からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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神を恐れる

今日は何をもって主の前に出ますか

テーマは 『  今日は何をもって主の前に出ますか 』 です

ハレルヤ。

主の平安と守りがありますように。


【ミカ書6章6-7節】

私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。

主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。

この言葉を聞いて、皆さんはどのような印象を受けましたか?

自分の姿と重なりますか。
それとも、まったく違う姿ですか?


神を神とも思わず、尊敬もせず、恐れることもしない人からは思い浮かぶことすらない言葉だと思います。

神を軽く考え、神を必要な時だけ利用する人からは、こういうことばは死んでも口から出ないと思います。


今日の聖書の言葉は、“神に受け入れられるためには、どうしたらよいか” を真剣に考えている言葉です。


皆さんは、このように真剣に考えたことがありますか?

礼拝に出る時に、「今日は何をもって主の前に出ようか」と考えていますか?


それとも、「何で礼拝がこんなに早く来るのか ( =1週間が経つのか ) 」 と
嫌な思いになりますか?

そして行かなくても良い理由はないかなと考えたりしますか?


人の思いは主が見ておられます。


【エレミヤ書17章9-10節】

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。

と、はっきりと主が語りましたので、私たちが主に対して持っている思いで、良い物か悪い物かを受けるようになります。


ヒゼキヤ王が、主から死ぬことを宣告された時に、彼は大声で泣きながら主に祈りました。

「ああ、主よ。どうか思い出してください。
私がまことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたが良いとみられることを行ってきたことを」


普段から主が喜ぶ生き方をする人は、苦難の時に強いです。

神に祈ります。

そして主は、その人の祈りに耳を傾けます。


ヒゼキヤの祈りに、主は15年もいのちを延ばしました。


主を本当に恐れる人は、自分よりも神の命令、みこころを優先にします。


1人息子を全焼のいけにえとして主にささげなさいと神から命令を受けたアブラハムは、その通りささげました。

殺す寸前に神は、彼が神を恐れていることを確かめて中止させました。


神に受け入れられるために何をしたら良いかを考えている姿を見て、主が答えてくださいました。


【ミカ書6章8節】

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

この言葉は、いま私たちに本当に必要なことばだと思います。


よく見えるところに書いて貼っておいて、日々それを実行するように努力してみてください。

神はその人を喜んで受け入れてくださいます。
(・∀・)


2016.10.27
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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幸いな人とわざわいに陥る人

テーマは 『 幸いな人とわざわいに陥る人 』 です


【箴言28章14節】

幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。

人間にとって一番の願望は、幸せになることです。

また人間が一番恐れているのは、わざわいに陥ることです。


箴言28章14節には “幸せになれる人と、わざわいに陥る人” のことが書かれています。


今回は幸いな人とわざわいに陥る人に対して語ります。

決して難しい内容ではないので、聞く耳をもって聞いて下さい。




幸いな人はいつも神を恐れる人です




“恐れる” ことは神様を恐がることでしょうか?
そういう意味ではないです。

色々な意味がありますが、一番の意味は 真実な心と愛をもって神に仕えることです。


神は心を見抜くお方ですから、私たちが偽りの心で神に仕えても 全てお見通しです。

そして、私たちのそのような心と態度を忌み嫌います。


しかし神を信じる人が皆、神を恐れているでしょうか?


恐れる人よりは、恐れない人の方が圧倒的に多いです。


まずは神に対する真実な心があまりないです。

自分の都合によって神に近づいたり、距離を置いたり、離れたりといつも変わります。


その心や愛が本物には見えず、偽りが多いです。


皆さんの心はどうでしょうか?

何があっても神を愛する心に変わりはないですか?


