からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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祈り

感謝と奇跡

テーマは 『 感謝と奇跡 』 です

【ヨハネの福音書6章1-13節】

その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。

大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。

イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。

さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。

イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。

もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。

ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。

「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。

そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。

そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」

彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。

みなさんは毎日祈っていますか?


祈っているならば 願いのための祈りが多いですか?

それとも、感謝するための祈りが多いですか?



神様は願いも感謝も聞いておられます。


しかし神様を最も喜ばせるのは “感謝” です。


感謝する時に、さらに強い恵みの雨が天から降ってきます。



そして、感謝の中でも さらに神が喜ぶ感謝があります。

試練の中での感謝と、小さいことに大きな感謝をささげる時に神様はとても喜びます。



いつも感謝している人を見ると、霊的にも精神的にも安定しています。

顔も笑顔です。

口から絶えず感謝のことばが出てきます。


感謝のない人を見るといつも不機嫌な顔、不満げな顔、そして文句を言います。

そこから嫌なものが流れてきます。



今年も既に2ヵ月が過ぎましたが、どれくらい感謝しましたか?


“神の恵みなしには生きていけないな” と思う出来事も色々ありました。

そういうものがあるからこそ、受けている恵みに対して感謝が出てきます。


自分がいま存在していることを神様の恵みだと思っていますか?

自分の足で歩いて来られたことを感謝しましたか?



ある大学2年生の男の人が、交通事故で脊髄を痛めて首から下がマヒしました。

動けなくなりましたが、口に棒をくわえながらパソコンで文字を入力して 友達にメールを送ります。


今は それしか出来ないです。人生が一瞬にして変わりました。

とてもかわいそうでした。


2度も交通事故にあった私から見ると、いま生きているのは すばらしい神の恵みです。

いつもそのことを思っています。






今日のテーマは、“感謝と奇跡“ の話ですが、本文には感謝と奇跡があります。


主は五つのパンと二匹の魚で、男だけで5千人、そして女と子どもを合わせると二万人くらいの人たちに食べさせました。

まさに奇跡です。


その奇跡を起こす “前” のことを 見ていきたいと思います。


主は、父なる神にまず感謝をささげました。

奇跡が起きてからの感謝ではなく、“最初から” 感謝しました。


そして感謝して分け与えた時に、みんなが食べられる分のパンと魚になりました。


主は自分の力を見せびらかすために奇跡を行ったのではないです。



この奇跡は群衆に対する ある思いから始まりました。

本文には出ていないですが、別の福音書には 次のようにあります。


【マルコの福音書6章34節】

イエスは、船から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。

彼らの魂を憐れみ、まずは霊のパンを与えました。


それから次の箇所です。


【マタイの福音書15章32節】

イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」

食べ物もなく、肉体も弱ってきたことを見て、かわいそうに思い、奇跡を行って彼らを食べさせたいと主は思いました。



聖書にある奇跡を見ると、主のあわれみによって、信仰によって、必要性に応じて奇跡が起きたことが分かります。


誰かに対して憐れみの心を持って祈る時に、その祈りが聞かれることを経験していると思います。


憐れみの心がある時に、私たちの祈りも真剣な祈りになります。


親は常に子どもに対して憐れみの心を持っています。

ですから 惜しむ心がないですし 真剣です。

夫婦でも互いに憐れむ心があると、喧嘩することもなく感謝し合います。


イエス様の奇跡は、とても小さいものから始まりました。



少年が持っていた大麦のパン五つと小さい魚二匹でした。

これは貧しい人たちが食べる食事です。


このみすぼらしい小さい食べ物が主の手に載せられた時に 二万人近い人が食べた “パンの奇跡” になりました。


どんなに小さいものでも、主の手によって大きく用いられることができます。



もちろん主は、無から有を創造することも出来る方です。


神様は大きなものよりは小さいものを用いることを喜びます。


自分には小さいものしかないし、才能もないし、力もないと嘆く必要はないです。

私たちが小さいものを差し出す時に、主は喜びます。


小さいことに感謝出来ず、満足せず、大きなもの、多くのものを求める時が多いですが、私たちは小さいことに対して感謝が必要です。


小さいことも 主から与えられた “恵み” です。






マタイの福音書15章には カナン人の女性が出てきますが、彼女は小さい恵みに大きく感謝した人でした。


悪霊に取りつかれた娘の癒しを求めてイエス様の所に来て懇願しました。

しかしその時の主のことばは意外なものでした。


「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」


女の人はそれに対して、
「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」


彼女は食卓から落ちて来るパンくずの恵みにも感謝出来る人でした。

その感謝によって奇跡が起こりました。


イエス様がパンくずの恵みではなく、その娘を悪霊から解放する奇跡を行いました。


彼女には 受ける前からすでに感謝の心がありました。

これはイエス様からもいつも見られる姿です。


パンの奇跡でも、まずパンを手に取って父なる神に感謝をささげました。

最後の晩餐の時にも、自分の体がむち打たれて死ぬことを知っていながら感謝をささげてパンを裂き、それを弟子たちに配りました。

これから起こる奇跡に感謝しました。



感謝を蒔くと、感謝なことが起こります。


受けてからの感謝も主は喜びますが、受ける前から感謝することは さらに喜びます。


そこには神の奇跡を信じる強い信仰が見られるからです。


これから みなさんもそのような感謝をしてみて下さい。

神様は小さいもの、みすぼらしいものを手に取って神に感謝をささげる人に奇跡を表します。


“不満” では奇跡は起こりません。

“感謝” では奇跡が起こります。


主の感謝でパンと魚に奇跡が起こり、人々は満腹しました。


その後に、主は弟子たちに「余ったものは一つもむだに捨てないように集めなさい。」と言われました。

なぜそうしたでしょうか?


神が私たちに恵みとして与えられたものを むだにしたり、勝手に捨てたりすることは神の恵みをさげすむ行為だからです。


それは神を無視し冒涜する姿です。


いつも “下さい、下さい” ばかり言うのではなく、与えられた恵みを大切に使うことが主の恵みを知っている人の姿です。


どんなに小さい恵みでもそうです。


神は感謝する聖徒を喜びますし、豊かな恵みと奇跡を与えて下さいます。


そして感謝する聖徒たちを サタンは倒すことが出来ません。


感謝は神と周波が合います。

しかし、不満はサタンと周波が合います。



サタンは、感謝する聖徒を誘惑して試みに会わせて倒すことが出来ないです。

すべてに対して感謝しているので隙間がないです。


神から受けた恵みを思い出してみて下さい。

そして心から感謝してみて下さい。


感謝する人の人生にこれから奇跡が起こります。
(・∀・)つ


2017.3.5
聖日礼拝メッセージ

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三つのことを目指す

テーマは 『 三つのことを目指す 』 です

【第1テサロニケ5章16-18節】
いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

新年をどんな年にしたいと願っていますか?


2017年に対して様々な予測や預言が言われてあります。


神からのものなのか、そうでないかは実際に起こるまでは判断できないです。

世界がどう変わるか、日本がどう変わるかは分りませんが、自分に関しては変わらないといけないので、そのことは真剣に考えないといけないです。

何よりもすでに神から言われた大切なことは、絶対に無視してはいけないと思います。


本文のことばは、どの時代にあっても私たちが目指すべき大切な神のことばです。

これを抜きに神のみこころを行うことは出来ません。


今回は「三つのことを目指す」という内容で伝えます。




いつも喜ぶことを目指す




なぜ 喜ぶことが大切で必要でしょうか?


