からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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知識

主に従うこととは

テーマは 『 主に従うこととは 』 です

【第2テモテ4章16-18節】

私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。

しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私は獅子の口から助け出されました。

主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。

口先だけで「主に従います」と言うのは簡単です。

言うだけで何もしなくて良いですから。


しかし、実際に主に従って歩むことは簡単ではなく、とても難しいです。

なぜなら主が歩んだように歩まないといけないからです。



主の使徒・パウロは、「主に従って歩む」ことが、どういう事かを身をもって現した人でした。

イエス様のように生きてイエス様のように死にました。


イエス様からビジョンと使命を受け、イエス様と親密な関係を結び、共に歩みました。


そして主が 弟子や従って来たすべての者に捨てられたように、パウロも捨てられました。


そしてイエス様のように彼らを赦しました。

主を愛し、人を愛する愛をそのまま見せました。



イエス様は、人のために この世に来られ、人に仕えましたが、人の手によって十字架にかけられ死にました。


十字架の上で父なる神に祈りました。

「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」


パウロも自分を見捨てた人たちに対して「彼らがさばかれることがありませんように。」と願いました。

イエス様に似た姿がありました。


イエス様に出会った後のパウロの生き方、心、働き、愛、すべてはイエス様の中に見られるものでした。

違うところはありませんでした。



主に従うことは、主と同じ生き方をすることです。

違う生き方ならば、別々の道を歩んでいることを意味します。


主と同じ生き方は、みことばの知識だけでは100%無理です。


知識だけでは主の心を知ることが出来ません。

理解も出来ません。


十字架の知識を持っていても 十字架にかかった主の心や痛み、苦しみを知ることは出来ないです。


自分が同じ経験をして初めて共感し、知ることが出来ます。



主に従った人々は、主と同じことを実行しました。

無条件の愛、犠牲的な奉仕、心からの服従、完全な自己否定、しもべとしての謙遜がありました。


信仰と愛、希望をもって、神に栄光をささげながら自分の十字架を負ってビジョンと使命を全うしました。

天の御国にふさわしい者になりました。


アーメン ヽ(^o^)丿

2019.9.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会



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知恵のある者になる

テーマは 『 知恵のある者になる 』 です


2月になり、いつのまにか2019年も一か月以上過ぎました。


そこで振り返ってみてください。

1月はあなたの思った通りになりましたか?


私は反省点がたくさんあります。

特に仕事先とかで「こう言うべきだったのに、いらんことを言ってしまった。」「しゃべらなくても良いのに無駄に一人で話し過ぎた」「言い過ぎた」などなど・・・。


反省することばかりであり、また注意を忘れて失敗を繰り返したりしています。

そのような経験はございませんか。



例えば、次から挙げることに どのくらいあなたは当てはまりますか?


  • さわがしい、無駄口をたたく
  • 曲がったことを言う
  • よく聞かないうちに返事をする
  • 自分の愚かさを言いふらす、吐き出す、食いあさる、繰り返す
  • わきまえがない、何も知らない、思慮がない
  • 悪事が楽しみ、悪から離れることを忌み嫌う
  • むなしいものを追い求める
  • なまけ者
  • 自分の怒りをすぐ現す、怒りやすくて自信が強い、短気、争いを起こす
  • 主に向かって激しく怒る
  • 争いを起こす
  • 母をさげすむ、自分の父の訓戒を侮る
  • 思慮深いことばをさげすむ、英知を喜ばない
  • 自分の意見だけを表す、自分の心に頼るもの

これからの姿は、すべて聖書でいう “愚か者” です。


知恵がない愚か者なんです。


また、どこかで「こんな自分じゃダメだ」「直さないとな」と思っていませんか?


もし、それすらも思っていないのならば 心の姿勢に問題があります。

愚かなまま生きていると、その道は命の道には繋がっていないですし、心にも平安がないです。



一方で、知恵を持ち、賢く生きることができれば、あなたは次のようになります。


  • 安全に住まい、わざわいをおそれることもなく、安らかである
  • たましいが楽しんでいる
  • 悪の道やねじれごとを言う者から救い出される
  • いのちの年と平安が増し加えられる
  • からだを健康にし、骨に元気をつける
  • 恐れがない
  • 休む時、眠りが心地いい
  • 主がおられ、守ってくださる
  • 主から恵みをいただく
  • つまずくことがない
  • 高められ、ほめられる