イエス様のことを三度も知らないと言ったペテロに対して 主が質問したのは1つでした。


「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と三度も聞きました。

自分のいのちが危なくなった時に、ペテロはイエス様を捨てて、「知らない」と言いました。


ペテロ本人はイエス様のことを他の誰よりも愛していると思っていましたが、実際その愛は 真実な愛ではありませんでした。


真実な愛は愛する相手と一緒に重荷を負い、死の道も一緒に歩みます。


私たちが神の愛を確認したのもイエス様の十字架でした。

神はその愛を、イエス・キリストを私たちのために十字架の上で死なせたことで見せました。



【ローマ5章7-8節】

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

愛にはこのように はっきりとした証拠が要求されます。

言葉だけの愛は真実な愛ではありません。


神を恐れている人には 真実な愛があるので、何があっても変わらない愛をもって忠実な態度で神に仕えます。


また神を恐れることばの違う意味は、神に従順することです。


従順のない礼拝に何の意味があるでしょうか。

従順のない信仰は偽善の信仰です。


神は偽善の信仰を一番嫌います。


神が私たちをどれほど愛しているかを私たちが知っていながら、その神に従順しないならば、私たちが 「神を愛する」 と告白しても、そのことばは偽善的なことばにしか聞こえません。

愛には従順が必須です。


ですから神は “わたしを愛する者は わたしのことばを守りなさい” と言われました。




神をどのように恐れるのか




神を恐れることは、生まれながらの人間には出来ません。

必ず神様の教えを学ばなければならないです。


神を恐れたことのない人間が、信じてすぐに変わるわけではないです。


神がモーセを通して律法を与えた理由は何でしょうか。


【申命記4章10節】

あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」

私たちが神を恐れ、神からの祝福を受けるためには、神のもとに来て学ばなければならないです。


ですから “神に仕える” と言いながら、神の言葉を聞くことを嫌がる人は 神に愛される資格がありません。


神はホセア預言者を通しても語りました。



【ホセア書6章6節】

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

ですので、ホセアは「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」と民に語りかけました。


どのようにして神を恐れるのかを 神から聞かないとその方法がわかりません。


主のことばを学ばず、興味も持たない人は神を恐れることを知らないので、神を恐れることもしないですし、神の愛も祝福も受けることが出来ません。




神を恐れる人が受ける祝福は何か




神を恐れる人は幸いであると初めから言いましたが、どのような祝福があるでしょうか。

神は蒔いた通りに刈り取る法則を作っておられます。


私たちが祝福を受ける目的で 神に仕えることをしなくても、神は初めから祝福を備えておられます。

祝福の約束が聖書に書かれています。


【箴言22章4節】

謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。

この祝福は、この世で生きている間に受ける様々な祝福を意味します。


誉れは 他の人から尊敬される位置にまで上がって神に栄光を現します。

そして最も優れた祝福はいのちです。


いのちとは救いを意味し、永遠のいのちを意味します。


神を恐れる人に 神はこのような祝福を約束し、神の御国を相続させて下さいます。

そして神を恐れる人たちの祈りを神は喜んで聞いて下さいます。


神を恐れず自分勝手に生きて困った時だけ神に助けを求める人と、いつも神を恐れている人が神に求めた時に どちらの人が より祈りの答えを得ると思いますか。

断然、神を恐れる人の祈りです。


神は喜んでその人たちを助け、祝福を与えてくださいます。




心をかたくなにする人が陥るわざわい




かたくなな心に対しての聖書のことばは結構厳しいです。


“かたくなな心” とは、その心が石のように硬くて 神の恵みを受け入れることが出来ない状態です。


恵み深い神様はすべての人に恵みを注ごうとしますが、かたくなな心の持ち主はそれをかたく拒みます。


心を閉ざすので、神の恵みを受けることも出来ないですし、実を結ぶことも出来ません。

金槌のような主のことばで叩いても何とも思いませんし、聖霊の強力な火のようなことばを聞いても何も感じません。


聖書ではこのような人を愚か者と言います。


本人たちは自分を賢い人、慎重な人と思うかも知れませんが、神の目には愚か者に過ぎません。


その心は道ばたのような心です。

なぜ人の心がそこまでかたくなになるのでしょうか?
それは “罪” によるものです。



【ヘブル3章13節】

「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

このように言われたように罪の誘惑を受けると 心がかたくなになり、罪に落ちていきます。


私たちは毎日襲ってくる罪の誘惑を信仰によって勝たなければなりません。

私たちを誘惑する最大の敵は 外にあるのではなく、自分の中にあります。


自分の中にある罪の性質がいつも自分自身に戦いを挑みます。


パウロはこの激しい戦いのことで次のように語りました。



【ローマ7章19-20節】

私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。

もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。


