からし種の信仰と成長↗

東大阪市・八戸ノ里キリスト教会の毎週日曜日の礼拝メッセージです。 「聖書は難しくて意味がわからない」というイメージが強いです。だけど、真理を正しく説いてくれるので心にグサグサと刺さります。涙も大量に流れます。だけど、それが神様の恵みなんですヨ~★

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狭い門

主から知らないと言われた人々

テーマは 『 主から知らないと言われた人々 』 です

【ルカの福音書13章24-27節】

「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』

だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

福音書には、イエス様と人々の会話の内容がたくさん書かれています。

イエス様ご自身から 人に真理を話すことが多いですが、人々の質問に対してイエス様が答えて教えたこともありました。


本文のことばは、「主よ。救われる者は少ないのですか」という質問に対しての主の答えでした。


結論から言うならば、答えは「救われる人は少なく、救われない人が多い」ということです。


すべての人が救われることが主のみこころではありますが、現実はとても厳しく 実際に救われる人は少ないと聖書は答えています。


そのことが主の悲しみですが、その原因はあくまでも人間にあります。

その原因になっている人間の姿を見たいと思います。


今日のテーマは「主から知らないと言われた人々」ですが、そのように言われた人々が意外とたくさんいました。

一体どのような人に向かって主が「知らない」と言ったのでしょうか。


主の裁きの時、そして再臨の時は、キリスト者と呼ばれる人々の中からも羊とヤギ、麦と毒麦が分けられるように、本物のキリスト者と偽物のキリスト者がきれいに分けられます。


それまで一緒だったのに 急に2つに分けられ、主に受け入られる人と 主から知らないと言われ追い出される人が出てきます。


今その裁きが行れるならば、自分はどちらでしょうか?
メッセージを聞きながら考えて下さい。




不正を行う者




【ルカの福音書13章27節】

『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

主のことばをよく聞いてみると、“あなたがたがどこの者なのか知らない” とは言いましたが、彼らが不正を行う者であることは知っていました。

一見、矛盾しているように聞こえますが、これには意味があります。


【ヨハネの福音書10章27節】

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

イエス様が “知っている” という意味は、「その人が主のもの、主の羊」である意味で、知らないと言うのは「主の羊ではない」という意味です。


イエス様がいるところには いつもたくさんの人が集まり、一緒に食事をしたり、教えを聞いていました。

今も全世界の教会にはたくさんの人が集まって礼拝をしています。


しかし その中には、真実な信仰を持って主を愛し、恐れ、また御心にふさわしく生きるために悔い改めながら罪から離れる人もいれば、悔い改めと信仰のない偽善的、形式的な信仰だけで生きる人も大勢います。


主は同じ扱いはしません。
主に認められる人もいれば、あなたを知らないと厳しく言われる人もいます。

教会に出席する事が、礼拝に参加することが イコール “天国への保証” ではないです。


天国から拒否される人は、信仰をごまかしながら生きる不正を行う者です。

主は不正を行う人を羊とは呼ばないです。


本人たちが いくら「羊です」と主張しても、主の目にはヤギに見えます。

その人の姿が主に似ていないからです。


羊は主の所に入りますが、ヤギは外に追い出されます。


自分のことを てっきり羊だと思っていたヤギは、外に出されてから やっと自分の姿に気付き びっくりして必死でした。

それまではヤギとして形式的な信仰生活をした人たちが、死にもの狂いで「ご主人さま。開けてください」と必死に戸を叩くようになると、イエス様は話しました。


その時、外の暗闇に追い出された人にあるものは恐怖と絶望です。


必死に主の名を呼んでも、一度閉められた戸の向こうから聞こえてくる主のことばは、「知らない」という冷たい言葉だけです。
そのことに耐えられますか?

一度想像してみて下さい。それがもし自分だったならばと――。




不法をなす者たち




【マタイの福音書7章21-23節】

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

不法をなす者とは どのような人でしょうか。


真理を知っていながらも、真理通りに生きることをしない人たちです。


みことばを聞きながらも行わず、砂の上に自分の家を建てる人です。

主を信じると言いながらも、不法をなす者が大勢いると言われましたが、実際大勢います。


信仰の形はありますが、御言葉よりは自分の思いのままに生きています。

そのような人に対して次のように語りました。


【マルコの福音書7章6節】

『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。

これは神と人を騙している信仰の姿であり、偽りで信仰告白する人の姿です。

そして、偽宗教指導者が不正をなす者たちのことで、自分を偉大な主のしもべだと思って、人の上に君臨する指導者たちです。


自分が主の名によって力ある働きをするので、それに酔って、態度が高慢であったり、人を利用したり、また貪欲であったりと悪い実を結ぶと、主はその人に向かって 「不法をなす者。わたしから離れて行け。」と言います。