これらはいずれも聖書で書いてある「知恵のある人」の姿です。






私たちは “なんとなく” 何も考えずに生きるのではなく、もちろん「愚かな者」として生きるべきではなく、知恵のある者として生きなければなりません。


それは自分自身にとっても、周りの人にとっても、神様の目にとっても有益なことであり、望まれることであるからです。


それでは知恵を得て生きるには どうしたら良いのでしょうか。

人間を造られた神様が、一番 人間がどう生きていけば良いかをご存知であります。


例えば、iPhoneを作った人が、一番iPhoneの使い方を知っています。



それと同じように、私たちを造られた方が 一番私たち自身や生き方もご存知なのです。


その神様の御言葉を聞き、また実践することは、私たちが生きるべき方法を知り、人間らしく、神様によって造られた者として生きることです。



神様は、私たちに このようにおっしゃっています。


【ヤコブ1章5節】

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人はだれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

神様は私たちに “求めなさい” とおっしゃっています。

私たちは神様に「知恵を与えてください」と願うべきであります。


何か問題にぶつかった時や、それだけではなく、日常生活を生きる私たちは あらゆる瞬間にこの “知恵” を神様に求めるべきなのです。



聖書には、今までで誰よりも一番知恵と知識を持ち、そしてこれからの未来でも彼にまさる者はいない と言われている人物がいます。


それはソロモンです。

ソロモンはダビデの息子であり、王でもありました。


聖書では、どのようにソロモンが知恵を得るようになったかを はっきり記録しています。


それは もちろん神様からでした。


【第1列王記3章3-14節】

ソロモンは主を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいたが、ただし、彼は高き所でいけにえをささげ、香をたいていた。

王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこは最も重要な高き所であったからである。ソロモンはそこの祭壇の上に一千頭の全勝のいけにえをささげた。

その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」

ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。

わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。

そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。

善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」

この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。

神は彼に仰せられた。『あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、

今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。

また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。

【第1列王記3章11-12節】

神は彼に仰せられた。『あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、

今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。

この世の誰よりも知恵を持ったソロモンが書いた知恵の書が、“箴言” と “伝道者の書” です。



箴言には、生活や人生を通して、神様から得た知恵について書いてあり、


伝道者の書には、誰よりも富と権力があり、ありとあらゆる楽しみをし尽くした上で、ソロモンが感じたこと、それはすべてを得たとしてもむなしく、結局は神様をおそれること こそが、一番人間にとって大切なことであり、一番すべきことだと伝えている本です。



本日は特にその箴言から「知恵」について見ていきます。




知恵とは?




この知恵とは一体何なのでしょうか?

この「知恵」とは頭の中で知っているだけの「情報」とは異なります。


特に、ヘブライ語での「知恵」は、実際に使われることを前提として、適用(実践)するところまでを含んでおります。


つまりは、「知っているだけ」ではなく、「知っている生活に役立つ知識を実際に取り入れて行うこと」こそが、「知恵」なのです。



例えば、いくらテニスのやり方を本や動画で頭に知識として叩き込んだところで、実際に体を動かして練習を積まない限り、テニスは上達しませんし、それは “知っている” だけで何も使い物にはならないのです。


私たちも「知恵」を知っているだけで、実際に私たちの生活に、その「知恵」を取り入れない限り意味がないものです。



それでは、実際に私たちが生活に取り入れるべき「知恵」の一番土台となるところを見てみましょう。



【箴言1章7節】

主を恐れることは知識の初めである。愚かな者は知恵と訓戒をさげすむ。

【箴言9章10節】

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。



ここで、知恵と知識は同じようなものとして扱われていますが、まず この知恵を得るために必要なことは「主を恐れること」です。


ここでいう「主を恐れること」とは、「神様は怖い人。ひどくて厳しくて恐怖を感じる。」という意味ではなく、「かしこまる」という意味での「おそれる」です。


つまりは恐怖心からではなく「神様は偉大だな。すごい方だな と、ひれ伏すこと」です。



例えば、子どもであるならば 学校の先生は権威があって、先生の前ではシャキッとしたり、会社で働いている人の場合は、上司や、社長、会長の前では「ちゃんとしよう」と思うことと似ています。


あまり先生や会社の上司などに良いイメージがない方は、あなたが憧れている人や、すごいなと思う方、お偉い人の前ではかしこまって、きちんとしようとなりませんか?

