からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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知識

キリスト、神の愛―その愛を伝えるのがクリスチャン

テーマは 『 キリスト、神の愛―その愛を伝えるのがクリスチャン 』 です


本当の意味でクリスチャンとは?

イエス・キリスト(神)を愛する人、人々(互い)を愛する人

だれでもイエスを愛する人は、イエスのことばを守ります。


【ヨハネの福音書14章23節】

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちは その人のところに来て、その人とともに住みます。


【ヨハネの福音書14章15節】

もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。



【ヨハネの福音書14章21節】

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を 彼に現します。」


【ヨハネの福音書15章10節】

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、 わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。


【ヨハネの福音書15章12節】

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。


イエス様のことば(戒め)とは?


【ヨハネの福音書15章17節】

あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。


【ヨハネの福音書13章34-35節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

もし互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。




イエスへの愛、人々への愛を通してこの世にイエス、その愛、そして私たちがイエスを愛するクリスチャンということを知ってもらう


なぜこの世に知ってもらうのか?


【ヨハネの福音書3章16-17節】

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、 永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

イエス様がこの世に来た意味、そして神様がわざわざ自分の愛するひとり子をこの世に送ってくださったその意味は、つまりこの世が救われるため。


この世とは?

この世界のすべての人。全員。つまりあなたの周りの人々、家族、友達、同僚、知り合い、近所の人、道端を歩いてる人、すべてです。


人々が救われなければならない。
人々がこのイエス様が来てくださったこと、それほどまでに神様が私たちを愛してくださっていることを知らなければならない。


日本に生きていること、そのことのすごさ

キリストの愛を伝えたくても周りにいなくて伝えられない人もいる。日本に来て福音を伝えたくてたまらなくて、お祈りをささげて、日本語を一生懸命勉強し、お金も一生懸命ためている人がたくさんいる


あなたは本当に隣人を愛していますか?

本当に愛するのならばその人々が滅びていくのを見て平気でいられるわけがない。

イエス様が望んでおられることは、私たちだけがイエスを信じ愛し 救われるのではなく、この世のみんながイエス様を知り、その愛を知り、人々が救われること。

その愛を伝えるのがクリスチャンである。


どうしたら伝わるのか?


【ヨハネの福音書13章34-35節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたが私の弟子であることを、すべての人が認めるのです。


愛を通してこの世はイエスの愛を知る


【ヨハネの福音書15章5-9節】

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。


イエスの愛にとどまり、またわたしたちが求めることでこの世はイエスの愛を知り、実が結ばれ、神様を栄光をお受けになる。


どれだけうまく伝えるか、どれだけ知識がいるかではない。
もちろんうまく伝えること、たくさんの知識を持って伝えることも大切である。

だけど一番大切なのは愛である。その人、人々を愛すること。

つまりその愛する人々すべてが救われること。
自分の楽しみ、自分の喜びのために生きるのではない。


この世のすべての人々が救われてほしいと思っている神様

ひとり子イエス・キリストをこの世に送り出し、十字架で死なせるほどの自分の中の最大限、ベストをしてくださった神様、また自分のいのちをわざわざこのような罪深く、自分のことばかりを愛している私たちのためにすててくださったイエス様。

今もすべての人が救われてほしいと思い、祈ってくださっているイエス様。

その大きな愛のために私たちも もっと神様を愛し、人々を愛し、その救いを伝えていかなければならない。

愛を持ってすること。
それがすべて。(・◇・)ゞ

2015.1.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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十字架中心の信仰とは?

テーマは『 十字架中心の信仰 』です

【Ⅰコリント1章17-24節】

キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

パウロがこの手紙をコリント教会に書きましたが、2000年も前の時代であります。
当時、ギリシヤは世界の文化の中心地のようなところでした。
哲学はどこから出たものでしょうか?
多くはギリシヤから出て来ています。
最も有名なのは、ソクラテスであります。世界や人間に対して根本的な思想は何かと追及するものが哲学です。

ギリシヤ人は日々、そのようなことで論争をしていました。
そして、ギリシヤ人はそれを誇りにしていました。
「わたしたちはこの思想によって生きるのだ」と人々の価値観になりました。

ギリシヤ神話がありますが、数えきれないほどの神々がいて神殿が建てられています。
そこに出てくる神々の名が、今も多くの人々が知っています。
ゼウス、ポセイドン、アポロなど、あまりにも多すぎて覚えきれないほど全てのものに神々がいます。
花の神、建築の神、空の神、太陽の神・・・etc
そして、その神々が戦っています。このように、たくさんの神がいることを彼らは誇りにしていました。

しかし、最近のギリシヤはどのようになっているでしょうか?
世界中にギリシヤの国が恥を受けています。
経済的危機があり、今まで誇りにしてきた思想などは何の役にも立ちません。

本当に苦しい時に何の救いにもならないです。そのような虚しい姿を世界中に見せています。


日本にも、そのようなことがあります。「サムライ精神」という言葉があります。
この言葉はよく使われ、オリンピックでメダルを取った時にも言われます。

しかし、このサムライ精神とはどのような意味でしょうか?

