からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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福音

キリストの十字架がどう見えますか

テーマは 『 キリストの十字架がどう見えますか 』 です

【第1コリント1章18-19節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

4つの福音書には 十字架につけられたイエス様の姿がありますが、皆さんはその姿が想像出来ますか?

ムチ打たれ、いばらの冠をかぶっている姿を想像しますか?


私たちがどんなに想像しても、当時のイエス様の姿とは かけ離れています。


ある人が幻の中で十字架につけられたイエス様を見ました。
そして大きなショックを受けました。

それは自分の想像をはるかに超えた悲惨な姿だったからです。


ローマの刑罰で十字架につける犯罪人は、まず鞭打つことが慣例でした。

堅い皮のムチは先端だけが分かれていて そこに尖った鉛をつけて打つので、それが体をひどく傷つけるため、十字架につけられる前に死んでしまうこともあると言われています。


力強い兵士たちが 犯罪人を裸にして何十回も打つので、肉は全部裂かれ血が飛びます。


幻を見た人は、ムチ打たれて裂かれた体の部分がまるで線を引いたような模様になり、その傷は深く、骨まで見え、全身 血だらけで人間とは思えない姿であったと言いました。

あまりにも悲惨な姿で そのような姿は映画でも見たことがないと言っていました。


その姿を見た人たちに「この方は救い主で、あなたの罪のために十字架につけられて死にました。ですから信じて救われなさい。」と言うと、人々は首を横に振って信じませんでした。


「あれは犯罪人だ。神ではない。あんな悲惨な死に方をする者が救い主なわけがない。」と受け入れません。


現代人よりも、その時代の人々の方がもっと信じませんでした。

その姿を目の前で見ましたので、ほとんどの人が十字架につまずいてしまいました。

弟子たちは一生懸命に キリストの十字架を伝えました。


福音は キリストの十字架が核心です。


ですから伝えるメッセージも簡単で、“キリストの十字架の死と復活” でした。

『 十字架につけられて死んだ この方が人類を救うメシヤであり、王の王、主の主です。』 と福音のメッセージを伝えましたが、そのメッセージはユダヤ人だけではなく ギリシャ人にもローマ人にも受け入れ難いメッセージでした。


ローマ人の立場から見ると、十字架は 犯罪を犯した奴隷が 悲惨な死を遂げたことなので、救い主と認めることはナンセンスでした。


ギリシャ人は 常に理性的、哲学的知恵を追及しているので、野蛮な方法である十字架刑で死んだ者が 人類を救うことなどあり得ない と思っていました。


ユダヤ人は メシヤがそんな方法で人類を救うことが出来ないから、メシヤである証拠を求めました。

十字架から降りたら信じるとも言いましたが、(イエス様が)降りずに死んだので、メシヤとして認めることは出来ないと思っていました。


“十字架の上で死んで人を救う” ということが、彼らには愚かに見えました。


福音を伝えると必ず人々がこのような反応を見せるのでパウロは今回のテーマ箇所のように語りました。


【第1コリント1章18節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

現代の人々はどうでしょうか?
昔とあまり変わらないです。

なぜ十字架に対する人々の反応がこんなに固いものでしょうか。


人々は何に憧れ、何を求めますか?

それは 強いもの、美しいもの、良いもの、魅力的なもの、知的なものです。

つまり苦難と苦痛、犠牲を避け、快楽を求めます。


しかし キリストの十字架は、何一つそれに当てはまるものがありません。


十字架を見ると、弱さ、惨めさ、辛さしか見えませんので、何ひとつ魅力的な姿がありません。


イザヤ書にキリストの姿が預言されています。


【イザヤ書53章1-3節】

私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

人間の目には、魅力的な姿ではないと預言されています。

これがイエス様の時代や現代でも 十字架が拒まれる原因になってあります。


十字架が現代人の知的欲求、政治的欲求を満たすことも、個人の欲求を満たすことは出来ないです。


ですから「十字架にかかったキリストを信じなさい。」と言われても、それを認め 受け入れることが難しいです。


もし、キリスト教がキリストの十字架を伝えないで 道徳や倫理、愛、施し、正しいことだけを伝えるならば、もっと多くの人が気軽に受け入れると思います。


しかし“キリストの十字架が抜けた キリスト教”は、もはやキリスト教ではないです。






最近、韓国でも教会や伝道する時に キリストの十字架や罪、悔い改め等をほとんど言わず、祝福、恵み、癒し、繁栄のメッセージだけを伝える傾向が強いと聞きました。

それは人々が望むメッセージです。


伝道する時も、教会にはどのような娯楽施設があるか、サークルやイベントなどを宣伝して人を集めていると聞きました。


しかし初代教会の時代は “キリストの十字架”がメインでした。

パウロはキリストの十字架以外は語らないと宣言しました。


“キリストの十字架” に戻らないと、教会は堕落します。


どんなに人が集まっても、主は その教会を “死んだ教会゛ と言われます。


キリストの血なしに罪の赦しはないですし、救いもありません。


神を喜ばせないで 人を喜ばせるために、人々の負担になり、魅力的でないキリストの十字架をいつの間にか後ろに隠して、人々の耳に良い話だけをして 人の数を増やそうとします。


人の目には たくさん人が集まって成功しているように見えても、神の目には堕落した教会の姿でしか見えないです。


人間的な方法や やり方で人間の罪の問題が解決されますか?

人間がどんなに優れた知恵を持っていても、科学がどんなに発達しても解決出来ず、ますます増えていくのが “罪” です。


哲学者や政治家、心理学者も、罪の問題に対して解決策を出した人は1人もいませんし、宗教家たちも解決方法を提示した人は1人もいませんでした。


私たち人間の罪を解決できるのはイエス・キリストの十字架であることを認めなければなりません。


神の知恵である この“十字架” を無視して、人間の知恵だけに頼っているならば、罪の問題は決して解決されず、ますます罪によって 人類はさらなる悲惨な霊的状態になります。


イエス様は自分の十字架が人々を2つに分かれさせることを語りました。


本文にあったように、十字架を愚かだと思っている人は滅びますが、それを神の知恵、神の力と信じる人には救いがあると語りました。


【第1コリント1章23節】

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

十字架を見て救われる人もいれば、つまずく人もいます。


【ローマ9章33節】

「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

イエス様はご自身のことを「つまずきの石、妨げの岩」と表現しました。

それはイエス様を受け入れるのが簡単ではなく、拒否感が出てきて負担になるという意味です。


しかし 神様の知恵と思って受け入れる人には決してつまずくことなく、救いの岩になります。


人間の知恵によって十字架を見た人は、みんなつまずきました。

しかし十字架を神の知恵による救いの方法だと信じて受け入れた人は救いを受けました。


どちらが愚かな人でしょうか?

人間の知恵に頼っている人でしょうか、それとも神の知恵に頼っている人でしょうか。


人間の知恵には限界があることを 謙遜になって認めなければなりません。

そして十字架の秘密を悟るのは、人間の知恵で出来るものでもありません。



キリストの十字架の秘密は、“神の啓示と聖霊による悟り”です。

キリスト教は、啓示の宗教です。
人間の知恵によるものではないです。


自分が努力して救いに至ることはないので、神によって提示された救いを信じて受け入れることです。


キリストの十字架を正確に理解するためには 神の恵みが必要です。

すなわち 悟りの霊が必要です。


聖霊に頼り、神の知恵を求めることです。


【第1コリント1章25節】

なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

( ̄ー ̄)

2016.3.20
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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誰が冠を受けるのか

テーマは 『  誰が冠を受けるのか 』 です

【第2テモテ4章6-8節】

私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けて下さるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けて下さるのです。

世界で最も値段の高い王冠や宝石をインターネットで調べてみました。

100億円を超えるものから 何十億円のものまでありました。


イギリス王室の王冠などは 宝石がたくさん装飾されており、とても高価に見えますし、他の国の王族やお金持ちが高い宝石を所有していました。


しかし、どんなに高価で輝く王冠や宝石であっても 誰1人それを死後の世界にまで身につけて持っていった人はいません。
誰もが地上に残して行き、その所有者が次々と変わっていきます。


永遠に自分の物にはならず、あっという間に自分から離れて行くものと知っていながらも、人々は地上の様々なものを得るために、自分のいのちさえも惜しまずに必死の努力をします。



最近、東大阪市で 64歳の兄が、61歳の弟を殺害する事件が起きました。

親が残した財産による金銭トラブルでした。

親は子どもの幸せと思って財産を残しましたが、結果は悲惨なものになりました。


持っているために生じるトラブルはたくさんあります。

それでも人はそんなことは心にも留めません。


聖徒もそうやって生きるべきでしょうか?

朽ちて行くものを得るために人生を懸けるべきでしょうか。


聖徒の生き方はそれとは違います。

聖徒が得ようとするものはむなしく消えて行く世のものではなく、永遠に消えることのない神が備えておられる冠です。


それは神様が与えて下さる聖徒への報いです。

しかし聖徒という理由だけで、自動的に受けられる冠ではないです。


ある人は、“それならあまり価値がない”と言います。


冠が勝利者に与えられるものであることを知らないといけないです。


それならば、どのような人が冠を神様から受けるでしょうか。
今回はそのことを学びたいと思います。




1.人生の最後まで勇敢に戦い、忍耐によって自分の信仰を守った人




主に選ばれ、主を信じた人たちが皆 最後まで信仰を守り、主と共に歩むと思いますか?
――そうではないです。


多くの人が主から離れて行きます。

イエス様の12弟子の1人であったイスカリオテ・ユダも主を裏切り、去って行きました。


また、イエス様が語ったことばに対し、自分たちが気に入らないという理由でつぶやきながら、12弟子ではない他の多くの弟子たちも離れ去っていき、もはやイエス様と共に歩かなかったと聖書に記録されています。