それと似たような感覚でもあります。



また、この「おそれる」という言葉には、「礼拝する」という意味も含まれています。


つまりは神様を知り、関係を築き、偉大な方であると悟り、その方の前でちゃんとしようと思い、また礼拝する事こそが、真の知恵を得る第一歩と言えます。


知恵は神をおそれることから始まり、神様の御言葉を通して知恵は与えられる。

また、聖書にはキリスト自身に知恵がすべて隠されていると書かれてあります。


【コロサイ2章3節】

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

知恵を持って生きるということは、キリストを知り、キリストが歩んだように歩むことです。


キリストこそが唯一完全な人間であり、神様であった方です。

このキリストを通して私たちは知恵を得るべきなのです。


また、人にとっての究極の知恵は、私たちが人生で一番大切なもので必要不可欠であり、いのちを与える「イエス様の十字架」を知り、そこにある救いを受け入れることです。



これこそが、人が生きる上で一番大切なものであり、生きるために なくてはないものであります。


この福音を聞き、知り、受け入れ、イエス様とともに生き、イエス様が歩まれたように歩んでいく事こそが一番知恵のある姿なのです。


その究極の知恵を得たうえで、私たちは日々の生活で出会う様々なシーンで必要な知恵を得るべきであります。


箴言やイエス様の姿が描かれている福音書、その他の聖書箇所の様々なところに私たちが日々必要とする「知恵」が書かれてあります。


その聖書を開きながら、自分がどう生きていくべきか、家族の中で、会社の中で、友達の輪の中で、教会の中でどう知恵を持って振る舞うべきかを学び続け、それを実践する事こそが 私たちの日々の目標とすべきではありませんか。



知恵が足りないですか?


―― 神様に求めてください。


逆にあなたは自分自身を 知恵のある者と思っているのですか。


【箴言3章5-8節】

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

あなたの行く所どこにおいても、主を求めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。

それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。

それは神様が求める姿ではありませんし、真の知恵を持つ者とも言えません。


神様に知恵を求めましょう。



まずは神様を知り、偉大な神様の前でおそれかしこまり、礼拝しましょう。

神様が教えてくれる御言葉を読み、受け止め、生活で実践しましょう。


もし、御言葉を聞いたり読んだりして、たくさん知っていたとしても「実践しない」ならば意味がないのです。



どんなにダイエット方法をたくさん調べて、たくさん知っていたとしても、実際に実践しない限り 痩せないのです。


同じように「知恵」を頭で持っていて、「実践しない」ならば意味がないのです。

本当の意味で知恵を持つということは、知恵を持ち、それを実践するということです。


また実践をして、すぐ元の愚かな姿に戻るのは、せっかく痩せたのに、すぐリバウンドする人と同じです。


あなたは今のそのままの姿で良いですか?


それとも、知恵を聞き、受け入れ、実践し、知恵のある者へと変わっていきたいですか?


今日から知恵を実践し、神様の前で「知恵のある者」として認められるように一緒に変わっていきませんか。
アーメン (・∀・)


