からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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真理

騒がしい世の中を見て思うこと

テーマは 『 騒がしい世の中を見て思うこと 』 です

【アモス書5章22-24節】

たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。

あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。

公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。

世の中がとても騒がしいです。

アメリカでは選挙の時も選挙が終わった後も、国民が騒ぎ出しています。


各地で暴動化しています。

それぞれ 今まで溜まっていた怒りやうっぷん、心配、無力感など様々な感情が一気に表面化してきました。


韓国でも昨夜100万人の人たちがデモを行いました。

そして、そのデモに対して「朴大統領はそこまで悪くない。」と反対する人たちもデモを行っていました。


同じ人間同士ですが、人間の考えは両極端です。


右翼と左翼、悪魔と天使、保守派とリベラル派、自由貿易と保護貿易など両極端を 時計の振り子のように行ったり来たりしています。


そして互いに激しくぶつかり合っています。

みんな自分の考えが正しいと思って、反対の意見に対しては激しく反発し、怒りをぶつけています。


これは今に始まったことではなく、昔からあることです。

それによって内戦が起こったり、戦争が起こったりします。


こうなると人々は戦いながらも、すごく不安を感じます。

社会が不安定になり、秩序が壊れることは、人々にとって とてもこわいことです。


それを狙って悪を働く者や自分の欲望を満たそうとする者が必ず出て来るからです。


アメリカと韓国は今とても揺れています。

韓国は現役の大統領に対して、“辞めろ” と連日デモが起こり、アメリカでは新しく大統領になったトランプに対して、彼を大統領として認めたくない人々が絶望的になってデモを行っていますし、トランプの支持者たちも 色々と過激的になっていて、いつまでこれらの状態が続くかわからない状態です。






わたしたちクリスチャンは、これらの状態をどのように見るべきでしょうか。


クリスチャンは肉の思いと肉の目だけで物事を判断してはいけないです。
それをすると、肝心な神様の計画とみこころを見ることが出来なくなります。


私たちが肉の思いに流されることを一番期待し喜ぶのはサタンです。


神様は、どんな状況の中でも 私たちが “神の目” で見ることを期待します。


世の中がどんなに両極端に分かれていても、神様は右にも左にもそれることなく 真理の道を歩きます。

それが人間とはまったく違います。


人間は都合によって、感情によって、また他人の意見や惑わしによって、いつでも手のひらを返すように心を変える信頼出来ない生き物です。


ですから人間がまともに生きようとするならば 主を恐れ、主のことばに従って歩むことです。


これ以外に道はありません。

歴史の審判者は、“神” であって 人間ではありません。


みんながまるで裁判官のように裁き合っていますが、それが正しいかどうかの判断は誰がしますか?

そこでも判断が分かれていきます。


このような人間の姿を見て、神が語るメッセージは何でしょうか?


【アモス5章24節】

公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。

公義と正義は神のことばです。

真理を行えば、右にも左にもそれることなく まっすぐに歩くことが出来ます。


まっすぐの道こそが公義であり、正義です。


【アモス書5章14-15節】

善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。

悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない。

人間は善人に見え、善を愛するように見えても、心の中を覗いてみると、神が語った次のような姿です。


【創世記6章5節】

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

【エレミヤ書17章9-10節】

人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。

わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれの生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。






みなさんはこの言葉に反論できますか?

私の心には悪がないと――。


私は反論できません。なぜなら神が言われる通りの者だからです。

自分の中に いつも悪い思いがあることを知っています。


環境が悪いとか 人が悪いとか言う前に、自分自身が腐敗していることに まず気づかないといけないです。


そこで必要なのが、真理の道を歩まず脇道にそれて生きている自分の生き方を、まず悔い改めることです。


曲がった道にいながら、いくら正義と公義を叫んでも それはむなしいことばであり、それ自体が悪です。



自分の思い、主張、生き方が神の言葉に沿っているかどうかを、まず調べるのが先だと思います。


そして自分が真理の中にいるならば主張しても良いと思います。

また、公義と正義を行う生き方をするためには、次の聖書の言葉から学ぶ必要があります。

イエス様に対する預言のことばですが、そこに私たちが学ぶべき姿があります。


【イザヤ書11章1-5節】

エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。

その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。

この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、

正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。

正義はその腰の帯となり、真実は胴の帯となる。

公義と真実を 帯として身に着けて初めて その力を発揮することが出来ます。


そういうものを持たない者が騒ぎ出すと国々は滅びていきます。

特に政治家たちはこれを備えていないといけないです。


すべての権力は、神がそれを使って 国と国民のために使うように与えているのに、それを自分の利益、また特定の人の利益のために使うことはとんでもないことです。


ですからその人たちも、そういう利益を捨てて主を恐れ、主のことばに従う時に 主の助けと恵みを受けるようになるでしょう。

そして一般市民に必要なものは、次のみことばです。


【ローマ12章16節】

互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

このように主のことばに立ち返り、自分がいま何をすべきかを わきまえて行っていくならば、平和の主が共にいて下さいます。


闇の力はどんどん人々の心に憎しみ、怒り、敵対心を入れて争うように仕向けますが、それに惑わされて悪の流れに流されてはいけないです。


ソドムとゴモラの町は、正しい者10人がいなかったために 主の裁きを受けて滅ぼされました。


罪から立ち返り、公義と正義、真実の心をもって行い、世界のため、人々のために祈る人が主の目には正しい者に映ります。

こういう姿に私たちがなることを主は願っています。


非難し傷つけ合うと ますます悪に陥るだけです。

このような時代を主のことばの知恵によって乗り越えていきたいと願います。
(*・ω・)ノ

2016.11.13
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神の選びと召しの目的

テーマは 『 神の選びと召しの目的 』 です


【第2テサロニケ2章13-14節】

しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。

ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。

日本では春と秋に園遊会が開かれます。

天皇、皇后の招待によって、議会の議長、各界の著名人、功績者などが配偶者と共に招かれるので 2千人を超える人々が参加します。


誰でも招かれるのではなく、その時に活躍した人たちが招かれると思います。

招かれた時に、嫌がって断る人がいるでしょうか。

特別な理由がない限り断る人はいないと思います。


むしろ天皇、皇后からの招待だからこそ 光栄と思って喜んで参加するでしょう。


私が思うには まことの天の神に招待されることほど、この世で一番光栄な招待はないと思います。


その価値を知らない人はそうとは思わないでしょうが。


園遊会で天皇と会話をしている人たちを見ると、みんな緊張しているのが見てわかります。


救われた人が いつか天国で神と対面した時はどうでしょうか。

緊張よりは あまりにも嬉しくて言葉も出ないと思います。

想像するだけで心にこみあげてくるものがあります。


神様が私たちを特別に選び、召されるにはどのような目的があるでしょうか?


功績も活動もしていない者たち、罪と咎の多い者をなぜ選ぶのでしょうか。

この世では招かれることもない者たちを 神様が選び召される目的を、私たちは知る必要があります。


知らないと価値が分からず、感謝も出来ず、宝物を持ち腐らせる結果になります。


神様ははっきりとした目的をもって私たちを選んで下さいました。

今回はそのことを伝えます。




1.救いとキリストの栄光を得させるために




今回の本文に そのことが書かれてあります。


神様が私たちを選ぶ目的は たましいの救いを得させるためです。

このことは救われた人ならば皆が知っています。


救われないと誰も神の国に入ることは出来ません。

神の国に入る第一条件は “救われること” です。


神の恵みと福音によって罪人が救われます。

決して人間の努力や力で救いを受けることは出来ません。


神の真理のことばを聞いて 信仰で受け止める時に、神の恵みによって罪赦され、救いを得ます。


そしてキリストの栄光を得させるためです。

人からの栄光ではなく、神の栄光を与えて下さるために召して下さいます。


勝利の行列に私たちを入れて下さいますし、キリストの栄光も与えて下さいます。




2.完全な者、強い者、不動の者とするため




【第1ペテロ5章10節】

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

私たちをありのままの姿で選んで下さる神様ですが、ありのままの姿で生きるのではなく、新しい人にするように私たちを変えるために召して下さいました。

これは祝福です。


神にあって私たちは変わります。

それも弱い者ではなく強い者に、完全な者に変わります。

召しの目的です。




3.聖潔を得させるため




【第1テサロニケ4章7節】

神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためでる。



4.キリストの平和を与えるために




【コロサイ3章15節】

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

救われた人はイエス様によって神と和解した人です。


和解した人に与えられるのがキリストの平和です。

罪人にはこの平和がありません。




5.神のしもべとして用いるために




【ローマ1章1節】

神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、

召されたすべての人は しもべとしておのおの主から受けた召命があります。
忠実に従う時に、神は必ずその人に良い報いを与えて下さいます。




6.祝福を受け継ぐために




第1ペテロ3章9節】

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのですから。

祝福を受け継ぐために召された人は、祝福の種を蒔かなければなりません。


悪を蒔いて祝福を願っても祝福はありません。
蒔いた種が悪いからです。

祝福の種を蒔けば祝福を刈り取ります。


神は このようにすべて良いものを与えるために 私たちを選び、私たちを召されます。


しかし、このことを どんなに人に話してもほとんどの人は関心を示しません。

目に見えるものではないと見向きもしません。

(その人たちは)人からの栄誉ではないと興味も示しません。


ある人は 「そんなものは要りません」 と拒否します。

ある人は知ろうとしません。

また 疑います。
「今は忙しいから いつか考えます」 と言って、神の選びと招待を断ります。


これは本当に愚かな選択だと思います。
自分の祝福を自分で断ることです。


偉い人の招待は 他のことを犠牲にしても喜んで応じる人が、神の招待だけは嫌って断る人が多いです。


このように素晴らしい祝福をどこで得られるでしょうか?

