からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

八戸ノ里キリスト教会より メルマガ配信中!

メルマガ購読・解除

読者購読規約
毎朝7時に配信しています! 1日の始まりを神様の恵みで満たしてくださいね
powered by まぐまぐ!
 
         

みことばをさげすんではならない

テーマは 『 みことばをさげすんではならない 』 です

【箴言13章13-14節】

みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。

知恵のある者のおしえはいのちの泉。 これによって、死のわなをのがれることができる。

みことばとは、聖書に書いているすべての言葉ではないです。
その中には、人々の言葉やサタンの言葉や歴史の事も書かれていますので、神様が語る言葉のことを「みことば」と言います。

また、みことばのことを一番正確に書かれている箇所は、次のとおりです。


【ヨハネの福音書1章1節】

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

「言葉=神様」です。目に見えない神様は言葉で表します。それは神様ご自身なのです。

私たちは、みことばをさげすむということは、神ご自身を無視し、さげすむことになります。その結果、自分の身を滅ぼすことになります。

みことばをさげすんではいけない理由がいくつかあります。




①みことばをさげすむ者は身を滅ぼす

みことばをさげすむ人の姿がホセア書に書かれています。


【ホセア書4章6節】

わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。 あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。

知識とは、頭に入れる知識とは違います。それは神様を知ろうとする思いがないです。

みことばを知るには、耳が開かれていないと知ることができないです。耳が閉ざしていると、どんなに語っても1つも言葉が入らないです。

イスラエルの民たちに 神様はたくさんの言葉を与えてくださいましたし、律法を与えてくださいました。
そこで祭司が律法を朗読して教えていました。しかし、神様は祭司に厳しい言葉を語りました。
「あなた自身の中には、知識がない。」と、また人々にもまともに教えていませんでした。ですから言葉を聞いているのに何一つ変わりませんでした。

神様が絶えず預言者を遣わしてみことばを送るのに、「聞かない。悟らない。行わない。」のです。
そして違うことを行うのです。それは神様のみことばをさげすむ姿であります。

私たちが本気で耳を開いて、神様の言葉を聞くならば悟りがきて みことばが開かれるのです。


【マタイの福音書13章14-16節】

こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。 確かに見てはいるが、決してわからない。

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。 それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。

預言とは神様が預言者に与えた言葉です。
神様が言葉を聞こえないように邪魔をしているのではなく、神様がいくら語っても彼らが聞かないので 神様がこのような言葉を使いました。
集まった群衆の中には熱心に聞いて立ち返った人もいましたが、宗教指導者たちはいつも非難していました。
彼らは立派な服を着て、前に座って聞いていますが あら探しをするために来ていました。
彼らはみことばを悟らず、自分たちの思いだけでいっぱいでした。

これが神様の言葉をさげすむ者の姿であります。
聞く耳がなく、自分たちが一番(霊が)開かれた者であると思っています。
もし、私たちの中に「私には同じような思いがある。」「私はこういうことを決めているから、神様の言葉は聞き入れられません。」と言うならば、
それは パリサイ人と変わりがありません。

神様の言葉は常に上なのです。主が語ってくださる時は、私たちはストップしなければならないのです。
「アーメン」という言葉は「その通りです」という意味です。
「アーメン」と言って 神様が語る言葉を聞き入れて行う人が信じる人であります。

みことばを知らない人、悟らない人のことを聖書では次のように書かれています。


【詩篇49編20節】

人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。

悟りがなければ実際に滅びます。人間として悟らないといけないです。人間と動物の違いは「悟り」があるかどうかです。

なぜ人間が造られたのでしょうか――?
神様に仕えて栄光を捧げるために造られた者であるので、その役割をきちんと果たして初めて人間と言われるのです。
役割を果たしていないのなら、ノーベル賞をもらったとしても 神様は滅びうせる獣に等しいと語ります。




②みことばをさげすむと祈りの答えがない

私たちが祈っても聞かれないならば、とても虚しいでしょう。私たちは祈りを叶えて欲しいので神様に祈るのです。
しかし、断食をして祈っても祈りが聞かれないならば、その原因は次の箇所に書かれています。


【ヨハネの福音書15章7節】

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを 求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

みことばの中に留まっている人だけに神様が祈りを聞いてくださるということです。

祈りを長くするから 神様に祈りが聞かれ、祈りが短いから聞かれない ということではなく、イエス様は私たちが必要としているものをすべてご存知であります。
すぐに祈りが聞かれる人というのは、主の言葉の中に留まっているので与えられているのです。

ですから、みことばに留まっていないということは、祈りが聞かれないことになります。

神様の言葉をきちんと聞いて、その中に留まって悟るならば その時から祈りが答えられます。




③みことばをさげすむ者は神様に属しません


【ヨハネの福音書8章47節】

神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から 出た者でないからです。

とても厳しい言葉です。神の子どもと認められていないので滅びるしかないです。
神の子どもだけが天の御国に入れるのです。神様ご自身がその人のことを忘れてしまいます。




私たちはそうはなりたくないですね。そうならないためには私たちはどうすべきでしょうか?