パウロと共に福音伝道に仕えていたテマスも 世を愛した為、パウロを捨てて去って行きました。

毎日奇跡を体験し、神の存在が明確に現れているのを見ながらも、神から離れて行きました。


実際に この教会でも信仰告白をして救われた人が ずっと教会に残っていたならば、今 空いている席はだいぶ埋まっていると思います。


しかし他の教会に移った人よりも 信仰を捨てた人の方が多いので、とても残念に思います。


なぜそのようになってしまったのかを考えると、サタンに惑わされて不信仰になったり、富の誘惑に目がくらんだり、この世を愛する心が強くて、信仰を捨てて世に戻りました。



信仰の道、いのちの道は狭い道であると 主が語って下さったように、その道を歩むためにはこの世から来るあらゆる誘惑や試み、試練に忍耐しながら戦わなければなりません。


ですから信仰を最後まで守ることは簡単なことではないです。


また、時には信仰のために家族や親族、職場からも反対されたり、迫害されたり、侮辱されたり、不当な扱いを受けたりします。

それで信仰を捨てた人も多いです。


しかし そのような中でも、神から離れず信仰を守った人たちには神が素晴らしい報いとして冠をその人たちに与えることは当然のことです。


神は初めから信仰の勝利者のために、永遠に消えることのない いのちの冠、栄光の冠を備えておられます。


いのちをかけて信仰を守ったのに何もないならば、それほど虚しく無駄なことはないです。

しかし神様はそのようなことはなさらない方なので、豊かに祝福して下さいます。


【マタイの福音書24章13節】

しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

このような約束がありますが、救われることは いのちの冠を得ることを意味します。


このいのちは永遠のいのちです。
いのちほど大切なものはないので、これほど素晴らしい祝福はありません。




2.自分に与えられた使命や働きに忠実な人




パウロが神からの冠を期待する理由は、神から与えられた “走るべき道” を走り終えたからです。


走るべき道がまだ残っているのに走りを中断したのではなく、“疲れたから後はゆっくり休もう” ではないです。

ゴールは、“いのちが尽きるところまで” が走り終える地点です。


ある牧師の話です。

年を取ったので、教会からも引退するように言われ、引退しました。

奥さんの方が先に亡くなり、牧師は子供たちに迷惑はかけたくないということで、老人ホームに自ら入りました。


しかし、そこで何もせずに時間を過ごしたのではなく、周りの入居者の様子を見ていました。

そこには寂しさを感じている人、問題を抱えている人、病気の人など様々な人たちがいました。


そこで牧師は毎日 人々の世話を始めました。
そうすると、皆がとても喜んでくれて、施設の関係者たちもすごく喜んでくれました。

そして、全員がその牧師のことを “神様が送って下さった天使” と呼びました。


これが忠実な働きです。

言い訳が多いのは忠実とは言えないです。


私たちは、“死に至るまで忠実でありなさい” と言われています。


神様が(その働きを)取り上げない限り、自ら辞退をしないことです。

それは主から受ける冠を自分から拒否することになります。






ロサンゼルスオリンピックのマラソンで、ある女性選手がフラフラと意識が朦朧になりながらも、ゴールに向かって歩きました。

何度も倒れそうになりながら、ゴールまで辿り着いて倒れました。


選手としてずっと目指して走って来ましたので、簡単に諦めることが出来なかったと思います。


その姿に皆が大拍手を送りました。

メダルは取れませんでしたが、最後まで走りぬく姿勢は 私たちに感動を与えました。


自分に与えられた神からの奉仕をないがしろにして、忠実でもないのに神様が与えてくださる冠に対しては関心と期待が大きい人がとても多いです。


しかしこのような人たちには、忠実な人だけに与えられる冠を受けることが出来ません。


神の働きをするためには、自分がしたいことを先にしてから 残りの時間ですることは出来ません。
神様は、“神の国とその義とをまず第一に求めなさい”と語りました。


自分のことよりも、神様の働きをまず考えて忠実に働いて下さい。


黙示録でも忠実な人たちだけに与えられる祝福がたくさんありました。

そうではない人たちには「悔い改めなさい」と言われました。


「昔はよく奉仕をしましたが、今はしていません」という人たちがいますが、それは自慢話ではなく、その人が忠実な者から今は怠け者になったことを意味します。


特別な事情も もちろんあると思いますが、本当にそれだけの理由なのかをよく考えてみて下さい。

神様は心の内を誰よりも知っておられるからです。




3.福音を伝える人




イエス様がわざわざ地上に来られた目的は何でしょうか。


【ルカの福音書19章10節】

人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

イエス様ほど魂に対して関心が強い方はおられません。

神様が1番喜ぶのは、失われた魂を捜して救うことです。


よみがえってから天に上る時に、弟子たちに命じたのが 全世界に福音を宣べ伝えることでした。

福音を伝えるのは聖徒たちに与えられた使命です。


自分だけが救われて天国に行くのではなく、他の人も天国へ行けるようにと福音を伝えます。


弟子たち全員は、なぜ殉教しましたか?
――彼らが主の命令に従って福音を伝え、福音を拒否する人たちによっていのちが奪われました。


日本でも韓国でも、初めに福音を伝えに来た外国人の宣教師たちが多くいのちを落としました。
そして信徒たちも殉教しました。


福音の内容もまともに聞かず、最初から反対されました。

心の頑なな者は聞く耳がないです。


古いものに執着を持っている人や既得権を持って良い思いをしている人たちは、新しいものに対していつも反対し妨害します。
それは全世界どこも同じです。


それでも逃げず、恐れずに福音を伝えることが大切です。


なぜなら福音を聞かせないと彼らは救われることがないからです。

反対する人の中にも、聞いて信じる人がいるかも知れないです。


パウロは福音に命を懸けました。

その様子は次の箇所です。


【第1テサロニケ2章9節】

兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

神様はこのように、主のことばに従いながら、働く人に目を留めておられます。

そして彼らの労苦と苦闘に、報いとして栄光の冠をその人たちに与えて下さいます。


この世でも最善を尽くした時に良いものを得ますが、主のために最善を尽くして働いた者たちに対する神からの報いは、私たちが想像することも出来ないほど尊い物であり、永遠のものです。

価値あるものを目指すのが、無駄な人生を歩まない方法です。


財産、権力、名誉、欲しい物のために命を懸けて最善を尽くす人がたくさんいますが、それによって神からいのちの冠、栄光の冠を受けることは出来ません。


聖徒の人生は価値があり 尊いものですので、(まだ救われていない人とは)目指すものが違います。


素晴らしいものを用意しておられる神様に期待しながら、この世で走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通し、そして人々に福音を伝えることです。


そのようにしている人は神様が用意した素晴らしい報いがあります。

それは永遠にその人の冠として その人に栄光を与え続けます。


人それぞれの働きに神は正しく報いて下さいますので、いのちと栄光の冠を受けられるように 与えられた人生で最善を尽くしていきましょう。
( ̄∠  ̄ )ノ

2015.8.16
聖日礼拝メッセージ

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天国の扉

今週は、礼拝メッセージの更新をお休みさせていただきます。
毎週楽しみにしてくださっている皆様に以前の3分テレフォンメッセージを載せました。
まだ3分テレフォンメッセージを聞いたことがない方は、毎日24時に更新していますので 恵みを受けてください。 〔 06-6618-9105 、06-6618-9106 〕

天国の扉に1人の天使が立っていました。

その天使は、イエス様と同じ特徴をその顔に持っている人たちだけを天国に入れ、その他の人々は入らせない責任を持っていました。


頭に素晴らしい冠を被った人々が来ました。王たちでありました。

しかし その天使は、その王たちに何の尊敬も現さず、 「世の王冠は天国では何の価値もないんだよ」ということを、その人々に教えました。


今度は、素晴らしい制服を着た人々が来ました。

今度もその天使は何の尊敬も現さなかったです。


なぜなら その人たちの顔に、十字架にかかったイエス様の顔のような顔はありませんでした。

全然違う顔をしていましたので、彼らを入らせなかったです。


今度は洗練された美貌を持った女性が来ました。

しかし、その天使は彼女を見ていました。彼女の目、彼女の美貌から 神様が求めている美しさは発見できませんでした。


今度は有名な人が来ました。人々はその人に歓声を上げていました。

でも天使はその人に語りました。
「人々から受けるその歓声・拍手は、人間には相応しいかも知れないが、ここに入って来る権利はありません。」


天国に入る入場券。
それはイエス様のように清くされた人だけに与えられるものであります。


例え その人が貧しい者であっても、無学な者であっても、そういうことは関係がなく、 天使がその人を見た時に その人の顔にイエス様と似ている特徴を見つけた時に  その人を天国に入れます。


「あなたはイエス様とそっくりな人ですね。入って来なさい。入って来なさい。 永遠の栄光があなたのものです。あなたはキリストのようになりましたので 天国でキリストと共に永遠に生きることができます。」





この内容は20世紀の有名なイギリスのスポルジョン牧師がメッセージの中で 語った言葉であります。

天国は誰でも入るような場所ではないです。


地上で福音を聞くのは誰でも聞くことが出来ますけれど、天国に入るのは イエス様を受け入れ、信じて、イエス様のように聖なる者に変わっていく人たち。
その人たちはイエス様が喜んで天国の中に入れてくださいます。


有名であったから、財産がたくさんあるから、その人が地上で色々なことをしたから、 天国がその人を受け入れるのではないです。


天の御国は、イエス様に似た者たちが入るところでありますので、 自分たちの姿が今どのようになっているのか、イエス様に似る者になっているかどうかをよく見てください。

~ 2012/2/14 ~


2015.8.2
3分テレフォンメッセージ

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神の計画と神の願い

テーマは 『 神の計画と神の願い 』 です

【エペソ1章3-6節】

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

本文には、神の人類に対する壮大なプロジェクトがあります。

その計画を立てたのは神であり、このプロジェクトは変わることもなく今も続いています。

このプロジェクトはイエス・キリストの誕生、十字架の苦難、復活、昇天によってその内容が明らかになりました。


みなさんは神の人類に対する計画を知っていますか?

今回はその計画の内容と神の願いに対して学びたいと思います。



■神の計画の内容について■



1.イエス・キリストの恵みによって人類を罪から贖う計画




人間は創造主に出会うまでは人間の始まりや、尊厳、役割、堕落や罪がどのようなものであるのか、そして自分に贖いが必要であることも知ることが出来ません。

創造主に出会わないと、でたらめなことを聞いても分別がつかず 信じてしまいます。


そして人々は、人間がサルから進化しているという進化論を疑うことなく信じています。

もしも、それが事実であるならば、今もサルは進化を続けなければなりません。
サルはサル、人間は人間であるので、まったく別物です。

創造主に出会って初めて人間は神の作品であり、その目的は神の栄光を現す存在として造られたことが分かります。


【エペソ2章10節】

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

しかし、創世記3章に最初の人間であったアダムとエバが神の命令に自ら不従順することによって 神の前に罪を犯しました。

罪とは神の言葉に対しての違反行為を意味します。

人間は神の祝福と神の愛を受ける存在として造られましたし、神様に栄光をささげる特別な存在でもありました。

それなのに、神様からしてはならないと命じられたことに対して違反しました。


その違反によって神との関係が壊れ、祝福を失い、その代わりに死、呪い、労苦、罪の奴隷、サタンに支配されるようになりました。


それによって、まったく希望のない絶望状態になりました。
しかし、それを見てかわいそうに思ったのも神様でした。

そして死と絶望状態の中に陥ってしまった人間を救う神のプロジェクトが始まりました。

そのプロジェクトの中心的な存在がイエス・キリストでした。


次の箇所に全貌があります。


【ヨハネの福音書3章16-17節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

人間が神に対して罪を犯し堕落していても、人間に対する神の愛は変わりませんでした。
救いは神の愛そのものです。

救いを受けることは神の愛を受け止めることです。救いを拒むことは神の愛を拒むことと同じです。

その愛を拒み続けることは永遠に自分自身を神から離す行為です。

それによって罪の結果である死を免れることがなく、神の怒りを招くことになります。


救いは人間として生まれたならば、誰にでも必要です。
なぜなら神の前に違反行為をしてない人は1人もいないからです。

しかし救いは私たちの努力によって得られるものではなく、神がすでにキリストにあって用意した恵みを信じて受け取ることです。


救いとは無関係であった人が救いを受ける過程をエペソ書2章で知ることが出来ます。


【エペソ2章1-9節】

あなたがたは自分の罪過と罪との中で死んでいた者であって、

そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

罪過の中で死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

それは、あとに来る世々において、そのすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

救いは、(私たちの)努力も資格も罪の状態も関係なく、救いを求めるすべての人に神のプレゼントとして与えられます。

これは尊いプレゼントなので必ず受け取る必要があります。

自分が罪ある人間であることを告白し、イエス・キリストが救い主であることを信じるならば恵みとして救いを受けます。




2.私たちを選び、神の子にして、素晴らしい祝福を相続する者にする計画




救いは、罪によって神との関係を分離された人間が 再び神と和解して新しい関係になることですが、その関係は最も親密な関係である“父と子の関係”、すなわち神の家族になることです。

神の家族になるということは神と共に生きることです。

神から遠く離れていた者が神と共に生きる者になると、今までとは違う生活になり、日々 神様と個人的な交わりをします。

神様は神の子どもたちに素晴らしい祝福を相続させる計画をもっています。


そのことを神のことばで確認します。


【ヨハネの福音書1章12節】

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

【ガラテヤ3章26節】

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

【ガラテヤ4章6-7節】

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

神から相続するものは天にあるすべての霊的祝福です。
この霊的祝福は私たちが想像も出来ないほどの素晴らしい祝福です。


イエス様が弟子たちに「私の父の家には住まいがたくさんあります。」と話したこともあります。

これは天国の話ですね。
また、黙示録にも私たちが相続するものがたくさん書かれています。

すべてが素晴らしい祝福です。神の家族になった者だけがその祝福を相続することが出来ます。


日本では死んだら誰でも天国に行くような話をよく聞きます。

「天国に行ってもお酒を飲んだり、マージャンをしてください」と、まるで地上と同じ生活をするように言いますが、その根拠はどこにあるのでしょうか?

また地獄の話も聞きますが、それなら地獄は誰が行くでしょうか?