そして、すでにこの召しを受けた人は 召しにふさわしく生き、絶えず神様から受けた恵みに感謝して、さらなる祝福を神から受けましょう。
(・∀・)


2016.5.1
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私たちのための主の祈り

テーマは 『 私たちのための主の祈り 』 です

【ヨハネの福音書17章15-22節】

彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。

またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

今月はキリストの受難、十字架の死、復活があります。

その流れを今月のテーマとして語ります。


イエス様は いつも祈りをささげる方でしたが、特に自分の死が迫って来た時に、弟子たちのためにいつもより長い祈りをしました。

聖書に書かれたイエス様の祈りで、ヨハネの福音書17章の祈りが一番長いです。


その内容は弟子のため、また私たちのための祈りでした。

その祈りには、主の深い愛と主の願いがありました。


そして私たちに対する主の期待も反映されています。


今回は 祈りの内容に心を向けたいと思います。




・悪い者からの守りを祈る




悪い者に出会って良いことはありません。

サタンはいつも聖徒たちを狙います。


罪を犯させるために誘惑して、サタンがどれほど策略をもって働くか分かりません。


それに気付かず眠っている聖徒が多いのは事実です。

皆さんは目を覚ましていますか?
悪い者に いつも警戒していますか?


3年間、弟子たちと共にいたイエス様は 弟子たちの姿をよく見ていました。


肉の欲と思いで 互いに妬んだり、高慢になったり、争ったりする姿を見ました。

主と共にいながらも サタンの誘惑に負け、罪を犯していました。

そのことを深刻に考えている弟子はいませんでした。


悪者を警戒するように教えても、実行できていない弟子たちを見て、死が迫った時でも主は彼らのために祈りました。

主は 彼らの活躍、健康、幸せ、成功などは祈りませんでした。


なぜなら それより大切なことは、彼らが罪を犯さないことでした。


“罪” は神との関係を悪くし、いのちに関わることです。


人は罪を犯すと “罪の奴隷” になってしまいます。
それが神との関係を壊す要因になります。


“ 罪から来る報酬は死 ” ですので、悪の道へと誘う悪い者から守って下さるように祈りました。


この祈りはいつも必要な祈りです。

私たちも 神様に、悪い者から守って下さるように祈らないといけないです。

イエス様がそのように祈ったならば、私たちもそのように祈ることです。


実際に十字架にかかる前の晩に悪い者が近付くことを知っている主は 必死に祈りました。


そして弟子たちにも 「誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさい。」 と何度も命じました。

しかし眠気に負けた弟子たちは、誰も祈ることができず寝てしまい 祈りが出来ませんでした。


その結果、祈りがなかったので 人を恐れて、信仰から離れ、自分たちを愛し育てたイエス様をみんな裏切りました。


もし彼らのためのイエス様の祈りがなかったならば、彼らは誰も立ち直ることが出来なかったと思います。

そして主のための働きも出来なかったと思います。


ある時に、弟子たちが “祈りを教えて下さい” と言われた時に、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい。」と祈るように教えました。

しかし彼らは その意味が分からなかったですが、あやまちを犯した後に その祈りの重要性をすごく実感したと思います。


弱い私たちも 主が私たちのために「悪い者から守って下さい」と祈ったように同じく祈ることです。




・聖別されること祈る




ヨハネの福音書17章17節にある 「真理によって彼らを聖め別ってください。」 と祈りました。


【ヨハネの福音書8章32節】

そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

このような みことばがありますが、“真理を知ることは キリストを知ること” で、“ 自由になることはキリストを信じて信頼し服従すると罪から解放され罪に支配されることがない” ということです。


罪は私たちを汚しますが、罪赦され、真理の支配を受けると聖くなっていきます。


神の願いは 私たちが聖なる者になることです。

“聖” は神の属性です。


そして信じる者がますます聖化されることを主は願っています。

新しく生まれ変わった者にはこれが必須です。

次の箇所は “聖化” に関することばです。


【エペソ4章23-24節】

またあなたがたが心の霊において新しくされ、

真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

“聖化” は、聖霊抜きにして出来ることではありません。


聖霊が信徒の中に働いて、罪の汚れから解放し、新しい人にして、みこころに従うように、良い行いが出来るようにして下さいます。


“救われたので それで万事OKという事はない” です。


ますます聖なる者となるために、罪から離れ、真理に従うことが大切です。

聖め別たれることは、聖別されることですから、そのためには神の言葉に従うことが必要です。


みことばは 教えと戒めと矯正と義の訓練とに有益で、私たちを聖め、良い働きが出来るようにします。




・一つとなるように祈る




ヨハネの福音書17章21-22節で  一つになるように祈りました。


これは信徒たちが一つになることは もちろんですが、教会が一つになることを祈りました。


イエス様と父なる神は いつも一つでした。


教会はキリストの体で、かしらはキリスト、私たち信徒は 体である教会の各部分です。

そして教会が一つになることは、全世界の教会が連合するという意味ではなく、本質的な側面での統一性を意味します。


父なる神とイエス様はすべてにおいて いつも一致していました。


互いが愛し尊重していましたし、互いに高めていました。

それは素晴らしい関係でした。


それと同じように、私たちが 主と一致すること、聖徒たちもキリストにあって一つになることを祈りました。

教会の体の一部分になった信徒たちが “一つ” になることで、神とキリストを伝えることが出来ます。


分裂したり、争ったりすると キリストを伝えることが出来ません。

そんな所にたましいを導きたいとは誰も思わないですね。


年齢や出身、考えが違っても 互いに愛し合い、人を自分よりも優れた者と思い、互いに重荷を負い合う時に “一つ” になれます。


非難したり、壁を造ったり、差別することは みことばに背くことです。

主は私たちに合わせるために卑しい人間の姿になりました。

それが模範です。


大した者でもない私たちが高ぶった思いをもって一つにならないと、主もその人と一つになることが出来なくなります。


主が与えて下さった新しい戒めが、次の箇所にあります。


【ヨハネの福音書13章34節】

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

これが一つになれる一番の方法です。

イエス様は、最後の日も このように弟子たちや私たちのために祈って下さいました。


その時、イエス様はどのような気持ちで祈ったのかをよく考えることです。

主の祈りが無駄にならないように、その祈りが自分の身になるように同じ祈りをしながら生きることです。


罪人、悪を行う者、汚れた者、分裂を起こす者は 神に喜ばれることも、御国に入ることもありません。

私たちを愛した主は 一人でも失われる者がないように、心を込めて祈りました。


日々、目を覚まして祈っているならば 悪者の誘惑に負けることはありません。

聖くなればなるほど 神を見ることが出来ますし、神の子と呼ばれます。

そして教会を愛し、キリストを愛し、聖徒を愛するならば それによって一つになれます。


主が祈ったように祈りながら実行してみましょう。
v( ̄∇ ̄)v

2016.6.14
聖日礼拝メッセージ

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悪魔との戦い方

テーマは 『 悪魔との戦い方 』 です

【ヤコブ書4章7節】

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

先週は 「悪魔の正体と策略」 に対して学びました。


悪魔は軽く考えてはいけない、決して弱い存在ではないです。

そのことをまず しっかりとわきまえましょう。


「使徒の働き」 を読んでみると分かります。

使徒パウロが命じると 悪魔は出て行きました。

それを見たユダヤの祭司長の7人の息子たちが、悪霊につかれている者に向かって主イエスの名をとなえました。


【使徒の働き19章12-16節】

「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」

このように言ってみましたが、次のように悪霊が答えました。


「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」

そして、悪魔は 彼らに飛びかかり、2人の者を押しつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負って逃げだしました。


悪魔は相手を見抜いています。

勝てる人と負ける人を見ただけで分かります。


悪魔は人間より はるかに力があるので、人間をまったく恐れません。


むしろ人間を支配して、自分の奴隷にし、“世の支配者” として君臨しています。


3階建ての家で例えるならば、1階は人間、2階は悪魔、3階は神様が住んでいます。

神様が 1番力があります。

次に力があるのは悪魔で、最後が人間です。


ですから、悪魔に勝つためにはどうしたらよいか、力ある神に戦い方を教えてもらうことです。


そして私たちが3階に引っ越しをし、神と共に住むことです。


聖書には 悪魔の策略もありますが、神の勝利の秘策も色々と紹介されています。


今回は避けられない悪魔との戦い方を主のことばから学びます。




・神に従って悪魔に立ち向かう




悪魔は “私たちが神と共にいる時、神に従っている時” に私たちを攻撃しても勝利することは出来ません。


なぜなら悪魔は、私たち人間のことは全く恐れないですが、神には勝てないので 神を恐れています。

神の前では(悪魔は)逃げ去ります。


私たちがいつも神と共にいて、神に従うと、神は私たちに悪魔を追い出す権威を授けて 悪魔に勝利出来るようにして下さいます。


すると悪魔は、その権威の前に思うように働くことが出来ず、私たちが “主の名” によって追い出すと悪魔は出て行きます。


パウロはその権威があったので、悪魔を追い出しましたが、その権威がない者が追い出した時に、反対に悪魔の攻撃を受けて 自分たちが悪魔から逃げ去りました。


ですから神は “神に従って、悪魔に立ち向かいなさい” と命じました。

権威もなく、1人で戦うと悪魔からひどい目に遭います。


悪魔との戦いは、ネット世界のゲームの戦いではなく、実際の戦いです。


サタンが1番標的にするのは、“クリスチャンでありながら 神に従わない人、神と共に歩まない人” です。


その人たちは神を信じているのに、いつまで経っても悪魔から自由にされず支配されています。


その人たちは悪魔の言うことはよく聞いても、神の言うことには聞かず、死んだ信仰状態です。

悪魔に支配されているので、生まれ変わったとは言えない状態です。



イエス様は「私の中にとどまりなさい。私を離れては何も出来ない。」と言われました。


悪魔との戦いに勝ちたいならば、主の中にとどまりながら、主に従うことが最も大切です。


悪魔は強いですし、数も とても多いです。

次々と攻撃をしかけますので、神の中が一番安全な場所です。


サムソンもダビデも主と共にいて、従った時は強い敵に勝利しましたが、欲望に心が取られた時にサタンがしかけた罠に引っ掛かり、罪を犯し、サタンに勝利をもたらしました。


彼らが悔い改め主に立ち返った時に、再びサタンに勝利することが出来ました。


ですから悪魔に立ち向かうためには、いつも主に従って主の中にとどまることが必要です。




・神のすべての武具を身に着ける




【エペソ6章10-17節】

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

足には平和の福音の備えをはきなさい。

これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

神は “キリストの兵士” として召された聖徒たちが、霊的戦いで勝利出来るように “神の武具” を用意して下さいました。


霊的戦いをする聖徒たちは、必ず神の武具を着ないといけないのに、この武具があることすら知らないクリスチャンが多いです。

みことばは知っていても、着ていない人が多いです。


その人たちは何を持って悪魔と戦っているでしょうか?
肉の力で戦っているでしょうか?それとも、大声が武器でしょうか?


