からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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癒し

私をあわれんで下さい

テーマは 『 私をあわれんで下さい 』 です

【マタイの福音書15章21-22節】

それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。

すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

「どう祈ったら祈りが答えられますか。どう祈ったらいいかわからないです。」と言うクリスチャンが多いです。

このように、祈りを難しく考える人が意外にも多いです。


イエス様がどのような祈りに いち早く反応したかを聖書で調べるならば、どう祈るべきかが分かります。


イエス様の所には常に様々な問題や悩みを抱えた人たちが ひっきりなしに集まって来ました。

数えられないほどの奇跡がありましたが、ある奇跡は聖書に記録されてあります。


きっとそこには 神様が語りたいメッセージがあったので、特別に記録として残したかもしれないです。


今日の聖書の内容からは、答えられる祈りの言葉が出てきました。


主の所に悪霊に取りつかれた娘を抱えた女の人が来ました。

想像するだけでも日々大変な思いをしながら娘を育てていたと思います。


治す方法すらありませんので 先も見えないです。
毎日が戦いの日々です。


私も、今までそういう人たちを 何人も見てきましたし、悪霊も追い出しました。

家族もとてもつらい思いをしていました。


そのような苦しみを抱えた女の人が、主の所に来て話したことばは とても短いことばでした。


「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんで下さい。娘がひどく悪霊に取りつかれているのです。私をあわれんで下さい。」
この言葉がすべてでした。


これだけでも 辛い状況と切なる願いが伝わってきます。

ことば数が多ければ多いほど(祈りが)聞かれると思って、あれこれと言う人が多いですが、主の耳に一番入りやすいことばは「私をあわれんで下さい」ということばです。


なぜなら主は あわれみ深い方なので、この女の人はそれを知って 主のあわれみに訴えかけました。


そして主も そのことばにすぐ反応しました。

その後、イエス様は彼女の信仰を試しますが、それに対してしっかりと信仰を見せました。


さらに女の人は進み出て、主の前にひれ伏して、「主よ。私を助けて下さい」と懇願しました。


主が “あわれみ深い神” だけではなく、 “助け主” であることも知っている女の人は、積極的に主に願いました。

主は女の人の願いを叶えてあげました。

そして娘から悪霊が出て行き、癒されました。


私たちに主に対する揺るがない信仰があるならば「主よ。私をあわれんでください。私を助けて下さい。」と祈るだけでも主は答えて下さいます。






二人の盲人が目の癒しの奇跡を体験しましたが、彼らにも同じものが見られました。



【マタイの福音書9章27節】

イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。

そして さらにイエス様のみもとまでやって来た時に、イエス様は「私にそんなことが出来ると信じるのか」と聞かれた時に、「そうです。主よ」と自分たちの信仰を見せました。


すると、主はすぐに彼らの目にさわって「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われました。

そして彼らの目が見えるようになりました。


彼らは「主はあわれみ深い方、奇跡を行う主、願いを叶えて下さる主」であることを信じました。


その信仰を持って「主よ。私たちをあわれんで下さい」と叫んだので 主が癒して下さいました。


【へブル11章6節】

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

このように書かれているように、信仰をもって 主に「私たちをあわれんで下さい」と求めたので、奇跡が彼らに起こりました。


また、祈るために宮に来られた取税人の祈りはどうでしたか。

彼は罪の問題を持ってきました。
次の箇所です。


【ルカの福音書18章13節】

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

彼の前に、律法を守って敬虔な信仰生活していると自任しているパリサイ人の祈りには反応しなかった主が この人の祈りには反応しました。

そして彼の罪を赦して下さいました。


罪人が罪を赦してもらうために あれこれ言ったのではなく、自分の罪を悔い改めながら「神様。私をあわれんで下さい」と言っただけでしたが、それは主がとても喜ぶ祈りでした。