明確な根拠もないのに、そのように言うのは “そうあってほしい” という希望があるからだと思います。


そういうわけで明確な根拠があるものを信じたら心配なく天国に行けます。




3.地の果てにまで証人として主に仕えさせるための計画




イエス・キリストは十二弟子を選びました。

彼らは特別に偉い者でもなく、どこにでもいるような平凡な人々でした。

その人たちを主は3年間訓練して証人として世に遣わしました。

イエス様はすべての人が救われることを願って弟子たちに出て行って福音を伝えるように命じました。


【マルコの福音書16章15-16節】

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

【マルコの福音書16章19-20節】

主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。

そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。

弟子たちは証人としての働きを いのちを懸けてしました。

平凡な人たちでしたが、主の命令に従って出て行った時に、主は彼らに力を与え、その働きが出来るようにして下さいました。


信じる者はすべて弟子にならないといけないです。

弟子とはイエス様に従う人ですが、それだけではなく、生活の中でイエス様の姿を再現していく人たちです。

主から学んだことを実行していき、また主に似る者になることです。


最初の弟子たちによって救われた人々も次々と弟子になりました。


【第2テモテ2章2節】

多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

【第2テモテ2章9-10節】

私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

このように証人たちの働きによって福音は全世界に広がって行きます。


【マタイの福音書24章14節】

この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

ここに神様の願いが込められてあります。

救いの対象は全世界の人々です。


救いの良い知らせを人々に聞かせて魂を救うのが神様の願いです。


救いを受ける者は最初から決まっていると言う人もいますが、聖書は次のように書いています。


【第1テモテ2章4節】

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

すべての人が救われることが神の最大の願いです。

そして次のように救いの門を開いておられます。


【マタイの福音書11章28節】

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

【ヨハネの黙示録3章20節】

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

すべての人の救いに主は関心があります。

救いの恵みを与えたいと願って今も人々を招待しています。


主の声を聞いて心に招くならば その人は救いを受け、神の家族、御国を相続する者、主の証人になります。

―― 救いを受けていますか?
救いは物ではありません。


自分の存在を “どこに所属させるか” です。

まことの神の所属になることが救いであります。
(*´∇`*)

2015.6.28
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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パウロメッセージの重要テーマ

テーマは 『 パウロメッセージの重要テーマ 』 です

【使徒の働き20章19-21節】

私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。

益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたに教え、

ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

パウロは復活したイエス様によって直接使徒として召されました。

その場面は次の箇所にありますが、パウロに対して主が語ったことばです。


【使徒の働き9章15節】

わたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。

そしてパウロは主の心にかなう働きをしました。
救われた異邦人にとってパウロの存在は本当にいのちの恩人です。


パウロの働きは簡単に出来たわけではありませんでした。

真の神を知らない異邦人の所へ行って、彼は命懸けで福音を伝えました。
多くの迫害と反対の中でも彼は伝えるべきことは大胆に伝えました。


私たちも神様のことを人々に伝えますが、人々が喜んで聞くことはほとんどありません。

その為、私たちは委縮し、消極的になり、何をどう伝えたら良いのかと悩んでしまいます。
聖書のことばはたくさん知っているのに、伝えるべきことばが分からず困ったと言うクリスチャンも多いです。


今回は最高の伝道者であったパウロのメッセージの重要テーマが何であったのかを皆さんに伝えます。

これから皆さんが福音を伝える時に、その内容で伝えたらいいと思います。





1.神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰




【使徒の働き20章21節】

ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

悔い改めと信仰は切り離すことが出来ないものです。


悔い改めなしに救われることはないですし、また 信仰なしに救われることもありません。


キリスト教のもっとも基本的な真理は神様に対する悔い改めと信仰です。

罪を犯したことのない人間は世には存在しません。
自分には罪がないという人は罪に気づいてないか、罪が何なのかを知らない人です。

悔い改めとは、自分には罪があることを神の前で認めることであり、罪を憎んで罪を悔いている心の変化を意味します。

そして主イエスに対する信仰は、キリストが十字架の上で死んで成し遂げた贖いとキリストが救い主であることを信じることです。


救いはまず悔い改めがあり、それに信仰が結びつく時に得られるものです。パウロは必ずこのことを語りました。




2.キリストによる罪の赦しと義




【使徒の働き13章38-39節】

ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいて下さい。

モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。

パウロはすべての人はキリストを通して神様からの罪の赦しを受けるべきであると強調しました。

なぜならば罪によって神様との関係が断絶された人間は、キリストを通して罪の赦しを受けるまでは神様と和解することが出来ません。


【コロサイ2章13節】

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、

神様は私たちが罪を悔い改める時にその罪を赦して下さる方です。

モーセの律法はそれを犯す者に対する刑罰はあっても罪の赦しや救いの保証はありませんでした。

イエス・キリストは律法が保証しなかった罪の赦しを保証しただけではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められ、救いを得ることまでも保証しました。




3.イエス・キリストの復活




【使徒の働き17章3節】

そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」と言った。

キリストの復活は作り話ではなく、実際にありました。

多くの目撃者があり、復活してからも何度も弟子たちや人々の前に現れました。
そしてパウロ自身も復活した主によって使徒と任命されました。

それまでパウロはキリストに敵対し、信徒たちを激しく迫害した者でした。


そして “キリストの復活” こそ信じる者たちの希望です。

キリストの復活がないならば、私たちの信仰もむなしいものになります。




4.神の国(天国)




【使徒の働き19章8節】

それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。

神の国、すなわち天国こそが聖書が提示する究極的なビジョンです。
神の国があるからキリスト教の救いは永遠性を持ちます。


天国がないならば私たちにどんな希望があるでしょうか。どこに向かって歩んだらいいかわからなくなります。

この世がすべてであるならば、私たちは神様を信じる理由がありません。
狭い道を歩む理由も、迫害される理由も、また忍耐する理由もなく、好きなように生きればいいです。


しかし、天国は間違いなくあります。

信仰の人々はどの時代にも天国にあこがれていて、地上では旅人として生活しました。


天国はお金で行ける国でもなく、権力で行ける国でもなく、キリストの十字架を通った人たちが行ける国です。
神様が支配し、涙も苦しみもない平安の場所です。

神様が準備した最高の場所です。
「私の父の家には、住まいがたくさんあります。」とイエス様が教えて下さいました。


地上でどんなに辛いことがあっても、天国があるから先が楽しみです。




5.偶像崇拝者に対する最後のさばき




【使徒の働き17章16節】

さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。

この憤りはパウロ個人の憤りでしょうか?
―― これは神様の憤りです。


なぜならば神様は次のようにはっきりと宣言しました。

「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」 と。


神様を無視し、神でもない偶像を拝む者に対しては厳しい裁きがあります。


【ヨハネの黙示録21章8節】

しかし。おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

パウロはこれ以外にも人々にとって益になることは、少しもためらわずに知らせました。

なぜならばパウロは誰よりも人々の魂を深く愛したからです。
パウロの心と姿勢はイエス様に見習ったものでした。


一人の魂も滅びることを願わない神の心を知って、パウロ自身もその心で福音を伝えました。

私たちは何を伝えたら良いかを考える前に、魂に対する深い愛が自分にあるかどうかを調べなければなりません。
愛がないと語ることが出来ません。


愛がないならば、主に愛の心を求めましょう。
そして愛の心をもって人々の救いのために祈り、パウロが伝えたように伝えましょう。
(・∀・)つ


【使徒の働き20章24-27節】

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。

ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。 私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。

私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。

2015.3.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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感謝をささげる

テーマは 『 感謝をささげる 』 です

【ピリピ4章6節】

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

外国人が日本に来た時、一番たくさん使う言葉は何だと思いますか?
それは“ありがとう”です。

日本人がアメリカへ行くならば、他より先に覚えていく言葉は“サンキュー”です。
たとえ英語を話せない人でも“サンキュー”を知らない人はほとんどいません。韓国語なら“カムサハムニダ”です。


聖書の中には感謝のことばがたくさん書かれています。
感謝のことば以上に美しいことばは あまりないですね。


感謝は私たちの心や生活を潤すものです。


今回は、今年最後の礼拝でもあるので、特に神様に感謝をささげていきたいと思います。


皆さんは日々どれくらいの感謝を神様にささげていますか?

この一年間どのくらいの感謝を神様にささげたのかを考えてみてください。
“祈りはたくさんしましたが、感謝は少なかったです”と言う人が一番多いかも知れないです。


私たちが神の前に出る主な手段は、祈りであります。

祈りによって自分の願いを神様に伝え、その後は神様が答えてくださることを待ちます。

そして自分が願った通りの答えを得ると神様に感謝をします。


このようなパターンが一番多いです。


間違ってはいないですが、今回のテーマ箇所であるピリピ4章6節には、私たちが信仰の祈りを捧げる時に 従うべき形式が書かれています。

それは祈る時に感謝が必要だということです。

欲しいものを手に入れてから感謝をするのではなく、初めから祈りと願いと共に感謝をささげることが信仰の祈りです。


なぜなら神様が祈りを聞いて働きますし、祈りに応えてくださる方であるので、祈りの中に“感謝”が抜けてはいけないのです。


私自身も祈る時に、まず先にたくさんの感謝をささげることが多いです。
時間がない時でも最初に言うのは、神様への感謝です。

「すべてを感謝します。」と一言で片付けるのではなく、神の愛、主の救い、永遠のいのちのプレゼント、主がいつも共にいてくださること、私を導き祝福してくださったこと、与えられた恵み、教会、信徒、働き、家族などについて神様に感謝をします。

これによってたくさんの感謝を主にささげることができました。


信仰と感謝、感謝と祈りは切り離すことができません。



【Ⅰテサロニケ5章18節】

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

感謝は神様が私たちに望んでおられることです。いつでもすべてのことについて感謝をすることです。

良いことがある時だけ感謝をするのではないです。不幸の中でも感謝します。
実りがなく、何もなくても感謝しなさいと言うのが神からのことばです。


これは感謝には威力があるからです。
感謝生活は私たちの中に喜びを生みだします。


感謝はつまらない生活、単調な人生に活力を与え、人生を潤わせ、肯定的に発展させていきます。

イエス様の地上での生活を見ても、いつも感謝が溢れていました。

聖書の中でイエス様が不平不満を言った場面がありましたか?――まったくありませんでした。


感謝においても、イエス様は私たちに模範を見せてくださいました。

祈りの中にも必ず感謝がありました。次の箇所です。




①5つのパンと2匹の魚




集まった群衆たちが、お腹がすいていることを見て イエス様は彼らを食べさせる計画をしました。

そこにひとりの少年が大麦のパン5つと小さな魚を2匹持ってきました。
イエス様はそこで何をしたでしょうか?


【ヨハネの福音書6章11節】

そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。

男だけで5000人、女性・子どもを入れると2万人近い人が奇跡を目撃しました。

わずかなパンと魚で全員が満腹し、さらに余りました。


感謝をもってささげる祈りと願いによって神様が奇跡を行いました。

これは平凡で小さなものに対する感謝です。
感謝が先で、奇跡が後でした。




②失敗の中でも感謝




イエス様は人々に福音を伝え、数々の力あるわざを行われましたが、人々は悔い改めませんでした。

人々は福音を拒否しましたが、その中でもイエス様は信じない人々を見て不満を言ったのではなく、信じる者、そして弟子たちを見て父なる神に感謝をささげ喜びました。


100人の中で1人しか救われていないならば、その少なかった結果に感謝をしない人は多いと思います。
自分の働きが無駄だったと思いがちです。

しかし感謝は、信じて救われた1人を見た時に出てきます。

イエス様は信じない人ではなく、信じた人を見て喜び感謝しました。




③死んだラザロの墓の前で感謝





【ヨハネの福音書11章41節】

そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことに感謝いたします。

真実な神様、祈りを聞いてくださる神様に感謝をした時にラザロが生き返る奇跡が現れました。




④最後の晩餐の時に杯とパンを持って感謝




自分が苦しみを受け、体が裂かれ、すべての血を流して死ぬことを知っていながらも神様に感謝をささげました。

主は3日目に復活を信じていましたので、感謝をささげることができました。


永遠のいのちへの希望を持っている信徒たちは患難の中でも感謝をささげることができるのは、イエス様がそうされたからです。


私たちが感謝をすればするほど、神の愛が私たちに更に注がれ、そして感謝が種となって芽を出し、美しい実を結ばせます。

感謝する人は恵みを知っている人です。

感謝する人には神の力が臨みます。感謝は前進する力の源です。


また、神の力を引き寄せる綱のようなものです。
感謝が多ければ多いほど神の祝福があります。

感謝は神様の前にのぼっていく“かおり”です。それは神様が喜ぶかおりです。

一年間守ってくださった神様、育ててくださった神様、命を与えてくださった神様に心から感謝をささげましょう。
(´∀`*)

2014.12.28
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聖書に現われた宣教

テーマは 『 聖書に現われた宣教 』 です

【詩篇67編5節】

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

宣教の働きなしに人々が神のことばを聞くチャンスはあまりありません。
つまり、伝える人がいないと、誰も神のことばを聞くことが出来ないです。

宣教は神の言葉を伝えることであります。

私たちは宣教のことを考えると、宣教は新約時代になってからのものだと思いますが、
決してそうではなく、宣教は旧約時代から神様の計画であり、そして実際に宣教活動もありました。

今回は宣教がどこから始まったのかを学んでいこうと思います。




(1)宣教はどこに根拠を置いているのか?