知恵ある者とは、悟っている人のことです。そして命令を守る者です。


【詩篇119編103-104節】

あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。

私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。

みことばが命の水であります。
自分の中にあるいらないものや教えを捨てます。甘い水を飲んだ者が苦い水を飲む必要がないからです。


【詩篇119編129-131節】

あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。

みことばの戸が開くと、 光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。

私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを 愛したからです。

神様の言葉の恵みがどのようなものなのかが すごく分かるのです。
みことばの味を知っている者は、みことばを親しみ学ぼうとします。その人はどんどん悟りが与えられ霊的な者になります。

また、悟ったということは行動が伴っていることを意味します。
みことばの種を蒔いたので、その人たちはたくさんの実を結びます。
そのような者に神様は喜んで認めて受け入れてくださり、さらにそこに恵みの雨を降らせて、ますます時に適った恵みを受けて豊かになるように祝福するのです。

祝福を受けたいならば、命に満たされたいならば、知恵ある者になりたいならば、滅びたくないならば、天国に入りたいならば、
神様の言葉をさげすむのではなく、聞く耳をもって悟り 行い、そしてみことばの中に留まることであります。
そうしたら間違いなく祝福を受ける者になります。

神様の言葉を軽く考えてはいけないです。大事にしてください。

私たちにとって神様は権威あるお方です。ですから一番恐れなければならない存在であります。

人間が完璧にすべてを守ることは出来ないのですが、逆らったときは すぐに悔い改めることであります。
「もう過ぎ去ったことだ」ではなく、今からでも立ち返るならば神様は喜んでくださいます。

みことばに従順した者、こういう者は大胆に祈りができる者になります。 (`・ω・´)

2014.1.12
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

どのように祝福が与えられて、感謝が生まれるのか

テーマは『 どのように祝福が与えられ、感謝が生まれるのか 』です

【Ⅱコリント9章6-12節】

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。

なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。

私たちはどのように多くの祝福を受けることが出来るでしょうか。
そして感謝がどこから生み出されていくのでしょうか?

神様がすべてのものを造られ、私たち人間も造ってくださったのです。今も主権者として働いてくださっています。

目には見えませんが、あらゆる自然界の法則があります。朝があり、夕があります。太陽があり、地球が回ることも法則があります。
そして、蒔いたら刈り取るという法則の中ですべてのものが動いています。

たくさん祝福を受けたいと誰かが思うならば、その人はある法則に従わなければいけないです。
それは、「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取る。」これは聖書を読まなくても自然界の中で知っていることでもあります。

豆を蒔いたら豆が生えて、小豆を蒔いたら小豆が生えます。
豆を蒔いたのに、小豆が生えることはないですね。

たくさん刈り取りをしたいなぁと考える農夫ならば、自然の法則通りに畑にたくさんの種を蒔くと思います。
そして秋になったらたくさんの収穫ができるようになります。

この法則を決めたのは神様であります。


【ガラテヤ6章7節】

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

悪いものを蒔いたら悪いものを刈り取り、良いものを蒔いたら良いものを刈り取ります。
少し蒔いたら少しだけ刈り取り、多く蒔いたら多くの刈り取りをします。

ある人が少しだけ蒔いて沢山くださいと祈り、手に入れてから「私は100倍を求めたのにこれだけですか?」と
言うならば、この箇所にある「神は侮られるような方ではない」のです。
少しだけ蒔くなら、それ相応の分しか刈り取れません。

神様の法則は、今も正しく働いています。世の中にも因果応報という言葉があります。
自分でしたことは自分で刈り取るのです。

蒔いてもいないものを刈り取ろうとするならば、それは詐欺師です。これは逆らって生きている人たちの姿です。
不正で得ているものは祝福ではないです。

私たちはそういうものではなくて、神様が決められた法則に従って生きていかなければならないです。


【箴言12章14節】

人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きはその人に報いを与える。

「人の手の働きはその人に報いを与える。」というのは、一生懸命 勤勉に働く人は、必ず報いを受けるということです。仕事をしないで何もしない人は、貧しさしか刈り取れないです。


【箴言28章19節】

自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる。

一生懸命、朝から畑に出て種を蒔き 世話をし、そして水を注ぎ雑草を取り除く人々は、
秋の収穫になると 食糧に満ち足りるのです。また、むなしいものを求めると、良いものを手に入れることもないです。

私たちが豊かな祝福を受けるにはどのようにしたら良いのでしょうか。
忠実な者に、神様が豊かな報いを与えてくださるのです。忠実ということは、最善を尽くすということであります。

すべてのことに対して最善を尽くす人たちに、神様は豊かな祝福を与えます。

聖書には「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」という言葉があります。
神様を愛する時や信じる時以外にも、仕事や何かをする時には心を尽くしてしなさいということです。
適当にするのでは良い報いはないです。


【マタイの福音書25章21節、23節】(※同じみことばです)

その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

働きを一生懸命した人に対して 神様が語る言葉です。わずかな物、小さなことにも とても忠実だったのです。
そして、その忠実さを見て 神様が語ったのは「たくさんの物を任せよう。」でした。これは祝福であります。

主に対して忠実な者には、神様ご自身が責任を取ってくださるのです。

豊かに与えてくださる神様であることをはっきりと語り、常にすべてのことに満ち足りるようにしてくださる神様なのです。


【Ⅱコリント9章14節】

また彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた絶大な神の恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになるのです。