主が罪を赦して下さる主だと信じたので、主に直接お願いしました。


「私をあわれんで下さい」と祈る時に、主はあわれんで下さいます。

「私を助けて下さい」と祈る時に、主は助けて下さいます。


短いことばですが、主はその言葉に その人の辛さ、大変さ、悩み、願いがすべて入っていることを知っておられます。


そして、その言葉とともに主への信仰を持って主に近づく人に 主は答えて下さいます。

あわれみ深い主は、あわれみを求める祈りに すぐに耳を傾けて下さいます。



【ヘブル4章16節】

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

神様は私たちをあわれんで下さる方です。

また助けて下さる方です。


「私を助けて下さい」と信仰の先祖たちが 苦しみの中で主に助けを求めた時に、いつも助けて下さいました。


自分の中に 主への信仰があり、問題を主の所に持って行き 「主よ。私をあわれんで下さい。私を助けて下さい」と言うだけで、主は答えて下さる方です。


たくさん祈らないと主が見向きもして下さらないと勘違いしてはいけないです。


切なる思いで 「主よ。あわれんで下さい」 と祈るだけでも、その祈りは主に届きます。


(神様に)届いた祈りには必ず答えがあります。


「私をあわれんで下さい」という祈りは、謙遜な祈りです。
そして「私を助けて下さい」はSOSの祈りです。



【第1ペテロ5章5節】

みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

主の前にへりくだって切に求める祈りと願いに 主はいち早く答えて下さいます。


「私をあわれんでください。私を助けてください。」は、とても良い祈りのことばです。
(。・ω・)ノ゙

2016.1.24
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聞く耳

ハレルヤ。

主の愛を今日も感じる1日になりますように。


主の言葉を聞く時に 私たちに必要なのは、聞く耳であり、そしてその言葉に対して ただ黙っているのではなく、その言葉に対して応答していかなければなりません。


質問するのも応答であり、答えるのも応答であります。

みことばを聞いても無反応は、その言葉を聞いていないか、あるいは無視する行為であります。


バプテスマのヨハネは、群衆たちに向かって 「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。斧もすでに木の根元に置かれています。 だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」 と言いました。

そうしたら群衆は、腹を立てたのではなく、「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」 と救われるために質問をしました。(ルカの福音書3章7-10節)


それは みことばに対する良い反応です。


それに対してヨハネからは答えがありました。
「悔い改めなさい」でした。


その言葉通りに悔い改めるならば、 「まむしのすえたち」 から 「神の子どもたち」 に変わることができる恵みを、神様から受けることができます。


ある律法の専門家は、イエスを試そうとして質問しました。


【ルカの福音書10章25節】

先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。

心の動機は良いものではなかったですが、イエス様はそれに対しても、きちんと答えてくださいました。

総合的に見ると、“みことばに従順しなさい” が答えでした。


私たちが聖書を読む時やメッセージを聞く時に、いつも聞く耳を開いて聞きながら「私はどうすれば良いでしょうか。」と主に質問するなら、主はそれに対して私たちに必要なことばを与えてくださいます。


みことばを、聞く耳を開いて聞く時に、みことばは私たちの中に働きだします。


それまで自分とは無縁と思っていた言葉が 【へブル4章12節】 にあるように、

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と 骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

このように みことばを聞く人たちの中に、みことばは力をもって働きます。


みことばを受け入れる人の中に、みことばを実践する人々の中にそのみことばは働いて、時には癒しを、時には慰めを、時にはその人を変えていく偉大な働きをします。


ですから いつもイエス様は、“聞く耳のある者は聞きなさい。”と語ってくださいました。

聞く耳は恵みを受ける一番の道でもあります。
v( ̄∇ ̄)v

2013.9.13
3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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神の人とはどのような人か

テーマは 『 神の人とはどのような人か 』 です

【ダニエル書3章16-18節】

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。

もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。

しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

“神の人”と聞いたら 皆さんはどのような人を想像しますか。

近寄りがたい雰囲気で、雲の上の存在のような人で、威厳がある人だと思いますか?
また、見た目で分かるような人だと思っていますか。

日本のキリスト教の思想家であった内村鑑三は「外なる人は平凡な人になりなさい。しかし内なる人は特別な人になりなさい。」と言いました。

どこにでもいそうな平凡な人になりなさい、と。
“平凡な先生、平凡な主婦、平凡な会社員、平凡な農夫”


私たちは“平凡”と聞くと、あまり良い印象がありません。

しかし、神が見ておられる内なる人は、“特別な人になりなさい”は聖書を読んでみても納得が出来ます。


イエス様の外なる人は平凡な大工でした。
公の場で活動を始める前の30年間はまったく人々に知られていなく、平凡な人生を送っていました。
しかしイエス様の内なる人は神の御子でした。

