テーマは『 クリスチャンの言葉の生活 』です

【マタイの福音書12章35-37節】

心を「良い倉」と「悪い倉」に例えました。
心の中に悪いものがあるならば、それが自然と口から(言葉になって)出てきます。

恵みを受けた人は、言葉が変わっていきます。
以前の言葉は使わなくなります。以前は世の中の言葉を好んで使い、誰かを非難する言葉や
興味のある世のことばかりを語っていました。

しかし恵みを受けた人は、神様のことを語りたくて、うずうずします。誰に対しても神様のことを語ります。
恵みの言葉が、その人の中から出てきます。

言葉は、信仰生活と ものすごく密接な関係があります。

信仰生活をする人が、信仰や神様や恵みの話をしないならば、正しい信仰生活をしていないことであります。

《マタイの福音書12章34節》 に 出てくる「まむしのすえたち」という言葉は、
形では信仰生活を送っているように見えますが、その人たちの口から出る言葉があまりにも悪いのです。
他人を非難したり、罪に定める悪い言葉ばかりが出てきます。

イエス様の言葉はどうだったでしょうか――?
イエス様が来られる以前は、パリサイ人、律法学者、祭司たちが人々に教えていました。
人々はずっとその言葉を聞きながら信仰生活を送っていました。

しかし、イエス様が来られて言葉を語った時に、人々はその言葉を聞き 驚きました。
なぜ驚いたのかというと、(律法学者たちが語る言葉にも似ているのに)イエス様の口から出るのは
恵みの言葉だったからです。

今まで律法学者たちが語っていた(厳しくて 愛のない)言葉で、人々はとても重荷になっていたのですが、
イエス様は、重荷はご自身で負い、人々には恵みを流していきました。
絶望に陥っている人には「心配するな。わたしがあなたと共にいる」と癒し、命を注ぎました。

主から出てくる言葉はすべて私たちにとって益になるものです。

クリスチャンは当然のように、イエス様の言葉を習わなければならないです。
主は「あなたが口を開くならば、どんな言葉を語るのか」と見ておられますので
私たちが口から言葉を出す時には、悪いものを取り出すのか、それとも良いものを取り出して人々に与えるのか、
それを考えなければならないです。

聖書には私たちが避けなければならない言葉や、語らなければならない言葉が書かれています。
私たちは、時が良くても悪くても、口を開いて語らなければならない言葉がたくさんあります。

交わりの時でも、みんな信仰の話をしている時に、黙って何も言わないのは問題であります。
「語る言葉がないです」というのは心が空き缶の状態です。心に何も入っていないので語る言葉がないのです。
神様の言葉が1つも留まっていないので、その人は語る言葉がないです。

また、私たちは語らなければいけなく、語る時には気を付けなければならないのですが、
その前に、私たちは入れ物に気を付けなければいけないです。

悪いものを入れたならば、当然のように悪いものが出てきます。


【エペソ4章29節】

他人を傷付ける言葉を口から出してはいけません。それは相手を汚してしまいます。
自分は他人から悪い言葉を聞きたくないでしょう。
私たちは自分がされたくないことを(他人に)してはいけないです。

悪い言葉を使った本人は忘れるかも知れませんが、後になって神様から裁かれることになります。

クリスチャンは、口(=語る言葉)もクリスチャンでなければ ならないのです。
他の部分はクリスチャンで、口だけはサタン。これはいけないことです。

私たちは言葉を変えなければならないです。これは一夜で出来る事ではないです。

心の入れ物を変えていくならば、自然と使う言葉が変わっていきます。
相手を生かす言葉、慰める言葉、愛の言葉は、恵みを与える言葉であります。


【コロサイ3章16節】

まず自分たちの心の中にキリストの言葉を豊かに入れないと、世のものが入ってくるのです。
毎月みことばの暗唱をしていますが、私たちは心にみことばを蓄えて、必要な時にみことばを出せるように
しておかなければならないです。

聖書のことをたくさん知っていても、知識を誇るのではないです。
自分の知識を誇る人たちがいますが、これは高慢であります。
なぜならば主の言葉は、人に役立つように恵みを流しなさいと語っていますので、高慢を流してはいけないです。

ある人は頭に知識を蓄えて知識を語ります。しかし、それを聞いても相手は命を受けないです。

自分の心で噛みしめて味わい 恵みを受けたものを語るならば、人々はそれを聞いて「私もそうしよう」と思います。

しかし頭の中にある知識を、相手より上に立って教えるならば、
聞いてもどう活かしていけば良いのかがわからないです。知識は知識で終わります。
人に役立つ言葉や恵みを流す言葉を知恵にしていかなければならないです。

「私はこのみことばで、これをやってみました。そしたら本当に神様からの素晴らしい恵みがあって、
そしてこういう結果が出てきました。このみことばで力を受けました。」
これは心に(みことばを)住まわせた言葉です。頭の知識ではないです。

知識は冷たいものであります。知識は「あなた、そんなことも知らないの?」と相手を裁くことになります。
それは恵みにならないし、人の益にもなりません。

真理は正しい言葉でありますが、真理そのものを語る時はその人自身が真理を体験してから語るのが
一番良いです。

まず自分で行い、味わってみて、そして美味しかったものを人に伝えると、相手に慰めを与えることができます。


【コロサイ4章6節】

言葉は内容よりも言い方があります。言い方が悪いと、良いことでもトゲが付いたものになります。
綺麗なお花を渡すならば、トゲは取ってから渡すのが良いです。
「綺麗だなぁ」と思ってもトゲに刺されたなら手放してしまいます。

ですから、私たちが使う言葉もいつも剣であるならば、たとえ真理の言葉であっても親切ではない人が語るなら
剣に変わります。
聖書の言葉はすべて素晴らしいですが、愛のない人や親切ではない人が語るなら、裁くための言葉にしか
聞こえないです。

クリスチャン同士がみことばで裁きあって傷つけていることがたくさんあります。

しかし親切な愛の心で使う言葉なら、叱責の言葉であっても聞き入れるべきであります。

悪い言葉はやめようと努力をしなければならないです。
悪い言葉が出そうな時は口を閉ざし、良い言葉の時は口を開いて語るべきであります。


【詩篇37編30-31節】

【詩篇51編15節】

神様が語って欲しい言葉を語られるようにと祈ることであります。
祈る人は唇に気を付けます。口を開くべきか閉じるべきか、それを判断できます。

私たちは悩みを話したり、問題を話したりすることは良いのですが、ある人たちは常に不平不満や
感謝がなく、いつも自分のことしか語らないのは良くないことであります。
その人は相手の言葉を聞かないです。私たちは聖い会話をするべきであります。
私たちが話している言葉を、常に主が聞いておられるんだということを忘れないでください。

私たちも他人に悪い影響を与える者ではなくて、神様が恵みを流していきなさい、益になる言葉を語りなさいと
語ってありますので、私たちの中に留めて相手に益になるのかを考えてからみことばを使っていきましょう。
 (^∀^)

2013.4.7
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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