からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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献身

模範的な祈り

ハレルヤ

主の守りが今日もありますように。


今日はソロモンの模範的な祈りに対して話します。

第1列王記3章には、ソロモンの祈りの内容がありますが、


【第1列王記3章9節】

「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」


この祈りは、主の心に適い、主は彼に素晴らしい祝福を与えました。

求めなかったものまでも与えてくださいました。


ソロモンの祈りから私たちが得る教訓があります。


まずはソロモンは、求める前に主を愛し、主に一千頭の全勝のいけにえを捧げていました。

霊的渇きと献身が既にありました。


自分に与えられた仕事の重圧だけで主に求めたのではなく、普段からソロモンは主に対して献身的な人でした。

この姿は本当に学ぶべき姿です。


困った時だけ、必要なものがある時だけ、主に祈る人は明らかに主を利用する人で、主をあがめる人ではないです。


その人たちの祈りに、主は苦々しい思いを持っておられます。

その人たちの祈りは忌み嫌われます。


また、ソロモンの祈りは確実に答えられる祈りの模範を見せました。


主が与えたいと願うものを求めたことです。


ソロモンはダビデと違って、まだ若く、政治の経験もない者ですから、神が彼に与えたいのは民を正しく治める力、判断力、知恵でした。

それにピッタリの祈りをしたので、祈りが答えられました。


普段 神と共に歩む人は、神のみこころが分かるので正しく求めることが出来ます。


そして祈りは、既に与えられた神の恵みを忘れず感謝するところから始めなければなりません。


ソロモンはまず、過去の恵みに対して感謝を捧げました。

感謝を始めると普段見逃していた神の恵みに改めて気付くことがあります。


そして、祈りの時に自分を隠すことなく、偽ることなく、裸にして神の前に現すことです。

ソロモンは神の前で「私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。」と素直に言いました。


神はこのように自分を素直に現しながら告白する祈りを聞いて下さいます。


神の前で嘘を言ったら、それがバレないでしょうか。

高慢な人は自分のことを偉く言いますし、嘘つきは神の前でも平気で嘘を言います。

それは神を侮る態度です。


素直な人の祈りに主は答えます。

そして祈る時に、自分の願いや欲望よりは、神の御心に適うことを求める時に、祈りは答えられます。


何を言っているのか分からないような祈りではなく、明確に祈る時に主は答えてくださいます。

信仰ある人たちの祈りは、とても簡潔で明確です。


その人たちは、父なる神がお願いする先に、必要なものを知っておられることを知っています。


このように皆さんは祈っていますか?
祈りを変えるだけで答えられる祈りも増えると信じます。
v( ̄∇ ̄)v

3分テレフォンメッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖徒が逃してはならないチャンス

テーマは 『 聖徒が逃してはならないチャンス 』 です

【イザヤ書1章18節-20節】

「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。 たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。

しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、 主の御口が語られたからである。

先週は「今悔い改めなさい」という内容のメッセージをみなさんは聞きました。
そのメッセージを聞いて悔い改めた人たちがたくさんいると思います。

悔い改めた人たちにとっては、今という悔い改めのチャンスを逃さずに悔い改めたので、与えられたチャンスを生かした人たちです。

天国は悔い改めた人たちが入る所です。
“良い人”が入るのではなく、“悔い改めて赦された者”が入る所が天国であります。


地獄は“悪い人”が入るのではなく、“悔い改めるチャンスを逃し 罪を持ったまま”の人が入ります。


地獄へ行った人たちが1番願うことは、『私をここから出してください!出してくれるならば悔い改めます!』ということです。

地獄に来た人々は悔い改めのチャンスを逃したために自分たちがここに来ていることが分かっていました。
悔い改めをしなかったことが1番の心残りです。

ですから、地獄へ来ている人たちが1番欲しいと願っていることは「地上での悔い改め」であります。


チャンスは生きている時にしか得られないです。

そこで今回は、聖徒が逃してはならないチャンスが何か? をいくつか語りたいと思います。




①救いをもたらす悔い改めのチャンス




悔い改めない限り 救いはないです。
救いを受けるために悔い改めのチャンスを絶対に逃してはいけないです。

神様は初めから赦しの計画をもって罪人たちに語っておられます。


アダムとエバが罪を犯した時に、2人とも神様から離れて隠れていました。
しかし、神様は2人がどこに隠れているのか全てご存知です。

そこで神様は 怒って彼らを強制的に連れ出して厳しく責めたのではなく、彼らがどこにいるのかを知っていながら「あなたはどこにいるのか」と声をかけました。

「早く出て来い!」ではなく「あなたはどこにいるのか」でした。

これはすべてを知っておられる主のやさしい心から出たことばです。


本文でも「さあ、来たれ。論じ合おう」とやさしい言葉で語りかけています。
これは悔い改めのチャンスを与えていることばです。
神様は既に彼らを赦す計画で「出て来て悔い改めるならば わたしはその罪を赦す」と待っておられるのです。

このことばに耳を傾け、素直に応じて悔い改めるならば、神様はその人の罪を赦し、救いを与えてくださいます。


ここで私たちが反抗する心ならば、救いのチャンスを自分で捨てるようなものです。


神様は裁くために「出てきなさい」と言ったのではなく、裁くために「悔い改めなさい」と言ったのでもないです。

人間はとても心が頑なであります。

自分のために本気になって語ることばはいらないと言います。
そしてサタンは私たちを滅ぼすためにたくさんの偽りを言いますが、その言葉には素直に従順します。


サタンが何も言わなくても、人間は後ろをついて行きます。その道が死の道・滅びの道であるにも関わらず自らサタンの方へと進みます。

これが人間の姿であります。


私たちは最期まで諦めずに(人々に)悔い改めとイエス様を受け入れることを伝えることです。

私たちの周りには 心が頑なな人たちが大勢います。

それは人間が悪いからというのではなく、サタンの支配であります。サタンが(イエス・キリストを)信じないように妨害するのです。その人たちの心を頑なにして地獄へ連れて行く計画があるので そうするのです。