今の時代は見える部分(外見)にすごく力を入れて外見を飾ることで 自分を特別な者に見せたいようですが、それをしたからといって特別な人になることはありません。


その人の内側に特別なものがある時に特別な人になります。

神の人と呼ばれる人々もよく見ると外なる人は平凡な人たちでした。しかし内側には特別なものがありました。

神の人とは 神が認め、神に喜ばれる人のことです。


その人の内側には、何があるのかを今回学びたいと思います。




1.信仰によって神の御心だけを求める




本文の若者3人は、いのちの危険に直面しました。
王が造った金の像を拝まない者は、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる命令が王から下されました。

人々はその命令に従って金の像を拝みましたが、神を信じていた3人はその命令には従いませんでした。

一度だけ拝めば死ぬことはありませんが、神に対して信仰深い彼らは神の命令に反する偶像崇拝はしたくありませんでした。


しかし それは自分たちのいのちに関わることになりました。一度きりの人生、彼らはまだ若いです。

王の前に呼ばれた3人が王に対して話した言葉の中で、すべてを神のみこころに任せる信仰を見ることが出来ます。そこには何の迷いもありませんでした。


【イザヤ書55章8節】

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―― 主の御告げ ――

ここに書かれているように、初めから神のみこころは私たちの思いとは違うことを知り、私たちの思いを貫くのではなく、神のみこころがなるように祈る姿勢が神の人の中にはあります。


この3人の中にも、神の人の姿勢がありました。
神に従うことでいのちの危険にさらされています。

しかし、そのことで主に何も要求しませんでした。
“助けてもらっても、助けてもらわなくても、神に対する信頼は変わりません”という姿勢が彼らに見られました。


祈りをかなえて下さるからという理由で神様を信じるだけであるならば、それは他の神々を信じる人の信仰と変わりがありません。


多くのクリスチャンは神様が自分の祈りを聞いて下さるので願いをもって祈ります。
そして神様が自分の味方であると信じています。自分が祈り求めた通りに神様は答えて下さると信じています。

しかし祈った後の現実が自分の願い通りにならないと「神様が私の祈りを聞き、私の味方なのにどうして祈った通りにならないですか。」と不平を言ってつまずきます。


例えば病気にかかったとします。

医者にもかかりますが、私たちはクリスチャンなので当然のように癒しを求めて神様に祈ります。でもなかなか癒されず、ますます悪くなったとします。

そこで「主が癒し主であり こんなに祈っているのに、なぜ治してくださらないのですか?」と訴えます。

本人や とりなしをする人々も同じ思いになりますが、癒しを求めたからといって すべての人が癒されるとは限りません。


1人1人に対する神のみこころは全て違います。
癒しを求めて、癒されることもあれば、死んで神様の所に帰るのがみこころの場合もあります。

本人が死ぬのが神のみこころであるならば、それを喜んで受け入れるのが神の人たちにはありますが、神のみこころに関心がなく、みこころを求めない人は神に文句を言ったり、信仰を捨てたりします。