この言葉には良いイメージで使われますが、もし私たちにサムライ精神があったとしたら生きられないと思います。
自己犠牲がありますが目的はないです。一体誰のための自己犠牲でしょうか。
サムライ精神には、仏教や神道や色々な教えが混ざっています。
「命に執着しない」、「君主に対する忠誠心」、「逆境の中でも動じない」、「己に打ち勝ちなさい」と書かれています。
1つ1つの言葉は立派な言葉かも知れませんが、そこには善悪という意識がないです。

聖書は善悪の思想がとても強いです。「良いものは良い、悪いものは悪い」です。
しかし、サムライ精神にはそういうものは無いです。「尊いものは尊く、卑しいものは卑しい」と、上下関係が
あります。

人間は辛い時は泣きたいですし、わめきたい時もあります。
しかし、サムライ精神は 自分の内の中に納めます。そうすると心の病になってしまいます。

ですから、このような思想を持って生きても虚しいものであります。

もしも「サムライ精神をあなたの価値観にしなさい」と言われたら、私たちは遠慮すると思います。

このように国々には それぞれの価値観があります。
長い間、先祖から伝えられてきているので、綺麗ごとになっています。
しかし実際にそれを持って生きていたら満足がありますか?
「私は救われた」という思いはあるでしょうか?―― きっと満足しないと思います。




十字架中心の信仰とはどのようなものなのか、クリスチャンはもっと知らなければならないと思います。

パウロは律法に対しては、立派な知識を持っていました。
元々、彼はイエス様に良いイメージを持っていませんでした。そして偏見の度が普通の人とは違いました。

迫害してきた者の先頭に立っていたのがパウロでした。
しかし、蘇ったキリストに出会って、自分が持っていた価値観が一瞬にして崩れ落ちました。
目が開かれ悟りが来ました。私たちは悟りが来ないと、十字架の価値が分からないです。

それからパウロは変わり、(福音を)伝える側になりました。そして今までの価値観を全て捨てました。

パウロが心掛けたものが、2つありました。
1つは、人間の知恵では絶対に語らないということでした。以前 持っていた知恵は愚かなものだということが分かり、
人間的な思いで十字架を絶対に伝えないと思っていました。


【Ⅰコリント2章1-2節】

さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。

なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

どのような言葉を人々から聞いても、十字架につけられた この方以外には絶対に語らないと決心しました。
人々はパウロ自身が持っている学歴や知識を聞きたいと思っていましたが、パウロは一切語りませんでした。

以前は(学歴や知識を自身の)誇りに思っていましたが、全部捨てて福音を宣べ伝えていきました。
そうすると神様はパウロをとても用いてくださいました。

私たちは、知識や知恵や力がある人もいますが、それらのものが自分の力だと思っているならば、
後に限界を感じます。

そして虚しさや壁にぶつかり、自分が持っていた価値観は何だったのだ?とギリシヤ人と同じ思いになります。
それらのもので自分の人生が素晴らしいものになると思っていたのに、結局最後に手に入れたものは虚しさだけで、
それらのものでは解決できないことが色々とあったのです。

しかし私たちがキリスト教のイエス様の十字架に初めて出会った時に、今まで聞いた価値観とは違うことを感じ、
「これは一体どういう価値観だろう?」という思いがあると私たちの心が開かれていくのです。

キリスト教の中心はイエス様の十字架です。そしてイエス様の十字架の中心は「救い」であります。

他の宗教との差は、救いの部分です。

イエス様が私たちに最も語りたい部分は、
「罪人である あなたがその罪のまま生きるならば、あなた自身がその罪からくる報いを自分で刈り取らなければいけないよ。罪からくる報酬は死であり、永遠の滅びである。救われなければ、あなたは天国へ行くことが出来ない。」ということです。