しかし神様が、私たちの周りの人たちのたましいを憐れむなら最期までチャンスを与えますが、最期のチャンスも逃してしまうなら後がないです。


そのような思いで私たちが福音を伝えることであり、「今日が最期かもしれない」という思いで罪を悔い改めたのかを自分自身に聞くことであります。




②主を迎え入れるチャンス




福音は悔い改めだけではないです。

悔い改めて、イエス様を自分の主として迎え入れなければならないです。


【ルカの福音書19章41節-42節】

エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、

言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら、しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。

イエス様は平和の主、救い主、慰め主、世界の光としてこの世に来て下さいました。
まずは選民であるイスラエルに来られました。

しかし彼らの反応は次の箇所にあります。


【ヨハネの福音書1章11節】

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

イエス様はご自分の国へ行ったのに、民たちは心を閉ざしました。
もし主を迎え入れていたなら、次のような祝福がありました。


【ヨハネの福音書1章12節】

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

すばらしい祝福を持ってイエス様は来てくださいましたが、民たちは『人間 イエス』につまずきました。

光(イエス様)を拒否し、神の子どもとなる特権も拒否しました。


その後の彼らは苦難の道を歩むようになりました。

イエス様の預言通り、AD70年にローマ軍が入ってきてエルサレム神殿をすべて壊しました。
これはイエス様を受け入れなかったので起きたことでした。

そして全世界に散らされ、どこの国でもユダヤ人は歓迎されず迫害されました。

600万人のユダヤ人が第二次世界大戦の時に殺され、国が再び建国されてからも常に戦争状態です。
今も彼らには覆いがかけられ、メシアを受け入れていない状態です。


歴史を支配しているのは神様であります。






今、プロテスタントとカトリックのことを研究しているところです。

このような書籍は日本でも売っていますが、普段 みことばにふれていない人が書いています。
このように信じていない人の観点ではなく、(準備が出来ましたら)聖書の言葉を通して正確に皆さんに教えようと思います。


黙示録を読むとカトリックの姿がたくさん書かれています。一体、何が間違えているのでしょうか?

こういうことは多分、クリスチャンの人も分からないと思います。


しかし、クリスチャンこそ正しく知らないと、惑わしの霊がたくさん来た時に騙されてしまいます。

そして教会の教えも、有名な先生だからといって、語ることばが全て真実かといえば、そうではありません。
大きな教会でも反キリストの霊が多く働いています。

世の中の色々なことに騙されないように、聖書のことばと照らしてプリントを配ろうと思います。


今の時代は、ただ教会へ行けば良いということはなく、その教会で正しい真理が語られているのかが大切です。


今は恵みの時、救いの時です。恵みを受けてはじめて私たちの信仰が成長し神を知るようになります。

しかし、まだ神を受け入れていない人は、誰かが福音を語る時は、今がイエス様に出会うチャンスなのです。
もしそれを逃したら、いつ誰がその人に福音を語るでしょうか?その後クリスチャンに出会うこともなく世を去る場合もあるのです。

私たちは伝えていかなければならないです。
拒否をする人たちもたくさんいますが、それは(受け入れなかった)その人の問題(責任)であります。




③献身・召命実践のチャンス




クリスチャンは恵みだけを受けて「あぁ良かった。天国に入るまで何もしなくて良いのだ。」ではないです。

マタイの福音書25章はクリスチャンに向けたメッセージです。
選ばれた者がどのように献身し歩むべきなのかを教えています。


一タラント、二タラント、五タラントがあり、これは召命実践のチャンスです。
召命は皆違います。皆が同じ賜物や同じ働きはないのです。神様は1人1人に応じて使命を与えました。

私たちは自分は神様からどんな召命を受けたのか知らなければなりません。
祈りながら主に聞いてみて下さい。「私は主のために何をしたら良いでしょうか」と。

ある者には一タラント、ある者には二タラント、ある者には五タラントを任せました。そして働くように言いました。


あなたが受けた召命を、実践によって実を結びなさいということです。

二タラントと五タラントをもらった2人は一生懸命働いて次のように報告しました。


【マタイの福音書25章20-21節】

すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、 ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。」

その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。 主人の喜びをともに喜んでくれ。」

その人たちは死に至るまで忠実な人でした。ですから このような素晴らしい決算が出来ました。
主人がその人の働きをとても喜び褒めてくださいました。このしもべは天国でたくさんの報いを神様から受けます。


そして、一タラントもらった者は何と言ったでしょうか。次の箇所です。


【マタイの福音書25章25節】

私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。

彼は働かず地の中に隠していたので、何1つ増えていなかったのです。その人は死ぬまで自分が(神様から)何をもらっていたのかを知らず、関心すらありませんでした。

働きが一切無いのです。土の中に入れましたので、それを主人に持ってきました。
主人は次のように言いました。


【マタイの福音書25章26-30節】

ところが、主人は彼に答えて言った。「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。

だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。

だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。」

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、 持たない物は、持っているものまでも取り上げられるのです。