神様は天と地を造り、全世界のすべての主権者であります。

そして神様は1人の人を選びました。
それは信仰の先祖・アブラハムです。

一番初めにアブラハムに語った言葉に世界宣教の計画があります。


【創世記12章1-3節】

主はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

3節の「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」は何を意味しているでしょうか?

罪によって死ぬしかない人類が、アブラハムの子孫であるイエス・キリストによって救いを受けるという霊的祝福を暗示しています。


イエス様はアブラハム、ダビデの子孫であります。
(このことはマタイの福音書1章1節に“アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。”と書かれています。)

それを見ても分かるように、神様がアブラハムに与えた計画を完成させたのが、イエス・キリストであります。


イエス・キリストは天から地上に来られて 罪の中にいる人々を救うため十字架にかかるために来てくださいました。

そして死んでいる者はみな救われるという言葉が聖書に書かれています。


【ガラテヤ3章7-9節】

ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。

聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。

そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

8節に“福音”ということばが出てきます。
アブラハムの子孫だけではなく、信仰による者たちは たとえ異邦人であっても救いを受けるのです。


ですから神様の宣教の計画は、旧約時代から既に始まっていました。




(2)詩篇にある世界の救いの約束




詩篇は祈り・賛美だけが書かれている箇所ではありません。

神様の預言のことばがたくさん書かれています。そしてその中に救い・宣教の計画が175回も出てきます。


詩篇67編は“宣教師の歌”と言うほど全世界に福音が伝えられることを願っています。

私たちが人々の魂を導きたいなぁと思うならば、この祈りが必要であります。


【詩篇67編1-7節】

どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。セラ

それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。セラ

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。

神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。

私たちは全世界の民が救われることを願って、このように祈りをしていかなければならないです。


宣教は たましいが救われるための最初の一歩が “祈り” であります。

なぜなら人間の力では、たましいを救うことができないからです。
私たちは伝えることは出来ますが、その中でたましいに触れるのは聖霊様であります。

ですから私たちは まず神様にたましいが救われることを祈る必要があります。
祈るならば神様は働きます。神様の力ある御業を現してくださいます。


詩篇に書かれている世界の人々への救いの約束のことば175個をすべて紹介することは今は出来ませんが、少しだけ伝えようと思います。


【詩篇47編9節】

国々の民の尊き者たちは、アブラハムの神の民として集められた。

範囲が全世界であります。アブラハムの神の民ということは信仰を持って救われる人々の姿です。


【詩篇68編32節】

この世の王国よ。神に向かって歌え。主に、ほめ歌を歌え。セラ

【詩篇96編7節】

国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。

神様は 世界と人間を造りましたので1人も滅びることなく、イエス様を信じてたましいが救われ 天の御国に入ることを願っておられます。

しかし、実際に世界は今どのようになっているでしょうか。
神のみこころとは違います。


神様が救いの計画を持っておられても多くの人々は偶像の神々に仕えながら滅びに向かっています。


先日、民族博物館へ行きました。地域の人々の暮らしも展示されていましたが、そこには必ず宗教というものがありました。人間が作り出した神々がどれほどたくさんいたかわかりません。大きいものもあり、小さなものもあり、形も様々でした。

カナンの部族が偶像崇拝をします。エジプトの民たちも偶像崇拝をします。
人々はそこで神々を造り、祭壇を築いて 日々拝むのです。


偶像に仕える者たちの姿を、神様はどのように見ているでしょうか。次の箇所です。


【詩篇97編7節】

偶像に仕える者、むなしいものを誇りとする者は、みな恥を見よう。すべての神々よ。主にひれ伏せ。

人間は神を知らないと、こんなに無知であり愚かな者であるのか。
偶像を拝むことによって滅びを受けるのに、そのことに気付かず いつまでこういうことをしているのだと神様は見ておられます。




世界には70億人くらいが住んでいます。

人々はどのような宗教を信じているのか見てみましょう。


キリスト教が一番多いですが、それはカトリックとプロテスタントが合わさった数であります。
カトリックの中には異端的なものがありますので、果たしてその中でどれだけ救われるかは分からないです。

プロテスタントの中にも 死んだような教会がたくさんありますので、その中でも真理を正しく知って聖霊を受けて生まれ変わった人がどれくらいいるかは本当に分かりません。


  • キリスト教―― 20億人
  • イスラム教―― 11億9000万人
  • ヒンズー教―― 8億1000万人
  • 仏教―― 3億6000万人
  • ユダヤ教―― 1400万人
  • その他の宗教―― 9億1000万人

イスラム教がすごい勢いで広まっています。なぜなら海外に出て行き命を懸けて伝える人が多いからです。
ヒンズー教はインドの人口が多いので信じている人が多いです。インドには神々と呼ばれているものがたくさんあります。仏教は東南アジアなどに信じる人が多いです。


このように神を信じない人の方が多いです。救われている人はその中に何人いるでしょうか。

イエス様が全世界を見て嘆きました。救われている人は少ないと語りました。神様から見たらそれは心が痛くなることであります。


ですから、私たちは時が良くても悪くても福音を宣べ伝えなさいという言葉を神様が語っています。




(3)旧約時代の宣教によって救われた たましい




≪ ラハブ ≫

ヨシュアが遣わした2人の斥候はエリコにいる遊女ラハブの所に行きました。ラハブは神のうわさを聞いてその2人を隠しました。
なぜ2人がラハブのところに行ったのかは、これもきっと神様の導きであります。神様がラハブの中に からし種ほどの信仰があることを知っていたと思います。

このことによってエリコが滅ぼされる時に彼女は助かりましたし、後にはダビデ王の先祖となり、イエス・キリストの系図の中に入りました。

これも宣教でありました。もし2人がラハブのところへ行かなければ、ラハブもラハブの家族も殺されるところでした。


≪ ルツ ≫

モアブ人でありましたが、ユダヤ人と結婚しました。
旦那は死にましたが、義母であるナオミの信仰を見て、彼女も信仰を持ちはじめ、後にはイエス・キリストの系図の中にも入りました。

自分に影響を与える信仰を持っている人の姿がないならば、ナオミに「ついていきます」とは絶対に言わなかったと思います。

モアブ人にも神々がいましたが、ルツは自分たちの宗教を捨てました。ナオミの信仰を見て「この神を信じたい」という思いがあったのでしょう。


D.L.ムーディー氏は「1人の人が聖書のことばどおりに生きるならば、100人がその行ないを見習う」と言いました。


神様は、クリスチャンたちに「あなたたちは世の塩、世の光です。」
そして「良い行いを通して神に栄光を捧げなさい。」と語りました。
これは私たちが良い行いをすればするほど、人々が私たちの姿を見て 私たちが信じる神を褒め称えるようになります。

私たちが信じると言いながらも、暗闇の業を続けて行うならば 人々は私たちを見てあざけます。


私たちがクリスチャンとして、救われていないたましいのためには私たちの姿そのものが宣教でなければならないのです。キリストを紹介する者でなければならないです。


≪ ナアマン将軍 ≫

彼は権力と名誉がありましたし 豊かな生活をしていました。王様からも すごく信用を得ていました。
しかし彼は治すことが出来ない らい病を患っていました。これは日々苦しいことであります。

その時に福音を伝えたのは誰でしょうか?
イスラエルの地から連れて来られた1人の若い女奴隷は、らい病で苦しんでいる将軍を見て その女主人に話しました。

「もしご主人様がサマリヤにいる預言者のところに行かれたらきっとあの方がご主人様のらい病を直してくださるでしょうに。」と告げました。 これを聞いたナアマン将軍は神の人エリシャの所へ行き、その病気も癒されました。 彼女は良いことを言いました。それが福音です。


福音とは 良い知らせのことです。その人にとって最も必要な良い知らせです。


私たちは福音であるからとイエス様のことを長い言葉で語らなくても、例えば病気にかかっている人に対しては「イエス様は癒してくださいます。イエス様は癒し主です。教会に一緒に行きませんか?」と伝えることが福音であります。

もし彼女が黙って見ているだけで伝えなければ ナアマン将軍は癒されることもなく、救われることもなかったです。





私たちは伝道するのが難しいと言いますが、難しいと考えるならば難しいかも知れないです。
ですが、問題を抱えていない人は1人もいないと思います。

その人たちが 答えを求めている姿を見たならば、その部分で語れば良いのです。

希望がなく「死にたい、死にたい」と言っている人にはイエス様のことを語るのです。
「イエス様はそういう人たちのために来て希望を与えました。「わたしがいのちである。」と語りました。」


ですから私たちは一言でも相手にとって慰めとなり、その人の力となり、希望になることを提供していくのです。

たくさん語るのではなく、1人1人求めるものが違います。
「イエス様ならばこうしてあげます。」と良い知らせを伝えることが伝道であります。


イエス様は「全世界で出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と語りました。

自分だけ救われたら良い、他の人は関係ない、宣教は 牧師や賜物がある人がやれば良いというのではなく、
救われた者は それは伝えることであります。

倒れている人を見て無関心であるなら、自分が神の御前に来た時に褒められるでしょうか?絶対にありません。


天国で一番大きい報いを受ける人は、伝道をし たましいを導いた人です。


なぜ伝道が一番大きい報いであるかと言えば、滅びて行くたましいに対して あわれみの心を持って その人に語るからです。これは愛がないと語ることができないです。

たましいの世話をする者、たましいを憐れんで語る者、愛を示す者は 一番大きい報いを神様から受けます。


宣教することは、人間が堕落した時から神様が願っていることであります。


ですから皆さんの家族や親族、周りの人々に対して、私たちは一言でも良いので語ることです。
その人たちが受け入れるか、受け入れないかは その人の責任であります。

ことばだけではなく、私たちが人々の間で感謝と愛にあふれる姿を見せるだけでも福音は伝わっていきます。


天国と地獄があることを語っても、その人たちには愚かに聞こえるかもしれないですが、それが福音であります。

宣教の使命は私たちみんなが受けていますので、福音を伝えることをいつも心がけてください。
(*´ -`)(´- `*)

2014.6.29
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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ルデヤの信仰

テーマは 『 ルデヤの信仰 』 です

【使徒の働き16章12-15節】

それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。

安息日に、私たちは町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。

テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊りください。」と言って頼み、強いてそうさせた。

神の計画に従うならば、そこには必ず祝福があります。

パウロは神様から1つのことを示され、伝道のために召されました。
パウロと一行はアジアで福音を伝える計画でしたが、聖霊様がそれを禁じ、神によって1つの幻を見せました。

1人のマケドニヤ人が彼の前に立って「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願する姿でした。

その幻を見たパウロとその一行はただちにマケドニヤに向かって行きました。
マケドニヤはギリシャ北部に位置し、アレクサンドリアが有名でアレクサンドロス大王ゆかりの地でもあります。


川岸へ行った時に、そこに女の人たちがいるのを見ました。パウロはそこで祈り、福音を伝えました。

当時ピリピはマケドニヤの第一の町で、ピリピで幾日か滞在している時に1人の女性・ルデヤに出会いました。


彼女の信仰のことは、ここにはほとんど書かれていませんが、素晴らしい信仰でした。
彼女はどういう経緯で神を信じたかはわかりませんが、それまではユダヤ教を信じていました。