「絶大な神の恵み」という言葉がありますが、これは私たちが信頼できるものであります。

今回のテーマの箇所は、献金のことを語りました。捧げ物に対して語った言葉でした。
「いやいやしながら」、「仕方がないなぁ」、「言われたから強いられて」、時には「惜しむ心で」捧げるならば、
それは忠実さではないと語りました。計算高いのです。また神様を試すことも、神様が喜ぶ心ではないです。

忠実にするのは、神様に対する愛の心があるからです。
「私が持っているものは、全部 神様から受けた良い物なのです。ですから、神様がそれを必要とするならば 私は主に喜んでそれを捧げます。」これが忠実な姿なのです。


また、神様はどのような人を豊かに祝福するのでしょうか?
良い種を蒔く時に祝福します。
しかし 種だからと言って、なんでもかんでも全部 祝福になって戻ってくるということはないです。

良い種とは、神様が喜ぶことに蒔く種のことです。
神様だけに蒔くのが良い種ではなく、神様が私たちにして欲しい所に働きをすることが「良い種」であります。


【Ⅱコリント9章9節】

「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

「この人は散らして、貧しい人々に与えた。」という言葉があります。
神様は私たちに良い働きをしなさい と語っています。
困っている人たち、貧しい者たちを助けること。これは良い種を蒔くことであります。
自分のため、自分の欲のために蒔いても、それは良い種ではないです。

また、豊かな人に与えるのが良い種ではないです。
ある人たちは自分に返ってくるものを考えて、豊かな者たちに与えます。そこに計算があるのです。

「貧しい者に与えたら、ただ与えるだけで終わりでしょう?」これは悪い種です。

貧しい者たちに与えると、それは全て神様が喜ぶ種であります。

日本は今、それをしています。東日本大震災が起きた時に、世界中から多くの援助がありました。
フィリピンも日本が困っている時に色々と助けてくれました。
ですから、先日のフィリピンの台風被害で 日本からもすぐに支援に行きました。医者や自衛隊も行きましたし、
物資も送りました。フィリピンが日本に対してしたこと以上に、日本がフィリピンに支援をしています。

「彼らが1個蒔いたから、私たちも1個にしましょう。」ではなく、「その時嬉しかったから私たちは10倍しましょう」と、
そのようにして支援をしています。

困っている人、貧しい人を助けるのは積極的にしなければいけないと思います。


【伝道者の書11章1-2節】

あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。

あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。

良い種を 多くのところに蒔くことが、後で多くの祝福を受ける秘訣でもあります。

パンを水の上に投げたら無駄なことでしょう?という思いがあります。ですが、多くの人々に良い働きをすると、
その時には何もないように見えて 無駄なように思えるかも知れませんが、神様はそうしてみなさいと語ります。
「七人か八人に分けておけ」ということは、畑が狭いのではなくて、広い畑なのです。

自分自身には たくさんのものを蒔きますが、他人に対しては手を差し伸べない人もいるのです。
そのような人たちは後で(自分が)困ることになるのです。

どんな災いが起こるかは分からないです。しかし、たとえ災いが起きたとしても その時に助けられる人の特徴は、既に色々な良い種を多くの人たちに蒔いた人です。その人に助けられた人は「今、あの人が困っているんだ。」と、助けようとするのです。

しかし、周りの人たちに蒔いたことがない人は、困ったことがあっても周りは手を差し伸べないのです。

ですから、自分が出来る時には 良い種をたくさんの人に蒔きなさい と主が語っておられます。


【伝道者の書11章6節】

朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。

ある種は道ばたに落ちて、ある種は岩地に落ちて、ある種はいばらの中に落ちて、ある種は良い地に落ちました。
あるものは無駄になりました。しかし、良い地に落ちた種は三十倍、六十倍、百倍の祝福がありました。
ですから、豊かに蒔くことなのです。たとえ、その人から何も来なくても神様が報いを与えてくださいます。


また、私たちの「感謝」はどこから出て来るのでしょうか?

働きをすると、神様がその人の上に蒔く種(食べるパン)を与えてくださいます。
良いことをしている人が飢え死になることは聞いたことがないです。神様が喜んで器に注いでくださいます。

私たちが良い働きをしたり、みことば通りに働きをすると、一番喜んでくださるのは神様なのです。

神様が喜んでくださることをするのが、神様に栄光を捧げることになります。
小さな力をもって神様の言葉に忠実にし、神様が決めた法則に逆らわないで生きる人に対しては、
神様はずっと恵みの雨を降らせてくださり、その人の蒔いたものが成長(収穫)するように祝福してくださるのです。
その中で既に神様は栄光を受けています。

そこで (その人は)神様の御手をたくさん体験しますので、感謝が溢れるのです。
与えない人は感謝がないです。しかし、与える人はいつも感謝が出てくるのです。

なぜならば、私たちが相手のために何かをした時には、相手は喜ぶのです。
喜ぶ顔を見ると自分も嬉しくなるのです。「やって良かった。感謝だなぁ。」と幸せな気持ちになります。

しかし、自分や自分の家族だけにすると、家族が自分に栄光を捧げるでしょうか――?
それはないです。自分の子どもを大事にしても、財産をもらう時だけ来て、全く会いに来なかったりします。