役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

3人のしもべたちは、選ばれた信じる者なのです。

2人はきちんと主人の言葉通りに商売をして もうけました。
しかし1人は言うことを聞きませんでした。それは主人を侮ったことであります。


神様は怠け者、そして主人に対して悪い思いを持っている者は役に立たない者であるので、外の暗やみに追い出しました。外の暗やみの世界とは地獄であります。


私たちはチャンスを逃してはいけないです。「私はこんなに小さな働きだから…」ではないです。

どんなに小さな働きであっても、その時にそれが与えられたなら 一タラントであっても忠実に働くことが、すごく大切なことであります。


五タラントもらった人が二タラントの働きしかしていないならば、その人は怠け者です。五タラントには五タラントの働きが必要です。

働きは、教会だけに限られていないです。どこにいても私たちは主のみこころに従うなら、働く場所があるのです。
私たちが働く場所は人間なのです。他人に仕えることです。

家庭でも私たちはクリスチャンとして仕える働きがあるのです。


主が喜ぶ働きをするなら、立派な奉仕です。24時間どこででも私たちは奉仕が出来るのです。




献身のチャンスとは?




自分の召命のために働くことも献身ですが、あなた自身を捧げないと出来ないことがあります。

これは誰にでも出来ることです。

そして献身のチャンスを逃した人たちの言い訳の姿は次の箇所です。


【マタイ25章44-45節】

そのとき彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、 お世話をしなかったのでしょうか。』

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、 この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

最も小さい者は私たちの目には入らないでしょう。
これは献身する思いがないと、自分を捧げることができないです。
自分のものを主張しないことであります。


聖書で見るならば、良きサマリヤ人の姿です。
憐れんで手を差し伸べる者こそが神様が求める者であり献身であります。

愛と関心、そして自分がその人に対して何かをしてあげようという思いがあれば出来ます。


「私は助けるものがなくて出来ません。」というのは全て言い訳であります。
私たちは有り余って処分するのが困るくらい持っているのです。

それなのに、本当に困っている人がいるのに助けないのは無関心の姿であります。


私たちはいつもアンテナをはって「私が助けなければならない人はどこにいるのか。」と、見ることであります。

私たちは与えることが愛であります。相手から返してもらおうと思うのは計算をしたことになります。


このチャンスも生きている時にしかできないです。本当に困っている時に知らんぷりではなく、食べ物を与え、着る者を与え、助けることが必要です。




④再臨の主を迎えるチャンス




このチャンスを逃したら本当の意味で終わりです。


【ルカの福音書17章34-35節】

あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台で男がふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

これは再臨の主が来られる前の姿です。

イエス様は雲に乗って来られ、既に亡くなった聖徒たちが復活し、地上に残された聖徒たちが天に引き上げられます。


その時にクリスチャンたちの中でも、ふたりのうちひとりが残されるのです。

引き上げられる人と残される人の違いは、主が再臨することを常に知っていて準備をした人と、いつ来るか分からないから今は飲み食いしよう、人生1度きりだから楽しいことだけをしようと準備をしなかった人です。


神様は準備をしている者としていない者の違いを教えてくださいました。

目を覚ませというのはクリスチャンに言っていることであります。主は必ず再臨なさいます。

そこで残されたクリスチャンは悲惨であります。なぜなら大患難に突入するからです。


大患難は私たちが地上で考えたことも聞いたこともないほどの患難だと言っています。
今 信仰を持たなかった人が患難の時に反キリストが出て来て“666”を受けないと何も買えない状況になった時に、果たして信仰は見られるでしょうか?

ものすごく厳しい時代になると思います。




再臨の準備はどのようにしたら良いのか?




仕事を辞めて、祈りとみことばを読む生活をしたら良いでしょうか?と言う人がいますが、イエス様はそういうことではないと語られました。

それはイエス様が望む姿ではないです。次の箇所で良い助言が与えられています。


【Ⅰペテロ4章7-10節】

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。 愛は多くの罪をおおうからです。

つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。

それぞれが賜物を受けているのですから、 神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

これは再臨を準備する姿です。

私たちは毎日の生活の中で準備をするのです。イエス様が喜ぶ生き方をするのが準備をする姿であります。

特別なことではなく、主は ここで3つのことを語りました。


・互いに熱心に愛し合いなさい(8節)

愛は神様から出て来るものであります。神様の兄弟姉妹たちに語ることばです。

・互いに親切にもてなし合いなさい(9節)

教会で食事をすることも、これは愛する姿であります。親切にもてなし合う姿です。
初代教会にその姿がありました。それを私たちが今 実践していくことです。


・互いに仕え合いなさい(10節)


この3つを私たちが実践していたら、その人たちはきちんと再臨の主を迎える準備をしている姿であります。
このような人は非難されるところがないので 何も心配する必要はないです。

これを日々行うことが未来を準備する姿であります。Ⅰペテロ4章7節の「心を整え身を慎む」姿です。

物を蓄えるのは、私たちの魂を救うことは出来ないです。


今、神様によってチャンスが与えられていること自体が恵みであります。今日 生きている者はチャンスがあります。

「明日から」というのはサタンが与える言葉です。どんどん先延ばしにして私たちが出来ないようにします。

ですから、今から行動する人がチャンスを逃さない人であり、「明日からします。」と言う人はチャンスを全て逃す人です。


今からしないといけないのだという思いで全てのことをして欲しいと思います。
(・∀・)

2014.7.27
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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主の民になったならば

テーマは 『 主の民になったならば 』 です

【エレミヤ書7章21-26節】

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「全焼のいけにえを、あなたがたのほかのいけにえに加えて、その肉を食べよ。

わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。

ただ、次のことを彼らに命じて言った。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。 あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。」

しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。

あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、 たびたび送ったが、

彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。」

人生最大の恵みは何だと思いますか?
私たちが今まで受けた恵みの中で、この恵みが一番だと思っている恵みは何でしょうか?