彼女の信仰の姿を調べてみましょう。



1.自分の仕事に忠実でありながら神を敬う人(14節)




ルデヤはテアテラ市の紫布の商人で、ビジネス拡大のためにピリピに移住してきたと思われます。
そして相当の財産も持っていると推測されます。

私たちは自分の仕事に熱心になると、神様のことをないがしろにする傾向があり、礼拝に行けなくなることもあります。

ルデヤは 自分の仕事にも忠実で熱心ですが、神に対する信仰をないがしろにせず神を敬う信仰の人でした。

これがとても大切であります。



2.聞く耳を開いてみことばを聞く準備が出来ていた(14節)




主がルデヤの心を開いて、パウロが語る言葉に留めるようにされましたが、聞く耳がない人に対しては 神様がわざわざ耳を開くことはないです。

“聞く耳”が彼女にありましたので、神様が更に彼女が悟るように助けてくださったのです。
ルデヤはこのことによって、ユダヤ教からキリスト教に改宗しました。

ルデヤが改宗者の第1号でした。
そしてパウロがピリピで福音を語って救われた魂も ルデヤが第1号でした。


信仰はみことばを聞くことから始まります。

私たちが神様の言葉を聞く時に、耳を傾けて 心を開いて神様の言葉を聞かないと、信仰が絶対に成長しないです。


どうやったら信仰が成長しますか?と質問をする人がいますが、みことばを聞く姿勢を変えないならば信仰が成長しないです。

みことばを聞く時は、しっかりとみことばを聞き「今日、主は私に何を語るのか?」と、そして聞いたことをただ頭の知識として入れるのではなく、心に留めることが とても大切であります。

もし、その時にみことばを悟ることが出来ていなければ、更に言葉を聞くことであります。また「これはどのような意味ですか?」と聞くことです。


更に深く探っていく時に、言葉がその人の内に留まり その人のいのちになり 血となり、成長させていきます。

聞く耳を持っている人たちの姿は、使徒の働き17章11節に書かれています。


【使徒の働き17章11節】

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

私たちの中に、このような姿勢があるでしょうか?

神様が用意してくださったみことばを「食べたくない」と言って目を向けず、耳を開かず、心にも入れないで、ただ席に座っているだけで他のことを考えて空っぽのまま帰ると、その霊はどんどん衰えて死んでいきます。


私たちの内なるものが日々新しくなるように 神様は毎日「いのちのパン」と「いのちの水」を飲ませてくださっています。私たちはそれをしっかりと受け取って食べないと、信仰が成長することはないです。

イエス様がことばを語る時も、大勢の人々が集まってきましたが (聞く)姿勢は それぞれ違います。
それで「耳のある者は聞きなさい。」という言葉を使いました。

自分の耳が聞く準備が出来ているのか それが大切であります。


現在開催されているサッカーのワールドカップ 日本戦の試合で、宿泊施設のレストランでテレビ画面から目を離さず、トイレも我慢している人たちがたくさんいました。 1つの場面も見逃したくないという思いがそうさせます。


みことばを聞く私たちの姿勢はどうでしょうか?

いのちのパンは、私たちの内なるものが生きるためには必要なものであり、私たちの信仰が成長するためには みことばを食べなければいけないです。


私たちはもう1度自分たちの姿を考えなければならないです。

ルデヤは熱心に聞いていました。
彼女はビジネスをしているので忙しいですが、頭の中でずっとその事を考えるのではなく、“この時間はみことばを聞く時間である。”という思いで一生懸命その時間を無駄にしませんでした。

ですから神様がルデヤの姿を見て、恵みを注いでくださいました。その素晴らしい恵みとは「救い」でした。


そこでパウロから福音を聞き、福音の主体はキリストでありますので 彼女は悟り、耳を傾けたので恵みを受けることができました。




3.家族までも変える信仰(15節)




彼女はみことばを聞いて信仰を持ちました。そしてその家族も信じ、家族全員が水のバプテスマを受けました。
ルデヤは自分だけが信じたのではなく、家族にもそのことをすぐに伝えました。

回心からの行動がすごく早いです。彼女の中には、決断力と積極性があります。


決断力がないと信仰を持てないです。それまで自分が持っていた様々なものがある中、まったく違うものが来た時には 決断をしなければ信仰告白が出来ないです。

そして積極的な行動によって、次にどのように行動をしたら良いのかを考え すぐに彼女と家族がバプテスマを受けました。

これは、信じた通りに実行に移す信仰であり、自分の信仰を他人の前でも大胆に告白する信仰です。


信仰告白をしても、いざ「洗礼を受けましょう」となると「ちょっと待ってください。」と言ってなかなか洗礼を受けない人がいます。決断をしないのです。家族にも言わないのは迫害を受けたくないからです。


しかし、キリストに従っていくということは(周りからの)反対や迫害を覚悟しなければならないです。
それでも従っていくのが、本物の信仰であります。

聖書は、信じるのか信じないのか「白か黒」のどちらかであります。「灰色」は無いのです。

神様の福音はとても単純です。神様が人間を造った目的は(神様だけに)仕えることでしたが、人間が堕落してからは別のもの(サタン)に仕えるようになったのです。

ですから、神様が語った言葉は「今 どちらに仕えているのか」ということです。

≪ 神様に仕えるのか? それともサタンに仕えるのか? ≫


人間が誰にも仕えないということは無いです。必ずどちらかに仕えています。

神様に仕える人は、神様のことばを心に受け入れて、その言葉通りに生きる人のことであります。
しかし それをしない人は、自分の欲望のままに生きるので、そこでサタンが働きます。


私たちは積極的な行動を取らないと、口では信仰と言っても、生き方はサタンに相変わらず仕えているならば 救われていないのと同じ状態であります。


救われて新しい人になったのなら、その瞬間から新しい人としての歩みをしなければなりません。
ルデヤはすぐ行動に移して家族までも導きました。




神様の証




カナダで5年生の男の子がイエス様の恵みで天国まで連れて行かれて多くのことを教えてもらいました。
その中で一つの場面を紹介します。

地上の ある病室が見えました。そこにいる意識がない患者はノンクリスチャンでした。

周りにいる家族はクリスチャンでした。家族は死んでいくその患者のための祈りを熱心にしていました。
助かる見込みはないので、そのたましいの救いのため諦めずにイエス様にお願いをしていました。

クリスチャンたちは癒しを祈ったのではなく、このまま亡くなれば地獄へ行くことが分かるので イエス様に必死に祈っていました。


その患者の周りには既に悪霊が囲っていました。するとクリスチャンの家族が祈っている時に、
その祈りを主が聞いて、主が意識のない患者のそばに来ました。主ご自身がその人に福音を語りました。

家族の祈りが続く中、イエス様は何度もその人に向かって福音を語りましたが家族の目にはその様子は何も見えません。

そしてその患者のたましいは、イエス様のことばを最後に受け入れ、信じました。その瞬間集まっていた悪霊たちがあっという間に逃げました。
イエス様はそのたましいを受け取り、一緒に天にのぼりました。

人間には何も見えないので、何が起こり、その人が天国へ行ったのか、地獄に行ったのかがわかりません。


しかしイエス様はそれを見せた理由は、たましいがまだ地上で生きている時に希望を捨てるなということです。

死ぬ瞬間まで私たちがたましいの救いをあきらめてはいけないことを教えました。

イエス様は1人1人のたましいを非常に惜しんでおられます。1人も滅びて欲しくないという思いがあります。

家族の中にイエス様を信じる人がいなければ、その家族はそのまま滅びていきますが、
信じている家族がもしそこにいるならば、そのたましいのために祈ることであります。


最後の最後まで諦めないで、自分たちに出来ないならばイエス様にお願いをしてでも伝えることです。

私たちの信仰による積極的な行動がないと たましいは救われないです。
知恵が必要であります。どのような知恵をもって、このたましいのために働くことが出来るのか――?

私たちの姿が悪くなると、家族が救われるどころか私たちの行動で神様の御名が汚されることになります。


もちろん私たちが正しく動いても迫害されることもあります。
その時は、私たちが忍耐して神様に頼ることであります。




4.キリストのために献身する信仰(15節)




彼女は恵みだけ受けて去ったのではなく、自分の家を提供してパウロ一行を泊らせ、彼らをもてなしました。
ルデヤの家が、後のピリピ教会であります。

パウロを助けてピリピ教会を設立した献身的な信仰の所有者でした。

彼女は自分が持っている財産を主のために使いパウロを助け、そしてそこに来た人たちに もてなしをしました。
これはとても大切なことであり恵みを知っている人の姿であります。

「恵みだけ欲しい」と言って、いざ恵みだけをもらってサッと持ち逃げして2度と現れない、主のために何も働きをしないのは、次の祝福がないです。


私たちは恵みを受けたならば、それに対して感謝をして神様に対して私たちは返さなければならないです。

受けた物を持って蒔きます。ルデヤはこれをしました。


ヨーロッパで一番最初の教会がピリピ教会であります。
1人の女性が自分の信仰を使って自分の家を提供したところがマケドニヤ最初の教会であり、彼女が一番最初の改宗者であり、生きた信仰でありました。

そしてルデヤは故郷であるテアテラに行って教会を設立した人とも推測されています。 黙示録2章18節のテアテラ教会がその教会です。そこでも彼女は立派な働きをしました。


ピリピ書はパウロがピリピ教会に送った手紙ですが、この教会がどういう教会であるかが手紙の内容でわかります。 献身的なルデヤがいるピリピ教会は他の教会とは違っていました。

【ピリピ4章14-18節】

それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。

ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、 私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。

テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。

私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。

私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。 それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。


ピリピ教会はパウロのことを忘れませんでした。パウロのことを常に助けたいという思いで、そこで先頭に立っているのがルデヤであります。

他の教会では恵みだけを受けて、パウロの働きをないがしろにしていました。
パウロが乏しいことを知っていても誰も無関心でしたがピリピ教会だけは違っていました。

ですからピリピ書には喜びが溢れています。


私たちは弱い者ですが、ルデヤも強い者ではないです。
弱い者でしたがイエス様の福音を受け入れたその時から、ルデヤの人生が新しいものに変わっていきました。

その瞬間からイエス様に対して献身する人に変わりました。

自分たちの姿は 献身している姿なのか、それともいつまでも恵みだけをくださいと、恵みを受けた後は主のために何もしない姿でしょうか?それともルデヤのような姿が自分たちの中にあるでしょうか?

ルデヤのような人を見て、このような人だと語ります。次の箇所です。


【ローマ14章18節】

このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

これが私たちが目指す姿であります。本当の意味での献身であります。

ルデヤがそのような人でした。彼女から学ぶべきものがたくさんあります。
「私は何も出来ない」ではないです。その働きが出来るのです。


今は終わりの時代ですので、主の前に私たちは立たなければならないです。

今までのことは私たちはどうすることも出来ないですが、これからは恥ずかしくないように主に喜ばれる生き方をしていくべきであります。

それを明日からではなく、今からこのような心で生きようとする決心が必要であります。


決心したならば行動です。行動が伴わない決心は何の意味もないです。

決心したならば行動をするために祈ることです。聖書を読まなければいけないなと思ったら1節でも読むことであります。

これによって私たちは目を覚まして立ち上がることができます。 (・◇・)ゞ

2014.6.22
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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死んだ行いを悔い改める

テーマは 『 死んだ行いを悔い改める 』 です

【ヨハネの黙示録3章1-6節】

また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『 神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」 』

サルデス教会に送った神様の啓示の言葉は厳しい言葉であります。

今の時代、私たちは本当に聞かなければいけない言葉だと思います。

この箇所を読んで何かを感じることはありますか?
彼らは教会に属して信仰生活をしています。しかし、悲劇的な姿であります。神様が喜ぶ姿ではないです。
神様に叱られている姿であり、悲しい姿であります。


彼らの中で一番悲劇的なのは『福音から離れた生活を行っていること』であります。

私たちは 福音に出会ったので救われました。


イエス様がどのようなお方なのか、なぜイエス様が十字架にかかって死んでくださったのか ――?
私たち罪人がそれを見て「私の罪のために死んでくださったのだ」、「救われる為には十字架に架かってくださったキリストを信じなければいけないのだ」、
「自分が犯した罪を悔い改めなければいけないのだ」と、私たちが罪から離れて自分の罪を悔い改めて イエス様を受け入れて 信じました。

信じたということは、魂が救われたことを意味するのです。


私たちが福音を受け入れたならば、その後はどうでも良いかと言うと決してそうではないです。
その時から本当の信仰生活がスタートするのであります。
生まれ変わった時から、私たちは生まれ変わった者として生きていかなければならないです。

もし 再び死んでしまうならば、どうやって救い出すことができるでしょうか?