本文の若者3人は神を信じる者として、みことばを守るためにいのちがかかっても金の像を拝みませんでした。

彼らは死にたくはなかったと思います。その時、神様は沈黙していました。
しかし彼らはみことばに立ちました。信仰を守ったことは神様が喜ぶことでした。


彼らは神様には力があり、自分たちの信仰を見て助けてくださるという信頼もありました。
しかしそれがすべてではありませんでした。

神様がたとえ自分たちを死なせても、そのみこころに従うと決心し金の像に拝むことを拒否しました。


そして その後、彼らは火の中に投げ込まれました。

自分たちの願いや思いを捨てて完全に神のみこころに従いました。

これが神の人たちの中にある特別な信仰です。これは完全に神様に信頼する姿です。


沈黙していた神様は火の中に入った彼らの真ん中に現れました。それは信仰が勝利した瞬間でした。

そして彼らの神は偉大な神であることを証明し、彼らももちろん助かりました。


神の人には勝利があるのみです。神が彼らに勝利を与えて下さいます。

この世の基準では愚かに見えるかもしれませんが、神の目には彼らが勝利者です。




2.神様と通じるものがあり、自分を通して神様を表現する




まずはイエス様の姿を思い出しましょう。
人間の姿で来られましたが、人々が見たのは神の姿でした。


なぜならイエス様のことばを聞いて、人々は神の権威を感じたからです。

病人を癒す姿を見ても神の姿、人を愛する姿を見ても神様を見ました。

主のことばによれば「わたしは父の中に、父はわたしの中に」がポイントです。
父の中にいつもおられるので、自分を通して父なる神を表現することが出来ました。


神様は目には見えませんが、力や不思議なわざや奇跡などあらゆる方法を通してご自身を表現して下さいました。

それをそのまま神の人たちは表現しています。
ですから人々は、その人たちの姿を見て「この人の中には神の霊がある」と言います。

力あるわざや奇跡、知恵を見て みんなはそのように感じました。


神様は私たちに「神になれ」とは言いません。
しかし あなたを通して神が表現されるようにしなさい、と言われました。

神様の栄光が現れるようにしなさい というのがその意味です。


イエス様の中にいる人たちは、その人の中から光が出てきます。そこにキリストの人格が出てきます。

自分の行動が悪魔的な人も多いです。
憎しみ、恨み、妬み、悪い思いなどが心にいっぱいある人は自分自身を通して悪魔を表現しています。


どう見ても、そこに神様がいるようには見えません。

そういう人たちには悪魔がいるんだとはっきりと分かります。

神の人は死に至るまで自分を通して神が表現され、神が栄光を受けるような生き方をします。


ですから悪から離れ、いつまでも自分の肉の思いや欲をみことばに従わせます。
神の栄光を表すことは自分を通して神を表現することです。




3.神の人は 神様、神の国、霊的なことに一番関心がある




その人たちにとって上にあるものを求め、そして神を慕い求めることは いのちにもまさります。


【ローマ書8章5節】

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

すなわち神の人は御霊に属することをひたすら考えながら生きています。


天に属するものをひたすら求めながら生きる人は、目を天に向けて生きているので、御国に属する者になりますが、地上のことだけに関心がある人は、結局は地に属しているので自滅していきます。

上にある天を目指して生きる人は上に上がっていきますが、地に関心があり、地に属する人は地の下にある地獄に進んでいます。


神様はこのように生きる人を神の人と認め、特別な思いと愛をもって愛し、その人には多くの素晴らしい報いを用意しておられます。

立派な神の人として生きたパウロは地上を離れる時が近づいたことを知って次のように語りました。


【Ⅱテモテ4章6-8節】

私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時がすでに来ました。

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

時の流れがとても速いです。
あっという間に地上での生活は終わります。もれなくこの世を去って行かなければなりません。

私たちはどこに帰りますか。どこで永遠の時間を過ごす予定でしょうか。

今日の歩みがその行き先を決めます。


神の人のように生きるならば、その人は天に向けてまっすぐ歩く人です。

しかし世を愛し、そこにしか関心がない人は下り道を歩んでいます。


今どこを歩いているのか確かめて下さい。
滅びの道ではなく、神の人たちのようにいのちの道を歩む者が幸いな人です。
(・∀・)

2015.4.12
聖日礼拝メッセージ

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私の癒し主イエス様

テーマは 『 私の癒し主イエス様 』 です

【マルコの福音書5章24-34節】

そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。

この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。

「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。

すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、 からだに感じた。

イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物に さわったのですか」と言われた。

そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、 それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

長血の女の癒しは、この箇所だけではなく マタイの福音書、ルカの福音書にも出てきます。

3つの福音書に出て来るということは、私たちに重要なメッセージを伝えていると思います。


まずは、12年間 長血をわずらっていた女の人を見たいと思います。

12年間はとても長い時間です。
肉体の苦しみは言うまでもないですが、精神的な苦しみはそれ以上だと思います。

皆さんが彼女の立場になって考えてみてください。


1日の痛みだけでも苦しみが大きいのに、それが12年間です。

彼女には、やるべきことは全てやりましたが、何一つ報われませんでした。

頼りにしていた多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまいましたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。

残ったものは挫折感と痛みと心の深い傷でした。そして社会生活も出来なくなりました。

それ以上、何もすることもなく希望は消えていきました。

これは多くの人間の姿を現してありますが、自分たちの姿かも知れません。


見た目は何も問題がないように見える人がたくさんいます。
人間関係もよく健康で、家族にも恵まれ、仕事もうまくいくならば、その人は本当に何も問題がないように見えます。