「別に喜ばなくても良いでしょう。誰かに迷惑かけるわけでもなく、罪を犯しているわけでもないのに」と思っている人がいるかも知れません。

ですが、いつも喜ぶべき理由があります。


まずは喜びがどこから出て来るのかを考えてみましょう。


喜びは、頭や外部からではなく、心から出てきます。

聖霊を受けた人と受けていない人には違いがあります。
心の状態です。


【ヨハネの福音書7章38節】

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

このように書いてあるように、聖霊が心に内住します。

そして喜びは、“生ける水の川” から出てくるものです。


喜びは御霊によるものです。


喜びは御霊の九つの実にも入っています。

生ける水の川が流れる心は とても重要な場所なので、心を見守るように言われました。


【箴言4章23節】

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

心が守られると、そこから絶えず いのちの水が流れて、私たちの心は潤って当然そこから喜びも出てきます。

しかし、心が守られないと 泉は枯れて心はどんどん砂漠化していき、喜びが出なくなります。


心が荒れて疲れ果ててしまいます。

ですから喜びも消えていきます。


“いつも喜んでいなさい” と言われるのは、すなわち心の泉からいつも生ける水が流れる状態を保つためです。


いつも喜んでいる状態は、心が守られている状態です。

いのちの泉も守られている証拠です。

そして聖霊に満たされている状態です。


自分の心の状態を知る1つのしるしが、この “喜び” です。

もし喜びがないなら、胃カメラで胃を調べるように、自分の心を覗いてみて下さい。


聖霊は見えず、何か違うものがそこに詰まっていると思います。

心に “あってはならないもの” が入っていると思います。


喜びがないな と思った時は、すぐに心の状態を調べて下さい。


パウロが迫害され、むち打たれ、ピリピの牢獄の中にいながらも喜んでいたのは、どんな時にも自分の心を守り、聖霊に満たされていたからです。




絶えず祈ることを目指す




現代の信徒たちの特徴は、“祈らないこと” です。


忙しいから祈れないという人が多いです。

本当にそうでしょうか?


忙しいと言いながらも、自分がしたいことは全部しますね。

食べること、テレビを見ること、スマホをいじること、雑談、趣味生活、仕事などの場合は「忙しい」と言って、しないことはないですね。


しかし聖書を読んだり、祈ったりする時間だけは「ない」と言います。

ある意味、私たちは嘘つきです。


自分のためには時間を使っても、神様には時間を使いたくないです。

そうしながら神体験を願い、祝福や恵みを求めます。

そして信仰が強くなることを願います。


なぜ神様は「絶えず祈りなさい」と言われたでしょうか。

神を知るために、神体験するために “祈りは必須” です。


みなさんがメッセージを聞いたり、賛美をしただけで 神体験や神を知ることは難しいです。

神を知るためには、神の前に出る必要があります。


イエス様がどう祈るべきかを教えました。


【マタイの福音書6章6節】

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

神の前に出て、静まる時間が祈りの時間です。

それは神との対面の時間です。


神を知り、神体験が多い人たちは みんな祈りの人でした。

ダニエルは祈るために、わざわざ仕事の合間でも家に帰りました。


一日三度時間を決めて毎日神に祈りました。

神は彼に会って下さいました。


祈ったらいのちが取られることを知っていながらも、いつもと変わらない姿勢で祈るために家に帰りました。

その後にダニエルはすごい神体験をしました。


飢えた獅子の穴に投げ込まれても、えじきにされず 御使いたちによって守られました。


神を信じると言いながら 神への知識、神体験もないことは恥ずかしいことです。

それでは信仰も成長しません。

ですから神はそんな者にならないように “絶えず祈りなさい” と命じました。


祈って下さい。
そうすれば必ず神体験をします。




すべての事について感謝することを目指す




昨年の事を感謝で終えましたか?

感謝で終えた人は、感謝で新年を始めたと思います。


「すべての事について感謝しなさい」と言われると、「アーメン」と答えない人も多いです。


「色々あったから出来ない」という思いがありますね。

神は出来ないことを私たちに要求するのではありません。


「すべての事について感謝する」ことは、すべての事を感謝で解釈することです。


同じものを見ても、感謝する人と感謝しない人の “差” は何でしょうか?

思い出してみましょう。


モーセがカナンの地を探らせるために12人の斥候を送りました。

40日後に彼らは帰って来ました。

10人と2人の報告が正反対でした。


感謝の信仰があったヨシュアとカレブは、神の言葉通りの良い地であったので感謝しながら帰り、うれしい報告をしました。


しかし別の10人は、高い城壁、背の高い住民を見て 恐れが入って、その地をとても悪く言いふらし、自分たちを導いた主に不平不満を言いました。


主のことばで見ると、すべてが感謝ですが、主のことばを忘れ、人間的な目だけで見ると不安と恐れで、不信仰に陥って感謝の代わりにつぶやきが出てきます。


同じものを見てもどう解釈するかは人それぞれ違います。

ですから環境や人のせいで感謝出来ないと言うのは言い訳です。






私たちが住む世界には悪いことがたくさん起こっています。

自然災害、テロ、病気、内戦や戦争がいつの時代にもあります。

ですから自分たちが災難にあったとしても、おかしいことではないです。


特別に悪い人がそのような災難に遭うのではなく、誰にでも起こり得ることです。


ですから苦難を乗り越えていくために、気落ちせず、失望しないため、信仰を守るためには “感謝の解釈” が必要です。


不幸な時、辛い時に感謝が出来ないと、不幸と辛さに飲み込まれてしまいます。

感謝が出来ないと、つまずいて信仰を捨てる場合もあります。


神から離れることは、自分のいのちに関わることです。


どんな時でも感謝することを身に着けるための訓練としては、辛い目にあった時は、いつもイエス様のことを思い出して下さい。


人から侮辱されたり、迫害されたり、ひどい目にあった時は、イエス様がひどい目にあった時の場面を思い出して下さい。

すると慰められます。


自分とは比べられない試練を主は受けながらも感謝しました。

それを学ぶことです。


主がなさったようにするならば、どんな時でも感謝することができます。

主を見るならば我慢が出来、感謝も出来ます。


すべての事について感謝する姿勢は、成熟した信仰の姿勢です。

成熟しているので、その感謝によって多くの実を結ぶことが出来ます。


これらの三つのことは、キリスト・イエスにあって 神が私たちに望んでおられることです。


神の期待に応えますか?

これら三つのことを実行するならば 世界がどう変わるかは関係がなく、充実した一年、成長する一年、祝福される一年になります。


世界の主権者は神です。

神はみこころを行う人を特別扱いして下さいます。


神体験、奇跡、守り、祝福を与えます。
(´∀`*)

2017.1.2
新年礼拝メッセージ

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聖徒だけが持つ特権

テーマは 『 聖徒だけが持つ特権 』 です

【ヘブル4章16節】

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

“特権” とは特定の人、身分、階級に与えられている、他に優越した権利です。


特権を持つ人は良い待遇を受けることも多いです。

月に何度も飛行機に乗りますが、飛行機一つにしてもダイヤモンドカードを持っている人は優先的に乗れますし、荷物の制限もなく、ラウンジも自由に使えます。

もし自分が持っている特権を知らないならば、その権利を使うことも知らないので、もったいないです。


聖徒である皆さんは “聖徒だけが持つ特権” が何かを知っていますか?


聖徒が持つ 特権も義務も責任も知らないで信仰生活する人が実に多いです。

そして特権を使ってはいますが、それが特権と思わずに使っています。


今回は聖徒だけが持つ特権に対して学びます。




神の御座に近づける特権




これを特権と思わない人が多いですが、これは聖徒だけが持つ特権です。


たとえば安倍総理は日本の総理ですが、いつでも皆さんが会いたいと思う時に会えますか?