天地万物の創造主、主権者である神が 自分の神となり、自分が神の民になることは人生最大の恵みであります。


現在、地球上には約70億人が住んでいます。その人たちが皆、神様を信じているでしょうか?
そうではないです。多くの者たちは神様に背を向けています。

彼らも神と呼んでいるものがありますが、その神は実在する神ではないです。
人間が作った偶像の神ですので、そのまま進むならば、彼らに待っているのは裁きしかないです。


この世の多くの人々が捨てられた状態であり 裁きを免れない中で、私たちは天の神の民として生きているのは 恵みの中の恵みです。
これほど素晴らしい恵みはどこにあるでしょうか?そこに自分の永遠の命がかかっているのです。

この世で生きる期間は短いですが、その後に続くのは永遠の世界です。
その永遠の世界で 私たちはどこへ行くのかが重要であります。


私たちはいつも何が大切であるのかを 常に考えなければいけないです。
神様の民である価値を低く考えるならば、その人たちは世のものによって倒れてしまいます。


昨夜、生駒聖書学院長の奥様が病気によって息を引きとりました。その連絡を受けたので祈りました。

しかし、そこには悲しいという思いは一切ありませんでした。
天国がどのような場所であるかを知っていますし、私も天国に憧れているので、
“苦しみから解放されて 今は喜びあふれ、光と平安がある天国でイエス様に出会って喜んでいるでしょう。何と素晴らしいことでしょう?”

私はそこで感謝の祈りをしました。
残された家族のためには慰めの祈りをしましたが、
もしその方が イエス様を信じないで亡くなったならば、感謝の心ではなく 憐みの心が出て来ると思います。


しかし、イエス様を信じて神様のところへ行く人たちは 帰るべきところに帰ることなので、すごく感謝であります。御国の民になった者だけが死んでも幸せになります。


また、救われた者 皆が天の御国に入られるのではないです。
ある者は「主よ、主よ」と言っていましたが、天国に入れない者もいました。

なぜ入れなかったのでしょうか?
それは 神様が見た時に、神の民として選んだのに その人の生き方が神の子どもらしくなかったからです。

そして天国には入れずに、そこで歯ぎしりをするのです。


神様は始めから私たちを幸せにするために民として受け入れて下さいました。これはとても大きな恵みです。

神の民になった者は 神の民らしく生きる時に、神様はその人を神の民として認めて下さいます。


イスラエル民族は選民としてのプライドがものすごく強かったです。
しかし神の目にうつった彼らの姿は、神が民として認めることができないほどのひどいものでした。

彼らは不従順によって神に背を向け、ほとんどが荒野で死にました。神の民にふさわしくなかったのです。
私たちは彼らと同じ道をたどってはいけません。


これは彼らだけではなく、今の私たちに語る言葉でもあります。

「あなたはイスラエルの民とは違うのか?彼らのように歩んでいるのか 自分をよく見なさい。」と、
私たちが救われた時から 私たちはイエス様と1つにならなければならないです。


神の子どもになったので真理のことはもちろん重要ですが、いつもイエス様と共に歩きながら神の民らしく生きることが大切であります。


主の民になったならば、どのように生きるべきかを まず考えないといけないです。
自分の神に対して自分がどうすべきかを考えるのは当然です。
そこで、神のことばの中に神の民として生きるべき姿が出てありますので そのことを伝えたいと思います。



①主のことばに聞き従うこと



主は私たちを救い出した方であります。
それまでは神様とは無関係でしたが、私たちが神の民になった瞬間から神様は当然のように私たちの神になりました。
この神の言葉に対して私たちは聞き従うことであります。


神様がイスラエルを選んだ時に いけにえが欲しくて選んだのでしょうか?
そうではないです。いけにえは、いわゆる形式です。神様はいけにえを要らないとは語ってはいません。

ただ、いけにえだけでは満足することはないと語っておられます。


神様が求めておられるのはいけにえをささげる人の心です。


すなわち従順する心、感謝する心、きよい心を願っています。神様は 汚れのないいけにえを持ってきなさいと語りました。もしそれがないなら神は決してそのいけにえを受け入れません。

いけにえを持ってくる人が汚れているならば、そのいけにえも汚れてしまいます。


【エレミヤ6章20節】

いったい、何のため、シェバから乳香や、遠い国からかおりの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のいけにえは受け入れられず、 あなたがたのいけにえはわたしを喜ばせない。」

遠い所からわざわざ神様に捧げる為に良いものを買いました。
それを持って神様のところへ来て、神様が喜ぶと思って捧げたのに、それを神様は拒否しました。

問題はその人の心が神様に相応しくなかったからであります。その人自身が不従順の心があるからです。


神様の言葉には従わないのに、物だけを持ってくるのです。
「神様、これで満足でしょう?」「これで私の罪を赦してください。」「これで私を祝福してください。」
それは賄賂のようなものになります。神様はそのようなものを受け取らないです。


神の民になっても、うなじのこわい者がとても多いです。外見は敬虔なふりをしていますが中身は違います。
ですから神様は「偽善者」という言葉を使います。


神様のことを「私の神様です。」という人は、必ず(神様のことばに)従順をしなければならないです。
従順がないと神様はその者を“神の民”と認めることができないのです。従順しない者に 神様の祝福はないです。