【ローマ7章24節】

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。


このように自分の中に激しい戦いがあることを語りました。


外からの誘惑、内からの誘惑に勝たないと ますます心は罪によってかたくなになっていきます。

この世の誘惑に負けると、この世のあらゆるものに心が縛られて、心が石のように堅くなり、なかなか癒されません。


心のかたくなな人が災いに陥る根本的な理由は、神のことばを聞こうともせず、そのことば通りに生きることをしないからです。

そのような人は神のことばを聞くことすら嫌がり、耳を塞いで 「聞きたくないから話すな」 と言います。


皆さんの中で 神のことばを聞きたくないと思っている人がいるならば、その人は自分の心がかたくなになっていることに気付かなければなりません。そして早く悔い改めることです。


心がかたくなになることは なぜ恐ろしいことなのでしょうか。


なぜ災いに陥りますか?


神様は心のかたくなな者に対して干渉せず、好き勝手に生きるように放置します。

するとその人の状態はどのようになるでしょうか。次の箇所です。



【ローマ1章24-32節】

それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、

同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。


“死罪に当たる” ということばがあるように、最後は永遠の死を迎えるようになります。


自分の好き勝手に出来ることを喜び、地上で何も起こらないからと安心していても、永遠に消えることがない苦痛が待っています。


その人たちは自分自身でわざわいを招いていることに気付かなければなりません。

神を恐れることが祝福への道です。


皆さん全員が神を恐れ、幸いな人生になってほしいです。
(*´∇`*)

2015.9.20
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神なしの人生と、神にある人生

※本日は教会イベントの為、礼拝はショートメッセージでしたので、
13日に行われた「水曜礼拝・聖書の学び」を載せました。


テーマは 『 神なしの人生と、神にある人生 』 です

【伝道者の書1章2-3節】

空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。

伝道者の書を開くと いきなりこの言葉が出てくるので、多くの人は戸惑うと思います。
この書は人生のむなしさを語る書だと思う人が多いでしょう。

まるで虚無主義者が書いたもののように見えますし、哲学書にも見えると思います。


しかし「伝道者の書」は、“人間がどのように真の幸せを追求できるか”がテーマです。

そして神なしの人生が いかにむなしいかを語っています。

生と死を真剣に考える人ならば、この伝道者の書で悟りを得ることが出来ます。


今回は「神なしの人生と神にある人生」の差が いかに大きいかを比較しながら恵みを受けたいと思います。




労苦に対して





【伝道者の書1章3節】

日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。


【伝道者の書2章18節】

私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。

“日の下”という用語は 物理的な空間の意味ではなく、神様は天に、人間は地上に住むという考えから出た表現です。

神様との関係が断絶され、罪によって汚れた地上で、短い人生を送りながら労苦しても、すべてむなしいということです。

地上のものに目標を定めて汗を流し 労苦をしても、永遠にそれが続くわけではありません。


しかし神様との関係が回復し、神様の中で生きる人たちは何が違うのでしょうか。


【ピリピ1章6節】

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

主にあるすべての労苦に対して、主は良い実が結ばれるように助けて下さるだけではなく、さらに良い実に対して報いも与えて下さいます。

神の国においても、素晴らしい報いを受けます。



【第1コリント15章58節】

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。


労苦した聖徒には「義の冠、いのちの冠、栄光の冠」などが用意されています。




新しいものに対して





【伝道者の書1章9節】

昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。

むなしく無意味で、満足のない人生を根本的に変える 新しいものはないことを語っています。

ある人たちは色々な最新のものを見せながら、「これは新しいものではないか」と反論しますが、多くのものは既にあったものを新しく発展させて作ったものです。


しかし主にある者はこのように変わります。


【第2コリント5章17節】

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

神との関係、自分の所属、身分、行き先、死からいのちへと、何もかもが新しくなりました。

自分の力ではなく、神様の一方的な恵みによって新しくされ、それまでなかった祝福を受けるようになります。


神は創造主で、今も創造の働きをしておられます。




死に対して





【伝道者の書6章12節】

だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを。


【伝道者の書9章3節】

同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行われるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。