たぶん会うのは無理です。


認められる何かがある場合は別だと思いますが、それは簡単ではありません。

しかし安倍さんの子どもならば、家で自由に会うことが出来ますし、別のところでも許可をもらうのは難しくないですね。


神は世界で一人の神ですが、人間が会いたいと言って いつでも会えるでしょうか。
―― 会えないです。


しかし神に贖われて、神の子になると立場が変わります。


聖徒には、神がいつでも神の御座に近づくことが出来る特権を与えておられます。


“キリスト” によって神と和解させられ、神の子になったので、その特権を得ています。


【ヨハネの福音書14章6節】

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

聖徒は、“道” であるイエス様を信じる者なので、キリストも その人のことを知っていて、その道を通って父なる神の前に行ける許可を与えておられます。


「イエスの血で神の前に、イエスの血で父の前に一歩ずつ進む。」

このような賛美があるように、父なる神の前に行ける特権は イエス様によって与えられた素晴らしい特権です。


旧約時代は神の臨在がある聖所には、任命された祭司以外は誰も入ることが出来ませんでした。

しかし新約時代の聖徒たちは、神の臨在の中に入ることが出来ます。


死んだら もっと神は近くにおられます。



【ヨハネの黙示録4章4節】

また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。

聖徒にとって、神は 決して遠く離れて近づくことも出来ない神ではなく、いつでも近づくことが出来ます。




永遠のいのちがもらえる特権





【ヨハネの福音書3章36節】

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

“永遠のいのち” ほど価値あるものは 世には存在しません。


金持ちの青年が主の所に来て、永遠の命を得るためには何をしたら良いのかと イエス様に聞きました。

イエス様は、「財産を売って貧しい者に与えてから、私について来なさい」 と言われましたが、金持ちは財産を手放すことが出来ないので、そのまま帰り、2度と帰ってくることはありませんでした。


永遠のいのちは、主に従ってくる聖徒たちに与えられます。

永遠の命はあまりにも高価なので金で買えるようなものではなく、キリストを信じて神の子になった者が、特権として受けられものです。


永遠のいのちは “死とは無縁” です。

それを持っている人は聖徒だけです。


聖徒をやめたら、もはや永遠のいのちは自分のものにはなりません。




祈りが答えられる特権




聖徒の祈りに聞いて下さる方がおられます。

私たちの霊の父である “神様” です。


この世には自分を神と呼ぶ人間がいて、それを信じる者も多いです。


「統一教会」や「神の教会」という異端も、教祖が “人間” なのに、自分自身を神と呼び、それに従う者も(その人物のことを)神と信じています。

(その教祖は)2人とも死にましたが、未だに死人を神と思ってそこから離れません。


中身を見ると教祖が彼らの祈りを聞いて祝福したのではなく、人々が教祖の願いや要求を聞いて、自分たちのもので教祖を満たしていました。


サタンが目をくらませると、悟りがなく盲目的になるので、騙されて利用されるだけです。


人間を神と信じるのも、偶像の神を造って願いを叶えて下さい と祈るのも同じです。



【イザヤ書44章9-11節】

偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。

だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。

見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。

ですから、彼らが自分の神に祈っても それはむなしく恥を見るだけですが、聖徒たちの祈りは むなしくなることも、恥をかくこともありません。


聞いて答えて下さる神がおられるからです。

聖書には祈りの答えがいっぱいです。


神は喜んで聖徒たちの祈りを聞き、答えて下さいます。

祈らないと特権を使わないことですので損をします。




復活の特権





【第1コリント15章43-44節】

卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

復活は永遠のいのちの始まりです。

イエス・キリストがよみがえられたことで、この特権が聖徒にも与えられました。


私たちも、いつかキリストと同じ体になります。

時間や空間の制約、そして朽ちることもない体に復活するのは聖徒だけの特権です。


信じないものは永遠の死ですが、聖徒は永遠に死の支配を受けることがなく、キリストのように死の力を打ち破って復活します。


自分が死んで復活することは、今はどのようなものか想像も出来ませんが、その日には喜び踊る者になると思います。




天国に入る特権




天国は聖徒たちのために主が備えて下さった場所です。

聖徒以外の人は、入ることが許されない場所です。


そこは神がおられる場所で、神が聖徒と共に永遠に住む場所です。

死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない場所です。


信じない人は、どんなに入りたくても入ることが出来ません。


入りたいならば生きている時に、罪を悔い改めて、イエス様を 自分の救い主として心に迎え入れ、聖徒になれば入れます。

天国はお金があるから、良いことたくさんしたから、立派な人だから入れるのではなく、信仰で入る国です。


神を信じて、天国を信じて入る準備をした人が入る所です。

自分を聖徒と思っても、準備出来てない人は入れないです。


天国のたとえで使われた “10人の花嫁の姿” を思い出して下さい。

10人の花嫁は、花婿である主を待ち続けていました。


賢い5人の花嫁はいつ花婿である主が来られても迎えられるように、ともしびと油の備えをしました。


しかし愚かな5人の花嫁は、花婿がいつ来るかもわからないのに、ともしびだけを準備し、油の用意はしていなかったです。

花婿が来るのが遅くなり、今にも ともしびが消えそうになりました。


それで油を買いに行っている間に 花婿が来られて、そこにいた賢い5人の花嫁だけが結婚式場に入りました。

油を買いに行った愚かな5人の花嫁の姿は哀れでした。

彼女たちの様子を次の箇所で見ます。


【マタイの福音書25章11-12節】

そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。

しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。

天国に入ることが出来ず、外の暗やみに置かれてしまいました。


せっかく天国に入る “特権” があったのに、その場にいなかったために、特権が無効になってしまいました。


その特権が認められず、残念な姿でした。

このようになって、聖徒の特権を失う者も実に多いです。


“目をさまして、身を慎み、用意していなさい” と言われた通りにしている聖徒が、天国に入り、言われてもそのようにしていない聖徒は、特権を使うことが出来ません。

世を愛して放蕩生活をしている人に、“天国の扉” は開かれません。


聖徒として準備した人は、問題なく天国に入ります。


このように聖徒としてどのような特権があるかを知り、いつ それを使うかを知って使う人が賢い聖徒です。

神が与えて下さった特権としての祝福をすべて自分のものにしていきましょう。

(・◇・)ゞ

2016.9.25
聖日礼拝メッセージ

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人への施し

ハレルヤ。

今日もすべてが守られる一日になりますように祈ります。


使徒の働き10章にはイタリヤ隊という部隊の百人隊長コルネリオという人物が出てきます。


ある時、彼が祈っている時に、幻の中ではっきりと神の御使いをみました。

御使いは彼に言いました。


「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って覚えられています。」

これは何を意味するでしょうか?