貧しい者たちや、隣人に良くしてあげてみてください。
その人たちが感謝をして、その人たちが世話をしてくれるのです。

家族や身内よりも、今は教会の信徒たちの方が良いかもしれないです。
困っている時にすぐ祈りをしてくれたり、助けてくれたり、協力してくれます。

(周りに良くすると)その時は無駄かも知れないと思っても、神様が喜ぶことをしていたら、神様は災いの日に祝福を与えてくださいます。
そうなると感謝が絶えることなく与えられてくるのです。


【Ⅱコリント9章8節】

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

神様への信頼がありました。神様は真実な方でありますので、このみことば通りにしてくださいます。


【Ⅱコリント9章7節】

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

神様はすべての者を愛してくださいますが、特別に愛する人とは、神様を喜ばせる人です。


【Ⅱコリント9章10節】

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

蒔きたいという気持ちがたくさんあるのに、自分の手に何も持っていない時は神様に祈ったら良いです。
すると神様ができるようにしてくださいます。


【Ⅱコリント9章11節】

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。

神様は蒔く者たちに豊かな恵みを与えるので、その人たちは 更に感謝しながら喜びながら蒔き続けるのです。

神様は「あなたたちは感謝の心を持つ者になりなさい。すべての事について、感謝しなさい。」と教えてくださいましたので、
感謝の心を持ちましょう。そうすると環境が変わってきます。

不平不満をいっぱい言うと、後で刈り取るものは「不平不満の実」です。
しかし、感謝を蒔くと、後で刈り取るものも「感謝」であるというのが聖書の世界であります。 (⌒-⌒)

2013.11.17
収穫感謝祭メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

アメリカ神学校で 神様の訓練がスタートしたヒョノちゃんのブログです。
ヒョノのブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

毎日、神様のことばを吟味して恵みを受けてくださいね
今日の「いのちのパン」

シャローム松山教会の礼拝メッセージです
すべての事について…感謝❤

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

大いなるものとしよう

テーマは『 大いなるものとしよう 』です

【創世記12章1-3節】

神様が個人的にこのように素晴らしい祝福の約束をしたのは、アブラハムだけであります。

その後、アブラハムは信仰の先祖になりますが、
神様を信じて従ってくる者に対しての、神様のみこころでもあるのです。

神様から選ばれた民たちや、神の子どもになった者たちに対しては、このような祝福を与えたいという
ものが初めからあります。

この世の中で一番愛し合っているのは親子関係だと思います。
親は子供のために祝福してあげたいと思いますが、親には力がないので「あなたが大いなるものになる」とかは
言えないです。ですので、せいぜい「財産を残してあげる」くらいの祝福の言葉しかないです。

しかし、神様は個人に対して素晴らしい祝福を与えました。
そしてアブラハムは霊的祝福を受け、実際に全ての祝福を受けました。

私たちも「霊的に繁栄する」、「この地上での生活も繁栄する」、「肉体も祝福される」と
このような三拍子の祝福は、誰もが願うものであります。

私たちはどのようにしてアブラハムが祝福を受けたのかを学ぶのは、とても大切です。

信仰の子どもに対して、神様は差別をするのではないです。
私たちがそれ(祝福)を受けるような器になるならば、アブラハムが受けた祝福を私たちにも与えてくださいます。

アブラハムが神様の約束の言葉を聞き、どのように彼が祝福を受けたのか、
その方法はすごく簡単ですが、私たちが難しく考えるので いつまで経っても実行をしないです。

難しい約束の言葉があるでしょうか? ――ないです。
とても短く簡潔で、分かりやすいです。

人は「何か難しいことをしないと受けられないのではないか?」と思うことが多いですが、
私たちの努力によって神様が祝福を与えるのではないです。
神様の方法は、言葉になって初めにきます。それを自分たちがどのように理解をして従うかによって
祝福を受ける者と受けない者がわかれていきます。

神様がアブラハムに祝福を語る前に【 創世記12章1節 】の指示を出しました。
私たちは神様が指示をする時に、反応をしなければならないです。
色々な反応があると思います。気に入らない反応があると思います。初めから聞く気がない人もいます。

神様が指示をする時に一番良いものは、心を開いて、ありのままの神様の指示を受け入れることです。
祝福を受けるスタートはそこからであります。
なぜならば、祝福を与えるという神様が語るのです。ですから私たちが祝福を受ける者になるためには、
まず神様が語る時に、耳を傾けることであります。適当に聞くのではなく、よく聞くことです。
自分が聞きたい言葉だけを聞くのではなく、1つも漏らさずに神様の指示を聞くことが第一歩であります。

ある人は、神様の言葉を聞きながら「そんなこと出来るはずがありません。」と、自分の経験や知恵で解釈をします。
最後まで神様の言葉を聞かずに、一言聞いただけで自分で計算をし始めます。
このような聞き方だと、神様は何を語っていたのか わからなくなります。残るのは自分の想いだけであります。

ですから、神様の指示をきちんと聞くべきです。


【エペソ5章17節】

「愚かにならないで」という言葉が始めにある理由は、自分は神様よりも知恵があると勘違いをするからです。
いくら自分で「私は知恵があります。」と言っても、人間同士で比べたら、それがあったとしても
神様と比べたら誰一人 知恵ある人はいないです。