2019.2.3
聖日礼拝メッセージ

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惑わしの霊に惑わされた人とは

テーマは 『 惑わしの霊に惑わされた人とは 』 です

【第2テサロニケ2章3、9-12節】

だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。


不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、

また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

終わりの時代の特徴の一つは、サタンが教会の中に惑わしの霊を送り、多くの者が惑わされ、その人たちによって背教が起こることです。


しかし惑わされた人たち、惑わされた教会の悲劇は、それに気付いていないです。

惑わされることは、“ すべてのことが明白にされたにも関わらず、目と耳がふさがれて、事実を悟ることが出来ない” ことです。


教会が惑わされていることは、すでに神のさばきが その教会に臨んであることです。


信じる者が惑わされると、心が頑なになり、目と耳がふさがれるので、自分の罪を悟ることも、真理を悟ることも難しくなります。


その状態のままでいくならば、それがさばきです。

滅びの中にそのまま置かれることが裁きです。


教会でも、惑わしの霊が働くと真理とは関係ないこと、神とは関係ないことが平気に行われます。

非真理を まるで真理のように伝えます。

そして、いつの間にか真理ではなく、人間の教えを教えるところもあります。


信徒たちも あまりそのことを気にすることもないです。


“悔い改めなさい” ということばが、教会で語られてなくても、それを問題ないと考えたりもします。

それは惑わされて目と耳がふさがれている状態です。


ですから、イエス様は よく「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。


背教は教会の中から起こります。

すでに背教が始まっているのに、それに気付いていない場合が多いです。






律法学者やパリサイ人は、神に敵対しながらも、自分たちは誰よりも敬虔で、信仰深く、神に喜ばれていると思っていました。

そのようなことが今の時代さらに起こってあります。


覆いがあるので気付かないのです。

“惑わし” という覆いがあるために、目が見えず、耳も聞こえません。


ある特定の思想や理念が骨まで染みて洗脳された人は、自分の思想と理念を守るために、真理であってもそれを蹴ってしまいます。


イエス様が真理を語っても 彼らは真理を悟らず、敵意をもって主を非難しました。

その姿を見たイエス様は、彼らに対して「わざわいだ。目の見えぬ手引きども。」
また「目の見えぬ者たち。」と言いました。

さらに次の箇所では、


【マタイの福音書23章13節】

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。目分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。

惑わされた者がやっていることは 主が喜ぶことではなく、サタンが喜ぶことをします。


惑わされた人は みことばの知識がないから惑わされたでしょうか。


―― そうではないです。

たくさんの知識があっても惑わされる人がいます。


なぜ神のことばの知識があるのに惑わされたでしょうか?

惑わされやすい人の姿があります。


人を恐れ、人から認められたいと願っている人 が惑わされやすいです。


パリサイ人にも見られた姿です。

今も人を恐れ、人から認められたい思いが強いならば、牧師であっても信徒であっても惑わされます。


それを見て、サタンは惑わしの霊を送り、人々を惑わし、あらゆる不思議なことや奇跡も行います。

それによって人々は惑わされます。


また、苦難を嫌がる人々も惑わされやすいです。


苦難が嫌だから妥協して信仰から退きます。


惑わされた人たちは、自分で愚かなことをしていても、また背教の状態になっていても悟っていません。


惑わしの霊が人の霊を支配するので、その人たちは世の流れに抵抗なく従います。

そして善を悪と言い、悪を善と言います。

正しい分別が出来なくなります。


神が真理を通して罪だと言うのに、それを否定して罪ではないと言う人は 惑わされた人です。


大衆文化、政治、社会、教育、宗教など すべての面にそのような傾向があるならば、自分の中に惑わしの霊が働いている証拠です。


すべてを神の視覚で、神の基準で測ってみるならば、自分が惑わされているか いないかを判断することが出来ます。


神が悪と言ったならばそれは悪ですし、善と言ったものは善です。


世の中の常識とは違っても、神のことばが真理です。


それを曲げている人は惑わしの霊が働いてあります。






聖書には麦と毒麦のたとえ、羊とヤギのたとえがあります。

信じる人の中で、惑わされた人と惑わされてない人を分けます。


自ら信仰があると自慢しても、惑わされた人は主とは関係ない人です。


本当に主との関係が良い人は何も考えず、何の疑いもなく世の思想や価値観、風潮を受け入れず、必ず真理の物差しで霊的分別をします。


しかし人や環境、問題などに振り回されやすい人は、正しい霊的知識も乏しいので、真理の物差しで判断するよりは 周りの意見や自分の思い、自分の価値基準で分別するので、そこで惑わしの霊が働きます。


惑わしの霊は エデンの園でもアダムとエバを惑わし、今も信じる人々を惑わすために様々な策略をもって働いています。


その様子も主が教えて下さいました。

主のことばに目を開き、耳を開いて下さい。


「私は大丈夫だ」 と思うことが一番危ないです。

自分を信頼し過ぎるからです。


【イザヤ書9章16節】

この民の指導者は迷わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。

【マタイの福音書24章11節】

また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

【マタイの福音書24章24節】

にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

アーメン (  ̄っ ̄)

2018.6.10
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キリスト、神の愛―その愛を伝えるのがクリスチャン

テーマは 『 キリスト、神の愛―その愛を伝えるのがクリスチャン 』 です


本当の意味でクリスチャンとは?

イエス・キリスト(神)を愛する人、人々(互い)を愛する人

だれでもイエスを愛する人は、イエスのことばを守ります。


【ヨハネの福音書14章23節】

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちは その人のところに来て、その人とともに住みます。


【ヨハネの福音書14章15節】

もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。



【ヨハネの福音書14章21節】

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を 彼に現します。」


【ヨハネの福音書15章10節】

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、 わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。


【ヨハネの福音書15章12節】

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。


イエス様のことば(戒め)とは?