しかし、内面に問題を抱えている人は意外と多いです。

劣等感で苦しむ人、鬱で苦しむ人、自分の性格や習慣で悩んでいる人、妬みや殺意、怒り、さまざまな欲、心の傷、依存症などで苦しんでいる人がとても多いです。

周りの人に言うことも出来ず、1人で悩んでいます。


自分の内面の問題を人に話すことに対して、ためらう人は自分で抱えて日々苦しんでいます。

どのように直したら良いのか分からず、そのままにしておくと心の中は苦しみ、痛みが増していき、悪いものならば、それによって心が腐っていきます。

肉体の病気によって苦しむ人よりも、これらの内面の問題によって苦しむ人の方が 現代は多いかも知れません。

特に若い人は、体は健康なのに 心に抱えているさまざまな問題によって苦しむ人がとても多いです。

それによって自分の人生を失っていく人たちがいます。


長血の女の人も病気で、何もかも全て失ってしまいました。

その女の耳に入ってきた情報がありましたが、それは彼女にとって必要な情報でした。

“イエスという人がすべての病を癒し、死んだ人も生き返らせる”ということを聞いて会いに出かけました。


人々で溢れている所に入って行くのは、彼女にとって とても大変なことでした。
しかし、彼女は自分の傷の痛みをもって勇気を出してイエス様の方に近づきました。

彼女はただ近付いたのではありません。


「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」という信仰を持ちました。
これは大きな信仰です。


なぜなら、それまで彼女は自分の病気を直すため、ワラにでもすがりたいという思いで多くの医者の所へ行きましたが、直るどころか さらに悪くなった状況の中でも お着物にさわることができればと思うことはすごい信仰です。

医者でもないイエス様に対する強い信頼でした。


彼女は最後の希望をイエス様に懸けました。これがとても重要なことです。

病院で何もできず、状態がさらに悪くなると人々は諦めて死ぬしか方法がないと思って諦めます。

また、周りの人も「あの人はそのまま死ぬだろう」と思って黙って見るだけです。

または「そのうち直るかも知れない」と無関心になっていきます。
これは正しいことでしょうか?―― そうではないです。


病気の人も周りの人も1つすべきことがあります。次の箇所です。


【ヤコブ5章14-16節】

あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

なぜ医者を呼ぶようにと言わずに、教会の長老 すなわち教会の代表者を招くようにと言ったのでしょうか?

これは医者が要らないという意味ではなく、優先順位のことを語っています。
医者を呼ぶ前に、 まず神様を求めることを私たちに教えています。


多くの人が問題にぶつかったり、病気になったりすると、神様の中で解決策を探すのではなく、まず世の中で解決策を必死に探してから、すべての希望がなくなった後にやっと神様を求めることが多いです。

それが問題であります。


まずは神様に助けを求めることです。
本人はもちろんですが、周りの信仰を持っている人も癒しのために神様に力を合わせてとりなしをすることです。


オリーブ油というものが出てきますが、古代社会ではそれらのものを治療のために使ったことはありました。

聖書の中で良きサマリヤ人のたとえがありますが、強盗に襲われて半殺しにされ倒れた人を見つけたサマリヤ人は その人に近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、介抱してあげました。

ここではオリーブ油は神の恵みを象徴しています。


神のことばに従って祈る時に、神の恵みが注がれます。 癒されるために必要なのは、神に信頼する信仰です。


医者に頼っても医者も人間ですから限界があります。

苦しみの中で夜通し泣いても何の解決にもなりませんし、人に訴えても何もしてもらえることがありません。

悩んでも何も良いことがありません。


重要なのは、必死に神を求めて祈っているかです。クリスチャンにとって これはとても大切なことです。

癒す力がある神様、力ある神様を無視して 力もない人間に助けを求めることが神の御心に適っているでしょうか。


神様は助けと癒しを求めて主のところに来る人を喜びます。


その人たちに神様はどのようにしたでしょうか。長血をわずらった女の人に何が起こったでしょうか。

着物に触った途端に、すぐに血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことも彼女自身の身体に感じ、
そしてイエス様も自分のうちから力が出て行ったことを感じました。