今は立派な働きのように見えても、いつか捨てられる時がきます。

そして、まことの羊飼いであるキリストに従わないで、悪い偽者の牧者に従っていく人々も 不法をなす者なので、主は “彼らを知らない” と言います。


異端の教祖、自分を再臨イエスという人間について行く者に対しても、主は「知らない」と言います。

主が再臨してもないのに「再臨した」と言うことが間違っているのに、多くの人が惑わされています。


また口では自分は神の子どもと言いながら、行動においては主のことばに耳を傾けないで、従順しない人に対して主は 「知らない」と言います。




油の備えが出来てない人




花婿を迎える10人の娘のたとえがあります。


【マタイの福音書25章1-12節】

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。

愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。

娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。

ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』

しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。

そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。

しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。

  • 10人の娘 → “聖徒”
  • ともしび → 聖徒たちの “信仰の姿”
  • 油 → 信仰を維持させる “聖霊”
  • 花婿 → 再臨する “キリスト”
  • 夜中 → “罪が満ちた時 を意味する”

花婿が迎えに来た時間は夜中でした。

油の用意をしなかった愚かな5人は、残念ながら婚礼の祝宴に入ることも出来ず、花婿であるキリストに会う事すら出来ず、花婿から「知らない」と言われましたが、なぜでしょうか。


信仰の形はありますが、信仰を維持させる聖霊の働きがない信仰だったからです。

形だけの信仰は、主に喜ばれる信仰ではなく、それは死んだ信仰です。


生きた信仰は、聖霊の助けによって 神が喜ぶ聖霊の実を結ぶことが出来ます。

そして日々聖霊の導きを受け、主の再臨を準備するために目を覚ましていますので、油の備えがあります。


「いつか用意します」では遅いです。
いつまでも恵みの日が続くのではなく、いつまでも救いのチャンスがあるわけでもないです。

そして、いつまでも神様が忍耐していることもないです。


罪に満ちた世界は裁かれ、そこに残された人々が苦しみを受ける時がきます。


“実” のない信仰生活がその時、自分のいのちを救うことは出来ません。


いくら主を知っていると叫んでも主はあなたを知らないと言います。

主の基準で、私たちの行動が不正、不法であるかによって運命が変わります。


形だけのクリスチャンであった大勢の人が その時には慌てふためきます。


必死になりますが、戸が閉められてからは、すべてが終わりです。

いくら叩いても一度閉められた戸は開かれません。






いま神に逆らう人間が作る秩序が世界をどんどん支配しています。


罪が罪ではなく、真理を行うことが罪に定められるという おかしな時代になりました。

これは裁かれたソドムの時代や、ノアの時代と同じです。


ですから主は 「目を覚ましていなさい」 と警告しています。

最近、日本では大雨や台風に対して 「各自しっかりと対策してください」 と よく聞かれるようになりました。


国だけでは守ることが出来なくなったからです。

それと同じで、準備をしっかりしていないと後で大変なことになります。


目を覚ましていることは具体的にどういうことかを聖書から学びます。


【ローマ12章11節】

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

【ヘブル10章24-25節】

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

【ヤコブ5章8-9節】

あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

【第1ペテロ4章7-8節】

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

世の終わりの姿は、政治・経済・社会などよりは、人々の姿に一番現れています。


どの時代にも 神の裁きは人間が堕落し、神に逆らい、愛が冷め、罪が満ちた時に起こりました。

自分が自分の身に裁きを招きます。


しかし知恵ある人は、万物の主を恐れ、その秩序を守り、時代を分別し、信仰によって備えをします。

いつも伝えていますが、形だけの信仰、眠っている信仰、不従順の信仰が自分を守ることは出来ないです。


「自分は大丈夫だ」 という安心感ではなく、危機意識が必要です。
( ̄‥ ̄)=3

2015.10.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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イエスから目を離さないでいなさい

テーマは 『 イエスから目を離さないでいなさい 』 です

【ヘブル12章1-2節】

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷と まつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめを ものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