神様は、聞き従う者だけに豊かに恵みを与えるのです。神様が私たちを神の民としている目的は、私たちを幸せにするためであります。

愛の神様ですので、私たちにみことばを与えて 「従いなさい。」ということは、私たちに恵みをたくさん与えたいからです。
これは神のルールを教えているのです。


不従順の罪は悔い改めないと天国には入れないです。
心を頑なにして悔い改めをしないならば神様との関係がなくなります。
いくら神の民であっても神に向かってうなじのこわい者、不従順する者に 救いの恵みが臨むことはありません。


神様は「わたしの声に聞き従うならば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と語りました。また神様は従順する者に聖霊を与え、祝福し、幸せにさせると約束してくださいました。


私たちが主の声に聞き従う時に、神様は私たちを民として認めて下さいます。




②霊とまことによって神に礼拝すること



【エレミヤ書7章21節】

全焼のいけにえを、あなたがたのほかのいけにえを加えて、その肉を食べよ。

と語りました。

全焼のいけにえとは、完全に焼いて捧げるいけにえなので 肉は残っていません。そして神様は その香りをいけにえとして受けます。それなのに神様は、肉もないのに、ほかのいえにえを食べなさいと言うのは、神様からの非難的な言葉であります。


全焼のいけにえを捧げているのに、神様はそのいけにえを受け取れないということです。神様が拒否する姿です。
それは神様が受け取らなければいけない物なのに、「あなたが食べなさい。」ということは、「わたしは受け取れないのだ。」ということです。

(受け取らないのは全焼の捧げ物の中に)その人の心が入っていないからであります。


今の時代では私たちが牛や羊を捧げることはないですが、神様に霊とまことによって全焼のいけにえを捧げる方法があります。次の箇所です。


【ローマ12章1節】

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

全焼のいけにえ そのものには、“献身”の意味があるのです。
「私の心も身体も神様に捧げます。神様を信頼し、愛します。」というすべての思いが込められて、神様に捧げることなのです。


神様は常に心を見ておられます。
神様を信頼する心も愛する心もなく ささげる礼拝を神様は喜ぶでしょうか。―― 喜びません。

神様が求めておられる礼拝について書かれているのは次の箇所です。


【ヨハネの福音書4章23-24節】

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。

神様はこのような礼拝者を求めておられます。

日曜日に教会で神様に礼拝を捧げることだけが礼拝ではありません。


毎日の生活そのものが神の前で生きながら、神の中に根差して、毎日、毎瞬間 神様に礼拝をすることであります。


私たちが霊とまことをもって礼拝をしたいならば、神の目を常に意識しなければなりません。


私たちは気付いていなくても、神様は何もかも常に見ておられます。

「あぁ、そろそろ祈らなければならないか…」と 形式的に祈るならば神様は受け取らないです。
しかし、形式がなくても私たちが心から神様を見て 愛の心を見せながら感謝して生きるならば、24時間礼拝する者になるのです。


ヨセフがそうでした。ヨセフは24時間礼拝をする者でした。
彼は厳しい試練の中を通っている時 一言も神様に文句を言ったことがないです。
どのような環境に置かれても、常に礼拝でした。

毎日、美しい女性に誘惑されても、ヨセフはそれに倒れませんでした。
倒れなかったのは、ヨセフの心が強かったからではないです。

神様を常に意識するからなのです。
「神の前でこんな罪は犯せません。」と、それを堅く決めているのでブレることがなかったのです。


私たちは、あちこちを見たり世の流れに従ったりするので 倒れたりするのです。
信仰が台風に遭っているかのように常に揺れ動いています。それは礼拝をする態度ではないです。

それによって全部失敗をしながら日曜日だけ神様の御前に出て「私は礼拝をしています!」と言うならば、
神様は「違うぞ。あなたの普段はどこへ行っているのか?普段は何をしているのか?」―― それを私たちは意識しなければならないです。


素晴らしい礼拝者は ヨブもそうでした。ヨブがすべてを失った後に主にささげた礼拝は立派な礼拝でした。霊とまことが彼の中に常にありました。

自分の生活全体を通して神の前にははずかしくないように、神を敬い、心から神を求めて生きる人を神様は喜んで下さいますし、その心で礼拝する者を神の民として認めて下さいます。

神様はいつも私たちに良いものを与えてくださるので、それに対して私たちが常に礼拝を捧げる者ならば恵みがなくなることはないです。



③主の声を大切にすること



神様は昔、まだ聖書がない時代にはしもべたち、預言者を通して民に語りました。
彼らが伝えることばは神のことばであり、神の声でした。

しかし彼らは聞かず、耳を傾けませんでした。
主のことばを聞くことを拒否した結果、神のみこころを知らないので あらゆる不従順と罪を行いました。


神様は聖書の言葉を通して主の声を聞かせたり、礼拝メッセージを通して主の声を聞かせます。また兄弟姉妹を通しても御声を聞かせます。
私たちは それを聞く耳をもって聞くことです。


【箴言16章20節】

みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。

主の声を無視せず、聞く耳をもって聞き、心に入れることです。
みことばを心に刻むと私たちの命になります。


今、私たちはいつでも主のことばを聞けることに対しても喜び 感謝しなければなりません。

人の話には興味があって よく質問までしながら聞くのに、「神の声には聞きたくありません」と耳を閉じるならば 神の民と言えるでしょうか。

個人の生活の中でも、教会でも、神のことばを聞くことほど大切なことはありません。

いつも耳を開いて、主のことばを聞きたいと願う人は主に喜ばれます。


自分が神の民であることを誇りと思っているならば、自分自身がその民にふさわしい者になることは当然です。
神の命令に従順し、霊とまことによって礼拝を捧げ、いつも主の声に耳を傾け、そのことばを大切に真剣に聞くことです。

