばや世の価値観と妥協するメッセージだけを伝えることです。


牧師が神を意識せず、信徒の表情を意識するならば 罪と悔い改めのことは語りません。

みことばを正しく教えないので、信徒が罪の意識も持たず、何を悔い改めたら良いのかも分かりません。

これはとても危険です。


罪を捨てないで信仰を全うすることができるでしょうか?

罪を悔い改めないと、その人は罪人の姿のままです。


罪を洗う主の血潮は 悔い改める時に注がれますが、悔い改めないならば 罪は洗われることなく、そのまま残ってしまいます。


全身汚れた姿で主の前に立つことが出来ますか?


その姿が天国にふさわしくない姿であることは自分でも分かると思います。

罪を捨てず、罪を犯し続ける姿を堕落した姿と言います。

その人たちに対することばがあります。



【へブル6章6節】

しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

例えば ずっと盗みの罪を犯し続けているならば、その人はイエス様の手に釘を打ち続けているのです。

また 思いの中で罪を犯し続けているならば、主の頭に いばらの冠を載せ続けているのです。


そうしながらも、いたずらに主の名を呼ぶことはあってはならないことです。


そしてどんなに辛くても信仰の競走は忍耐をもって走り続けることです。


イエス様は自分の十字架を最後まで負いました。

その十字架は、罪を犯したから負った十字架ではなく、悪い人たちが負わせた十字架でした。

正しいことをしたのに迫害されて負わせられた十字架でした。


主が最初から私たちに語った言葉がありました。



【マタイの福音書16章24節】

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

この十字架は自分が犯した罪によって負う十字架ではなく、信仰のために負う十字架、悪い者から受ける迫害の十字架です。


この場合は忍耐しながら最後まで十字架を負ったイエス様のように十字架を負わないといけないです。


忍耐に対して次のように言われました。



【ヤコブ1章2-4節】

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

この忍耐がないと試練の時に倒れてしまいます。


忍耐のために私たちは、私たちを取り巻いて応援する証人たちを見、そして励ましを受けることです。
そうすると、力が得られます。


【ヤコブ5章10-11節】

苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

試練の中でも忍耐して信仰を守り、神のことばに従順した人が証人であり、その人たちが信仰を全うしました。


祝福は受け入れても、苦難を拒む人は信仰の失敗者になります。






失敗しない信仰生活のために、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てること、そして忍耐することも重要でありますが、もっとも大切なことはイエス様から目を離さないことだと教えています。


信仰そのものがイエス様を信じることなので、イエス様を見ることは当然でありますね。


しかし見ていない人が多くいます。目を違う所に向けています。

これが失敗の原因になります。


信仰生活において、生きる目的や 目指す目標も すべてイエス・キリストに焦点を合わせないと、競走の道から外れてしまいます。


イエス・キリストに焦点を合わせないすべてのものは間違えています。


信仰生活も、天国だけに目標を置くならば、それも間違いです。

教会を大きくしたくて、教会成長だけに目標を置くならばそれも間違いです。


目標はあくまでも、“イエス・キリスト” でなければならないです。


イエス・キリストに焦点を合わせて信仰生活をするならば、天国には間違いなく入れますし、教会も成長していきます。


証人たちはイエス様から目を離さなかったので、試練の中でも忍耐し信仰を全うすることが出来ました。

イエス様の十字架の勝利を見たので自分たちの十字架を最後まで負うことが出来、そしてイエス様が受けた栄光を見たので、喜びながら競走を走り続けることが出来ました。


イエス様だけを求め、見つめ、思う人は つまずくことも競走にやぶれることも脱落することも失敗することもありません。

しかし目を離してしまうと、その反対のことが起こります。


イエス様から目を離さず、すべての目標もイエス様に定め、すべての焦点もイエス様に合わせましょう。

これ以外に失敗しない方法はありません。
v( ̄∇ ̄)v

2015.10.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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