先月 韓国で ある牧師先生が書いた『イエスから目を離さないでいなさい』というタイトルの本を買いました。

その牧師先生は“24時間 イエス様だけを見て生活すること”を日々 目指しているという内容が書かれており、
読みながら恵みを受けますし、チャレンジも受けています。

目的は「主の臨在の中で生きるキリスト者」です。


これはとても大切なことであります。
「イエスから目を離さないでいなさい」と言われるのは、すなわち「あちこちに目を移さないようにしなさい」ということです。 私たちがいつも見ていないといけないのは「イエス様」だけだという意味です。

いつもイエス様だけを見て生きるというのが、イエス様が私たちに願うことであります。


信徒たちは「24時間 イエス様だけを見るのは難しいです。しんどいです。」と言います。
これはただ単に仕事もせずに、何も考えずに そうしなさいという意味ではないです。

実際 イエス様が自分の心の中におられることと信じているならば、私たちは24時間イエス様を見て生きようと決断するのが当然であり正しいことです。
心の姿勢を徹底的にしなければならないです。


人は何も考えずに生きることはないです。
私たちは必ず何かを考えながら生きています。次から次へと思いが止まることがないです。
そう考えると私たちが24時間イエス様のことを考えることは難しくはないのです。

現実を見ると24時間“恋人”のことばかり考える人や、“株”のことを考える人、“お金”や“仕事”“心配”ばかりを考えています。
自分で自分の思いをどうすることもできないほど 人間は深く考えるとそれに没頭する姿が見られます。

信仰を持っている人はこれをイエス様に対してもそうするように決心をしなければいけないのです。


他のことは出来るのに、イエス様を24時間見るのは出来ないというのは、私たちの心が他のものが関心があるからです。


先ほど紹介した本に書かれている内容で、その牧師先生から影響を受けて 別の牧師も毎日24時間イエス様だけを見て生きる生活を始めました。

本を書いた牧師先生は、霊性日記を書いていますが、それを真似して その牧師も書き始めました。
霊性日記とは、日々の出来事を通してイエス様を見る訓練であります。


ある時に、この牧師は失望した表情で(本を書いた牧師先生を)訪ねて来て 苦しい胸の内を語りました。
「私は24時間イエス様だけを見て、霊性日記をつけていたのですが、私は罪に倒れました。どうしたら良いですか?」と質問をしました。

それを聞いた牧師先生はびっくりして苦しい心で「霊性日記を書いても無理でしょうか。」とお祈りをしました。
するとその時、主はすぐに鮮明に応えてくださいました。

神様は「わたしを24時間見ているなら罪に倒れることはない。その牧師は自らを欺いているのだ。」と語りました。


それでもう一度その牧師を呼び、「日々、どのような生活をしているのですか?」と聞いたので、
その牧師は「私は毎日、霊性日記を書いています。でもいつの間にかニュースのことが気になりインターネットで調べました。
インターネットで調べていると色々なサイトが出て来て、そこにアダルト動画があり、その誘惑が来ました。
その誘惑に勝つことが出来なかったので、アダルト動画を見て罪を犯しました。
霊性日記を書いても、こういう罪に私が倒れてしまったのだ。どうしたら良いのかと思いました。」


しかし神様が教えたのは、彼が語っていることとは違うことなのです。
「あなたは24時間わたしを見たのではなく、わたしから目を離してあなたがそういうものに心を開いてしまったからだ。ネットで調べている時に わたしのことを見ていたのか?」ということでした。

もしイエス様のことを見ていたならば、そういう誘惑が来ても開かないです。「これはサタンの誘惑だ。絶対に見ません。」という心の決断であります。
それをしていたならば絶対に罪を犯すことがありませんでした。

「見たい」という思いが来て、自分の手でそれをクリックして扉を開いてしまいました。
それを見た後に「あぁ、私は24時間 イエス様を見ていたのに罪を犯した。」と言うのは自分を欺いているのです。


神様は誰も誘惑をしません。
あなたが誘惑されたのは自分の中にそういう欲があるから、欲と誘惑の波長が合い繋がったために そこから罪が出て来るものであります。


私たちは一瞬でも、5分でも10分でも誘惑に心が奪われて目をイエス様から離して違うところを見ているから誘惑が来るのです。サタンは常に私たちを狙っているのです。



【箴言4章23節】

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。

最も私たちが心を守るために重要なところであります。
なぜ神様はこのように私たちに語ったのでしょうか?