人と人、国と国の戦いには 目に見える武器が必要ですが、(目には見えない)霊的存在である悪魔との戦いには 神から言われた “神のすべての武具” が必要です。


神の武具には、神の力と守り、恵みがありますので、それによって戦うならば、勝利は間違いないです。


サタンにいつもやられている人は、神の武具がない “裸の状態” で出て行くのでサタンの捕虜にされてしまいます。

そして神が助けてくれなかったので、「すべては神様のせいです」と神に文句を言います。

これは とんでもないことです。


裸で手ぶらの状態で 神の指示も無視して敵の前に出るならば、物笑いです。

それでは あっという間にサタンの奴隷にされてしまいます。


神の武具を 【ローマ13章12節】 では、「光の武具」と言っていますし、【第2コリント6章7節】 では「義の武器」と言われています。


闇である悪魔は 光には勝てませんし、不義である悪魔は 義の前では勝利出来ません。






また、神のすべての武具に何があるのかを学びます。


腰には “真理の帯” です。

真理は、世の価値観・偽りから私たちを守ります。


この世ではサタンが蒔いた価値観にあふれています。

そのほとんどが真理に逆らう価値観です。


ですから(この世は)神に敵対しながら生きています。


世の価値観に勝つためには、真理による価値観と行動が強力な武器になります。


胸当ては 急所を守る役割をしますが、“正義の胸当て” は、神の言葉に忠実に従うことで着けることが出来ますし、その胸当てはサタンの惑わしの火矢から守ってくれます。


福音の履き物は“ 福音を伝えること” で、サタンの勢力を打ち破ります。

信仰の大盾は、“主の力を信頼して、敵の攻撃を防ぐことも攻撃する” ことも出来ます。


また信仰は “世に勝つ力” です。


救いのかぶとは、“救いを確信すること”で、大胆に戦うことが出来ます。

神の救いが確信できないとサタンとの戦いに恐れが出て、勝つことが出来ません。


手には聖霊が与えて下さった みことばの剣をしっかり握って “悪魔を攻撃” します。




・祈りによって戦う




【エペソ6章18節】

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

兵士がどんなに完全武装していても 眠っているならば、あっという間に敵にやられてしまいます。


聖書は、目を覚まして御霊によって祈るように命令しています。

それは敵がいつ攻撃するか分からないからです。

“祈り” によって神の守りと恵みを受けることが出来ます。


霊的戦いは激しいので、勝つためには神の助け、守り、恵みが必要です。


イエス様も 十字架を前にして、ゲッセマネの園で汗が血のしずくになるまで祈ったので、悪魔との激しい戦いに勝利することが出来ました。


イエス様が弟子たちには「誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさい」と何度も言いましたが、誰も祈らず眠ってしまったので戦いに敗れ、イエス様を裏切り、散々な目に遭いました。


“祈り” がどんなに重要な戦いの武器になるかは、このことで弟子たちはすごく分かりました。

その後は祈りに専念する弟子たちになりました。


また、悪霊に取りつかれた少年が来た時に 弟子たちだけで悪霊を追い出そうとしましたが、出来ませんでした。

しかしイエス様が来て悪霊を追い出しました。


そこで弟子たちは「なぜ自分たちはそれが出来なかったのか」と主に聞きました。

その時も主は、悪霊を追い出すために “祈りが必要であること” を教えました。


【マルコの福音書9章29節】

「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

普段から祈りがしっかり出来ている人は、サタンとの戦いに強いです。

自分に力があるからではなく、祈りによって神に頼り、神の助けと恵みを受けるからです。


サタンとの戦いはますます強く巧妙になります。


戦いを恐れるのではなく、神の中にとどまること、神に従うこと、神のすべての武具を身に着けること、そして目を覚まして 絶えず祈ることで、勝利出来ますので、後は大胆に悪魔に立ち向かいましょう。
( ̄‥ ̄)=3

2016.2.21
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖書にある繁栄の原則

テーマは 『 聖書にある繁栄の原則 』 です

【詩篇122篇9節】

私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。



繁栄の原理





【創世記26章12-13節】

イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。

こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった

新聞を読んでもテレビを見てもネットを読んでも経済的な困難や問題に対する内容がとても多いです。

イサクが生きた時代もそうでした。その地にききんがあって彼はそこに住む事が出来ず生きる場所を探して見つけたのがペリシテの地でした。

ペリシテ人は外国人の労働者にいい仕事場やいい土地を与えることはしませんでした。
しかし神様が祝福した時に、その年に百倍の収穫を得ました。

百万円を投資して一年で1億円を稼いだことになります。聖書で神様は30倍、60倍、100倍祝福すると語りました。

聖書によれば神と共に歩んだ人、神の繁栄の原理に従って生きた人々は環境を超越して繁栄を経験しましたし、それは今も変わりがありません。


【創世記13章2節】

アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。

モーセの祝福は次の箇所です。

【申命記34章7節】

モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。

ヨブの祝福は次の箇所です。

【ヨブ記42章12節】

主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。


ヨブは一度 無一文になりましたが、神に感謝して従ってっきたので、以前よりも2倍の祝福が与えられました。

神様から繁栄の祝福を受けて金持ちになった人たちの心が変質して神様を失望させた事が多いですが、もし神様の祝福を受けて神様が喜ぶように使うなら すべきことはたくさんあります。


世の富が邪悪な者たちに集められ、この世を腐敗させ、罪を犯させ、人々に悪い影響を与えることに使われることがいいですか?それとも世の富が神の人々に与えられ良いことのために使われるのがいいですか?
当然少しでも良い所に使われるのがいいです。


聖書では信じる者達に清く貧しく生きるように語ってないです。
私たちが祝福を与える神様から祝福を受けて繁栄することを主は願っておられます。




繁栄適用




聖書の繁栄原理は永遠に変わりません。しかしその原理を適用する方法はいつも変わります。
原理が“真理”という衣を着ているなら、方法は“時代”という衣を着ています。

真理が永遠であるように原理も永遠です。しかし時代が変わるように繁栄を適用する方法はいつも変わります。


たとえば伝道することは神の御心であり私たちは伝道しなければなりません。

昔は路傍伝道をすると人々が集まって話を聞きました。
しかし今はどうですか?

都会の生活は忙しくて足を止めてじっくり聞く人はほとんどいません。
チラシをたくさん配ってもそんなに効果がありません。


時代にあう方法を見つけてしなければならないのに昔のやり方に縛られている人々や教会も多いです。

誰かがやった方法を真似するのは難しくありません。
しかし新しい方法や道を作るのはとても難しいことです。


繁栄する人々は繁栄の原理を新しい方法で適用する知恵があります。

繁栄した人たちはすでに繁栄した人たちから繁栄の原理を学んでその原理を自分自身に適用するのに卓越した人たちです。

時代の状況把握が早く、それに合うまったく新しい方法を作り出します。
神様は信仰の人々にはそのような創造の力を与えます。


新しい服を着なければならないのに古い服を脱ぐ事を恐れている人が多いです。

ですからイェス様は“新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。”と語って下さいました。

スティーブ・ジョブズ氏など創造する人は勇気があります。他人と衝突することもありますが、人の評価を気にしません。


周りの人は頭の中でアイデアは浮かびますが、そこで止まります。
しかし繁栄意識がある人は実行します。失敗を恐れず、大胆に新しいことに挑戦します。


私たちは先入観や恐れなど自分の中にある古い考えを捨てなければなりません。


クリスチャンは古いものに縛られてはいけません。




繁栄意識




とても辛い状況の中でも、これ以上辛くならないから“よかった”と言う人、“大丈夫です、感謝です。”といつも言う人には繁栄意識があります。

繁栄意識は神様が人間に与えた権利です。
エデンの園でアダムが生き物につける名はみな、それがその名となりました。

神様はことばでこの世を創造し、その創造の作業をアダムにもさせてアダムが名をつけるとその通りにしました。


アダムの子孫である私たちにもことばで創造する力が与えられてあります。

繁栄や成功はある特別な人だけが持ってある秘訣ではありません。

すべてが栄える人はことばで“繁栄”を叫び、繁栄を創造するから繁栄します。


神様は祝福を与える方ですので、あなたの口を大きく開きなさいと言われました。
大きく開ける時に大きなものが入って来ます。

神様が私たちに素晴らしい約束をたくさんしているのに、悪魔によって人々は否定的な思いに洗脳されてその頭を繁栄意識に変えるのがどんなに難しいかわかりません。

神様が「何をして欲しいのか?」と語った時に、「私はこの病気を癒して欲しいです」と言った人だけが病気が癒されました。


出来ないという言葉はあれほどよく信じながら、出来るということばは死んでも信じないですね。
繁栄したいならば、無意識に使う否定的なことばをすべて反対(肯定的)にして使って下さい。

『できるものならと言うのか。信じる者にはどんなことでも出来るのです。』と否定的なことばを言う人にイェス様が語りました。


私たちは失敗意識や貧乏意識など、どれほど否定的な意識が多いでしょうか。




繁栄態度




大企業で新入社員の採用担当をする人がこう話しました。

大企業に履歴書を出すぐらいの人ならば それらしい実力はあるので、そこにたくさんの資格があると書いてもそれをみて合格、不合格を決めることはあまりないと言います。


面接官は面接室に扉を開けて入る瞬間1秒でその人の合格、不合格を決定します。

面接が始まり、質問と答えのやりとりの過程でそれが変わる確率は10%にも満たないと言います。


面接官の目が一瞬見ただけで“合格”になる秘訣は何ですか?