イエス様は彼女の信仰を見て、彼女の信仰による行動を喜びました。

そして彼女に対して「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と優しく語って下さいました。


イエス様は彼女の肉体の病気だけではなく、心の病も癒し、そして主の家族としても受け入れ、救いを与えて下さいました。

この癒しは イエス様1人だけで出来たのではありません。
彼女の勇気と、イエス様に対する信頼がなかったならば、彼女は決して癒されなかったでしょう。

聖書のほかの箇所でも同じようなことがありました。


【マルコの福音書6章55-56節】

そのあたりをくまなく走り回り、イエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運んで来た。

イエスが入って行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。

癒しを求めている人々の必死な姿と彼らの信仰をここで見ることができます。

少しだけ祈ってから「こんなに祈っているのに、なぜ癒してくださらないのですか?」と文句を言うクリスチャンが多いです。

悩む時間は長いですが、祈る時間はほとんどありません。


「イエス様の着物をさわることでも出来ればきっと直る」という信仰を持ったこともなく、祈っても何も変わらないという不信仰だけは強いです。

「神様は何もしてくれないから祈らない」と言う人もいます。

残念ながら、そのような人は神様がどんなに力が強く、癒し主であっても自分の不信仰のために癒されることはありません。

イエス様が癒された長血の女の人にはっきりと「あなたの信仰があなたを直したのです」と言ったからです。


次の箇所にも癒しの内容があります。


【マタイの福音書9章27-30節】

イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。

家に入られると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と言われると、彼らは「そうです。主よ」と言った。

そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。

すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく 戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。

私たちの信仰と祈りがイエス様の癒しの力と1つになる時に奇跡が起こります。

「何でも癒してくれますか?どれくらい祈ったら良いですか?」と聞く必要はありません。

癒された人たちは、そういうことをイエス様に聞くことはしないです。


結果がどうなるのか、いつになるのかということに心が取られるのではなく、「きっと直る」という信仰が必要です。

自分が癒されたいならば「イエス様の着物にでもさわりたい」と必死に思いながら、「主よ。私をあわれんで下さい」と叫び続けることです。

「どうでもいい」と思う人に、主は力を現わすことはできません。
その人の不信仰がイエス様の力を拒否するからです。


主が癒し主であることは誰も否定できません。


【マタイの福音書9章35節】

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。

イエス様の御前に身体の病気、心の病気、傷の診断書を持っていき癒してもらい、心も体も健やかな者になることを主の御名によって願います。
(*´∇`*)

2015.2.15
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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私たちのために来られたキリスト

テーマは『 私たちのために来られたキリストに対して 』です

【イザヤ書61章1-3節】

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、

主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、

シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。

イザヤ書44章から後半は、「旧約聖書の中の新約」と言われています。

もし人々がこの箇所を正しく悟ることが出来たならば、その人たちはキリストをメシヤとして受け入れ、
信じたと思います。

特にユダヤ人たちが、この言葉を本当に理解できたならば彼らはキリストを十字架につけることは
しなかったと思います。

しかし、未だに この言葉を悟ることが出来ないために彼らの目は、覆いがかけられ、心が閉ざされて、
キリストを信じずにメシヤを待っています。
私たちクリスチャンもキリストを正しく知らないと、後でとんでもないことが起こります。

なぜ今回この箇所をテーマにしたのかと言うと、私たちが心の底から100% キリストを正しく知っておかないと、いつ つまずき惑わされるか分からないからです。

私たちはいつも口々に「終わりの時代だ」と よく使いますが、世の中の災いを見て世の終わりだと悟る以前に、教会の中で起こってくる様々なことを通して世の終わりだということを強く実感できます。


先週、韓国ソウルの教会で驚くようなニュースを聞きました。

少なくとも数万人が集まる教会で、クリスチャンであるなら牧師の名前をほとんどの人が知っています。
以前からとても良いメッセージを語り、すごくリバイバルした教会でもあります。
しかし、その牧師が真理とは違う ずれた話を突然 公の場で語りました。

「救いはキリスト教だけではない」という言葉を使いました。以前にローマ法王が語ったのと同じ言葉でした。
その時、他の教会や教団の人たちもいました。
そして先週、何が起こったかと言うと、釜山(プサン)の教会の牧師たちが ソウルの教会の礼拝堂に 汚物を撒きました。

なぜ、そのようなことが起こったのでしょうか?

その牧師は明らかに真理ではない「非真理」で正面からキリストを否定する話をしているのに、そこで聞いていた副牧師、伝道師、長老、信徒たちが何万人もいるのですが、その人達が沈黙をして誰も否定をしなかったので他の教会の牧師や信徒たちが立ち上がったのです。
ですから、牧師だけではなく、それを聞きながら黙って教会に通っている人たちもおかしいということであります。

自分の立場のために黙っていたのでしょうか?