【Ⅰペテロ2章22-25節】

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

キリストは罪を犯したことがないです。
ですから私たちが犯した罪を、キリストが代わりに全部背負って清算することが出来ました。

「罪人のあなたたちが、あなたがたのために死んだわたし(=キリスト)を信じて受け入れるならば、
あなたの罪は許される。」 これが救いであります。


キリストを信じていない人々に聞きたいことは、あなたが信じている神はあなたにとってどのような方ですか?
あなたの魂を救う方ですか?あなたを愛する方ですか?あなたを助ける方ですか?あなたを守る方ですか?
みなさんもそれを聞いてみたら良いと思います。


私が出会った神様はこのようなお方です。

私の魂を救ってくださいました。私の罪を赦してくださいました。今も私と共におられる方です。
現在もこれから先も私を助ける方です。そして天の御国まで導いてくださる方です。

聖書の中に神様がご自分のことを啓示してくださいましたし、その方は今も生きていて、
私たちの祈りを聞き、私たちを導き、恵みを与えてくださる方です。
ですから1人で歩いているように見えても、決して1人ではないです。いつも共にいてくださり慰めてくださいます。

私たちは損が多かった人生でしたが、キリストに出会って力を受けました。救いを受けて恵みを受けて真理を知り、天の御国に入る希望が得られました。
キリストに出会えたことは何と素晴らしいことでしょう。




また、十字架の信仰を持って生きるとはどのようなことでしょうか?


【ガラテヤ2章20節】

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

誰が自分の中に生きているのかということです。
イエス様が自分の中で生きているようにするためには、古い自分を十字架につけなければならないです。
古い自分ということは、間違えた価値観・思想です。
もう 今までの思想では生きないのだということです。肉体が死ぬことではないです。
それらのものを完全に捨てて、その場所に自分のために命を捨ててくださった十字架のキリストを立たせることであります。
そして、その十字架を見上げます。

キリストからのメッセージ、キリストからの力、キリストからの恵み、それによって私たちは生きる者になります。

私たちは自分に言い聞かせて、新しい価値観で生きるのが十字架中心の信仰です。 (⌒∇⌒)

2013.10.20
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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クリスチャンが語る言葉

テーマは『 クリスチャンの言葉の生活 』です

【マタイの福音書12章35-37節】

心を「良い倉」と「悪い倉」に例えました。
心の中に悪いものがあるならば、それが自然と口から(言葉になって)出てきます。

恵みを受けた人は、言葉が変わっていきます。
以前の言葉は使わなくなります。以前は世の中の言葉を好んで使い、誰かを非難する言葉や
興味のある世のことばかりを語っていました。

しかし恵みを受けた人は、神様のことを語りたくて、うずうずします。誰に対しても神様のことを語ります。
恵みの言葉が、その人の中から出てきます。

言葉は、信仰生活と ものすごく密接な関係があります。

信仰生活をする人が、信仰や神様や恵みの話をしないならば、正しい信仰生活をしていないことであります。

《マタイの福音書12章34節》 に 出てくる「まむしのすえたち」という言葉は、
形では信仰生活を送っているように見えますが、その人たちの口から出る言葉があまりにも悪いのです。
他人を非難したり、罪に定める悪い言葉ばかりが出てきます。

イエス様の言葉はどうだったでしょうか――?
イエス様が来られる以前は、パリサイ人、律法学者、祭司たちが人々に教えていました。
人々はずっとその言葉を聞きながら信仰生活を送っていました。

しかし、イエス様が来られて言葉を語った時に、人々はその言葉を聞き 驚きました。
なぜ驚いたのかというと、(律法学者たちが語る言葉にも似ているのに)イエス様の口から出るのは
恵みの言葉だったからです。

今まで律法学者たちが語っていた(厳しくて 愛のない)言葉で、人々はとても重荷になっていたのですが、
イエス様は、重荷はご自身で負い、人々には恵みを流していきました。
絶望に陥っている人には「心配するな。わたしがあなたと共にいる」と癒し、命を注ぎました。

主から出てくる言葉はすべて私たちにとって益になるものです。

クリスチャンは当然のように、イエス様の言葉を習わなければならないです。
主は「あなたが口を開くならば、どんな言葉を語るのか」と見ておられますので
私たちが口から言葉を出す時には、悪いものを取り出すのか、それとも良いものを取り出して人々に与えるのか、
それを考えなければならないです。

聖書には私たちが避けなければならない言葉や、語らなければならない言葉が書かれています。
私たちは、時が良くても悪くても、口を開いて語らなければならない言葉がたくさんあります。