繁栄態度です。
やることすべてがうまくいく人は栄えるしかない態度を持っています。

面接官は人を選ぶ時に実力も無視しませんが、実力よりもまずその態度を重要視します。


すべてが栄える人はある時点から否定的な思いと態度を肯定的で積極的な態度に変えた人です。そして何事もよくなる方に解釈し、肯定的な態度を取ります。

それが習慣になった人は無意識的にもそのような態度を取ります。

いくら面接でいい印象を与えようと準備し練習しても普段から“繁栄態度”をもって生きる人じゃないと面接官の目に1秒でばれてしまいます。

ですから面接室に入った時から面接が始まるのではなく、普段の生活の態度からが始まりです。


繁栄態度をもってない人は信仰のない人です。疑いが多い人です。

聖書の偉大な人物たちがどれほど“繁栄態度”で生きたかを知ることが出来ます。
繁栄態度は信仰を持ってない人でも持つことが出来ます。

その人たちは神様ではなく信念を信じます。“積極的な思考法則”、“肯定的な力”のようなものはすべて信念を“繁栄態度”に変えた理論です。


ヨシュアとカレブの繁栄態度を見てみましょう。否定的な言葉を語る人々の前で大胆に語りました。


【民数記14章9節】

ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきになるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない



繁栄秘密




聖書に出てくる繁栄した人々はそれ自体に満足した人たちではなく、それをよく用いた人たちでした。

名誉や権力、富の奴隷に転落せずそれを用いて他の人々を繁栄させました。


14世紀百年戦争当時フランスのある都市ですが、英国軍に包囲されました。その都市は結局降伏することになりました。

そして英国の王エドワード3世に慈悲を求める降伏使節団を派遣しました。
英国王は“すべての市民の命を保証する条件で都市の代表6名を首つりにしなさい。”と命令しました。

市民たちは誰が処刑になるのかで大混乱になりました。


みんなが戸惑っている時に、その都市で一番の金持ちであるEustache de StPierreが処刑になることを志願しました。続いて市長、商人、法律家、など貴族が処刑に賛同しました。

彼らは次の日に処刑を受けるために処刑所に集まりました。
しかし妊娠した王姫の願いを受け入れた王は処刑を自ら受け入れた六人の犠牲精神に感動して彼らを生かしました。


この話が歴史書に記録され高い身分に伴う道徳的義務である「ノブレス・オブリージュ」の象徴になりました。

大体キリスト国家が多いヨーロッパでは“金持ち”が尊敬を受け肯定的に受け止められているのは、彼らが“高貴に生まれた者は高貴に行動しなければならない”という ノブレス・オブリージュを黄金律にして自負心を持って実行するからです。

彼らは富を子どもに譲りません。


神様がある人に多くの富を与えるのは1人で使って残ったものを子孫に残すのではなく分け与える意味で与えてあります。

繁栄秘密がこれです。他人を栄えさせることが自分も栄える道です。聖書に書いてあります。


【創世記26章30節】

そこでイサクは彼らのために宴会を催し、彼らは飲んだり食べたりした。


【マタイ7章12節】

それで何事でも自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。

聖書にある繁栄法則を使うことは神様が望むことです。

私たちが神様から良いものを受けて、それを用いて神様が喜ぶことをするのが目的です。
(・∀・)つ


【Ⅲヨハネ2】

愛する者よ。あなたがたましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康であるように祈ります。

2015.2.1
聖日礼拝メッセージ

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365日主と共に歩む

テーマは 『 365日主と共に歩む 』 です

【創世記5章21-24節】

エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。

エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。

エノクの一生は三百六十五年であった。

エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

このタイトルを今年の教会の目標に決めました。

そして、みなさん個人の目標にもしてほしいと願います。

1年365日を主と共に歩む人生を今描いてみてください。
想像できますか?


未知の人生の旅路を誰と共に歩みたいですか?

誰と共に歩んだら安心できますか?誰と共に歩んだら幸せですか?
それは どう考えても人間ではないですね。

聖書に出てくる人物で、死を見ずにいなくなった人が2人います。
おそらく生まれてきたすべての人類の中では この2人しかいないでしょう。


1人は本文に書かれていたエノク、もう1人は預言者エリヤであります。

エノクは「神が彼を取られたのでいなくなった」と記録されています。


そして、もう1人のエリヤは次の箇所に書かれています。


【Ⅱ列王記2章11節】

こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。

このようにしてエリヤはいなくなりました。


2人に共通するものは、死を体験することなく天に上げられたことと、神と共にいつも歩んだことでした。

エノクの時代、人々はとても長生きで、九百年以上生きている人が多かったです。

彼が生きた地上での365年はとても短い人生でしたが、900年以上生きた人々の人生には“生まれた”、“死んだ”という記録だけが書かれていて、幸せな人生を送ったというイメージが浮かばないです。


しかし、エノクからは幸せな人生だったというイメージが浮かんできます。
皆さんはそう思いませんか?


365年間、神とともに歩んだエノクはすばらしい人生だったと思います。

今、私たちは365年間 神とともに歩むことは不可能です。
その年齢まで生きられる人はいないからです。


それでも、せめて何十年間でも神と共に歩む人生を生きるのはどうでしょうか?


まずは365日、主と共に歩む人生が どのような人生であるのかを自分で体験してみるのはどうですか?

どのようにしたら365日 主と共に歩む事ができるのかを聖書から学びたいと思います。




(1)毎日 聖霊と交わりをすること




まずは、聖霊と毎日交わりをすることです。

聖霊はイエス様が天に上って行き、私たちのために遣わしてくださった主の霊です。


【ヨハネの福音書15章26節】

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。


【ヨハネの福音書16章13節】

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起 ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

そしてイエス様のことば通り、聖霊が遣わされて地上に来たことは使徒の働き2章に はっきりと示されています。

今、私たち信じる者の中におられる方は聖霊様です。


聖霊様は私たちを助け、真理に導き入れ、罪と義について、さばきについても教えて下さる方です。


聖書には、この聖霊を悲しませてはいけないと書いています。

聖霊様を悲しませる行為は、聖霊を無視する、認めない、物扱いをする、そして私たちが罪を犯したり、聖霊をけなすことなどです。


聖霊と毎日交わりをすることは、聖霊を認め、歓迎し、日々親しく会話をすることです。

24時間 自分と共にいることを認識して声をかけてください。


「聖霊様、おはようございます。感謝します。嬉しいです。○○を一緒にしてください。助けて下さい。」など絶えず会話をしてみてください。私はいつもそのようにしています。

いつでもどこでも常に聖霊様と一緒です。とても安心感がありますし、心が平安になります。




(2)365日 主に仕えること




365日 主に仕えることです。

主が私たちに語ったことばあります。


【ヨハネの黙示録2章10節】

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

私たちは主に仕えるために召されたものです。
自分の人生をもって主に栄光を捧げるように私たちは選ばれました。

主の働きにおいて私たちはアルバイトをしているのではなく、受けた恵みに対して感謝しながら一生 主に仕えるのが当然なことです。


だれよりも多くの働きをして主に仕えたパウロの中にある思いは次のような思いでした。


【Ⅱコリント12章15節】

私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。

喜んで福音のために働きました。その働きは主に仕える働きです。

365日、毎日主に仕えることを心がけましょう。
私自身が一番ではなく、主のため、福音のため、他人のためのことを まず考えましょう。




(3)365日 主のことばを食べる




365日、主のことばを食べましょう。

主はみことばによって私たちを導きます。聖霊は私たちを真理に導き入れます。

ですから聖霊の導きを受けるためには、みことばを食べなければなりません。


目で読んで終わるのではなく、心の中に入れるのが“食べる”ことです。


【詩篇19篇7-8節】

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。

主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。

このようにみことばは素晴らしく、私たちに多くの良いものを与えて下さいます。


みことばは神からの最大の祝福でもあります。

みことばをいつも食べて生きる人は、主に導かれて生きるので つまずくことがありませんし、闇の中でさまようこともありません。


【詩篇119篇105節】

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

また、みことばを食べることは、みことばに従順することも意味します。
みことばを吐き出すことは不従順の姿です。


甘いことばでも苦いことばでも偏食せずに神様が用意してくださった霊の食べ物としてしっかりと食べましょう。

それによって霊的に富む者となって、いつも聖霊充満の状態で生きることができます。




(4)365日 主が喜ぶ善行を行う




365日 主が喜ぶ善行を行いましょう。

主と共に歩むと言いながら 闇の中を歩み、闇のわざを行い、罪の実を結ぶならば聖霊様を共犯者にしてしまいます。


聖霊様が私たちに罪を犯させるはずがありません。
聖霊様が共におられるならば善を行わなければなりません。


【ガラテヤ6章7-10節】

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。

毎日、善を行う機会があるかどうかアンテナを張って、機会を見つけては行動に移しましょう。

特に行った善は、後で自分自身で良い実を刈り取ることができます。

今年はこのように、とにかく主と共に歩むことを一番の目標にしてエノクを見習いたいと思います。


共に歩む相手が誰であるかによって人生が大きく変わります。

主と共に365日歩むなら、主はその人を正しく導き豊かに祝福してくださいます。
v( ̄∇ ̄)v

2015.1.2
新年礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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救いは神からの賜物

