テーマは 『 私の心の中 』 です

【マタイの福音書13章1-9節】

種を蒔くことは、みことばを蒔くということです。畑というのは、私たちの心の中の状態のことです。

私たちの心の中は、どんな状態でしょうか。自分にしか心の状態がわからないと思います。
また、自分さえもわからない(心の)状態もあります。それは神様だけが私のことを深く知っておられます。
礼拝の時間というのは、私たちの心にみことばが蒔かれる時間です。
みことばを聞いて、良い地であるならば、ある時は悔い改めをしたり、力を得たりします。

しかし、みことばを聞いても何も思わない時には、心の中がどうであるかをよく見たら良いです。
自分の心の中に何があるのか――?

道ばたに落ちた種は、サタンがやってきて すぐにみことばを持ち去ります。
私たちがみことばを聞いても気に留めないでいると、サタンが盗みにやってきて、何も蒔かれたことが
なかったかのように1つも覚えていないです。

土の薄い岩地は、土はありますが その下に硬い岩があります。それは自我の岩です。
みことばを聞き、「良いみことばだなぁ」と思いますが、「それが一体自分に何が関係あるのか?」と。
今まで生きてきたなかで色々な価値観を持っています。そしてみことばを聞くと自分の中でぶつかります。
すると、岩が跳ね返しますので それ以上、良い芽が出ないです。

いばら というのは、私たちの思い煩いのことです。
思い煩いはとても速いスピードで大きくなっていきます。
せっかくみことばを聞いて身にしみても、そこに思い煩いが入ってくると、そのことばかり気になってしまいます。
みことばをあっという間に忘れてしまいます。
そうするとみことばに堅く立つことができないので力を受けることができません。

例えるなら、私たちは神様とコンセントで繋がなければなりません。
私たちが(目に)見えない神様に対して どんな思いを持っているのか、それに懸かっています。
思い煩いというのは、見える“何か”から来るものなのです。
それによって自分の目と心が捕らわれてしまいます。
私たちには神様が見えませんが、でも その見えない神様に自分の心を注いでいくと、
目に見える敵よりも、見えない神様の方が大きくなり力が強くなっていきます。

私たちは問題がある時に、神様のところへ駆け込まなければなりません。
そして祈りをすることが神様とコンセントを繋ぐということです。

【出エジプト記33章7-23節】

モーセと神様が親しく語っています。ここで、どのように神様と交わるのかを学ぶ事ができます。
私たちは自分の力で生きているように思いますが、自分の力というのは大したことがないのです。
しかし、世の中はそうではないです。自分中心の生き方を認めていますし、そうするべきだと言います。
ですから、競争社会になっています。
モーセは謙遜でへりくだり、神様は偉大な方であることを認めていました。
自分は無力であることも認めていました。ですから、神様はモーセにとても語りやすかったのです。

良い地とは、私たちの心の畑から要らない物を取り除いた地なのです。
最初から人間は全てが良い地ではないです。
私たちの心から、岩・いばら・苦い思い・人を許さない心や妬む心・色々な邪魔なものを
1つ1つ手作業で取り除いていくと良い地になります。

【Ⅱサムエル22章21-51節】

この言葉はイスラエルのダビデ王が語った言葉です。もともと彼は羊飼いでした。
王家から生まれた者ではないですが、神様が召させました。
また、末っ子のダビデは兄弟から軽く見られていました。
しかし神様はダビデを引き上げて王様にしてくださいました。

ダビデは色々な戦いに出て行きましたが、一度も負けたことがありませんでした。
どんな戦いでも自分の力で立ち向かわなかったからです。どんなに小さい事も大きな事も全て神様の手に
委ねました。だから神様が喜んで敵を打ち負かしました。

普段、主を呼ばない者が、その時になって主を呼んでも主は答えてくださいません。
神様は普段 祈りによって神様に近づかない者をよくご存知です。
普段、力を求めていないのに、神様と親しくしていないのに「なんで困った時だけわたしを呼ぶんだ」と、
おっしゃいます。

普段から親しい関係、神様を愛して「神様のことを知りたいなぁ」という願いで近寄る者を、
神様は決して その手を拒むことはないです。

神様はその人の心をご覧になります。(その人に)力を流すか流さないかは神様が決められます。

【詩篇119編24-32節】

詩篇119編は、クリスチャンが日々神様に祈るべき みことばです。
私たちがどういう姿勢で目を上げて、どういう心で神様に向かって良いのかをよく教えてくださる箇所です。
聖書は神様が私たちを愛して立たせる為に造ってくださった書物です。

神様を相談相手にしていますか?考えてみてください。

みことばは、ただ読んで通り過ぎたら何も残りません。
1つのみことばに目を留めて、「あれ?自分はそれが出来ているかな?」と吟味をすることです。

私たちはいつでも祈ることが出来ます。
普段から忙しい毎日を過ごしているので、祈る時間がないなぁと感じる時があるかも知れませんが、
聖書に書いてあるのは、時間が出来たら祈りなさいという言葉ではないです。
「絶えず祈りなさい」と書かれてあります。

私たちがイエス様に対する愛が深くなっていくと、いつもイエス様のことを考えてしまいます。
何かをしている時にでも、ふとイエス様のことを想うのが「絶えず祈りなさい」ということです。
神様は何でも話ができる相談相手なのです。

【ピリピ4章4-7節】

神様に信仰のスイッチを繋ぐと、この箇所に書いてあることが起こります。
神様は全てのことにおいて答えを持っておられるお方です。
私たちは色んな思い煩いが重くのしかかってきます。
ですが、神様に対してはまず感謝をもって近付いていくべきです。

自分で当たり前だと思っているもの(健康など)が取り去られたら、
その時 初めて私たちは神様からどれだけ良くしてくださっていたのかがわかります。

ですから、私たちが神様に近づく時は、いきなり願いをぶつけていくのではなくて、
感謝をもって近づく方法が一番良いのです。それから私たちの願いを神様に知っていただきます。

神様は偉大な方ですが、同時にご自分のことを知らせたくて、人となってこの世に生まれて来てくださった方です。
私たちに近づきたいと願ってくださる方ですので、
私たちは、「神様、今まで出来なかったんですけど赦してください。知らないで犯した多くの罪を赦してください。
今もよくわからないんですけど、近付きたいので 近付かせてください。」と、このような簡単な祈りで良いのです。

神様は私たちを愛しておられます。

神様はどんな人でも心を動かすことが出来るのです。神様に向かって私たちが祈るなら、
その時から神様が働かれて、あなたの周りを変えていってくださいます。

私たちの祈りは「いつ聞かれるんだ?」という思いが強ければ強いほど、「神様は聞いてくださっているのか、
聞いてくださらないのかわからない。もう自分でやってしまおう」となりがちです。

そうすると神様の権威ではなく、自分の権威でやりはじめることになります。

私たちはもともと、自分のやりたい方法でやりたいのです。それはこの世の生き方です。
そのような思いは私たちがもともと持っているものなのです。そこで神様のみことばを聞くとぶつかりますが、
「自分が偉いんだ。自分が正しいんだ。」では信仰のスイッチを繋ぐことはできません。

神様が生かしてくださる道を歩む私たちになりましょう。
神様の光の中を、光の子として歩む私たちになりたいと願っています。アーメン (*´∇`*)

2013.2.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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