【使徒の働き4章12節】

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。

使徒の働き4章12節のみことばを見ても、救いはキリストしかいないと書かれています。
聖書を知っていながら違うことを語った牧師に対して、なぜ周りの人たちが黙っているのか 理解が出来ないです。

今回のニュースを聞いて、本当に世の終わりだと感じました。(その時が来たら)教会から裁きが始まります。

私は牧師として、私たちがキリストのことをもっともっと知らなければならないです。
この世で成功するために色々なことを教えるのではなく、自分たちが信じるキリストがどのような方であるのかを教えたいです。
土台がしっかりしていないといつ倒れるかわからないのです。

私たちクリスチャンは、誰よりもキリストのことをしっかりと学んで悟らないと、後でとんでもないことになります。
すべてのものもそうですが、基礎が正しく出来ていないと、砂の上に建てた家のように誘惑が来た時にペッタンコにされるのです。




そうならないように、地上に来られたキリストがどのような方であるのかを はっきりと知りたいと思います。

イエス様がなぜ来られたのか、その目的、その働き、自分のために来られたキリストのことが【イザヤ書61章1-3節】に書かれていましたが、
イエス様ご自身も語りました。次の箇所です。


【ルカの福音書4章16-22節】

それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、

主の恵みの年を告げ知らせるために。」

イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。

イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。

イエス様は、偽預言者を見分ける方法はその人が語る言葉ではなくて、その人が結ぶ実を見て見分けなさいと語りました。
その通りの働きをしないならば、その人がどんなに有名で立派なことを語る人であっても、信用してはならないです。
言葉ではいくらでも人を騙すことができます。

私たちが結ぶ実は、最初に芽が出た時には分かりませんが、実をしっかり結んだ時に見分けることができます。

イエス様は実際に来られて、この通りの働きをしました。バプテスマのヨハネが弟子たちをイエス様に遣わして
「(メシヤとして)来られる方はあなたでしょうか?」と質問をしました。
それはヨハネに先入観があり、イエス様の姿がイメージと違ったからです。

しかし みことばが目の前で実現されている実を見ましたので、ヨハネは悟り、預言されたメシヤがイエス様だということが分かり、それ以上疑いを持ちませんでした。


終わりの時には、反キリスト、偽キリストがたくさん出てくると言われています。

なぜ人々がそういう者たちに騙されるのでしょうか ――。
それは、行いの実を見ていないからです。ほとんどがその者たちの言葉や姿に騙されるのです。
立派なものを建てて、大勢の人が集まり、そこで立っている姿を見て「この人が偽物なら、人々がこんなに集まる
はずがない」と勝手な思いを持ちます。
それは みことばの上に立った判断ではなくて、「神様が今まで隠しておいた秘密をあなただけに特別教えるから」という言葉に誘惑され、牧師や伝道師、信徒たちまでもが惑わされてそこへ行くのです。

イエス様とまったく違う働きをする人たちは、自分で名誉を受けて権力を手に入れて、お金を握ります。それはメシヤの姿ではないです。

ですから、イエス様は明らかに世の宗教指導者たちと違う姿で来られて、違う働きをすることをイザヤ書61章でも語っていました。

イエス様はどのような人を救い出すと語ったでしょうか ――?
貧しい者に良い知らせを伝えるために イエス様は来ました。(イザヤ書61章1節)

貧しい者とは、霊的に貧しく心に色々な悩みがあり生きる力がない人たち、希望もなく 頼るものもない人たちです。


【マタイの福音書5章3節】

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

苦しみから救い出すために来たとイエス様が語りました。それで実際にイエス様は貧しい者たちと共にいました。

すると宗教指導者たちが「あの者はいつも罪人たちと一緒にいる」と言って非難しました。
彼らは魂を導くと言いながらも、人々を完全に差別しました。

多くの者は口なめらかに、その人が持っている わずかな物までも全部取り上げて自分の腹を肥やしていきます。

ですが、イエス様は一度もそうしたことがないです。

イエス様は心が傷ついた者たちを癒すために来られました。

心に傷がない人はいないと思います。
他人からの言葉によって傷を受けたり、環境から傷を受けたり、生まれながら傷ついた人たちなど たくさんいます。

それは薬を飲むから癒されるのでしょうか?―― 癒されないです。
身体は薬を飲んで癒すことは出来ますが、心の傷は薬では届かない部分です。ですが、人々は傷を受けていないかのように振る舞っています。
傷があるということは、心にいっぱいヒビが入って粉々に壊れたことを意味するのです。