テーマは 『 救いは神からの賜物 』 です

【エペソ2章8-9節】

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

救いは、キリスト教信仰の基本です。
聖書では救いのことを色々なことばで表現しています。

救いが何かをはっきりと知らないと、救われましたと言っても それが何になるのかが分からないです。


様々な宗教では “たましいの救い” について、ほとんど聞いたことがないと思います。

また、クリスチャンであっても救いについて聞かれると きちんと答えられない人が多いです。
中には「私、本当に救われたのでしょうか?確信がありません。」、「救いとは何ですか?」と言う人もいます。




今回は、救いがどういうものであるのかを はっきりと伝えていきたいと思います。


まず、この救いとは人間にとって命のようなものです。

命以上に大切なものはありますか?これは私たちが肉体と共に持っている命のことではないです。

この命とは、私たちが地上を離れてから “永遠に生きるのか” 、 “永遠に苦しむのか” どちらかのための永遠の命のことです。


そして聖書の中で色々な言葉で救いのことを表現しています。

例えば、「永遠のいのちを受けた」、「罪の赦しを受けた」、「生まれ変わった」、「神の子どもになった」、「イエス・キリストを私の救い主として受け入れた」、「私はイエス・キリストを信じます」、「神様と和解した」、「天国の民となった」、「神から義と認められた」 これらは全て救いのことであります。


ですから どの言葉をとっても “救い” は私たちにとって大切なことですが、人々はそのことに対して どのような反応をしているのかと言えば、ピンと来ていないです。


ここで1つの質問をしてみたいと思います。



1.あなたにとって一番重要な問題は何ですか?



「あなたにとって一番重要な問題は何ですか?」と聞かれたら、どのように答えますか?


色々な答えがあると思います。
ある人たちは「健康です。成功です。勉強です。携帯です。お金です。家族です。」など色々あると思います。

人は自分が一番重要だと思うことをいつも考え、目指し、また求めます。

聖書は、そのような姿を見て語ることばがあります。


【マルコの福音書8章36-37節】

人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。

自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。

イエス様が語るのは肉体のいのちではなく、永遠のいのちのことを語っています。


全世界よりも永遠のいのちの方が重要であるのに それらに関心がなく、人々は消えていくものばかりに関心があります。

ですからイエス様は このようにその人たちに語りました。


さらに質問があります。


≪ 今の人生に対してどう思いますか? ≫


このように質問をするならば、人々は色々な答えを言います。

「何の問題もなく楽しいです。」、「まあまあ満足していますので救いは別に要らないです。」
またある人々は「むなしいです。不幸でつらいです。死にたいです。消えて楽になりたいです。救いなんかあるわけないでしょう。」

このどちらの答えも、救いは私とは関係のないものだと思っています。
救いを受ける真理に関心がありません。


ですから福音を聞いても「やめて。私は聞きたくないから。救いなんか私にはどうでも良いことだ。」

教会に来てくださいと誘っても「入りたくない」と言います。



2.自分に対してはどう思いますか。死んだ後は?



自分たちで好きな神々を作り それを信じます。

「自分に対してはどう思いますか?」と質問をしても、言い訳のようなことを言って自分は知恵ある者だと思って「聞きたくない」と言います。

死後のことは哲学ではないので、哲学者の思想を聞く必要がないです。
あなたは何者ですか?それこそ己を知ることがどれほど大切であるか分かりません。


ここでも色々な答えがあると思います。
「私は罪を犯したことがないです。」「私は良い人だと思います。」「私は今まで真面目に生きてきました。」と自慢をする人もいます。


しかし、“あなたは一体誰ですか?”と聞かれた時に、本当の自分の姿は『罪人』であります。

自分の目で 自分を見ても分からないと思います。


「懲役○年生きてきた」、「執行猶予を受けた」という人だけが罪人というわけではないです。


もしも「私は生まれてから一度も罪を犯したことがない」という人がいるなら、その人は世界中で1番の嘘つきであります。


私たちは数々の罪を犯して生きてきましたが、罪人という認識がないだけです。


私がイエス様を受け入れたのは、初めて自分の心に響いて来た主の声を聞いた時でした。
「あなたは罪人ではないのか?」という声を聞き、私はびっくりしました。

もちろん 悪いことは1つもしていないとは思っていませんが、罪人という認識がまったくありませんでした。
それまでも教会へ行ったことは何度もありましたが、賛美が良いとか雰囲気が良いとか、本当に見物人でした。自分の事など分かっていませんでした。
「あなたは罪人ではないのか?」という声は、私をあわれみ私を救おうとした主の導きでした。


そしてなぜか分かってきました。自分が罪人であることが。それで涙が溢れ出て30分以上も泣き続けました。
その後に私はイエス・キリストを自分の救い主として受け入れました。
そこからの私の人生はものすごく変わって「この神様は私にとって1番」という想いになりました。


【ローマ3章10節】

義人はいない。ひとりもいない。

これは神様から見た時に、「罪がないです。」と言える人は1人もいないということです。


【ローマ3章23節】

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

「私は罪を犯していません。」と言うなら、神様はその人が産まれた時から今までの行動をすべて見ていますので、
その姿を神様がパノラマのように見せる時に大恥をかくと思います。

私たちが罪に対して鈍かったので、罪を罪とも思わなかっただけであります。


すべての人間は罪人です。
そして、この罪が私たちにもたらす結果があります。次の箇所です。


【ローマ6章23節】

罪から来る報酬は死です。

ここでの「死」とは、神様から引き離された永遠の死であります。
死んだら「無」になることではなく、死の地獄で永遠に苦しむという報いであります。


例えば、人を何人も殺した殺人者が捕まり 裁判を受けたとします。
もし裁判官がその人に「あなたは懲役1年です。」と判決するならば人々は何と言うでしょうか。
「それはおかしい。何人も殺したのに1年は軽すぎる。もっと厳しくしないといけない。死刑にしなければならない。」と怒るでしょう。


犯した罪が軽いか重いかという以前に、罪から来る報酬は死であります。
それは自分が刈り取らなければならないのです。

神様の前に立った時は 私たちもそのような姿です。そして神様の前に立つと裁判が行われます。
その時は自分たちが考えていた以上に違反行為が出て来ると思います。


神様が最後に「あなたは死だ」と言うならば、永遠の死を受けなければならないのです。

「そんなこと分かるはずがないでしょう?」と言う人たちがいるかも知れませんが、聖書には変わらない真理があります。次の箇所です。


【ヘブル9章27節】

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

1度死ぬことに対しては誰も反論ができないです。なぜなら生まれた人間は必ず死ぬからです。
それは議論する余地もないです。

しかし、その後のことには考えない人が多いです。
「死んだら終わり」と言うのは―― 果たしてそうでしょうか?


肉体が死んでから神のさばきがあることを語りました。この死後にさばきを受けることの方が恐いのです。
なぜなら、地上よりも死後の世界の方が、永遠に続く世界だからです。人々はここで一番つまずきます。


死後の世界は、夢ではなく、現実の世界であります。


人々は「死んだらすべてが終わりだ。死んでみないとわからない。そんなのよくわからない。考えたくもない。」
日本では「死」という言葉がタブーになっています。誰もが必ず死にますが、それについては触れないです。
しかし生まれることについては すごく喜びとしています。

「死についてのことは何も言うな。聞きたくない。そんな話はしたらいけない。」と言います。


しかしキリスト教では、それがすごく大切なことですので、私が牧会する教会では死に対してもたくさん語ります。
なぜならそれが現実であり、その後の世界は実在するからです。



3.罪人たちが救われる道はありますか?



地獄へ行っている人たちは、私たちが想像も出来ない苦しみを受けています。


イエス様は地獄が実在することを私たちに知らせたいので、神様からの特別な恵みで信徒たちに地獄を見せることがあります。地獄にいる人たちがイエス様に向かって同じ言葉を語ります。

地獄の炎の中で苦しんでいる人々が叫びました。「ここから出してください!地上に1分でも良いから、1秒でも良いから出してください!」

そして彼らは「私たちが出たら必ず悔い改めてイエス様を信じます!地獄から出られたら何でもします!」と願います。


信じなかった人々、地獄なんか存在しない、地獄に行っても別に構わない、と言った人々が、実際に耐えられない地獄におちると それが彼らの現実となります。


イエス様は「それはできないんだ。もう遅い。人間は生きている時だけチャンスがあるんだよ。」と語ります。


「私は地獄へ行っても構わない。行ってやろうか?地獄の方が私には相応しいかも!」と言うのは、地獄があることを信じて語る言葉ではなく、皮肉で語る言葉です。そんなことがある訳が無いでしょう?という思いです。




もともとサタンは、御使いが堕落してサタンになりました。
御使いはもともと神に造られたものなのに、御使いが「神になろう」と神の権威に挑戦をして滅ぼされました。


アダムとエバが堕落した理由も同じです。
サタンが近づき誘惑し、「善悪の知識の木の実を食べたら、あなたたちも神のようになる」という言葉を使いました。
サタンは “神のようになりたい” と思い、サタンが人間を誘惑した時も “神のようになれる” と言いました。


日本でよく言われる “仏になるんだ” という言葉は、人間として生きてきた者は死んだら “神になる” ことを指しているのです。

これはサタンの思想であります。自分たちの思いと語る言葉が「神のようになりたい」という高慢な思いです。
人間が神に生まれ変わるはずがありません。

しかし、サタンはそのような思想を人間の思いに入れるのです。

真理の言葉には耳を傾けないのに、自分たちの都合の良いようにそれを信じています。


罪をたくさん犯した者が 聖い神様になれるわけがありません。




先ほども言ったように、罪人として死ぬならば永遠の死を刈り取ることになります。

すると私たちは「罪人たちが救われる道はないのですか?皆が地獄に行くしかないのですか?どうせ地獄へ行くなら、自分の欲のままに生きても良いじゃないか」と思います。

しかし真理を知ると悟りが来ます。
神様は1つの救いの道を用意してくださいました。


天国への道は 1つであります。この たった1つの救いの道を信じるならば救われるのです。


世の中には多くの宗教があります。それらの宗教が語る言葉と、キリストが語る言葉の違いを1つ伝えます。

世の中のすべての宗教は「善行をすれば、その行いによって極楽へ行く」など 必ず “行い” のことを語ります。
「たくさん捧げたら…」、「たくさん良いことをすれば…」
これはカトリックでもイスラム教でも仏教でも言います。