【ヨハネの福音書15章17節】

あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。


【ヨハネの福音書13章34-35節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

もし互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。




イエスへの愛、人々への愛を通してこの世にイエス、その愛、そして私たちがイエスを愛するクリスチャンということを知ってもらう


なぜこの世に知ってもらうのか?


【ヨハネの福音書3章16-17節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、 永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

イエス様がこの世に来た意味、そして神様がわざわざ自分の愛するひとり子をこの世に送ってくださったその意味は、つまりこの世が救われるため。


この世とは?

この世界のすべての人。全員。つまりあなたの周りの人々、家族、友達、同僚、知り合い、近所の人、道端を歩いてる人、すべてです。


人々が救われなければならない。
人々がこのイエス様が来てくださったこと、それほどまでに神様が私たちを愛してくださっていることを知らなければならない。


日本に生きていること、そのことのすごさ

キリストの愛を伝えたくても周りにいなくて伝えられない人もいる。日本に来て福音を伝えたくてたまらなくて、お祈りをささげて、日本語を一生懸命勉強し、お金も一生懸命ためている人がたくさんいる


あなたは本当に隣人を愛していますか?

本当に愛するのならばその人々が滅びていくのを見て平気でいられるわけがない。

イエス様が望んでおられることは、私たちだけがイエスを信じ愛し 救われるのではなく、この世のみんながイエス様を知り、その愛を知り、人々が救われること。

その愛を伝えるのがクリスチャンである。


どうしたら伝わるのか?


【ヨハネの福音書13章34-35節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが私の弟子であることを、すべての人が認めるのです。


愛を通してこの世はイエスの愛を知る


【ヨハネの福音書15章5-9節】

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。


イエスの愛にとどまり、またわたしたちが求めることでこの世はイエスの愛を知り、実が結ばれ、神様を栄光をお受けになる。


どれだけうまく伝えるか、どれだけ知識がいるかではない。
もちろんうまく伝えること、たくさんの知識を持って伝えることも大切である。

だけど一番大切なのは愛である。その人、人々を愛すること。

つまりその愛する人々すべてが救われること。
自分の楽しみ、自分の喜びのために生きるのではない。


この世のすべての人々が救われてほしいと思っている神様

ひとり子イエス・キリストをこの世に送り出し、十字架で死なせるほどの自分の中の最大限、ベストをしてくださった神様、また自分のいのちをわざわざこのような罪深く、自分のことばかりを愛している私たちのためにすててくださったイエス様。

今もすべての人が救われてほしいと思い、祈ってくださっているイエス様。

その大きな愛のために私たちも もっと神様を愛し、人々を愛し、その救いを伝えていかなければならない。

愛を持ってすること。
それがすべて。(・◇・)ゞ

2015.1.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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十字架中心の信仰とは?

テーマは『 十字架中心の信仰 』です

【Ⅰコリント1章17-24節】

キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

パウロがこの手紙をコリント教会に書きましたが、2000年も前の時代であります。
当時、ギリシヤは世界の文化の中心地のようなところでした。
哲学はどこから出たものでしょうか?
多くはギリシヤから出て来ています。
最も有名なのは、ソクラテスであります。世界や人間に対して根本的な思想は何かと追及するものが哲学です。

ギリシヤ人は日々、そのようなことで論争をしていました。
そして、ギリシヤ人はそれを誇りにしていました。
「わたしたちはこの思想によって生きるのだ」と人々の価値観になりました。

ギリシヤ神話がありますが、数えきれないほどの神々がいて神殿が建てられています。
そこに出てくる神々の名が、今も多くの人々が知っています。
ゼウス、ポセイドン、アポロなど、あまりにも多すぎて覚えきれないほど全てのものに神々がいます。
花の神、建築の神、空の神、太陽の神・・・etc
そして、その神々が戦っています。このように、たくさんの神がいることを彼らは誇りにしていました。

しかし、最近のギリシヤはどのようになっているでしょうか?
世界中にギリシヤの国が恥を受けています。
経済的危機があり、今まで誇りにしてきた思想などは何の役にも立ちません。

本当に苦しい時に何の救いにもならないです。そのような虚しい姿を世界中に見せています。


日本にも、そのようなことがあります。「サムライ精神」という言葉があります。
この言葉はよく使われ、オリンピックでメダルを取った時にも言われます。

しかし、このサムライ精神とはどのような意味でしょうか?