交わりの時でも、みんな信仰の話をしている時に、黙って何も言わないのは問題であります。
「語る言葉がないです」というのは心が空き缶の状態です。心に何も入っていないので語る言葉がないのです。
神様の言葉が1つも留まっていないので、その人は語る言葉がないです。

また、私たちは語らなければいけなく、語る時には気を付けなければならないのですが、
その前に、私たちは入れ物に気を付けなければいけないです。

悪いものを入れたならば、当然のように悪いものが出てきます。


【エペソ4章29節】

他人を傷付ける言葉を口から出してはいけません。それは相手を汚してしまいます。
自分は他人から悪い言葉を聞きたくないでしょう。
私たちは自分がされたくないことを(他人に)してはいけないです。

悪い言葉を使った本人は忘れるかも知れませんが、後になって神様から裁かれることになります。

クリスチャンは、口(=語る言葉)もクリスチャンでなければ ならないのです。
他の部分はクリスチャンで、口だけはサタン。これはいけないことです。

私たちは言葉を変えなければならないです。これは一夜で出来る事ではないです。

心の入れ物を変えていくならば、自然と使う言葉が変わっていきます。
相手を生かす言葉、慰める言葉、愛の言葉は、恵みを与える言葉であります。


【コロサイ3章16節】

まず自分たちの心の中にキリストの言葉を豊かに入れないと、世のものが入ってくるのです。
毎月みことばの暗唱をしていますが、私たちは心にみことばを蓄えて、必要な時にみことばを出せるように
しておかなければならないです。

聖書のことをたくさん知っていても、知識を誇るのではないです。
自分の知識を誇る人たちがいますが、これは高慢であります。
なぜならば主の言葉は、人に役立つように恵みを流しなさいと語っていますので、高慢を流してはいけないです。

ある人は頭に知識を蓄えて知識を語ります。しかし、それを聞いても相手は命を受けないです。

自分の心で噛みしめて味わい 恵みを受けたものを語るならば、人々はそれを聞いて「私もそうしよう」と思います。

しかし頭の中にある知識を、相手より上に立って教えるならば、
聞いてもどう活かしていけば良いのかがわからないです。知識は知識で終わります。
人に役立つ言葉や恵みを流す言葉を知恵にしていかなければならないです。

「私はこのみことばで、これをやってみました。そしたら本当に神様からの素晴らしい恵みがあって、
そしてこういう結果が出てきました。このみことばで力を受けました。」
これは心に(みことばを)住まわせた言葉です。頭の知識ではないです。

知識は冷たいものであります。知識は「あなた、そんなことも知らないの?」と相手を裁くことになります。
それは恵みにならないし、人の益にもなりません。

真理は正しい言葉でありますが、真理そのものを語る時はその人自身が真理を体験してから語るのが
一番良いです。

まず自分で行い、味わってみて、そして美味しかったものを人に伝えると、相手に慰めを与えることができます。


【コロサイ4章6節】

言葉は内容よりも言い方があります。言い方が悪いと、良いことでもトゲが付いたものになります。
綺麗なお花を渡すならば、トゲは取ってから渡すのが良いです。
「綺麗だなぁ」と思ってもトゲに刺されたなら手放してしまいます。

ですから、私たちが使う言葉もいつも剣であるならば、たとえ真理の言葉であっても親切ではない人が語るなら
剣に変わります。
聖書の言葉はすべて素晴らしいですが、愛のない人や親切ではない人が語るなら、裁くための言葉にしか
聞こえないです。

クリスチャン同士がみことばで裁きあって傷つけていることがたくさんあります。

しかし親切な愛の心で使う言葉なら、叱責の言葉であっても聞き入れるべきであります。

悪い言葉はやめようと努力をしなければならないです。
悪い言葉が出そうな時は口を閉ざし、良い言葉の時は口を開いて語るべきであります。


【詩篇37編30-31節】

【詩篇51編15節】

神様が語って欲しい言葉を語られるようにと祈ることであります。
祈る人は唇に気を付けます。口を開くべきか閉じるべきか、それを判断できます。

私たちは悩みを話したり、問題を話したりすることは良いのですが、ある人たちは常に不平不満や
感謝がなく、いつも自分のことしか語らないのは良くないことであります。
その人は相手の言葉を聞かないです。私たちは聖い会話をするべきであります。
私たちが話している言葉を、常に主が聞いておられるんだということを忘れないでください。

私たちも他人に悪い影響を与える者ではなくて、神様が恵みを流していきなさい、益になる言葉を語りなさいと
語ってありますので、私たちの中に留めて相手に益になるのかを考えてからみことばを使っていきましょう。
 (^∀^)

2013.4.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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