コルネリオの祈りと施しが 神の喜ぶ行為であったことを神が認め、それを受け入れたことを意味します。


祈りは 神を愛し、信頼するところから始めないといけないです。

コルネリオの祈りには、神への愛と信頼がありました。


自分の欲を満たすための祈りではなく、神を愛するので神とともにいる時間が大切でした。

いつも神に祈りをしていました。


神はそのような祈りに耳を傾けます。


しかし神にとって何の意味もない祈りもあります。

祈る人が神に向けて祈らない祈りです。


【マタイの福音書6章5-6節】

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父があなたに報いてくださいます。

祈りが 人に見せるため、自分の欲を満たすためであるならば、その祈りは神に届かない祈りです。


祈ったのに何も答えがないと言う前に、自分の祈りが 神に覚えられる祈りであったかを真剣に考えてみることです。


また施しは、人を愛する心がないと出来ないです。

よく施しをする人は人間関係も良いです。


神様が私たちに “与えなさい” と言われるのは、人を愛する心を私たちが持って欲しいことと、施しは神が喜ぶ良いことだからです。

愛すると言いながらも、何も与えないなら愛していないことです。


何の犠牲もないリップサービスだけで済ませることは神と人を騙す行為です。


また施しをしても、神に受け入れられない施しもあります。


【マタイの福音書6章1-4節】

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。


あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父があなたに報いてくださいます。


コルネリオの施しは、人に見せるため、またほめられたくてした施しではなく、人を愛してした施しだったので 神が喜んで受け入れて下さいました。


そして彼に良い報いを与えて下さいました。

使徒ペテロを彼に送り、聖霊を注ぎ、罪を赦し、水のバプテスマも授けました。


それは、彼を神の民として受け入れて下さったことです。

その時代の異邦人に対しては破格的な出来事でした。
(=゚ω゚)人(゚ω゚=)


2016.1.15
3分テレフォンメッセージ

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どのような人が神の恵みを受けるのか

ハレルヤ。
今日も良い日です。

自分が生きていることも、ここまで守られてきたことも、すべて神様の恵みのおかげであることは、クリスチャンになってから初めて分かりました。

それで神の恵みがどんなにありがたいものかを知ったので、今も日々 神の恵みを求めています。


旧約聖書の多くの部分で「神は恵み豊かな神である。」という言葉がありますが、そのことばに触れると心が温かくなります。

この神に愛され、恵みをもらって生きていることが嬉しくなります。


そして神の恵みなしに生きることはできないと本当に思います。

寒い時、雲の間から太陽が出た時に、太陽の熱で身体が温かくなっただけでも神の恵みをすごく感じます。


1つ部屋を暖かくするにもお金がかかるのに、いつもタダでこのような恵みを受けているのだと思うと感謝が出てきます。

すべての恵みは上におられる神から私たちに流れてきます。

信じる者にも信じない者にも 差別なく与えられる恵みはとても多いです。


神は 恵み深い神であるので、私たちにさらに恵みを受ける道を教えてくださいました。

この恵みは一般的な恵みではなく、特別な恵みです。


どのような人が特別な恵みを受けるでしょうか?


恵みは神の主観的なプレゼントであるので、“なぜ私にはそれを下さらないのですか” と誰も言えないです。

恵みは、神の主観的なプレゼントですが、このような人に与えると神が教えてありますので、受けたいならばその通りにしたら良いと思います。


特別な恵みを1番受けやすい人は、謙遜な人です。

“主の食卓から落ちるパンくずでも良いです” と言える人が、パンくずではなく、主の食卓に着いて 主が用意したごちそうを食べることが出来ます。

“私はパンくずなんか食べる人ではない。もっと良いものを出しなさい。”という高慢な人は追い出されます。


祈る人も、神の恵みを受けることが出来ます。

神の前にひざまずく人は挫折をしないです。

反対に 神のみわざを体験します。


聖書で奇跡を体験した人、大きな恵みをもらった人は 砕かれた心を持って主に祈った人たちでした。

また神に恵みを受けた人たちは、神を信じ 信頼した人たちでした。

イエス様に従うことは、自分と自分のすべてを捨てて神に頼りながら 神のみこころを行う生活です。

ダニエルが自分のいのちを捨てた時に、神は彼のいのちを守ってくださいました。


飢えた獅子がいる穴に落ちた人が、傷一つなく命が守られたことは特別な恵みです。


神は、神を恐れて不義を行わず自分の命までも捨てた人に 大きな恵みを与えて下さいましたし、国の中に神の偉大さを表しました。

このような素晴らしい恵みを今も備えておられる神様ですから、神に日々恵みを求めて祈っています。
(*・ω・)ノ

2016.4.21
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私たちのための主の祈り

テーマは 『 私たちのための主の祈り 』 です

【ヨハネの福音書17章15-22節】

彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。

またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

今月はキリストの受難、十字架の死、復活があります。

その流れを今月のテーマとして語ります。


イエス様は いつも祈りをささげる方でしたが、特に自分の死が迫って来た時に、弟子たちのためにいつもより長い祈りをしました。

聖書に書かれたイエス様の祈りで、ヨハネの福音書17章の祈りが一番長いです。


その内容は弟子のため、また私たちのための祈りでした。

その祈りには、主の深い愛と主の願いがありました。


そして私たちに対する主の期待も反映されています。


今回は 祈りの内容に心を向けたいと思います。




・悪い者からの守りを祈る




悪い者に出会って良いことはありません。

サタンはいつも聖徒たちを狙います。


罪を犯させるために誘惑して、サタンがどれほど策略をもって働くか分かりません。


それに気付かず眠っている聖徒が多いのは事実です。

皆さんは目を覚ましていますか?
悪い者に いつも警戒していますか?


3年間、弟子たちと共にいたイエス様は 弟子たちの姿をよく見ていました。


肉の欲と思いで 互いに妬んだり、高慢になったり、争ったりする姿を見ました。

主と共にいながらも サタンの誘惑に負け、罪を犯していました。

そのことを深刻に考えている弟子はいませんでした。


悪者を警戒するように教えても、実行できていない弟子たちを見て、死が迫った時でも主は彼らのために祈りました。

主は 彼らの活躍、健康、幸せ、成功などは祈りませんでした。


なぜなら それより大切なことは、彼らが罪を犯さないことでした。


“罪” は神との関係を悪くし、いのちに関わることです。


人は罪を犯すと “罪の奴隷” になってしまいます。
それが神との関係を壊す要因になります。


“ 罪から来る報酬は死 ” ですので、悪の道へと誘う悪い者から守って下さるように祈りました。


この祈りはいつも必要な祈りです。

私たちも 神様に、悪い者から守って下さるように祈らないといけないです。

イエス様がそのように祈ったならば、私たちもそのように祈ることです。


実際に十字架にかかる前の晩に悪い者が近付くことを知っている主は 必死に祈りました。


そして弟子たちにも 「誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさい。」 と何度も命じました。

しかし眠気に負けた弟子たちは、誰も祈ることができず寝てしまい 祈りが出来ませんでした。


その結果、祈りがなかったので 人を恐れて、信仰から離れ、自分たちを愛し育てたイエス様をみんな裏切りました。


もし彼らのためのイエス様の祈りがなかったならば、彼らは誰も立ち直ることが出来なかったと思います。

そして主のための働きも出来なかったと思います。


ある時に、弟子たちが “祈りを教えて下さい” と言われた時に、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい。」と祈るように教えました。

しかし彼らは その意味が分からなかったですが、あやまちを犯した後に その祈りの重要性をすごく実感したと思います。


弱い私たちも 主が私たちのために「悪い者から守って下さい」と祈ったように同じく祈ることです。




・聖別されること祈る




ヨハネの福音書17章17節にある 「真理によって彼らを聖め別ってください。」 と祈りました。


【ヨハネの福音書8章32節】

そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

このような みことばがありますが、“真理を知ることは キリストを知ること” で、“ 自由になることはキリストを信じて信頼し服従すると罪から解放され罪に支配されることがない” ということです。