この言葉には良いイメージで使われますが、もし私たちにサムライ精神があったとしたら生きられないと思います。
自己犠牲がありますが目的はないです。一体誰のための自己犠牲でしょうか。
サムライ精神には、仏教や神道や色々な教えが混ざっています。
「命に執着しない」、「君主に対する忠誠心」、「逆境の中でも動じない」、「己に打ち勝ちなさい」と書かれています。
1つ1つの言葉は立派な言葉かも知れませんが、そこには善悪という意識がないです。

聖書は善悪の思想がとても強いです。「良いものは良い、悪いものは悪い」です。
しかし、サムライ精神にはそういうものは無いです。「尊いものは尊く、卑しいものは卑しい」と、上下関係が
あります。

人間は辛い時は泣きたいですし、わめきたい時もあります。
しかし、サムライ精神は 自分の内の中に納めます。そうすると心の病になってしまいます。

ですから、このような思想を持って生きても虚しいものであります。

もしも「サムライ精神をあなたの価値観にしなさい」と言われたら、私たちは遠慮すると思います。

このように国々には それぞれの価値観があります。
長い間、先祖から伝えられてきているので、綺麗ごとになっています。
しかし実際にそれを持って生きていたら満足がありますか?
「私は救われた」という思いはあるでしょうか?―― きっと満足しないと思います。




十字架中心の信仰とはどのようなものなのか、クリスチャンはもっと知らなければならないと思います。

パウロは律法に対しては、立派な知識を持っていました。
元々、彼はイエス様に良いイメージを持っていませんでした。そして偏見の度が普通の人とは違いました。

迫害してきた者の先頭に立っていたのがパウロでした。
しかし、蘇ったキリストに出会って、自分が持っていた価値観が一瞬にして崩れ落ちました。
目が開かれ悟りが来ました。私たちは悟りが来ないと、十字架の価値が分からないです。

それからパウロは変わり、(福音を)伝える側になりました。そして今までの価値観を全て捨てました。

パウロが心掛けたものが、2つありました。
1つは、人間の知恵では絶対に語らないということでした。以前 持っていた知恵は愚かなものだということが分かり、
人間的な思いで十字架を絶対に伝えないと思っていました。


【Ⅰコリント2章1-2節】

さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

どのような言葉を人々から聞いても、十字架につけられた この方以外には絶対に語らないと決心しました。
人々はパウロ自身が持っている学歴や知識を聞きたいと思っていましたが、パウロは一切語りませんでした。

以前は(学歴や知識を自身の)誇りに思っていましたが、全部捨てて福音を宣べ伝えていきました。
そうすると神様はパウロをとても用いてくださいました。

私たちは、知識や知恵や力がある人もいますが、それらのものが自分の力だと思っているならば、
後に限界を感じます。

そして虚しさや壁にぶつかり、自分が持っていた価値観は何だったのだ?とギリシヤ人と同じ思いになります。
それらのもので自分の人生が素晴らしいものになると思っていたのに、結局最後に手に入れたものは虚しさだけで、
それらのものでは解決できないことが色々とあったのです。

しかし私たちがキリスト教のイエス様の十字架に初めて出会った時に、今まで聞いた価値観とは違うことを感じ、
「これは一体どういう価値観だろう?」という思いがあると私たちの心が開かれていくのです。

キリスト教の中心はイエス様の十字架です。そしてイエス様の十字架の中心は「救い」であります。

他の宗教との差は、救いの部分です。

イエス様が私たちに最も語りたい部分は、
「罪人である あなたがその罪のまま生きるならば、あなた自身がその罪からくる報いを自分で刈り取らなければいけないよ。罪からくる報酬は死であり、永遠の滅びである。救われなければ、あなたは天国へ行くことが出来ない。」ということです。


【Ⅰペテロ2章22-25節】

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

キリストは罪を犯したことがないです。
ですから私たちが犯した罪を、キリストが代わりに全部背負って清算することが出来ました。

「罪人のあなたたちが、あなたがたのために死んだわたし(=キリスト)を信じて受け入れるならば、
あなたの罪は許される。」 これが救いであります。


キリストを信じていない人々に聞きたいことは、あなたが信じている神はあなたにとってどのような方ですか?
あなたの魂を救う方ですか?あなたを愛する方ですか?あなたを助ける方ですか?あなたを守る方ですか?
みなさんもそれを聞いてみたら良いと思います。