それは、私たちの心はとても重要な部分だからです。

私たちの心には、イエス様が共に住んでおられます。


聖書では、これを「結婚」にたとえました。

これを知るならば、私たちの心に サタンが与える思いを入れることがなぜ大きな罪になるのかが理解できます。
結婚した男が、妻以外の女性を家の中に入れて住むならば、また 結婚した女が、夫以外の男性を家の中に入れるならば、おかしなことです。
結婚生活が成り立たなくなり それは不品行・姦淫の罪なのです。

イエス様は「大丈夫だよ。あなたが罪を犯してもわたしは心が広いから赦してあげる。」とは言わないです。この罪のことだけはイエス様は赦さないのです。

妬む神様であり、他のものとイエス様が共存することはありえないことであります。

体よりも、私たちの心を一番に狙っています。心の中で犯す罪を人間はあまり罪だと思わないからです。


サタンの思いは心に来ます。そして神様も私たちの思いを通して働く方であります。
神様の声は、肉声のように聞こえる声ではないです。

私たちが祈ったりしている時に、急に良い思いが来る時がありますが、それは聖霊の思いです。
これはサタンも同じやり方をします。サタンも急に思いを入れます。それも悪い思い・否定的な思い・不安な思い・恐れの思い・憎しみの思いを入れます。

そこで私たちがその思いにやられて、思いを黙想するので そこから身ごもって大きくなり罪を犯すことになるのです。


神様の思いが来た時に私たちは「これは聖霊様から来た思いなのだ。」と自分の中になかった思いを素直に信仰で受け取って行動をしたら良いです。

神様は からし種のような小さな思いを入れて、それを私たちがキャッチするのです。


私たちはそこで従わないと、その思いは消えていきます。せっかく神様が私たちを助けようとしたのに、私たちは信仰で反応しないとチャンスが消えていきます。

これからは思いがパッと来た時に、サタンによる悪い思いだったら「違う!」と言って、それに心を開かないことであります。しかし良い思いが来る時は、「これは聖霊様から来たものである」と 従って信仰で受け取ることなのです。

心には神様以外を入れないと決めて、それをするならば、神様はそこで働いてくださいます。

ですから、その心を守るために24時間イエス様から目を離さないことが大切です。




狭い門から入りなさい



【マタイの福音書7章13-14節】

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

滅びに至る道はなぜ広いのでしょうか?なぜそこへ行く人が多いのでしょう。
そこには誘惑するものが多いからです。私たちを潰そうとする敵ががたくさんいます。
でも人々は霊的存在を知らないので、目があちこちへ移ってしまいます。

そこには目の欲を満たすものがたくさんありますので、目の欲、暮らし向きの自慢、肉の欲、そのようなもので倒されていきます。


しかし、狭い道にはイエス様だけが存在しています。イエス様は「わたしが道である。」と語りました。
道そのものがイエス様ですから、誘惑するものがないのです。

私たちの心を守る時に、私たちの霊的命が守られます。心を守れないと命を失うことになり、イエス様も失うことになります。


道であるイエス様がおられないなら、どうやって父なる神様のところへ行けるでしょうか?
イエス様から目を離すということは、滅びが始まるのです。

私たちが本当にイエス様を愛しているならば、イエス様と二人きりになるのが一番楽しいと思います。

愛し合う人同士は、2人だけの時間をたくさん作って、その時間を大切にします。
私たちがイエス様を愛するならば、いつもイエス様のことを思うのは難しくはないと思います。


イエス様と2人で この小道を歩きたい、イエス様とだけ話をしたい、イエス様だけを見ていたい。イエス様とだけ仲良くしたい。という思いが出てきます。

その思いがないならば、イエス様を愛していないことになります。

自分を愛し、自分のために命を捨ててくださった命の恩人であるイエス様。そして自分もそのようにイエス様を愛するならば、他のものがいらないのです。 イエス様だけで十分です。と、このような思いが出てきます。


ですから狭い道でも、険しい道でも 決してその道が いばらの道ではないということであります。
愛する人と共に歩く道は 周りを全然気にしなくなり、イエス様を見るだけで心が幸せになります。

しかし「まだそこまで親密ではないです。」と言うならば(イエス様を)愛していないということです。

イエス様が私たちに一番求める心は「愛」なのです。


本来ならばイエス様を見ていなければならないのに、イエス様を見ずに どうでも良いことに目を奪われているから私たちの心の中には平安がなく、祝福・喜びがなく、いのちがないのです。