ヒビが入った心は痛いのです。それは誰が治せるのでしょうか?
―― それは私たちを救ってくださった主です。

私たちの痛みを知っておられるイエス様が癒してくださいます。

霊的に色々な葛藤や悩みが多い人たちは心が病んでいます。カウンセリングを受けても 聞くだけであります。
聞いてうなずいて、小さな助言を与えます。また、病院で薬だけを与えて(副作用で)何も出来ない者にしてしまいます。
それは癒すことにはならないです。


【マタイの福音書11章28-29節】

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

心が癒されたということは、たましいの安らぎであります。

それから捕らわれ人には解放を与えます。これもイエス様がしたことであります。

私たちはある意味で罪の奴隷でした。奴隷ということはサタンに捕らわれた者であります。
人間に捕らわれたり、環境に縛られて奴隷にされていたり、自分自身で自分を縛っているのです。

それで苦しい思いをしている人たちがどれほど多いでしょうか。
この世で生きているほどんどの人が何かに捕らわれて生きています。「ストレス」ということは、何かに捕らわれているのです。

刑務所の中に入っていなくても、家庭の中で監視、管理されていたりすることもたくさんあるのです。
その姿を見て、イエス様が本当に憐れんでおられます。

イエス様は知恵を与え解放したいという理由で地上に来られました。
ですから、私たち自身が本当にイエス様に出会っているならば、今 私たちは自由にされていなければならないのです。


【Ⅱコリント3章17節】

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

自分の力ではどうすることも出来なかったものを、イエス様はそこから解放し自由にしてくださいました。
自由は私たちのものであります。

まだまだ自分は頑張らないと自由になれないと勘違いをしてはいけないです。
イエス様は最初から自由を与えておられますので、それを使うことであります。




私たちがクリスチャン生活をする上で勘違いをしていることが1つあります。

「囚人には釈放」という言葉がありますが、これは刑務所に入っている者に語った言葉ではないです。

以前の悪い習慣、古いものに縛られて身動きが取れていない人達がいます。
クリスチャンなのに そういうものに縛られています。罪責感に悩まされている人がたくさんいるのです。
罪を犯すたびに「あぁ、私は地獄に落とされるのではないか」という思いで自分を縛ります。
しかし、イエス様はそのような方ではないです。

イエス様は、私たちの過去・現在・未来の罪までも赦してくださるのです。
だからと言って、「じゃあ いつでも罪を犯して良いんだ」というのも間違いです。

「あなたが本当にわたしの前で悔い改めるならば、それ以上自分を責める必要はない」ということです。

なぜなら赦されたからです。罪責感はサタンが私たちを縛る 「 足かせ 」 なのです。


旧約聖書を読んでみてください。
罪を何度も犯し、それに対して神様は彼らが蒔いたものの刈り取りはさせましたが、
それでも神様は彼らを捨てませんでした。最後まで彼らの世話をし、魂を憐れんで救い出してくださいました。
これが父の心であるのです。

このようなキリストを絶対に裏切ってはいけないです。豊かになった途端、心が変わる魂が哀れであります。

「私は大丈夫です。」というのは誰にも言えないことです。


日々、私たちの信仰の土台であるキリストを求めて、その方と共に歩み、敬わないと(私たちは)倒れていきます。

ソウルの牧師の姿を見て、私たちはただ非難するのではないです。それは自分たちに対する警告だと受け止め、
世の終わりが身近なところで起きているのだということを私たちは知らなければいけないです。

もしも、牧師が真理ではない言葉を平気で語るならば、皆さんは逃げたら良いと思います。
「牧師が堕落し、キリストに敵対する者になってしまったのだ」と牧師を追い出すか、皆さん自身が離れるか、
どちらかにしないと大変なことになります。

今回のことは、私たちに対する教訓であり警告でもありますので、私たちはどのような時でも自分たちのために
来られたキリストにしっかりと礼拝して信じて、ついていきたいと思います。 ( ̄‥ ̄)=3

2013.11.3
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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