私が出会った神様はこのようなお方です。

私の魂を救ってくださいました。私の罪を赦してくださいました。今も私と共におられる方です。
現在もこれから先も私を助ける方です。そして天の御国まで導いてくださる方です。

聖書の中に神様がご自分のことを啓示してくださいましたし、その方は今も生きていて、
私たちの祈りを聞き、私たちを導き、恵みを与えてくださる方です。
ですから1人で歩いているように見えても、決して1人ではないです。いつも共にいてくださり慰めてくださいます。

私たちは損が多かった人生でしたが、キリストに出会って力を受けました。救いを受けて恵みを受けて真理を知り、天の御国に入る希望が得られました。
キリストに出会えたことは何と素晴らしいことでしょう。




また、十字架の信仰を持って生きるとはどのようなことでしょうか?


【ガラテヤ2章20節】

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

誰が自分の中に生きているのかということです。
イエス様が自分の中で生きているようにするためには、古い自分を十字架につけなければならないです。
古い自分ということは、間違えた価値観・思想です。
もう 今までの思想では生きないのだということです。肉体が死ぬことではないです。
それらのものを完全に捨てて、その場所に自分のために命を捨ててくださった十字架のキリストを立たせることであります。
そして、その十字架を見上げます。

キリストからのメッセージ、キリストからの力、キリストからの恵み、それによって私たちは生きる者になります。

私たちは自分に言い聞かせて、新しい価値観で生きるのが十字架中心の信仰です。 (⌒∇⌒)

2013.10.20
聖日礼拝メッセージ

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クリスチャンが語る言葉

テーマは『 クリスチャンの言葉の生活 』です

【マタイの福音書12章35-37節】

心を「良い倉」と「悪い倉」に例えました。
心の中に悪いものがあるならば、それが自然と口から(言葉になって)出てきます。

恵みを受けた人は、言葉が変わっていきます。
以前の言葉は使わなくなります。以前は世の中の言葉を好んで使い、誰かを非難する言葉や
興味のある世のことばかりを語っていました。

しかし恵みを受けた人は、神様のことを語りたくて、うずうずします。誰に対しても神様のことを語ります。
恵みの言葉が、その人の中から出てきます。

言葉は、信仰生活と ものすごく密接な関係があります。

信仰生活をする人が、信仰や神様や恵みの話をしないならば、正しい信仰生活をしていないことであります。

《マタイの福音書12章34節》 に 出てくる「まむしのすえたち」という言葉は、
形では信仰生活を送っているように見えますが、その人たちの口から出る言葉があまりにも悪いのです。
他人を非難したり、罪に定める悪い言葉ばかりが出てきます。

イエス様の言葉はどうだったでしょうか――?
イエス様が来られる以前は、パリサイ人、律法学者、祭司たちが人々に教えていました。
人々はずっとその言葉を聞きながら信仰生活を送っていました。

しかし、イエス様が来られて言葉を語った時に、人々はその言葉を聞き 驚きました。
なぜ驚いたのかというと、(律法学者たちが語る言葉にも似ているのに)イエス様の口から出るのは
恵みの言葉だったからです。

今まで律法学者たちが語っていた(厳しくて 愛のない)言葉で、人々はとても重荷になっていたのですが、
イエス様は、重荷はご自身で負い、人々には恵みを流していきました。
絶望に陥っている人には「心配するな。わたしがあなたと共にいる」と癒し、命を注ぎました。

主から出てくる言葉はすべて私たちにとって益になるものです。

クリスチャンは当然のように、イエス様の言葉を習わなければならないです。
主は「あなたが口を開くならば、どんな言葉を語るのか」と見ておられますので
私たちが口から言葉を出す時には、悪いものを取り出すのか、それとも良いものを取り出して人々に与えるのか、
それを考えなければならないです。

聖書には私たちが避けなければならない言葉や、語らなければならない言葉が書かれています。
私たちは、時が良くても悪くても、口を開いて語らなければならない言葉がたくさんあります。

交わりの時でも、みんな信仰の話をしている時に、黙って何も言わないのは問題であります。
「語る言葉がないです」というのは心が空き缶の状態です。心に何も入っていないので語る言葉がないのです。
神様の言葉が1つも留まっていないので、その人は語る言葉がないです。