罪は私たちを汚しますが、罪赦され、真理の支配を受けると聖くなっていきます。


神の願いは 私たちが聖なる者になることです。

“聖” は神の属性です。


そして信じる者がますます聖化されることを主は願っています。

新しく生まれ変わった者にはこれが必須です。

次の箇所は “聖化” に関することばです。


【エペソ4章23-24節】

またあなたがたが心の霊において新しくされ、

真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

“聖化” は、聖霊抜きにして出来ることではありません。


聖霊が信徒の中に働いて、罪の汚れから解放し、新しい人にして、みこころに従うように、良い行いが出来るようにして下さいます。


“救われたので それで万事OKという事はない” です。


ますます聖なる者となるために、罪から離れ、真理に従うことが大切です。

聖め別たれることは、聖別されることですから、そのためには神の言葉に従うことが必要です。


みことばは 教えと戒めと矯正と義の訓練とに有益で、私たちを聖め、良い働きが出来るようにします。




・一つとなるように祈る




ヨハネの福音書17章21-22節で  一つになるように祈りました。


これは信徒たちが一つになることは もちろんですが、教会が一つになることを祈りました。


イエス様と父なる神は いつも一つでした。


教会はキリストの体で、かしらはキリスト、私たち信徒は 体である教会の各部分です。

そして教会が一つになることは、全世界の教会が連合するという意味ではなく、本質的な側面での統一性を意味します。


父なる神とイエス様はすべてにおいて いつも一致していました。


互いが愛し尊重していましたし、互いに高めていました。

それは素晴らしい関係でした。


それと同じように、私たちが 主と一致すること、聖徒たちもキリストにあって一つになることを祈りました。

教会の体の一部分になった信徒たちが “一つ” になることで、神とキリストを伝えることが出来ます。


分裂したり、争ったりすると キリストを伝えることが出来ません。

そんな所にたましいを導きたいとは誰も思わないですね。


年齢や出身、考えが違っても 互いに愛し合い、人を自分よりも優れた者と思い、互いに重荷を負い合う時に “一つ” になれます。


非難したり、壁を造ったり、差別することは みことばに背くことです。

主は私たちに合わせるために卑しい人間の姿になりました。

それが模範です。


大した者でもない私たちが高ぶった思いをもって一つにならないと、主もその人と一つになることが出来なくなります。


主が与えて下さった新しい戒めが、次の箇所にあります。


【ヨハネの福音書13章34節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

これが一つになれる一番の方法です。

イエス様は、最後の日も このように弟子たちや私たちのために祈って下さいました。


その時、イエス様はどのような気持ちで祈ったのかをよく考えることです。

主の祈りが無駄にならないように、その祈りが自分の身になるように同じ祈りをしながら生きることです。


罪人、悪を行う者、汚れた者、分裂を起こす者は 神に喜ばれることも、御国に入ることもありません。

私たちを愛した主は 一人でも失われる者がないように、心を込めて祈りました。


日々、目を覚まして祈っているならば 悪者の誘惑に負けることはありません。

聖くなればなるほど 神を見ることが出来ますし、神の子と呼ばれます。

そして教会を愛し、キリストを愛し、聖徒を愛するならば それによって一つになれます。


主が祈ったように祈りながら実行してみましょう。
v( ̄∇ ̄)v

2016.6.14
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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悪魔との戦い方

テーマは 『 悪魔との戦い方 』 です

【ヤコブ書4章7節】

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

先週は 「悪魔の正体と策略」 に対して学びました。


悪魔は軽く考えてはいけない、決して弱い存在ではないです。

そのことをまず しっかりとわきまえましょう。


「使徒の働き」 を読んでみると分かります。

使徒パウロが命じると 悪魔は出て行きました。

それを見たユダヤの祭司長の7人の息子たちが、悪霊につかれている者に向かって主イエスの名をとなえました。


【使徒の働き19章12-16節】

「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」

このように言ってみましたが、次のように悪霊が答えました。


「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」

そして、悪魔は 彼らに飛びかかり、2人の者を押しつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負って逃げだしました。


悪魔は相手を見抜いています。

勝てる人と負ける人を見ただけで分かります。


悪魔は人間より はるかに力があるので、人間をまったく恐れません。


むしろ人間を支配して、自分の奴隷にし、“世の支配者” として君臨しています。


3階建ての家で例えるならば、1階は人間、2階は悪魔、3階は神様が住んでいます。

神様が 1番力があります。

次に力があるのは悪魔で、最後が人間です。


ですから、悪魔に勝つためにはどうしたらよいか、力ある神に戦い方を教えてもらうことです。


そして私たちが3階に引っ越しをし、神と共に住むことです。


聖書には 悪魔の策略もありますが、神の勝利の秘策も色々と紹介されています。


今回は避けられない悪魔との戦い方を主のことばから学びます。




・神に従って悪魔に立ち向かう




悪魔は “私たちが神と共にいる時、神に従っている時” に私たちを攻撃しても勝利することは出来ません。


なぜなら悪魔は、私たち人間のことは全く恐れないですが、神には勝てないので 神を恐れています。

神の前では(悪魔は)逃げ去ります。


私たちがいつも神と共にいて、神に従うと、神は私たちに悪魔を追い出す権威を授けて 悪魔に勝利出来るようにして下さいます。


すると悪魔は、その権威の前に思うように働くことが出来ず、私たちが “主の名” によって追い出すと悪魔は出て行きます。


パウロはその権威があったので、悪魔を追い出しましたが、その権威がない者が追い出した時に、反対に悪魔の攻撃を受けて 自分たちが悪魔から逃げ去りました。


ですから神は “神に従って、悪魔に立ち向かいなさい” と命じました。

権威もなく、1人で戦うと悪魔からひどい目に遭います。


悪魔との戦いは、ネット世界のゲームの戦いではなく、実際の戦いです。


サタンが1番標的にするのは、“クリスチャンでありながら 神に従わない人、神と共に歩まない人” です。


その人たちは神を信じているのに、いつまで経っても悪魔から自由にされず支配されています。


その人たちは悪魔の言うことはよく聞いても、神の言うことには聞かず、死んだ信仰状態です。

悪魔に支配されているので、生まれ変わったとは言えない状態です。



イエス様は「私の中にとどまりなさい。私を離れては何も出来ない。」と言われました。


悪魔との戦いに勝ちたいならば、主の中にとどまりながら、主に従うことが最も大切です。


悪魔は強いですし、数も とても多いです。

次々と攻撃をしかけますので、神の中が一番安全な場所です。


サムソンもダビデも主と共にいて、従った時は強い敵に勝利しましたが、欲望に心が取られた時にサタンがしかけた罠に引っ掛かり、罪を犯し、サタンに勝利をもたらしました。


彼らが悔い改め主に立ち返った時に、再びサタンに勝利することが出来ました。


ですから悪魔に立ち向かうためには、いつも主に従って主の中にとどまることが必要です。




・神のすべての武具を身に着ける




【エペソ6章10-17節】

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

足には平和の福音の備えをはきなさい。

これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

神は “キリストの兵士” として召された聖徒たちが、霊的戦いで勝利出来るように “神の武具” を用意して下さいました。


霊的戦いをする聖徒たちは、必ず神の武具を着ないといけないのに、この武具があることすら知らないクリスチャンが多いです。

みことばは知っていても、着ていない人が多いです。


その人たちは何を持って悪魔と戦っているでしょうか?
肉の力で戦っているでしょうか?それとも、大声が武器でしょうか?