ヘブル12章1節に出てくる多くの証人たちは、ヘブル11章に出てくる信仰の人々です。その人たちは、地上で主と共に歩んだ人たちです。
その人たちは私たちより先に 主だけを見て生きた人たちです。彼らはどれほど祝福されたでしょうか。

それを見て、私たちもあちこち目を向けず、主だけを見る生活を目指すべきです。






このような話がありました。

イギリスの とある教会で、ある日の早天祈祷会で時間になっても、なぜか牧師先生が現れませんでした。 5分が過ぎると長老が代わりに祈祷会を導きますが、その日は長老も参加しませんでした。

誰かが祈祷会を導かなければいけないので、仕方なく靴の修理工をやっている執事1人が立ちあがって前に出ました。
その執事は 初めて前に立ちました。そして(今回のメッセージテーマである)ヘブル12章2節を読みました。

「今日のタイトルは『イエス様を見ましょう』です。」 このように言いましたが、次に何を語ったらいいのかわかりませんでした。それで彼はこのように言いました。


「イエス様を見ましょう。イエス様だけを見ましょう。ほかのものは見ないで イエス様だけを見ましょう。
私たちは必ずイエス様だけを見ましょう。
何があってもイエス様だけを見るべきで、他のものは見てはいけません。

とにかくこの世にイエス様がおられるように イエス様を見ましょう。
喜びの時も、悲しみの時もイエス様を見ましょう。

毎日鏡を見るように イエス様を見ましょう。

朝にもイエス様を見て、昼にもイエス様を見て、夜にもイエス様を見ましょう。
立ってもイエス様を見て、座ってもイエス様を見て、寝てる時もイエス様を見ましょう。

生きても死んでもイエス様を見ましょう。私たちは必ずイエス様だけを見るようにしましょう。」


このように たどたどしく、「イエス様だけを見ましょう」という彼の説教を聞いた信徒たちは笑いをこらえたり、失望したり、
ある人は目を閉じてメッセージを聞かずに祈ったりしていました。

しかし当時、その場所には幼い頃の“スポルジョン”がいました。

人類歴史上 一番優れた説教者で、説教の皇帝と呼ばれたスポルジョンだけがそのメッセージを真剣に聞いていました。

そして後に世界的に有名な説教者になりましたが、彼が語ったのは、「わたしはその日聞いたメッセージを一生忘れない。」と、彼が説教者として生きようと決心したのは、そのメッセージを聞いた時であったと告白をしました。





24時間イエス様を見て生きる生活は本当に大切なことであります。

これは主の臨在の中で常に生きる生活であります。これが私たちの目標でなければならないです。

私たちには人生の目標が色々あると思います。しかしその目標は、イエス様の臨在の中で生きている目標よりも高いですか?
それらのものは地上のわずかな時だけの目標であるのです。それはある意味では得なくても良い目標なのです。


他の目標を立てても良いです。しかし一番の目標は“いつもイエス様だけを見て生きる”生活を目指さなければならないです。
自分たちの心・自分たちの思いをイエス様に向けることであります。神様の中にすべてがあるからです。

空を見ても神様を想うのです。生き物を見て神様を見るのです。花を見て神様の作品を感じるのです。自分の身体も自分が造ったわけではないです。
命は目に見えないですが 動いていることは命なのです。空気もすべて神様の恵みであるのです。


ですからどこを見ても私たちは24時間 神様を見ることができるのです。

それを全て神様と繋げて考えるならば、そこに神様が存在するのです。


苦しみがあっても、神様からの教育や方法がその中から見えてきます。全て神様と関連して考えることです。

悪い思いが出てきた時は、「これは私がサタンに心を開いてしまったので サタンが私の心を苦しめているのだ。」と気付いて「出て行け!」と追い出していかなければならないです。


「イエス様。私の中にいつも共にいてください。私の心をいつもイエス様の思いで満たしてください。」と、このように祈るべきであります。
すぐに気付いて、入れるべき物を入れて いらない物は追い出していくのです。


心は常に掃除が必要であります。 心こそ整理整頓が必要です。いらない物が多すぎると語っています。

信仰の創始者であり、完成者であるイエス様だけを見て生きる時に、決して揺れ動くことも 恐れることもなく、信仰の競争で勝利することが出来ます。
v( ̄∇ ̄)v

2014.5.4
聖日礼拝メッセージ

八戸ノ里キリスト教会

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