また、私たちは語らなければいけなく、語る時には気を付けなければならないのですが、
その前に、私たちは入れ物に気を付けなければいけないです。

悪いものを入れたならば、当然のように悪いものが出てきます。


【エペソ4章29節】

他人を傷付ける言葉を口から出してはいけません。それは相手を汚してしまいます。
自分は他人から悪い言葉を聞きたくないでしょう。
私たちは自分がされたくないことを(他人に)してはいけないです。

悪い言葉を使った本人は忘れるかも知れませんが、後になって神様から裁かれることになります。

クリスチャンは、口(=語る言葉)もクリスチャンでなければ ならないのです。
他の部分はクリスチャンで、口だけはサタン。これはいけないことです。

私たちは言葉を変えなければならないです。これは一夜で出来る事ではないです。

心の入れ物を変えていくならば、自然と使う言葉が変わっていきます。
相手を生かす言葉、慰める言葉、愛の言葉は、恵みを与える言葉であります。


【コロサイ3章16節】

まず自分たちの心の中にキリストの言葉を豊かに入れないと、世のものが入ってくるのです。
毎月みことばの暗唱をしていますが、私たちは心にみことばを蓄えて、必要な時にみことばを出せるように
しておかなければならないです。

聖書のことをたくさん知っていても、知識を誇るのではないです。
自分の知識を誇る人たちがいますが、これは高慢であります。
なぜならば主の言葉は、人に役立つように恵みを流しなさいと語っていますので、高慢を流してはいけないです。

ある人は頭に知識を蓄えて知識を語ります。しかし、それを聞いても相手は命を受けないです。

自分の心で噛みしめて味わい 恵みを受けたものを語るならば、人々はそれを聞いて「私もそうしよう」と思います。

しかし頭の中にある知識を、相手より上に立って教えるならば、
聞いてもどう活かしていけば良いのかがわからないです。知識は知識で終わります。
人に役立つ言葉や恵みを流す言葉を知恵にしていかなければならないです。

「私はこのみことばで、これをやってみました。そしたら本当に神様からの素晴らしい恵みがあって、
そしてこういう結果が出てきました。このみことばで力を受けました。」
これは心に(みことばを)住まわせた言葉です。頭の知識ではないです。

知識は冷たいものであります。知識は「あなた、そんなことも知らないの?」と相手を裁くことになります。
それは恵みにならないし、人の益にもなりません。

真理は正しい言葉でありますが、真理そのものを語る時はその人自身が真理を体験してから語るのが
一番良いです。

まず自分で行い、味わってみて、そして美味しかったものを人に伝えると、相手に慰めを与えることができます。


【コロサイ4章6節】

言葉は内容よりも言い方があります。言い方が悪いと、良いことでもトゲが付いたものになります。
綺麗なお花を渡すならば、トゲは取ってから渡すのが良いです。
「綺麗だなぁ」と思ってもトゲに刺されたなら手放してしまいます。

ですから、私たちが使う言葉もいつも剣であるならば、たとえ真理の言葉であっても親切ではない人が語るなら
剣に変わります。
聖書の言葉はすべて素晴らしいですが、愛のない人や親切ではない人が語るなら、裁くための言葉にしか
聞こえないです。

クリスチャン同士がみことばで裁きあって傷つけていることがたくさんあります。

しかし親切な愛の心で使う言葉なら、叱責の言葉であっても聞き入れるべきであります。

悪い言葉はやめようと努力をしなければならないです。
悪い言葉が出そうな時は口を閉ざし、良い言葉の時は口を開いて語るべきであります。


【詩篇37編30-31節】

【詩篇51編15節】

神様が語って欲しい言葉を語られるようにと祈ることであります。
祈る人は唇に気を付けます。口を開くべきか閉じるべきか、それを判断できます。

私たちは悩みを話したり、問題を話したりすることは良いのですが、ある人たちは常に不平不満や
感謝がなく、いつも自分のことしか語らないのは良くないことであります。
その人は相手の言葉を聞かないです。私たちは聖い会話をするべきであります。
私たちが話している言葉を、常に主が聞いておられるんだということを忘れないでください。

私たちも他人に悪い影響を与える者ではなくて、神様が恵みを流していきなさい、益になる言葉を語りなさいと
語ってありますので、私たちの中に留めて相手に益になるのかを考えてからみことばを使っていきましょう。
 (^∀^)

2013.4.7
聖日礼拝メッセージ

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