ヨブは神様に ああだこうだと色々言いました。神様は人間同士のやり取りをずっと聞いて
ヨブと他の者の知恵比べでした。「私の思いでは~」「私の考えでは~」と責め合っていました。
神様は初めから終わりまで聞いて、ヨブに「わたしの質問に答えなさい。」と語った時に、
ヨブは1つも答えられませんでした。そしてヨブはすごく恥を受けました。
「私は何と愚かな者で、悟りのない者でしょうか。」と自分の恥を表しました。

神様の指示に対して「何でそんな指示を出すのですか?」と、ずっと言いながら
神様の指示を除けていくと、次に神様からの言葉は絶対にこないです。

そういう人たちにはサタンが喜びます。さらにサタンがその人を惑わしていき、繁栄を与えます。
サタンは嘘つきなので騙すのが上手いです。ですからずっと与え続けます。そして最期に潰します。
サタンが人に繁栄を与えるのは、その人を太らせて永遠の死(滅びの道)へ売り飛ばすためです。
そして大喜びをします。サタンに騙されて堕ちて行くのは繁栄とは言えないものです。


神様が語る祝福は、最期に素晴らしい良い実を結ぶことなのです。成就していきます。
神様の言葉を聞く時は、何をおっしゃるのか、よく聞いてください。

間違えて聞くなら、結局間違えたことをするので、口を出さず、考えずに文句も言わずに聞き、
すべてを聞き終わったら「わかりました。」と受け入れます。
「 アーメン 」とはそのような意味です。
しっかり聞いて、悟るということは心に刻むことであります。

指示をした後に、神様の約束の言葉があります。
(※「そうすれば~」のように、聖書は繋ぎの言葉がとても大切です。)

神様の指示を受けた後には、次の言葉を聞かなければならないです。
ただ指示だけを受けて行動するのではなく、神様の(祝福の)保障がないと私たちは不安定になります。
祝福の神様ですので、必ず続きがあります。

保障というのは、木の根と同じです。根は目には見えないです。ですが、木を支えるのは根であります。
それが深く地下のほうに根を下ろす時に木は成長をして伸び、実を結ぶようになるのです。
祝福は木に実が結ばれることと同じです。

根がないと倒れてしまいますし、花を咲かせることも実を結ぶこともないです。


【出エジプト記3章10節】

これは指示です。

【出エジプト記3章12節】

そして保障であります。神様より強い保障はどこにあるでしょうか。
神様には不可能がないです。


【創世記28章15節】

【創世記7章1-5節】

私たちはなかなか聞く耳がないです。
勝手に解釈をして、神様がすべてを語る前に立ち上がってどこかへ行ってしまいます。
ですから私たちは多くの祝福を逃してしまいますし、神様の思いとは違うところへ行き様々な問題にぶつかります。

自分の姿を振り返ってみてください。神様が自分にどのような指示をしたのか、自分がその指示通りに
やれているのか、それとも違うことをやっているのか、一番心配をしなければならないのはそのことです。


【創世記12章4節】

神様がすべてを語り終わった後は、私たちがしていかなければならないことであります。
神様が語った通りのことを受けるためには、主がお告げになった通りに行動を移すことです。
神様は、座っている人には絶対に祝福を与えないです。
ただ種だけを握り座っていては、自分の手の中で種が育つことはないです。
神様がその種を蒔きなさいというところに蒔かなければならないです。すべて自分の行動です。

神様はみことばを聞いて行う者を必ず祝福します。
動かない者は、その人が動くまで神様は祝福の扉を開かないです。動いて種を蒔かないので恵みを与えないです。

私たちが祝福されないのは、行動をしないで怠けて色々な言い訳をして、種を蒔く時なのに
種を蒔きに出ていかないからです。ですから秋になっても収穫がないです。

聞いてすぐに行動をすると、早く祝福を受けます。

家庭の中でも、教会の中でも、自分の人生の中でも、とにかく神様に言われた通りに種を蒔く人が
祝福を刈り取ります。
神様は、そういう人たちに対しては すべての手の業を祝福すると語られました。

天が開かれます。それまでは閉ざされてあります。
その鍵を開けるのは、私たちが信仰の行動をしていく時に、神様はそれを見て天から開けるのです。
その人に祝福が注がれるように、神様が開けるなら、それを誰も閉ざすことはできないです。
また神様が閉ざすなら、誰にも開けることはできないです。

共におられるので、神様は私たちの行動をすべてお見通しであります。

アブラハムは行動して出て行き、指示通りにしました。


【へブル6章13-15節】

アブラハムの人生の結果です。行動を起こしているので忍耐がありました。
実が結ばれるまで、アブラハムは待ち続けました。信仰の歩みをしました。

これは私たちが繁栄する祝福を得るために、この信仰においてはアブラハムから学ぶと良いです。 (。・ω・)ノ゙

2013.6.2
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

毎週日曜日の八戸ノ里キリスト教会のご馳走です!
主の食卓のブログ

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

心の中には何がありますか?

テーマは 『 私の心の中 』 です

【マタイの福音書13章1-9節】

種を蒔くことは、みことばを蒔くということです。畑というのは、私たちの心の中の状態のことです。

私たちの心の中は、どんな状態でしょうか。自分にしか心の状態がわからないと思います。
また、自分さえもわからない(心の)状態もあります。それは神様だけが私のことを深く知っておられます。
礼拝の時間というのは、私たちの心にみことばが蒔かれる時間です。
みことばを聞いて、良い地であるならば、ある時は悔い改めをしたり、力を得たりします。

しかし、みことばを聞いても何も思わない時には、心の中がどうであるかをよく見たら良いです。
自分の心の中に何があるのか――?