日の下にいる人間は死ぬしかない存在です。

罪を犯した人間が、避けることが出来ない1つの定めは「死」です。
そして死後の「裁き」です。


【ヘブル9章27節】

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように。

たとえ人間が、神の摂理に従順することを拒みながら生きていたとしても、死の摂理に対しては従順するしかない弱い存在であること、そして神に頼らない人生は、まるで実態のない影のように むなしく去って行くということを伝えています。


しかし神にある者には素晴らしい約束があります。


【ヨハネの福音書3章16節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

キリストを信じる者の肉体も 地上では死を迎えますが、(キリストにあって)罪赦された人は裁きにあわず、永遠のいのちを受けて生きるようになります。


【ヨハネの黙示録20章12-15節】

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。

海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。

それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

この時、自分の不信仰をいくら嘆いても、時遅しです。

今も多くの人々が自分の力や財産、知識、偶像に頼りながら生活をしています。


ある人は、真の神に頼って生きる者を弱い者だと言ってバカにしたりしますが、いつか神の前に立った時には 誰が知恵ある者で、誰が愚か者であるのかが明確にされます。




快楽について





【伝道者の書8章15節】

私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。

この言葉は、快楽を勧めているのではないです。


日の下で行なわれる様々なことや矛盾に対して、私たちは全て理解しているわけではありません。

その中で失望したり、諦めるのではなく、神様が与えて下さった人生を 意味ある人生にすること、そして楽しく生きることも必要です。


ただ肉体の快楽というよりも、労苦に対する喜びを味わうことです。

ですが、その快楽も一時的なものです。


しかし主にある者には違う喜びがあります。


【ピリピ2章13節】

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

これは主の外にいる人には説明しても分からないと思います。


しかし主にある人は、快楽に勝る喜びを 主の働きの中で感じることができます。
私自身もその快楽に勝る喜びを主にあって発見することが出来ました。




悟りに対して





【伝道者の書8章17節】

すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。

神様から特別な知恵を授かったソロモンでさえ、神のみわざを全て知ることは出来ないと告白しました。


いくら人間に知恵があっても、人間として超えることが出来ない限界があることを ここでもはっきりと伝えています。

これが主にあってはどのように変わるでしょうか。


【第1コリント13章12節】

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

預言や啓示によって 今も主にある人々には、主を知らない人々よりも多くの部分で悟りが与えられていますが、いつか私たちが完全に悟る日が来ることがとても楽しみです。




人間としては予測不可能な時と機会に対して





【伝道者の書9章11-12節】

私は再び、日の下を見たが、競争は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。

しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、わなにかかった鳥のように、人の子らもまた、わざわいの時が突然彼らを襲うと、それにかかってしまう。

日の下で行われる全てのことが、人間の常識の中の理解できる範囲で論理的に行われることはありません。


優勝は間違いないと思われていた選手が脱落し、意外な選手が優勝することもよくあることですし、才能や能力があると必ず成功するとも限らないです。

その人たちが失敗する姿を見ることによって、人生の成功や失敗は その人自身の能力や人格、才能や努力だけで決まるのではなく、人間の判断を超えた神の主権が働いているので、人間は主権者である神を恐れなければなりません。

災いや災害は、どんなに科学が進んでいても、いつどこで何が起こるか人間には分かりません。


不確実な現実の前で、人間はむなしさを感じますが、その中で、謙遜な心を持って自分の人生が主の主権の下にあることを認めて生きなければならないことを教えています。


神が人間に対して絶対的主権者であることを教える言葉があります。


【第1コリント1章26-29節】

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。



老年を迎えた時に




世俗的な価値観を持っている人は、神のさばきがあるとは思っていないので、老年になってもそれに対して何の準備をすることもなく、ただ自分の価値観によって自分の人生の決算をするだけです。

幸せであったのか、不幸であったのか――。


しかし神のさばきは、昔も今も変わらない神様の主権によって行われます。
それに対して伝道者の書12章では警告を与えています。


人生は 長く生きることやスピードではなく、方向が大切です。
自分の思うままに生きたり、すべてを手に入れて満足しても、その方向が間違っているならば、すべてはむなしく終わってしまいます。