サルデス教会の人たちは死人の方が多かったです。多くの中、生きている人は幾人しかいないということでした。
これは教会の姿なのです。イエス様は黙示録で 世の中に対してではなく、教会に対して警告を与えておられます。

「救われたから あとは天国に行けるし安心だ。」 このように思うのは、とんでもないことです。
もし教会の全員が天国へ行けるならば、このような啓示の言葉を教会ではなく まだ信じていない世の人に向けて神様が語ると思いますが、そうではないです。
すべて教会に教えています。



神様が語る言葉は「悔い改めなさい」、「目を覚ましなさい」であります。これは私たちに対する言葉です。
「終わりの時代なのに、まだ寝ているのか ――?」、「あなたは罪の中にどっぷりと浸かっているのか ――?」

福音から離れた生活をするということは、死んでいる状態であります。


福音を受け入れた人は、その時から信仰生活は福音の中に根を深く下ろして、そこから成長をして実を結ばなければいけないです。

根がないのに 実を結ぶことはないのです。私たちは「御霊の実」を結ばなければいけないです。

しかし、福音から離れて 世に根を下ろしている人たちが御霊の実を結ぶのは、有り得ないことであります。



教会の中で信徒たちの姿を見ると、同じ神様を信じて 同じメッセージを聞いて 同じ場所で礼拝を捧げているのに、
ある人たちは福音の力がすごくあります。実をどんどん結んで変化をしています。そして神様が喜ぶ姿に変わってきています。

しかし、ある人は力が全然ないです。クリスチャンであるにも関わらず 無気力で力がないです。
ある人は「私 本当に救われているのかな?」と 確信がないです。


「私、天国に行けるのかな?私、地獄に行くのかな?」 また、ある人は「私は地獄に行くと思います。」と自分で言う人は 地獄へ行くと思います。
「私は まだ救われていないかも知れません。」と自分で言う人は、その人はまだ救われていないのです。
自分の中で確信がないならば まだ救われていないのです。そのことに気付かなければいけないです。






神様は、自分の子どもたちを無理やり地獄へ送りたいとは思っておられません。

イエス様が血を流して代価を払い買い取られた者が堕落していく姿を見た時に 神様はどれほど苦しいでしょうか――?
地獄へ向かっていく人たちを見て、天の父なる神様は 大きな声で一言 次のように語ります。「悲しい ――。」
神様の胸が潰れるような思いであります。


イエス様は色々な人たちを地獄へ連れていき、地獄の姿を見せますが イエス様はそこで泣いておられます。
そこで苦しんでいる魂を見て、憐れみの心で涙を流しています。

そういうことを聞くと人々は「イエス様に憐みの心があるならば、そこで叫んでいる魂や“悔い改めます”と言っている魂を救い出せば良いでしょう?」と言います。
しかし、それは神様の公義ではないです。


イエス様はみことばで はっきりと語りました。
へブル書に「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」という言葉があります。
それを私たちは聞いています。特にクリスチャンであるならば 礼拝がありますので みことばを聞いています。それなのに なぜ化石のような状態になったのでしょうか。

なぜ無気力なクリスチャンになってしまったのでしょうか。なぜ死んでしまったのでしょうか。
これはすごく問題であります。


これは誰のせいでしょうか――?

自分自身のせいです。
自分が福音の中に根を下ろしていないので、神様を信じていても(自分で)好きなように生きています。

みことば中心に生きるのではなくて、自分がしたいように生きています。神様の言葉がもはや その中には存在していないです。


そして 一番の問題は、祝福を与えてくださる神様なので きちんと(祝福を)用意してくださっていますが、
神様を信じる目的が「自分の問題を解決して欲しい」、「病気を癒して欲しい」、「祝福して欲しい」、「私を天国に行かせて欲しい」など、それだけの思いで神様を信じるならば偶像崇拝と何ら変わりがありません。

世の中の人たちが神社やお寺へ行って拝む理由は何でしょうか?
祝福して欲しいからです。「地上で生きている時、私を祝福してください。この問題を解決してください。私の病気を癒してください。」


このように彼らは拝むのですが、クリスチャンが神様に対しても同じで、神様に祈るのが自分の祝福のため、欲しいものを手に入れるため、問題が解決されて欲しいという思いだけならば「偶像崇拝」です。ただイエス様の名を呼ぶことだけが違うことで、それでは神様は喜ばれません。
神様は「わたしを利用しようとするのか。」とおっしゃいます。これはとんでもないことであります。




悔い改め



地獄に落ちる理由は、悔い改めて新しくなる姿がないからです。

私たちは神様を信じるということは、何のために信じるのかを明確にしなければならないです。


皆さんは何のためにイエス様を信じていますか?
ただ単に この世で自分の願いが叶えられて 欲しい物を全部手に入れて 贅沢に生活をしたいためにイエス様を信じているのでしょうか?
もし そうならば、とんでもないことです。

私たちが福音を信じるということは、何を食べるか何を飲むかの問題で信じるのではないです。
“生きるか死ぬか”の問題であります。


福音は生きるか死ぬかをはっきりと分けるのです。
イエス様は「悔い改めて立ち返り 信じる者は救われる。信じない者は永遠の滅びである。」と語りました。
そのことを知らない人はいないと思います。

この言葉を信じて、もう滅ぼされたくないという思いで信じていますが、自分は命の道を歩いているのか?それとも相変わらず世と仲良くして
この世の霊に満たされて 妥協をしながら生きているでしょうか?


神様は今回の本文の中で「いのちの書から消すようなことは決してしない。」と書かれていますが、ある人たちはこの5節のみの言葉を取って「一度救われた人は決して いのちの書から名前が消されることはない。」と断言をしていますが、とんでもない間違いです。

これには神様の条件があります。
「勝利を得る者」と語りました。勝利をした人の姿は4節に書かれています。
死人が多い教会の中で幾人かの人たちだけが名前を消されないということであります。


その他の死んでいる者たちや 寝ている者たちに対して語った言葉は、「盗人のように来る」と語っています。
この意味は、神様はもともと盗人ではないです。盗人はサタンです。サタンが来る目的は盗む、殺す、滅ぼす です。
魂を盗むのです。そのため肉体が死に、永遠の滅びに至ります。つまり地獄に落ちるということであります。


神様が盗人のように来るということは、その者を神様が迎えに来るのではなく、イエス様が来る時は裁きの為で、 再臨は救いの為に来るのではないです。
世の終わりであります。すべてのものが終わりです。


その時に神様は勝利した者たちの魂を守ります。

しかし、霊的に死んでいる人たちや眠っている人たちは滅びていくのです。
その人たちにはサタンが飛びかかり、連れて行くところが地獄であります。


サタンも不思議な業を行います。サタンも病人を癒します。サタンは死人を生き返らせることも出来ます。人の人生の中でサタンはいくらでも働きます。
サタンからそういうものを受けて 安心している私たちの姿を見て、サタンは一番喜びます。

安心をしていると自分を顧みることをしないからです。
今、私は神様のみこころに従って生きているのか?と 自分を点検することをせずに眠っているのです。


ダビデが罪を犯して悔い改めていなかった時に、神様は預言者ナタンを遣わしました。
ダビデは預言者でもあり 王様でもあるのです。すごく神様に愛された者であります。
しかし、罪を隠して悔い改めませんでした。

神様はナタンを遣わしましたが、ナタンは行きたくなかったと思います。殺されるかもしれないからです。
王様に言うのは難しいと、それも隠れた罪を告げるのはとても勇気が必要であります。
それでもナタンは遣わされて行き、ダビデに はっきりと語りました。


ダビデの素晴らしいところは、その言葉を受け入れて その場で神様の前に出て灰をかぶり悔い改めをしました。
もし彼が悔い改めなかったならば、たとえダビデであっても地獄へ落ちたと思います。


神様が「いのちの道は狭く険しい。その道を歩む者はまれである。」と語りました。
これはクリスチャンだからと言って、「私、教会に通っています」ということだけで皆が天国に行くことはないのです。それは錯覚であります。

私たちは福音の中に根を下ろして生活をしなければいけないです。

信仰が強い者と信仰が弱い者の根本的な違いは、“十字架を経験したのか、十字架を経験していないのか”であります。


イエス様に出会い、イエス様が架かった十字架が誰のためであったのか? イエス様がなぜ そこで血と水と汗を流して ご自分の命を捧げたのか?
それは あの隣人のためでしょうか――?それとも、あの罪人のためでしょうか――?
これは あなたが十字架を経験していないことになります。


私のような罪人のために十字架に架かり、十字架の前でイエス様に申し訳ない気持ちで涙を流し、そうする中で自分の魂を救ってくださったイエス様に対して
「私は一生イエス様から離れません。恵みを忘れることはしません。」とイエス様と共に毎日 十字架を経験しながら生きる人は 最後まで大丈夫です。


そのような人たちは、イエス様が自分の罪のために十字架に架かりましたので 罪を軽く考えないのです。
「私がまた罪を犯すならば、それはイエス様を十字架につけることになるのだ。」と考えます。




クリスチャンへの裁き



クリスチャンに対して神様の裁きが厳しいのは何故でしょうか?


イエス様が十字架を背負って歩いた時に、エルサレムの神殿を見て泣きました。
これは教会を見て泣く姿であります。

教会が「私たちは神様に仕えています。立派な教会があります。律法を守っています。毎日行いをしています。」と言うのを聞き泣いておられます。
イエス様が泣く理由は、堕落しているからです。


神様のことを知っていると言いながらも、本当は知らないのです。
みこころのままに歩いておらず、クリスチャンが今 罪を犯しているならば
その人たちは日々イエス様を十字架につけています。ですから罪が厳しいのです。

裁きも教会から始まります。つまり、そこにいる信徒たちから始まるということであります。


地獄へ行った人たちの 色々な証を聞いていますが、全員が共通して言うことは、「地獄にクリスチャンがたくさんいた」ということです。牧師たちもたくさんいました。



―― 地獄の証 ① ――

ある南米の女性が イエス様に地獄へ連れて行かれた時に 火が燃えている場所や許さない心を持っていた人が入る場所を見ました。
そこでイエス様が「あなたはどちらに入るのかを選びなさい。」と語りました。彼女が驚いて「それはどういう意味ですか?」と聞きました。

イエス様が語った言葉は「ここは他人を絶対に許さない人が入る場所である。あなたの心の中に未だに許していない人がいるだろう?」とおっしゃいました。


神様は私たちに言いました。
「あなたが人を許すならば、天におられる神様もあなたを赦す」と語りました。

しかし、クリスチャンではありますが いつまでたっても「あの人だけは死んでも許しません!」と言うなら、この地獄があなたを待っているということです。


それで彼女が瞬間的に思い出しました。
彼女は長い間 祖母に対して憎しみの心が消えることがなかったのです。
もし祖母を許さないならば、自分はこの場所に来るのだと分かったので、その場で祖母を本気で許しました。

1人を許さないだけで、永遠に出られない恐ろしい地獄の火の中で(全身の)肉が落ちて苦しみ叫び、悲鳴を上げる暗闇の世界に自分は行きたくないと思いました。


聖書の言葉には従順しなさいということが書かれています。
私たちがこの1つ1つの言葉に不従順するならば、天の御国には入れないです。

不従順するということは、神様に敵対して生きるということであります。不従順はサタンからくる霊であります。



―― 地獄の証 ② ――

また他の人の地獄の証では、ある教会にいる信仰の良い信徒が亡くなりました。

誰もが「あの人は本当に素晴らしい信仰生活をしていたから、イエス様のところへ行って素晴らしい報いを受けるだろう。」と思っていました。

しかし、何と地獄で見つけたのです。
その姿を見てあまりにもびっくりしました。


「イエス様。あの人は生きている時に イエス様のことをすごく愛していました。イエス様からの言葉も“わたしも彼女を愛していた”でした。彼女は神様にたくさんのものを捧げました。彼女は素晴らしい働きをしました。素晴らしい信仰をもっていました。」とイエス様に聞きました。