道ばたに落ちた種は、サタンがやってきて すぐにみことばを持ち去ります。
私たちがみことばを聞いても気に留めないでいると、サタンが盗みにやってきて、何も蒔かれたことが
なかったかのように1つも覚えていないです。

土の薄い岩地は、土はありますが その下に硬い岩があります。それは自我の岩です。
みことばを聞き、「良いみことばだなぁ」と思いますが、「それが一体自分に何が関係あるのか?」と。
今まで生きてきたなかで色々な価値観を持っています。そしてみことばを聞くと自分の中でぶつかります。
すると、岩が跳ね返しますので それ以上、良い芽が出ないです。

いばら というのは、私たちの思い煩いのことです。
思い煩いはとても速いスピードで大きくなっていきます。
せっかくみことばを聞いて身にしみても、そこに思い煩いが入ってくると、そのことばかり気になってしまいます。
みことばをあっという間に忘れてしまいます。
そうするとみことばに堅く立つことができないので力を受けることができません。

例えるなら、私たちは神様とコンセントで繋がなければなりません。
私たちが(目に)見えない神様に対して どんな思いを持っているのか、それに懸かっています。
思い煩いというのは、見える“何か”から来るものなのです。
それによって自分の目と心が捕らわれてしまいます。
私たちには神様が見えませんが、でも その見えない神様に自分の心を注いでいくと、
目に見える敵よりも、見えない神様の方が大きくなり力が強くなっていきます。

私たちは問題がある時に、神様のところへ駆け込まなければなりません。
そして祈りをすることが神様とコンセントを繋ぐということです。

【出エジプト記33章7-23節】

モーセと神様が親しく語っています。ここで、どのように神様と交わるのかを学ぶ事ができます。
私たちは自分の力で生きているように思いますが、自分の力というのは大したことがないのです。
しかし、世の中はそうではないです。自分中心の生き方を認めていますし、そうするべきだと言います。
ですから、競争社会になっています。
モーセは謙遜でへりくだり、神様は偉大な方であることを認めていました。
自分は無力であることも認めていました。ですから、神様はモーセにとても語りやすかったのです。

良い地とは、私たちの心の畑から要らない物を取り除いた地なのです。
最初から人間は全てが良い地ではないです。
私たちの心から、岩・いばら・苦い思い・人を許さない心や妬む心・色々な邪魔なものを
1つ1つ手作業で取り除いていくと良い地になります。

【Ⅱサムエル22章21-51節】

この言葉はイスラエルのダビデ王が語った言葉です。もともと彼は羊飼いでした。
王家から生まれた者ではないですが、神様が召させました。
また、末っ子のダビデは兄弟から軽く見られていました。
しかし神様はダビデを引き上げて王様にしてくださいました。

ダビデは色々な戦いに出て行きましたが、一度も負けたことがありませんでした。
どんな戦いでも自分の力で立ち向かわなかったからです。どんなに小さい事も大きな事も全て神様の手に
委ねました。だから神様が喜んで敵を打ち負かしました。

普段、主を呼ばない者が、その時になって主を呼んでも主は答えてくださいません。
神様は普段 祈りによって神様に近づかない者をよくご存知です。
普段、力を求めていないのに、神様と親しくしていないのに「なんで困った時だけわたしを呼ぶんだ」と、
おっしゃいます。

普段から親しい関係、神様を愛して「神様のことを知りたいなぁ」という願いで近寄る者を、
神様は決して その手を拒むことはないです。

神様はその人の心をご覧になります。(その人に)力を流すか流さないかは神様が決められます。

【詩篇119編24-32節】

詩篇119編は、クリスチャンが日々神様に祈るべき みことばです。
私たちがどういう姿勢で目を上げて、どういう心で神様に向かって良いのかをよく教えてくださる箇所です。
聖書は神様が私たちを愛して立たせる為に造ってくださった書物です。

神様を相談相手にしていますか?考えてみてください。

みことばは、ただ読んで通り過ぎたら何も残りません。
1つのみことばに目を留めて、「あれ?自分はそれが出来ているかな?」と吟味をすることです。

私たちはいつでも祈ることが出来ます。
普段から忙しい毎日を過ごしているので、祈る時間がないなぁと感じる時があるかも知れませんが、
聖書に書いてあるのは、時間が出来たら祈りなさいという言葉ではないです。
「絶えず祈りなさい」と書かれてあります。

私たちがイエス様に対する愛が深くなっていくと、いつもイエス様のことを考えてしまいます。
何かをしている時にでも、ふとイエス様のことを想うのが「絶えず祈りなさい」ということです。
神様は何でも話ができる相談相手なのです。

【ピリピ4章4-7節】

神様に信仰のスイッチを繋ぐと、この箇所に書いてあることが起こります。
神様は全てのことにおいて答えを持っておられるお方です。
私たちは色んな思い煩いが重くのしかかってきます。
ですが、神様に対してはまず感謝をもって近付いていくべきです。

自分で当たり前だと思っているもの(健康など)が取り去られたら、
その時 初めて私たちは神様からどれだけ良くしてくださっていたのかがわかります。

ですから、私たちが神様に近づく時は、いきなり願いをぶつけていくのではなくて、
感謝をもって近づく方法が一番良いのです。それから私たちの願いを神様に知っていただきます。