人と人、国と国の戦いには 目に見える武器が必要ですが、(目には見えない)霊的存在である悪魔との戦いには 神から言われた “神のすべての武具” が必要です。


神の武具には、神の力と守り、恵みがありますので、それによって戦うならば、勝利は間違いないです。


サタンにいつもやられている人は、神の武具がない “裸の状態” で出て行くのでサタンの捕虜にされてしまいます。

そして神が助けてくれなかったので、「すべては神様のせいです」と神に文句を言います。

これは とんでもないことです。


裸で手ぶらの状態で 神の指示も無視して敵の前に出るならば、物笑いです。

それでは あっという間にサタンの奴隷にされてしまいます。


神の武具を 【ローマ13章12節】 では、「光の武具」と言っていますし、【第2コリント6章7節】 では「義の武器」と言われています。


闇である悪魔は 光には勝てませんし、不義である悪魔は 義の前では勝利出来ません。






また、神のすべての武具に何があるのかを学びます。


腰には “真理の帯” です。

真理は、世の価値観・偽りから私たちを守ります。


この世ではサタンが蒔いた価値観にあふれています。

そのほとんどが真理に逆らう価値観です。


ですから(この世は)神に敵対しながら生きています。


世の価値観に勝つためには、真理による価値観と行動が強力な武器になります。


胸当ては 急所を守る役割をしますが、“正義の胸当て” は、神の言葉に忠実に従うことで着けることが出来ますし、その胸当てはサタンの惑わしの火矢から守ってくれます。


福音の履き物は“ 福音を伝えること” で、サタンの勢力を打ち破ります。

信仰の大盾は、“主の力を信頼して、敵の攻撃を防ぐことも攻撃する” ことも出来ます。


また信仰は “世に勝つ力” です。


救いのかぶとは、“救いを確信すること”で、大胆に戦うことが出来ます。

神の救いが確信できないとサタンとの戦いに恐れが出て、勝つことが出来ません。


手には聖霊が与えて下さった みことばの剣をしっかり握って “悪魔を攻撃” します。




・祈りによって戦う




【エペソ6章18節】

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

兵士がどんなに完全武装していても 眠っているならば、あっという間に敵にやられてしまいます。


聖書は、目を覚まして御霊によって祈るように命令しています。

それは敵がいつ攻撃するか分からないからです。

“祈り” によって神の守りと恵みを受けることが出来ます。


霊的戦いは激しいので、勝つためには神の助け、守り、恵みが必要です。


イエス様も 十字架を前にして、ゲッセマネの園で汗が血のしずくになるまで祈ったので、悪魔との激しい戦いに勝利することが出来ました。


イエス様が弟子たちには「誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさい」と何度も言いましたが、誰も祈らず眠ってしまったので戦いに敗れ、イエス様を裏切り、散々な目に遭いました。


“祈り” がどんなに重要な戦いの武器になるかは、このことで弟子たちはすごく分かりました。

その後は祈りに専念する弟子たちになりました。


また、悪霊に取りつかれた少年が来た時に 弟子たちだけで悪霊を追い出そうとしましたが、出来ませんでした。

しかしイエス様が来て悪霊を追い出しました。


そこで弟子たちは「なぜ自分たちはそれが出来なかったのか」と主に聞きました。

その時も主は、悪霊を追い出すために “祈りが必要であること” を教えました。


【マルコの福音書9章29節】

「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

普段から祈りがしっかり出来ている人は、サタンとの戦いに強いです。

自分に力があるからではなく、祈りによって神に頼り、神の助けと恵みを受けるからです。


サタンとの戦いはますます強く巧妙になります。


戦いを恐れるのではなく、神の中にとどまること、神に従うこと、神のすべての武具を身に着けること、そして目を覚まして 絶えず祈ることで、勝利出来ますので、後は大胆に悪魔に立ち向かいましょう。
( ̄‥ ̄)=3

2016.2.21
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こんな時はどうすればいいのか

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【ヤコブ5章13-15節】

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。

あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

パソコンやスマホ、電化製品などを買うと、その製品の使い方や困った時の解決方法などが書かれている分厚い説明書が必ず付いてきます。


小さい文字で あまりにもたくさん書いてあるので、ほとんどの人は説明書をあまり読まないですね。

しかし困った時は 説明書を調べます。


すると そこに解決方法が書かれているので助かることが多いです。

造った人が1番その製品に対して詳しいので、きちんと解決方法を知っています。


聖書は私たちのことを “神の作品” だと呼んでいます。

すなわち人間は 神の手によって造られた作品です。


ですから私たちを1番よく知っているのは神様です。


神は(すべてを造った)創造主ですので、被造物のことを全て知っておられます。


造られた者として どのように生きるべきかを神が教えないと、私たちは分からないです。

そのことを聖書だけが正しく教えています。


神から言われた通りに生きる人は、人間を造った神の目的にふさわしく生きる人です。


神はまた 人間に何か問題が生じた時に一番有効な解決方法も創造主は持っておられます。


すでに創造主を信じ、聖徒になった人たちは 神が示した有効な解決方法を常に用いることです。

今回の本文は、その中の一部分ですが、私たちが使うと 大いに役立ちます。





苦しんでいる人は祈りなさい




私たちの人生には 多くの苦しみがあります。

別れや失敗、病気、貧困、悩み等々。


その時の一番の解決策は、まず神に祈ることです。


「祈るだけで解決されるのか」と言う人は、祈りのパワーをまったく知らない人で、神がどれほど偉大で力ある方であるかを知らない人です。
また、神がどれほど自分のことを愛しているかを知らない人です。



神は決して人間を強い者として造ったわけではなく、神に依存しながら生きるように造りました。


ですから人間は、苦しみがあると すぐに落胆し、つぶやきます。

その状態ならば苦しみが増すだけです。


ですので、神は私たちに 「助けるから苦しい時は一人で悩まないで わたしに祈りなさい。」 と解決方法を教えて下さいました。


祈ると、苦難を乗り越える力を神様から受けることが出来ますし、神のみこころを発見出来ますし、また神様から慰めを受けますし、そして助けられます。


聖書には実際にそのようにして神の恵みを受けた多くの聖徒たちの姿が出てきます。


【詩篇91編15節】

彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。

神様はこのように約束して下さいました。

そして そのように苦しみの時に 主に祈った現代の聖徒たちも、主の助けを受けました。


ジョージ・ミュラーは、94歳までイギリスで孤児院を経営した立派なクリスチャンでしたが、彼を有名にしたのは 5万回の祈りが答えられたことでした。


お金がない中での孤児院経営は大変ですが、彼は資金集めのためにチャリティー募金活動などをしたことがありませんでした。


彼が孤児院を維持するためにやったことは 神への祈りだけでした。

神はそのすべての祈りに答えて下さり、孤児たちを養うことが出来ました。


私も皆さんも 苦しい時に神に祈って助けてもらった証はたくさんあります。


神の言葉は真実です。神の約束も真実です。





喜んでいる人は賛美しなさい




良いことに対して1人で喜んでいる人がいます。

良いことがあったのに証をしない人もいます。


恵みと祝福を隠して、自分1人で楽しむ事でも喜ぶことでもありません。


良い恵みを与えて下さった神には 必ず栄光と感謝をささげることです。


それが神に賛美をささげることです。

歌を歌うだけが賛美ではなく、賛美する香は “神を礼拝すること” です。


礼拝の中には感謝がありますし、祈りがありますし、賛美がありますし、献金があります。


私たちが受けた恵みに対して黙っていることは罪です。

なぜなら、神に栄光をささげない行為は “恩知らずな者” だからです。


恵みを “恵み” として認識していないので “罪” と言えます。

神の恵みに感謝して、神に賛美をささげることがとても大切です。


苦しい時に神に祈ることはたくさん出来るのに、祝福された後に 神に賛美をささげる人は少ないです。






四つの福音書を読むと、様々な人の姿が出てきます。


苦しんでいる人、病気の人、悪霊に取りつかれた人などが みんなイエス様の所に助けを求めて集まってきて、皆が癒されました。

しかし感謝し、神を賛美した人は1割程でした。


10人の らい病人が癒された時に、感謝して主を賛美した人は1人だけでした。

それも、ノンクリスチャンでした。


ユダヤ人は選民でしたが、サマリヤ人は選民ではありませんでした。

選民ではないサマリヤ人が、わざわざイエス様の所に戻って来て 主にひれ伏して感謝し栄光をささげました。

これは、クリスチャンが感謝していなかったことになります。


神の恵みを一番受け、誰よりも恵みを知っているはずなのに なぜ感謝しなかったでしょうか?