そのように行う人は、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた 民です。


神の言葉を無視するならば、その時から神様は語らなくなります。その人たちには、みことばを聞けない飢饉が必ず来ます。

「聞けることが感謝です。たくさん語ってください。」と謙遜な思いをもって主の前で聞くならば、その人はどんどん神の民らしく生きることが出来ます。 (´∀`*)

2014.5.18
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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使徒パウロの同労者

テーマは『 使徒パウロの同労者 』です

【ローマ16章1-7節】

ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。

どうぞ、聖徒にふさわしいかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。

キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。

この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。

あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。

私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。

パウロは たくさんの働きをした人であることは、誰もが知っています。
彼は十二使徒たち以上の働きをし、偉大な人物でした。

しかし、どんなに偉大な人であっても、聖霊の力を受けた人であっても、1人ですべてをこなすことは出来ないです。

パウロの仕事の陰では、多くの人々の協力がありました。
すべて平信徒でした。この人たちはイエス様が働いたように働いた人々であります。

パウロの同労者には テモテ、バルナバ、ルカなどは聖書に度々出てきます。

今回は私たちがあまり聞き慣れていない名前ですが、その人たちのことを考えてみたいと思います。
パウロにとって とても大切な仲間たちであります。




【ローマ16章1節】

ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。

≪フィベ≫… 女性の執事です。教会での執事は、信徒たちの中で一番働きが多い者であります。
神学校へ行くのが献身ではなく、執事と任命されるのは「教会であなたは主に一生懸命献身しなさい」ということです。
あらゆる仕事をして教会をたてていく者です。
パウロが「この人を推薦する」と言ったのは、それは「認められた人」ということです。
私たちは信用できない人を人々に推薦することはできないです。
また、パウロにとってフィベは、パウロが伝道で出て行くことが多かったですが、そのための経済的援助をしました。
惜しまずに神様の働きのためにパウロに捧げて助けました。他にも、困った人たちに対しても彼女は助けました。
とても親切で心の優しい者でした。

人を助ける人たちは、優しい人でないと助けることができないです。
自分のことしか関心がない人は、他人を助けることはしないです。
心優しい人は、他人に関心があり、愛があります。彼女はそのような者でした。
奉仕をする時も、お金だけを捧げて偉そうにしたのではなくて、一生懸命に仕事をし献身しました。
また、フィベは従順で みことば通りに動く人でした。
私たちはこのような姿を学ばなければならないです。




【ローマ16章3-4節】

キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。

この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

≪プリスカ とアクラ≫… 夫婦であります。「使徒の働き」の中にはこの人たちの姿が何度も出てきます。


【使徒の働き18章1-4節】

その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。

ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、

自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。

パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。

【使徒の働き18章24-28節】

さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。

この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。

彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。

そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。

彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。

プリスカとアクラは、パウロを招いて一緒に生活をしていました。
聖書の中で、一番理想的な夫婦の形は、この2人です。
夫婦が同じ神様を信じ、一緒に協力して素晴らしい働きをしました。

1年6ヵ月間パウロと生活をしました。その中でパウロは、夫婦に聖書のことをよく教えました。

そして、この家を解放して教会にしていました。この夫婦はパウロによって、みことば充満、聖霊充満になり
聖書の知識が多いアポロよりも この夫婦の方が霊の目が開かれていて彼より上でした。
アポロは知識だけでみことばを伝えましたが、彼に欠けているものを明確に知り、招き入れて聖霊によって働きをすることを教えました。

どれほどこの夫婦が、神様やパウロに献身的であったかは、パウロがコリントからエペソへ移動した時に、
この夫婦も引っ越し パウロについて行き、そこでもパウロを支えたことで分かります。


【ローマ16章4節】

この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけではなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

命を懸けてパウロと共に働きをしました。これはすごいことです。たとえ命に関わることであっても、
逃げることをしませんでした。

神様の働き、すなわち霊的なことと肉のことを、私たちはハッキリと区別をしなければならないです。
私たちは生活をしていますので、色々なことがあります。
しかし問題に引っかかる度に「神様の働きを辞めたい。今はそんなことをしている場合ではない」となると、
その魂は死んでいきます。その(肉の)問題は自分で精一杯努力をして解決していくものであります。

神様の働きは変わらないです。
自分たちが生活をしていることを 全て神様の働きに引っかけて神様の働きを辞めていくならば、
サタンはいつでもその人に問題を与えるのです。完全に働きが出来ないようにし、信仰が離れていきます。

神様の働きがあるので、今まで守られてきたのです。
「神様の働きは絶対に辞めることができません。ですので、色々な邪魔をする問題を早く解決してください。」と神様に助けを求めるのが良いです。
神様の働きを辞めたら楽になるということは絶対にありません。辞めると神様の助けがなくなります。

プリスカとアクラはパウロを守る為に自分たちが前に立っているのです。
このような人たちが 神様が祝福する人であります。

自分たちの家で礼拝をすることは、神様の恵みなのです。
私たちクリスチャンは何が一番大切かと言うと、霊的祝福ほど大切なものはないです。
それはいつまでも残るものです。
私たちはいつまでも残るものを手にしていなければ、ラオデキヤ教会のような霊的姿になります。




【ローマ16章5節】

またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。

≪エパネト≫… 性別は分かりませんが、パウロがアジヤで伝道をして最初に信じた人です。
パウロの心にすごく残っている人物です。

しかし、それだけではないです。なぜここで、この人を語るのでしょうか―?