【伝道者の書12章1節】

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

そして神を恐れることと 神の命令を守ることを勧めました。


【伝道者の書12章13-14節】

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

神は善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。

「伝道者の書」の結論は、虚無主義でも運命論でもなく、神を知らない人生、神のいない人生がどんなにむなしく無益であるかを教えています。


神なしの知恵、労苦、人生の目的、成功、欲望、名声、権力、富などは何になるでしょうか。
結論はすべてがむなしいです。


特に老年に必要な知恵は 神を恐れ、神の命令を守ることです。

神様の前に立つ日が近いからです。


伝道者の書は、ソロモン王が老年になって人生を振り返りながら悟ったことを教えています。

すべてのものを手に入れ、あらゆるものを楽しんだ者が語ることばでありますので、受ける教訓があります。
Σ(・ω・ノ)ノ

2015.5.13
水曜礼拝メッセージ

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信仰の遺産について

テーマは 『 信仰の遺産について 』 です

【Ⅱテモテ1章5節】

「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」

今日は母の日ですね。
昨日は花屋さんで花を買う人がとても多かったです。

母の日によくプレゼントするカーネーションもたくさん売っていました。この前は子供の日もありました。
4月末から5月にかけてはゴールデンウィークもありましたので 家族と共に過した時間が普段よりは多かったと思います。

今日は その意味で、家族・家庭のことを考えてみようと思います。


多くの親たちは自分の子供を愛するから 良い環境を与えようとしますし、自分は苦労しても子供には苦労させたくないと思いますし、 自分が貧しい者であるならば子供は豊かな者になってほしいと思います。

また子供には財産を残してあげたいと とにかく子供には良くしてあげたい思いがあります。
それらの遺産を残すと子供の生活は楽になると思いますが、子供のたましいには何の役にも立ちません。

なぜならばそれらのものはすべて消え去っていくものであり、
それらのものをあの世には持っていけませんし、魂を救い出すものでもないからです。


しかし 永遠に消えることもなく、子供の魂にも有益な遺産があります。
それは信仰の遺産です。信仰の遺産ほど価値ある遺産はありません。


今日の本文では信仰の遺産を立派に受け継いだ一つの家庭を見ることが出来ます。テモテの家庭です。

テモテは使徒パウロがとても愛した弟子でした。パウロはテモテをそれ以上に考えていました。
テモテのことを「信仰による真実のわが子テモテ」と呼びました。

テモテはパウロが最初から主に導いたのではありません。出会った時にテモテはすでに信仰を持っていました。


テモテの中には純粋な素晴らしい信仰がありましたが、この信仰は敬虔な家庭の中で彼が育てられたから、テモテは信仰を遺産として受け継ぐことができました。

祖母ロイスと母ユニケも純粋な信仰もっていました。素晴らしい信仰の家庭です。
信仰を遺産として子孫に残すために信仰の家庭が持つべき要素があります。


私たちも自分たちの家庭のことを考えてみらた良いと思います。テモテの家庭と自分の家庭を比べるのです。

信仰のない家庭で生まれた人もいますし、信仰がある家庭で生まれた人もいます。
その中で自分たちは何を受け継いでいるでしょうか。すごく親の責任があります。子供の責任ではないです。

信仰の家庭を築くのは親の責任です。
信仰を遺産として子供に残すために信仰の家庭はどうあるべきであるのかを考えていきたいと思います。




1.神を恐れることをすべての基本にする



神を恐れることは信仰の核心であり、基本であります。
神様は教会のかしらだけではなく、家庭の中でもかしらであります。

ですから夫がかしらになってもいけませんし、妻がかしらでもいけません。子供がかしらになってもいけないです。
自分の家庭の中で一番偉いのは神様であります。

信仰の先祖アブラハムが家庭の中で見せた姿も 神を恐れている姿でした。
親は子の前で神を恐れている姿を見せないと 子供は神を恐れる信仰を持たないです。


子供は親を見て育ちます。親がいつも神様を恐れる姿を見せるならば、自然と子供もそれを見て学びます。

しかし親が信仰を持っても神様を恐れる姿がないなら 子供は学ぶことができないです。

次の箇所にはコルネリオの家庭が出て来ます。


【使徒の働き10章2節】

彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが

家庭の中で神を恐れている姿をいつも見せていますか。子供は親を見て育ちます。

神様の権威に従うことが恐れることであり、神様を第一にして神を恐れる信仰を親が見せるならば、その家庭は神様が支配する家庭になります。
神を恐れる姿を見せるならば、自然と神様をまだ信じていない者までも「神様をけなしてはいけない。神様に逆らってはいけない。」と学ぶようになります。