しかし、今回の聖書テーマ箇所で≪ 行いによるのではありません ≫と書かれていました。

どんなに良い行いをする努力をしても救いを受けることはないのです。


例えば、良いことばかりをしてきた善人がいたとします。

しかし、その人がある時に誰かを殺してしまったとします。
裁判に掛けられた時に「私の人生を見てください。私は今までずっと真面目に生きました。他人にも良いことをたくさんしました。ですから、このたった1つの殺人を犯した罪を許してください。私は本当に何十年も良いことをしてきました。」と言ったとすると、

裁判官は「分かった。あなたは1つ悪いことをしたが、今までは良いことをしてきたので罪は無いことにしよう。」と言うでしょうか?絶対にそうはならないです。

裁判官は「今まで良いことをしてきたのは分かった。だが殺人は罪であるから あなたは刑務所に入らなければならない。」と言うでしょう。


罪はあくまでも「罪」なのです。
良い行いは「良い行い」としてありますが、その良い行いによって 罪が消されることはありません。


このように人間の努力では罪を消すことが出来ないので、神の方から提示しました。
その提示が、救い主イエス・キリストを信じることでありました。


【使徒の働き10章42-43節】

イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。

イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

イエス・キリストの十字架には、私たち罪人のために代わりに罪を負って死んでくださったという意味があります。


本来ならば私たちが死ななければならないのに、(私たちが神の御前に立った時に)イエス様が出てこられて「この人の罪をわたしが背負います。わたしがこの人の代わりに死にますので、どうかこの人を解放してください。この人の罪を赦して下さい。」と言うならば身代わりになるということです。

それによって私たちの罪が赦されるということを主が語ってくださいました。


イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。


救いの道、神様の国が救われた人たちの行くところであります。
しかしそれはイエス様の十字架を通らなければ入ることが出来ないとはっきりと言われました。


【使徒の働き4章12節】

この方以外には、だれによっても救いはありません。 天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は、人に与えられていないからです。」

世界のあちこちで「ここに救いがあります。」、「ここにも救いがあります。」と言います。
それなのに、どうしてキリスト教だけが救いがあると言うのですか?それはおかしいでしょう?と反論をします。


その人たちに私たちが示さなければならないことは、「あなたたちの信仰の教祖が、あなたの代わりに死にましたか?その人は神から出た者なのですか?その教祖も罪人なのに誰がその罪を背負うのですか?」


教え自体は良いかも知れないです。ですが 私たちはその教えのことを言うのではなく、「本当にその教祖があなたの罪をどのようにしたのですか?」という部分です。

罪が赦されていないと私たちは地獄へ行くしかないのです。


ですから どんなに教えが良いものであっても、真理ではないです。
それを私たちは言わなければなりません。


救いは神が決めたことを信仰によって受け入れる時に神からのプレゼントとして与えられます。

私たちは信じることだけで、その代わりに何かの代価を払う必要もないです。
「キリストが私のために十字架にかかったことを信じます。」という1つの言葉だけで救いがあるのです。


しかし、世の中の人々の「ふーん。そんなことで救われるの?」と言う人たちに語る言葉があります。


【Ⅰコリント1章18節】

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

「何もせずに、そんなにすごいこと(救い)を受け取れるなんておかしい」と言います。
なぜならば、今まで散々「良い事をしなければ、努力をしなければ…」という行いが強調されて聞かされてきたからです。

私たちは生きているうちに救いを受けておかなければならないです。


赤ちゃんは母の胎内にいる時に男か女か性別が決まります。生まれてから決まるのではないです。
それも親が性別を決めることはできなく、神様が既に胎内にいる前から決めています。


これは何を意味しているのでしょうか ――?


私たちが地上で生きている時というのは、胎内で生きている命と同じであります。そして胎から出た時に救いを受けていたか受けていないかによって、そのたましいの行く所が決定されます。

ですから私たちは地上にいる時に、自分で行き先を決めなければならないということです。


自分が今 天国に向かって歩んでいるか?それとも地獄に向かって歩んでいるかをよく考えて下さい。
地上にいる時に、自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを受け入れ、日々主と共に歩むならば神の御国に入ることができます。


私たちはいつ死ぬかは分かりません。神様は今が恵みの時、救いの時だとおっしゃいます。

地獄へ行って一番びっくりするのは本人であります。

「実際に地獄があることを知っていたならば、生きていた時にキリストを信じれば良かった」と実感すると思います。


また、口先だけで「信じます。」と言えば良いのだと錯覚をしてはいけないです。


救いの内容がどのようなものであるのか、自分が罪人であることをはっきりと知り、「キリストが私の罪のために既に十字架にかかって死んでくださり、 この方以外には救いがないということを私は信じます。受け入れます。そして感謝します。」

このように理解をして信じないと意味がないです。


自分の命の恩人が誰なのかも知らないで、どのようにして自分が救い出されたのか、救いがどういうものなのか、自分の正体がどんな者であったのかも知らず、 教会に来ているから救われていると思うのは とんでもないことであります。

何十年教会に通っていても、自分の受けた救いが何なのか よく分からない人たちもいます。

ですから、私たちは正しく みことばを通して知らなければならないです。 ( ̄‥ ̄)=3

2014.7.6
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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揺るがない土台を据えるには?

テーマは 『 揺るがない土台を据える 』 です

【ルカの福音書6章46-49節】

なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。

わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。

その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。

聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

イエス様は、この話を誰に聞かせたかったでしょうか?
未信者ではなく、みことばをしっかり守って主の中で生きている人でもないです。

46節でイエス様が次のように質問をしていました。
「なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。」
このような人にイエス様は語りたかったのです。


自分自身ではまだ気付いていない あなたの姿がわたしの目にはこのように映っているということを悟らせたかったのです。

その人たちは「主よ、主よ」と呼べば天国へ行けるから問題がないと思っています。
しかし 心から仕える思いで「主よ、主よ」と言うのではなく、口先だけの信仰は“迷惑だ”というイエス様の思いがあります。

十戒の中に「主の御名を、みだりに唱えてはならない。」とありますが、これは信仰が伴っていないならば みだりに呼ぶ姿になります。
行いが伴わない信仰を見て、イエス様が喜ぶと思いますか?
神様に従わず、「主よ、主よ」と呼ぶならば それは虚しい言葉になります。


“そのまま(口先だけの信仰で)生きたならば あなたが後でどうなるのかということを今 教えるのでよく聞きなさい。”ということです。
本人は自分の問題に気付かぬまま“宗教活動”をして「教会へ行っています。奉仕もしています。献金も捧げています。」と言いますが、これは目に見える部分です。
しかし、イエス様が見ると その下(見えていない部分)には土台がないのです。


最も大切な土台がないのに、本人は別に気にしていないのです。今のままで良いという思いであります。

イエス様は最も土台が大切なのに、あなたが建てているものは土台なしで建てているから、後で全部倒れ、それも ひどい倒れ方をすると、事前に教えてくださっています。

本人はイエス様が喜ぶ家を建てていると勘違いをしています。


神様の裁きの時は、地震とは比べものにならないです。すべてのものを流して壊していきます。
その中で壊れないものを造らなければいけないです。




土台とは?



土台という言葉は、旧約聖書にも出てきます。

【イザヤ書28章16節】

だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。

“堅く据えられた礎、尊いかしら石”と書かれています。
これだけを見ても何の意味なのか分からないと思います。これは預言の言葉でイザヤという預言者を通して神様が与えた言葉であります。

これがイエス様が来られた新約時代になると、この預言を明確に説明する箇所が出てきます。


【Ⅰペテロ2章4-8節】

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、

「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。

この預言はイエス・キリストであるということと、家をどんなに立派に建てたとしても 土台がイエス・キリストでないならば、必ず裁かれるということであります。


その土台に撚り頼まず、「別にそれじゃなくても家は建てられます。」と言います。
実際に土台がなくても家を建てることは出来ます。

多くの人たちが家を建てていますが、イエス・キリストという土台がないです。
「主よ、主よ」と呼びながら建てているので まさか自分の家が倒れるとは 思っていないです。


私たちが想像を絶するような世の終わりの裁きの時に、神様がなさろうとすることがあります。
その時に果たして土台なしに建てた者は生き残れるでしょうか。それは無理であると語っておられます。
神様の裁きの時は 神様以外のものは全て潰していきます。

しかし、神様の中に完全に根を下ろし属している者(土台にくっついている者)は何も被害を受けません。

「神に信頼する者は、決して失望させられることがない。」という言葉があります。ですから心配しなくて良いのです。


しかし土台がない人は、その時に失望するのです。


私たちが「神様、神様」と言っても、自分の生活の中で みことばに従っていない姿があるならば 自分は土台なしに家を建てているのだという認識が必要です。


地獄へ行ったクリスチャンたちは「土台」が問題でした。その人たちも働きをしていなかったわけではないです。
ある者は立派に信仰生活をしました。立派に犠牲を払いました。
全て行ったにも関わらず、地獄へ行ったということは その人たちにはイエス・キリストの土台が無かったことを意味しているのです。

この人たちは自分の価値観・ビジョン・要望・出世、このようなものが土台でした。




真理について



キリスト教の真理が土台でないならば、必ずそれは倒れる家になります。

【マタイの福音書24章35節】

この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

裁きの時に、神様はすべてのものを巻物のように滅び去ります。
しかし世の中にあるたった1つの真理は神様の言葉だけであり、それは変わらないものであります。


真理の上に土台を立てなければいけませんが、今の時代は どんどん教会そのものも、信徒たちの信仰も 神の真理の言葉から離れています。

多くの妥協があり真理から離れていても平気であるのです。それは教団も同じなのです。
すべての教団ではないですが、ある教団の堕落している姿がありました。

アメリカでは同性愛者が多いです。とある教会で牧師になる人たちに向けて質問をすることがありました。
「私たちは(同性愛を)認めます。世の中の法律でも認めているのだから、私たちの教会も認めます。
ですから 同性愛者も教会に来てください。」ということを言いました。


これは真理の上に立っている姿でしょうか ――?