この人は救われただけではなくて、その後 立派な働き人になったからです。これはとても大切であります。
救いを受けても その後はどのようになっているのか分からない人が、世の中には大勢います。

しかし、救われたその時から信仰が成長して 神様の働き人になることは一番理想的であります。
救われた人が熱心に働くほど、主のしもべたちを喜ばせる姿はないです。




【ローマ16章6節】

あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく。

≪マリヤ≫… 名前通り女性であります。信徒たちのために非常に労苦をしました。
熱心に自分の身体をもって奉仕をしました。旅人をもてなし、人々に食事の用意をし、苦しんでいる者を慰め、
お祈りをし、常に生活そのものが教会と信徒たちに関心があって生活をしてきました。

自分を犠牲にした立派な姿であります。このような人達がパウロを支えていました。




【ローマ16章7節】

私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったのです。

≪アンドロニコ とユニアス≫… ユダヤ人です。祈りと霊的戦いにおいてパウロのパートナーであります。
異邦人は全て偶像崇拝をしていますので、そこで福音を伝えると当然のように迫害を受けるのです。
ですから先頭に立って、パウロと一緒に捕らえられた者たちであります。
教会の奉仕には色々な戦いがありますが、このように霊的戦いを共にする人もすごく必要です。
とりなしの祈り、戦いの祈り、一緒に出て行って闘う働きをシラス、バルナバ、ルカ、マルコもこのような働きをしました。

ですから一緒に捕らえられて牢の中に入れられたこともたくさんありました。
自分たちの生活があるにも関わらず先頭に立っていました。

天国へ行った時にパウロだけ祝福をたくさん与えて、この人たちには祝福を少しだけ与えるということはないです。
神様の目から見たら同じなのです。名前の問題ではないです。
「使徒だから」、「平信徒だから」ではなく、命を懸けて働く姿は同じ姿であります。
パウロはそれを知っている者でした。




牧師であるのに仕事をしない。
牧師であるのに何もしない、遊んでばかり、寝てばかり、聖書も読まない、祈りもしない。
そのようは人たちもいるのです。

また、信徒だからといって「別に私たちはしなくて良い」と言って寝ている人、何もせず逃げてばかりいる、
このような人は神様はどのように見ているでしょうか―。
怠け者、使命を果たさない者、自分のタラントを土に埋めた者、自分の教会が苦しんでいるのに関心もない者です。


パウロは次のように語ります。

ローマ16章19-20節

あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。

平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。

これからも良い働きに励みなさいということであります。
今している働きは素晴らしい働きだからと高慢になってはいけないです。
過去のことを人前で誇って、働きをしなくなるのはいけない と、これからも良いことをし続けなさいと言っています。
悪に無関心になることが良いとパウロが語っています。

私たちがサタンに「出て行け」と言うから、サタンが私たちの言葉を恐れて出て行くのではなく、
私たちが従順して主が喜ぶ働きをずっとしていくと、神様がそれらのものを踏みつけてくださるのです。
サタンは私たちの力で踏まれるのではなくて、主が私たちを通して働きをしてくださるので踏みつけられるのです。

踏みつけられるということは、サタンが私たちを倒すことができないということであります。

立派に献身して働く人たちに サタンはどうすることもできないです。その人と神様の関係が平和です。

神様がその人を尊く用いてくださるのです。

今、使徒パウロは ここにはいませんが、聖霊様が働いておられます。
私たちは聖霊様の同労者にならなければならないです。
そして牧師や信徒たちが一緒に働きます。一緒に働くことで、一緒に良いものを神様から受けるようになります。

信徒と一緒に心を痛める事、教会に問題がある時に一緒に祈ること、問題がある信徒と一緒に祈ることなど
協力して初めて良い働きが出来るのであって、1人で全部しなさいと言ったら絶対に無理であります。

それを私たちは みことばを通して、いつか神様の御前に立った時に報いを受ける人になってほしいです。
今、振り返ってみると、あの時に神様から離れないで献身して一生懸命働いたことを良かったと思う日が必ず来ると思います。 (^∀^)

2013.9.22
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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聖霊充満な秘訣とは

テーマは『 聖霊充満な秘訣 』です

【ローマ書12章1節】

教会に来る人たちは皆が同じラインに立っているわけでもなく、同じところに属しているわけでもないです。
羊とヤギ、麦と毒麦があります。
麦と毒麦の例えは、1つは実が詰まって良いもの。
1つは実が無いもの。外側は麦のように見えても、中身が無いです。

聖霊充満な人は、どのような人かと言うと、「内なる人」が生きている人、詰まっている人、健全な人であります。
このような人達が聖霊充満であります。

聖会巡りをする人達がいますが、それによって聖霊充満な生活になったでしょうか?
なってはいないです。だから飢え渇いて「どこへ行ったら聖霊充満になるのか?」と全国の聖会をまわります。
それは聖霊充満な姿ではないです。そのような方法で聖霊充満には絶対にならないです。
神様はそのような方法を絶対に使わないです。
その時の一時的な恵みはあるかも知れませんが、聖霊充満にはならないです。