次の箇所は、私たちが神様を恐れるならば素晴らしい祝福が与えられるという主の約束です。


【詩篇128編1-4節】

幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。

あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。

あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。

見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。

信仰の行動を通して祝福が流れてくるのです。




2.神のみことばに頼りながらみことばを実行し、 子供に小さい時から信仰教育をしなければならない



親が自分の価値観で子供にああだこうだと教育をするのが一番良くないです。
自分の価値観がすべて正しいわけではないです。


神を信じる家庭は自分の思いのまま家庭生活をするのではなく、みことばに従って生活しないといけないです。

子供は別の人格を持っている者として与えられています。子供は神様のものなのです。

親は(神様から)任されて育てるだけであります。決して自分の分身ではないです。


【箴言22章6節】

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。

みことばによる信仰の教育です。みことばは真理ですので変わることがないです。

信仰の遺産を残すためには、みことばの教育が必要です。


【申命記6章6-9節】

私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。 あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。

これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、 記章として額の上に置きなさい。

これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

親がまず神様の言葉に従わなければならないです。「心に刻みなさい。」ということは、みことばがその人の価値観になることです。

家庭の中がみことば中心になる時に信仰を遺産として受け継がせることができます。


【エペソ6章4節】

父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

親が子供に自分の価値観を押し付けながらそれを教育と勘違いしてはいけません。
親が押し付けるので子供が怒ります。「自分がすべて正しくて、子供が間違えている」ではないです。完璧な人間は1人もいないです。

しかし、神様のみことばはすべて正しいです。主の教育と訓戒によって育てなさいと主は語ってくださいました。
それによって子供が学んで信仰の人として育つことができます。
自分の思いのまま、自分の価値観をおしつけたら子供は反発するだけです。


主の言葉であるなら、子供は反発できないのです。反発するということは、神様に反発することになるからです。
しかしなぜ子供たちが親に反発するのかというと、親が一方的に自分たちの思いのままにするからであります。
子供は何も言わなくても、心の中には反発心がどんどん大きくなっていきます。これは本当に気を付けなければいけないです。




3.親の献身的な犠牲が必要



一人の子供がどんな人格を所有するかは、その親の人格と信仰教育にかかっています。
怠けた親が子供に向かって「勤勉な者になりなさい」と言うのは正しいことではないです。子供は聞いた瞬間「自分はしないくせに…」と思います。

嘘つきの親が 子供に「嘘を言うな」と言うのも 子供から見ると受け入れがたいものです。


まずは親が 肉のものを打ち叩いて殺しながら、親が嘘をつかないことが(子供への)教育になります。

神様は私たちに、子供に本気で信仰の遺産を残したいならば、親は模範的な信仰生活をしなければならないと語りました。


模範的な信仰生活をするためには、私たちは自分を打ち叩いて犠牲を払わなければならないです。
子供のために祈りの犠牲も必要です。

口うるさく言うのではなく、子供のために祈ることが大切であります。

もっとも親の献身的な犠牲は家族への無条件の愛です。


信仰の基本の中で一番最初に要求されるのは愛です。
家族を愛することです。惜しまずに愛することです。

愛を子供に注がないと、子供の人格は歪んだものになります。
家庭環境がすごく悪いと、子供の人格は真っ直ぐに育たないです。
押さえつけられて悪い物をたくさん見せられていると、人格を花咲かせることは出来ないです。


そうすると子供に恐怖心が出て来て「私は愛されていないんだ。」という思いが出てきたら一番 致命的であります。






テレビである芸能人の女の子の告白を聞きました。

一度も母親から愛された記憶がありませんとはっきり言われました。
常に怒られ、けなされ、また叩かれました。

可愛いと言われたこともなく醜い醜いといつも言われました。実際はとても可愛い子でした。

心に深い傷を負い、自殺未遂までして病院に運ばれました。母親はお見舞いに来るかと思いましたが一度も来ませんでした。

世の中で一番の虐待は「愛さないこと」です。 愛さなければならない者に 愛を与えないのは、これほどひどい虐待はないです。それで子供は深い傷を負うことになります。

その子供の人格は傷物になります。それは子供のせいではないです。


愛がなければ どんなしつけでも子供にとっては虐待以外なにものでもないです。
心に深い傷を与え、人格を踏みにじっているので虐待です。

たとえ しつけのために子供にムチを当ててても、それが愛のムチであるならば 子供にはちゃんと愛が伝わり 育ちます。


隣人を自分自身のように愛さず、自分だけを愛するのはサタンの心であります。
サタンは自分だけのために周りをすべて殺します。すべて自分のものにして与えることをしません。