クリスチャンは神からの恵みを “当たり前” と思う傾向があります。


“特別” という認識が足りないです。
恵みを受けるのが自分の権利だと思っています。


「それを いちいち言葉や行動で表さないといけないですか?」と思っているならば、賛美しなさいと言われた神のことばに逆らっている姿になります。


神様はそのような姿を喜ばないです。

恵みを受けて喜んでいるならば、まず神に賛美しなさいと言われました。


神にきちんとお礼を伝えて、栄光をささげることが聖徒としてすべきことです。




病気の人は祈ってもらいなさい




これは苦しんでいる人に祈りなさいということを、さらに強調したことでもありますが、それは病気にかかった人は苦しんでいる人だからです。

本人が祈るだけではなく、なぜ教会の指導者を招いて祈ってもらいなさいと言われたでしょうか。


医者でもなく 教会の指導者を招いて祈ってもらいなさいというのは、医者は要らないというわけではないです。


ヤコブは 優先順位のことを言いました。

医者を招く前に、まず神を求めるようにと勧めています。


教会の指導者は信徒を世話する者です。そして、聖徒のためにとりなしをする者です。

ですから信徒が病気の時には必死に神に祈ります。


私たちを造った神様ほど、人体に対して詳しい方は存在しません。


そして主は癒し主ですので、その神に まず先にお祈りすることは当然です。


その例が旧約聖書にあります。


【第2歴代誌16章12節】

それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。

なぜこのことが聖書に書かれていると思いますか?


アサ王が、神の前にいつも悪を行う 神を知らない王だったならば、わざわざ聖書に書く必要はありません。

しかしアサ王は20人いたユダの王の中でも 四人の良い王のうちの1人でした。


もともとは神が喜ぶことを行った王であり、信仰もありました。


しかしだんだんと信仰が弱くなっていきました。

そして病気になった時に神を求めることをせず、医者を求めました。

その行動が間違えていたので、わざわざ聖書に書いて残しました。


聖徒が病気になった時に、私たちは まず何をすべきかを その箇所と今回の本文のことばで教えています。


病人にオリーブ油を塗ったのは古代社会の慣習でもありました。

治療の効果を得るためでありますが、聖書では油は神の恵みのしるしとして言われてありますので、病人に対して神様が関心を持って治療を行っていることを見せるためでもありました。


このように書かれているからと、今も必ず油を用いて祈る必要はないです。
なぜなら時代背景が変わりましたから。


イエスの名によって祈る時に神は病人を癒すことが多いです。


信仰による祈りに、神は奇跡で答え、病人を癒します。


不信仰や疑いを持って祈っても 癒しは起こりません。

神が働かないからです。


病気の中には、罪から来た病気もありますが、それが祈った人によって示され、本人が悔い改めると主がその罪を赦し、病気を癒すこともあります。


私も病人のために祈ることが多いですが、ある時には神がその人の罪を示す時があります。

すると その時は悔い改めるように勧めます。

悔い改めた後に癒された人たちもいます。


このように神様は「こういう時にはこのようにしなさいと」私たちに詳しく教えて下さったので、そのやり方を使うと間違いがないです。


自分が神様より良い方法があるならば別ですが、果たしてもっと良い方法があるでしょうか?
(゚Д゚) !!

2016.1.31
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神様の愛と憐れみ

テーマは 『 神様の愛と憐れみ 』 です


神様が私たちを愛するのは、私たちが愛される条件が揃ったからではなく、神様が愛と憐れみ深い方だからです。


今日、多くの信徒たちが、その一方的な愛と恵みを受け入れないで、自らが愛される条件を作ろうと励んでいます。

“これをしたら、あれをしたら愛される”と思いながらやっています。


それは、疲れる人生であり、安息のない人生であり、やってもやっても満たされることがない人生です。


私たちは、神様の愛と憐みを そのまま受け入れ、信頼したら良いです。

主がなさったことを信頼し、これからすることに対しても信頼することです。


アブラハムを見たら分かります。

聖書で、神は初めてアブラハムに対して信仰による神の義を現しました。


【創世記15章5-6節】

そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」 さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

年も取り、妻は不妊の女なので、1人も子どもがいないアブラハムですから、これこそ信じ難いことばなのに、彼は何の疑いもなく神のことばを信じました。

信じたアブラハムを 神は喜んで下さいました。
神の義とは、神が“それで良し”と認めてくださったことです。


私たちが作った条件が義を作るのではなく、私たちの信仰を 神が義と認めてくださいます。

また、行いが義を作るのでもないです。
思い出してみてください。


イエス様がサマリヤの井戸の傍で1人の女性と話をしました。

イエス様は彼女が変わってから 彼女を受け入れたのではなく、主が彼女を受け入れた後に彼女が変わりました。

変化は 主の臨在の後に来るものです。


まだ自分の変化が足りないならば、それは主の臨在の体験が足りないことですし、また 主に対する愛への信頼が足りないことです。

自分の姿がグチャグチャであっても、情けない姿であっても、まず主を信頼してください。


まだ断ち切れていない罪があったとしても、まず主を信頼し 告白してください。

主があなたを受け入れ、変えてくださる力があることを信頼してください。

あなたは罪に勝つことができません。


しかし、あなたの中におられる主が あなたの中で働き、勝利を与えることが出来ます。

罪を認め 告白する時に、主が臨在し 新しくしてくださり、義と認めてくださり、自由を与えます。


自分を義人だと自任し、自分の行いで義と認められることを期待したパリサイ人が義と認められたのではなく、「神様。こんな罪人の私をあわれんで下さい。」と主に祈りをした取税人が義と認められて家に帰ったと はっきりと主が語ってくださいました。


私たちも主の前で 彼のように祈る時に、主は義と認めてくださいます。

決して行いで義と認められることではありません。


神は今も 愛と憐みをもって私たちを愛しています。

その愛と憐れみをそのまま受けてください。

何かを差し出して愛してくださいという必要はありません。
(´▽`)

2015.10.23
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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苦難の時に何をするのか

テーマは 『 苦難の時に何をするのか 』 です

【ヨナ書2章1-10節】

ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、

言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。 私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。