―― 聖霊充満になるには ――

今回の聖句箇所のローマ書「聖い、生きた供え物としてささげなさい。」というのは、
『 献身 』であります。これは自分自身を神様に捧げたことです。
働きのために何かをするためでも、神学校へ行くことでもないです。

自分自身を聖い生きた供え物として神様に捧げたか 捧げていないか、であります。
捧げた人は聖霊充満に必ずなります。

日々、罪の悔い改めをしてイエス様の血が注がれると聖くなりますが、
どうやって聖い生きた供え物になるかと言えば、その人自身の自我が消えたことを意味します。

自我充満は肉に属している姿であります。
聖霊充満を妨害する1番の悪いものは、自我充満です。

自我がいっぱいになっているのに、聖霊様はどこに入りますか? 入りたくても入れないです。

順序があり「まずあなた自身をわたしの前に捧げなさい。」であります。
これが祝福を受ける秘訣であります。

【ルカ6章38節】

神からのものを受けたいならば、自分の心を空っぽにする必要があります。
「空っぽにして綺麗に掃除をしてきました。どうぞ入って来てください。」と
いうのが正しく聖霊を求める姿であります。


―― 聖霊充満を維持していくには ――

維持する方法は「愛」です。
献身をすると、神様のものが私たちの中に入ってきます。
その中には、賜物もあり、神様の愛もあり、神様がくださる色んな良いものがあります。

それを神様は「あなたが独り占めにしなさい」とは言っていないです。
今度は私たちが得たものを(周りの人に)与えることです。
無条件に与える。神様が示したところに与える。これは愛です。
他人の為に犠牲を払うと、聖霊が消えることはないです。

聖霊様が賜物を与えてくださるのも、他人に仕える為であります。
愛を実践しなさいということで、神様が賜物や恵みを与えてくださいます。

しかし、この愛は自分自身に勝たなければ出来ないことであります。
何故なら人は、自分を愛しているからです。「私のもの、私のもの・・・。」
自分の為には使っても、他人の為には使わない―。
犠牲の精神がない愛は、「愛ではない」です。

神様との関係でも、人間関係でも、犠牲が伴わない愛は「愛」ではなく、
世の中は「愛」、「愛」、「愛」ばかりを言いますが、それは「(自分に)くれ、くれ、くれ」という愛です。
与える愛ではないです。ですので、それには値打ちがなく すぐに壊れます。

しかし、神様は私たちに「あなたたちが聖霊充満を維持したいならば、ずっと続けて毎日のように
この愛を具体的に実践しなさい。」ということであります。
そうするならば、その人の中にある聖霊充満は消えることがないです。

献身はこの道の一番最初、入り口にすぎないものであります。
愛の実践を受けるために神様が与えてくださった賜物をタンスの中に仕舞い込むのではないです。

聖霊充満を受ける為に従順がないと全て虚しくなります。
従順する姿。これは秘訣でありますが、聖徒たちに何よりも必要なものであります。
従順ということは、神様の権威を認めることであります。神様を1番にすることであります。

祈りはたくさんしても、従順が無いならば、その祈りは聞かれないです。絶対に聞かれないです。
祈るということは、まず神様の声を聞くことであります。聞いて、それに従う時に管が良く通るようになります。

たくさん祈ったから与えられると勘違いをしていますが、
神様は「あなたが従順した分だけ、祝福が来る。」と語ってあります。
不従順をすると、神様から与えられたものも 取られます。

神様はどんな人に祝福を与えるか順番を決めるなら、従順した人であります。
神様がパッと見て、一番従順した人に先に与えます。その人をまず先に祝福をして、その次に従順する人、
またその次に従順する人・・・と祝福を与えていきます。
神様の言葉をよく聞いて、従いたいという心を持っている人達であります。

祈りをたくさんすれば、奉仕をたくさんすれば、神様は祝福するだろうと思いますが、
その前提にあるのは「従順」であります。

(神様が)自分に言われたことを、その通りにしていく その姿に神様が感動しますね。
神様はその人を呼んで祝福をしていきます。

従順しない理由は自我充満であります。


―― そして、信頼があります ――

神様は私たちに対する計画があります。私たちは自分で計画を立てて「神様、私の計画通りにしてください」と
神様に願いますが、それは正しいでしょうか?
―正しいものではないです。

神様は私たちに命を与えた時に1人1人に対する計画を持っています。
あなたの人生そのものを捧げなさい。
捧げることは信頼をすることであります。自分の命を神様に任せるということは信頼できなければできないです。
私たちが立てた計画よりも遥かに神様の計画の方が素晴らしいです。祝福するために立てた計画であります。
平安を与えるために立てた計画であります。

私たちは明日のことがわからないです。霧のような人生なのに、「明日のことを心配するのか?」
最後まで自分の計画を握りしめて通そうとするなら、神様がそれを壊してしまいます。
計画通りにならないようにしてくださいます。

私たちが聖霊充満にならないと、魂を失っていきます。
世の中での一番の悲劇は魂を失うことであります。それは全てを失ってしまうことです。
たくさんの世の物を持っていても、墓場に持っていけないです。

イエス様の弟子たちは、無学であっても聖霊充満になることで、
世の中の口の上手い者たちの人間的な知恵を潰しました。
弟子たちは何も持ってはいませんでしたが、魂を生かす者になりました。
神様の働きが出来る者になりました。
自分達の生きる目的が何なのかを聖霊充満の中で悟りました。

自分の魂が失われないように、自分の人生の目的、何の為に生きているのか
これを忘れないようにしっかりと日々生活の中で考えていかなければならないです。
 ( -д-)ノ

2012.9.23
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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