とんでもないことであります。
これは神様が忌み嫌うことなのです。ソドムとゴモラが滅びたのも同性愛でした。

しかし時代が違うからと言って、教会が同性愛を認めるということは、その教会の牧師が同性愛者であっても問題ではないということでした。


それだけではなく、もう1つは「あなたは神様の言葉だけが真理だと思いますか?」という質問に対して
「はい。そう思います。」と答えた人は、教団の牧師にはなれないというもので、「他の宗教にあるものも良いものだと認めます。」と言わないと牧師になれないのです。

ある牧師が同じく質問をされた時に、「私は認めません。同性愛を認めません。すべての宗教に救いがあることも認めません。神の言葉だけが真理であります。」と
答えると、「あなたは ここの教団の牧師にはなれません。」と言われたそうです。


初代教会の人たちがなぜ迫害されて 命が懸かっていたのでしょうか ――?
それは真理を曲げなかったからであります。命をかけて真理を守っていました。
たとえ殺されたとしても妥協しませんでした。


終わりの時にはたくさんの迫害や困難が来ます。そのことを次の箇所で教えています。

【Ⅰテモテ4章1-3節】

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、

結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。

このみことばに書かれている「後の時代」とは、今のことです。
サタンが強く働きますが、どのように働くでしょうか?それは 惑わしの霊と悪霊の教えを持ってくるのです。
それは人間が持っている「欲」の部分をくすぐるものであります。サタンは巧妙に働き、妥協させます。

私たちに真理の土台がないと騙されてしまうのです。
あらゆる教えに心が取られて それを信じて、どんどん真理から離れたやり方をするのです。

信仰生活を、真理ではないところでするようになります。


【ヨハネの黙示録22章18-19節】

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。

また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

「少しでも」という言葉があります。つまり 妥協は許されないのです。
真理はそこに混ぜ物をしてはいけないですし、妥協をしてもいけないのです。


変わらない真理の土台の上に信仰生活を築いていなければ、後で黙示録に書かれていることが あなたに起こります。そしていのちの木、聖なる都から取り除かれるので、神様の祝福の世界にいることができないのです。
これはすごく大切であります。


イエス・キリストの土台がなくても、真理の土台がなくても、勝手に自分で建てたいものを建てておいて 自分の信仰生活を送り「私は敬虔な生活をしていました」というのは、パリサイ人たちがそうでした。

パリサイ人たちの信仰生活にはイエス様がいませんでした。
そして真理だけではなく、自分たちが勝手に作り出した言い伝えをたくさん作り何が何だか分からないものの上で必死になって信仰生活をしました。
このような生き方をするならば、サタンやパリサイ人がいるところに自分も一緒にいることになります。


しかし、キリストという真理の土台に、日々イエス様に拠り頼み みことばを実行しながら、すべての働きも「イエス様のために」という動機で働くならば、最期の裁きの時に その人たちは決して見捨てられることがないです。

その人たちは失望することがないのです。苦労があっても最期の時にすべてが報われるのです。


この地上での生活をあと何年生きられるでしょうか?自分の寿命通りに生きられるのではないです。
イエス様がいつ来られるかわからないのです。
もし明日来られたら「私は間違いなく天国に行ける」という確信があるでしょうか?


確信が無ければ、自分の信仰生活をやり直さなければいけないということであります。

「このままで良いんだ」と思うのは、今はそれでも良いかも知れません。
しかし 行く道が違うのでイエス様の守りがないのです。自分からイエス様のところを離れたからです。

自分の肉を打ち叩きながら「私は後で滅びを刈り取るのだ」という思いを持たなければならないです。

土台だけを建てておいて、あとは何もしないのも いけないことであります。


聞く耳があるということは、まだ恵みの時であり 救いの時であります。
神様は土台を築くことを求めておられます。
(´・ω・`)

2014.3.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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好意を持たれるクリスチャンになるには

テーマは 『 好意を持たれるクリスチャンになる 』 です


【使徒の働き2章46-47節】

そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、

神を賛美し、 すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

日本ではクリスチャン人口がとても少ないので調査をすることはあまりないと思いますが、
韓国ではクリスチャン人口が多いのでキリスト教倫理実践運動という団体が
“2013年 韓国教会の社会的信頼度 世論調査”を実施しました。

そこでは様々な人が参加をし、クリスチャンではない人たちも大勢いました。
宗教全体に対する調査もあり、カトリック教会、プロテスタント教会、仏教の信頼度などの結果が公開されました。





◎ 宗教や信者に対して信頼しているか?

信頼-[ 19.4% ]、信頼していない-[ 44.6% ]、普通-[ 36.0% ]
(信頼と答えた人の内訳  カトリック教会-[ 29.2% ]、プロテスタント教会-[ 21.3% ]、仏教-[ 28.0% ]


◎ 無宗教の人たちに聞いた各宗教への信頼度

カトリック-[ 32.7% ]、プロテスタント-[ 8.6% ]、仏教-[ 26.6% ]、
プロテスタントに対しては10%にも満たなかったです。


◎ プロテスタント教会の構成別信頼度

信徒-[ 30.3% ]、牧師-[ 21.1% ]、教会活動-[ 14.1% ]
牧師に関しては信徒よりも信頼度が低かったです。


◎ 社会奉仕活動
カトリック教-[ 32.1% ]、プロテスタント教-[ 41.3% ]、仏教-[ 6.8% ]


これらの結果を見て、初代教会の姿からは程遠いものを感じました。
韓国では アメリカから宣教師が来て、プロテスタントが拡がっていきましたが、当時は人々から好意を持たれていました。教会に対しては人々が迫害をしましたが、そこで働く人々の姿勢に対しては信頼度が高かったのです。
しかし、信者がとても増えたため 至る所に教会が建てられ豊かになりました。その反面、信頼度はどんどん落ちていきました。
その問題が 内部のものだけではなく、ニュースに流れるものでしたので、未信者や無宗教の人々が幻滅する姿に映りました

また、信徒よりも牧師に対する信頼度が低いのも、社会的に有名な牧師たちが様々な問題を起こしたためでした。

そして 教会の信徒たちに対する信頼度が、何故ここまで低いのか? ということも調査されていました。




① ほかの宗教に対する排他的態度-[ 24.0% ]
キリスト教を信じる人たちは、自分たちだけが正しいとし 他の宗教の人に対しては排他的な態度を取ることが信頼度を落としています。


② 不透明な財政使用-[ 22.8% ]
牧師が教会の財産をたくさん使ったり、長老たちが教会のものを自分勝手に運用することがニュースで報道されました。
宗教は 税金を支払っていないので、大きな教会になるとたくさんのお金があります。それを申告しないので、どのようになっているのか分からないのです。


③ 教会指導者-[ 21.0% ]
指導者たちの生き方そのものが人々の模範ではなく、贅沢三昧な生活をしたり傲慢な姿であったり、女性問題やお金の問題があって信頼度が落ちているのです。


④ 教会成長主義-[ 14.5% ]
教会の規模を大きくしようとするのは人々の目につきます。街で一番高い建物は教会であります。建てること自体は悪いことではありませんが、
正しい成長をしていないのに(無理やり人を引っ張ってくる等)、人数が多くなったことを周囲に自慢します。


⑤ 信徒たちの生活そのもの-[ 13.1% ]
「そんなことをして、それでも信徒か」と人々は見ているのです。



信頼度が低い・信頼しない理由

◎ 言語一致していない
口先だけ色々なことを語りますが、行動が伴っていないです。

私たちは、自分たちと関係がないとは言えないです。
聖書に書かれている初代教会の姿は、世界中の教会でもなかなか見られなくなりました。

宗教の対立は霊的なものでありますので、対決は必ず起こります。
しかし 私たちが非難される者になるならば、それは間違えた姿であります。


クリスチャンはイエス様によって価値ある者にされました。しかし、価値ある者になれたはずなのに本人が価値のないものにしてしまうならば、神様がすごく悲しみます。

不正などのニュースはとても耳が痛い話ですが、私たちはこのようなことに対して改善していくべきです。
そのような問題があることで 私たちは人々に福音を伝えることが出来ないと言い訳をし、何もしないのは大きな間違いであります。
間違えたものは改善していかなければならないです。


私たちは教会そのものを動かすことは出来ませんが、「私自身」というものを変えることは出来ます。
自分1人を変えることで周囲の見方が変わるのです。1人1人がとても大切です。




どのように改善していくべきでしょうか――?