これらの1つ1つのことに対してイエス様は知っておられて「彼女はそのようにした。しかし彼女は悔い改めなかった。」と言いました。


「何を悔い改めなかったのですか?」と聞くと 神様が見せる場面がありました。
彼女が生きていた時の普段の生活を見せてくれました。


彼女には1人の親しい友人がいました。
友人は病院に勤めていて薬を処方する担当をしていました。
彼女は病気を患っていて、ずっと飲み続けなければいけない薬があり、その薬代が高いので、彼女は友人にお金を支払わないで薬を得る方法を見付けました。

病院の受付時間内ではなく、誰もいない時間にその薬を貰っていました。
これは友人がさせたことではなく、その人が頼んだことでした。
本来ならばきちんと料金を支払って薬を得なければならないのですが、お金を払うのがもったいないという思いが働きました。


神様は 彼女が初めてそれを行った時に、心の中に「それは罪なんだよ。」という思いを入れました。

しかし、彼女は「あ、これは神様からの思いではない。」と考えました。
彼女の中での罪の認識は、人を殺す・盗みなど十戒に書かれているようなものであって
今回のことは合理的に考えました。「少しくらい貰っても」という思いでした。この罪を彼女は小さく考えました。

「私は主のために いっぱい働きをしていて、神様を愛しているし、信仰生活もまともにしているし、貧しい者もたくさん助けたから、地獄へ行くことは考えられない」と思っていました。


(神様は)警告を与えましたが「いや、これは大きな罪ではない。こんな罪で地獄へ行くことは有り得ない。」と ずっと思っていました。
神様の警告を「これはきっと私の考えだから、もう考えないことにしよう。」と死ぬ時まで これをやり続けました。

つまり死ぬ時まで泥棒をしていました。
そして それだけではなく、友人までも罪をずっと犯させ、もう1人の魂も罪人にさせていました。
そして彼女は悔い改めることもなく亡くなりました。


悔い改めなかったので地獄へ来たのです。

それまでどんなにその人が神様の働きをしていても、悔い改めない者は地獄へ行きます。




姦淫



また、姦淫を犯すクリスチャンもとても多いです。

これをやめようとせず 平気に行います。たくさんの罪が相変わらず行われているのです。


これをその人たちは安心しきっているのです。
「私はクリスチャンだし、命の書から私の名前が消されることはない。」という思いであります。

ですから、その人たちが地獄へ落ちた時に 一番びっくりするのです。「何で私はここに来ているの?」と。
そしてイエス様を見た時に「イエス様!私の罪を赦してください!」と叫びます。


しかしイエス様は「もう遅い。」
「何度も何度もあなたに警告をしたが、あなたは聞き入れなかった。罪から手を洗おうとはしなかった。」と語りました。






私たちはいつ死ぬか分からないでしょう?

ですから、日々準備が出来ていないといけないです。
のほほんとしているのは寝ている姿であります。

本文の「あなたの行いを知っている。」とは(神様は)全ての行いを見ているのです。
その行いを見て「それでもクリスチャンか」と言います。


人を憎む。神様のものは盗む。赦さない。不品行を行う。あらゆる世の人が行う罪を全て犯していながら 日曜日が来たら 教会でメッセージを聞いて、そしてすぐに忘れて あとは好きなように この世と仲良く生きています。


そうしながら自分が天国へ行くと思うのは錯覚であります。




福音を正しく伝えない



牧師たちが地獄へ落ちる一番多い原因は「福音を正しく伝えなかったこと」です。


「悔い改めなさい」という言葉を語らず、韓国の教会でも堕落をしている多くの理由は「天国も地獄も語らない」です。
「今は21世紀なのに天国とか地獄とか、そんなことを言うのは無知な者が言う言葉でしょう?」

このように一番大切なものが教会で語られずに「この世で祝福を受けましょう。」という言葉に皆が飛びついて「権力と富を手に入れましょう」とメッセージをします。

神様はそれを見て「それはあなたの魂を滅ぼすものなのに、それを求めるのか。」と語ります。


私たちが神様を信じるということは、区別された生活をすることであります。
この世の流れに従って生きるのではなく 私たちをそこから離して生き方を変えていかなければいけないです。

クリスチャンであるのに、口が悪い。他人を裁く。妬み 憎しみ 高慢 これらが身体に付いていると、いつの間にか汚れた衣になっていきます。
臭いがプンプンしている汚れた衣を着ている人を、神様は天国に入れるわけがないでしょう。


悔い改めるということは、その汚れた衣を綺麗に白く洗うことなのです。


黙示録で褒められた教会では悔い改めの言葉がないですが、非難された教会のすべては「悔い改めなさい」という言葉でした。

悔い改めが足りないということは、自分の罪に対する認識が足りないということであります。


これは毎日 十字架を経験していない姿です。十字架を見るならば、自分が犯した罪を思い出すのです。
「今日もこの罪でイエス様を釘つけてしまいました。主よ、本当に申し訳ありません。私の罪を赦してください。」
十字架を見て悔い改めないならば、何なのですか?
十字架の上で苦しんでいるイエス様を見て、「お金をください」「病気を癒してください」と言えるでしょうか。


十字架に架かったイエス様を経験することは、「そこで死ななければならないのは私なのです!罪人である この私なのです。」このように ひざまずいて悔い改めなければいけないです。

言葉だけではなく、毎日の自分の生活が 主に立ち返ってイエス様を見て生きないといけないです。
そして自分の中の小さな罪も、ガン細胞のように 後で私を滅びに落とすのだという怖い思いを持たないといけないのです。


もし自分の体にガン細胞を見付けたとしたら、小さいからと言って無視をしますか?「まだ小さいから病院に行かなくても大丈夫だ」とは誰も言わないと思います。
「小さいうちに見つかって良かった。早く病院へ行ってそれを取ろう」という思いになるでしょう。
お金をたくさん使っても診察へ行くと思います。それをそのまま放置することはないと思います。


それなのに、自分の魂に対しては 関心がないです。

その罪が自分の足かせになって、自分を永遠の滅びに陥れているのに、罪を捨てるどころか、
罪を楽しみながら、罪を増やしながら全身ガン細胞で蝕まれています。そうしたら死ぬしかないのです。




魂に対する準備



神様は 時はいつなのか、今は終わりの時であります。

地震が起こることは災いであるのです。

ある幻が開かれた人は、世界各地へ神様が連れて行き その国を見せるのです。
ソドムとゴモラを見た時に神様は何をされましたか?
同性愛で本当に汚れているので火をもって滅ぼしました。


日本でも、地震が起きるとずっと警告があります。先日も地震がありました。
これは神様が警告をしていることなのです。


私たちは準備をすることはもちろんですが、魂に対する準備は出来ているでしょうか?

私たちは地上でたくさん欲しいと求めていますが、これは肉の目で見るから地上のものを一生懸命集めようとします。しかし、もし私たちが神様の目で見るならば、考え方が180度変わると思います。

180度変わることで、「あの時に 私がもっと霊的になれば良かったのに。あの時にもっと神様に捧げたら良かったのに。あの時 もっと主のために仕えたら良かったのに。あの時に もっと信仰生活をきちんとしておけば良かったのに。」と、全て逆になります。


肉の目で見るなら、「地上のあれも これも欲しい。もっと欲しい。」と まるで永遠に地上で生きるかのように食べますが、神様の目から見たら、神様と私たちの思いは天と地ほどの差があると言います。

神様は霊的に見ているので、私たちの霊的状態を見ておられます。
そして「何と貧しい者であるのか。何と堕落しているのか。何と汚れた者であるのか。」

もし私たちが上から(自分自身の状態を)見るならば、自分の姿を見て飽きれると思います。


「何をしているの?服が汚れているよ!洗いなさい。今、あなたはサタンと仲良くしているよ。どんどん地獄に近付いているよ。早く立ち返りなさい!もっと神様に喜ばれる者になりなさい。」と、霊の目で見るならば、私たちはきっとそのように言うと思います。

神様が一度救われた者は、何をしても どのような罪を犯したとしても天国へ行けるというのは 間違えていると教えています。


聖書には「悔い改めないならば」という言葉がたくさん出てきます。

盗人のように来る、暗闇の中に落とされる、外の暗闇で歯ぎしりする、大きな艱難の中に投げ込む、火の中に投げ込む、「主よ、主よ」と言うものが皆天国に入るのではない。
この言葉を (多少 罪を犯しても天国へ行けると安心している人は)どのように解釈をするのでしょうか?


聖書全体の言葉、主のみこころは何か、悔い改める者に対する神様の恵みはいつでもあります。

しかし、悔い改めることをせずに それを軽く考えていつまでもそこに留まっているならば、いつの間にか罪によって その人を飲み込んでしまいます。

天国は罪人が入れないところであります。


死んだ行い、死んだ自分の心、死んだ信仰生活を悔い改めなければいけないです。


私たちの中に様々な問題を よく考えると神様と自分の関係が悪いと問題が消えることはないです。

この世にどっぷり浸かって生活をするならば、サタンが絶えず問題を持ってきます。
私たちを滅ぼし盗むために、そして私たちが死んだ時に誰よりも早く来るのはサタンです。


神様にたくさん仕えた人たちや、神様がいのちの書に名前を書いている人たちは、死んだ時に悪魔は来られなく、御使いたちが迎えにきます。
しかし どっぷりと罪の中で生活をしていたクリスチャンには、御使いが来ないです。悪魔サタンがその人の肉体から魂を奪い取って地獄へ連れていきます。

また 中途半端な信仰生活をしている人は、御使いとサタンが来て戦います。「これはわたしのものだ」とサタンが主張をし、御使いも「わたしのものだ」と言います。
そこで霊的戦いが起こります。


私たちが想像できないほど地獄は苦しみの場所であります。
すべての感覚が残ったまま 地上では有り得ないような拷問を受けて暗闇で悲劇的な目に遭います。


一番厳しい裁きは何だと思いますか?
神様から切り離され、神様がその人から目を逸らして 断絶された裁きが一番厳しいのです。

神様は私たちの いのちの主であります。その神様が私たちの命に関心がなくなり、助け主ですが もう助けることをしなく、私たちにとって希望ですがそれも神様がしない者に一番厳しい裁きがあります。


ですから地獄にいるその人たちは 必死にサタンに助けを求めますが、サタンは助けることをしないです。
イエス様がたまに訪問すると 魂が助けを求めてきます。しかし地獄から出た者は誰一人いません。そこに来ている人がそこから出て自由を得ることは有り得ないことであります。

天国に入っても同じことです。完全に死んだ人がその所から出たり入ったりすることはないのです。


天国と地獄を「(自分で)見てみなければ分からない。」と言うのではなく、見た時は既に遅いのです。

私たちクリスチャンにとって 天国が一番の希望であります。地上でいくら苦しい生活をしていても天の御国を本気で信じている人は希望があるのです。


悔い改めて「神様、私の魂を守ってください。私を苦しみのないところに導いてください。」と福音の中に深く根を下ろして神様に頼り みこころを行いながら天国に望みを抱き 生活できるように導いてくださいと 毎日自分の力で生きることが出来ないのでイエス様の力を求めるのです。

神様は何もかも知っておられます。そして私たちが今のままで良いのかを考えることであります。
もし今 神様が自分を呼ぶなら天国へ行けるのか ――? 行けない人たちもたくさんいるのです。

ですから神様が「目を覚ましなさい」とおっしゃいます。


このメッセージは神様が伝えて欲しいメッセージであります。


寝ているでしょう?―― 起きなさい。
死にかかっているでしょう?―― 生きなさい。
罪を罪とも思っていないでしょう?―― 悔い改めなさい。


教会へ行くのもイヤだ。神様を信じるのも面倒くさいと言っていたら、それが後になって自分の首を絞める言葉になります。自分で自分を地獄へ落とすことになります。


イエス様が「地上では辛いこともある。苦しいこともある。」
しかし私のいのちの主が私たちのために33歳で地上を離れたイエス様、苦しみを受けたイエス様を悲しませるのではなく、その恵みの中に留まる必要があります。 (・◇・)ゞ