あなたは私を海の真ん中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。

私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」と。

水は、私ののどを締めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。

私は山々の根元まで下り、地のかんぬきがいつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。

私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。

むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。

しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」

主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。

本文には、ヨナという人物が出てきます。
ヨナは預言者です。

この時、彼はどこにいるでしょうか。
魚の腹の中という有り得ない場所にいます。

なぜ彼はそのような場所にいて、ありえない苦しみを受けているのでしょうか。


実際彼が受けている苦しみは、死よりも辛い苦しみかも知れません。

私たちがもし同じ状況の中にいるならば、「なぜあの時に死ななかったのか。死んだ方がましだ。」という思いになります。


なぜなら、息が出来ないことによる肉体の苦しみがひどいからです。
水に溺れている状況なので、まともに息が出来ないです。

肉体の苦しみの中で 痛みがあることも辛いですが、息が出来ない苦しみも相当辛いです。


また、体の身動きがとれない苦しみもとても辛いです。

そして精神的にもかなり辛い状況でした。それは自分が人間世界から隔離されてしまったからです。


地球上での海と陸の割合は7:3です。

昨年失踪したマレーシア航空機が海に消えたと言われて、今も捜索していますが、まったく見付かっていない状況です。

(陸ではなく海の中だと)分かって探しても 見付からないほど広くて深い海という環境が、さらに絶望を大きくします。そこは救助される期待すら出来ない場所です。


霊的には自分が神様から受けた使命を拒んだことで自分の身に降りかかった試練なので、霊的にも追い込まれた状況でした。

『あの時、主の命令通りにニネベに行って神のメッセージを伝えればこんなことにはならなかったのに』 という後悔と神との関係が断絶され霊的にも絶望的でした。

神の命令に不従順した罪の刑罰として海に投げ出されたヨナはすべてに追い込まれていました。


生きているのか死んでいるのかが分からないような状況です。
生きるのも死ぬのも両方しんどい状態でした。

叫んでも自分の声が誰にも届かないですし、自分がそこにいることを誰も知らないことも最大の苦しみでした。

あらゆる面からも、ヨナの状況は最悪であることは間違いないです。


多くの人は状況をみて怯え、諦め、完全に絶望し、死を選ぶことが多いです。

また ある人は、死ぬ選択すら出来ずに生き地獄の中で生きています。

しかし苦難はその時に何をするかによって解決されるか、苦難が続くかに分かれます。



ヨナの神への不従順は私たちが学んではいけないことですが、生き地獄の苦難の中で 彼が選んだ方法は私たちが学ばなければなりません。

それは祈りでした。
祈り以外に彼に出来ることは残されていませんでした。


身動きが取れなくても、息が出来なくても、闇の中にいても、誰も助ける人が周りにいなくても、そこで唯一出来ることは “祈り” であることをヨナが見せてくれました。




救いの神を思い出した




罪に対して厳しくさばく神であることを ヨナは身をもって体験している最中ですが、その苦しみの中で、救いの神を求めました。


自分に必要な助けだけを求めたのではなく、神自身を求めました。

深い海の中、魚の腹の中から生き返ることは、ヨナの力では不可能でしたので、あらゆる苦難から救い出して下さる主を見上げました。

苦難の時は、何よりも主を求めることです。
神は私たちがどこで叫んでもその声を聞くことが出来るお方です。


さらに主が 自分を救い出してくださると信じて感謝と希望の祈りを捧げました。

私たちは、いつ感謝の祈りをしますか。
解決された後でしょうか?それは信仰による感謝ではないです。

それは当たり前の感謝です。

信仰による感謝は、苦難の中で祈り始めた時から捧げます。



ヨナは9節で感謝の祈りをしました。


【ヨナ書2章9節】

しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」

感謝と希望の祈りは神への礼拝です。

偶像へのむなしい礼拝ではなく、生きておられる神への礼拝です。神は礼拝を受け入れて下さるお方です。


【ヨナ書2章7節】

私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。

どんなに絶望的な状況の中でも 最後まで信仰を捨てず、神の臨在を求め、神が救い出して下さることを信じて感謝を捧げることは、主を礼拝する姿です。


【詩篇107篇10-16節】

やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、

彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。

それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。

主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。

聖書は苦難の時に主を求め、神が彼らに救いの手を差し伸べた事実がたくさんありますので、それを信じて神を求めることを勧めます。




悔い改めの祈りをした




人間は罪を知らないから罪を犯すのではなく、知っていながらも 罪の誘惑に弱い者であるので、次から次へと罪を犯します。

悔い改めが必要のない日はあるでしょうか。
「今日私は何一つ罪を犯していない」と言える人がいますか?


主のことばから はみ出た行動はいくらでも自分たちにはあります。

“罪から来る報酬は死” であることに変わりはないです。


しかし神様は罪人が罪の中に留まって死ぬことを願わないので、悔い改める者に恵みと救いを用意しておられます。


神の命令に不従順して神から刑罰を受けているヨナに対しても神はすぐに彼を死なせず、魚の腹の中に入れたのは悔い改めるチャンスを与えたことでした。

悔い改めのチャンスは主のあわれみです。主の恵みです。悔い改めのチャンスは助かるチャンスでもあります。


ヨナにとっても助かる道は、悔い改める道しか残されていませんでした。

きっと涙を流しながら三日間 心の中で泣き叫んで祈ったでしょう。

息苦しくて声を出すことが出来ないので、声なき声で叫んだことでしょう。


「私が悪かったです。もう2度と主に逆らいません。私の罪を赦して下さい。ここから助けて下さるならば言う事を聞いてニネベに行って主のことばを伝えます。」と誓いを立てながら悔い改めの祈りをしたでしょう。


悔い改めの祈りほど神に早く届く祈りはないと思います。

それは、なぜだと思いますか。


多くの願いの祈りは、神様を変えてでも自分の願いを押し付けて、欲しいものを手に入れたい思いがあります。

しかし、悔い改めは 祈る人自身が変わらないと出来ないことなので、その祈りをする人自身が変わったので神様が喜び、その祈りに早く答えて下さいます。


ヨナも苦難の中で変わりました。
罪の恐ろしさが分かり、自分の愚かさにも気付きました。

そして罪を捨てて、神に立ち返りました。

救いの神が救うことが出来るように 神を呼ぶ者になりました。


悔い改めていない者を助けたとしても、その人たちは神様を侮ります。

「誰が助けてくれと頼んだのか。ほっといてくれ。」と言います。


しかし悔い改めた人は、主の助けと救いに心からの感謝が出てきます。

神様は悔い改めるヨナを見て、救いの手を差し伸べました。魚の中から彼が生還出来るように恵みを与えました。

悔い改めたことによってヨナは再び太陽の光を見ることができ、自由に息をすること、そして体を動かすことが出来るようになりました。

絶望から希望に移されました。そして再び主の働きが出来るようになりました。

もしヨナに祈りがなかったならば、聖書に「ヨナ書」は存在しなかったですし、ヨナが誰なのかも私たちは分かりません。


イエス様も悔い改めの祈りがもたらす祝福について次のように教えて下さいました。


【ルカの福音書18章13-14節】

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

聖徒たちにとって、祈りは必須です。それは祈りによって神との会話が成立するからです。

祈りを通して神様と交わりをし、霊的呼吸をします。

しかしすべての祈りが神様と通じるものでもないです。


悔い改めの祈り、神を求める祈り、神を信じて感謝と希望を持って祈る時、苦難の時に救いの神を切に求める祈りをする時に、主は救いの手を、救いの道を開いて下さいます。

それならば何でも聞いて下さいますかと質問する人がいますが、それを確認して祈るのではなく、 神をただ信頼して祈ることが大切です。


目に見えなくても、しるしがなくても、何も確認が出来なくても 今も働いておられる神がおられることを信じて、本人が必死に祈り求めることです。すべてを懸けて助けを求めます。


祈りを他人任せにする人がいますが、そうするとその人自身の苦難は根本的に解決出来ないです。

それはその本人の問題なので、神様はその人を待っておられます。

長い間、絶望と落胆の中にいる人がいるならば、それは未だに悔い改めていない自分の罪の為ではないのかを考えてみて下さい。

そしてヨナのようにやってみて下さい。
ヽ(TдT)ノ

2015.5.31
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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