① 忠実な生き方をする

これは真面目な生き方をするのとは意味が違います。
クリスチャンにとって忠実な生き方とは、「敬虔な生活」であります。

人々がクリスチャンを見て、最初に求めているものは敬虔な姿です。真理に対して言語一致な生活です。
人は 口先ばかりの発言をする人を嫌います。言うだけで何もやっていないのは忠実な生き方ではないです。

神と共に生きる姿とは、みことば・真理の中を歩み、神様が望むことすることです。
神様がやって欲しいと思うことをよく聞き、それを毎日の生活の中で実行していくことは敬虔な姿であります。



② 愛する生活

【Ⅱテモテ3章1-4節】

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。

そのときに人々は、自分を愛する者、 金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することも知らない者、汚れた者になり、

情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、

裏切る者、向こう見ずな者、 慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、

一番初めに「自分を愛する者」と書かれていますが、神様が、愛する生活をしなさいというのは、自己愛ではないです。 「私が一番大切」、「私が一番」というのは堕落した人間の姿であります。

イエス様は自分を捨てました。神様が語る愛とは、他人を愛する愛であります。
自分を愛する者は それを捨てない限り、神や他人を愛することはできないです。他人に犠牲を払うことが出来ないです。


愛とは自己犠牲があるものです。
自分の時間を他人に捧げるのは嫌というのは愛ではなく、それは「私が(他人のために)苦しむのは嫌。近寄るな、向こうへ行け」という自己愛からきており、 自分中心であるのです。

もしも、なぜ私は他人を愛することが出来ないのか――?と思うならば、それは自己愛が強過ぎるからです。

愛は、自分から手を差し伸べることであります。相手を洗うために自分の手を汚すことであり、そして 自分の物を相手に与えることです。

他人を愛すると言いながらも、文句ばかりを言って 感謝をせず相手を利用するのは愛ではなく、悪魔の心であります。本物の信仰は、キリスト教という垣根を巡らし、自分だけが正しく、他はみな悪魔の子だと追い出す偏ったものではないです。


本物の信仰は“だれでも”神の公義の愛によって接することです。そうする時に彼らにもイエス様による救いを得るチャンスが来ます。いつも彼らに愛の手を差し伸べたり、継続して声をかけるのです。すると相手の人たちも自分たちに興味を持つのです。

キリスト教が非難される理由も“本物の愛”が消えたのがその原因であります。



③ 良き香りを放つ姿

香りは、無理やり作り出すものではないです。
人々は良い香りを出すために香水をかけますが、それは鼻が痛くなることが多いです。周りに迷惑な時もあります。お花も綺麗ですが香りがキツイお花もあります。

しかし、野の花はどうでしょうか――? 野の花はとても素朴であります。
あまり気付かれない存在ですが素朴な美しさがあり、周りにかすかな香りを放つのです。

クリスチャンはそうあるべきです。
私たちは、神と共に歩むなら イエス様の香りが自分に移り、自分でも知らぬ間に(自分から)良い香りが出てくるのです。


自分の口から出てくる言葉、自分の行動から出てくるもの、自分の生き方から出てくるものが、人々に不愉快な思いにさせるかどうかを 冷静な目で調べることであります。

怒ったり 不平不満を言うと醜い顔になります。私たちが地上から離れ、神様が私たちの顔を見たときに「あなたは、わたしの美しい花嫁である」とは絶対に言わないです。
「表情はあなたの一生を証明するものだ。わたしの花嫁には相応しくない。向こうへ行きなさい。」と言われます。


クリスチャンとして 私たちは周りから見られているのです。自分が(キリスト教の)信頼度を落としていく者にはならず、自分たちの生き方を通して今までキリスト教に対して 非難をしていた人たちが 非難することが出来ないようにすべきだと思います。

感謝をする人、いつも笑顔である人、真理の言葉と一致する生活、常に人々に愛を示す生活、
自分だけを愛して地獄へ落ちるよりは、自分の犠牲を払って美しい姿に生まれ変わる方が良いです。

そのような生き方をして神様に栄光を捧げていきたいと思います。

本物の信仰も、本物の愛も 愛する対象を最後まで信じることであり、それを最後まで守ることです。
少しだけ愛して、相手が自分の思い通りにならないからと手を抜くということは、本物の愛ではないです。

信仰も愛も同じで、最後まで耐え忍ぶのが「愛」であります。 (´∀`*)

2014.2.9
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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恵みを理解した時以来

テーマは 『 恵みを理解した時以来 』 です

【コロサイ1章5-6節】

それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。

この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び 広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。

福音は良い知らせです。祝福の良い知らせなので、それが私たちにとって恵みであります。
聖書の中には「恵み」という言葉がたくさん出てきますし、礼拝メッセージでも「恵み」という言葉を何度も聞きます。
また、クリスチャンの交わりでも「恵み」という言葉をたくさん使います。

しかし「恵み」という言葉を聞いたり 使ったりするだけでは、私たちが恵みを理解しているとは限りません。

恵みを理解するならば、その結果 多くの実を結ぶことができますが、理解しないと実を結ぶことができません。

理解をすることと しないことでは、大きな差が出てきます。




①真理のことばの恵みを理解する


真理の言葉を聞いて悟ることは、神様からの大きな恵みです。
神様の恵みを理解することは、真理の言葉を理解することであります。


【ローマ10章17節】

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

みことばを聞かないと 信仰が始まらないです。
しかし私たちは聞くだけで信じることが出来るのかと言えば、そうではありません。

真理の言葉を聞いて ある人は理解して喜んでイエス様を信じました。しかし、ある人たちは毎日 神様が語っているにも関わらず何一つ理解することができませんでした。
まるでイエス様が語る言葉が外国語のように聞こえました。

私たちが御霊の実を結ぶためには、みことばを悟らないと実を結ぶことができません。

みことばの知識がたくさんあっても、その意味を理解しないとその人は絶対に変わらないです。
御霊の実は変わる人が結ぶ実であります。

真理の言葉は、私たちをキリストに導き、私たちを救うために与えられた神の言葉です。
この言葉を聞いて理解し、受け入れて信じ キリストから救いを受けることは、どんなに大きな恵みでしょうか。

真理の言葉を理解しないと、信仰生活は始まらないです。

そして、理解しないならば、その人の生活は変わることがないです。
私たちが御霊の実を結ぶためには、みことばを悟り、その中で私たちが変わらないと何も始まりません。


【マタイの福音書7章24節】

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

理解できていない者を賢い人とは言わないです。いくら言っても分からない者は愚か者であります。
しかし、聞いた言葉が理解できた者は賢い人です。
理解をしてみことばが落ちて種が蒔かれたので、そこから芽が出て実を結ぶようになります。

実際に行った人は、みことばの恵みを理解した人なので行うことができました。行ったことは実を結んだことであります。




②永遠の慰めと、素晴らしい恵みを理解する


【Ⅱテサロニケ2章16-17節】

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを 与えてくださった方ご自身が、

あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。

これを私たちが理解するならば、私たちはあらゆる部分で変わることができます。

神様の本質は慰め主であり、望みの主であります。

それは、主ご自身のためではなく、堕落した人間はその時から呪われてしまいました。
そしてあらゆる災いが入るようになり、重荷を負って苦労しながら地上で生きている私たちのために、神様は慰め主として 望みの主として近づき、 私たちに慰めを与え、望みを与えておられます。


【マタイの福音書4章23-24節】

イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで人々は、さまざまな病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、 中風の人などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。

人間は誰でもこのようなものを持っていますが、その人たちは何が欲しいのでしょうか――?
慰めであります。そして希望・望みであります。

そのようなものはどこにあるのかと人間は探します。
そしてイエス様に出会い、この恵みを受けた人たちが主を信じ、弟子になり、また彼らも出て行きイエス様がなさったように働きをして多くの実を結んでいました。
それによって神の国も広がって行きました。

主の働きをする人たちの姿を見ると、以前 神様によって苦しみから救い出された人が主のために働きをするのです。

永遠の慰めと素晴らしい恵みを理解する人は、絶望することがなく恐れません。
主が今も自分のためにその働きをしてくださると堅く信じることができます。




③自分に与えられた神の恵みが、どれほど素晴らしいかを理解する


【Ⅰコリント15章9-10節】

私は使徒の中で最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも 多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

パウロは恵みを理解したことによって、彼の人生は大きく変わりました。

パウロは、イエス様に出会うまでは自分は立派な働きをする役立つ者だと思って活動をしていました。
しかし、その活動とはキリストを信じる者や教会を迫害することでした。

そのようなパウロに、一方的な神の恵みによって、自分がやっていることがとんでもないことだということを知りました。
それによってパウロは理解する者になり、さらに神様はパウロを働き人として召されたことに 彼は死ぬまで感謝を捧げました。


私たちも同じような者であり、罪人であり、神を知らない者であり、たくさんの偶像崇拝をした者であります。
もし、神様が私たちを救い出してくださらなかったら 今もその中で何も知らずに歩んでいると思います。その先にあるのは永遠の滅びなのに――。

私たちはこのことを本当に理解しなければならないです。自分が受けた恵みを悟らなければならないです。

その恵みを悟ると、自分のすべてを捧げて主に従い 働き人になるのです。
働き人は嫌々 働き人になるのではないです。
自分が受けた恵みを本当に理解すると「命を捧げなさい」と神様がおっしゃると捧げるようになるのです。
イエス様は初めから命を捧げるようには言わないのですが、この人たちはイエス様が自分のために命を捧げたことを理解していますので
すべてを捧げる思いになっていきます。そして喜んで仕える者になります。

主のために自分のすべてを惜しまないで使って仕える人は、自分に注がれた神の恵みを知っている人です。
言われなくても、その恵みを理解しているので感謝に溢れて働くことができます。

恵みが理解できないと、いつまでも「これも あれも私のもの。恵みをください。他の人はたくさんもらっているので私は足りません。もっと恵みを!」と
動かないでいつも口だけを開けて、自分が神様に対して仕えるということに気付かないのです。


喜んで仕える人は恵みを理解したので、それが出来ます。
自分中心に生きるのではなく神様中心に変わり、多くの働きを通して神様に栄光を捧げるようになるのです。

私たちは神様から「命」という大切なものを受けているのです。

それ以外のものは、いざという時に何の価値もないです。
死が来たときに財産が何になるでしょうか。何も価値がないです。
それを持って天国へ行くことは出来ませんし、それが足かせになっていることが多くあります。

恵みを理解してください。そうすると、そこから私たちの新しい人生が始まるのです。
実を結ぶ人生に変わっていきます。 (´∀`*)

2014.1.19
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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