2014.3.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私の使命は宣教

テーマは 『 私の使命は宣教 』 です

【マルコの福音書16章15節】

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

宣教は、宣教師・伝道師・牧師だけがするものではなく、救われたすべての人にイエス様が与えた命令であります。

宣教は誰かがするのではなく、「私がしなければならない使命」だと認識をしなければなりません。

初代教会の人たちと、イエス様の弟子たちは この言葉をしっかりと受け取りました。

もし 初代教会の人たちが宣教活動をしなかったならば、福音はそこで終わったと思います。しかし、イエス様が天にのぼられた後に すぐさま立ち上がって福音を伝え、3千名が救われました。
ある程度 増えてくるとグループになって固まろうとするところがありますが、それは神様が喜ぶ姿ではないです。
「まだまだ救われていない魂がいるだろう。」と語ります。


エルサレムの教会に対する迫害があり、信徒たちはそこにいることが出来ず散らされていきましたが「散らされた人たちは、みことばを宣べながら巡り歩いた。 」と主から受けた言葉通りに一般の信徒たちにも福音を伝えました。これは神様が喜ぶ姿であります。

迫害の中でも福音を伝えるということは命懸けなのです。

どの時代でもこの命令が変わることなく与えられていますので、私たちは福音を宣べ伝えていかなければなりません。


日本や韓国は、イスラエルから遠く離れていて福音が届きにくい場所にあります。
今から150年前に 日本にキリスト教が伝えられましたが、当時は交通便も悪いですし、情報を手に入れるのも難しい時代でした。

しかし、十字架の信仰と殉教精神、宣教への情熱を持って多くのクリスチャンが全世界へ出ていきました。

日本も韓国も まずカトリックの神父たちが福音を伝えに入ってきました。そしてその後に宣教師たちが来て、みことばを伝えました。

多くの宣教師たちが迫害に遭い、命を落とし、二度と国に帰ることはありませんでした。
それでも宣教師 たちは途絶えることなくやってきました。とても感謝なことであります。

もしこの人たちが来なかったならば誰1人福音を聞くことが出来なかったと思います。


今回の教役者大会でも、フィリピンの講師先生が「日本へ宣教に来て20年以上経っている宣教師たちは立ちあがって下さい。」と言われた時に、 多くの宣教師たちが立ちあがりました。

言葉が通じないところへ来て 人知れぬ大変な苦労をしながら生活をしていたのだろうと感じました。
講師先生が「この方たちは本当に立派であります。自分の国を離れて、ただ1つ福音を伝えるためだけに来られて20年以上経っていますので拍手を送りましょう。」と言って 皆で拍手を送りました。

この人たちは戦いの戦士に見えました。日本人がなかなか福音を伝えない中で、外国人が戦いの中へ飛び込んでいく姿が想像できました。

私たちはそのような姿を見て、自分たちは何をしているのか ――?自分の家族や周りの人々に福音を宣べ伝えているのか?そのことを心に留め、悔い改めながら新しい思いを持たなければいけないと思います。


終わりの時は今までにない迫害が来て、信じる人たちも自分の信仰を守ることがとても難しくなります。
ですから福音を伝えることはもっと難しくなります。今、家族に福音を伝えなければならないです。

私たち自身がいつも問題ばかり抱えて、神様に出会って何一つ良いことがないならば 証にならないです。
自分自身が変わっていないならば 家族への宣教は難しいです。


宣教は外国へ行くことだけが宣教ではなくて、家族に対しても私たちが変わっていく姿を実際に見せていないと「イエス様を信じて。」と言っても
「あなたは信じて何が変わったの?何も変わっていないじゃない。」と言われ 福音が伝わりません。

私たちには責任があるのです。「私は家族・親戚に良くなっている姿を見せているのか ――?」それを反省しなければならないです。




昨年11月8日~10日まで、イスラエルのベツレヘムで聖会がありました。

そこにあるベツレヘム第一バプテスマ教会が、韓国のヨンセ中央教会と3年間 合同で聖会を年1回 開いています。
その理由は、その地域に住む人たちは福音を聞くチャンスがないまま死んでいく魂が多いからです。

その地で福音を伝えることは命懸けであります。なぜならそこに住むアラブ人はイスラム教を信じる人が多いからです。ベツレヘムはイエス・キリストが生まれた土地であります。
現在はユダヤ人がまったくいない地域でパレスチナ人が住んでおり、いつでもイスラムのテロが起こり得る場所です。


今まで福音を聞いたことがない1,300名のイスラム教徒のアラブ人が参加し、正統派イスラム教徒も30名が参加したと言われています。
彼らは何が語られるのかと福音を聞きに来ました。神様は彼らにも福音を聞いて救われて欲しいのです。

3日間で5,000名が集まり、その中で175名が救われ、イエス様を救い主として受け入れました。そして悪霊が追い出され、病人が癒される奇跡が起こりました。


伝える人がいなければ、救われる人もいないです。

今までイスラム教徒として生きていた人たちが福音を聞いた時に、力と奇跡を神様は現わし、生きて働く神様を見せてくださいました。

神様は福音が全世界に届いて人々が救われることを願っておられます。




ここで韓国と中国の教会の姿を見てみたいと思います。


韓国の教会は以前にリバイバルをしました。聖霊の働きがとても強く、世界の中でも韓国の教会が一番燃えていました。しかし今は 下り坂になりリバイバルをしなくなりました。そして主のために献身をする十字架の信仰が消えていきました。
その原因は、経済的に豊かになってしまったからです。


その反面、今 中国では聖霊の働きがとても強く現われ、驚くべき成長を見せています。
公認教会や地下教会の人たちは命をかけて福音を伝えています。

彼らは投獄されても福音を伝えており、その多くの者たちに十字架の信仰があります。


韓国でも危機感を持っているクリスチャンたちは目を覚ましています。
「この時代において、私たちが何をすべきか」を考えるようになりました。

韓国教会の時代的使命は、中国宣教であります。
なぜ中国を宣教するのかと言うと 聖霊様の働きで救われる人たちは多いですが、教理的な部分がまだ弱いです。
神学校が足りなく 指導者も足りないです。


韓国は神学校が多く 海外で学んでいる人もたくさんいますし、教理的・神学的に優れています。
しかし熱が冷めて弱くなってきました。
ですから「私たちが持っている教理的・神学的なものや指導者を中国へ送り、中国の人たちが更に力を持って宣教できるようにと たくさんの人たちが中国へ行っています。


中国教会は殉教信仰が強い人もいれば、中国は経済が良くなってきましたので 教会に来る人の中でも経済的祝福だけを求める人が増え、神様よりも 神様が持っているものに関心が多いです。
そうすると神様に対する想いも冷めていきます。それが中国でも実際に起こってきています。

中国は人口が多く、国内では少数民族が55もありますし、中国は、終わりの時代に世界宣教の使命がある国だと思います。


なぜかと言うと日本や韓国がイスラム圏やアフリカに宣教しようとするならば拒まれるのです。それは、アメリカと仲が良いという理由です。イスラム教の国ではアメリカに対する敵対心がとても大きいのです。


しかし中国は社会主義ですので イスラム圏の国やアフリカにたくさん入っていけるのです。

韓国では「中国教会がアラブ、イスラエルなどイスラム圏の国々のために時代的使命を果たすことができるように協力することである」と考えています。




日本はどちらでもないです。
日本ではリバイバルが起こったこともないですし、熱くなったり冷めたりすることもないです。

「韓国や中国には出来ても日本には無理だ」ということを言いますが、これは言い訳にすぎません。
よく考えてみると自分たちが燃えたことがないのです。


自分たちが命を懸けるほど国に福音を伝えようと熱く燃えたことがありますか?


ですから原因は私たちにあるのです。自分たちが勝手に諦めているのです。
人々が滅びていっても関心がなく、家族がイエス様を信じなくても重荷を負わず「私には関係がない」という思いが強いです。
そのことを悔い改めなければなりません。

「ただ他人に迷惑をかけなければ良い」ということではないです。
福音は迷惑をかけても良いものです。「あなたの魂が救われて欲しいんだ。」という熱い想いなのです。


私たちの周りはほとんどの人たちが未信者だと思います。
時々その人たちに みことばカードを使って「お元気ですか?」と手紙を書いたら良いと思います。
その人たちに関心を持って、関係を結んでいくと良いです。みことばカードの言葉が種になって蒔かれていきます。

神様は私たちにそれをして欲しいと願っているのです。他人に関心を持って欲しいのです。
自分たちだけが救われて天国へ来るのではなく 「働きをしなさい。」と主が教えておられます。


私たちが宣教をする時には どのような心を持っていなければならないでしょうか?

私たちはクリスチャンの目で見なければならないです。今、ものすごく悪い勢力が働いています。
それは、日本・韓国・中国を仲悪くさせようとする力が 以前よりも強くなっていることを私たちは見ています。

ネット上でも過激な言葉や非難的な言葉がとても多いです。
過激な言葉を使って本を出版すると人々が買います。これは金儲けで自分たちの利益のために働いています。国のことは関係がないのです。

私たちはそのようなものに翻弄されてはいけないです。

「政治が悪い、国が悪い、国民性が悪い」と言いますが、どこの国でも皆、自分たちの国の方が大事なのです。
ですから色々なことがありますが、クリスチャンがそのような目で見ていたら本当の姿が見えてこないです。


クリスチャンは神の目でこの時代を見ることであります。

「サタンが働いて分裂を起こしているのだ。国々に敵対心を生んでいるのだ。」と、私たちは絶対に悪いものに乗ってはいけないです。

「今は収穫の時である。これが終わりの時のしるしであるのだ」ということを 私たちは知らなければならないです。


【マタイの福音書9章35-38節】

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。

また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。

だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

私たちが人々を見るときに、どのような思いで見るのかマタイの福音書9章36節に書かれています。

私たちの周りにいる群衆を見た時に、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れているので「可哀想だ」という思いで見ることです。
そしてその人たちに、水1杯を与えるのです。その水1杯とは神様の言葉であるのです。


弱り果てている人に力を与えるのは みことば しかないです。

まずは自分が働き手として働き、それでもまだまだ福音を聞いていない人が多いので働き手を送ってくださいと祈らなければなりません。


【ヨハネの福音書4章35-38節】

あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。 目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。

すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに 入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。

こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、 ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。

わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを 刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」

もう色づいているので「まだまだ」だという思いを捨てなさいと教えておられます。
私たちが福音を伝える時の言い訳の1つが「あの人はこうだから、多分 福音を聞かないでしょう。あの人は他の宗教を信じています。 あの人は心が頑なです。」とか先に言い訳をして「だから無理です。今ではないです。」と言います。

イエス様は「あなたが出て行って刈り取る時なのだ」と言っておられます。


私たちが種を蒔いてもビクともしない人がいるかも知れません。
しかし、長い時間が経って別の者がその人のところへ行き 福音を伝えた時に受け入れることがあります。

私たちは自分が蒔いて、自分で必ず刈り取らなければならないということではないです。

今すぐ刈り取ることはできなくても失望せずに、神様は種を蒔きなさいとおっしゃいます。
いつかあなたが流した労苦が必ず実を結ぶことを教えています。


【Ⅱテモテ4章2節】

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

みことばを伝える時は 色々な戦いがあります。拒否する人たちも出て来るのです。
ですから教える時も、責める時も、戒める時も、勧める時も「みことば」を使うのです。そこでは自分たちの言葉はいらないです。
神様の言葉を教えてあげることであります。

神様の言葉には力がありますので、きっとその人たちの心を刺し、悔い改めや立ち返りに導かれるでしょう。


私たちはしっかりと神様の使命を悟り、みことばを宣べ伝えていきましょう。

箴言には知恵の言葉が書かれています。私たちが人間的な言葉ばかり伝えると、人と会話をしても相手の心に残ることがないです。
しかし、私たちの言葉の中に 神様の言葉がたくさん散りばめられていると、その人の魂にぶつかっていきます。


日々、私はこの国に遣わされている宣教師だと思いながらやってください。
これからは伝道を常に心掛け、宣教に力を入れましょう。 ( ̄‥ ̄)=3

2014.2.16
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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