神様は偉大な方ですが、同時にご自分のことを知らせたくて、人となってこの世に生まれて来てくださった方です。
私たちに近づきたいと願ってくださる方ですので、
私たちは、「神様、今まで出来なかったんですけど赦してください。知らないで犯した多くの罪を赦してください。
今もよくわからないんですけど、近付きたいので 近付かせてください。」と、このような簡単な祈りで良いのです。

神様は私たちを愛しておられます。

神様はどんな人でも心を動かすことが出来るのです。神様に向かって私たちが祈るなら、
その時から神様が働かれて、あなたの周りを変えていってくださいます。

私たちの祈りは「いつ聞かれるんだ?」という思いが強ければ強いほど、「神様は聞いてくださっているのか、
聞いてくださらないのかわからない。もう自分でやってしまおう」となりがちです。

そうすると神様の権威ではなく、自分の権威でやりはじめることになります。

私たちはもともと、自分のやりたい方法でやりたいのです。それはこの世の生き方です。
そのような思いは私たちがもともと持っているものなのです。そこで神様のみことばを聞くとぶつかりますが、
「自分が偉いんだ。自分が正しいんだ。」では信仰のスイッチを繋ぐことはできません。

神様が生かしてくださる道を歩む私たちになりましょう。
神様の光の中を、光の子として歩む私たちになりたいと願っています。アーメン (*´∇`*)

2013.2.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

聖別された生活

テーマは『聖別された生活をするために』です。

【Ⅱコリント6章14-18節】

神様はこのみことばの中で全然違うものを2つずつ比べています。
そこに一致があるのか、それが釣り合っているのか調和しているのかという言葉を使いながら、
私たちがそこから出て分離することを語っています。

私たちが神さまの子どもになったということは、この世から聖別されたことを意味します。
元々は この世にいましたが、そこから神様が連れ出して聖めた者です。
聖徒という言葉は “聖くされた者達”のことであります。

神様は聖い方でありますので、神様はご自分の子どもにするのも まず汚れたものを洗い聖めます。
汚れたままで良いということはないです。

放蕩息子が帰ってきた時にお父さんはどう行動したでしょうか――?
息子は乞食(こじき)のような生活をしていました。出て行った時と帰ってきた時の姿が全然違いました。
お金をたくさん持ち立派な服装をして出て行きましたが、湯水のように使い散財しました。
完全に乞食になり食べ物がなく、道ばたに寝ていた者でした。
服も汚く洗うことなく誰が見ても乞食でありました。

汚くて見るに見られない状態でしたが、お父さんはそのままの状態で家に入れたわけではないです。
綺麗にしました。新しい服を着せました。新しい履物を与えました。
息子は「わたしはもうお父さんの子の資格はないです。」と言いましたがお父さんはまず全部洗って
新しい服に指輪をはめさせて新しくしました。
神様がなさることはそういうことです。

アダムとエバは、罪を犯した時に神様はどうしましたか――?
罪がない時は、彼らには汚れがなかったです。汚れがないので裸のままで生活をしていても
恥ずかしいと思ったことはないです。

しかし、罪を犯した時に葉っぱを持ってきて見せたくないところを隠しました。
そしたら神様が彼らに「イエス様・救い主を与える」と約束をし、
動物の皮で服を作って彼らに着せました。
以前、彼らが着ていた葉っぱのようなものではないです。寒さにも耐えられるように
神様自身が服を作って着せました。神の手によるものであります。

ですから、神様が私たちを子どもにしたということは私たちをこの世・暗闇の中から光に移し
サタンの奴隷、支配された者をそこから出しました。

(あなたがたは)神の子どもになったのに以前と同じ生活をするのか?ということであります。
そのことを神様は教えたかったです。
私たちは身分が変わると、それからの生き方も変わっていかなければならないです。
それを維持していく必要があります。

その時 1回だけ参加して「神様、聖くしてください。」と、それから世の中に出て行って
世の中にどっぷり浸かって生活をして、世の人なのか神様の子どもなのか区別がつきません。
そのような生活は神様は願っておられないです。

1度聖められた者はそれからはどうすべきなのかを神様は はっきりと教えてあります。

【Ⅱコリント6章14節】

聖別された生活をするためにとても大切なことであります。
「信じない人と断絶することですか?」、「彼らとは話をしてはいけないことですか?」
そのような極端な言葉ではないです。
神様は私たちの信仰を脅かす人、信仰を汚す人、妥協させようとする人達、
そういう人達と私たちはくびきを負ってはいけないということであります。

なぜなら私たちは信じていない人達に福音を宣べ伝える必要があるからです。
だけどその中で自分が持っている信仰が取られる そういう働きをする人と
私たちは一緒に歩くことはできないです。

不信者は、信者の傍にいるからといって(不信者が)勝手に救われることはないです。
同伴者にはならないです。
同じ信仰を持つならば天の御国に向かってずっと一緒に歩くことができますが、
「この人は私が好きな人だから、別に(イエス様を)信じなくても一緒に居たら
一緒に天国に連れて行ってもらえる。」 ――これは とんでもないことであります。

信仰は1人1人のものです。 あなたが信仰告白して信じるならば救われるということであります。
「私1人が信じたから勝手に家族が救われる」「私1人が信じるから自分が愛する人が勝手に救われる」ということは聖書には書かれていないです。