愛は自分が犠牲を払い、愛は自分で我慢し、愛は自分から手を差し伸べることであります。
愛は自分の体を捧げて、相手の益のために働きます。


子供を育てる時も、子供を利用して自己満足のためにするなら、それは子供を愛する姿ではなく 親が自分を愛する姿であります。それでは信仰の遺産を残すことが出来ないです。




4.子供を主の手に任せることが大切



親だからと言って、全部責任を持って育てることはあり得ないことです。
神様は私たちを助けてくださる方であり、両親は「肉」の親ですが、神様は「霊」の親であります。

ハンナがサムエルを神の聖所につれて行き、祭司であるエリに任せました。
神に立てた誓願があるからそうしましたが、全能なる神の手に任せることを恐れませんでした。


親が子供を神様に任せず、自分の知識や経験で養育するならば子育てに失敗しやすいです。
また決して信仰の遺産を残すことはできません。

親が口うるさく言って子供を変えることができるでしょうか?
子供は心の中で「うるさい。聞きたくない。」と反発心と憎しみと敵対心が出てきます。つまり逆効果です。
しかし神に子供を委ねて祈り求めるならば、神はその祈りを聞いて下さいます。


聖書注解書を書いたスコルフィルド博士は、母親が毎日、彼のために祈りましたがキリストを信じませんでした。

しかし、亡くなる直前に対面をし 母親はスコルフィルドのために最後の祈りをしました。
決して口うるさく言ったのではなく、“スコルフィルドが神に仕える者になりますように。”と一言祈ってから亡くなりました。 スコルフィルドは、その母親の祈りによって神様を信じ、彼は変えられました。

お母さんの信仰の遺産を受け継ぎました。
神様によく仕えるクリスチャンになりました。


私たちは、家にいる時の姿が「本当の姿」であります。

他人の前では仮面をかぶることが出来るのです。少しの時間ならば良い言葉を使えますが、家族には隠すことが出来ません。

家族からの評価が 私たちに対する一番正しい評価です。
もし「それでもクリスチャンか」と言われたなら クリスチャン失格であります。
自分の行動はクリスチャンらしくないということに気付き、それを言われた私たちは恥ずかしい思いで変わらなければいけないです。

子供には純粋な信仰を残さなければならないです。

間違えた信仰を見せたら、子供たちは教会から離れていきます。


今、もう一度私たちは自分の信仰をよく見てみましょう。
子供に遺産として残せる純粋な信仰なのか?
それとも、私のようなクリスチャンにはなってほしくないなと思える信仰なのか。

純粋な信仰は、偽りのない信仰、疑いのない信仰です。神様が喜ぶ信仰です。


聖書には悪い信仰の姿もたくさん出てきます。
それを子供に残したら もう1人の悪いクリスチャンを生み出すのです。

子供のためにも、家族のためにも、私たち先に救われた者たちは 必ずそれを家族にも遺産として信仰を残していくことであります。

家族から「その信仰が欲しい」と思われるようにしなければいけないです。
「嫌だ。あんなものは受け取りたくない」というものは、私たちの失敗であります。


信仰の遺産は残しても価値がありますし、その遺産を相続した子孫や家族は魂が祝福されます。

その信仰の遺産を残した人に心から感謝するでしょう。
財産であるならば欲深い兄弟の間に醜い争いが起こります。財産を残しても放蕩に走ることが多いです。


信仰の遺産には、そんなに醜い争いは絶対に起こりません。取られる心配もありません。

(信仰の遺産を)受けた者にとったら最高の祝福です。
この最高の祝福を家族に残しましょう。
(^∀^)

2014.5.11
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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