「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも あなたの家族も救われます。」というみことばがありますが
私たちが信じると、神様を知る者になります。そうすると自分達の家族の為に祈ることになります。
私たちが信じないならば、家族の救いの為に祈ることはできないです。
しかし、自分だけが天国へ行って、家族が地獄に行って良いですか?――それは誰も思わないです。

「どうか神様、家族を救ってください。」と祈りを蒔くので、時が来た時にその家族が救われるようになります。
語ることで言葉の種が落ちるので救われます。種が落ちないと救われないです。

まだ信じていない人と一緒に教会へ来るから救いの同伴者になる、ということは絶対にないです。
ですから神様は勝手な思いを持ったらいけないということをおっしゃいます。
主の前に出てお互いに信者にならないと合わないくびきになってしまいます。

結婚相手は同じ信仰を持っていないのであれば、行く道が違うので同伴者にはなりません。
結婚する前はピッタリ合っていても、結婚をしたら色んな揉め事が出て来ますが
初めから合わないくびきを負って一緒になることはありません。価値観が違って、
目指すところが全部違います。歩くところが全部違います。
ですから 結婚はすごく大切なことであり、人生での大きな決断であります。
性格とかは皆違います。それを(自分も)一緒に合わせるということではないです。
それはその人の個性でありますが、聖書箇所は真理であります。
行く道が違うとどんどん分かれて行って1人は上に、1人は下へくだっていきます。
そこに幸せはないです。信仰と不信仰の戦いがあります。
そのことで不信者との親密な関係はいけないということです。
どちらかが影響されます。

ソロモンは立派な信仰を持っていました。しかし神様の言葉に不従順し、情欲が出て異邦人の女を
1000人妻にしました。
その妻たちは自分の偶像を持ってきてあらゆる物を建てました。ソロモンはそれを手伝いました。
ソロモンが知恵を持って信仰を守ろうとしても、そもそも出発から間違えていました。
神様がするなとおっしゃっているのに、自分の情欲に負けて倒れました。
女の人達は倒れず相変わらず偶像の神をそのまま信じました。

私たちも、ソロモンのような信仰が素晴らしかった人も倒れるのに、自分達も罪のくびきを負って
「大丈夫です」と言えるでしょうか? そしてますます自分が汚れていきます。
私たちは世の流れに流れるのは簡単なことであります。そこで生活しているので慣れています。

「何で教会にいつも行くの?」とかをいちいち言う人とは、縁を切った方が良いです。
それを聞いているとだんだん誘惑されていきます。そして自分自身が神様から離れていきます。
神様はそれを警告しておられます。

【Ⅱコリント6章16節】

私たちは神様を受け入れましたので、聖霊様は私たちの内側に住んでおられます。
ですので神様は私たちの身体は神の宮と言っておられます。
その身体を罪で汚してはいけないです。

1番汚すものは「偶像」であります。宗教は心でするものであります。
偶像は全てサタンでありますので、それを拝むならばサタンが当然入ってきます。
多くの人たちは自分の信じる神がいます。私たちがその人達と妥協し
その人達の考え・教え、そういうものに私たちが耳を傾けるならば、だんだん自分の中で
それらのものに対する色んな思いが出て来て思いが汚されていきます。
罪が出て、偶像崇拝をすることになります。
淫乱・姦淫によっても汚されます。思いが汚されます。そうすると聖霊様が悲しみます。
聖霊の宮なのに色んな汚いものをその中に持ち込んでくるならば、宮が汚されていきます。
それは全て罪であります。自分でごまかしても罪は「罪」です。
汚れたものに触れるな、そこから離れなさいということであります。

【詩篇1編1節】

汚い所に座ったら汚くなる、その人達と一緒になると思いが汚れていく。そうなってしまいます。

【ローマ書6章13節】

罪の道具にするのではなく、神様が喜ぶ働きをするために自分の身体を使うことであります。
神様に恥をかかせてはいけないです。
義のものに使わないなら全て不義になります。

【ローマ12章1-2節】

(みことばに従うなら)私たちは自然に聖い生活になります。この世は悪の領域です。
この世に調子を合わせるのではなく、その中でも神のみこころを求めて
自分自身が汚れないように聖い生き方をする人が一番立派な人であります。

【Ⅰテサロニケ5章22節】

みことばからずれたものは悪です。小さなことでも汚れなので警戒しなければ
ならないです。

【Ⅰヨハネ1章9節】

人間は弱いものなので、罪を犯すことがあります。それでも神様は、そこでお終い
というのではなく悔い改めなさいとおっしゃいます。
赦されるということは聖められるということです。汚れがついたままではなく、
これを繰り返さなければならないです。

【Ⅰヨハネ2章27-28節】

注ぎの油は聖霊様です。私たちがキリストに留まるということは、真理の中に留まるということで、
自分の中に聖霊様を招き入れるということであります。すると汚れることはないです。
いつでも神の前に出られる聖い状態になるようにしましょう。 v( ̄∇ ̄)v

2012.4.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

金ヘス牧師のブログにもたくさんの恵みや知恵の種が蒔かれています。
金ヘス牧師のブログ

□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■□■*:;;;:*□■*:;;;:*■

livedoor プロフィール
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

(^^) からし種 に投票してね
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